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第3章 神の働きの三段階についての真理

3. 神の働きの三段階のそれぞれの目的と意義

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ヤーウェが、イスラエル人の地で行った働きは、人間の間に、神の地上においての発祥地、神が居た聖なる場所を創った。神は、イスラエルの人々に自身の働きを限定した。初め神は、イスラエルの外では働かなかった。代わりに、神は働きの範囲を制限するため、適切であると思う人々を選んだ。イスラエルは、神がアダムとエバを創った場所であり、その場所の塵から、ヤーウェは人を創った。それが、地上におけるヤーウェの働きの本拠地である。ノアやアダムの子孫であるイスラエル人は、地上におけるヤーウェの働きの出発点であった。

イスラエルにおけるヤーウェの働きの意義、目的、段階は、その働きをイスラエルの中心から他の国々へ徐々に広げながら、全地でその働きを始めることであった。これは、全宇宙を通しての神の働きの原則である。すなわち、雛形を確立し、宇宙のすべての人が彼の福音を受け入れるまで、それを広げるというやり方である。最初のイスラエル人は、ノアの子孫であった。これらの人々は、ヤーウェの息を持ち、生活における基本的な必要品をまかなうことができたが、ヤーウェがどんな神であるかを知らず、神の心、ましてや全ての創造物の主を畏れる方法など全く知らなかった。アダムの子孫は、彼らが従わなければならない規則や掟を知らず、創造されたものが、創造主にどんな仕事をすべきかを知らなかった。彼らが知っていたのは、夫は家族を養うために汗を流して労働し、妻は夫に従い、ヤーウェが創造した人類を永続させなければいけないということだけだった。つまり、この人々は、ヤーウェの息とその命だけを持っていて、神の律法への従い方あるいは創造主を満足させる方法は知らなかった。彼らは、あまりに理解が少なかった。したがって、彼らの心には、ゆがんだものやずるがしこいものは何もなく、嫉妬や闘争心はもっていなかったものの、全ての創造主ヤーウェを知らず、理解していなかった。彼ら人間の祖先は、ヤーウェが創ったものを食し、ヤーウェが創ったものを享受することは知っていても、ヤーウェを畏れることは知らなかった。彼らは、跪き、ヤーウェを礼拝すべきことを知らなかった。なぜ彼らを神の創造物と呼べようか。したがって、「ヤーウェは全ての創造主である」や「神は、自分の表現として人を創り、彼に栄光を与え、自身を現すこととした」と話すことは無駄ではなかっただろうか。ヤーウェを畏れない人々が、どうしてヤーウェの栄光の証しとなり得るだろうか。どうして彼らがヤーウェの栄光の表現になれるだろうか。このとき、ヤーウェの言葉「わたしは、わたしに似せて人を創った」は、悪の存在であるサタンの掌中の武器にならないだろうか。これらの言葉は、ヤーウェが人を創造したことへの不名誉の印にならないだろうか。働きのそのような段階を完了するため、ヤーウェは、人類を創った後、アダムからノアまで人類への教示または導きをしなかった。彼がアダムとノアの子孫であるイスラエル人を正式に導き始めたのは、やっと洪水の後になってからであった。イスラエルにおけるヤーウェの働きと言葉は、全土のすべての人々の生活を導いた。そして、ヤーウェは、人がヤーウェの命をもち、塵から形作られ、神の創造物になるように人に息を吹き込んだだけでなく、人類を支配するための杖を使って人類を炎で焼くこともできるし、人類を呪うこともできることを、ヤーウェの働きと言葉によって人に示した――ヤーウェが地上で人の生活を導き、昼と夜との時間によって人の中で語り、働くことができるのを人が知るために。人はヤーウェにより拾い上げられた塵から来て、人はヤーウェより創られたということを創造物である人自身が知ることができるように、ヤーウェはひたすら働きを行った。さらにまた、他の人々と民族(実際にはイスラエルとは別の人々と民族ではなく、イスラエル人から分かれ出た人々と民族であり、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからヤーウェの福音を受け取るようになり、宇宙における全ての創造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを崇めるようになるために、ヤーウェはイスラエルで働きを始めた。イスラエルでヤーウェがその働きを始めることをせず、人類を創っただけで、彼らに地上で気楽な生き方をさせたなら、人の肉体の本性(本性とは、人は自分が見ることができないものは決して知ることができないということ、すなわち、ヤーウェが人類を創ったとは人は知らず、ましてやなぜ創ったかなど知らないことを意味する)故に、人は、ヤーウェが人類を創ったこと、全ての物の主であることを知ることは決してなかっただろう。もしヤーウェが、人を創り、自分の喜びのために地上に置いたあとは手の塵を払って何もせず、一定の期間、人の中で指導するようなこともなかったというなら、全人類は無に帰していただろう。人を含めて、彼が創った天地万物までも無に帰し、サタンに踏みつけられただろう。したがって、「ヤーウェは、地上に立つ場所、自身が創ったものの中に聖なる場所を持たなくてはならない」というヤーウェの望みは打ち砕かれていただろう。だからヤーウェは人類を創った後、彼らを彼らの生活の中で先導し、彼らに話しかけた――自分の希望を実現するために、自分の計画を達成するために。イスラエルにおけるヤーウェの働きは、ヤーウェが全ての物を創る前に決めていた計画を実行するためのものである。したがって、ヤーウェのイスラエル人の中での最初の働きと万物の創造はお互いに相容れないものではなく、両者は、ヤーウェの経営と働き、そして栄光のためであり、人類を創造した意味を深めるためのものであった。ヤーウェは、ノアの後に二千年間、地上で人類の生活を先導し、その間、人々に万物の創造主ヤーウェをどのように畏れるべきかを教え、生活の仕方、人生の生き方、そして何よりも、ヤーウェの証人としての振舞い方、自身への従い方、そしてどのようにヤーウェを畏れるべきかや、どのようにしてダビデや彼の祭司たちのように音楽でヤーウェを賛美するべきかを教えた。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に彼らに知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのためヤーウェの人類創造の働きは半分完了しただけで、決して完了していなかった。ヤーウェは土で人間の雛形を形作り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を与えなかった。初めのうち、人間は神を崇めたり畏れたりする心をもたなかった。人間は神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上における生活についての基本的知識や適切な生活の規則に関しては無知であった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り七日間の作業を終えたものの、人間をすっかり完成させなかった。人間は殻でしかなく、本当にひとりの人ではなかったからである。人は人類を創造したのはヤーウェだということだけを知っていたが、ヤーウェの言葉と律法にいかに従うべきかについては何も知らなかった。だから人類創造の後も、ヤーウェの働きは決して完成といえるようなものではなかった。ヤーウェはまた、人々が地上で共に暮らしヤーウェを崇めることができるように、ヤーウェに導かれた後、人々が地上における適切な人間としての生活をおくるための正しい道程に入れるように、ヤーウェの面前にて人間をしっかりと導かなければならなかった。これがなされて初めて、主にヤーウェの名の下で行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そうなって初めてヤーウェの世界創造の働きが完全に完了したのである。このように、ヤーウェが人類を創造して以来、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における人間として適切な生活のあらゆる活動に携わることができるように、ヤーウェは人類の地上における生活を何千年間も導かねばならなかった。これで初めてヤーウェの働きはすっかり完成した。ヤーウェはこの働きを人類を創造した後に開始し、この働きはヤコブの時代まで、ヤコブの十二人の息子たちがイスラエルの十二部族になるまで続いた。それ以降は、イスラエルのすべての人が地上で正式にヤーウェに導かれる民となり、イスラエルは神がその働きを行なう地上における特別な場所となった。ヤーウェはこれらの人々を地上での正式な働きをそのあいだで行なった最初の集団とし、イスラエルの全土をヤーウェの働きの起点とした。ヤーウェはイスラエルの人々をさらに偉大な働きの先駆けとして用いたのは、ヤーウェから生まれた地上のすべての人々がいかにヤーウェを崇め、いかに地上で生きるべきかを知るようになるためであった。このように、イスラエルの人々の行いは、異邦人が後に続くべき模範となり、イスラエルの人々のあいだで語られたことは、異邦人に聞かれるべき言葉となった。イスラエルの人々はヤーウェの律法と掟を受け取った最初の民であり、ヤーウェのさまざまなあり方をいかに崇めるべきかを最初に知った民であったからである。イスラエルの人々はヤーウェのあり方を知っていた人類の祖先であり、ヤーウェに選ばれた人間の代表であった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

律法の時代を通じて、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーセがエジプトを出て彼に従うイスラエル人にそれを伝えるようにした。ヤーウェは、この戒めをイスラエル人に与えた。それはエジプト人とは無関係で、イスラエル人を律する意味があり、イスラエル人にヤーウェが課した要求であった。人が安息日を守ったか、両親を敬ったか、偶像を崇拝したかなど、人が罪を犯したか、義であるかを裁く上での原則であった。人がヤーウェの火により焼かれるか、石打ちで処刑されるか、ヤーウェの祝福を受けるかは、これらの戒めに従ったかどうかで決められた。安息日を守らない者は、石打ちで処刑される。祭司で安息日を守らなかった者は、ヤーウェの火により焼かれた。両親を敬わなかった者も、石打ちで処刑にされた。これら全ては、ヤーウェによって称されたことである。ヤーウェは戒めと律法を設定し、彼らの生活を導く際に人々がヤーウェの言葉に聞き従い、そして背くことのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を、新たに生まれた人類を治めるために、そして自身の働きの基礎を作るために用いた。したがって、ヤーウェが行った働きにより、この最初の時代は律法の時代と呼ばれた。ヤーウェは多くを語り、多くの働きをしたが、これら無知な人々に、どのようにして人間になるか、如何に生きるか、ヤーウェの道をどのようにして知るかを教え、ひたすら前向きに導いた。ヤーウェの仕事の大半は、人々がヤーウェの道を守って、ヤーウェの律法に従うことを目的としていた。この働きは、少しだけ堕落した人々の上になされた。それは、性質を変えることあるいはいのちの成長には関係しない。ヤーウェは人々を制約し、治めるために律法を使うことだけを考えた。その時代のイスラエル人にとっては、ヤーウェはただの神殿の神であり、天の神でしかなかった。ヤーウェは雲の柱で、火の柱であった。ヤーウェが彼らに求めたことは、人々が今日、神の律法や戒めとして知っている規則と呼ぶこともできるものに従うことだけであった。なぜなら、ヤーウェの働きは、人々を変えることではなく、人々が持つべきものをより多く与えるため、そして直接語るためであった。それは、人が創造された後、自分が持つべきものが何かを何も知らなかったからである。したがって、ヤーウェは、人が地上で生活するにあたり持つべきものを与え、自身が導いてきた人々を先祖であるアダムとエバを超えるほどの人々にした。ヤーウェが最初にアダムとエバに与えた以上のものを、彼らに与えたのである。にもかかわらず、ヤーウェがイスラエルでした働きは、ただ人類を導き、人類に彼らの創造主を認めさせることであった。ヤーウェは、彼らを征服したり、変えたりしなかった、ただ導いただけであった。これが、律法の時代の働きのすべてである。これがイスラエル全土におけるヤーウェの働きの背景であり、真実の物語であり、本質である。そして神の六千年にわたる働き──ヤーウェの手によって人類を治めるための働きの始まりである。ここから、神の六千年の経営(救いの)計画における更に多くの働きが生れた。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、彼らは赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、人間の過ちに対する不寛容の性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深いままでいたことであろう。もしそうなっていたなら、六千年の経営(救いの)計画は律法の時代で止まり、律法の時代は六千年間続いていたであろう。人の罪は数が増し、よりひどいものとなり、人間の創造は無価値なものとなっていたであろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていたであろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

受肉したイエスには全く感情がなかったが、常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。そのため恵みの時代の人々はイエスを「愛すべき救い主イエス」と愛情をを込めて呼んだ。当時の人々、すべての人々にとって、イエスが持っているものとイエスであるものは、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、人々への接し方がその過ちをもとにするようなことは決してなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく食べ物をたっぷり人々に与え、彼らが十分食べられるようにした。イエスは追随者すべてに優しく接し、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは人々のあいだで静かに耐え忍び、その贖いの働きを行なった。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となっていた。十字架につけられる前から、イエスは人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架のために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子、悪魔の子孫となっていたはずである。この状態が続けば、地上全体がサタンの住む地、その住まいとなっていたであろう。しかしこの贖いの働きは人類への慈しみと憐れみを示すことを必要とした。そのような手段によってのみ、人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営(救いの)計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ病人をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかったであろう。イエスが地上で働きをなした三年半のあいだ、イエスはその贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の姿となり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の運命を掌握した。サタンの手に引き渡されて初めて、イエスは人類を贖った。三十三年半のあいだイエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえないほどにまで放置され、その後十字架につけられ、聖なる罪のない体であるイエスの存在全体が十字架で釘づけにされた。イエスはあらゆる苦しみに耐えた。権力者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐きさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にいたるまで無条件に従い、そこですべての人間を贖った。そのとき初めてイエスは安息することができた。イエスが行なった働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、また終わりの日々の働きに代わるものでもない。これが人類にとっての第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より

当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実体である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。」このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが主として、終わりの日を通じて、肉となった神によって成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるだろうか、エジプトに何が起こるだろうかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩みは加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、終わりの日の肉となった神によって何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の働きが何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

神の国の時代に神は言葉を使い、新たな時代の到来を知らせ、神の働きの方法を変え、その時代全体の働きを行なう。これが言葉の時代において神が働く原則である。神は異なる視点から語るために肉となり、肉に現れる言葉である神、神の知恵と驚くべき素晴らしさを人間が本当に見ることができるようにした。このような働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰する目的をよりよく達成するために行なわれる。これが言葉の時代において働くために言葉を使うことの真の意味である。言葉をとおして、神の働き、神の性質、人間の本質、人間が何に入っていくべきかを人間は知るようになる。言葉をとおして、言葉の時代に神が行ないたい働きはその全体が結実される。言葉をとおして、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人間は言葉を見、言葉を聞き、言葉の存在に気づいた。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、また神の人間への愛と人間を救う願望を信じる。「言葉」という語句は単純でごく普通であるが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがせる。それは人間の心、観念、古い性質、世界全体が以前にはどのように表れていたかを変革する。時代をとおして、今日の神だけがこのような働き方をし、今日の神だけがそのように語り、そのように人間を救いに来る。それ以降は、人間は言葉の導きの下に生き、言葉により牧され、施しを受ける。全人類は言葉の世界に、神の言葉の呪いと祝福の内に生きるようになった。そして言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになったさらに多くの人間がいる。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、過去の創造における世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、宇宙の人間を言葉をもって導き、言葉をもって征服し救う。ついに、神は言葉を使って古い世界全体を終わらせる。そのときはじめて、経営(救いの)計画がくまなく完了する。神の国の時代をとおして神は言葉を使って働きを行ない、働きの成果を達成する。神は不思議や奇跡は行なわない。神はただ言葉をとおして働きを行なうにすぎない。言葉ゆえに人間は養われ、施しを受ける。言葉ゆえに人間は認識と真の経験を得る。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より

時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。よって、この様な性質は時代の意義を持ち、神の性質の顕示と表示はそれぞれの新しい時代の働きのためである。神はその性質を気まぐれに意味もなく顕すことはない。もし、人の終末が終わりの日に明らかにされるときに神が依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛情深く、人を義なる裁きにさらさずに寛容、忍耐、赦しを示すなら、人がどんなに深刻な罪を犯しても、義なる裁きなしに依然として人を赦すなら、神の経営のすべてに一体終わりはあるのだろうか。このような性質がいつ人類を正しい終着点に導くことができるのだろうか。たとえばいつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それでいつ正しい判決にたどり着くことができるのか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

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