全能神教会App

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

言葉は肉において現れる

ソリッドカラー

テーマ

字体设置

字体调整

ラインスペース

ページ幅

0 件見つかりました

一致する内容が見つかりませんでした!

真理を理解したらそれを実行せよ

神の業と言葉は、あなたがたの性質に変化をもたらすためのものである。神の目標は、あなたがたにそれらをただ理解させ、あるいは認識させ、それで終わりとすることではない。あなたがたは、受け取る能力があるのだから、神の言葉を理解するのに、難しいことは何もないはずである。なぜなら、神の言葉のほとんどが、極めて理解し易い人間の言葉で書かれているからである。たとえば、あなたがたは、神があなたがたに何を理解し実行することを求めているのかを知ることができる。これは、理解する能力を備えた普通の人間ができて当然のことである。神が今語っていることは、特に明瞭・明晰であり、神は、人間が考慮したことのない多くのことや人間の様々な状況について、指摘している。神の言葉は全てを包括するものであり、満月の光のように明るい。ゆえに、今人間は様々な問題を理解しているが、神の言葉を実行に移すことが欠けている。人間は、簡単に与えられるものをただ待って受け取るのではなく、真理のあらゆる側面を詳細に体験し、それを更に細かく探究し、追い求めなければならない。さもなければ、人間は、ただ食いする者同然であろう。彼らは、神の言葉を知っているが、それを実行に移さない。この種の人間には真理への愛が無く、究極的には排除されるであろう。90年代のペテロのような姿勢をとるということは、あなたがた一人ひとりが神の言葉を実践し、あなたがたの体験の中に本当の意味で入り、神との協力の中で、より多くの更に偉大な啓きを得て、あなたがたのいのちに更なる助けをもたらすべきであることを意味する。たとえあなたがたが、神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の体験を通して得た、神の言葉に関する実地の知識がなければ、神の言葉を知ることはないであろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字に固執するだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の意志を理解することもないであろう。あなたが神の言葉を実体験で経験して初めて、神の言葉の霊的な意味が明らかになる。また、あなたが多くの真理の霊的な意味を把握できるのは、体験の中だけであり、体験を通してのみ、神の言葉の奥義の鍵を開けることができるのである。あなたが神の言葉を実践しないなら、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握するのは、空文と教義だけであり、それはあなたの宗教的規則となってしまうのだ。それはパリサイ人たちが行ったことではなかろうか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、神の言葉はあなたがたにとって実践的なものになる。あなたがたが神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたがたにとって第三の天の逸話程度のものに過ぎない。実のところ、神を信じる過程は、神により獲得される過程であるとともに、あなたがたが神の言葉を体験する過程でもある。より明確に言うと、神を信じることは、神の言葉に関する認識と理解を得て、神の言葉を体験し生き抜くことである。これがあなたがたの神への信仰の現実である。あなたがたが神の言葉を、自分の内に持っているものとして実践することを求めずに、神を信じ、永遠のいのちを望むのであれば、あなたがたは愚かである。それは、あたかも御馳走を実際に食べるのではなく、記録するためだけに宴会へと出向くようなものである。そうした者は愚かではなかろうか。

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にある。それは、人類にとって最も有益で役立つ真理である。それは、あなたがたの体に必要な薬であり、糧であり、正常な人間性を回復させる助けになるものであり、人間が備えているべき真理である。あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちは一層早く開花するであろう。また、あなたがたが神の言葉を実践すればするほど、真理は一層明らかになる。あなたがたの霊的背丈が成長するに従って霊的世界のことをもっと明瞭に理解し、より力を得てサタンに勝利するであろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解できない多くの真理も明らかになるであろう。ほとんどの人々が神の言葉の文面を理解するだけで満足し、その深さを実際に体験せずに、教義を身に付けることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではなかろうか。ならば、彼らにとって、どうして「神の言葉はいのちである」という言葉が本当でありえようか。人間が神の言葉を実践する時のみ、いのちが真に花開くのであり、単に神の言葉を読むだけでは、それは成長できない。神の言葉を理解しさえすれば、いのちと霊的成長を得ることができる、というのがあなたの信仰ならば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。あなたは「真理は、実践して初めて理解できる。」ということが解からなければならない。今日あなたは、神の言葉を読んだ後、ただ神の言葉を知っているとは言えるが、それを理解しているとは言えない。真理を実践する唯一の方法は、まず真理を理解することであると言う者たちもいるが、それは半分正しいだけで、必ずしも正確ではない。一つの真理の知識を得るまでは、あなたがその真理を体験したことにはならない。自分が聞いたことを理解したと感じることは、本当に理解することとは違う。文面にある通りに真理を身に付けることは、その中にある本当の意味を理解することとは同じではない。真理に関してただ表面的な知識を持ちあわせていても、それは、あなたが実際に真理を理解、あるいは認識していることにはならない。真理の本当の意味は、それを体験して初めて見出される。それゆえ、真理を体験する時のみ、あなたはそれを理解することができる。そして、真理を経験した時初めて、あなたは真理の隠された部分を把握できるのである。真理を深く体験することが、真理の内包する意味合いを把握し、真理の真髄を理解する唯一の方法である。したがって、あなたは、真理を携えてどこへでも行けるが、自分の内に一つの真理もないなら、宗教的人間はおろか、あなたの家族を説得しようなどと思ってはならない。真理無しでは、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば、幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。理論がいかに強力でも、それは真理に打ち勝つことができない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かすことができるが、一方真理の無いところには、うじ虫による腐敗がもたらされる。それは事実にほかならない。

今重要な事は、まず真理を知り、次にそれを実行に移すこと、そしてさらに真理の本当の意味を身に付けることである。それが、あなたがたが目指すべきものであり、それは、単に他人をあなたの言葉に従わせるためではなく、他人にあなたの行動を見習わせるためである。ただそうすることによって、あなたは、何か有意義なものを見出すことができる。自分に何が起きようと、誰に遭遇しようと、真理があればあなたは揺るぎなく立つことができる。神の言葉は、人に死ではなく、いのちをもたらすものである。神の言葉を読んだ後も、いのちを得ず、依然として死んでいるのであれば、あなたには何らかの問題がある。長らく神の言葉をたくさん読み、実践的説教を多く聞いた後も、あなたが死んだ状態であるなら、それは、あなたが真理を重視する者でも、真理を探し求める者でもないことを証明している。あなたがたは、真剣に神を得ようとしているのであれば、高尚な教義を身に付けてそれで他人を教えることに重点を置かず、神の言葉を体験し、真理を実践することに集中するであろう。それこそが、あなたがたが今入るべき事ではなかろうか。

神が人間の中で業を行う時間は限られているが、あなたが神に協力しなければ、どのような結末となり得るであろうか。あなたがたが神の言葉を一度理解したら、それを実践することを神はあなたがたに常に求めているのは何故だろうか。それは、神が神の言葉をあなたがたに示したので、あなたがたの次の段階はそれを実践することであり、また、あなたがたがその言葉を実践する際に、神は啓示と導きの業を遂行するからである。これが、その過程である。神の言葉は、人間が道から逸れたり否定的になったりすることなく、人生で開花できるようにするためのものである。あなたは神の言葉を読み、それを実践したと言うが、未だに聖霊の働きを受けてはいない。あなたの言っていることは、子供騙しに過ぎない。人には、あなたの意図が正しいかどうか知るよしもないが、あなたは、神もまたそれを知らないとでも思っているのか。他の者が神の言葉を実践して聖霊の啓きを受けているのに対し、あなたがそれを実践すると聖霊の啓きが得られないのは何故だろうか。神は感情的なのだろうか。あなたの意図が本当に正しく、あなたが協力的であれば、神の霊はあなたと共にあるだろう。ある人々は常に他人から注目されたがるが、神が彼らを立たせて教会を導かせることがないのは何故だろうか。またある人々はただ自分の役割を果たしているだけで、気付かぬうちに神の承認を得ているのは、何故だろうか。そんなことがあり得るだろうか。神は人の心の奥底を調べるが、真理を求める者は、正しい意図で求めなければならない。正しい意図のない者は、立つことができない。あなたがたの目的の核心は、神の業があなたがたの中で効果を発揮するようにすることである。言い換えれば、それは、あなたがたが神の言葉を実践する中で、その言葉を真に理解することである。おそらく、あなたがたが神の言葉を受ける能力は乏しいであろうが、あなたがたが神の言葉を実践する時、神はあなたがたの受ける能力の乏しさという欠点を補うことができる。だからあなたがたは数多くの真理を知るだけでなく、それらの真理を実践しなければならないのだ。これが無視することのできない最大の重点である。イエスも、その三十三半の生涯に大いに苦難を受けたが、それは彼が真理を実践したからである。記録によれば、イエスが迫害されたと常に言われているのは何故だろうか。それは、彼が大いに苦しんだことを説明するためである。イエスが大いに苦しんだのは、彼が真理を実践し、神の意志を成し遂げたからである。イエスが真理を実践することなく真理を知っていたとすれば、彼は苦難を受けることはなかったであろう。イエスがユダヤ人たちの教訓に従い、パリサイ人たちに従っていたとすれば、彼は苦しまなくてもよかったであろう。人間における神の業が効果を発揮するのは、人間の協力を通してであるということを、イエスの実践から学ぶことができる。そしてこのことは、あなたがたが認識しなければならないことである。イエスが真理を実践しなかったとしたら、彼はあのように十字架の上で苦しまなければならなかっただろうか。イエスが神の意志に従って行動していなかったとしたら、彼はあれほど悲痛な祈りを捧げていたであろうか。人間が耐え忍ぶべき苦難は、つまりこのようなものであることをそれは意味している。

前へ:神が人間を用いるということ

次へ:救いを得る人とは真理を進んで実践する者である

他のお気に入り