宗教界のほとんどの人々は、牧師と長老たちは主によって選ばれ任命されたのであり、彼らはみな教会内で主に奉仕していて、私たちがそのような牧師と長老たちに従い彼らに言われるとおりにするならば、実際に主に従い主に言われるとおりにしていることになると信じています。人に従い人に言われるとおりにするということの正確な意味、神に従い神に言われるとおりにするということの正確な意味については、ほとんどの人が真理のこの側面を理解していません。これについて私たちに話してください。

2021年3月19日

回答:宗教には、牧師や長老はすべて主に聖別され、任命されたという考え方もあります。だから彼らに従うべきだと、この考えは聖書が基になっていますか?主イエスが証言されましたか?いいえ。聖霊の証しがあり、聖霊の働きによるものですか?違うのであれば、牧師や長老はすべて主に聖別され、任命されたという一般的な認識は、人の観念や想像が作り出したものでは?考えてください。律法の時代にモーセは神に任命されました。これは律法の時代の全ユダヤ教の指導者が神に選ばれたという意味ですか?恵みの時代に十二使徒全員が主イエスによって選ばれ聖別されました。多くの人が決まった規則に従い事実に基づいたことはしようとしません。なぜ結果的に人を妄信的に崇拝し、従ってしまうのか。なぜこういうことが分からないのでしょうか。なぜその真理を追及しようとしないのでしょうか。

聖書の記録からも分かるように、神は働きを行う上で、どの段階でも人を選別して、役割を与えます。こうして、神に任命される者は聖霊の働きか、神の言葉によって確証される。律法の時代に、神がモーセをイスラエル人の指導者にしたことは、神の言葉が証明している。ヤーウェ神は言われた。「いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう(出エジプト記 3:9-10)。恵みの時代に、12名の使徒を選んだことも、主の言葉で証明されています。主はペテロを選んだ時、こう言いました。「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか。」「わたしの羊を養いなさい。(ヨハネによる福音書 21:17)わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう(マタイによる福音書 16:19)。神に任命されて使われる者は、御言葉で証明されています。御言葉にない場合でも、聖霊の働きが証明している。彼らの働きは神に認められています。彼らの導きに従うことは神に従うこと、神に使われる人に逆らう者は神にも逆らっている。必ず神に呪われ、罰せられます。例えば、律法の時代、コラやダタンたちがモーセに逆らって、どうなりました?誰もが認める事実です。恵みの時代に、聖別された十二使徒はみな主に確証されています。では、現代の牧師や長老は誰に選ばれたんです?主が選んだという証拠は?彼らのほとんどは神学の学校を出ていて、そこの卒業証書を持っています。牧師を目指して通ったわけで、聖霊の証しを受けて使われているわけではありません。そうじゃありませんか?聖霊が直接牧師に証しをするところや、選ぶのを見た人はいますか?起っていないことだからです。本当に主に選ばれたのなら、絶対に聖霊の証しがあるはずですし、信者も証人になっているでしょう。ですから、宗教界の牧師や長老は主に選ばれていないんです。間違いありません。牧師によっては、主イエスが聖霊の受胎から来たことを信じないそうです。理由は「聖霊による受胎」には科学的根拠がないからです。そういう人がキリストが神の現れであると認めるでしょうか。主イエスの時代に、このような牧師がいたとしたら、どうだったと思いますか?絶対に主を受け入れなかったでしょう。そんな彼らが終わりの日に受肉した神を見たら、どう受け止めるでしょう。ユダヤ教の祭司長や律法学者やパリサイ人と同じように、主イエスを激しく非難し、反抗するでしょう。そのような牧師たちが本当に神に従う者なのでしょうか?彼らは神が受肉したことも信じず、受肉した神が示す真理など認めないでしょう。それこそ、反キリストではありませんか?牧師や長老はみな主に選ばれて使われているという考え方は、まだ成立するんですか?そうやって牧師や長老たちが選ばれた者だと言い続けるのは、神を中傷し、冒涜することになりませんか?果たして、神は選んだ者を導くために、そんな人を使おうとするでしょうか?これはあまりにも不合理な考えではありませんか?事実を歪め、真実を見えにくくしていませんか?

話を聞いて、おわかりになったでしょう。神に聖別された者は直接証しをされています。少なくとも、はっきりした確証があり、聖霊の働きを受けています。神が選んだ人々の命を潤し、真理に導くのです。神こそが義であり、聖なるものゆえに、神が選んで使う者は御心にかなった者です。偽善者であるパリサイ人のはずがありません。真理を嫌い、神に反抗する反キリストであるはずがないんです。現代の宗教界の牧師や指導者はどうでしょう。彼らの多くが神学学校を出た者であり、神に任命された者ではありません。ただ単に神学と聖書を学んだだけです。彼らの説教といえば、聖書の知識と神学論に関することばかり、聖書の登場人物や物語、歴史的背景などです。彼らが教えているのは宗教儀式の実践と規則の順守のことばかり、神の御言葉が持つ真理には無関心です。まして御言葉を実践できるよう人を導くことはない。己をどう知るかとか、いのちの成長の体験は話しません。神の真の認識についてもです。こんな仕事や説教で聖霊の働きを受けられますか?このような奉仕で、神のご意思にかないますか?真理を実践し、正しい信仰の道へ進むよう人を導けますか?聖書を勝手に解釈し、彼らは神に逆らっている。違いますか?すでに全能神は真理を示し、裁きの働きをされています。教会の指導者は、全能神が真理を語り、人を救うと明らかに分かっているはずです。でも受け入れようとしません。さらにひどいことに、信者が全能神の言葉を読むことを禁じています。自分の立場を守るために、全能神をひどく非難し、中傷しています。極悪な中国共産党と協力して伝道者を逮捕し、迫害しています。こうした牧師や長老の行為は主イエスと対立したパリサイ人の行動と、どう違うんですか?私たちが真の道を受け入れるのを邪魔していませんか?このように真理を嫌い、神に反抗する者を神はわざわざ選んで、使われるでしょうか。神は真理を嫌って邪魔をするような者に選ばれた者を導く、役割を与えるのでしょうか。現実的に、あり得ないんです。

宗教界には道理に反した人がいて、よく聖書の言葉を誤用して規則を作ります。彼らは偽善者であるパリサイ人や宗教界の牧師がみな、神に使われる者だと主張しています。これは神に逆らって、冒涜することと同じでは?多くの人がそれを区別できないんです。主を信仰しても、主を讃えず、代わりに賜物や地位や権力に傾倒して、ただ牧師や長老を崇拝します。聖霊の働きがあり、真理を持つ者なのかを区別できていません。単純に牧師が証明書を持ち、才能があり、聖書を解釈できれば、神に認められた人なのだと信じて、みんな従ってしまうんです。中には、もっと重症な人もいます。牧師や長老に従うことは神に従うこと、逆らえば神に逆らうことになると信じているんです。このような観念で行動するのは、ユダヤ教の祭司長や律法学者、パリサイ人と同じです。聖書を良く知っており、内容を説明することはできても、主イエスが現れ働いた時に反抗し、非難することになります。更には、主イエスを磔にするようなことになるんです。これが神に任命されて、使われる者ですか?ユダヤ教の指導者に倣って主イエスに逆らい、非難したら、それは神に従っていることになるんでしょうか?それでは逆に、ユダヤ教の指導者を拒否し、主イエスに従ったなら、それは神に逆らっていることになるでしょうか?「牧師たちに従うことは神に従うこと」「牧師たちに逆らうことは神に逆らうこと」この考えはあまりにもばかばかしい、まやかしです。私たちは神の信者です。宗教界の牧師や長老が神に逆らって、真理を犯し、神に反抗する道へ導こうとするなら、私たちは神の側に立って、それを暴露し、そういう者を拒否するべきです。それが神に従うことです。闇を捨てて、光を呼び、神のご意思に沿えるのです。牧師や長老への対処に当たっては、真理と神のご意思についてよく考えましょう。もし牧師や長老が真理を愛し追求するならば、必ず聖霊の働きがあります。私たちを神の言葉へと導いて、悪を遠ざけてくれるはずです。そういう人を敬ってついていく、それでこそ神のご意思にかないます。もし彼らが真理を愛さず、聖書や神学理論の知識を盾に自分をひけらかし、地位を築くことに執着し、自分に従わせる人ならば、さらに神を讃え証し、私たちを御言葉の実行へと導かない人なら、それは神に非難され、呪われる者なのです。そして、その人を崇拝して、従う人も同様に神に反抗することになります。神のご意思に背いていることになります。

神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

神に付き従うとは正確にはどういうことでしょうか。真理のこの側面に関して、まず全能神の御言葉の一節を読みましょう。「神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちへの入りを追い求めているのであれ、神の旨を成就させることを追い求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならない。あなたが交わり、そして追い求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っている。神が望むのは神の歩みに従う人である。あなたが以前に理解したことがどれほど素晴らしく、また純粋なものであっても、神はそれを望んでおらず、あなたがそうしたことを脇へのけられないなら、それは将来におけるあなたの入りにとって大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従える人はみな祝福されている。過去の人々も神の歩みに従ったが、今日まで従うことはできなかった。これは終わりの日の人々の祝福である。神が自分をどこへ導こうともそれに付き従うほど、聖霊の現在の働きと神の歩みに従える人たちは、神に祝福される人である。聖霊の現在の働きに従わない人たちは神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど駆け回ろうとも、そのどれも神には意味がなく、神はそうした人を賞賛しない。……『聖霊の働きに従う』とは、今日の神の旨を理解し、神の現在の要求に従う形で行動すること、今日の神に服従して付き従うことができ、神が発する最新の言葉に従う形でいのちに入ることを意味する。聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいるのはそうした人だけである。そのような人は神の賞賛を受け、神を目の当たりにできるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることもできる。さらに、奉仕する中で自分の性質を徐々に変えることができる。このような人だけが神を得ることができ、真の道を本当に見つけた人である(『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」〔『言葉』第1巻〕)。神に付き従うとは、何よりも神の現在の働きに従い、神の現在の御言葉を守り実践することであり、神の戒めを守ることができ、万事において神の御心を求め、神の御言葉通りに実践し、聖霊の働きと導きに絶対的に従うことです。最終的には、真理を実践して神の御心に従う者となることを指します。このような者だけが神の追従者、神の救いを得る者なのです。もし私たちが信仰において、表向きは聖書に頼り、聖書を持ち上げていても、実際の実践と経験では聖書に登場する人々の言葉と教えに従い、聖書にある神の御言葉は守らず実践もせず、また神の御旨を把握せず、宗教上の儀式や規則を守るだけなら、それは人に付き従っていることになります。もし聖書に登場する人々の言葉をあたかも神の御言葉であるかのように守って実践しながら、主イエスを単なるお飾りとみなし、主の御言葉を無視し、主の戒めに適うことは何もしなければ、私たちは確実に偽善的なパリサイ人のように主イエスに拒まれ呪われるでしょう。主を信じていながら有名な霊的偉人や牧師や長老を盲目的に崇拝している人たちがたくさんいます。彼らは偽善的なパリサイ人を崇拝しているのです。何かが降りかかると、いつも牧師や長老に指導を求めに走り、真の道を探ることに関しても同じことをします。その結果、偽善的なパリサイ人や宗教指導者に惑わされて迷い、神に抵抗する道を歩むようになります。これが神の代わりに人に付き従うことの結果と結末です。本当に神に付き従う唯一の道は、ただ聖霊の働きに従うこと、神の現在の御言葉に従うこと、聖霊の働きの歩みをたどること、自分の本分を全力で果たすことを信仰の基盤にすることです。特に神が終わりの日の裁きの働きを行われている現在、宗教界は聖霊の働きを失い、荒れ果てています。私たちは真の道を求めざるをえなくなったからには、聖霊が諸教会に向けた言葉を探すことにもっと専念しなくてはなりません。神の御言葉と語りかけ、そして聖霊の働きを求めなくてはならないのです。もし聖霊の言葉と働きを探し求めず、神の御声を聞くことができず、神の現在の言葉から糧を得ることができなければ、私たちは終わりの日の神の働きのあいだに逆に排除されて捨てられてしまい、暗闇の中に転落し、泣いて歯ぎしりすることになります。本当に神に付き従う者は決して神に見放されることはありません。宗教界の牧師や長老を崇拝する者は人に付き従う者です。このような者は最終的には神の働きによって暴露され、排除されて捨てられるのです。

私たちは口では自分たちが神を信じている、ただ神に付き従うべきだと叫んでいますが、実態は違います。このことは、恵みの時代のユダヤ教徒たちの主イエスへの接し方と、ペテロやヨハネらの接し方を対比してみればよく分かります。主イエスは新しい働きを行い、真理を述べて悔い改めの道をもたらされましたが、当時のユダヤ教徒のほとんどは祭司長とパリサイ人の教えにしか耳を傾けませんでした。彼らは主イエスの働きと御言葉を受け入れず、その結果主イエスの救いを失いました。名目上は神を信じていましたが、実際には祭司長と律法学者とパリサイ人を信じてたのです。しかし、ペテロやヨハネ、マタイ、ピリポらは主イエスの御言葉と働きには権威と力があり、真理であると悟りました。彼らは主イエスの御言葉と働きが神から来たものであると分かったので、主にしっかり付き従ったのです。パリサイ人の支配を全く受けず、本当に神に付き従う人々だったのです。終わりの日において、神に本当に付き従う唯一の道は、全能神の裁きの働きを受け入れて従うことであり、このことは「彼らは……小羊の行く所へは、どこへでもついて行く」(ヨハネの黙示録14:4)という黙示録の預言を成就します。現在は宗教界の指導者がユダヤのパリサイ人の役割を演じており、あらゆる手を尽くして聖書の中の人の言葉を持ち上げていますが、彼らは主イエスの言葉を裏切っています。更に愚かなことに、終わりの日の神の働きを非難するために聖書を利用し、聖句を文脈から切り離して引用しています。それは信者を惑わし、束縛し、支配するためです。例えば、主イエスは、「天にいますわが父の御旨を行う者(マタイによる福音書7:21)だけが天の御国に入るとはっきりと述べられました。しかし、宗教界の指導者のあいだでは、信仰においてするべきことはただ懸命に働くことであり、そうすれば天の御国に入ることができる、天の御国は力で掴めるものだと言われています。主イエスは私たちに「主なるあなたの神を拝せよ(マタイによる福音書4:10)と求められました。しかし、有名ないわゆる霊的偉人の中には、信者に自分自身が神になることや、王になって諸国民に権力を振るうことを追求させる者がいます。これは全く荒唐無稽です。宗教界の指導者は名目上は主のために働き、説教をしていますが、実際にはただ人間による教えを広め、自分たちの考えを私たちが遵守すべき真理として売り込んでいます。彼らは偽善的なパリサイ人と同類であり、道案内をしようとする盲人です。キリストに抵抗し、対等な立場で主に対抗しようとしています。自分たちの別々の独立王国を打ち建てようとする反キリストです。私たち信者は一度宗教界の指導者や有名人に従い始めれば、自分の道を歩み主の道から逸脱するようになります。これは非常に深刻な神への抵抗と裏切りの例です。もし悔い改めなければ、確実に神に捨てられ、排除されてしまうでしょう。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より引用

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神に従うとは何か。人に従うとは何か。

神に付き従うとは、何よりも神の現在の働きに従い、神の現在の御言葉を守り実践することであり、神の戒めを守ることができ、万事において神の御心を求め、神の御言葉通りに実践し、聖霊の働きと導きに絶対的に従うことです。

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