第3節 いかに自己を認識し、真の悔い改めを成し遂げるかについて

358. 数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪くなり、神に反対する悪魔になり、神への人の反抗の歴史は「史記」に記録されるほどになり、人自身でさえその反抗的行いに完全な説明ができなくなってしまっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているのである。今日でさえ、人はまだ神を裏切っている。人は神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る人々さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は人の装いをした獣、毒のある蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしは人に対して決して寛大にはならない。人は白と黒の違い、真理と非真理の違いを把握していないからである。人の理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、まだ祝福を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、まだ王としての統治を保有することを願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に着くことができようか。実に人は恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。祝福を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見ることを勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているだろうか。あなたは祝福を得ることのできる者の顔をしているだろうか。性質にわずかな変化もなく、真理は何一つ実践していないにもかかわらず、あなたはまだ素晴らしい明日を願っている。あなたは自分自身を欺いている。ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、「高等教育機関」で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と風俗、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている。真理を耳にしたときでさえ、暗闇に生きる人々はそれを実行に移そうとは考えず、たとえ神の出現を見たとしても、神を探し求める気持ちにはならない。こんなにも堕落した人類にどうして救いの可能性があり得ようか。どうしてこんなにも退廃した人類が光の中に生きることができようか。

人の性質は、その本質を知ることから始まり、考え方、本性、精神状態を変えることを通じて、つまり根本的変化を通じて変わるべきである。このようにしてのみ、人の性質に本当の変化が達成される。人の堕落した性質は、サタンによって毒を盛られ、踏みにじられていることと、サタンが人の考え方、倫理観、見識、理知に与えたひどい被害を根源としている。まさに人のこうした根本的事柄がサタンによって堕落させられ、神がもともと造ったものとは完全に違ってしまったため、人は神に反対し、真理を理解しないのである。したがって、人の性質を変えるには、まず人の考え方、見識、理知を変え、それによって神に関する認識や真理に関する認識も変えることから始まるべきである。あらゆる土地の中でもっともひどく堕落している国に生まれた人々は、神とは何か、あるいは神を信じることとは何かについてさらに無知である。堕落していればいるほど、人々は神の存在を知らず、理知や見識は貧しくなる。人が神に反対し、反抗する根源はサタンによる堕落である。サタンによって堕落させられたので、人の良心は麻痺してしまい、不道徳になり、考え方は低下し、逆行する精神状態を持ってしまった。サタンによって堕落させられる前は、人はもちろん神に従い、神の言葉を聞いた後それらに従っていた。人は健全な理知と良心を生来持っており、人間性も正常であった。サタンによって堕落させられた後、人が本来持っていた理知、良心、人間性は鈍くなり、サタンによって損なわれ、したがって人は神に対する服従や愛を失った。人の理知は異常になり、性質は動物の性質と同じになり、神に対する反抗はますます頻繁になり、深刻になっている。しかし、人はまだこのことに気づかず、認識せず、単に盲目的に反対し、反抗している。人の性質の暴露は人の理知、見識、良心の表出であり、人の理知や見識は不健全で、良心は極めて鈍くなっているので、したがって人の性質は神に対して反抗的である。人の理知と見識に変化がなければ、その性質を変えることも、神の心にかなうことも不可能である。理知が不健全だと、人は神に仕えることができず、神に使われるには適さない。正常な理知とは神に従い、忠実であること、神を切望し、神に対して絶対で、神に対して良心を持っていることを意味する。神に対して心と考えにおいてゆるぎなく、わざと神に反対するようなことはしないことを意味する。理知が異常な人々はそうではない。サタンによって堕落させられて以来、人は神についての観念を作りだし、神への忠誠心や渇望は持っておらず、言うまでもなく神に対する良心も持っていない。わざと神に反対し、批判する。さらには陰で神に悪口雑言を投げつける。人は明らかにその方が神であることを知っているにもかかわらず、陰で批判し、神に従うつもりはなく、神に盲目的要求や依頼を行うだけである。そのような人々、つまり理知が異常な人々は自分自身の卑劣な行動を知ることや反抗心を後悔することができない。自分自身を知ることができれば、人々は自己の理知を少し取り戻す。神にますます反対し、自分自身を知らなければ、その理知はますます不健全になる。

『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」(『言葉』第1巻)

359. 人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなたがたは今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」。これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました。サタンの行動は、全てサタン自身のためのものです。サタンは神を超越し、神から自由なり、自ら権力を振りかざし、神が創造した万物を所有したいのです。ゆえに、人間の本性はサタンの本性なのです。実のところ、多くの人の座右の銘は、その人たちの本性を表し、反映することができます。どんなに自分をごまかそうとしても、人の言動のすべてにおいて本性を隠すことなどできないのです。決して本当のことを語らず、見せかけに長けた人がいますが、他者がその人としばらく交流すれば、その人の不実な本性、完全な不誠実さが突き止められます。結局、他の人たちはある種の結論に至るでしょう。つまり、この人たちは本当のことを一言も語らず、嘘つきであると。この言葉が、そのような人の本性を物語っています。それはその人の本性と本質の最もよい説明であり、証拠でもあります。そのような人の処世哲学とは、誰にも真実を語らないこと、そして誰も信じないことです。人間のサタン的本性には哲学が大いに含まれています。あなた自身が気づきさえせず、理解していない場合もありますが、それでもあなたの人生の一瞬一瞬が、それにもとづいているのです。その上、あなたはこの哲学が正しく、理にかなっており、誤っていないと思っています。そのことは、サタンの哲学が人間の本性となり、人間がサタンの哲学に完全に従って生き、それに一切抗わないことを十分示しています。ですから、人はサタン的な本性を絶えず露呈し、あらゆる点において絶えず自らのサタン的な哲学に沿った生き方をしているのです。サタンの本性は人間のいのちなのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」(『言葉』第3巻)

360. 人の本性を知ることについて言えば、最も重要なのは人の世界観、人生観、価値観からそれを見ることです。悪魔に属する人はみな、自分自身のために生きています。その人生観と座右の銘は、おもに「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」のようなサタンの言い回しから来ています。この世の魔王や偉人や哲学者の語る言葉が、まさに人のいのちになってしまったのです。特に、中国人に「聖人」として喧伝されている孔子の言葉のほとんどが、人のいのちとなっています。また、仏教や道教の有名なことわざや、様々な有名人物のよく引用される古典的な言葉もあります。これらはみな、サタンの哲学とサタンの本性の骨子です。これらはまた、サタンの本性を最もよく描写し、説明するものでもあります。人の心に染み込んだこのような毒は、みなサタンから来ています。神から来ているものなど、そこにはひとかけらもありません。そのような嘘やたわ言は、神の言葉と正反対でもあります。肯定的な物事すべての現実は神から来るものであり、人を毒する否定的な物事はすべてサタンから来るものだということは、まったくもって明らかです。したがって、人の本性と、その人が誰に属しているのかは、その人の人生観と価値観から見極めることができるのです。サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させます。彼らの嘘とたわ言が人間のいのちと本性になったのです。「己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす」はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人のいのちとなっています。ほかにもこれに類似する処世哲学の格言があります。サタンは各国の洗練された伝統文化を用いて人々を教育し、人類を果てしない破滅の淵へと陥れます。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされるのです。何十年も社会で活動してきた人に、「あなたは長いことこの世で暮らし、多くのことを成し遂げてきたわけですが、あなたが生きる上でおもに頼りにしている有名な諺は何ですか」と質問したとしましょう。すると相手は「一番大切なのは『官吏は贈物する者を叩かず、お世辞を言わない人は何も成し遂げられない』です」と答えるでしょう。この言葉はその人の本性を表わしてはいませんか。地位を得るためならどんな手段でも平気で使う、というのがその人の本性になっており、役人になることがその人の生き甲斐なのです。人の生活、行動や振る舞いには、サタンの害毒がいまだ数多く存在し、それらに真理はほぼまったくありません。例えば、人の処世哲学、物事の仕方、金言は赤い大きな竜の害毒に満ち、それはすべてサタンから生じたものです。ゆえに、人の血肉に流れているのはどれもサタン的な物事なのです。そのような役人、権力者、成功者はみな、成功に至る道と秘訣をもっています。そのような秘訣は、彼らの本性を完全に表わしてはいませんか。彼らはこの世でかくも大きなことを成し遂げましたが、それらの裏にある企みや策略を見抜ける人はいません。そのことは、彼らの本性がいかに狡猾で悪意に満ちているかを示しています。人類はサタンによってあまりに深く堕落させられてきました。サタンの害毒がすべての人の血に流れており、人の本性は目に見えて堕落し、邪悪であり、反動的であり、サタンの哲学に満ちています。それは完全に神を裏切る本性です。人が神に抵抗し、神と敵対するのはそれが理由です。このように分析すれば、人の本性は誰でも知ることができます。

『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」(『言葉』第3巻)

361. 人間の本性をどのように理解しますか。本性を理解するとは、実は魂の深さを分析するということです。それは、いのちの中にあるものにかかわっています。あなたがこれまで生きるにあたり、頼ってきたのはサタンの論理、サタンの観点です。つまり、あなたはサタンのいのちによって生きてきたのです。自分の魂の奥深い部分を掘り起こすことでのみ、あなたは自分の本性を理解できます。どうすれば、そうした物事を掘り起こせるでしょうか。一つや二つの出来事では、掘り起こすことも分析することもできません。何かをやり終えても、いまだ認識に至っていない場合が多くあります。ほんのわずかな認識や理解を得るのでさえ、三ないし五年かかる場合があるのです。多くの状況において、あなたは自分を反省し、自己認識できるようにならなければなりません。そして深く掘り下げて初めて、結果が見られるのです。真理に関する理解が深まるにつれ、あなたは自己反省と自己認識を通じて自分の本性と本質を徐々に知るようになります。自分の本性を認識するには、いくつかのことを成し遂げなければなりません。第一に、自分が何を好むかを明確に理解しなければなりません。これは食べ物や着る物の好みのことではありません。そうではなく、どのような物事を楽しみ、うらやましく思い、崇拝し、求め、心の中で注意を向けているかという意味です。あなたがたはそれをわかっていますか。自分が好む物事の中には、どのようなものが含まれていますか。それは、あなたがいつも注意を払っているもの、あなたが崇拝するもの、またどのような人と触れ合うのを楽しみ、どのようなことをするのが好きか、どのような人を心の中で偶像化するか、ということです。例えば、大抵の人は立派な地位の人、話し方や立ち居振る舞いが優雅な人、説得力のある口上手な人、あるいは芝居がかった振る舞いをする人を好みます。ここで述べたのは、どのような人と交流するのが好きかについてです。どのようなものを楽しむかについては、簡単にできる特定のことをするのをいとわないとか、他者に良いと思われること、それをすれば褒められたり称賛されたりするようなことをするのを好むとかが含まれます。人の本性には、その人の好む物事に共通する特徴があります。つまり、人は他者がその見た目ゆえにうらやむような人や出来事や物事を好み、美しく豪華に見える人や出来事や物事を好み、その外見ゆえに他者が崇拝してしまう人や出来事や物事を好むのです。人が好むこれらの物事は、偉大で目がくらむような、華麗で壮大なものです。人はみなこのようなものを崇拝します。人には真理が一切なく、また真正な人間と似ても似つかないことがわかります。このような物事を崇拝することには、ほんの少しの意義もありませんが、人はそれでもこのような物事が好きなのです。……あなたが何を好み、何に注目し、何を崇拝し、何をうらやみ、毎日心の中で何について考えているのかは、みなあなたの本性を表している。あなたの本性は不義を好み、深刻な場合はあなたの本性は邪悪で救い難いと証明するにはこれで十分だ。あなたはそのように自分の本性を分析すべきである。つまり、自分が生活において何を好み、何を捨てるのかを検証しなさい。あなたは一時的には誰かに好意的かもしれませんが、それはあなたがその人を好きだという証拠にはなりません。あなたがほんとうに好きな物事は、まさにあなたの本性の中にあるものである。たとえ骨折しようが、なお楽しみ、決して手放すことのできないものである。これを変えるのは容易ではない。

『終わりの日のキリスト講話集』「性質の変化について知るべきこと」(『言葉』第3巻)

362. 性質の変化を遂げる鍵となるのは、自分自身の本性を知ることであり、これは神の啓示に従って起こらなければなりません。神の言葉においてのみ、人は自分のひどく醜い本性を知り、本性にあるサタンの様々な毒を認識し、自分が愚かで無知だと気づき、本性の弱点や消極的要素を認識できるのです。これらをすっかり知り、自分自身を憎み、肉に背き、神の言葉を着実に実行し、聖霊と神の言葉に絶対的に従う意志を持つことが本当にできて初めて、ペテロの道を踏み出したことになるのです。神の恵みや聖霊の啓きと導きがなければ、この道を歩むのは易しくない。人には真理がなく、自分に背くことができないからである。ペテロが歩んだ完全化の道を歩けるかどうかは、おもに決意があるかどうか、信仰があるかどうか、そして神にすがっているかどうかによって決まります。そしてさらに、聖霊の働きに従うことも必要です。人は何事においても、神の言葉なしに生きることはできません。これらが主要な側面であり、いずれも犯すことはできません。経験を通して自分自身を知ることは非常に難しく、聖霊の働きがなければそこへの入りは非常に困難です。ペテロの道を歩むには、自分自身を知ることと、自分の性質を変えることに集中しなければなりません。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

363. 神による試練の中、人は自分の欠点を知り、自分は取るに足らない、軽蔑すべき卑しい存在であり、自分には何もなく、自分は何物でもないことを知る一方、同じく神による試練の中、神は人間のために様々な環境を創り、人が神の素晴らしさをより良く経験できるようにする。苦痛は大きく、時として乗り越えられないこともあり、打ち砕くような悲しみに達することさえある。しかし、人はそれを経験することで、自分における神の働きがいかに素晴らしいかを知り、またそれを基礎とすることでのみ、自分の中に神への真の愛が生まれるのである。今日、神の恵みと愛と慈悲だけでは真に自己認識することができず、ましてや人の本質を知るなど不可能であることを、人は理解している。神の精錬と裁きによってのみ、また、精錬それ自体の過程においてのみ、人は自分の欠点を知り、自分に何もないことを知る。

『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)

364. 自己反省と自分を知ることの鍵は、以下の通りです。ある分野において自分がよくやってきた、あるいは正しいことをしてきたと感じれば感じるほど、または、自分はある種の分野で神の旨を満足させられるとか、自慢することができるなどと考えれば考えるほど、その分野で自分自身を知り、それを深く掘り下げ、自分の中にどんな不純なものがあるのか、自分の中の何が神の旨を満足させられないのかを認識する価値が増します。パウロを例にとりましょう。パウロはとりわけ知識があり、教えを宣べ伝える働きにおいてとても苦しみました。多くの人にひときわ崇拝されていたのです。その結果、パウロは多くの働きを成し遂げたあと、自分のために王冠が取っておかれるだろうと思い込んでしまいました。そのせいでますます間違った道を進んでいき、最後は神によって罰せられたのです。そのとき自分を反省し分析していれば、そのようには考えなかったでしょう。言い換えれば、パウロは主イエスの言葉から真理を求めることに集中せず、自分の観念と想像を信じるだけでした。いくつかのよい行ないをし、よい振る舞いを示すかぎり、神に讃えられ報いられると考えていたのです。結局のところ、パウロの観念と想像は、彼の霊の目を塞ぎ、本当の顔を覆い隠しました。しかし、人々はこのことを知らず、神がそれを明るみに出すこともなかったので、パウロのことを到達すべき水準、生きるべき模範とし続け、彼のようになることを切望しました。パウロは人々が追い求める対象、模倣の対象になったのです。パウロに関するこの話は、神を信じるあらゆる人への警告となります。つまり、自分がとりわけよくできたと感じたり、何らかの点でとりわけ才能に恵まれていると思ったりするたび、あるいは変わる必要も取り扱われる必要もないと考えるたび、その点についてさらに反省し、自分自身を知るよう努めなければなりません。これは必要不可欠なことです。と言うのも、あなたはきっと、自分が優れていると信じる点について、実はそこに神への反抗が含まれているかどうかを確かめるべく、掘り起こすことも、注目することも、分析することもしていないからです。

『終わりの日のキリスト講話集』「自分の誤った考えを認識することでのみ真に変化できる」(『言葉』第3巻)

365. 自己認識があまりに浅い場合、人が問題を解決するのは不可能で、そうなると自分のいのちの性質はどうしても変わりません。自分自身を深く知ることが必要であり、それは自分自身の本性を知ることを意味します。つまり、その本性にどのような要素が含まれているのか、そうした物事がどのように生まれ、どこから来たのか、ということです。さらに、あなたはこれらを実際に憎むことができますか。自分の醜い魂と邪悪な本性を見ましたか。自分自身の真実を本当に見ることができるなら、自分を忌み嫌うようになります。自分を忌み嫌い、それから神の言葉を実践すると、肉に背くことができ、難なく真理を実行する強さを持つことができます。なぜ多くの人は自分の肉体的な好みに従うのでしょうか。そのような人は自分のことを極めて良いと見なし、自分の行動は正しく、正当化され、自分には何の落ち度もなく、完全に道理があるとすら思っているので、正義は自分の側にあるという前提で行動することができてしまうのです。自分の真の本性が何なのか、どれほど醜く、卑劣で、哀れであるかに気が付くと、人は自らをあまり誇りに思わず、ひどく傲慢ではいられず、以前のようには自分にそれほど満足しません。「わたしは誠実になって地に足をつけ、神の言葉をいくつか実践しなければならない。そうでなければ、人であるという基準に達せず、神の面前で生きるのが恥ずかしくなるだろう」とその人は感じます。その人は自分はちっぽけで取るに足らないと本当にわかります。この段階では、その人が真理を実践するのは簡単で、より人間らしく見えます。自分自身を真に忌み嫌って初めて、人は肉に背くことができます。自身を忌み嫌わないのなら、肉に背くことはできません。自分自身を真に憎むことは、二、三のことから成ります。第一に、自分の本性を知ること。第二に、自分自身を貧しく哀れであり、極めて小さく取るに足りない者と見なし、自分の哀れで汚れた魂を見ることです。自分が本当は何であるのかを完全に悟ったとき、そしてこの結果が得られたとき、人は自分自身を真に知り、完全な自己認識を得るに至った、と言うことができます。そうして初めて、自分自身を呪うほどに真に憎むことができ、人間とは似ても似つかぬほどサタンによって深く堕落させられたと真に感じることができるのです。そうなると、ある日、死の脅威が現れると、そのような人は思います。「これは神の義なる罰なのだ。神は本当に義なる方だ。わたしは本当に死ななければならない」。この時点で、この人は不満を抱くことも、ましてや神を責めることもなく、自分は神によって消し去られなければならないほど貧しく惨めで、汚れていて、堕落しており、自分のような魂は地上で生きる資格などないと感じるだけです。この時、この人は神に抵抗することも、ましてや神を裏切ることもありません。自分自身を知らずに、いまだに自分を極めて良いと思っている人は、死が近づいて来たら、こう思います。「わたしは信仰においてこんなによくやってきた。どんなに努力して追い求めてきたことか。こんなにも与え、こんなにも苦しんできた。なのに最後は、神はわたしに死ねと言うのか。神の義はどこにあるのか。なぜ神はわたしに死ねと言うのか。わたしみたいな人間でさえ死ななければならないのなら、誰が救われるというのか。人類は終わりを迎えようとしているのではないのか」。まず第一に、この人は神について観念を抱いています。第二に、この人は不平を言い、服従の欠片も見られません。これはまさにパウロと同じです。パウロは亡くなる寸前にも自分自身を知りませんでした。そして神の罰がそばに迫った時には、悔いても遅かったのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

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次へ: 第4節 裁きと刑罰、試練と精錬をいかに経験するかについて

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