偽の指導者、偽の羊飼いとは何か。偽の指導者や偽の羊飼いはどうすれば識別できるか

2017年11月24日

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資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

人の頭脳内の働きは人にはあまりにも容易に達成できる。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場に依存して働く。長い間彼らに従う人は、その才能に感化され、その存在の一部に影響を受ける。彼らは人の才能、能力、知識に重点を置き、超自然的なものや多くの深遠で非現実的な教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人の性質の変化に注目せず、むしろ人が説教し働くようになるような訓練に注目し、人の知識を向上させ豊富な宗教的教義を充実させようとする。人の性質がどのくらい変化するかや、人がどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人の本質には関心を持たず、ましてや人の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人の観念に反論せず、観念を明らかにもしないし、ましてや人の欠点や堕落を刈り込んだりはしない。彼らに従う人のほとんどは自分の才能をもって奉仕し、彼らが放つのは宗教的な観念と神学的な理論だけであり、それは現実とは離れており、人にいのちを与えることはまったくできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人を、後に働いて他者を導くことになる有能な神学校卒業生に育てることである。

『神の出現と働き』「神の働きと人の働き」(『言葉』第1巻)

教会の指導者や働き手として、神の選民を真理の現実へと導き、神の証人として仕えたいのであれば、一番大事なのは、人の救いにおける神の狙いと神の働きの目的について、より深い認識をもたなければならないということです。あなたは神の旨と、神が人に課す様々な要求を理解しなければいけません。現実的に努力を行ない、自分が理解できるだけのことを実践して、自分が知ることだけを伝えるようにしなければいけません。自慢したり、誇張したり、無責任な発言をしたりしてはいけません。誇張すれば人に嫌われ、のちのち自分を咎めるでしょう。これでは不適切に過ぎます。他人に真理を施すとき、その人が真理を得られるようにと、彼らを取り扱ったり叱りつけたりする必要はありません。自分自身に真理がないのに他人を取り扱ったり叱りつけたりするだけなら、あなたは恐れられるでしょう。しかしそれは、彼らが真理を理解したという意味ではありません。行政の働きの中には、他者を取り扱ったり刈り込んだりして、ある程度懲らしめても大丈夫なものがあります。しかし、真理を施すことができず、他の人に対して威圧することや叱ることしか知らないのであれば、あなたの堕落と醜さが明らかになるでしょう。時が経つにつれ、人々はあなたからいのちの糧や実践的なことを得られなくなり、あなたを嫌って忌々しく思うでしょう。識別力のない人ならば、他人を取り扱って刈り込むこと、怒りを露わにすること、あるいは癇癪を起こすことなどといった、否定的なことをあなたから学ぶでしょう。これは他の人をパウロの道、地獄に向かう道へと導くことに等しいのではないでしょうか。それは悪事ではないのですか。あなたの働きは他の人に真理を伝え、いのちを施すことに重点を置くべきです。あなたのすることが、どれも盲目的に人を取り扱って講釈を垂れることだとしたら、いったいどうしてその人たちが真理を理解するようになるでしょう。時が経つにつれ、あなたがいったい何者かを人は知るようになり、あなたを見捨てるでしょう。こんなやり方で神の前に他の人を連れて来ることがどうしてできるでしょうか。これがどうして働きをしていることになりますか。このようにして働きを続ければ、あなたは全員を失うことになります。あなたはいったい何の働きを達成したいのですか。指導者の中には、真理を伝えて問題を解決することができない人もいます。そのような指導者は代わりに他者を無闇に取り扱い、自分の力を誇示して人を恐れされ、自分に従わせます。そのような人たちは偽の指導者、反キリストです。性質が変化していない人たちは、教会の働きを行なうことができず、神に仕えることもできません。

『キリストの言葉の記録』の「真理の実体を持つ者だけが指導者となれる」より引用

多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神はあえて大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。

『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)

緊急事態に備えて、あるいは自分の問題を解決するためでなく、自分を捨てて他人を助けるためだけに、ある種の真理で武装する人がいます。私たちはそのような人を「無私な人々」と呼んでいます。そのような人は他人を真理の操り人形とみなし、また自分自身をその主人とみなしつつ、他者に対して真理を堅く保ち、受け身になることがないよう教えますが、一方の自分自身は土俵の外にいる傍観者のままです。これらはどのような人ですか。このような人は真理の言葉をいくらか身につけていますが、ただ他人に説教するために使うだけで、自分の破滅を防ぐことは何もしていません。なんと哀れなことでしょうか。そのような人の言葉が他人を助けられるなら、どうして自分を助けられないのでしょうか。私たちはそのような人に、現実をもたない偽善者というラベルを貼るべきです。こうした人たちは他人に真理の言葉を与え、それを実践するよう求めつつ、自分自身は実践する努力を一切しません。彼らは忌み嫌うべき者ではないでしょうか。こうした人たちは、自分は明らかに真理を実践できないにもかかわらず、他人にそれを強要します。何と残忍なやり方でしょうか。彼らは現実を用いずに他人を助けようとし、愛を使って他人に施しているのでもありません。単に人を惑わし傷つけているだけです。それが続き、各人が真理の言葉を次の人に伝えるとすれば、最後は誰もが真理の言葉を語るだけで、自分で実践することができないのではないでしょうか。そのような人がどうして変われるでしょうか。彼らは自分の問題をまったく認識していません。このような人に進むべき道がどうしてあり得るでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道がある」より引用

働き、説教し、表面上は神の発する言葉について交わっているように見えるものの、話し合っていることは神の言葉の文字通りの意味だけで、実質的なことは何も述べていない人がいます。このような人の説教は語学の教科書をもとに教えているようなもので、項目ごと、側面ごとに配列され、説教が終わると誰もが賛美を唱え、「この人は現実を自分のものにしている。とても見事に詳しく説教した」と言います。このような人は説教を終えると、他の人に自分の説教をまとめさせ、あらゆる人に伝えるよう命じます。そうすることで、彼らは他人を惑わすまでになり、説くことはすべて誤りです。表面上は神の言葉だけを説き、真理と一致しているように見えます。しかし注意深い識別力があれば、それらが字句と教義と誤った論法に人間の想像と観念が伴ったものに過ぎず、そして神を規定するものでしかないことがわかります。このような説教は神の働きを妨げるものにならないでしょうか。それは神に逆らう奉仕です。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より引用

あなたがたの認識では人々に一定期間糧を与えることしかできません。いつまで経っても同じことを言い続けていれば、それに気づく人が出てきます。その人は、あなたがあまりにうわべだけであり、深みに欠けると言うでしょう。あなたには教義を説くことで人々を惑わそうとするしか選択肢がありません。このようなことを常に続けていれば、あなたの下にいる人たちはあなたの方法や手順、信仰の仕方、そして言葉や教義を経験して実践に移す仕方を真似ます。最終的に、あなたがひたすら説教を続ける限り、彼らは残らずあなたを手本とするようになります。あなたが他人を指導する中で教義を語ると、下にいる人たちはあなたからそれを学び、物事が進むにつれてあなたは間違った道を進んでしまいます。あなたがどんな道を進もうと、あなたの下にいる人たちは同じ道を進み、何事もあなたから学び、あなたに従います。するとあなたは、「今や私は強力だ。だから多くの人が私に耳を傾け、教会も私の意のままだ」と感じます。人間の内側にあるこうした裏切りの本性は、無意識のうちに神を単なる看板へと変えることにつながり、あなた自身が何らかの教派を組織することになります。様々な教派はどのようにして生まれますか。このようにして教派が生まれるのです。各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、「私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない」と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」より引用

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