救われるとは何か。完全な救いを得るとは何か

2017年11月21日

参考聖書箇所:

「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書 16:16)

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である」(マタイによる福音書 26:28)

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイによる福音書 7:21)

関連する神の言葉

当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」(『言葉』第1巻)

神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にはりつけになった後、人間を罪から取り戻す(つまり、サタンの手から人間を取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪が赦されるようになった。名目上は、人間の罪はもはや救いを得て神の前に出る妨げとはならず、サタンが人間を責める手立てではなくなったということである。それは、神自身が実際的な働きをし、罪深い肉の形を取り経験し、罪のための捧げ物となったからである。こうして、神の肉、罪深い肉の形をとった神のおかげで人間は贖われ、救われて、十字架から降りた。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

神を信じることの意義は救われることですが、救われることの意義は何ですか。人はよく「救われる」とか「サタンの暗い影響から自由になる」といった事柄について語りますが、救われることが何を意味するのかを知りません。救われるとは、堕落した性質から自由になるという意味ですか。嘘をつかないという意味ですか。正直な人になって神に逆らわないという意味ですか。救われるとき、人は一体どのようになりますか。これは神の旨と関係しています。平易な言葉で言えば、救われるとは生き続けられること、生き返ることを意味します。ではその前は、話したり呼吸したりすることができても、あなたは死んでいるのですか。(霊が死んでいます)霊が死んでいるなら人は死んでいると言われるのはなぜですか。そう言われる根拠は何ですか。救われる前、人はどこにいますか。(サタンの支配下にいます)人はサタンの影響下で暮らしています。そのような人は何に頼って生きていますか。自分のサタン的本性、堕落した本性に頼って生きています。自分の堕落したサタン的本性によって生きるとき、肉だけでなく霊や考えといった他のすべての側面を含めて、その人の存在全体は生きていますか、死んでいますか。神の視点から見れば、彼らは死んでいます。表面上は呼吸をし、瞬きし、考えているように見えますが、考えていることはひとえに何ですか。絶えず考えていることはどれも悪であり、神に背いたり反抗したりすること、神が嫌い、憎み、断罪することを考えています。神の目から見れば、こうしたことはすべて肉に属するだけでなく、サタンと悪魔に完全に属してもいます。では、神の目から見て人は何ですか。人間ですか。神は人を悪魔、動物、サタン、生けるサタンとして見ます。人はサタンの物事、サタンの本質によって生きており、神の目から見れば、人の皮を被った生けるサタンなのです。神はこのような人を歩く死体、死人と定義します。神はこのような人、つまり堕落したサタン的な性質や堕落したサタン的な本質によって生きるそうした歩く死体に現在の救いの働きをします。つまり、これらのいわゆる死体を生ける者へと変えるのです。それが救われることの意味です。

神を信じる目的は救いを得ることです。救われるとは何を意味しますか。それは死者から生ける者へと変わることを意味しています。その含意は、あなたの呼吸が蘇り、あなたが生きるということです。あなたは目を開き、神を知り、ひれ伏して神を崇めることができるのです。心の中に神への抵抗はもはやありません。神に抵抗したり、攻撃したり、反抗したりすることも、もはやありません。そうした人だけが神の目から見て本当に生きています。自分は神を認めているし、神が存在することを心の中で信じていると言うだけなら、その人は生きていますか。生きていませんか。(生きていません。)では、どのような人が生きていますか。生きている人はどのような現実を自分のものにしていますか。最後に救われる人は生きている人になります。生きている人は話すことができますが、では何を言いますか。生きている人には思考や思いがありますが、どのようなことを考えますか。それにどのようなことをしますか。彼らの言動の本質は何ですか。それは明らかにすること、考えること、行なうことのすべてが、神を畏れ悪を避けるという本質によってなされるということです。より適切に言えば、行ないや考えがどれも神に非難されず、嫌われたり拒否されたりもしません。むしろ神に認められ褒められます。それが生ける者の行なうことであり、また行なうべきことでもあります。

『キリストの言葉の記録』の「真に服従していることだけが本当の信仰である」より引用

もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。

『神の出現と働き』「あなたは生き返った人か」(『言葉』第1巻)

人の肉はサタンに属しており、反抗的な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れて不純である。人は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは過多にある。そのため神は肉をある程度嫌っている。汚れて、堕落したサタンのものを人が捨て去れば、神の救いを得る。しかし、汚れや堕落から抜け出さないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下に生きることになる。人の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はすべてサタンに属するものである。神があなたを救うのは、こうしたサタンのものからあなたを解放するためである。神の働きが間違っていることはなく、すべては人を闇から救うために行われる。ある程度まで信じ、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けないならば、救われるのではないのか。サタンの支配下で生きるなら、神を現わすことはできず、あなたは汚れており、神の嗣業を受け取ることはできない。いったん清められ完全にされると、あなたは聖くなり、正常な人になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる。

『神の出現と働き』「実践(2)」(『言葉』第1巻)

霊の事柄に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を実際に生きることを追求しない者、否定的な側面で征服されることにのみ満足している者、そして神の言葉によって生き、聖なる人になることができない者――このような者たちは皆救われていない人々である。なぜなら、人間に真理がない場合、人間は神の試練の時に揺るぎなく立つことができないからである。神の試練の中で揺るぎなく立つことができる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられている。この救いは、神により救われることを切望する者たちに授けられており、あなたがたが得るためだけのものではなく、あなたがたが神によって得られるためでもある。神によって得られるために、あなたがたは神を得るのだ。今日、わたしはあなたがたにこの話をし、あなたがたはそれを聞いたので、あなたがたはこの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこの言葉によりあなたがたを得る時である。それと同時に、あなたがたはこれらの言葉を得る、すなわち、あなたがたはこの至高の救いを得るであろう。あなたがたが清められる時こそ、あなたがたは真の人間となるであろう。もし、あなたが真理を実際に生きること、あるいは完全にされた者の姿を実際に生きることができないなら、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるであろう。なぜなら、あなたには真理がなく、言ってみれば、あなたにはヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後に証しすることは可能であるが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、あなたは霊を持った生けるものとはなってはいない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い人のままであり、いまだにサタンに属しており、あなたは清められた者ではない。完全にされた者のみに価値があり、このような人々だけが真の人生を得たのである。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

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