第2節 堕落した人類のサタン的性質、および彼らの本性実質を明らかにする言葉

81. 人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神に使われるには適さない。正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して絶対で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して心と考えにおいてゆるぎなく、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。サタンによって堕落させられて以来、人は神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかにその方が神であることを知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々、つまり理知が異常な人々は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

82. 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神への人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに完全な説明ができなくなってしまっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているのである。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは人に対して決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。人の理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、まだ祝福を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有することを願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。祝福を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは祝福を得ることのできる者の顔をしているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と風俗、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

83. 人の堕落した性質が発覚する源はその人の鈍くなった良心、悪意のある本性、不健全な理知でしかない。良心や理知が正常に戻ることができれば、人は神の前で神に用いられるのに相応しい人になるだろう。人がますます神に反抗的になるのは、単に良心がつねに麻痺しており、その理知が決して健全ではなく、ますます鈍くなっているからであり、そのためイエスを十字架に釘でうちつけさえしたし、終わりの日に受肉した神の肉体が自分の家に入るのを拒絶し、神の肉体を罪に定め、神の肉体を卑しいものとみなすのである。少しでも人間性を持っていれば、受肉した神の肉体をそんなにひどく扱わないだろう。少しでも理知があれば、受肉した神にこのような卑劣な扱い方はしないだろう。少しでも良心を持っていれば、受肉した神にこのような方法で「感謝する」ことはないだろう。人は神が受肉した時代に生きているにもかかわらず、神がそのような良い機会を与えたことに感謝することができず、それどころか、神の到来を呪うか、あるいは神が肉となった事実を完全に無視し、一見したところそれに反対し、うんざりしている。神の到来を人がどのように扱うかにかかわらず、要するに、神は辛抱強く常に自らの働きを行なってきた。たとえ人が神を全く歓迎していなくても、盲目的に神に要求を突き付けてもである。人の性質はこの上なくひどくなり、理知はこの上なく鈍くなり、良心は悪い者によって完全に踏みにじられ、もともとの良心はずっと以前に途絶えてしまった。人は人類に多くのいのちと恵みを授けてくれた受肉の神に感謝しないばかりか、真理を与えたことで神をひどく嫌悪さえしている。真理に全く関心を持たないので、人は神をひどく嫌悪している。人は肉となった神のために命を捨てることができないだけでなく、神から利益を引き出そうとし、自分が神に預けたものの何十倍もの利息を神に要求する。そのような良心と理知を持つ人々はこれを大したことではないと思い、自分は神のためにずいぶん費やしたとか、神はあまりにも少ししか与えてくれないなどと依然信じている。わたしに一杯の水を与えたのに、両手を伸ばしてミルク二杯分の代金を要求したり、わたしに一夜の宿を提供しても、宿泊費として何倍もの額を要求しようとした人々がいる。そのような人間性や良心で、どうしてあなたがたはいのちを得ることを望めようか。あなたがたはなんと卑劣な悪党なのだろう。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

84.もしわたしがあなたがたの心の奥底にある醜さを暴かないなら、あなたがたの一人ひとりが自らの頭に冠をかぶらせ、自分自身に栄光のすべてをもたらす。あなたがたの横柄で傲慢な本性が、あなたがたに良心を裏切らせ、キリストに反逆し、反抗させ、あなたがたの醜さを露呈させ、それによってあなたがたの意図、観念、度を過ぎた欲望、欲に満ちた目を光にさらす。それでもなおあなたがたは自分の人生をキリストの働きに捧げると宣言し続け、キリストによってずっと以前に語られた真理を何度も何度も繰り返す。これがあなたがたの「信仰」である。これがあなたがたの「不純なもののない信仰」なのである。わたしはずっと人にとても厳しい規範を守らせてきた。己の考えによってわたしを欺き、条件をもってわたしに強要する者がわたしは大嫌いなので、もしあなたの忠実が意図や条件を伴うものであるなら、あなたの忠実と呼ばれるものなどむしろない方がよい。わたしが人に望むのは、わたしに絶対的に忠実であり、すべてのことをある一語のために、その一語を証明するために行なうことだけである。その一語とは「信仰」である。あなたがたがわたしを喜ばせようとして甘い言葉を使うのをわたしは軽蔑する。わたしはいつも、完全な誠実さをもってあなたがたに接しているので、わたしはあなたがたにも、わたしに対して本当の信仰をもってふるまってほしいと願う。信仰に関して言えば、信仰があるので神に付き従うのであり、もしそうでなければ、そのような苦しみに耐えることはないと多くの者は考えるかもしれない。それではわたしは尋ねる。あなたは神の存在を信じているのに、決して神を畏れないのはなぜなのか。もしあなたが神の存在を信じているなら、それではなぜ、心に神に対する恐れをいだかないのだろうか。キリストは神の受肉であるということを受け入れるなら、それではなぜ、あなたはそれほどに彼を侮り、それほど不敬な態度で振る舞うのだろうか。なぜあなたはあからさまに彼を批判するのだろうか。なぜいつも彼の行動を探るのだろうか。なぜあなたは彼の采配に従わないのだろうか。なぜ彼の言葉に従って行動しないのだろうか。なぜあなたは彼をゆすり、捧げ物を奪い取ろうとするのだろうか。なぜあなたはキリストに成り代わって話すのだろうか。なぜあなたは、彼の働きと言葉が正しいかどうかを判断するのだろうか。なぜ彼のいないところでずうずうしくも彼を冒涜するのだろうか。このようなこと、さらにほかのことがあなたがたの信仰を形成しているのだろうか。

『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)

85. まるで神が変化しない粘土の像ででもあるかのように、自分の観念によって神を推し測り限定したり、神を聖書に由来する特性にすっかり限定し、限られた働きの範囲に閉じ込めたりするなら、それは神を断罪したことを証明している。旧約聖書時代のユダヤ人は、神はメシアという名称以外では呼ばれることなどありえず、そしてメシアと呼ばれるものだけが神であるかのように、神を自分たちの心に描いた形の固定した偶像とみなしたために、そしてまた人は神を(命のない)粘土の像であるかのように仕え崇拝したために、彼らは当時のイエスを十字架に張り付け、死刑を宣告した。こうして罪のないイエスは死刑に処されたのである。神はなんの罪もなかったのに、人は神を許そうとせず、神を死刑にすることを強く要求したため、イエスは磔刑に処された。人は神は不変であるといつも信じており、聖書という一冊の書物に基づいて神を定義する。まるで人が神の経営を完全に理解しており、人が神のなす事すべてをその手中に収めているかのようである。人々は極度に愚かであり、極度に傲慢で、誰にも誇張の才能がある。神についてのあなたの認識がいかに優れていようとも、わたしは言う。あなたは神を知らず、神に最も敵対する者であり、神を断罪した。神の働きに従い、神に完全にされるための道を歩くことがあなたにはまったくできないからである。神はなぜ人の行いに決して満足しないのか。それは人が神を知らず、観念を持ちすぎており、人の神についての認識が現実とまったく一致しておらず、それどころか、同じ主題を代わり映えもなく単調に繰り返し、どのような状況でも取り組み方が同じだからである。そのために、今日地上にやってきた神は、再び人間によって十字架に張り付けられる。人類のなんと残酷なことか。共謀と陰謀、お互いからのひったくり合い、名声や富の奪い合い、殺し合い……一体いつ終わるのか。神が語った何十万語もの言葉にもかかわらず、誰一人として目覚めてはいない。人々は自分の家族、息子や娘、職業、将来の見通し、地位、虚飾、金のために、また食べるもの、着るもの、肉体のために行動する。しかし一体、真に神のために行動している者はいるのか。神のために行動している者でさえ、神を知っている者は非常に少ない。自身の利害のために行動しない人はどれほどいるのか。自身の地位を守るために他人を抑圧したり排斥したりしない人はどれほどいるのか。だから神は幾度となく無理やり死刑に処され、無数の野蛮な裁判官が神を断罪し、再び十字架に張り付けたのである。真に神のために行動ゆえに義人と呼ばれうる者はどれほどいるのか。

『神の出現と働き』「悪人は必ず罰を受ける」(『言葉』第1巻)

86. 多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、無知で物事をよく知らない偏狭な人々で、単に自分たちがいかに立派かを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で六千年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちは浅はかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

87. あなたがたが神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなたがたが神の働く原則を知らないからであり、またあなたがたが聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなたがたが神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなたがた自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなたがたが元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

88. 神の働きの目的を理解していない人は誰であれ、神に反対しているのであり、神の働きの目的を理解するようになっても神を満足させようとはしない人は、なおさら神の反対者とみなされる。荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは「健全な体質」をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。神の臨在において自分を高く評価する人は人間の中でも最も卑しいが、謙遜する人は最高の栄誉に浴する。そして、自分は神の働きを知っていると思っており、さらに、神を目の前に見ながらも神の働きを人々に大げさに宣言することができる人は、人間の中でも最も無知な人である。そのような人には神の証しがなく、傲慢でうぬぼれに満ちている。神について実際の経験と実際の認識があるにもかかわらず、自分は神についてほとんど知らないと信じている人が、神に最も愛されるのである。そのような人だけに真の証しがあり、真に神によって完全にされることができる。神の心意を理解していない人は、神の反対者である。神の心意を理解しているが、真理を実践していない人は神の反対者である。神の言葉を飲み食いしても神の言葉の本質に反する人は神の反対者である。肉となった神についての観念を持ち、さらに反乱に関与する心を持つ人は神の反対者である。神を批判する人は神の反対者である。そして、神を知ることができない人、神に証しをすることができない人は誰であろうと神の反対者である。だからわたしはあなたたちに求める。もしあなたたちが本当にこの道を歩けると信じているなら、道に従い続けなさい。しかし、もしあなたたちが神への対抗をやめられないのなら、手遅れになる前に立ち去るがよい。そうでなければ、物事の展開があなたたちにとってひどくなる可能性が非常に高い。それは、あなたたちの本性があまりに堕落しきっているからである。あなたたちには忠誠心や従順、義と真理を渇望する心、神への愛などみじんもない。神の前のあなたたちの状況は完全な修羅場であると言える。従うべきことに従うことができず、言うべきことを言うこともできない。実践すべきことを実践することに失敗し、果たすべき役割を果たすことができていない。持つべき忠誠心、良心、従順、決意を持たない。耐えるにふさわしい苦しみに耐えておらず、もつべき信仰もない。簡単に言うと、あなたたちには真価がまったくない。このまま生きていて恥ずかしくないのか。神があなたたちのせいで心配したり、あなたたちのために苦しんだりしなくていいように、あなたたちは永遠の眠りについたほうがいいと説得させてほしい。あなたたちは神を信じていても神の心意を知らない。神の言葉を飲み食いしても、神が人に要求することを守ることができない。神を信じても神を知らず、努力する目標もなく、一切の価値も意味もないまま生きている。人間として生きていても、良心、品位、信頼性は少しもない。それでもあなたたちはまだ自分を人間と呼ぶことができるのか。神を信じていても神を欺く。さらに、神の金を取り、神への捧げ物を食い尽くす。それでも、結局のところ、神の気持ちを少しでも考えたり、神にわずかな良心を見せることもない。神のごく些細な要求さえも満たすことはできない。それでもまだ、あなたたちは自分を人間と呼ぶことができるのか。神が提供する食物を食べ、神が与える酸素を吸い、神の恵みを受けても、結局のところ、あなたたちは神を少しも知らない。それどころか、あなたたちは神に反対する無益者になった。それではあなたたちは犬よりも劣る獣になるのではないのか。あなたたちよりも悪意のある動物が他にあるだろうか。

『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」(『言葉』第1巻)

89. 人間の最大の問題は、見ることも触れることもできないもの、途方もなく神秘的で驚異的なもの、人間の想像を超えた、普通の人間には手の届かないものだけを愛する点だ。それが非現実的であればあるほど、人間はそれを分析し、他のものには目もくれずそれを追い求め、それを手に入れようとする。それらが非現実的であればあるほど、ますます綿密に調べ、分析し、それらについて、自分なりのこと細かな考えを紡ぎだす。それに対して、物事が現実的であればあるほど、人間はそれらを素っ気なく扱う。ただそれらを見下し、蔑みさえする。これはまさに、あなたがたがわたしのしている現実的な働きに対してとっている態度ではないのか。物事が現実的であればあるほど、あなたがたは、ますます偏見を持つ。あなたがたは、そういうものを調べる手間もかけず、ただ無視する。そうした現実的かつ低い基準の要求を見下して、最も現実的である神について数多くの観念をもち、神の現実性と正常を受け入れることができない。そのようにして漠然としたものの中で信じているのではないか。あなたがたは、過去の漠然とした神については揺るぎない信念を持っているが、今日の実際の神には何の興味も示さない。それは、過去の神と現在の神とが二つの別の時代に属するからではないのか。それはまた、過去の神が天の崇高なる神であるのに対して、現在の神は地上のちっぽけな人間であるからではないのか。そのうえ、人間の崇める神は人間が頭で作り出した神であるのに対して、今日の神は地上で生まれた現実の肉だからではないか。結局のところ、人間が神を追い求めないのは、今日の神は余りにも現実的であるからではないのか。何故なら、今日の神が人間に求めているのは、まさに、人間が最もしたくないこと、最も恥と思うことだからである。これは、人間にとって困難なことではないか。これは、人間の古傷をさらすことではないのか。このように、現実を追い求めない者は、受肉した神の敵、反キリストとなる。これが明白な事実ではないのか。神がまだ肉となっていない過去においてなら、あなたは宗教家、あるいは敬虔な信者であったかもしれない。神が肉となった後、そうした敬虔な信者の多くは、自ら知らずして、反キリストになった。それがどういうことか、あなたに解るだろうか。あなたの神への信仰においては、あなたは現実に焦点を合わせることをせず、真理を求めることもなく、偽りにとらわれているではないか――それが、受肉の神に敵意をもつ最も明白な原因なのではないか。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

90. キリストと触れ合う前に、あなたは自分の性質が完全に変化したと、自分はキリストの忠実な追随者であり、キリストの祝福を受けるに自分ほど値する人は他にいないと、多くの道を旅し、かなりの働きを行ない、多くの成果をもたらしてきたので、あなたは最後に栄冠を受ける人の一人になるに違いないと信じているかもしれない。しかし、あなたが知らないかもしれない真実が一つある。すなわち、人間の堕落した性質と反抗心と抵抗は、人間がキリストを見るときに暴露され、そのときに暴露される反抗心や抵抗は他のどの時よりも絶対的に完全に暴露される。それは、キリストは人の子、すなわち普通の人間性をもつ人の子であるため、人間はキリストに栄誉を与えることも尊敬することもないからである。神が肉において生きているために、人間の反抗心は徹底的に、詳細まで鮮明に光にさらけ出される。それで、キリストの到来は人類の反抗心をすべて明るみに出し、人類の本性を際立たせた、とわたしは言うのである。これは「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と呼ばれる。あなたは自分は神に忠実であるとあつかましくも言うのか。自分は神に絶対的な服従を示しているとあつかましくも言うのか。自分は反抗的ではないとあつかましくも言うのか。「神がわたしを新しい環境に配置するたびに、わたしはいつも不平を言わずに服従し、さらに、神についての観念も一切抱かない」と言う人がいる。また、「神がわたしに何を課しても、わたしは力の限りを尽くし、決して怠けない」と言う人もいる。ならば、わたしはあなたがたに問う。キリストと共に生きるとき、あなたがたはキリストと相容れることができるのか。そして、どれだけの時間のあいだ、キリストと相容れるのか。一日か。二日か。一時間か。二時間か。あなたがたの信仰は確かに称賛すべきものかもしれないが、粘り強さという点では、あなたがたは大したことはない。ひとたび本当にキリストと共に生きるようになると、あなたの独善性とうぬぼれは言葉と行動をとおして少しずつさらけ出され、あなたの行き過ぎた欲望、不服従な考え方、不満もまた自然に明らかになる。最終的には、あなたの傲慢はさらに大きくなり、水と油のように、あなたとキリストは相容れなくなり、そうなるとあなたの本性は完全に露わになる。そのとき、あなたの観念はそれ以上隠すことはできなくなり、あなたの不満も自然に表れ、あなたのいやしい人間性は完全にさらけ出される。しかし、そのときでさえ、あなたは自分の反抗心を認めることを否定し続け、代わりに、このようなキリストは人間には受け入れ難く、人間に対して厳し過ぎ、もしキリストがもっと優しければ完全に服従するだろうと考える。あなたがたは自分の反抗心には正当な理由があり、キリストが自分に何かを強要しすぎるときだけキリストに反抗するのだと考える。あなたがたは自分がキリストを神として見ておらず、キリストに従う意志がないことを一度たりとも考慮したことがない。むしろ、キリストがあなたの望みどおりに働きを行なうことを執拗なまでに主張し、キリストがあなたの考え方と一致しないことを一つでもすれば、直ちにキリストは神ではなく、一人の人間だと考える。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある人が多くいるのではないのか。あなたがたが信じているのは結局のところ誰なのか。そして、あなたがたはどのように追い求めているのか。

『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」(『言葉』第1巻)

91. あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくない、とわたしは言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。あなたの兄弟(あるいは姉妹)との関わりは、あなたについて特に何も示さないが、あなたがキリストと関わるときには、事はそのように単純ではない。何時でも、観念が根を張り、傲慢が芽を出し、反抗心はイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性をもっていて、どうしてあなたがキリストと関わるに相応しくなれるのだろうか。あなたは毎日、その一瞬一瞬に本当にキリストを神として扱うことができるのか。あなたは本当に神への服従という現実をもっているのか。あなたがたは心の中で立派な神をヤーウェとして礼拝しつつ、目に見えるキリストを人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに劣っており、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを神として常に見ることができない。ときどき、そのような気分になったときだけ、あなたがたはキリストをひっつかまえて、神として礼拝する。このため、あなたがたは神の信者ではなく、キリストと戦う共犯者の集団である、とわたしは言うのである。他人に親切にする人でさえ報われるのに、キリストはあなたがたのあいだでそのような働きをしたものの、人間からは愛も報いも従順も受け取っていない。これは胸が張り裂けるようなことではないのか。

『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」(『言葉』第1巻)

92. あなたの長年の神への信仰の日々において、あなたは誰ものろったことはなく、何も悪いことをしたことがないかもしれない。しかし、あなたのキリストとの関わりにおいて、あなたは真実を語れず、誠実に振る舞えず、キリストの言葉に従えない。そのため、あなたは世界で一番腹黒く邪悪な人である、とわたしは言う。あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には極めて親切で献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、その他の家族を細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う。他人と仲良くしているから、あるいは少しの善行を行なうからというだけで、自分のことをキリストと相容れる人だと思ってはならない。あなたは自分の親切な意図が天の恵みをだまし取れると思っているのか。少しの善行をすることが、従順になることの代わりになると思っているのか。あなたがたのうち誰も取り扱われ、刈り込まれることを受け入れることができず、皆がキリストの普通の人間性を受け入れることに困難を覚える。それにもかかわらず、自分の神への従順をいつも自慢している。あなたがたのこんな信仰はそれに相応しい報いを引き起こす。気まぐれな幻想にふけり、キリストを見たいと望むのはやめなさい。あなたがたの霊的背丈はあまりに小さく、それゆえキリストを見る資格さえないからである。反抗心を完全に拭い去り、キリストと調和できるようになったときに、神は自然にあなたに現れる。もしあなたが刈り込みや裁きを経験せずに神を見に行くのであれば、あなたは疑いなく神の敵になり、破滅することになる。人間の本性は元来神に敵対している。すべての人間はサタンの深遠なる堕落にさらされたからである。もし人間がその堕落の只中から神と関わろうとしても、そこから何一つ良いものが生まれないことは確実である。人間の言動は、事あるごとに人間の堕落を確実にさらけ出し、神との関わりにおいて、人間の反抗心はあらゆる面で明らかにされる。知らず知らずに、人間はキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを拒絶するようになる。これが起こると、人間はますます危険な状態に陥り、これが続けば、人間は懲罰の対象になるであろう。

神との関わりがそれほど危険ならば、神から遠ざかっている方が賢明ではないかと考える人がいるかもしれない。このような人は一体何を得られるのか。彼らは神に忠実でいることができるのか。確かに、神との関わりは極めて難しい。しかし、それは人間が堕落しているからであり、神が人間と関わりをもてないからではない。あなたがたにとっては、自己を知るという真理にさらなる努力を捧げるのが最善であろう。なぜあなたがたは神に気に入られていないのか。なぜあなたがたの性質は神に嫌われるのか。なぜあなたがたの話す言葉は神にとっていまわしいのか。少々の忠実を示したとたんに、あなたがたは自分を称賛し、わずかな犠牲に対する褒美を要求する。ほんの少しの従順を示しただけで、他者を見下し、ささいな業を達成しただけで、神を軽蔑する。神を迎えもてなす代償として、金、贈り物、称賛を要求する。硬貨を一、二枚与えると、心が痛む。硬貨を十枚与えると、祝福と特別扱いを望む。あなたがたのそのような人間性は、話すのも聞くのも正に不快である。あなたがたの言動に何か称賛に価するものはあるのか。本分を尽くす人と尽くさない人、指導者と追随者、神を迎えもてなす人としない人、寄付する人としない人、言葉を説く人と受ける人など、このような人々は皆、自分を称賛する。これを可笑しいとは思わないのか。自分は神を信じていると十分に知りつつ、あなたがたはそれでも神と相容れることができない。自分には全然とりえがないことを十分に知りつつ、それでも自慢することにこだわる。あなたがたはもはや自制心を持たないところまで自分の理知が劣化してしまったとは感じないのか。そのような理知しかなくて、どうして神と関わる資格があるのか。あなたがたはこの重大事に自分のことが心配ではないのか。あなたがたの性質は既に、神と相容れることができないところまで劣化している。このような状態で、あなたがたの信仰は滑稽ではないか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは自分の未来にどのように向かって行くつもりなのか。歩くべき道をどのように選ぶつもりなのか。

『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」(『言葉』第1巻)

93. 一部の人々は真理を喜ばず、裁きとなればもっと喜ばない。むしろ、人々は権力と富に喜びを見出すのであり、そのような人々は権力の亡者と呼ばれる。彼らはもっぱら、影響力を持つ世界中の宗派や、神学校出身の牧師や教師を探し求める。真理の道を受け入れたにもかかわらず、彼らはどこまでも懐疑的で、自分自身を完全に献げることができない。彼らは神のために犠牲を捧げることについて話しはするものの、その目は偉大な牧師や教師に注がれ、キリストは無視されている。彼らの心は名声、富、栄誉にばかり向けられている。彼らは、そのような取るに足りない人がそれほど多くの者を征服することができ、そのような平凡な人が人を完全にすることができるなどと全く信じない。塵と糞の中にいるこれらのとるに足りない人々が神に選ばれているとは信じないのである。もしそのような人々が神の救いの対象であれば、天と地がひっくり返り、すべての人間が大笑いするだろうと彼らは信じている。彼らは、もし神がそのような取るに足らない人々を完全にするために選んだのであれば、先に挙げたような偉大な人たちは神そのものになると信じている。彼らの考え方は不信仰によって汚れている。実際のところ、不信仰どころか、彼らは、ばかげた獣である。なぜなら、彼らは地位、名声、権力だけに価値を置き、重要視するものは大組織や宗派であるからである。彼らはキリストに導かれる者のことを全く考慮しない。キリストに、真理に、そしていのちに背をむけた裏切り者でしかないのである。

あなたが敬慕するのはキリストのへりくだりではなく、目立った地位にある偽の牧者たちである。あなたはキリストの素晴らしさや知恵を愛さないが、邪悪な世と交わりを持つ奔放な者たちを愛している。あなたは、枕するところもないキリストの苦しみを笑うが、捧げものを奪い取り放蕩な生活を送る屍たちを賞賛するのである。あなたはキリストのそばで苦しむ覚悟はないが、あなたに肉、言葉、支配しか与えない無謀な反キリスト者たちの腕の中に喜んで飛び込む。今でもあなたの心は、彼らに、彼らの評判に、彼らの地位に、そして彼らの影響力に向いている。それなのに、あなたはキリストの働きを飲み込みがたいものにする態度をとり続け、進んでそれを受け入れようとしない。だから、あなたにはキリストを認める信仰がないとわたしは言うのである。あなたが今日に至るまでキリストに従ってきたのは、他に選択肢がなかったからに過ぎない。一連の気高いイメージが、あなたの心にいつまでもそびえている。彼らの言葉や行ないのひとつひとつが忘れられず、影響力がある彼らの言葉や手腕も忘れられない。あなたがたの心の中では、彼らは永遠に至高で、永遠に英雄なのである。しかし、これは今日のキリストにはあてはまらない。彼はあなたの心の中で永遠に取るに足らない存在であり、永遠に畏敬に値しない。なぜなら、彼はあまりにも普通すぎ、あまりにも影響力がなさ過ぎ、高遠さからははるかにかけ離れているからである。

いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信者であり真理を裏切る者であるとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得ることはない。あなたのうちにどれほど多くの不信仰があるのか、どれほど多くのキリストへの裏切りがあるのか、あなたは今分かったのか。わたしはあなたに以下のことを熱心に勧める。あなたが真理の道を選んだのだから、誠心誠意献身すべきである。あいまいであったり、気のりのしない態度であったりしてはならない。神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人々に属することを知るべきである。

『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)

94. 神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目的しかもっていない。その目的とは祝福を受けることである。このような人は、その目的に直接関係しない他の一切のことにわざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出会おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。この関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

95. 人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を完成する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人は皆、神の経営の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって記憶されず、認められず、まして神に喜ばれることなどない。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

96. わたしの行いは海岸の砂の粒子より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫の知恵より偉大であるのに、人はわたしのことをただの医師や人の名もない教師としてしか思っていない。何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、人は形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう。

『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻)

97. あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚と犬の間には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちは皆、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちは皆、生ける屍ではなかろうか。あなたがたの間で語られた言葉は、一体いくつあるであろうか。あなたがたの間で行われた働きは、ほんの少しだろうか。わたしは、あなたがたの間で、どれくらい与えたであろうか。それなのに、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべきことは、何かあるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎるからではなかろうか。また、それはあなたが愚か過ぎるからではないか。あなたは、これらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことを、神のせいにするのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平和を得ることができるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が良い職に就くこと、自分の息子が良い妻を見つけること、自分の娘がしっかりした夫を見つけること、自分の牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地の良い住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者たちのひとりであろうか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と違わないのではないか。豚は人生も清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは手ぶらである。あなたは、このような生活、つまり豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。このような人々が生きていることの意味は何であろうか。あなたの生活は軽蔑すべきものであり、恥ずべきものであり、あなたはけがれと放蕩の中で暮らし、何も目指す目標がない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた個人の追求によって決まる。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

98. 人々は人生経験を重ねる中で、「自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……」とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、「神を信じる」ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性の本質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、不実と偽りを抱き、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心だけを気遣い、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

99. 終着点の話になると、いつもあなたがたは話をとりわけ真剣に受け止める。さらに、それはあなたがた全員が特に敏感になるである。好ましい終着点を得るために、地面に頭を打ち付けて神にひれ伏さずにはいられない人たちもいる。あなたがたが切望する気持ちはわたしにも理解でき、それを言葉で表すことは不要である。あなたがたは自分の肉が災いに陥ることは望まないということでしかないが、それでも永遠に続く罰を将来受けたくはないということである。あなたがたはもう少し自由に、もう少し気楽に生きたいだけである。それゆえ、終着点の話になると、あなたがたはことさら動揺し、十分注意しないと神の怒りを買い、ゆえに然るべき報いを受けるかもしれないと深く恐れる。あなたがたは自分の終着点のためであれば、躊躇なく妥協してきた。また、あなたがたのうちかつて不従順で軽薄であった多くの人が突然極めて優しく素直になり、その素直さは他の人たちに寒気を起こさせる程である。しかし、あなたがたには皆「素直な」心があり、不満であれ虚偽であれ、忠実心であれ、何ら隠しだてすることなく心のうちにある秘密をわたしに絶えず打ち明けてきた。要するに、あなたがたは本質的な本性の奥にあるそのような事柄を極めて腹蔵なくわたしに「告白」してきた。もちろん、わたしはそうした事を回避したことはない。なぜなら、それはわたしにはとても普通の事となったからである。あなたがたは毛髪を一束失うほどの心労の末に神の承認を得るよりも、むしろ終着点のために火の海に飛び込むほうが良いと考えているであろう。わたしがあなたがたに対して教条主義的すぎるということではなく、あなたがたの忠実心はわたしの行うあらゆることに正面から対峙するにはあまりに乏しいということである。わたしがたった今言ったことを理解できないかも知れないので、簡単に説明する。あなたがたが必要としているのは真理といのちではなく、行動原理でもなく、いわんやわたしが骨折って行う働きでもない。あなたがたが必要としているのは、富や地位、家族、結婚など、すべて肉において持っている物事である。あなたがたはわたしの言葉や働きを完全に軽視しているので、あなたがたの信仰をひとことで概括できる。それは「おざなり」である。あなたがたは自分が絶対的に専心しているものを達成するためなら何もいとうことはない。しかし、神への信仰に関する事のために同様にはしないであろうことをわたしは知った。むしろ、あなたがたは比較的に忠実で比較的に真剣なだけである。最大限に誠実な心のない者は神への信仰における失敗であるとわたしが言うのはこのためである。よく考えなさい。あなたがたのうちに失敗は多くあるのか。

神への信仰における成功は人の独自の行動の結果として達成されるということを知らなければならない。人が成功せずに失敗するのもまた、本人の行動が原因であり、他の要素には一切の影響はない。神を信じるよりも困難で苦労を伴う事柄を成し遂げるためなら、あなたがたは何でもするであろうし、それを極めて真剣に扱うであろうと思う。それゆえに過ちを許容することさえも嫌うであろう。これがあなたがた全員が自分の人生に注ぎ込んできた絶え間ない努力である。あなたがたは自分の家族であれば欺いたりしないであろう状況において、肉にあるわたしを欺くことすらできる。これがあなたがたの一貫した振る舞いであり、あなたがたが生きる原則である。あなたがたはわたしを騙し、完璧に美しく望み通りの終着点を得るために、依然として偽りの姿を表出しているのではないのか。あなたがたの忠実心は、あなたがたの誠実さと同様に、一時的なものでしかないことにわたしは気付いている。あなたがたの志とあなたがたが支払う代償は現在のためだけであり、将来のためではないのではないのか。あなたがたは美しい終着点を確保するために、最後に一つの努力をしたいだけである。あなたがたの唯一の目的は取り引きをすることである。真理に対する負債を抱えないようにするためにこの努力をするのではなく、わたしが支払った代償を償還するためなどであるはずがない。つまり、自分の欲しいものを得るために利口な戦略を用いる用意があるだけで、そのために戦う覚悟はない。それがあなたがたの心からの願いではなかろうか。あなたがたは自分自身を隠してはならず、自分の終着点についてのために食事や睡眠ができなくなるほど頭脳を苦しめてはならない。最後にはあなたがたの結末は既に決まっているというのが本当ではないのか。

『神の出現と働き』「終着点について」(『言葉』第1巻)

100. あなたがたは何年もの間わたしに従ってきたものの、忠実の片鱗さえわたしに示したことはない。そのかわりに、自分が愛する人々や自分の気に入るものの周りを回ってきただけである。そうするあまりに、いつでも、どこへ行こうとも、あなたがたはこれらを心に留め、見捨てたことはない。あなたがたが自分の愛する何か一つのことに夢中になったり情熱的になったりするのは、必ずわたしに従っているときや、さらにはわたしの言葉に耳を傾けているときである。それゆえ、わたしがあなたがたに求める忠実を、あなたがたは「愛玩物」に忠実であり、それを可愛がるために代わりに使っている、とわたしは言うのである。あなたがたはわたしのために犠牲の一つや二つ払うかもしれないが、それはあなたがたのすべてを表しておらず、あなたがたが本当に忠実なのはわたしであると示してもいない。あなたがたは自分が情熱を感じる活動に関わる。息子や娘に忠実な人もいれば、夫や妻、富や仕事、上司、地位、女性に忠実な人もいる。自分が忠実なことについては、うんざり感じたり悩まされたりすることは決してない。それどころか、そういうものをさらに大量に、さらに高品質のものを所有することにますます熱心になり、決してあきらめない。わたしとわたしの言葉は、あなたがたの情熱の対象の後ろに押しやられる。それらは最下位に置かれるより他にない。この最下位をこれから発見し、忠実になるもののために空けておく人さえいる。そのような人の心の中にわたしの形跡がわずかでもあったことはない。わたしがあなたがたに求め過ぎるとか、あなたがたを不当に非難しているとか、あなたがたは思うかもしれない。しかし、あなたがたが家族と幸せなひと時を過ごしているあいだに、わたしに忠実であったことは一度としてなかったという事実を少しでも考えたことがあるだろうか。そのような時にあなたがたは痛みを感じないのか。心が喜びで満たされるとき、労働の報いを受けるとき、あなたがたは自分には十分な真理が備わっていないことに失望しないのか。わたしの承認を受けられなかったためにあなたがたはいつ泣いたのか。あなたがたは自分の息子や娘のために知恵を絞り苦心するが、それでも満足しない。彼らのためにはまだ十分に勤勉ではない、彼らのためにできる限りのことをしていないと信じる。しかし、わたしに対しては、あなたがたはいつも怠惰で不注意であった。わたしはあなたがたの記憶の中にいるだけで、心の中に長く留まることはない。わたしの献身と努力をあなたがたが感じることは永遠になく、その価値を深く感じたことはない。少しのあいだ考えるだけで、それで十分だと信じる。このような「忠実」はわたしが長いあいだ切望してきたものではなく、長いあいだ嫌悪してきたものである。

『神の出現と働き』「あなたは誰に忠実なのか」(『言葉』第1巻)

101. もし今わたしがあなたがたの前に現金を置いて選択の自由を与えたならば、そしてその選択を理由にあなたがたを非難しないならば、あなたがたのほとんどが現金を選び、真理を放棄するであろう。あなたがたのうち優秀な人は現金をあきらめ、しぶしぶ真理を選ぶ。一方、中間の人は片手に現金をつかみ、もう片手に真理をつかむ。あなたがたの真の姿がこのように明らかになるのではないだろうか。真理と自分の忠実の対象のどちらかを選ぶとき、あなたがたは皆このような選択をするが、あなたがたの態度に変化はない。そうではないだろうか。あなたがたのうちには正誤のあいだを揺れ動いた人が多くいるのではないのか。是と非、黒と白の対立において、家族か神か、子どもか神か、平和か分裂か、富か貧困か、地位か平凡か、支持されるか捨てられるかなどについて、あなたがたは自分がした選択を知っているはずである。平和な家族と崩壊した家族では、あなたがたは前者を選び、躊躇することなくそのように選択した。富と本分でも、岸辺に戻る[a]覚悟さえないまま再び前者を選んだ。贅沢と貧困でも前者を選んだ。息子、娘、妻、夫とわたしでも前者を選び、観念と真理でも再び前者を選んだ。あなたがたのありとあらゆる邪悪な行いに直面して、わたしはあなたがたへの信頼を完全に失った。あなたがたの心が柔和にされることにここまで抵抗するとは、わたしはただただ驚く。長年の献身と努力は明らかにあなたがたの放棄と絶望しかわたしにもたらさなかった。しかし、あなたがたへのわたしの希望は日ごとに大きくなる。わたしの日はすべての人の面前に完全にさらけ出されているからである。それなのに、あなたがたは暗く邪悪なものを求めることに固執し、それを手離すことを拒否する。それでは、あなたがたの行く末はどうなるのか。あなたがたはこのことを注意深く考えたことがあるのか。もし再び選択するように言われたならば、あなたがたはどういう立場を取るのか。やはり前者を選ぶのか。やはりあなたがたは失望と痛ましい悲しみをわたしにもたらすのであろうか。やはりあなたがたの心には温かさはわずかしかないのであろうか。やはりあなたがたはわたしの心を慰めるために何をするべきか気づかないのであろうか。

『神の出現と働き』「あなたは誰に忠実なのか」(『言葉』第1巻)

102. 毎日、一人ひとりの行いと思いは唯一の方の目に留まっており、それらは同時に、彼ら自身の明日に向けて準備されている。これはすべての生ける者が歩かなければならない道であり、わたしがすべての者に予め定めた道であり、誰もこれを逃れられず、例外となる者もいない。わたしが語った言葉は数えきれず、さらに、わたしが行なった働きは計り知れない。一人ひとりがその生来の本性、およびその本性がもたらす出来事に応じて、その人がなすべきあらゆることを自然に遂行する様子を、わたしは毎日見ている。多くの人は知らないうちに、「正しい軌道」にすでに乗っているが、それは様々な人を明らかにすべく、わたしが定めたものである。わたしはずっと以前からこれら様々な種類の人間を違った環境に置いており、一人ひとりがそれぞれの場所で、生まれ持った特性を表わしてきた。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者もいない。彼らはひとえに自由であり、彼らが表わすものは自然に生じる。彼らを抑制するものはただ一つ、わたしの言葉である。だから、死を免れるためだけにわたしの言葉をしぶしぶ読み、決して実践しない者もいる。一方、わたしの言葉の導きと施しがなければ日々耐え難いことに気づき、自然とわたしの言葉をいつも手放さない者もいる。時が経つにつれ、彼らは人生の奥義、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。わたしの言葉の前で、人類はこのような有様でしかない。そしてわたしは、物事を自然の成り行きに任せているに過ぎない。わたしは人に無理強いして、わたしの言葉を自らの生存の基盤にさせることは一切しない。だから、良心をもたず、自分の存在に何の価値もない人たちは、静かに事の成り行きを観察したあと、大胆にもわたしの言葉を投げ捨て、自分の好きなようにする。彼らは真理や、わたしから生じるすべてのものにうんざりし始める。さらに、彼らはわたしの家にいることにもますますうんざりする。このような人たちは、自分の終着点のために、また懲罰を逃れるために、たとえ奉仕をしていても、わたしの家でしばらく暮らす。しかし、彼らの意図や行動は決して変わらない。このことは、祝福を求める彼らの願望を膨らませ、一度神の国に入ってその後永遠に留まり、果ては永遠の天国に入る願望をも膨らませる。わたしの日がすぐに来るのを切望すればするほど、彼らはますます、真理が障害になっている、自分の道をふさぐ躓きの石になっていると感じる。彼らは、真理を追求する必要も、裁きと刑罰を受け入れる必要もなく、それに何より、わたしの家で卑屈に振る舞い、わたしの命令どおりにする必要も一切ないまま、神の国に足を踏み入れて天国の祝福を享受することを待ち切れないでいる。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営に協力するためでもない。彼らの目的は、来たる時代に滅ぼされない人の一人になることだけである。よって彼らの心は、真理とは何か、真理をどのように受け入れるかを知ったことがない。そのような人たちが真理を実践することも、自分の堕落の深さを認識することもないまま、「しもべ」としてわたしの家でずっと暮らしていたのはそれが理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの仕方に翻弄されても疲れを知らない。しかし、彼らがどんなに努力しようと、あるいはどんな代価を支払おうと、彼らが真理のために苦しんだり、わたしのために何かを与えたりしているのを見た人はいない。彼らは心の中で、わたしが古い時代を終わらせる日を見たくてたまらず、さらに、わたしの力と権威がいかに偉大であるかを見出すことを待ちきれないでいる。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは自らを変え、真理を追い求めることである。彼らは、わたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものにうんざりしている。わたしが憎むものを慕いつつ、わたしが忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きながら、それを憎んだことは一度もなく、わたしが滅ぼすことを心底恐れている。彼らは矛盾した意図をもち、その中でわたしが忌み嫌うこの世を愛しているが、わたしが急いでこの世を滅ぼすこと、そして自分が真の道から逸れてしまう前に、破滅の苦しみを免れ、次の時代の主人へと変えられることを切望している。これは、彼らが真理を愛さず、わたしから生じる一切のものにうんざりしているからである。祝福を失わないよう、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの祝福を求める気持ちや、滅びて燃える火の池に入ることを恐れる気持ちは決して覆い隠せない。わたしの日が近づくにつれ、彼らの願望は着実に強くなる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせ、長い間切望してきた祝福を失わないようにするには、まずどこから始めたらよいのかわからず、ますます無力になる。わたしの手がその働きを始めるやいなや、このような人たちは先駆者として仕えるべく行動を起こしたがる。自分がわたしの目に留まらないことを深く恐れ、群れの最前列に押し入ることだけを考える。彼らは自分が正しいと思うことを行い、それを口にするが、自分の行為や行動が真理にまったく沿っておらず、自分の所業がわたしの計画をただ妨害し、干渉するだけであることを知らない。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐えようとする意志や意図は真実かもしれないが、彼らがする一切のことはわたしとなんら関係ない。なぜなら、彼らの行いが善意から生じるのを一度も見たことはないし、ましてやわたしの祭壇に何か置くのも見たことがないからである。これが、彼らが長年わたしの前でしてきた行いである。

『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」(『言葉』第1巻)

103. 多くの人々が神の言葉を日々読み返しており、場合によってはその中の代表的な言葉を貴重な財産としてすべて注意深く暗記したり、さらには随所で神の言葉を説教して、他の人々を神の言葉によって養い援助したりもしています。彼らはそうすることが神について証しをし、神の言葉について証しをすることであり、神の道に従うことだと考えています。さらに、それが神の言葉に従って生きることであり、神の言葉を実生活に活かすことであり、そうすることで神の称賛を得て、救われ完全にされるとも考えています。しかし彼らは神の言葉を説教する一方で、実践では神の言葉に従うことも、神の言葉にあらわされているものに自らを一致させようとすることも一切ありません。むしろ神の言葉を利用することで、策略によって他人からの敬服や信頼を得たり、自らの経営の中に入ったり、神の栄光をかすめ取ったりしています。そして神の言葉を広めることで得られる機会を利用して、神の働きと称賛を得ようといたずらに願っているのです。どれだけの年月が経とうとも、こうした人々は神の言葉を説教する中で神の称賛を得られていないだけでなく、神の言葉を証しする中で従うべき道を見いだすこともできず、神の言葉によって他の人々を養ったり助けたりする中で自分自身を養うことも助けることもなく、そうしたすべてのことを行う中で神を知ることも、自らの中に純粋に神を畏れる心を呼び覚ますこともできずにいます。逆に彼らの神に関する誤解は深まるばかりで、神への不信感も深刻になる一方であり、神に関する想像は大げさになるばかりです。彼らは神の言葉に関する理論に満たされ導かれて、完全に自らの本領を発揮し、苦もなく自分の能力を活かしているかのようであり、あたかも自分の人生の目的や使命を見出し、新しいいのちを得て救われたかのようであり、朗読のように神の言葉を饒舌に語りながら、真理を得て神の意図を把握し神を知る道を見出したかのようであり、また神の言葉を説教する中でしばしば神と直接顔を合わせているかのように見えます。さらに彼らはしばしば「感極まって」涙を流し、しばしば神の言葉の中の「神」に導かれて、神の真摯な配慮と優しい思いやりを絶えず掴んでいるように見えると同時に、人間に対する神の救いと経営を理解し、神の本質を知るに至り、神の義なる性質を理解しているかのようにも見えます。そうした土台に基づいて、彼らはより固く神の存在を信じ、より強く神の高貴な地位を認識し、より深く神の荘厳さと超越性を感じているように見えます。彼らは神の言葉に関する表面的な認識に耽溺しており、その信仰は成長し、苦難に耐える決意は強まり、神に関する認識が深まっているかのように見えます。しかし実際に神の言葉を体験するまでは、神に関する認識や神についての考えが、すべて自らの勝手な想像と推測から生まれていることにはほとんど気付きません。彼らの信仰は神のいかなる試練にも耐えることができず、彼らの言うところの霊性と背丈は神の試練にも検証にも一切耐えられません。彼らの決意は砂上の楼閣以外の何物でもなく、いわゆる神に関する認識もまた、自分の空想による虚構にすぎません。事実こうした、いうなれば神の言葉に多くの努力を費やした人々は、真の信仰、真の服従、真の思いやり、あるいは神に関する真の認識というものを、悟ったことが一切ありません。彼らは理論、想像、知識、賜物、伝統、迷信、さらに人類の道徳的価値観さえも、神を信じ従うための「元手」や「武器」に変え、さらには神を信じ従うための基盤とさえしています。また同時に、彼らはそうした元手や武器を魔法の護符に作り変え、それを通して神を知り、神による検証、試練、刑罰、裁きに対処しようとしています。そして最終的に彼らが得るものは、宗教的含みや封建的迷信、そしてあらゆる空想的で異様で謎めいたものに染まった、神についての結論に過ぎません。彼らが神を知り定義する方法は、ただ「天」や「天の親方」を信じている人々と同じ型に嵌まっており、一方で神の現実性、本質、性質、その所有するもの、神の存在そのものといった、真の神自身に関するものすべては、彼らの認識では把握できず、彼らの認識とはまったく無関係で、北極と南極ほどにかけ離れています。このように、彼らは神の言葉による施しや栄養によって生きているにもかかわらず、神を畏れ悪を避ける道を、本当の意味で辿ることができずにいるのです。その真の原因は、彼らが神と親しんだことがなく、本当に神と接したことも交わったこともないからで、そのため彼らが神との相互理解に達することは不可能であり、神を純粋に信仰し、神に付き従い、崇める心を自らのうちに呼び起こすこともできないのです。神の言葉をこのように見なし、神をこのように見なしているというその見方と態度のため、彼らは努力の末に手ぶらで帰ることになり、神を畏れ悪を避ける道を進むことは永遠にできないよう運命付けられているのです。彼らが目指す目標と彼らが進んでいる方向は、彼らが永遠に神の敵であり、永遠に救いを得られないことを示しているのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

104. わたしの何年もの働きのあいだ、人間は多くを得て、多くを捨ててきたが、それでもやはり人間は真にわたしを信じていないとわたしは言う。なぜなら、人間はわたしが神であることを口先では認めるものの、わたしが話す真理には異議を唱え、さらには、わたしが彼らに要求する真理を実践することなどないからである。つまり、人間は神の存在だけを認め、真理の存在は認めない。神の存在だけを認め、いのちの存在は認めない。神の名だけを認め、神の本質は認めない。その熱心さゆえに、わたしは人間を軽蔑している。人間はわたしを欺くために、耳に心地よい言葉を使うだけで、誰一人としてわたしを真に崇拝する者はいないからである。あなたがたの言葉には、蛇の誘惑がある。さらに、それは極端なまでに不遜で、まさに大天使の宣言そのものである。その上、あなたがたの行いは不名誉なまでにぼろぼろに裂けてちぎれている。あなたがたの過度の欲望や貪欲なもくろみは聞くに堪えない。あなたがたは皆、わたしの家の蛾、強い嫌悪をもって捨て去られる対象になった。なぜなら、あなたがたの誰一人として真理を愛さず、それどころか、祝福されることを欲し、天に昇ることを欲し、キリストが地上でその力を振るう荘厳な光景を見ることを欲するからである。しかし、そこまで深く堕落し、神が何であるかを全く知らないあなたがたのような人が、どうして神に従うに値することがあり得ようか。それについて考えたことがあるのか。どうしてあなたがたが天に昇れようか。そのように荘厳な光景、その壮麗さにおいて前例のない光景を見るに値する存在に、どうしてあなたがたが成り得ようか。あなたがたの口は偽りと汚れ、裏切りと傲慢の言葉に満ちている。誠実な言葉をわたしに語ったこともなければ、聖なる言葉もなく、わたしの言葉を経験するにあたり、わたしへの服従の言葉を語ったこともない。最後には、あなたがたの信仰はどのようになるのだろうか。あなたがたの心の中には欲望と富しかなく、あなたがたの頭の中には物質的なことしかない。日々、あなたがたはわたしから如何にして何かを得ようかと計算している。日々、わたしからどれほどの富と幾つの物質的なものを得たかを数えている。日々、さらに多くの、もっと高水準のものを享受できるようにと、あなたがたにさらなる祝福が施されるのを待ちわびている。あなたがたの思考の中にいつ何時も存在するのはわたしではなく、わたしからもたらされる真理でもなく、むしろあなたがたの夫や妻、息子、娘、あるいは食べるものや着るものなのだ。あなたがたは自分が如何にして、より多くの、より良い享楽を得られるかということを考えている。たとえ胃がはち切れんばかりに満腹したところで、あなたがたはやはり屍ではないのか。たとえ外見を豪華に着飾ったところで、あなたがたはやはり、いのちのない歩く屍ではないのか。あなたがたは食べ物のために、髪に白髪が交じるまで懸命に働くが、誰もわたしの働きのために毛一本として犠牲にすることはない。あなたがたは常に、体を酷使し頭を悩ませて、自分自身の肉体のため、息子や娘のために働き詰めだが、あなたがたのうちの誰一人として、わたしの意に憂慮することも気遣いを見せることもない。あなたがたがわたしから、なおも得ることを望んでいるものは何なのか。

『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(『言葉』第1巻)

105. わたしは実に多くの言葉を発した。また、わたしの心と性質を明らかにしてきた。それなのに、人々はまだわたしを知り、わたしを信じることができずにいる。あるいは、人々はまだわたしに従えずにいると言える。聖書の中に生きる人々、律法に囲まれて生きる人々、十字架上で生きる人々、教義に従って生きる人々、わたしが今日している働きの中で生きている人々――この中の誰がわたしと融和しているであろうか。あなたがたは、祝福とねぎらいを受け取ることだけを考え、どうしたらわたしと融和できるか、どうしたらわたしの敵になることがないかということを少しも考えようとしたことがない。わたしは、ほんとうにあなたがたに失望した。わたしは実に多くをあなたがたに与えてきたのに、ほとんど何もあなたがたから受けていないのだから。あなたがたの欺き、あなたがたの傲慢、あなたがたの貪欲、あなたがたの途方もない欲求、あなたがたの裏切り、あなたがたの不服従――このどれにわたしが気づかずにいるのか。あなたがたはわたしに関していい加減で、わたしをからかい、わたしを侮辱し、わたしを騙し、わたしに要求し、わたしに犠牲を強要する――そうした悪行がどうしてわたしの罰を免れることができようか。あなたがたの邪悪な行為は、わたしへの敵意の証拠、あなたがたがわたしと融和しない証拠である。あなたがたの一人一人が、自分はわたしの心にかなうと信じているが、もしそうなら、誰にその反論できない証拠が適用されるのか。あなたがたは、自分はわたしにこのうえなく誠実で忠実だと信じている。あなたがたは、自分はまことに親切で、思いやりがあり、わたしに多くを捧げてきたと思っている。あなたがたは、自分はわたしに十分奉仕したと思っている。しかし、そうした考えを自身の行いに引き比べてみたことがあるだろうか。わたしに言わせれば、あなたがたはひどく傲慢で、ひどく貪欲でひどくいい加減だ。あなたがたがわたしをばかにする手口は、とても狡猾で、愚かな意図や愚かしい手段をいろいろもっている。あなたがたの忠誠はごくわずかでしかなく、あなたがたの誠意はあまりに薄く、あなたがたの良心は、さらに乏しい。あなたがたの心にはあまりに多くの悪意があって、誰もあなたがたの悪意から逃れられない。わたしでさえ。あなたがたは、自分の子ども、夫、あるいは自己保存のためにわたしを締め出す。わたしのことを気にする代わりに、あなたがたは自分の家族、子供、地位、将来、自分の欲求充足を気にかけている。あなたがたは、話し行動しながらわたしのことを考えたことがいつあったであろうか。寒いとき、あなたがたは自分の子供、夫、妻、あるいは親のことを思う。暑いときもまた、わたしはあなたがたの思いの内に入っていない。務めを果たしている時、あなたは、自分の利益、自分の身の安全、自分の家族のことを考えている。あなたがわたしのために何をしたことがあるというのか。あなたは、いつ、わたしのことを考えたのか。あなたは、わたしとわたしの働きのために惜しむことなく身を捧げたことがいつあったであろうか。あなたがわたしの味方である証拠はどこにあるのか。あなたのわたしへの忠誠はどこに実在しているのか。あなたのわたしへの従順さはどこに実在しているのか。あなたの意図が、わたしから祝福を受けるためではなかったことがいつあったであろうか。あなたがたはわたしをだまし、欺き、真理を弄び、真理の存在を隠し、真理の本質を裏切る。あなたがたはわたしに敵対している。それでは、あなたがたの未来には何が待っているのか。あなたがたはただ、漠然とした神の心にかなおうとして、単に漠然とした信仰を追究しているが、あなたがたはキリストと融和しない。あなたがたの悪事は、邪悪な者たちが当然受けるものと同じ報復を受けるのではないか。その時、あなたがたは、キリストと融和しない者で、怒りの日を免れることのできる者はいないことに気づくであろう。あなたがたはまた、キリストに敵対する者にどのような報復が行われるかを知ることになるであろう。

『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」(『言葉』第1巻)

106. あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、「わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう」と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす。あなたがたの現在における考え方や見方は、このようなものではないだろうか。「わたしは神を信じているのだから、ひたすら祝福を浴び、地位は決して下がらず、不信者の地位よりも高いと保証されているはずだ」。このような見方があなたがたの中にあるのは、一、二年間のことではなく、長年にわたってである。あなたがたは取引しようという考え方をあまりに発達させている。あなたがたは現在のこの段階まで達したが、依然として地位を捨て去っておらず、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかと深く恐れ、地位について尋ね回り、観察しようと日々奮闘している。人々は安楽への欲求を決して捨て去らなかった。……あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない。いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか。

『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」(『言葉』第1巻)

107. 人間は光の中に生きていながら、光の貴さには気づいていない。人間は光の本質、光の源、さらに、光が誰のものであるかについては、無知である。わたしが人間たちに光を与えるとき、直ちに人間たちの状態を調べる。光があるので、人々はみな変わりつつあり、成長し、闇を去っている。わたしは全宇宙の隅々まで見渡す。山々が霧に包まれ、水が冷気の中で凍り、光が到来したため、人々は何かもっと貴重なものを見つけようと、東を見ている――しかし、霧の中では、はっきりと方向を見定めることができないでいる。全世界が霧に包まれているので、わたしが雲の中から見ていると、わたしの存在は人間には絶対にわからない。人間は地上で何かを探している。あちこちあさっているようだ。どうやら、人間はわたしの到着を待っているらしい――しかし、人間はわたしの日を知らないから、何度も東方の微かな輝きを見やるしかない。すべての人々の中に、わたしは、ほんとうにわたしの心にかなう者を探す。わたしはすべての人々の間を歩き、すべての人々の間に生きるが、人間は地上にいて安全で健やかであり、それで、ほんとうにわたしの心にかなう者はいないのだ。人々は、わたしの心をどう気にかけたらよいか、わからない。彼らには、わたしの行いは見えない。そこで、光の中を動き回って、光に照らされることができない。人間はいつもわたしの言葉を大事にしているが、サタンの欺きに満ちた策略を見通すことができない。人間は霊的背丈が足りないので、心で願うことが実行できないからだ。人間はわたしを心から愛したことがない。わたしが人間の地位を高めると、人間は自分がふさわしくないと感じるが、だからといって、わたしを満足させようと努力するわけではない。ただわたしの与えた「地位」を手にして、それをじっくり調べる。わたしの素晴らしさには気付かず、置かれた地位の恵みを貪ることに熱中する。これが人間の欠点ではないか。山々が動くとき、あなたの地位を考慮して迂回するものだろうか。水が流れるとき、人間の地位があるからといって、止まるだろうか。天と地は、人間の地位次第で入れ替わるだろうか。わたしは、かつて人間に憐れみをかけた、何度も何度も――しかし、誰一人、それを胸に抱き宝ともしなかった。ただ、それを作り話として聞くか、小説として読むだけなのだ。わたしの言葉は本当に人間の心に触れないのだろうか。わたしの言葉は、ほんとうに何の効果もないのか。これは、誰一人わたしの存在を信じていないということだろうか。人間は自分自身を愛さない。かえって、サタンと組んで、わたしを攻撃し、サタンをわたしに仕えるための「資産」として用いる。わたしはサタンの欺きに満ちた策略全部を見通し、サタンの存在ゆえにわたしに敵対しないよう、地上の人々がサタンの欺きを受け入れるのを止める。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十二章」(『言葉』第1巻)

108. 多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神はあえて大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。

『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)

109. ほとんどの人は神に対する奉仕の条件さえ口にする。そのような人は相手が神なのか、それとも人なのかを気にせず、自分の条件だけを話し、自分の欲望を満たすことだけを追い求める。わたしのために料理するとき、あなたがたはサービス料を要求し、わたしのために走るときは走る料金を要求し、わたしのために働くときは労賃を要求し、わたしの服を洗うときは洗濯代を要求し、教会に与えるときは休養費を要求し、話をするときは講演料を要求し、本を配布するときは配布料金を要求し、何か書いたときは執筆料を要求する。わたしが取り扱った人々はわたしから補償金さえ要求し、そのうえ、帰宅させられた人々は自分の名前が損なわれたことに対して補償を要求する。結婚していない人々は持参金、または失われた青春時代の補償を要求し、鶏を殺す人々は食肉処理料を要求し、揚げものをする人々は揚げ賃を要求し、スープを作る人々もそれに対する支払いを要求する、等々。これがあなたがたの高尚で偉大な人間性であり、あなたがたの温かい良心に指図されたことである。あなたがたの理知はどこにあるのか。人間性はどこにあるのか。一言言わせてもらう。あなたがたがこのまま続けるのなら、わたしはあなたがたの中で働くのをやめる。わたしは人間の皮を被った獣の集団の中では働かない。わたしはあなたがたのような、人間の顔をしているが心は野獣である人々の集団のために苦しんだりしない。わたしは救いの可能性が全くないこのような獣の集団のために耐えたりはしない。わたしがあなたがたに背を向ける日はあなたがたが死ぬ日であり、暗闇があなたがたを襲う日であり、あなたがたが光に見捨てられる日である。一言言わせてもらう。わたしはあなたがたのような獣以下の集団には決して慈悲深くはならない。わたしの言葉や行動には限度があり、あなたがたの現在の人間性や良心に対しては、わたしはもはやなんの働きもしない。なぜなら、あなたがたはあまりにも良心に欠け、わたしにあまりにも多くの苦しみを与え、あなたがたの卑劣なふるまいはあまりにもわたしに嫌悪感を起こさせるからである。こんなにも人間性や良心に欠けている人々に救いの機会は決して訪れない。わたしはそのような冷酷で、感謝の念を持たない人々は決して救わない。わたしの日が来たら、わたしは燃える炎を、かつてわたしを強烈に激怒させた不従順な者たちの上に永遠に雨あられとふりかけ、かつてわたしに悪口雑言を投げつけ、わたしを見捨てたあの獣たちに永続的懲罰を課し、かつてわたしと共に食べ、暮らしたがわたしを信じず、わたしを侮辱し、裏切った不従順な息子たちを怒りの火でいつまでも焼く。わたしは我が怒りを引き起こしたすべての人々に懲罰を与え、その怒りのすべてを、かつてわたしと対等の地位に立とうと望んだにもかかわらず、わたしを礼拝せず、従わなかった獣どもに雨あられと降り注ぐ。わたしが人を打つ鞭は、かつてわたしの顧みや、わたしが話した奥義を楽しみ、わたしから物質的楽しみを引き出そうとしたあの獣たちを攻撃する。わたしはわたしの地位を取ろうとする者は誰も許さない。わたしから食べものや衣服を奪おうとする者は誰も容赦しない。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

110. あなたがたが今日見ているのは、わたしの口の鋭利な剣に過ぎず、わたしの手にある鞭も、わたしが人間を燃やす炎も見ておらず、そのため、あなたがたはいまだにわたしの面前でも不遜で不節制なのである。そのため、あなたがたはいまだにわたしの家でわたしと争い、わたしが自らの口で語ったことに人間の言葉で反論するのである。人間はわたしを恐れず、今日までわたしと敵対し続けながら、それでもまったく恐れていない。あなたがたの口には不義なる者の舌と歯がある。あなたがたの言動はエバを罪へと誘惑した蛇のもののようで、互いに目には目を、歯には歯を要求しあい、わたしの前で地位、名声、利益を自分のものにしようと奮闘するものの、わたしが密かにあなたがたの言動を見張っていることを知らない。あなたがたがわたしの前に来る以前でさえ、わたしはあなたがたの心の奥底を調べていた。人間はいつもわたしの手中から逃れ、わたしの目の観察を避けようと望んでいるが、わたしは人間の言動から離れたことがない。代わりに、それらの言動をわざとわたしの目に触れさせ、わたしが人間の不義さを罰し、人間の反抗に裁きを下せるようにする。このように、人間の密かな言動は絶えずわたしの裁きの座の前にあり、わたしの裁きは人間から離れたことがない。なぜなら人間の反抗は過度だからである。わたしの働きは、わたしの霊の面前で発せられ行なわれる人間のあらゆる言動を燃やして清めることである。こうすることで[b]、わたしが地上を去るとき、人々は依然としてわたしへの忠誠を保ち、わたしの聖なるしもべがわたしの働きにおいてするようにわたしに仕え、それによりわたしの地上での働きはその完成の日まで続くのである。

『神の出現と働き』「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」(『言葉』第1巻)

111. わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、わたしに対するあなたの信仰も疑念を基盤にして成り立つことになる。そのような信仰をわたしは決して認めない。真の信仰がないあなたには、真の愛はなおさらない。そして気の向くままに神を疑い、神への憶測を巡らせがちなら、あなたは間違いなくあらゆる人々の中で最も不正直である。あなたは神が人間のようでありうるかどうか憶測する。許し難いほど罪深く、狭量な性質で公正さと分別に欠け、正義感がなく、邪悪な策略に溺れ、不誠実でずるく、悪事や闇を喜ぶ、といった具合である。人は神のことを少しも知らないがゆえに、このような考えをもつのではないか。このような信仰は罪以外の何物でもない。中には、わたしを喜ばせるのはまさに媚びへつらいごまをする者たちであり、そのような技量のない者は神の家では歓迎されずに居場所を失う、と信じている者すらいる。長年かけてあなたがたが得た認識はこれだけなのか。これがあなたがたの手に入れたものなのか。わたしに関するあなたがたの認識はこのような誤解にとどまらない。さらに悪しきは、あなたがたによる神の霊への冒涜と、天に対する悪口である。あなたがたのような信仰のせいで、あなたがたはますますわたしから逸れていき、わたしとさらにひどく敵対するだけだとわたしが言うのは、それゆえである。長年にわたって働くあいだずっと、あなたがたは多くの真理を目の当たりにしてきた。しかしどのような事柄がわたしの耳に入ってきたか、あなたがたは知っているのか。あなたがたのうち喜んで真理を受け入れる人はどれほどいるのか。あなたがたはみな、自分たちは喜んで真理の代価を払うと信じているが、真理のために本当に苦しんだ者が、あなたがたの中にどれほどいるというのか。あなたがたの心の中には不義しかなく、そのため誰もが同じように不正直で心が曲がっていると思うのである。受肉した神が普通の人間のように優しい心や慈愛を持ち合わせていないこともありうる、と信じるに至るほどに。さらに、あなたがたは高潔さや憐れみ深く慈愛に満ちた性質は天の神にのみ存在すると信じている。あなたがたは、そのような聖人は存在せず、ただ闇と悪が地上を支配するのみだと信じているが、その一方で神とは、人々が善きものや美しきものに対する自らの切望を託す先であり、人々によって作られた伝説上の人物なのである。あなたがたの頭の中では、天の神とは非常に立派で正しく偉大な、崇拝し敬慕する価値のあるものであり、一方、地上の神は天の神の単なる代役、単なる道具にすぎないということになっている。あなたがたは、この地上の神は天の神に等しいはずがない、まして天の神と比較するなど話にならないと信じている。神の偉大さと栄誉に関して言えば、これらは天の神の栄光に属するものだが、人間の本性や堕落となると、それらは地上の神もその一部を有している特質だというのである。天の神は永遠に高貴だが、地上の神は永遠に取るに足りず、弱く、無能である。天の神は感情的になることなく、ひたすら義であるが、地上の神には利己的な動機しかなく、公平さも分別もない。天の神は少しも曲った所がなく永遠に誠実だが、地上の神には常に不正直な面がある。天の神は人間を深く愛するが、地上の神が人間に示す配慮は不十分で、人間を全く顧みないことすらある。このような誤った認識がもう長い間あなたがたの心の中にあり、将来にわたり永続する可能性もある。あなたがたはキリストの全ての行いを不義な視点から見ており、キリストの働きの全ても、キリストの身分も実体も、悪人の視点から評価する。あなたがたは重大な過ちを犯し、先人の誰もがなさなかったことをなしてきた。つまり、あなたがたは頭に王冠を戴せた高貴な天の神だけに仕え、取るに足りないと見なすあまり自分の目には映らない地上の神のことは、決して留意しないのである。これはあなたがたの罪ではないか。神の性質に背くあなたがたの典型的な例ではないか。あなたがたは天の神を崇拝する。あなたがたは高貴な像を崇拝し、雄弁で名高い者たちを尊ぶ。あなたは、その手を富で満たしてくれる神の命令には喜んで従い、望みを全て叶えてくれる神を渇望する。あなたが崇拝しない唯一のものは高貴でないその神であり、あなたが嫌う唯一のことは、誰からも高く評価されないその神と関わることである。あなたがやりたがらない唯一のことは、あなたに一銭ももたらさないその神に仕えることであり、あなたが恋い慕うよう仕向けることのできない唯一の者は、魅力のないその神である。この種の神はあなたの視野を広げられず、あたかも宝物を見つけたかのように感じさせることもできず、ましてやあなたの願いをかなえることもできない。ならば、なぜあなたは彼について行くのか。このような問いについて考えたことはあるのか。あなたのしていることはそのキリストに背くだけではない。より重大なのは、天の神に背くということである。これが神を信仰するあなたがたの目的ではあるまい。

『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻)

112. 多くの人々は誠実な言動を保つよりもむしろ地獄へ落ちるのを好む。不誠実な人のためにわたしが別の扱いを用意しているのも不思議ではない。もちろん、あなたがたにとって誠実であることがどれだけ難しいかは十分に分かっている。あなたがたは皆、とても賢く、自身のつまらない物差しで人々を測ることに非常に長けているので、わたしの働きは、ごく単純なものとなる。あなたがたはそれぞれに秘密を胸に抱えている。だからこそわたしはあなたがたを一人ずつ惨事に遭わせ、火をもって「教え」を受けさせる。そうすると、その後あなたがたはわたしの言葉を完全に信じられるようになる。そして最後には、あなたがたに「神は誠実だ」と言わせ、そのときあなたがたは「人間の心はよこしまだ」と感情を爆発させ、嘆き悲しむことになる。そうなれば、あなたがたはどんな精神状態になっているだろうか。おそらく、今のように勝ち誇っていないだろう。ましてや今のように「深遠かつ難解」でもない。神の面前ではとりすまして真面目にする者もいて、何とか「行儀よく」しようとするが、霊の面前では牙をむき、爪を振りかざしている。そういった人を誠実とみなすだろうか。あなたが偽善者で、「対人関係」を心得ているなら、あなたは間違いなく神をぞんざいに扱おうとしている人であるとわたしは言う。あなたの言葉が言い訳や取るに足らない弁明ばかりなら、あなたは真理を実践したがらない人であるとわたしは言う。共有するのを躊躇するような秘密を数多く持っているなら、自分の秘密、つまり自分自身の困難を光の道を求めるために他者の前に明かすのがどうしても嫌だというなら、あなたは簡単には救いを得られない人であり、暗闇から簡単には脱せない人であるとわたしは言う。

『神の出現と働き』「三つの訓戒」(『言葉』第1巻)

113. あなたがたの心の中にある欺瞞をわたしは深く理解している。あなたがたのほとんどは好奇心からわたしに従い、空虚からわたしを求めるようになった。あなたがたの第三の希望、平和で幸せな人生への願いが叶わなかった時、あなたがたの好奇心もまた消散する。一人ひとりの心の内にある欺瞞は、あなたがたの言動を通して明るみに出る。率直に話すならば、あなたがたはただわたしに好奇心を持っているだけで、恐れてはいない。言葉に気をつけず、行動を抑えることはさらにない。ならば、あなたがたには一体どのような信仰があるのか。それは純粋なものなのか。あなたがたは心配をなくし、退屈を軽減するために、生活において余った空虚な時間を埋めるためにわたしの言葉をただ利用しているにすぎない。あなたがたのうちの誰がわたしの言葉を実践したのか。誰が純粋な信仰を持っているのか。あなたがたは、神は人の心を深く見通す神であると叫び続けているが、あなたがたが心で叫び続ける神はわたしといかに融和性があるのか。このように叫んでいるなら、なぜそんな風に行動するのか。もしかして、それがわたしに報う愛だということなのか。あなたがたの唇は非常に大きな献身を語るが、あなたがたの実際の捧げ物は、善行はどこにあるのか。わたしの耳に届くあなたがたの言葉のせいでなければ、わたしはどうしてあなたがたをこれほど憎むことができるのか。あなたがたがわたしを真に信じるのならば、どうしてそのような苦境に陥ることが可能なのか。あなたがたはまるで地獄で裁判を受けているかのような、落ち込んだ表情を浮かべている。まったく活力がなく、内なる声について弱々しく語り、そのうえ文句と呪いの言葉で満ちている。あなたがたはとうの昔にわたしの行なうことを信じなくなっており、元来持っていた信仰も消え去った。それでどのように最後まで従うことができるのか。そのような現状で、どのように救われることができるのか。

『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」(『言葉』第1巻)

114. 人間は神を信じているものの、その心に神はおらず、神をどう愛するかもわからず、神を愛したいとも思っていません。人間の心は神に近づいたことがなく、常に神を避けているからです。その結果、人間の心は神から離れているのです。では、人間の心はどこにあるのでしょうか。実際には、人間の心がどこかに行ってしまったわけではありません。自分の心を神に捧げたり、神に示して見てもらおうとしたりする代わりに、自分の中に閉じ込めているのです。それにもかかわらず、中には「ああ神よ、わたしの心をご覧ください。わたしの考えるすべてのことをあなたはご存知です」としばしば祈る人もいれば、自分の心を神に見せると誓い、その誓いを破れば懲罰を受けても構わないと言う人さえいます。たとえ自分の心のうちを神に見えるようにしたとしても、それは人間が神の指揮と采配に従えるという意味でも、自分の運命や将来を手放し、自分のすべてを神の支配に委ねたという意味でもありません。したがって、あなたが神に立てる誓いや、あなたが神に宣言したことにかかわらず、神の目から見て、あなたの心は神に閉ざされたままです。なぜなら、あなたは神に自分の心を見せるばかりで、それを支配することは許していないからです。言い換えると、あなたは神に自分の心をまったく捧げておらず、神に対して聞こえのいい言葉を述べているに過ぎないのです。その一方、あなたは諸々の不誠実な意図に加え、陰謀、策略、計画を神から隠しており、また自分の将来と運命が神に取り上げられることを深く恐れ、それらを固く握りしめています。このように、神に対する人間の誠実さというものを、神は決して目にしません。神は人間の心の奥深くを観察し、人間が心の中で考えていることや願っていること、および人間が心にしまい込んでいるものを見ることができますが、それでも人間の心は神に属しておらず、神の支配に委ねられてもいません。つまり、神には観察する権利があっても、支配する権利はないのです。人間は主観的な意識の中で、自分を神の采配に委ねることを望んでもいなければ、そうしようとも思っていません。自分を神から閉ざしてきただけでなく、どうしたら自分の心を覆い隠せるかを考える人さえいます。そのような人は聞こえのよい言葉とお世辞を並べて偽りの印象を生み出し、神の信頼を得て、自分の素顔を神の目から隠そうとします。神に見させまいとする彼らの目的は、自分が本当はどのような存在であるかを、神に知られないようにするためです。そのような人は神に心を捧げようとは思わず、手放さずにいることを望んでいます。そのことは、人間が行なうことや望むことはすべて人間自身が計画し、計算し、そして決定するということを暗に意味しています。神による参加や介入は必要としておらず、ましてや神の指揮や采配など無用です。したがって、神の命令、神が与える使命、あるいは神が人間に行なう要求にかかわらず、人間の決定は自分の意図と利益、そのときの状態と状況に基づいているのです。人間は常に、自分に馴染みのある知識と見識、そして自分の知性を使い、自分が進むべき道を判断して選択し、神の介入や支配を許しません。これが神から見た人間の心です。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

115. 多くの人は、ほんとうにわたしを愛したいと願うが、彼らの心が自分のものではないために、自身を制御できない。多くの人は、わたしの与える試練の中で、ほんとうにわたしを愛している。しかし、わたしが本当に存在することを把握できず、わたしの実在ではなく、単に空虚の中でわたしを愛しているに過ぎない。多くの人はわたしの前に心を差し出した後、自分の心に注意を払わない。そして、彼らの心は機会があるたびサタンに掠め取られ、その後はわたしを離れる。多くの人は、わたしが言葉を与えるとき、ほんとうにわたしを愛する。しかし、霊でわたしの言葉を愛するのではなく、公共物ででもあるかのように気安く用いて、気が向けばいつでも元の場所に投げ戻すのだ。人間は苦痛の中でわたしを求め、試練の中にあって、わたしを探す。平和の時にはわたしを楽しみ、危険になると、わたしを否定する。忙しい時にはわたしを忘れ、暇な時には、わたしに対しておざなりな態度をとる。しかし、けっして誰も生涯を通じてわたしを愛しはしない。人間がわたしの前で熱心であればいいと思う。わたしに何かよこせとは言わない。ただ、すべての人がわたしを真剣に受け止め、わたしを騙すのではなく、誠意を人間の内に取り戻せるようにしたいのだ。わたしの啓きや照らし、努力はすべての人にあまねく行き渡る。しかし、人間のあらゆる行動の真相も人々にあまねく行き渡り、それはわたしに対する欺きも同じである。人間には母の胎にいるときから欺きの種が備わっていたものででもあるかのようだ。生まれながら欺きの特別の技術をもっているかのようなのだ。そのうえ、人間はけっしてそのことを漏らさない。誰一人、そうした欺きの技術の源を見通した者はいない。その結果、人間はそれと気付かずに欺きの中で生き、自身を許しているかのようで、それが、自分で意図的にわたしを騙そうとしているのではなく、神の計らいででもあるかのように振る舞う。これこそが、人間がわたしを欺く原因なのではないか。これは人間の狡猾なしわざではないのか。わたしはけっして人間の巧みな言葉に惑わされたことはない。わたしはずっと以前に人間の本質を見抜いていたのだから。人間の血にどれほどの不純物が含まれているか、どれほどサタンの毒がその髄に潜んでいるか、誰が知っているのか。人間は日々にそれに慣れ、サタンのしわざに無感覚になり、「健康的な生き方」を見つけることには何の関心もない。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十一章」(『言葉』第1巻)

116. 人間はみな自己認識をもたない生き物であり、自分を知ることができずにいる。それにもかかわらず、掌を指すかのごとく他の全員のことを知っており、他人のすべての言動はまず彼らの目の前で「吟味」され、承認を得てからなされたかのようである。結果として、他の全員のことを心理状態まですべて知り尽くしているかのごとき有様だ。人間はみなこのようなものである。今日、人間は神の国の時代に入ったものの、その本性は変わっていない。わたしの前では依然わたしと同じことを行なうが、わたしの背後では自分独自の「仕事」をし始めている。とは言え、その後はわたしの前に来るのだが、まるで完全に別人のようで、見たところ冷静で臆しておらず、顔つきも穏やかで脈も安定している。これこそまさに、人間を卑しいものにしているのではないか。かくも多くの人が二つのまったく違う顔をもち、一つはわたしの前にあってもう一つはわたしの背後にある。かくも多くの人が、わたしの前では生まれたばかりの子羊のように振る舞いながら、わたしの背後にいるときは獰猛な虎と化し、その後は丘を楽しく飛び回る小鳥のように振る舞っている。かくも多くの人がわたしの前で抱負と決意を示す。かくも多くの人がわたしの言葉を切に渇望してわたしの前に来るが、わたしの背後では、わたしの発する言葉が邪魔物ででもあるかのように、それらにうんざりして捨て去っている。じつに何度も、人類がわたしの敵に堕落させられるのを見て、わたしは人間に希望を託すことを諦めた。じつに何度も、人間がわたしの前に来て、涙ながらに赦しを乞い求めるのを見てきたが、人間の自尊心の欠如と度し難い頑固さに、たとえ彼らの心が本物で、その意図が誠実だったとしても、わたしは怒りの中で目を閉じてきた。じつに何度も、人間がわたしに協力するだけの信心をもっているのを見てきたが、彼らはわたしの前にいるとき、わたしに抱かれ、そのぬくもりを味わっているかのようである。じつに何度も、わたしの選民の無垢さ、活発さ、愛らしさを見てきたが、そうした様子に大きな喜びを感じずにいられようか。人間は、わたしの手の中にある、あらかじめ定められた恵みをどう享受すればよいか知らない。なぜなら、「祝福」および「苦しみ」とはいったい何かを理解していないからである。そのため、人間はわたしのことを求めるにあたり、まったく誠実ではない。仮に明日が存在しなければ、わたしの前に立つあなたがたの誰が、降りしきる雪のように白く、翡翠のように無垢であるだろうか。わたしに対するあなたの愛は、おいしい食事や上等な衣服、あるいは高給を伴う高い地位と引き換えられるものだというのか。他人があなたに抱く愛と交換できるものなのか。試練を経たせいで、人間がわたしへの愛を捨て去るということなのか。苦難と艱難のせいで、人間がわたしの采配について文句を言うようになるのか。わたしの口の中にある剣を本当に味わった者は誰もいない。人間は表面的な意味しか知らず、そこに伴うものを本当に把握してはいない。仮に人間が本当にわたしの剣の鋭さを見ることができたなら、ネズミのように穴に逃げ込むだろう。人間は鈍感なので、わたしの言葉の真の意味を何一つ理解できない。そのため、わたしの発する言葉がどれほど恐るべきものであるかも、人間の本性をどれほど暴くかも、自分自身の堕落がそれらの言葉によってどれほど裁かれてきたかも、まるでわかっていない。そのため、わたしの言葉に対する生半可な理解の結果、大半の人は中途半端な態度をとってきたのだ。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)

117. 長い間に、大勢が失望して、しぶしぶこの世を去った。そして大勢が希望と信じる心を持ってこの世に来た。わたしは大勢が来るようにし、大勢を去らせた。無数の人々がわたしの手を通り過ぎた。多くの霊がよみに投げ込まれ、多くが肉の体で生き、多くが死んでは、この世に生まれ変わった。しかし、けっして誰も今日の神の国の祝福を受ける機会は得なかった。わたしは人間に実に多くを与えた。しかし、人間はほんのわずかしか得ていない。サタンの勢力が襲ってきて、人間がわたしの富を享受できないようにしたためだ。人間は、目にする幸いを得たが、けっして完全に享受することはできなかった。人間は、天からの富を受け入れる宝庫をその体の中に発見することがなかった。そのため、わたしが与えた祝福を失ったのだ。人間の霊はまさに、自分とわたしの霊を繋ぐためのものではないか。なぜ人間は、けっしてその霊においてわたしにつながることがないのか。なぜ人間は肉においてわたしに近づきながら、霊においては、そうできないのか。わたしの真の顔は、肉のものなのか。なぜ人間はわたしの本質を知らないのか。人間の霊には、わたしの痕跡がほんとうに存在しないのか。わたしは人間の霊から完全に消え去ったのか。もし人間が霊界に入らないのなら、どうしてわたしの意図が把握できよう。人間の目には、霊界を直接見通すことのできる力があるとでもいうのか。わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしに突き刺されたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そのため、人間はわたしを締め出し、わたしは、固く閉ざされた冷たい「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。わたしは人間に強制しない。わたしの働きをするだけだ。陸地のすべての富を楽しみ、海に飲み込まれる危険から解放されようと、いつの日か人間は大海原をわたしに向かって泳ぐことだろう。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十章」(『言葉』第1巻)

118. あなたがたの信仰はとても美しい。あなたがたは喜んで自分の一生をわたしの働きのために費やし、自分の生命をそのために捧げると言う。しかし、あなたがたの性質はあまり変わっていない。実際の振る舞いは惨めそのものなのに、あなたがたはただ傲慢に語る。まるで、人の舌と唇は天国にあるが、足は遥か下の地上にあるかのようで、それゆえ、人の言動と評判は依然ずたずたになったままである。あなたがたの評判は崩れ、行儀はひどく、話し方は卑しく、生活は嘆かわしい。あなたがたの人間性全体が卑しい低劣さに沈み込んでいる。他人に対して心が狭く、些細なことの一つひとつにうるさいほどこだわる。自分の評判や地位のことで口喧嘩し、そのためには地獄や火の湖に落ちることすら辞さない。あなたがたの現在の言動だけで、わたしがあなたがたを罪深いと断定するのに十分である。わたしの働きに対するあなたがたの態度は、あなたがたを不義な人と判断するのに十分で、あなたがたのすべての性質は、あなたがたが忌まわしいものに満ちた穢れた魂であると指摘するのに十分である。あなたがたが示すものや表わすものは、あなたがたが穢れた霊の血をたっぷり飲んだと判断するのに十分である。神の国に入ることの話になると、あなたがたは感情を露わにしない。今の自分のあり方が、天にあるわたしの国への門を通るに相応しいと信じているのか。自分の言動がまずわたしに試されなくても、自分はわたしの働きと言葉の聖なる地に入れると信じているのか。誰がわたしの目をうまく欺けるというのか。あなたがたの卑劣で下賤な行動や会話が、どうしてわたしの目から逃れられようか。わたしはあなたがたの生活を、穢れた霊の血を飲み肉を喰らう生活だと判断した。なぜなら、あなたがたは毎日わたしの前で穢れた霊を模倣するからである。わたしの前で、あなたがたの振る舞いはとりわけひどかった。どうしてそれに嫌悪を抱かずにいることができようか。あなたがたの言葉には穢れた霊の不純さが含まれている。魔術を行なう者、または不義な者の血を飲む不実な者のように、あなたがたは騙し、隠し、お世辞を言う。人間の表わすものはどれも極めて不義である。それならば、義なる人のいる聖なる地にどうしてあらゆる人が置かれ得るのか。あなたの卑劣な振る舞いが、不義な人に比べてあなたが聖なる人であると区別できるとでも思うのか。あなたの蛇のような舌は、破滅と嫌悪を引き起こすあなたのその肉体をやがて滅ぼす。穢れた霊の血で覆われたあなたのその手もまた、あなたの魂をやがて地獄へと引きずり込む。それなのになぜ、穢れに覆われた自分の両手を清めるこの機会に飛びつかないのか。なぜこの機会を利用して、不義の言葉を語るその舌を切り取らないのか。自分の手、舌、唇のために地獄の炎で苦しむ覚悟があるということなのか。わたしは両目であらゆる人の心を見守り続ける。人類を創造する遥か以前、わたしは自らの手中に人の心を掴んでいたからである。わたしは遥か昔に人間の心を見通していた。どうして人の思いがわたしの目から逃れられようか。わたしの霊に焼かれることから逃れるには遅すぎないということがどうしてあり得ようか。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

119. あなたの唇は鳩より優しいが、あなたの心は古い蛇より悪意がある。あなたの唇はレバノンの女性のように愛らしいが、あなたの心は彼女らに比べて優しくはなく、カナン人の美しさと比較にならないことは言うまでもない。あなたの心はあまりに不誠実である。わたしが忌み嫌うのは、不義な人の唇とその心だけである。わたしの人への要求は、わたしが聖人に期待するものよりも高くはない。わたしは不義な人の邪悪な行ないに嫌悪を覚える。わたしが望むのは、彼らが不義な人と一線を画し、義なる者たちと共に生き、共に聖なる者となれるよう、自分の穢れを捨て去り、現在の窮地から脱出できるようになることである。あなたがたはわたしと同じ状況にいるが、あなたがたは穢れで覆われている。創造当初の人間と少しも似ていない。さらに、あなたがたは毎日穢れた霊に倣い、穢れた霊と同じ行動をとり、同じことを言っているので、あなたがたのあらゆる部分、舌や唇までもが穢れた霊の汚水に浸っていて、そのような染みですっかり覆われており、わたしの働きに用いることのできる部分が一つもないほどである。これは実に悲しいことである。馬や牛のそうした世界に住んでいながら、あなたがたは平気でいる。しかも喜びに満ち溢れ、自由かつ気楽に生きている。その汚水の中で泳ぎ回っていながら、自分がそのような窮地に陥ってしまったことに実際に気づいていない。毎日穢れた霊と付き合い、「糞便」と交流する。あなたの生活は実に下品だが、自分が人間の世界には絶対に存在していないこと、自分自身を制御していないことに実際に気づいていない。あなたの人生はとうの昔にそれらの穢れた霊に踏みにじられ、人格はとっくに汚水で汚れてしまっていることを知らないのか。自分が地上の楽園に生き、幸福のただ中にいるとでも思っているのか。穢れた霊と人生を共にし、穢れた霊があなたに用意したあらゆるものと共存してきたことを知らないのか。あなたの生き方に意味などあろうか。あなたの人生に価値などあろうか。穢れた霊である両親のために今まで忙しく走り回って来たが、あなたを陥れたのがあなたを生み、育てた穢れた霊である両親だとは知らないでいる。さらには、自分のあらゆる穢れが実際には彼らから与えられたものだと気づかず、彼らは「楽しみ」をもたらせるものの、自分を罰することも裁くこともなく、呪うことなど特にしないということしか、あなたは知らない。彼らがあなたに怒りを爆発させたことはなく、あなたを愛想良く、親切に扱う。彼らの言葉はあなたの心を養い、あなたを虜にし、そのためあなたは迷い、知らず知らずのうちに引き込まれ、進んで彼らに尽くすようになり、彼らのはけ口、しもべとなる。あなたは不平一つ言わず、犬や馬のごとく彼らのために喜んで働こうとする。あなたは彼らに惑わされている。それゆえ、わたしが行なう働きにあなたは決して反応しない。いつも密かにわたしの手からすり抜けたがるのも、またわたしの好意を騙し取るためにいつも甘い言葉を使いたがるのも、不思議ではない。結局のところ、あなたにはすでに別の計画、別のはかりごとがあったのだ。あなたは全能者としてのわたしの行ないをわずかに見ることができるものの、わたしの裁きと刑罰については微塵も知らない。わたしの刑罰がいつ始まったのかを知らず、知っているのはいかにしてわたしを騙すかだけであり、わたしが人間の違背を一切容赦しないことは知らない。あなたはもうわたしに仕える決意を固めているので、わたしはあなたを手放さない。わたしは悪を嫌う神であり、人類に嫉妬する神である。あなたはすでに祭壇で誓ったのだから、あなたがわたしの目の前で逃げ出すことも、二人の主人に仕えることも許しはしない。わたしの祭壇で、わたしの目の前で誓った後に、二番目の愛する対象をもてると思ったのか。人がそのようにわたしを笑いものにすることを、わたしが許すことなどあろうか。あなたは自分の舌でわたしに軽々しく誓いを立てられるとでも思ったのか。いと高き者であるわたしの玉座に誓いを立てることなどどうしてできたのか。誓いなどすでに消え去ったとでも思ったのか。あなたがたに言っておくが、たとえあなたがたの肉体が消え去ろうとも、あなたがたの誓いが消えることはあり得ない。最後にわたしは、あなたがたの誓いに基づいてあなたがたを断罪する。しかし、あなたがたは言葉をわたしの前に置くことでわたしに対処できると信じ、自分の心は穢れた霊と邪悪な霊に仕えることができると考える。わたしを騙すこうした犬や豚同然の人間を、どうしてわたしの怒りが容赦できようか。わたしは行政命令を執行し、わたしを信じるこれらの堅苦しく「敬虔な」者たちを穢れた霊どもの手から奪い返さなければならない。そうすることで、彼らは規律正しくわたしに「仕え」、わたしの役牛となり、馬となり、わたしのなすがままに殺される。わたしはあなたに以前の決意を取り戻させ、もう一度わたしに仕えさせる。わたしを騙すどのような被造物も許さない。あなたはわたしにただ気まぐれに要求し、わたしの前で嘘をつくことができると思ったのか。あなたの言動をわたしが見聞きしていないとでも思ったのか。あなたの言動がわたしの目に触れないことなどあるはずがない。人がそのようにしてわたしを騙すことを、どうしてわたしが許せようか。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

120. わたしはずっとあなたがたの間にいて、いくつかの春と秋をあなたがたと付き合いながら過ごしてきた。わたしは久しくあなたがたのもとで暮らし、共に生きてきた。あなたがたの卑劣な振る舞いのどのくらいが、わたしの目の前をすり抜けただろうか。あなたがたの心からの言葉は常にわたしの耳に響いている。わたしの祭壇の上に、あなたがたは何百万もの望みを並べた。多すぎで数えられないくらいである。にもかかわらず、あなたがたの献身、費やしたものといえば皆無である。あなたがたはひとしずくの誠意すらわたしの祭壇に捧げていない。わたしへの信仰の実りはどこにあるのか。あなたがたは無限の恵みをわたしから受け、果てしなく続く天の奥義を見た。わたしは天の炎さえもあなたがたに見せたが、あなたがたを焼き尽くす心をもったことはない。それなのに、あなたがたは代わりにどれほどわたしに与えたというのか。どれほどのものを進んでわたしにくれるのか。わたしが与えた食物を手に、振り返ってそれをわたしに捧げる。しかも、それは自分が汗水たらして得たもので、自分がもつすべてのものを捧げているのだと言わんばかりである。あなたからわたしへの「寄付」はどれもわたしの祭壇から盗まれたものだと、あなたはどうして知らないのか。さらに、今そのようなものをわたしに捧げて、わたしを騙しているのではないか。今日わたしが享受するものは、すべてわたしの祭壇に捧げられたものであり、あなたが苦労した見返りとして手に入れ、わたしに差し出したものではないのだと、どうしてわからないのか。あなたがたは実際に厚かましくもわたしをこのように騙しているのだから、どうしてわたしがあなたがたを許せようか。こうしたことにわたしがさらに耐え続けられると、どうしてあなたがたは思えるのか。わたしはあなたがたにすべてを与えた。わたしはあなたがたにすべてを開放し、必要を満たし、あなたがたの目を開いた。にもかかわらず、あなたがたは自分の良心を無視してわたしをこのように騙す。わたしは無欲になってあなたがたにすべてを与えた。たとえあなたがたが苦しんでも、わたしが天からもたらしたすべてのものを得られるようにするためである。それなのに、あなたがたには献身が一切なく、ほんの少し寄付したとしても、後になってわたしと「精算」しようとする。あなたが捧げたものなど無に等しいのではないのか。自分は砂粒ひとつだけを差し出しておいて、わたしに一トンの金を要求してきた。あなたは理不尽そのものではないか。わたしはあなたがたの間で働きを行なう。わたしの受けるべき一割はその形跡すら絶対になく、追加の犠牲などもちろんない。さらには、信心深い者たちの捧げた一割は悪い者が取り上げている。あなたがたはみなわたしから離れているのではないか。みなわたしに敵対しているのではないか。みなわたしの祭壇を破壊しているのではないか。そのような者たちがわたしの目に宝と映ることなどあり得ようか。彼らはわたしの嫌う豚や犬ではないのか。あなたがたの邪悪な行ないを宝物と呼ぶことなどどうしてできようか。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

121. あなたがたの理解力の及ばない道、あなたがたが理解しない事柄がたくさんある。あなたがたはそれほど無知なのだ。わたしはあなたがたの霊的背丈と欠点をよく知っている。従って、たとえあなたがたが吸収できないであろう言葉がたくさんあっても、わたしはあなたがたがこれまで決して会得しなかったこれらの真理のすべてをあなたがたに話したい。あなたがたの現在の霊的背丈では、わたしの証人になれるかどうか心配し続けているからである。あなたがたをみくびっているわけではない。あなたがたは皆、わたしの正式な訓練を受けていない獣であり、あなたがたの中にどのくらい栄光があるかは実に疑わしい。あなたがたに働きかけるためにわたしは多くの精力を注ぎ込んできたが、あなたがたに積極的な要素は事実上存在せず、消極的な要素は指折り数えることができ、サタンに恥をかかせる証しとしてしか役立たない。それ以外にあなたがたのなかにあるもののほとんどすべてはサタンの毒である。わたしにはあなたがたが救いようもないように見える。目下のところ、わたしはあなたがたのさまざまな表現や態度を見て、ようやくあなたがたの本当の霊的背丈を知った。だからわたしはあなたがたのことを心配し続けている。思うままに暮らすよう放置されたら、人は本当に最終的には今日よりも良い、あるいは今日と同じくらいの状態でいられるだろうか。あなたがたは自分の子供じみた霊的背丈が心配ではないのか。あなたがたは本当にイスラエルの選民のようになり、どのようなときでもわたしに、わたしだけに忠実になることができるのか。あなたがたが今見せているのは、親の目の届かないところにいる子供のいたずら好きな特質ではなく、主人のむちの届かないところで動物に沸き起こる獣性である。あなたがたは自分の本性を知るべきで、それはあなたがたすべてが共有している弱点、共通の病気でもある。したがって、今日わたしからあなたがたへの唯一の忠告は、わたしの証人になることである。いかなる事情があろうとも、古い病気を再発させてはいけない。もっとも重要なのは、証しをすることである。それがわたしの働きの核心である。あなたがたは、マリアが夢に現れたヤーウェの告知を受け入れ、信じて、従ったように、わたしの言葉を受け入れるべきである。これだけが精神的に純潔であるとみなされる。なぜならあなたがたはわたしの言葉を一番多く聞く人々であり、わたしによってもっとも祝福される人々だからである。わたしはあなたがたにわたしの貴重な所有物すべてを与え、すっかり何もかもあなたがたに授けよう。しかしながら、あなたがたの地位とイスラエルの人々の地位は非常に異なり、完全に天と地ほどもかけ離れている。それにもかかわらず、彼らに比べると、あなたがたはずっと多くのものを受け取っている。彼らが必死にわたしの出現を待っている一方、あなたがたはわたしと共に愉快な日々を過ごし、わたしの富を共有している。比較すると、何があなたがたに、不平を言い、わたしと口喧嘩し、わたしの所有物の分け前を要求する権利を与えているのか。あなたがたは十分受け取っていないのか。わたしは多くを与えているが、あなたがたがお返しにわたしにくれるものは悲痛な悲しみと不安、それに手に負えない恨みと不満である。あなたがたはあまりにも不快だが、同時に哀れでもある。よってわたしは憤りをすっかり吞み込んで、あなたがたに繰り返し反対の声を上げるしかない。この数千年にわたる働きにおいて、これまでわたしが人類にまったく異論を唱えなかったのは、人類の発展の歴史上で、あなたがたの間の偽りだけがもっとも有名であることに気づいたからである。偽りは、古代の有名な先祖によってあなたがたに残された貴重な継承物のようなものである。わたしはそれらの人間以下の豚と犬をどれだけ憎むことか。あなたがたはあまりにも良心に欠けている。あなたがたの性格はあまりにも卑劣である。あなたがたの心はあまりにも無情である。もしわたしがこれらのわたしの言葉、わたしのこの働きをイスラエル人にもたらしたら、わたしはずっと以前に栄光を獲得していただろう。しかし、あなたがたの間ではそうはいかない。あなたがたの間には、残酷な無視、あなたがたの冷たい態度、あなたがたの言い訳しかない。あなたがたはあまりにも感情がなく、あまりにも価値がない。

『神の出現と働き』「神に対するあなたの認識はどのようなものか」(『言葉』第1巻)

122. 過去のことを思い出してみなさい。あなたがたに対して、いつわたしの目が怒りに満ちており、わたしの声が厳しかったか。いつわたしがあなたがたに些細なことを言い立てたか。いつわたしがあなたがたを理不尽に叱責したか。いつわたしがあなたがたを面と向かって叱責したか。わたしの働きのために、わたしが父にあなたがたをすべての誘惑から守ってくれるように頼むのではないか。なぜあなたがたは、わたしをこのように扱うのか。わたしが、あなたがたの肉体を撃つためにわたしの権威を使ったことがあるだろうか。なぜあなたがたはそのようにわたしに報いるのか。わたしに対する態度をころころ変えた後、あなたがたは熱くも冷たくもない。そしてあなたがたはわたしを騙し、わたしから物事を隠そうとする。あなたがたの口は不義の唾液で満ちている。あなたがたは自分の舌でわたしの霊をだませると思うのか。あなたがたの舌がわたしの怒りを逃れられると思うのか。あなたがたは、あなたがたの舌が思いのままに、わたしヤーウェの業を裁いてもよいと思うのか。わたしは人によって裁きを下される神であろうか。小さな蛆虫がこのようにわたしを冒涜するのを、わたしがどうして許せようか。どうしてこのような不従順の子たちをわたしの永遠の祝福の中に置けるだろうか。あなたがたの言葉と行いは、ずっと前にあなたがたを暴露し、罪に定めた。わたしが天を拡げ、万物を創造したとき、わたしはどの被造物にも思いのままに介入することを許さず、ましてや、どんなに望もうと、何ものにもわたしの働きとわたしの経営を妨げさせたりなどしなかった。わたしは人間にも物にも容赦しなかった。わたしに対して残虐で非人道な者をどうして見逃せるだろうか。どうしてわたしの言葉に逆らう者を赦せるだろうか。どうしてわたしに対して不従順な者を見逃せるだろうか。人間の運命は全能者であるわたしの手の中にあるのではないか。わたしがどうしてあなたの不義と不服従を聖であると見なせるだろうか。どうしてあなたの罪がわたしの聖さをけがせるだろうか。わたしは不義の汚れによってけがされることはなく、不義の者の捧げものを喜ぶこともない。あなたがわたしヤーウェに忠実であるのなら、わたしの祭壇のいけにえを取って自分のものとすることなどできるだろうか。あなたは毒のある舌を使って、わたしの聖なる名を冒涜できるだろうか。このようにわたしの言葉に反逆できるだろうか。わたしの栄光と聖なる名を悪い者であるサタンに仕える道具として扱えるのだろうか。わたしのいのちは聖なる者たちの喜びのために与えられた。あなたの思いのままにわたしのいのちをもてあそび、それをあなたがた同士の争いの道具として使うのを、どうしてわたしが許せようか。どうして善を行うこととわたしに対する態度がそのように無慈悲で欠けが多いのか。わたしがすでにこれらのいのちの言葉にあなたがたの悪行を書き付けたことを知らないのか。あなたがたは、わたしがエジプトを罰する怒りの日から、どうして逃れることができようか。あなたがたがこのように何度もわたしに敵対して反逆すること、どうしてわたしが許せるだろう。はっきり言うが、その日が来ると、あなたがたへの刑罰は、エジプトのそれよりも耐えがたいものになるだろう。わたしの怒りの日をどうして逃れられようか。

『神の出現と働き』「血肉に属する者は誰も怒りの日から逃れられない」(『言葉』第1巻)

123. 人が神を得ることができないのは、神が感情を持っているからでも、神が人に得られたくないからでもなく、人が神を得たくないからであり、人が切迫して神を探し求めないからである。本当に神を探し求める人がどうして神に呪われることがあり得ようか。健全な理知と繊細な良心を持つ人がどうして神に呪われることがあり得ようか。本当に神を礼拝し、仕える人がどうして神の怒りの火によって破壊されることがあり得ようか。喜んで神に従う人がどうして神の家から追放されることがあり得ようか。神をどれほど愛しても愛しきれない人がどうして神の懲罰の中で生きることになり得ようか。喜んですべてを神のために断念する人がどうして無一文な状態になることがあり得ようか。人は神を追求したがらず、自分の所有物を神のために使いたがらず、生涯を通しての努力を神に捧げたがらず、それどころか、神はやり過ぎたとか、神には人の観念と対立する部分がありすぎるなどと言う。人間性がこのようでは、たとえあなたがたが努力を惜しまないとしても、神の承認を得ることはやはりできないだろうし、あなたがたが神を探し求めていないという事実は言うまでもない。あなたがたは自分が人類の不良品だということを知らないのか。あなたがたの人間性ほど卑しい人間性はないということを知らないのか。あなたがたの「称号」は何か知らないのか。本当に神を愛する人々はあなたがたをオオカミの父、オオカミの母、オオカミの息子、オオカミの孫息子と呼ぶ。あなたがたはオオカミの子孫、オオカミの民族である。あなたがたは自己の身分を知るべきであり、それを決して忘れてはならない。自分がなにか優れた人物だと考えてはならない。あなたがたは人類のなかで最も悪意がある非人間的なものの群である。あなたがたはこのことを全く知らないのか。あなたがたの中で働くことにより、わたしがどれほどの危険を冒しているか知っているだろうか。あなたがたの理知が正常に戻ることができず、あなたがたの良心が正常に働くことができなければ、あなたがたから「オオカミ」の名称が外されることは決してなく、呪いの日を免れることも決してなく、懲罰を受ける日を免れることも決してない。あなたがたは劣った生まれで、何の価値もない。本質的に飢えたオオカミの群、山積みのがらくたとごみである。あなたがたと違って、わたしがあなたがたに働きかけるのは甘い汁を吸いたいからではなく、その必要があるからである。あなたがたがこのように反抗的態度を続けるなら、わたしは働くのをやめ、二度と再びあなたがたに働き掛けることはない。それどころかわたしを喜ばせてくれる別の集団に働きを移し、このようにして永遠にあなたがたから離れる。なぜならわたしに敵対する人々を見たくないからである。では、あなたがたはわたしに味方することを望むか、それとも反目していたいか。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

124. 今日の道を歩む中で、どのような追求が最適だろうか。追求するという行為において、あなたは自身をどのような人間とみなすべきか。それが試練であれ、苦難であれ、あるいは無慈悲な刑罰と呪いであれ、あなたは自分に現在降りかかるすべてのことに対し、どう対処すべきかを知るようにならなければならない。そうしたことに直面したとき、どんな場合もそれらを熟慮すべきである。なぜわたしはこのようなことを言うのか。それは、現在あなたに降りかかっていることが、詰まるところ、幾度となく生じる短期間の試練だからである。おそらくあなたに関する限り、それらはさほど精神的に負担の大きいものではなく、それゆえあなたは物事を自然の成り行きに任せており、こうした試練を自身の進歩を追求するための貴重な財産とみなしていない。あなたは何と軽率なのか。あなたはこの貴重な財産を、あたかも目の前に漂う雲であるかのように捉えるほどであり、幾度となく降り注ぐこれらの苛酷な打撃、あなたにとっては軽く思える束の間の打撃を大事にせず、むしろ冷然と傍観するだけで、深く心に刻んでおらず、単なる偶然の打撃としてしか扱わない。あなたはあまりにも傲慢である。幾度となく襲いかかる、嵐にも似たこれらの荒々しい攻撃に対し、あなたはそれを平然と無視するだけで、時には冷笑を浮かべてまったく無関心な表情を見せることさえある。と言うのも、自分がなぜこのような「不運」に何度も苦しむのかについて、胸の内で一度も考えたことがないからである。わたしが人間に対してひどく不公平だということなのか。わたしはあなたのあら探しを自分の仕事にしているのか。あなたの心構えに関する問題は、わたしが言い表したほど深刻ではないかもしれないが、あなたは表面的な平静さを通じて、随分前から自分の内なる世界の完全な像を描いてきた。言うまでもなく、あなたの心の奥底に隠されているのは無分別な悪口雑言と、他人がかろうじて気づくほどのかすかな悲哀の痕跡だけである。なぜなら、あなたはそのような試練を受けてきたのがあまりにも不当なことだと感じており、悪態をつくからである。またそうした試練によってこの世の惨めさを感じ、憂鬱な気持ちでいっぱいになっているからである。これらの繰り返される打撃や懲らしめの行為を最善の加護とみなすのではなく、天からもたらされる無意味な厄介事、あるいは自分にふさわしい天罰とみなしている。あなたはあまりにも無知である。あなたは素晴らしい時間を無情にも暗闇に閉じ込め、素晴らしい試練と懲らしめの行為を敵からの攻撃とみなすことが度々ある。自分の環境にどう適応すべきか知らず、ましてや進んで知ろうともしない。と言うのも、あなたは繰り返されるこの刑罰、あなたにとって残酷なこの刑罰から何も得ようとしないからである。探そうとも探ろうともせず、ただ自分の運命を甘受しつつ流れに身を任せている。あなたにとって野蛮な懲らしめと思える行為によって、あなたの心が変わることもなければ、心を奪われたこともない。それどころか、あなたの心は傷ついた。あなたはこの「残酷な刑罰」をこの人生における敵とみなすだけなので、何も得ていない。あなたはあまりにも独り善がりである。自分の卑劣さのためにこのような試練を経験しているとはほとんど考えない。むしろ、自分は不運だと考えており、さらには、わたしがいつも自分のあら探しをしていると言う。物事がこの段階に至った今、あなたはわたしの言動について実際にどれほど知っているのか。自分は生まれながらの天才で、天より少し低いものの、地よりは無限に高いなどと考えないことだ。あなたは他の人ほど賢くないどころか、理知ある地上の誰にも増して、ほれぼれするほど愚かだとさえ言えるだろう。なぜなら、あなたは自分を過大評価しており、わたしの行動の些細な点まで見抜けるとでもいうように、いまだかつて劣等感をもったことなどないからだ。しかし実際には、あなたは根本的に理知を欠いた人である。なぜなら、わたしが何を行なうつもりなのかをまったく知らず、ましてやわたしが現在していることに気づいていないからだ。だからこそわたしは言う。あなたは懸命に働く年老いた農夫にも匹敵しない。人生というものを一切自覚していないにもかかわらず、天の祝福に頼り切って土地を耕している、そのような農夫にも匹敵しないのだ。自分自身の人生について再考することがなく、誉れとは何であるか一切知らず、ましてや自己認識など持ち合わせていない。あなたはあまりに「立派」である。

『神の出現と働き』「学習しない無知な者たち。彼らは獣ではなかろうか」(『言葉』第1巻)

125. 中には身なりの美しい人もいるが、それは表面だけである。姉妹は花のように美しく身を飾り、兄弟は王子や裕福な若い洒落者のように着飾っている。彼らは食べるものや着るものといった外面的なことにしか注意を払っておらず、内面はまったく貧困で、神についての認識など一切ない。これは一体何を意味するのか。また他には貧しい乞食のような身なりの人もいて、まったく東アジアの奴隷のようである。わたしがあなたがたに求めていることが本当にわからないのか。お互いに交わって、自分たちが実際に何を得たのか話し合ってみなさい。あなたがたは長年神を信じていながら、収穫したものがこれだけだとは、情けないと思わないのか。恥ずかしくはないのか。長年真の道において追求していながら、今日あなたがたの霊的背丈はまだ雀にも及ばない。あなたがたのうちの若い女性を見てみなさい。服や化粧で絵のように美しく、お互いを比べ合っているが、一体何を比べているのか。自分の楽しみか、自分の求めるものか。わたしがモデルを雇いに来たとでも思っているのか。あなたがたは恥を知らない。いのちはどこにあるのか。あなたがたが追求しているのは、ただ自分の度を越した望みだけではないか。あなたは自分をとても美しいと思い、あらゆる装飾品で着飾ってはいても、実際には糞の山の中に生まれたうじ虫ではないのか。今日あなたが運良くそうした天国の祝福を楽しんでいるのは、あなたの可愛らしい顔のおかげではなく、神があなたを例外的に高く上げているからである。自分がどこから来たか、まだはっきりとわからないのか。いのちの話になると、口を閉ざして何も言わず、像のように黙り込んでしまうが、それでいて厚かましく着飾りはする。顔に紅やおしろいで化粧をしたがる。そしてあなたがたのうちの洒落者を見てみなさい。わがまま男で一日中ぶらつき回り、粗暴で、顔には無関心な表情を浮かべている。これが人のあるべき様子か。あなたがたは一人一人、男も女も、一日中何に専念しているのか。自分が食べていくのに誰に頼っているか知っているのか。自分の衣服を、その手に刈り入れたものを見て、自分の腹をなでてみなさい。長年の信仰の中で支払った血と汗という代価から何を得たのか。まだ観光に出かけたり、その悪臭を放つ肉を飾り立てたりするという、無価値なことを追求している。正常な人間であることを求められているのに、異常であるだけでなく、完全に常軌を逸している。そのような人物が、どうして図々しくもわたしの前に来れるのか。このような人間性で、自分の魅力を見せびらかし肉を見せつけて、常に肉の欲望の中に生きている。汚れた霊や悪霊の子孫ではないのか。わたしはそのような汚れた霊をいつまでも存在させてはおかない。あなたが心の中で考えていることを、わたしが知らないなどと思わないことだ。欲望や自分の肉をしっかりと抑制しているかもしれないが、その心の中に抱いている思いをわたしが見抜けないことがあるだろうか。あなたの目が望むものすべてを、わたしが知らないことがあるだろうか。あなたがた若い女性が自分をそれほどきれいにみせているのは、肉を見せびらかすためではないのか。男性はあなたがたにとって何の益があるのか。男性があなたがたを苦痛の海から本当に救ってくれるのか。あなたがたのうちの洒落男は、みな紳士らしく立派に見えるよう着飾っているが、それは颯爽とした外見に注意を惹くための策略ではないのか。誰のためにそうしているのか。女性はあなたがたにとって何の益があるのか。女性はあなたがたの罪の根源ではないのか。あなたがた男性にも女性にも、わたしは多くの言葉を語ったが、あなたがたはそのごく一部にしか従っていない。あなたがたの耳はよく聞こえず、目は衰えてかすみ、心は頑ななためもはや体の中には欲望しかなく、体という罠にとらわれて逃げることができずにいる。誰があなたがたのような汚物と垢の中をうごめくうじ虫に近寄りたいと思うのか。あなたがたはわたしが糞の山から引き上げた者以上のものではなく、生来正常な人間性を備えていなかったことを忘れてはならない。わたしがあなたがたに求めるのは、あなたがたが生来備えていなかった正常な人間性であり、欲望を見せびらかすことでも、長年にわたって悪魔の訓練をうけた悪臭を放つ肉を野放しにすることでもない。そのように着飾って、さらに深い罠に陥ることが怖くないのか。自分が本来、罪に属していたことを知らないのか。自分の体が欲望に満たされ切っていて、服の上からもそれが滲み出し、耐え難く醜悪で汚れた霊である状態を露わにしていることを知らないのか。あなたがたはこのことを誰よりもよく知っているのではないのか。あなたがたの心、目、唇は、すべて汚れた霊に汚されているのではないのか。それらの部分は汚れていないのか。行動しない限り、自分はもっとも聖いと思っているのか。美しい衣服で身を飾れば、下劣な魂を覆い隠せると思っているのか。そんなことは不可能である。あなたがたにはもっと現実的になるよう忠告する。欺瞞に満ちた偽物になることをやめ、自分自身を見せびらかすこともやめなさい。あなたがたは互いに自分の欲望をひけらかしているが、その見返りに得るものは、とめどない苦しみと無慈悲な懲らしめだけである。なぜ互いに目を瞬かせて恋愛にふける必要があるのか。それがあなたがたの品位の尺度、公正さの度合いなのか。あなたがたのうちで邪悪な医術や魔術に手を染めている者をわたしは嫌悪する。あなたがたのうちで自身の肉を愛する若い男女を嫌悪する。自分を抑えたほうがよい。なぜならあなたがたは今や正常な人間性を持つことを求められており、欲望を見せびらかすことは認められないからである。なのにあなたがたはあらゆる機会を利用する。あなたがたの肉があまり余って、欲望が大きすぎるからである。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

126. 自分の肉のことしか考えず安楽を喜ぶ者、信じているように見えても本当は信じていない者、邪悪な医術や魔術に手を染めている者、淫らでぼろぼろでみすぼらしい者、ヤーウェへの生贄や神が所有するものを盗む者、賄賂を愛する者、何もせずただ天国へ昇ることを夢見る者、傲慢でうぬぼれて個人的な名声や富のためにしか努力しない者、尊大な言葉を広める者、神自身を冒涜する者、神自身を批判し中傷してばかりいる者、党派を組んで独立しようとする者、自分を神以上に崇める者、放蕩に耽る軽薄な若者や中年や高齢の男女、人のもとで個人的な富や名声を楽しみ個人的な地位を求める男女、罪に囚われて悔い改めない者、これらはすべて救いようのない者ではないのか。放蕩、罪深さ、邪悪な医術、魔術、冒涜、尊大な言葉はすべて、あなたがたの間にはびこっている。真理といのちの言葉はあなたがたの只中で踏みにじられ、聖なる言葉はあなたがたの間で汚されている。汚れと不従順で膨れ上がった異邦人たちよ! あなたがたの最終的な結末はどうなるのか。肉を愛し、肉の魔術にふけり、放蕩の罪に陥っている者が、どうして図々しくも生き続けようというのか。あなたがたのような人は救いようのないうじ虫だということを知らないのか。一体何の資格があって、あれやこれやと要求するのか。今日に至るまで、真理を愛さず肉だけを愛する者にはほんのわずかな変化も起こっていない。そのような者がどうして救われようか。いのちの道を愛さず、神を崇めて証しせず、自分自身の地位のために策略を巡らせ、自分を褒めそやす者は現在も同じままではないのか。彼らを救うことに何の価値があるというのか。救われるかどうかは、どれほど年長であるかや、何年間働いてきたかによって決まるものではなく、ましてやどれほどの経歴を積み重ねてきたかによって決まるものでもない。そうではなく、追求が実を結んだかどうかによるのである。救われる者は実を結ぶ「木」であり、葉が青々と茂り花を豊かに咲かせてはいても、実をつけない木ではない、ということを知りなさい。何年も街中をぶらついてきたからといって、何の意味があろうか。あなたの証しはどこにあるのか。あなたの神への畏敬の念は、自己愛や好色な欲望よりもはるかに小さい。このような人は堕落者ではないのか。そのような人が、どうして救いの見本、模範となれるというのか。あなたの本性は矯正のしようがなく、あなたはあまりに反逆的で救いようがない。そのような人は排除されるのではないのか。わたしの働きが終わるのは、あなたの終わりの日が到来するときではないのか。わたしはあなたがたのもとで多くの働きを行い、多くの言葉を語ってきたが、そのうちのどれほどが本当にあなたがたの耳に入ったのか。そのうちのどれほどに従ってきたのか。わたしの働きが終わるときは、あなたがわたしに対抗しなくなるときであり、わたしに立ち向かわなくなるときである。わたしが働いていても、あなたがたは常にわたしに逆らい、決してわたしの言葉に従わない。わたしはわたしの働きを行うが、あなたはあなたの「働き」をして、自分の小さな国を作り上げている。あなたがたは狐や犬の群れでしかなく、すべてをわたしに反抗して行なっている。そしていつも、自分を一心に愛してくれる者を自分の腕の中に引き入れようとしている。あなたがたの畏敬の念はどこにあるのか。あなたがたのすることはすべてが欺瞞である。従順も畏敬もなく、することはみな欺瞞と冒涜に満ちている。そのような人が救われることができるのか。性的にふしだらで好色な男はいつも、自分の楽しみのためにいやらしい淫らな女を惹きつけたがっている。わたしは絶対にそのような性的にふしだらな霊を救わない。わたしはあなたがたのような汚れた霊を憎み、あなたがたはその好色さといやらしさのため地獄に落ちる。何か言うことがあるか。あなたがたのような汚れた霊や悪霊は本当に不快で、気分が悪くなる。このようなくだらない者が、どうして救われることができようか。いまだに罪に陥っている者が、まだ救われることができるのか。今日、この真理、この道、このいのちはあなたがたを惹きつけない。その反面、あなたがたは罪深さや金や地位や名声や利益に、肉の楽しみに、男の格好良さや女の魅惑に惹きつけられている。あなたがたはどんな資格があって、わたしの国に入れるというのか。あなたがたの姿は神の姿より偉大で、地位は神の地位よりも高く、人々の間での威信は言うに及ばず、あなたがたは人に崇められる偶像となっている。大天使になったのではないのか。人の結末が明らかにされるときは、救いの働きが終わりに近づくときでもあり、あなたがたの多くは救いのない屍となっており、排除されなければならない。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

127. 人間は自身を大切にしないので、価値のない見下げ果てた者だと言える。自分を愛することさえなく、それどころか自分を踏みにじるなら、自分に価値がないことを示しているのではないか。人類は自分をもてあそび、進んで他人に汚されようとする不道徳な女性のようである。たとえそうでも、人々は自分がどれほど卑しいかいまだにわからない。彼らは他人のために働くことや、他人と語らうことに喜びを感じ、こうして自ら他人の支配下に入る。これはまさに人類の汚さではないか。わたしは人類のあいだで人間の生活を経験していないし、真に人生を経験していないが、人間のあらゆる動き、あらゆる行動、あらゆる言葉、あらゆる行ないを極めて明確に理解している。わたしは人をこの上ない羞恥に晒し、彼らがもはや自分の陰険さを示したり、自分の欲望に譲歩したりしないようにすることさえできる。殻の中に引っ込むカタツムリのように、彼らはもはや自分の醜い状態をあえてさらけ出しはしない。人は自分自身を知らないので、その最大の欠点は、醜い顔つきを見せびらかしながら他人の前で自分の魅力を振りまこうとすることであり、これは神がもっとも嫌うことである。なぜなら、人間同士の関係が異常で、正常な人間関係が存在せず、ましてや人と神との正常な関係などないからである。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第十四章」(『言葉』第1巻)

128. 人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなたがたは今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」。これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました。サタンの行動は、全てサタン自身のためのものです。サタンは神を超越し、神から自由なり、自ら権力を振りかざし、神が創造した万物を所有したいのです。ゆえに、人間の本性はサタンの本性なのです。実のところ、多くの人の座右の銘は、その人たちの本性を表し、反映することができます。どんなに自分をごまかそうとしても、人の言動のすべてにおいて本性を隠すことなどできないのです。決して本当のことを語らず、見せかけに長けた人がいますが、他者がその人としばらく交流すれば、その人の不実な本性、完全な不誠実さが突き止められます。結局、他の人たちはある種の結論に至るでしょう。つまり、この人たちは本当のことを一言も語らず、嘘つきであると。この言葉が、そのような人の本性を物語っています。それはその人の本性と本質の最もよい説明であり、証拠でもあります。そのような人の処世哲学とは、誰にも真実を語らないこと、そして誰も信じないことです。人間のサタン的本性には哲学が大いに含まれています。あなた自身が気づきさえせず、理解していない場合もありますが、それでもあなたの人生の一瞬一瞬が、それにもとづいているのです。その上、あなたはこの哲学が正しく、理にかなっており、誤っていないと思っています。そのことは、サタンの哲学が人間の本性となり、人間がサタンの哲学に完全に従って生き、それに一切抗わないことを十分示しています。ですから、人はサタン的な本性を絶えず露呈し、あらゆる点において絶えず自らのサタン的な哲学に沿った生き方をしているのです。サタンの本性は人間のいのちなのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」(『言葉』第3巻)

129. 人間の本性はわたしの本質とまったく異なる。人間の堕落した本性はすべてサタンに由来しており、人間の本性はサタンに操られ堕落させられているからである。つまり人間は、サタンの邪悪と醜悪さの影響下で生きながらえている。人間は真理の世界や聖なる環境で育つものではなく、ましてや光の中で生きてはいない。ゆえに、誰も生まれつきその本性の中に真理を備えていることはあり得ず、ましてや神を畏れ神に従う本性を持って生まれることはあり得ない。その逆に、人間は神を拒み、神に反抗する本性を備えており、真理への愛は抱いていない。わたしが話したいのはこの本性、すなわち裏切りという問題についてである。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(2)」(『言葉』第1巻)

130. わたしに完全に従うことができない行為は裏切りである。わたしに忠実であることができない行為は裏切りである。わたしをごまかし、嘘でわたしを騙すことは裏切りである。多くの観念を抱き、至る所でそれらを広めることは裏切りである。わたしの証しと利益を護れないことは裏切りである。心の中ではわたしから遠く離れていながら、作り笑いを浮かべるのは裏切りである。こうした行為はすべて裏切りであり、あなたがたはこれまでいつもこうした行為が可能だったし、これらはあなたがたの間で当たり前のこととなっている。あなたがたの誰一人として、これを問題だと考える者はいないが、わたしはそうは考えない。わたしは自分に対する誰かの裏切りを些細なこととして扱うことはできず、無視することもできない。今、わたしがあなたがたの間で働きを行っているときに、あなたがたはこのように行動している。いつの日かあなたがたを見守る者がいなくなったら、あなたがたは皆、王様を名乗る山賊になるのではなかろうか。そのときが到来し、あなたがたが大惨事を引き起こしたとき、誰がその後始末をするのだろうか。あなたがたは、一部の裏切り行為は単なる一時的なもので、いつもそうしているわけではなく、そんなに深刻に捉えて、自分の自尊心を傷つけるには値しないと考えている。ほんとうにそう思っているのなら、あなたがたは正気でない。そのように考えることは、反逆の見本であり典型である。人間の本性とはその者のいのちであり、人が生存のために依存する原則で、人がそれを変えることはできない。裏切りの本性も同じであり、あなたが親戚や友人を裏切ることができるなら、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定できない。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(1)」(『言葉』第1巻)

131. 誰でも自分の言葉や行動により、自分の本当の顔を表すことができる。この本当の顔とはもちろん、その者の本性である。もしあなたがひねくれた話し方をするなら、あなたはひねくれた本性をしている。あなたの本性が狡猾なら、あなたは狡賢く振る舞い、人々を容易に手玉に取る。あなたの本性が陰険なら、あなたの言葉は聞こえが良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険さを隠せない。あなたの本性が怠惰なら、あなたの言う事はすべて自分のいい加減さや怠惰さの責任を逃れるためのものであり、あなたの行動は遅くおざなりで、真実を隠すことに長けている。あなたの本性が同情的なら、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理によく則したものになるだろう。あなたの本性が忠実なら、あなたの言葉は間違いなく誠実であり、あなたの行動のし方は堅実で、主人を不安にするようなことはない。あなたの本性が好色あるいは金銭に貪欲なら、あなたの心は大抵それらのことで一杯であり、人が簡単に忘れられず、かつ人に嫌悪感を与えるような、常軌を逸した不道徳な行動を無意識のうちにとるだろう。そしてさきほど言ったように、裏切りの本性を持っているなら、その本性から抜け出すことはまず不可能であろう。自分が誰にも不正を行ったことがないからといって、自分に裏切りの本性がないと楽観してはならない。そのように考えるなら、あなたは本当に胸がむかつくような人間だ。わたしが語る言葉は、その都度すべての人々に向けて語ったものであり、一個人や特定の種類の人間にだけ向けたものではない。あなたが一つのことについてわたしを裏切ったことがないからといって、別のことでわたしを裏切れないという証明にはならない。真理の追求においては、結婚生活での挫折の中で自信を失う人々もいる。また、家族の崩壊によってわたしへの忠誠の義務を投げ捨ててしまう人もいる。またつかの間の喜びや興奮を求めて、わたしを見捨てる人もいる。光の中に生き、聖霊の働きの喜びを自分のものとするよりも、暗い谷底に落ちることを選ぶ人もいる。またある人々は、富への欲を満たすために友人の助言を無視し、現在もなお自分の過ちを認めて道を正すことができずにいる。さらに、わたしの保護を受けるため一時的にわたしの名のもとで生きる人々もいれば、命にしがみつき死を恐れるために、やむを得ず少しだけ献身する者もいる。これらをはじめとする、不道徳かつ見苦しい行動は、まさに人々が心の奥底で長い間わたしを裏切ってきた行為ではなかろうか。もちろん、人々が前もってわたしを裏切ることを計画していたわけではないことは知っている。彼らの裏切りは彼らの本性の自然な現れなのだ。わたしを裏切りたいと思う者は誰もおらず、わたしを裏切るようなことをして喜ぶ者もいない。それどころか、彼らは恐怖に震えているではないか。ではあなたがたは、こうした裏切りをどうやって埋め合わせ、現在の状況をどうやって変えられるか、考えているだろうか。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(1)」(『言葉』第1巻)

132. あなたがたは泥から取り出され、何であれ、くだらない汚物から選ばれたものでできており、それは不潔で神に嫌われている。あなたがたはサタンに属しており、かつてはサタンに踏みにじられ汚された。だから、あなたがたは泥から取り出されたと言われるのである。また、あなたがたは聖くあるどころか、長い間サタンの策略の対象であった人間ではない物である。これがあなたがたについての最適な評価である。魚や海老のように好ましい捕獲物とは対照的に、あなたがたは自分がもともとよどんだ水や泥の中にある不純物であることを知らなければならない。喜びをもたらすようなものは一切あなたがたから出ないからである。単刀直入に言えば、あなたがたは低層社会における最も低劣な獣であり、豚や犬にも劣っている。率直に言えば、このようにあなたがたを呼ぶのは言い過ぎでも誇張でもなく、それは問題を単純に表現する。このように呼ぶのは、あなたがたに敬意を表する方法であるとさえ言うことができる。あなたがたの人としての見識、話し方、振る舞い、生活におけるあらゆる側面――泥の中におけるあなたがたの地位も含め――は、あなたがたの身分が「並外れている」ことを証明するのに十分である。

『神の出現と働き』「人に固有の身分と人の価値とはいったい何なのか」(『言葉』第1巻)

133. 人類はわたしの敵以外の何ものでもない。人類はわたしに対抗し、反逆する邪悪な者である。人類はわたしに呪われた邪悪な者の子孫以外の何ものでもなく、わたしを裏切った大天使の末裔以外の何ものでもない。人類ははるか昔にわたしに拒絶され、以来和解し難い敵となった悪魔の遺産以外の何ものでもない。全人類の上にかかる空は暗くよどみ、清澄さは微塵もなく、人間の世界は漆黒の闇に包まれたため、そこで生きる者は顔の前で伸ばした自分の手も見えないし、頭を上げても太陽を見ることはできない。足の下の道はぬかるみ、窪みだらけで曲がりくねり、全土に死骸が散乱している。暗がりの隅々に遺骸が溢れ、冷え冷えとした暗がりには大勢の悪霊たちが居を定めている。人の世の至る所に悪霊の群れが行き交い、汚れにまみれた無数のけだものの子孫が膠着状態で闘いを繰り広げており、その音が人々を恐怖に震え上がらせる。このような時代、このような世界、このような「地上の楽園」で、人はどこに人生の至福を探しに行くのか。どこに行けば人生の終着点が見出せるのか。遠い昔からサタンに踏みつけられてきた人類は、当初からサタンの似姿を演じ続けてきた。それどころか、人類はサタンの化身でさえあり、大声で高らかにサタンに証しをする証人の役割を果たしている。このような人類が、このような屑が、この堕落した人間家族の子孫が、どうして神の証しをすることができようか。わたしの栄光はどこから現れるのか。わたしの証しをどこから語り始められるのか。人類を堕落させた敵はわたしに敵対し、すでに人類を奪ってしまい、わたしがはるか昔に創造しわたしの栄光とわたしの生で満ちていた人類を汚してしまった。敵はわたしの栄光を奪い去り、ただサタンの醜悪さを強く帯びた毒と、善悪の知識の木の果実による汁だけを人間に染み込ませた。

『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」(『言葉』第1巻)

134. あなたがたが長年にわたりわたしの前で見せてきた振る舞いは、前例のない解答をわたしにもたらした。その解答に対する問いは、「真理と真の神の前で、人の態度はどのようなものか」である。わたしが人間に捧げてきた努力は、人間を愛するわたしの本質を証明し、人がわたしの前で行なってきた一つひとつの行動は、真理を憎んでわたしに反抗する人間の本質を証明している。わたしはいつでも、わたしに従うすべての人を気にかけているが、わたしに従う人はいかなるときも、わたしの言葉を決して受け取ることができない。彼らはわたしの提案さえ受け入れることができない。これがわたしを何より悲しませることである。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰一人わたしを理解できたことがないし、そのうえ、誰一人わたしを受け入れられたこともない。誰もが、わたしにまかされた働きを、自分の考えにしたがって行おうとしている。わたしの旨を求めず、ましてやわたしが何を求めているかを尋ねることなどない。彼らはわたしに逆らいながら、依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、自分が受け入れられない真理、あるいは自分が実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちの中で、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるものになっている。それと同時に、人々は言葉でこそわたしを神として認めているが、わたしのことを真理でも、道でも、いのちでもない部外者だとも信じている。誰一人、次の真実を知る人はいない。わたしの言葉は永久不変の真理である。わたしは人間にいのちを施す者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上の誰一人としてわたしの言葉を受け入れられないとしても、わたしの言葉の価値と、それがどれだけ人類の助けになるかは、どんな人にも計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉をまったく軽蔑している人に直面するとき、わたしの立場はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が真理であり、道であり、いのちであることを示そう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに、人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れられない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れられない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らを外さない。

『神の出現と働き』「あなたがたは自分の行いを考慮すべきである」(『言葉』第1巻)

脚注

a.「岸辺に戻る」とは中国語の慣用句で、「悪の道から離れる」という意味。

b. 原文に「こうすることで」の語句は含まれていない。

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