人間らしく生きるのは本当に素晴らしいこと

カナダ 踏実

全能神は言われます。「神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。……過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)

去年、教会で映画撮影の準備が行なわれ兄弟姉妹は私が監督の本分を引き受けるよう推薦してくれました私はそれを聞いて興奮し私を推薦したということは私の素質と才能を見たからに違いないと思いましたそうでなければどうして私を選ぶでしょう私の中で優越感が膨らみ、自分は他の人よりも優れていると考えました必死に勉強して映画制作について学び技能の一部を徐々に把握していきましたその本分を最初に始めたとき、少し緊張していたのを憶えていますしかしその間ずっと神に祈り、緊張が段々ほぐれていって作業に取りかかることができましたそのとき兄弟姉妹はずっと私のアイデアを採用してくれました特に私が監督した最初のシーンでは全員が私の撮影を気に入ってくれました指導者にも、あなたは監督に向いていると言われました心は誇りではち切れそうで自分は本当にこれに向いていて神の家に欠かせない人材だと感じましたそして頭に王冠を乗せている気分になり、肩で風を切って歩くようになりましたこの本分を始めてすぐにこれほど称賛されたのは自分が本当に有能だからであって、少し練習を積めば間違いなく優秀になれると思いましたそのとき以来、兄弟姉妹と働いていても以前ほど謙虚でなく胸を張り、自信満々に話すようになりましたまた万事において決定権をもつことを望み、他の人のことは眼中にありませんでした誰かが私のアイデアを疑ったり、別の提案をしたりするとすぐさま頑固になり、我慢できず、その人を見下しましたあらゆる点で自分のほうが優っておりこんな風に騒ぐのでなく、私の言うとおりにしていればいいんだと思いましたそれに私の目には、話し合う価値すらないごく些細なことを問題にしているように見えたのですそこで私は「それは原則の問題なの?」と言っていつも彼らを黙らせましたあるとき主人公役の張姉妹が、自分で選んだ衣装を私に見せたのですが私は「あなたの目は節穴なの?」と思いましたそこで衣装をすべて選び直させその多くを否定しました私の頭は監督である私のセンスが正しいのだから、私の言うことを聞くべきだという考えで一杯でした結局、兄弟姉妹は私に抑え込まれたように感じ、意見を言おうとしなくなりましたそれを知った私は気の毒になりましたがとは言え、自分は働きのことだけを考えているのだから、妥協するわけにはいかないと思いましたそのためさほど気にすることはありませんでしたそのころ、指導者が交わりの中で私を暴きあなたは傲慢で人を支配するのを好んでいると言った上で他人に目を向けるのでなく自己反省して真理を実践し、自分の問題を解決するよう警告しましたしかしそのとき、私は自分の本性を何ら認識していませんでした自分の働きにひたすら責任を負っていると思っていたのです私はそうした反抗的かつ頑固な状態の中で生き続け兄弟姉妹と協調して働くことができなくなりましたやがて働きの中で頻繁に問題が生じ、進行が妨げられました。

ある日傲慢さのせいで働きを遅らせ、職を解かれた監督がいると聞きましたその人は真理を受け入れられず、兄弟姉妹を抑え込んでいたのです私はいささか不安になりました自分もその監督と同じように振る舞っていることを知っていたのです神は自分に警告なさっているのだと思いこのように威張り散らすことはもうできないと判断しましたその代わりに自分を抑えてもっと優しく話し他の人と意思疎通して、働きについて話し合うことに全力を尽くすべきなのですでも私は自分の本性を依然認識していませんでしたそのため真理を求めてそれを解決することもしませんでした。

しばらくして私たちのチームの進行があまりに遅いため劉姉妹と一緒に働くよう指導者から指示を受けました最初、私はそれを受け入れられず指導者は私の能力を疑っているに違いないと考えましたがすでにそう采配されているので渋々従いましたそのとき以来、作業の話し合いのたび指導者がいつも劉姉妹の助言を求めていることに気づきました私はとても不安になり指導者は私のことを高く買っていないと思いましたそれで彼女を恨み始めましたその上さらに、劉姉妹に抵抗したのです。私は彼女を受け入れられませんでしたそのため作業を話し合うたび私はむっつりしたままそこに座っているだけでしたあるとき彼女はチームの働きに問題があるのを突き止め、いくつか提案をしました兄弟姉妹はみなそれに賛成しましたが私はすべてに反対で彼女の提案に何ひとつ耳を貸しませんでしたみんなが私の意見を求めるたび、私は怒りを抑えて「好きにすれば」と言うだけでしたやがて指導者は私を取り扱い、あなたは神の家の働きを守っていないと言いました私も本当はつらくて何があろうと、神の家の働きで苛立ちを抱えてはいけないことはわかっていましたでも実際にはそれを飲み込めず「いつも劉姉妹の言うことを聞くだけなら、ここで話し合いをする意味は何なの?」と考えました自分は万事において正しいと思っていたので続く数回の話し合いで私は自分の意見にしがみつき劉姉妹の意見が合理的であっても、彼女に反対しました彼女は自分を誇示していると思ったのです彼女がある俳優を推薦したときも私はその俳優のありとあらゆる問題点を指摘し彼女の提案をはねつけましたとにかく彼女の話を聞くのが嫌で、自分がすべての働きを引き受けたいと思いました結局、劉姉妹は私に抑え込まれてしまい、それ以上提案しようとしませんでしたそのころ私は傲慢で自惚れた性質の中で生き、真理を求めていなかったので私の霊は徐々に闇へと落ちていきました毎日気分がふさぎ、神が私からお隠れになったかのようでした祈るときも神に言うべきことがなく神の御言葉を読んでも頭に入りません私の頭は真っ白で、ぼんやりしながら本分を尽くしていました。問題がまったく見えなかったのです。私は不安な状態の中で生き何かが起きようとしているかのように感じていました。

数日後、指導者が来て私たちと集会をもちました彼女はわたしの性質を暴き、あなたはあまりに傲慢で本分を尽くす際に独断専行して恣意的になっており、私たちの活動をひどく乱したと言いましたそして家に帰って真剣にデボーションと自己反省をしなさいと言ったのです私はそれを聞いてショックを受けましたが心から神に祈りました「ああ神よ、どんな状況に遭遇しようとそれはすべてあなたの采配だと信じています私は喜んで従います」その夜は一睡もできませんでした自分は撮影班に長くいたのに明日からはもうその一員じゃないそのことが頭から離れず、とても動揺してしまい涙を抑えることができませんでしたつまずきから立ち上がれるようこの機会にデボーションをして自分を反省しようと思いましたしかし帰宅しても神の御言葉に集中できず、本当につらい思いをしました私にできたのは神の御前に出て、何度も神を呼び求めることだけでした「神よ、私はとてもつらいですこの状況であなたの御心を理解し、自分を認識できるようどうか私に手を差し伸べ、私の心をお守り下さい」絶えず神に祈ることで、ようやく多少落ち着くことができました。

翌日、数名の兄弟姉妹が私の様子を見に来てくれました彼らは交わりを通じて私に手を差し伸べるとともに、私の問題のいくつかに触れましたある姉妹がこう言ったのを憶えています「監督として働き始めて以来、あなたはずいぶん変わりました他人を見る目も違ってしまい万事において決定権をもとうと望んでいますあなたは本当に支配的で、あなたと働くのはとても無理です」別の兄弟はこう言いました「作業を話し合うとき、あなたがいないとみんなリラックスしていますですがあなたが現われた途端、全員が緊張するのです自分たちの考えやアイデアがはねつけられると不安なんですよ」彼らの口から出る一言一句がナイフのように心に刺さりました私は恥ずかしくて彼らを見ることができずとてもひどい気持ちになりました人生の中で、人間としてこのような失敗を犯したことがないように思ったからです兄弟姉妹は私に近づこうとせず、私を見て怖がるまでになっていました私は思いました。「自分はまだ正常な人間なのか? どうしてこれほど鈍感になれたのだろう?」自分の傲慢な性質が他人を抑え込み、これほどの害を与え得るとは気づいていませんでした自分が傲慢なのはすでに知っていて指導者はたびたび私と交わってくれたのに私はそれを軽視していましたむしろ、自分の傲慢さは優れた素質のせいだと思っていたのです才能や優れた素質に恵まれた人が、傲慢にならずにいられるでしょうかそのせいで、私は真理を求めてそれを解決しなかったのですしかし兄弟姉妹の手助けと交わりを通じ私はようやく心が落ち着き自分を静めて自らの行ないを反省することができました。

反省しながら神の御言葉の二節を読んだのですが神はこうおっしゃっています「自分の中に真理が本当にあれば、自然と正しい道を歩むようになります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、自分の中に傲慢さや自惚れがあれば、神に反抗しないようにするのは不可能であり、どうしても神に反抗せずにはいられません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、最後は自分を神の立場に置いて自分の証しをするようになります。最終的に、自分の発想や思考や観念を、崇拝すべき真理に変えてしまうのです。傲慢で自惚れた本性に支配された人がいかに多くの悪事を働くかをご覧なさい!(「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」『キリストの言葉の記録』)。「傲慢さは人間の堕落した性質の根源です傲慢になればなるほど、その人は神に抵抗しがちになりますこの問題はどれほど深刻でしょうか傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえします表面上は神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいますそのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価していますこれが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来しますゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません誰も眼中にないと思うのは些細な問題で傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのですこのような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合いますこの種の人は神を少しも畏れず神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません(神の交わりより)。神の御言葉から私は自分の傲慢さと自惚れのせいで神に背き、抵抗しているのだとわかりました監督の本分を尽くすようになって以来何らかの成果を挙げるたび、それは自分が必死に働いたからで自分は他人より優れていると考えました他人を軽視してあくまで自分にしがみつき万事において決定権をもちたいと思ったのです本分で成果を挙げられなかったとき自分に問題があるかどうかを反省せず兄弟姉妹に目を光らせるだけでした私は偉そうに他人を取り扱い、彼らに説教しました傲慢さと自惚れから、みんなを見下していたのです他の人の長所が見えず、自分のアイデアが最高だと思っていました事あるごとにみんなの提案をはねつけ、全員を支配していました傲慢さと自惚れのせいで自己認識できず何度も刈り込みと取り扱いを受けたあとも、それを受け入れようとも自己反省しようともしませんでした私には探求者の心がまったくなかったのです作業の進行が遅れ、働きを管理できていないことが明らかになっても他の人と協調したり、仕事を手伝ってもらったりすることを望みませんでしたそのせいで自分の権威が損なわれ、評判と地位が脅かされると感じたのです私は完全に責任を負い、決定権をもつことを望みました私は神に抵抗する道を歩んでいたのではないでしょうか劉姉妹が本分を尽くす中で、私の地位を脅かす成果を挙げたとき彼女は正しく、彼女の提案は神の家の働きに有益だとわかっていましたが私はそれを受け入れず、その代わりにあら探しをして兄弟姉妹が彼女に賛成しているのを見るとどうしても受け入れられず、教会の働きで苛立ちを抱きました自分の評判と地位を守るためなら、神の家の働きが害を被っても構わなかったのです神を畏れる心がどこにあるでしょう? 私の良心と理知はどこにあるのでしょう? 自分は傲慢で自惚れたサタン的性質によって生きながら自分の考えや意見があたかも真理であるかのように兄弟姉妹に押しつけ万事において自分の言うことを聞かせていたことに気づきましたそれは神と同格になり、他人を支配しようと望んでいるのではないでしょうか? 我早已触犯了神的行政「人は自分を大きく見せてはならないし、崇めてもいけない。人は神を崇め、賛美するべきである(『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」〔『言葉』第1巻〕)。私はようやく、自分が危険な立場にあることを認識しました自分は毎日本分を尽くし、熱心に自分を費やしながらあらゆる点でサタン的性質を示していたかのようでした私の行ないは真理に真っ向から反するものであり、教会の働きを乱していました私は悪事を働き、神に抵抗し、神の性質に背いていたのです! どうして自分はそうなったのかを考えましたそれは、私にこうした傲慢かつ頑固な本性があったからでした決して真理を受け入れなかったので、神の怒りを招いてしまったのです自分がサタンによって深く堕落させられ、真理の現実がまったくないことがわかりましたこうした重要な本分を引き受けられたのは、神が私を高めてくださったからであり本分で成果を挙げられたのもひとえに聖霊の働きのおかげであって私に能力があるからではなかったのです私が本分を尽くす中で自分の傲慢な本性に頼ったとき聖霊が働きをやめたので、私は何もわからず、何一つ解決できなかったのだとわかりましたしかしそれでも、自分は大丈夫だといまだに思っていたのです私はほんのわずかな理知や自己認識もないほど傲慢でしたそのとき初めて、自分の傲慢な本性に嫌悪と憎しみを感じ始めたのです。

その後、私はこの神の御言葉を読みました「あなたがたはみな罪と放蕩の場所で生きており、あなたがたはみな淫らで罪深い。今日、あなたがたは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことに、刑罰と裁きを受け、真に深い救い、つまり、神の最大の愛を受けた。することすべてにおいて、神はあなたがたに真に愛情深く接している。神に悪意はまったくない。神があなたがたを裁くのは、あなたがたの罪ゆえであり、それはあなたがたが自省し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな人間を完全にすることを目的として行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしており、神が自らの手で創造した人間を完全に破壊したいという願望はない。今、神は働くためにあなたがたのもとに来ており、このような救いはもっと偉大ではないのか。もし神があなたがたを憎んでいるのなら、あなたがたを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたがたを憎んでいないし、あなたがたに何の悪意ももっていない。あなたがたは神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人を救わなければならないのは、唯一人が不服従だからである。そうでなければ、人を救うのは不可能であろう(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(4)」〔『言葉』第1巻〕)。何度も神の御言葉を読んでいるとひときわ暖かさを感じてとても感動しました神はそのようにして私を暴かれることで、私を断罪したり淘汰したりなさっていたのでも私にとって物事が難しくなるようになさっていたのでもありませんでした実際には、私を救うためにそうなさっていたのです私にはこうした傲慢で頑固な本性があり神は私に必要なものをご存じだったのです本分を失い、兄弟姉妹から刈り込みと取り扱いを受けることで私は自分の傲慢な性質を認識するようになり二度と神に反抗して抵抗しないよう自分が辿った道を反省して、心から神に悔い改めることができました私はその過程で苦痛を経験し、消極的になりましたがその種の裁きと刑罰がなければ、私の麻痺した心は目覚めなかったはずです自分の振る舞いを反省することも神の義なる性質を認識することもなかったはずです心から神に悔い改めることができず神と争い、神に反抗し続け最後は神の性質を犯して懲罰されていたでしょう私はようやく神の御言葉の刑罰と裁きが、私に対する神の加護、そして最も真実の愛であることを自ら経験したのですこれに気づいたとき、私は心から神に感謝しましたそしていますぐ自分の堕落した性質を捨て、人間らしく生きられるよう今後は真剣に真理を追い求めるべきだと感じました。

その後、私は祈りと探求を続け自分が傲慢な性質によって生き、神に抵抗するのをやめたのはどうしてかと考えました探求している途中、私はこの神の御言葉を読みました「あなたは傲慢な本性のせいでわがままになります。こうしたわがままな性質があるとき、その人は自分勝手で向こう見ずになりがちではないでしょうか。そうであれば、どうすれば自分勝手で向こう見ずになることを解消できますか。一つの考えが浮かんだとき、それを他の人に伝え、その件について自分がどう考え、どう信じているかを述べた上で、それに関してみんなと交わりなさい。まずは自分の見方に光を当て、真理を求めることができます。自分勝手で向こう見ずになるというこの性質を克服するにあたり、それがあなたの実践すべき第一歩です。次の一歩は、他の人が反対意見を述べたときです。何を実践すれば自分勝手で向こう見ずになるのを防げますか。まずは謙虚な態度をとり、自分が正しいと信じていることを脇にのけ、みんなが交われるようにしなさい。たとえ自分が正しいと信じていても、それを主張し続けてはいけません。まず何より、それは一種の前進であり、真理を求めて自分を否定し、神の旨を満たす態度を示しています。いったんこの態度をもったなら、自分の意見に固執せず、それと同時に祈りなさい。あなたは正誤の区別ができないので、何をするのが最善で最もふさわしいかを、神が明らかにしてあなたに伝えられるようにしなさい。みんなが交わりに加われば聖霊があなたにすべての啓きをもたらします(神の交わりより)。私は神の御言葉から実践の道を見つけました傲慢さの中で生きたり、恣意的に本分を尽くしたりするのを望まないなら真理を求めて神を畏れる心をもつ必要があったのです兄弟姉妹と協力し意見の違いがあるときは自分を否定して自我を捨て神に祈って真理を求められるようにならなければなりませんそのような心構えがあって初めて、私はより簡単に聖霊の啓きを得られるのであり自分の考えに固執するせいで、神に背いて抵抗することも神の家の働きに害を与えることもないはずですそれに気づいたとき、心の中に光が差したかのようでした私はこう祈りました「神よ、今後は兄弟姉妹と協調して働きたいと思いますともに真理を求め、原則に従って私たちの本分を尽くせるように」。

その直後、本分として数行の書をしたためるよう求められましたそれを聞いて、私はこう思いました「何文字か書くなんて何でもないわ私は書道を学んできたし、とても自信があるから」私が何枚かしたためたあと、それらに目を通した劉姉妹が「悪くないわね」と言いました。それを聞いて彼女への反感が再び生じ、こう考えました「渋々認めた口調ね。私の書はそんなにひどいの? 私は書道を勉強したし、得意なのよ。あなたよりも詳しくないっていうの? この種のことについて、あなたには見る目がないし、わざとあら探ししているのよ」しかしそうした考えが頭を駆け巡る中、突然自分が間違っていることに気づきました堕落した性質がまた現われているのではないか? 私はすぐさま神の御前に出て祈りました「ああ、神よ私は探求と従順の態度をとり、自分を脇に捨て自分の本分に全力を捧げたいのです」私はその心構えでもう一枚したためましたそれを見た劉姉妹はさらに提案を行ない、よりきちんとしたものにできるかどうか訊きました実際には、多くの兄弟がそれを見て見事だと言ってくれました以前の自分を考えると自分が正しいと思って他の人も賛成してくれれば他に言うべきことはなく、よりいっそう自分に固執したでしょうしかしそのときはそう考えず「兄弟姉妹は本分のことを考えて別の見方を提案している物事を面倒にしようとそうしているわけではないそれに私の考えが正しいとは限らない最後は、どうすれば本分の中で最良の成果を挙げられるかを決めなければならない」私はこれを念頭に置き、率先してこう言いました「もう一枚書きましょうかその上で、どれが一番いいかを決めてください。一番気に入ったものを使ってください」その心構えで書をしたためていると、穏やかさと平安を感じ面目を失うことなど考えもしませんでした書をしたためたあと、私はさらにアドバイスを求めましたすると兄弟姉妹はより多くの提案をしてくれましたそれはどれも的を射ていましたそのとき実際、自分には沢山の欠点があって兄弟姉妹には自分にない長所が数多くあると感じました彼らの数多くのアイデアや提案が私の弱点を補ったのですそのため、みんなで助け合い、それぞれの弱点を補うことで私たちは最後によりよく本分を尽くすことができました兄弟姉妹としばらくこのように働いたところ私は心から落ち着きを感じ始めみんなとより近くなりまた以前ほど厚かましくなることも、偉ぶることもなくなりましたそして他の人が私に近づきがたい思いをすることもなくなりましたさらに、兄弟姉妹の提案を受け入れるのはそれほど難しくないこともわかりました私の欠点に関する彼らの意見を正しく受け止めることができたのです自分の気に入らないことが起きたとき、傲慢さを多少見せることもありましたが兄弟姉妹の注意のおかげで、すぐに神の御前に出られました進んで自分を捨て、真理を求め、原則に従って本分を尽くしたのですそうしたことを経た私が心から実感したのは真の幸福でした以前にはとても難しかった神の御言葉を実践することが、ようやくできるようになったのです自分を捨てて他の人の提案を受け入れるのはとても難しいことでしたがいまでは神の御言葉を少しは実践できますようやく少しだけ人間らしく生きることができ以前ほど厚かましくはなくかつてのように神に嫌悪されることも、他の人を抑え込むこともなくなりましたそのすべてを考えるたび、神への感謝を感じます神による取り扱いと刈り込み、神の御言葉の裁きと啓示がなければ自分がどれほど傲慢で堕落しているか、いまもわからないままでしょう今日私が得たわずかな認識と変化はひとえに神の御言葉の裁きと刑罰のおかげです。

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