第10節 神を愛することをいかに追い求めるかについて
436. 神の本質は、単に人間が信じるべきものではない。それ以上に、人間が愛すべきものである。しかし、神を信じる人の多くは、この「秘密」を見いだすことができない。人々はあえて神を愛そうとせず、愛そうと試みることもない。神には愛すべき点が数多くあるのを見出したことがなく、神が人を愛する神であること、人が愛すべき神であるのも見出したことがない。神の愛すべき素晴らしさはその働きに示されている。人は神の働きを経験してはじめて、神の愛すべき素晴らしさを見出す。人は実際の経験の中でしか、神の愛すべき素晴らしさを理解できない。そして実生活においてそれを目の当たりにしなければ、誰一人神の愛すべき素晴らしさを見出せない。神には愛すべき点が数多くあるものの、実際に神と関わらなければ、人はそれを見出せない。つまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神と関わることができず、実際に神と関わることができなければ、その働きを経験することもできない。そのため、神に対する人々の愛は、数多くの偽りや想像によって汚されることになる。天なる神への愛は、地上にいる神への愛ほど現実的なものではない。と言うのも、天なる神に関する人の認識は、その目で見たり自ら経験したりしたことではなく、自分の想像に基づいているからである。神が地上に来ると、人々は神の実際の業と、神の愛すべき素晴らしさを目の当たりにできる。神の実際的かつ普通の性質をすべて見られるのであり、それらはみな、天なる神についての認識より数千倍も現実的なものである。人々が天なる神をどれほど愛そうと、その愛に現実的なところは何ひとつなく、人間の考えで満たされている。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は現実のものである。たとえごくわずかであっても、やはり現実のものなのである。神は実際の働きを通して人々に自分を知らしめ、それによって人々の愛を得る。ペテロもこれに似ている。イエスと共に暮らしていなければ、ペテロがイエスを愛することは不可能だったろう。イエスに対するペテロの忠誠心もまた、イエスとの交わりを通して築かれたものである。人間が自分を愛するようにすべく、神は人の間に来て人と共に生きてきた。そして神が人に見させ、経験させるものはみな、神の現実なのである。
『神の出現と働き』「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」(『言葉』第1巻)
437. 「愛」と呼ばれるものは、純粋で汚れのない感情を指し、心をもって愛し、感じ、思いやりをもつということである。愛においては条件、障壁、距離がない。愛においては疑念、偽り、悪賢さもない。愛においては取引も不純なものもない。愛するならば、偽ったり、不平を言ったり、裏切ったり、反抗したり、強要したり、何かを得ようとしたり、一定の量を得ようとしたりすることはない。もし愛するならば、喜んで自分の身を捧げ、苦難に耐え、わたしと融和するようになる。あなたは自分の持つすべてのものをわたしのために捨てるだろう。家族、将来、青春、結婚をあきらめるだろう。そうでなければ、あなたの愛は愛などではなく、偽りと裏切りである! あなたの愛はどのような愛なのか。真の愛なのか。あるいは偽物なのか。あなたはどれほど捨ててきたのか。どれほど捧げてきたのか。わたしはあなたからどれほどの愛を受けてきたのか。あなたは分かっているのか。あなたがたの心は悪、裏切り、偽りに満ちている。そうであるなら、あなたがたの愛はどれほど汚れているのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動はなぜいつも反抗的で不正直なのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを疑っている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け容れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、事あるごとに物事がわたしにとって困難になるようにしてしまう。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしを騙し欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。こうしたすべてを愛とみなすのか。あなたがたが非常に多くを捧げてきたのは確かであるが、わたしがあなたがたに要求することをあなたがたは一度として実践したことがない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く考えると、あなたがたの中にはわたしへのかすかな愛も感じられない。これほど長年働きを行い、あれだけ多くの言葉を与えてきた後に、あなたがたは実際にどれほどのことを得ているのか。このことは注意深く振り返るに値しないか。
『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(『言葉』第1巻)
438. 神を愛することから学ぶ教訓ほど深い教訓はなく、人が生涯にわたる信仰から学ぶ教訓は、いかに神を愛するかであると言える。つまり、神を信じるなら、神を愛さなければならない。神を信じるだけで、神を愛さず、神についての認識を獲得しておらず、心の底から湧き上がる本当の愛で神を愛したことがなければ、神への信仰はむなしい。神を信じていても神を愛さなければ、あなたは無駄に生きていることになり、あなたの全生涯はあらゆる生涯の中で最も低いものになる。生涯を通じて神を愛することも、神に満足させることもなかったら、あなたが生きていることの意味は何なのだろう。あなたが神を信じることの意味は何なのだろう。それは無駄な努力ではないだろうか。つまり、人が神を信じ、愛するのならば、代償を払わなければならない。何らかのやり方で外へ向かって行動しようとするよりはむしろ、自分の心の奥底にある真の識見を求めるべきである。歌や踊りに熱心であっていても、真理を実践することができなければ、神を愛していると言えるだろうか。神を愛するには、あらゆる事において神の旨を求めることが必要で、しかもあなたに何かが起きた時には内面を深く探り、神の旨を把握しようと努め、その問題における神の旨は何か、神は何を達成するように求めているのか、どのように神の旨を覚えるべきかを知ろうと努めなければならない。例えば、あなたが困難に耐えなければならない何かが生じたら、その時、あなたは神の旨が何であるか、どのように神の旨を大切にするかを理解するべきである。自分自身を満足させてはならない。まず自分自身のことは脇へどけておきなさい。肉体ほど卑しむべきものはない。あなたは神を満足させようとしなければならないし、本分を果たさなければならない。そのように考えていれば、神はこの問題に関してあなたに特別な啓発を与え、あなたの心も安らぎを見つけることができる。
『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」(『言葉』第1巻)
439. 今日、あなたがたはみな、人による神への信仰は単に魂の救いと肉の幸福のためではなく、神の愛を通して自分の人生を豊かにさせるためなどでもないことを知っている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的な快楽のために神を愛するなら、たとえ最後に神に対するあなたの愛が頂点に達し、あなたがそれ以上何も求めないとしても、あなたが求めるこの愛は依然として不純な愛であり、神には喜ばれない。自分のつまらない存在を豊かにし、心の空虚さを埋めるために神を愛する人は、楽な生き方に貪欲な人であって、神を真に愛することを求める人ではない。このような愛は強いられたものであり、精神的満足を追求するものであって、神はそれを必要としない。では、あなたの愛はどのようなものか。あなたは何のために神を愛するのか。まさにいま、あなたの中には神に対する真の愛がどれほどあるのか。あなたがたの圧倒的多数が抱いている愛は先に述べた通りのものである。このような愛は現状を維持することしかできず、不変性を得ることも、人に根づくこともできない。この種の愛は、花が咲いても実をつけず、そのまましおれてしまう花のようでしかない。言い換えると、そのような形で神を愛しても、誰かがその道を導いてくれなければ、あなたは崩れ落ちてしまう。神を愛する時代に神を愛せるだけで、その後もいのちの性質が変わらないままなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、そこから逃れることができず、サタンの束縛とたくらみから自由になることもできないままである。そのような人が完全に神のものとなることはできない。最終的に、その人の霊、魂、体は依然としてサタンに属している。このことに疑いの余地はない。完全に神のものとされることができない人は、残らず自分の本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神による次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄の池に落ちるのである。神のものとされる人は、サタンを捨て去ってその支配下から逃れる人のことである。そのような人は正式に神の国の民として数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいのか。進んで神のものになりたいのか。進んでサタンの支配下から逃れ、神の元に戻りたいのか。あなたはいまサタンに属しているのか、それとも神の国の民として数えられているのか。
『神の出現と働き』「信者はどのような観点をもつべきか」(『言葉』第1巻)
440. 人は常に闇のとばりに覆われて、サタンの影響にとらわれたまま、逃れることができずに生きてきた。その性質はサタンに操られて、ますます堕落している。人は常に堕落したサタン的な性質の中に生きており、真に神を愛することができないのだと言える。そのため神を愛したいと願うなら、独善、自尊心、高慢、うぬぼれといった、サタンの性質であるものを捨て去らなければならない。そうでなければその人の愛は不純な、サタン的な愛であり、神に認められることは断じてできない。聖霊によって直接完全にされ、取り扱われ、砕かれ、刈り込まれ、訓練され、懲らしめられ、練られることがなければ、誰も真に神を愛することはできない。
『神の出現と働き』「堕落した人間は神を体現できない」(『言葉』第1巻)
441. 人々が自分の心で神に接したとき、心を完全に神に向けることができたとき、それは人間が神を愛することの第一歩である。神を愛したいなら、まず心を神に向けることができなければならない。心を神に向けるとはどういうことか。それは心の中で行うあらゆる追求が、神を愛し神を得ることを目的とするということであり、それはあなたが自分の心を完全に神に向けたことを意味する。あなたの心には神と神の言葉以外にほとんど何もなくなり(家族、富、夫、妻、子供など)、たとえ何かがあったとしても、それに心を占められることはない。また自分の将来の見通しについて考えることもなく、ひたすら神を愛することを追求するようになる。そのときあなたは、完全に自分の心を神に向けたことになるのだ。もし依然として心の中で自分の計画を立て、常に自分個人の利益を追求し、「いつ神にちょっとした願い事ができるだろう。わたしの家族はいつ裕福になるだろうか。どうやっていい服を手に入れよう」などといつも考えているとしよう。そのような状態で生活しているなら、それはあなたの心が完全には神に向いていないことを示している。あなたの心にあるものが神の言葉だけであり、あなたが常に神に祈って、どんな時でも神に近づくことができるなら――まるで神がとても親しく、神があなたの中にいて、あなたが神の中にいるかのように――それはあなたの心が神の前にあることを意味する。毎日神に祈り、神の言葉を飲み食いし、いつも教会での働きのことを考え、神の旨に配慮し、心を尽くして真に神を愛し神の心を満足させているなら、あなたの心は神のものになる。もしあなたの心が他の多くのことで占められているなら、あなたの心はまだサタンに占拠されており、本当の意味で神に向いてはいない。ある者の心が本当に神に向かうと、その者は神への真の自発的な愛を持ち、神の働きに配慮できるようになる。まだ愚かさや理不尽さを示すことがあったとしても、神の家の利益、神の働き、そして自らの性質の変化に配慮するようになり、その心は正されることになる。中には、自分のすることはすべて教会のためだと言いながら、実のところ自分自身の利益のために行動している人々もいる。そのような人々は誤った意図を持っており、その心は曲がっていて偽りに満ち、為すことのほとんどは自分個人の利益のためだ。この種の人々は神を愛することを追求しない。彼らの心は依然としてサタンのものであり、神に向かうことができない。そのため神には、この種の人間を得る方法がないのだ。
『神の出現と働き』「神への真の愛は自発的なものである」(『言葉』第1巻)
442. 神が人において行う働きのあらゆる段階において、それはあたかも人の手配により、あるいは人の干渉から生まれたかのように、外面的には人々の間の相互作用のように見える。しかし舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人は神への証しにおいてしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたがたにおいて行う働きの各段階の背後にはサタンと神との賭けがある。その背後にはすべて戦いがある。例えば、あなたが兄弟姉妹に対して偏見を持っているなら、あなたには言いたい言葉、神にとって不愉快かもしれないとあなたが感じる言葉があるだろうが、それを言わなければ心の中に不快を感じる。そしてこの時、あなたの心の中には戦いが始まる。「わたしは話すべきか否か」。これは戦いである。従って、あなたが遭遇するすべての中に戦いがある。あなたの心の中に戦いがある時、あなたの実際の協力と実際の苦しみのおかげで、神はあなたの中で働く。結局、心の中であなたは問題を脇にどけておくことができ、怒りは自然に消滅する。これが、あなたが神に協力した結果である。人が行うすべては、その人が一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の苦難がなければ、人が神に満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、空虚なスローガンを吐き出しているに過ぎなくなる。そのような空虚なスローガンが神を満足させることができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたはどのように神を満足させるべきか、どのように固く証しに立つべきであろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には重要ではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、それはあなたが神を愛しているかどうかを示す。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移していなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることを示す。人に起こるすべてのことは、人が神への証しに固く立つことを神が必要とする時に起こる。現在あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、家族、周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか未信者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うことはすべて素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。あなたには識見がないし、素質は乏しいが、神があなたを完全にすることによって、あなたは神を満足させて神の旨に留意することができ、神が最も素質の乏しい人に行ってきた働きの偉大さを他者に示せるようになる。その人々が神を知るようになり、サタンの前で勝利者になり、極めて神に忠実になると、この一群の人々ほど気骨を持っている人はいない。これが最大の証しである。あなたは偉大な仕事をすることはできないが、神を満足させることはできる。他の人々は自分の観念を脇にどけておくことができないが、あなたにはできる。他の人々は自分が実際に経験している間、神に証しをすることはできないが、あなたは実際の背丈と行動を使って神の愛に報い、神への響き渡るような証しをすることができる。これだけが実際に神を愛することとみなされる。
『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」(『言葉』第1巻)
443. 真理を実践すればするほど、より多くの真理が自分のものになる。真理を実践すればするほど、神の愛がますます自分のものになる。そして真理を実践すればするほど、神の祝福をさらに受ける。いつでもこのように実践するなら、ペテロが神を知るに至ったのと同じく、あなたに対する神の愛のおかげで、あなたは徐々に見えるようになる。ペテロは、神には天地と万物を創造する知恵があるだけでなく、それ以上に、人々の中で実際的な働きを行う知恵があると言った。神が人々の愛にふさわしいのは、天地と万物を創造したからだけではなく、それにもまして、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を授ける力があるからだと述べたのである。ゆえにペテロは、神には人間の愛にふさわしい点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスにこう言った。「あなたが人々の愛を受けるにふさわしいのは、天地と万物をお創りになったのが唯一の理由ですか。あなたには愛されるにふさわしい点がもっとあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことはずっと、人々の愛によりふさわしいのではありませんか」神の愛を見て経験したいと望むのであれば、それを現実の生活の中で探し求め、進んで自分の肉を捨てなければならない。あなたはこの決意をしなければならないのである。決意をもち、万事において神を満足させることができ、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きられる人にならなければならない。神の旨を満たせないときもあるだろう。それは神の旨を理解していないからである。次はもっと努力する必要があったとしても、あなたは神を満足させなければならないのであって、肉を満足させてはならない。このようにして経験していくと、あなたは神を知るようになる。神が天地と万物を創造できることを知り、また人々が実際に神を目の当たりにし、神と関われるよう、神が肉となったことを知るのである。そして、神が人々の間を歩けること、神の霊が現実の生活の中で人々を完全にし、人々が神のすばらしさを目の当たりにし、その鍛え、懲らしめ、祝福を経験できるようにすることがわかるのである。絶えずこのような経験をしていれば、現実の生活において神と離れ難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものでなくなっても、叱責を受けて後悔を覚えられるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ると言うことがあれば、あなたは恐れ、神と離れるくらいなら死んだほうがましだと言うだろう。そうした感情を抱くとすぐ、あなたは神から離れられないと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。
『神の出現と働き』「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」(『言葉』第1巻)
444. 今日、あなたはどれほど神を愛しているのか。また、神があなたに行なったすべてのことのうち、あなたはどのくらいを知っているのか。これらがあなたの学ばなければならないことである。神が地上に来るとき、人に行なったすべてのこと、そして人に理解させたすべてのことは、人が神を愛し、真に神を知るようにするためのものである。人が神のために苦しむことができ、ここに至ることができたのは、ある意味では神の愛のおかげであり、別の意味では神の救いのおかげ、さらには神が人に行なった裁き、そして刑罰の働きのおかげである。神の裁き、刑罰、試練がなく、神があなたがたを苦しめていなければ、率直に言って、あなたがたが真に神を愛することはない。人に為された神の働きが偉大であればあるほど、そして人の苦しみが大きければ大きいほど、神の働きがどれほど意義深いかが明らかになり、その人の心は真に神を愛することができる。あなたはどうすれば神の愛し方を学べるのか。苦痛や精錬、つらい試練がなければ、さらに、神が人に与えたものが恵みと愛と慈悲だけだったなら、神を真に愛するところまで達せるだろうか。神による試練の中、人は自分の欠点を知り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、同じく神による試練の中、神は人間のために様々な環境を創り、人が神の素晴らしさをより良く経験できるようにする。苦痛は大きく、時として乗り越えられないこともあり、打ち砕くような悲しみに達することさえある。しかし、人はそれを経験することで、自分における神の働きがいかに素晴らしいかを知り、またそれを基礎とすることでのみ、自分の中に神への真の愛が生まれるのである。今日、神の恵みと愛と慈悲だけでは真に自己認識することができず、ましてや人の本質を知るなど不可能であることを、人は理解している。神の精錬と裁きによってのみ、また、精錬それ自体の過程においてのみ、人は自分の欠点を知り、自分に何もないことを知る。このように、神に対する人の愛は神の精錬そして裁きという礎の上に築かれる。
『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)
445. 今日、大半の人はそのような認識をもっていない。そうした人たちは、苦しみには価値がなく、自分は世の中から見捨てられており、家庭生活には問題があり、自分は神に愛されておらず、将来の見込みは暗いと信じている。中には苦しみが極限に達し、死を考えるようになる人がいる。それは神に対する真の愛ではない。そうした人は臆病者であり、忍耐力がなく、弱くて無力なのである。神は人に愛されることを強く願っているが、人は神を愛すれば愛するほど苦しみが大きくなり、愛すれば愛するほど人の試練も大きくなる。もしもあなたが神を愛するなら、あらゆる苦しみがあなたに降りかかる。もしも神を愛さなければ、おそらく何もかもが順調にゆき、あなたの周囲では何もかもが平和だろう。あなたが神を愛するとき、周囲の多くのことが克服し難いと感じ、またあなたの霊的背丈があまりに小さいために精錬される。さらに、あなたは神を満足させることができず、神の旨はあまりにも崇高で、人の及ばぬところにあるといつも感じる。そのすべてのために、あなたは精錬されるのである。自分の中に多くの弱さがあり、神の旨を満たせないものが数多くあるため、あなたは内面から精錬されるのである。とは言え、精錬を通じてでなければ清められることはないと、あなたがたははっきり理解しなければならない。したがって、あなたがたは終わりの日に神への証しをしなければならない。あなたの苦しみがいかに大きくても、最後まで歩まなければならず、最後の一息になってもなお神に対して忠実であり続け、神に身を委ねなければならない。これだけが真に神を愛するということであり、またこれだけが鳴り響くような強い証しなのである。サタンの試みを受けたら、あなたはこう言うべきである。「わたしの心は神のものであり、神はすでにわたしを得た。あなたを満足させることはできない。わたしのすべてを捧げて神を満足させなければならない」。神を満足させればさせるほど、神はあなたを祝福し、神に対するあなたの愛は強くなる。そして、あなたは信仰と決意をもち、神を愛することに生涯を捧げることほど価値や意義のあるものはないと思うだろう。神を愛しさえすれば悲しみがなくなるとも言える。自分の肉が弱り、多くの実際の問題に悩むことがあっても、その間あなたは心から神にすがり、霊の内側で慰められ、確信を抱き、頼るものがあると感じるだろう。このようにして、あなたは多くの状況を克服することができ、降りかかる苦しみのせいで神に不満を抱くこともないはずだ。その代わりにあなたは歌い、踊り、祈り、集って交わり、神のことを考えたいと思うだろう。そして自分の周囲にある、神によって整えられたすべての人や出来事や物事はふさわしいものだと感じるだろう。もしもあなたが神を愛さないなら、何を見ても退屈で、目を楽しませるものは一切ない。霊においては自由がなく虐げられており、心の中で絶えず神に不満を抱き、自分の苦しみはあまりに大きく、まったく不公平だと常に感じる。幸福のために追求するのではなく、神を満足させるため、サタンにそしられないために追求するのであれば、そうした追求は神を愛する多大な力を与えてくれる。人は神によって語られたすべてのことを実行でき、その人が行なうすべてのことは神を満足させられる。これが現実を自分のものにするということである。神を満足させることを追求するのは、神への愛を用いて神の言葉を実践することである。いかなる時も──たとえ他の人たちに力がない時であっても──あなたの中には神を愛し、深く求め、その存在を懐かしむ心が依然として存在する。これが真の霊的背丈である。
『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)
446. 人がサタンの支配下に最もたやすく陥るのは苦しい精錬のさなかである。では、そのような精錬において、あなたはどのように神を愛するべきなのか。自分の意志を奮い立たせ、自分の心を神の前で晒し、自分の時間を残らず神に捧げるべきである。神がどのようにあなたを精錬しても、あなたは真理を実践して神の旨を満たし、自ら神を求め、交わりを求めるべきである。そのようなときは消極的になればなるほど否定的になり、容易に後退してしまう。自分の役割を果たすことが必要なときは、たとえうまくそれを果たせないにしても、ただ神への愛を使ってできる限りのことを行ないなさい。あなたがうまく行ったとか失敗したなどと他人は言うだろうが、他人が何を言おうとあなたの意図は正しく、あなたは独善的ではない。あなたは神のために行動しているからである。他人があなたを誤解しても、あなたは神に祈り、このように言うことができる。「ああ、神よ。他人がわたしに寛容であることも、わたしをよく扱うこともわたしは願いませんし、わたしを理解したり認めたりすることも願いません。心の中であなたを愛することができ、心穏やかになり、良心が澄み切っていることだけを願います。他人がわたしを賞賛することや高く評価することをわたしは願いません。あなたに満足していただくことを心から願うだけです。わたしはできる限りのことを行なって自分の役割を果たします。わたしは愚かで分別がなく、素質に乏しく盲目ですが、あなたが素晴らしいことはわかっておりますので、わたしがもつすべてのものを喜んであなたに捧げます」。このように祈ったとたん、神に対するあなたの愛が現われ、あなたの心は大いに安心する。これが神への愛を実践するということである。
『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」(『言葉』第1巻)
447. 精錬の間、人はどのように神を愛するべきか。神を愛する決意を行ない、神の精錬を受け入れることによってである。精錬されている間、あなたはナイフで心をえぐられるかのように、内なる苦しみに苛まれる。それでもあなたは神を愛する心によって神を満足させようとし、肉を労わろうとはしない。これが神への愛を実践することの意味である。あなたは内面で傷つき、苦しみもある程度に達しているが、それでも喜んで神の前に出てこう祈る。「ああ、神よ! わたしはあなたから離れることができません。わたしの中には暗闇がありますが、それでもあなたに満足していただきたいのです。あなたはわたしの心をご存知です。どうかあなたの愛をもっとわたしにお授けください」。これが精錬のさなかにおける実践である。神への愛を基礎として使えば、あなたは精錬によっていっそう神に近づき、神との親密さが増す。あなたは神を信じているのだから、神の前で自分の心を差し出さなければならない。神の前で自分の心を捧げ、神に委ねるなら、精錬の間、あなたが神を否定したり、神から離れたりすることはあり得ない。このようにして、神との関係がより親密に、より正常になり、神との交わりもより頻繁になるだろう。いつもこのように実践すれば、あなたはさらに多くの時間を神の光の中で過ごし、神の言葉の導きの下でより多くの時間を生きるようになる。あなたの性質にもますます多くの変化が起き、認識は日々増えるだろう。神の試練が突如降りかかる日が来ても、あなたは神の側に立つことができるだけでなく、神への証しも行なえる。その時、あなたはヨブのように、ペテロのようになるのである。神への証しを行なったあなたは、真に神を愛し、神のために喜んで命を差し出すだろう。あなたは神の証人であり、神に愛される者となるだろう。精錬を経た愛は強く、弱くはない。いつ、どのように神があなたを試練に晒そうとも、あなたは自分の生死に関する懸念を捨て去り、神のために喜んですべてをなげうち、神のためにどんなことでも耐えることができる。かくして、あなたの愛は純粋になり、信仰は本物になる。その時初めてあなたは真に神に愛される者、神によって真に完全にされた者となる。
『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」(『言葉』第1巻)
448. 神が人間を罰して裁くのは、そうすることが神の働きには必要であり、またさらに人間にとって必要だからである。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、人間はその時初めて神への愛に達することができる。現在、あなたがたは完全に確信しているが、小さな挫折に直面するだけで、あなたがたは窮地に陥ってしまう。あなたがたの霊的背丈はまだ小さすぎるので、一層深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きをもっと経験しなければならない。現在、あなたがたはある程度神を敬い、神を畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛はなく、まして純粋な愛に達することなどない。あなたがたの認識は浅過ぎて、あなたがたの霊的背丈はまだ不十分である。ある環境にほんとうに直面する時、あなたがたはいまだに証しに立つことがなく、あなたがたの積極的な成長は極めて少なく、実践する方法を全く知らない。ほとんどの人々が消極的かつ不活発である。彼らは心の中で密かに神を愛するだけで、実践する術がなく、自分達の目標が何であるかを明瞭に理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけではなく、良心の尺度を超え、良心的基準よりも高い真理も備えている。彼は自分の良心で神の愛に報いるのみならず、なにより、神を知り、神が愛しいこと、神は人間の愛を受けるに相応しいこと、また神には愛すべきことが非常に沢山あるので、人は神を愛さずにはいられないことを知っている。完全にされた者の神への愛は、自分の個人的願望を満たすためのものである。彼の愛は自発的な愛であり、見返りを求めない愛であり、それは取引ではない。彼が神を愛する理由は、神に関する彼の認識の他にない。このような人は神が自分に恵みを与えるかどうかを気にすることはなく、神を満足させること以外に彼を満足させることはない。彼は神と取引することがなく、「あなたに与えられたから、それに応じてあなたを愛する。あなたが与えないのであれば、わたしはそれに応じて与えるものが何もない」というように、神への愛を自分の良心で測ることもない。完全にされた者は常に信じている。「神は創造主であり、わたしたちに対して働きを行なっている。わたしには完全にされる機会と状況、そして資格があるのだから、意味のある人生を送ることを追求し、神を満足させるべきである」と。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
449. その生涯を通じ、ペテロは数百の精錬を経験し、苦しみに満ちた試練を数多く受けた。この精錬は神に対するペテロの至高の愛の基礎となり、ペテロの一生で最も重要な経験となった。ペテロが神に対する至高の愛をもてたのは、ある意味では、神を愛する決意のためだった。しかし、より重要なのは、それがペテロの経験した精錬と苦しみのためだったことである。この苦しみは神を愛する行路の指針となり、ペテロにとって最も記憶に残るものとなった。神を愛する際に精錬の苦しみを受けなければ、人の愛は不純なものと自分の好みに満ちている。そのような愛はサタンの考えに満ちており、神の旨を満たすことが根本的にできない。神を愛する決意を抱くことは、真に神を愛することと同じではない。人が心の中で考えていることは、どれも神を愛して満足させるためのものであり、人の思考はひたすら神に捧げられ、人間の発想など一切ないように思えるが、その人の思考が神の前に出されたとき、神はそのような思考を賞賛も祝福もしない。人がすべての真理を十分理解し、そのすべてを知るようになったとしても、それは神を愛するしるしだとは言えず、そうした人たちが実際に神を愛しているとも言えない。精錬を経ずして多くの真理を理解したとしても、人はそうした真理を実践することができない。精錬のさなかにおいてのみ、人はこれらの真理の本当の意味を理解し、そうして初めてそれらの内なる意味を真に認識できる。そのとき再び試みれば、真理を適切に、神の旨にかなう形で実践することができる。その際、人々の人間的な考えは少なくなり、人間としての堕落も減り、人間的な感情も減少する。そのとき初めて人々の実践は神に対する愛の真の表明となる。神に対する愛という真理の効果は、認識を話すことや、精神的な意思によって挙がるものではなく、単にその真理を理解することだけで挙がるものでもない。人々は代価を支払い、精錬のさなかに多くの苦痛を受ける必要があり、そうして初めて彼らの愛は純粋になり、神自身の心を求めるようになる。
『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」(『言葉』第1巻)
450. 晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もしわたしの余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたがわたしのために用意された時が来ました。わたしはあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。わたしの愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、わたしにとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、わたしの命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もしわたしが生きることをあなたが許されるならば、わたしは一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、わたしはあなたを愛するでしょう。わたしは、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたはわたしを裁かれ、刑罰を与えられ、わたしを試されます。なぜならわたしが不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質がわたしには一層明らかになります。それはわたしにとって祝福です。なぜなら、わたしはあなたを一層深く愛することができ、あなたがわたしを愛されなかったとしても、わたしはあなたをこうして愛することを望むからです。わたしはあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、わたしは有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。わたしの人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、わたしがあなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、わたしはまだ満足していません。なぜなら、わたしはあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、わたしはあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。わたしは人生においてわたしのすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、わたしはあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、わたしがあなたに報いなかった全ての愛を償うために、わたしにはこの瞬間しかありません」。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
451. 人間は意味のある人生を実際に生きることを追い求めるべきであり、現状に満足していてはならない。ペテロの模範を実際に生きるためには、人間はペテロの認識と経験を備えていなければならない。人間は、より高く、より深淵なことを追求しなければならない。人間は、神に対する一層深く純粋な愛と、価値と意義のある人生を追い求めなければならない。唯一これが人生であり、そうしてはじめて、人はペテロと同じようになれるのだ。あなたは、肯定的側面へ入ることに対して積極的になることに重点を置くべきであり、また一時的快楽のために、さらに深淵で、具体的で、実践的な真理を無視しつつ、追従的に後退することを許してはならない。あなたの愛は実践的でなければならず、あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない。神を愛することを目指す全ての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。あなたは、どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきであろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは、何よりもそうした大志と根気を持っていなければならず、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたには神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、あなたは自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うか、どのようにして自らを神に捧げるべきか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきか、そして、あなたは神を愛しているので、どのようにして一層清く、一層美しく、一層好ましく神を愛するべきかを慎重に考慮することができなければならない。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
452. もし人々が神を愛したいと願うなら、神の愛すべき素晴らしさを経験し、神の愛すべき素晴らしさを知らなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、神のために忠実に我が身を捧げようという思いが生じる。神は言葉や表現、あるいは人々の想像力に訴えて人々が神を愛するように仕向けることはなく、自身を愛することを人に強いることもない。むしろ、人々に自ら進んで神を愛するようにさせ、自分の働きと言葉の内にその愛すべき素晴らしさを見るようにさせる。その後、人々の内には神への愛が生まれるのだ。この方法によってのみ、人々は真に神を証しできるのである。人々は、他人から駆り立てられて神を愛するのではなく、一時の感情的衝動に駆られて愛するのでもない。人々が神を愛するのは、神の愛すべき素晴らしさを見たためである。彼らは、神には人々の愛に値するものが非常に多くあることを見た。神の救いと知恵、驚くべき業を見たからである。そしてその結果、彼らは心から神を讃え、心から神を慕い、神無くしては生き抜けないほどの情熱が自分の中に呼び起こされるのだ。真に神を証しする人々は、神に対する真の認識と、心から神を慕う気持ちという基盤の上に自らの証しがあるからこそ、鳴り響くような証しをできるのである。そのような証しは、感情に突き動かされて行われるのではなく、神とその性質に関する自らの認識によって行われる。そのような人は神を知るようになったため、自分は必ずや神を証しし、神を切望するすべての人々に神のことを知らせるとともに、神の愛すべき素晴らしさと神の現実性を気付かせなければならないと感じるのである。人々の神への愛と同様に、彼らの証しは自発的である。それは真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものでもない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができる理由、彼らだけが真に神を信じている理由は、彼らが神の光の中に生きることができ、神の働きと経営のために生きることができるということにある。闇の中に生きるのではなく、光の中に生き、無意味な生を生きるのではなく、神の祝福を受けた生を生きているためである。神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神に祝福され、彼らだけが神の約束を受ける。神を愛する者は神の知己であり、神に愛され、神と共に幸福を享受できる。このような人々だけが永遠に生き続け、このような人々だけが永遠に神の配慮と加護の下に生きるのである。神は人々が愛するべき存在であり、万人に愛されるにふさわしい存在だが、すべての人々が神を愛せるわけではなく、すべての人々が神を証しして神と共に力をもつわけでもない。真に神を愛する者は、神を証しできるため、そしてすべての努力を神の働きに捧げることができるため、彼らに敢えて敵対しようとする者はおらず、彼らは天の下のあらゆる場所を歩くことができ、地において力を振るい、神の民を一人残らず支配することができる。こうした人々は世界中から集まってくる。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味をもっている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意をもち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は全宇宙を旅することができる。こうした人々が神に愛され、神の祝福を受け、永遠に神の光の中に生きるのである。
『神の出現と働き』「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」(『言葉』第1巻)