第3節 神の聖さについて

569. 神は最も遅れた不浄の地で肉となったが、そうすることでのみ、神はその聖く義なる性質のすべてをはっきり示すことができる。では、神の義なる性質は何を通じて示されるのか。それは神が人の罪を裁くとき、サタンを裁くとき、罪を忌み嫌うとき、神に反対、反抗する敵を憎むときに示される。わたしが今日語る言葉は、人の罪を裁き、人の不義を裁き、人の不従順を呪うためである。人の狡猾さや不実さ、人の言葉や行ないなど、神の旨にそぐわないものはどれも裁きの対象にされなければならず、人の不従順は罪として非難されなければならない。神の言葉は裁きの原則を中心としており、神は人の不義を裁き、人の反抗心を呪い、人の醜い顔を暴くことで神自身の義なる性質を明らかにする。聖さは神の義なる性質の表われの一つであり、神の聖さとは実のところ神の義なる性質なのである。あなたがたの堕落した性質が今日の言葉の背景であり、わたしはそれを用いて語り、裁き、征服の働きを実行する。それだけが実際的な働きであり、それだけが神の聖さを完全に光り輝かせる。あなたの中に堕落した性質の痕跡が一切なければ、神はあなたを裁かず、あなたに神の義なる性質を示すこともない。あなたには堕落した性質があるのだから、神はあなたを逃さず、これを通じて神の聖さが示される。もしも神が人の汚れと反抗心があまりに大きいことを知りながら、語ることもあなたを裁くこともせず、あなたの不義を罰することもないならば、それは神ではないことを証明する。罪に対する憎しみがなく、人と同じくらい汚れているからである。今日、わたしがあなたを裁くのはあなたの汚れのためであり、わたしがあなたを罰するのはあなたの堕落と反抗心のためである。わたしはあなたがたに力を見せびらかしているのでも、わざとあなたがたを抑圧しているのでもない。わたしがそうしたことを行なうのは、この不浄の地に生まれたあなたがたが、かくも深く汚れに染まっているからである。あなたがたは高潔さと人間性をすっかり失い、この世の最も不潔な場所で生まれた豚のようになってしまった。そのためあなたがたは裁かれ、わたしはあなたがたに怒りを解き放つのである。まさにこの裁きのために、神が義なる神であること、神が聖い神であることをあなたがたは理解できたのである。まさに神の聖さと義のために、神はあなたがたを裁き、あなたがたに怒りを解き放つのである。神は人の反抗心を見ると義なる性質を表わすことができ、人の汚れを見ると聖さを表わすことができるので、これは神が神自身であり、聖く汚れがない存在でありながら、不浄の地で暮らしていることを示すのに十分である。人が誰かと悪事にふけり、聖いところも義なる性質もなければ、その人に人間の不義を裁く資格はなく、人間の裁きを実行するのにもふさわしくない。人が別の人を裁くなら、それは自分の顔面を平手打ちするようなものではないだろうか。互いに同じくらい汚れている人たちに、どうして自分と似た者を裁く資格があるだろうか。聖い神自身だけが汚れた人類全体を裁けるのである。人がどうして人の罪を裁けようか。人の罪を見てその罪を非難する資格がどうして人にあり得ようか。神に人の罪を裁く資格がないのであれば、どうしてそれが義なる神自身でありえようか。人の堕落した性質が明かされるとき、神は人を裁くために語る。そのとき初めて、神が聖いことを人は目の当たりにする。神が人の罪を暴きつつ、その罪を裁き罰するとき、その裁きから逃れられる人や物はない。汚れているものはすべて神に裁かれるが、そうすることでのみ神の性質は義だと言えるのである。さもなければ、あなたがたが名実ともに引き立て役だとどうして言えるだろうか。

……神の聖さが示されるのは、不浄の地から来る人を通じてである。今日、神は不浄の地の人が示す汚れを用いて裁きを行なうが、そのようにして裁きのさなかに神であるものが表わされる。神はなぜ裁くのか。神は罪を憎むので裁きの言葉を語ることができる。人類の反抗心を忌み嫌っていなければ、どうしてそこまで怒ることができるというのか。神に嫌悪や不快が一切なく、人の反抗心を気に留めなかったならば、それは神が人と同じくらい汚れていることを証明するであろう。神が人を裁き罰することができるのは汚れを忌み嫌うからであり、神が忌み嫌うものは神の中に存在しない。神の中にも抵抗や反抗心があれば、神が敵対的で反抗的な者を憎まないであろう。終わりの日の働きがイスラエルで行なわれたなら、それには何の意味もないであろう。中国というどこよりも暗く遅れた地で終わりの日の働きが行われているのはなぜか。それは神の聖さと義を示すためである。要するに、その地が暗ければ暗いほど、神の聖さがさらに明瞭に示されるのである。事実、このことはすべて神の働きのためである。

『神の出現と働き』「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」(『言葉』第1巻)

570. わたしは長い間、悪霊どもの様々な行いをはっきりと見てきた。そして、悪霊どもに用いられる人々(誤った意図を持つ者、肉や富を渇望する者、自分を高める者、教会を混乱させる者など)もわたしはそれぞれ見透かしてきた。悪霊たちが追い出されたら、それですべてが終わると思ってはならない。わたしはあなたに告げる。これから後、わたしはそれらの人々を一人ひとり処分し、二度と用いない。つまり、悪霊によって堕落させられた人は誰であれ、わたしによって用いられることはなく、追い出されると言うことである。わたしに感情がないと思ってはならない。このことを知りなさい。わたしは聖なる神であり、わたしは汚れた神殿には住まない。わたしは、わたしに完全に忠実で、わたしの重荷に配慮することができる、正直かつ賢明な人々だけを用いる。なぜなら、そのような人々はわたしによって予め定められているからだ。悪霊はそれらの人々の上には絶対に働いていない。一つのことを明確にしておこう。今から後、聖霊の働きのない者はすべて、悪霊の働きを持つ。あらためて言う。わたしは悪霊が働きかけているような者は一人も望まない。彼らは皆彼らの肉と一緒にハデスに投げ込まれなければならない。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十六章」(『言葉』第1巻)

571. 神の霊が纏っている肉は神自身の肉である。神の霊は至高であり、全能で、聖く、義である。同様に、神の肉も至高であり、全能で、聖く、義である。このような肉は、人間にとって義であり有益なこと、聖いこと、栄光あること、そして力あることしか行えず、真理や道義に反することはできず、ましてや神の霊を裏切るようなことはできない。神の霊は聖なるものであるため、神の肉はサタンが堕落させることのできないものであり、人間の肉とは本質が異なる。サタンにより堕落させられているのは人間であって神ではないため、サタンが神の肉を堕落させることは一切できない。このため、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、人間だけがサタンにより占有され、利用され、囚われている。それに対し、キリストはサタンによる堕落の影響を永久に受けることがない。なぜならサタンが最も高い場所に昇れることは決してなく、神に近付くことも決してできないからである。今日あなたがたは全員が、わたしを裏切るのはサタンにこのように堕落させられた人間だけであることを理解しなければならない。裏切りの問題がキリストに関わることは一切ないのである。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(2)」(『言葉』第1巻)

572. 神自身は不従順の要素を持たない。神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善と、すべての愛の現れである。肉の姿であっても、神は父なる神に逆らうようなことは行わない。自身の命を犠牲にしてでも、神は心底から父なる神に従い、他の選択はしない。神には独善や尊大さといった要素も、うぬぼれや横柄さといった要素もない。神は不正な要素を持たない。神に逆らうものはすべてサタンから発生する。サタンはすべての醜悪さと邪悪の根源である。人がサタンと同様の性質を持っている理由は、サタンに堕落させられ手を加えられたからである。キリストはサタンによって堕落させられていないため、神の特性のみを持っており、サタンの性質は全く持たない。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)

573. 「神の聖さ」は、神の本質が完璧なこと、神の愛が無私なこと、神が人間に与えるすべてが無私であることを意味しており、神の聖さは汚れがなく、非難の余地がありません。神の本質のこれらの側面は、神が自身の身分を誇示するために用いるただの言葉ではなく、むしろ神はその本質を用いて、静かに、真摯に個々の人間を取り扱うのです。つまり、神の本質は空虚なものでも、理論的なものでも、教義上のものでもなく、ましてやある種の知識などではないのです。それはまた人間のための教育の一種ではなく、神自身の行ないの真の顕示であり、神がもつもの、神であるものの本質の顕示です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)

574. わたしの言う神の聖さとは、何を指しますか。暫く考えなさい。神の真実さは、神の聖さですか。神の誠実さは、神の聖さですか。神の無私さは、神の聖さですか。神の謙虚さは、神の聖さですか。神の人間への愛は、神の聖さですか。神は人間に真理といのちを無償で与えます。これは神の聖さですか。(はい。)神が顕すことは、すべて唯一無二であり、堕落した人間には存在せず、人間にはそれを見出すことはできません。サタンが人間を堕落させる過程において、またサタンの堕落した性質やサタンの本質や本性にはまったく見ることができないものです。神のもつもの神であるものはすべて唯一無二であり、そうした本質を持つのは神自身のみです。……聖さの本質は真の愛ですが、それ以上に真理や義、光の本質なのです。「聖なる」という言葉は、神に用いられた時のみ適切であり、被造物のうちで聖なると呼ぶに相応しいものは存在しません。人間はこれを理解しなければなりません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)

575. 地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。神は聖く義である。ちょうどイエスが恵みの時代に罪人たちと暮らしたのと同様に、神は穢れた土地に生まれ、汚れにまみれた人たちと暮らしているが、神の働きは隅々まで全人類の生存のために行われるのではないのか。それは全て、人類が大いなる救いを得られるようにそうなっているのではないのか。二千年前、神は何年間も罪人たちと暮らした。それは贖いのためであった。今日、神は穢れて賤しい人たちの集団と暮らしている。それは救いのためである。神の働きは全てあなたがた人間のためではないのか。もし人間を救うためでなかったとしたら、何ゆえに神は飼葉おけで生まれた後、罪人たちと何年間も暮らし、共に苦しんだのか。そして、人間を救うためでなかったとしたら、なぜ神は再び肉に戻り、悪魔が集まるこの地に生まれ、サタンに深く堕落させられている人たちと暮らすのか。神は忠実ではないのか。神の働きのどの部分が人類のためでないというのか。どの部分があなたがたの運命のためでないのか。神は聖い。これは変わることがない。神は穢れた地に来たが、穢れに汚されることはない。このこと全てが意味するのは、神の人類への愛は極端なほど無私であり、神が耐える苦難と屈辱は極めて大きいということに尽きる。

『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)

576. 考え、思い、振る舞い、言動など、あなたが表わすことはどれも、神の義と聖さの引き立て役になっているのではないのか。あなたがたが表わすことは、神の言葉が明らかにする堕落した性質を示しているのではないのか。あなたの思いや考え、動機、あなたにおいて明らかになった堕落は、神の義なる性質と神の聖さを示している。神もまた不浄の地に生まれたが、汚れに染まってはいない。神はあなたと同じ汚れた世界で生きているが、理知と見識を有しており、汚れを嫌悪する。あなたは自分の言動に汚れたものを何も見つけることさえできないかもしれないが、神にはそれが可能であり、それをあなたに指摘する。あなたの以前からの古いもの、つまり教養や見識や理知の欠如と遅れた生活様式は、今や暴き出されて白日の下に晒された。神が地上に来てこのように働きを行なうことでのみ、人は神の聖さと義なる性質を目の当たりにする。神はあなたを裁いて罰し、あなたに認識を得させる。時にはあなたの悪魔的な本性が露わになり、神はそれを指摘する。神は人の本質をすっかり知りつくしている。神はあなたがたのあいだで暮らしており、同じものを食べ、同じ環境の中で生きている。だが、それでも、神は人より多くのことを知っており、あなたを暴いて人の堕落した本質を見抜くことができる。人の処世哲学、不実、欺瞞ほど神が忌み嫌うものはない。人の肉体的な交流を神はとりわけ嫌悪する。神は人の処世哲学をそれほどよく知らないかもしれないが、人が表わす堕落した性質をはっきり見て暴くことができる。神はこうしたことを通じて人に語りかけ教えるために働き、こうしたことを用いて人を裁き、神の義にして聖い性質を明らかにする。このようにして、人は神の働きの引き立て役になるのである。受肉した神だけが、人間の堕落した性質とサタンのあらゆる醜い顔を明らかにできる。神はあなたを罰せず、自身の義と聖さの引き立て役として用いるにすぎないが、あなたは恥じ入り、隠れる場所がない。あなたがあまりにも汚れているからである。神は人において暴かれたこれらのことを使って語り、それが白日の下に晒されて初めて、人は神の聖さに気づく。神は人のほんのわずかな不純さえ、心の中の汚れた思いさえ見逃さない。人の言動が神の旨と一致しなければ、神は人を容赦しない。神の言葉の中に人間やそれ以外の何かの汚れが存在する余地はなく、それはすべて白日の下に晒されなければならない。

『神の出現と働き』「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」(『言葉』第1巻)

577. 神が物事に関して人と同様の見解をもつことは一切ありませんし、さらに、神が人間の観点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理することもありません。もっと正確に言えば、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発してきたあらゆる言葉と、神が行なってきたあらゆる行為は真理と結びついているのです。この真理は、根拠のない空想の産物ではありません。この真理とそれらの言葉は、神の本質と神のいのちゆえに神が表すものなのです。これらの言葉と神が行なってきたあらゆることの本質は真理なので、神の本質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらし、人が前向きな物事とその現実性を見ることができるようにし、人が正しい道筋を歩けるよう、人に道を示します。これらの物事はすべて神の本質ゆえに決定され、神の聖さの本質ゆえに決定されます。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)

578. あなたが神の聖さを理解するようになれば、神を真に信仰することができます。神の聖さを理解するようになれば、「唯一無二の神自身」という言葉の真意を本当に理解できます。あなたはこの道以外にも他の道を歩むことも可能であるなどと想像することはもはやなく、神があなたのために用意したすべてを裏切ろうとはもはや思わなくなります。なぜなら神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみ義なる光の道にて人生を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができるからです。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、あなたがこれ以上苦しまないように、辛苦の海から救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。なぜなら被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い導く能力のある人や物は存在しないからです。これが人間にとっての神の本質の重要性です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)

579. わたしはずっと人にとても厳しい規範を守らせてきた。己の考えによってわたしを欺き、条件をもってわたしに強要する者がわたしは大嫌いなので、もしあなたの忠実が意図や条件を伴うものであるなら、あなたの忠実と呼ばれるものなどむしろない方がよい。わたしが人に望むのは、わたしに絶対的に忠実であり、すべてのことをある一語のために、その一語を証明するために行なうことだけである。その一語とは「信仰」である。あなたがたがわたしを喜ばせようとして甘い言葉を使うのをわたしは軽蔑する。わたしはいつも、完全な誠実さをもってあなたがたに接しているので、わたしはあなたがたにも、わたしに対して本当の信仰をもってふるまってほしいと願う。

『神の出現と働き』「あなたは本当に神を信じる人なのか」(『言葉』第1巻)

580. あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

581. 神には神そのものと神が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の表れである。神そのものと神が持っているもの、および神の本質と身分は、人が取って代わることができるものではない。神の性質には、人類への神の愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含されており、しかも人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無感覚である。神の性質とは、万物と全ての生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。彼の性質は尊厳、権勢、崇高さ、偉大さ、そして何よりも至高性を表す。彼の性質は権威の象徴であり、あらゆる正義の象徴であり、また、あらゆる美と善の象徴である。しかもそれは、暗闇やいかなる敵の勢力にも圧倒されず、侵害されることのない者の象徴[a]であり、同時に、いかなる被造物も背くことができない(そして背くことが許されない)者の象徴[b]である。彼の性質は最高権力の象徴なのである。一個人であれ複数であれ、いかなる人間も神の働きや性質を阻害できないし、阻害してはならない。しかし人間の性格は、動物よりもわずかに優位であることの象徴に過ぎない。人間は、自身の中にも自身においても、何の権威も自主性も、自分自身を超越する能力もないが、本質的に、様々な人々、出来事、または物に振り回されて怖じ気づく者である。神の喜びとは、正義と光の存在と現れに起因し、暗闇と邪悪の消滅の故である。彼は、人類に光と良い生活をもたらしたことを喜ぶ。彼の喜びは正義の喜びであり、あらゆる肯定的なものの存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは、不義の存在と、それによる妨害が自身の人類に害をもたらしていることに起因し、それは邪悪と暗闇の存在、また、真理を駆逐するものの存在の故であり、そしてそれ以上に、良いものと美しいものに反するものの存在の故である。彼の怒りは、全ての否定的な物事がもはや存在しないことの象徴であり、さらには、彼の聖さの象徴である。彼の悲しみは、彼が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類に起因し、彼が人のためにする働きが彼の期待にかなわず、彼が愛する人類がみな光りの中で生活できるようになっていないからである。彼は罪のない人類、正直だが無知な人、そして善良だが自分の見解を持っていない人に対して悲しみを感じている。彼の悲しみは彼の善良さと憐れみの象徴であり、美しさと慈愛の象徴である。彼の幸せは、もちろん彼の敵を打ち負かすこと、そして人の真心を得ることからもたらされる。さらに、それは全ての敵の勢力の駆逐と消滅、そして人類が良き平和な生活を得ることから生じる。彼の幸せは人の喜びとは異なり、むしろそれは良い実を集めるときの気持ちであり、それは喜びにまさる感情である。彼の幸せとは、人類が今後苦しみから解き放たれ、光の世界に入ることの象徴である。一方、人類の感情は全て己の利益の目的のために生じ、義、光、または美しいもののために生じるのではなく、ましてや天の恵みのために生じるものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。それは神の意志のために存在するものではなく、ましてや神の計画のために存在するものではないため、人と神のことを同等に語ることは決してできない。神は永遠に至高かつ尊厳ある方であり、一方人間は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、いつも自分の為に得る努力しかしない。神は人類の生存のために永遠に労苦しているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは貧弱過ぎて、一回の打撃にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって、他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全てを継承し、表現する者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいかなる時や状況においても、義を裏切り、神から遠く離れてしまう可能性がある。

『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)

582. 侮辱に対する神の不寛容は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの本質です。神の怒りの背後にある原則は、神の身分と地位の証明であり、それは神のみが持つものです。この原則もまた唯一無二の神自身を象徴するものであることは、言うまでもありません。神の性質は神自身の固有の本質で、時間の経過とともに変化することも、地理的位置によって変化することもありません。神の固有の性質は、神のみにある本質です。神が誰に働きを行なおうと、神の本質も、神の義なる性質も不変です。誰かが神を怒らせたときに、神が怒りを放つのは、神固有の性質です。このとき、神の怒りの背後にある原則や、神の唯一無二の身分や地位は不変です。神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりするために神は怒るのではなく、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が神の性質に反するからです。人間の神への目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦です。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争い、神の怒りを試しているということです。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを試し続けるのは、罪がはびこるときであり、神の怒りは自然と出現します。したがって、神が怒りを示すのは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということの象徴です。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性です。神の威厳と聖さが試されたとき、正義の力が阻害され、人間に見えないとき、神は怒りを放ちます。神の本質ゆえに、神と争い、戦い、神に敵対する地上の様々な勢力はすべて邪悪であり、堕落しており不義です。それらはすべてサタンに由来し、サタンに属します。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で堕落しサタンに属するものはすべて神の怒りが発せられると消滅します。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

脚注

a. 原文では「されることがないことの象徴」。

b. 原文では「背くことができない(そして背くことが許されない)ことの象徴」。

前へ: 第2節 神の義なる性質について

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