創造主の統治を知る機会を逃してはならない

2018年7月27日

先述した六つの節目は、創造主により定められた非常に重要な時期であり、普通の人間の一人ひとりが人生において通過しなければなりません。人間の観点から見ると、これらの節目はそれぞれすべて現実であり、不可避であり、そのすべては創造主による定めと統治に関係しています。そのため、人間にとって、そうした節目のそれぞれが重要な関門であり、あなたがたは現在、それを如何に円滑に通過するかという重大な問題に直面しています。

人生を構成する数十年間は短くもあり長くもあります。出生から成人までの二十年余りは瞬く間に過ぎ去り、人生のこの時点で人は成人とみなされるものの、この年頃の人々は、人生や人間の運命に関して、ほぼ何も知りません。彼らは多くの経験を重ねながら、次第に壮年期へと移行します。三十代と四十代の人々は人生と運命に関する初期的な経験を得ますが、それらの物事に対する彼らの認識は依然として極めて曖昧です。四十歳になって初めて、一部の人は、神が造った人類や宇宙について理解し始めるとともに、人生とは何たるか、人間の運命とは何たるかについて把握し始めます。長年にわたり神に付き従い、現在、壮年に達している人の中には、神の統治に対する正確な認識や定義を持たず、ましてや真の服従については知る由もないという人々がいます。祝福を受けることを求めるのみで、それ以外のことには関心を向けようとしない人々もおり、そうした人々は長年生きてきたにもかかわらず、人間の運命を創造主が統治しているという事実に対する認識や理解を少しも持たず、神の指揮や采配に服従することについて実践経験を積もうとすることが少しもありません。そのような人々は完全に愚鈍であり、人生を無駄に過ごしています。

人生経験と人間の運命というものを人々がどの程度認識しているかに基づいて人間の生涯を区分すると、大まかに三つの段階に分けられます。第一段階は出生から壮年あるいは三十歳になるまでの青年期です。第二段階は壮年から老年あるいは三十歳から六十歳までの熟年期です。第三段階は、老年期あるいは六十代から他界するまでの晩年期です。言い換えれば、出生から壮年に至るまでは、運命や人生に対する大半の人々の認識は、他人の考えを踏襲するに留まるもので、その考えの中に現実的、実践的な部分は全くないに等しいです。この時期においては、人生観や、他者との付き合い方は、総じて極めて表層的で、未熟です。これが人の青年期です。人生の喜びや悲しみをすべて味わって初めて、人は運命を真に理解し、潜在意識で、そして心の奥底において、運命の不可逆性を徐々に認識し、人間の運命に対する創造主の統治が実際に存在することを少しずつ認識します。これが人間の熟成期です。運命に対抗して苦戦するのを止め、争いに巻き込まれるのを厭うようになり、むしろ、自らの人生における運命を知り、天の意に服従し、自分の人生における功績と失敗を概括し、人生に対する創造主の裁きを待つ時、人は完熟期に入ります。こうした三段階の期間において人間が得る様々な経験や進歩を考慮すると、通常の状況では、創造主の統治を知る機会はそれほど多くありません。人が六十歳まで生きる場合、人が神の統治を知るための期間は三十年ほどしかありません。人がそれよりも長い期間を望むのであれば、長生きして百年生きられる場合のみ、それは可能となります。それゆえ、人が創造主の統治を知るという問題に初めて直面する時から、創造主の統治という事実を認めることができるようになり、その後、それに服従することができるようになるまでの過程は、極めて長期的な過程です。しかしながら、人間の平均寿命に基づいて実際にその年月を数えてみると、人がこうした恩恵を受け取れる機会は、わずか三十年ないし四十年程度しかないと言えます。しかるに、人々は、祝福を得るという自らの願望や大望に夢中になるため、人生の本質が何処にあるかを見分けることができず、創造主の統治を知ることの重要性を把握できないということが往々にしてあります。そのような人々は、人間の世界で人間の生活を送って創造主の統治を経験するという貴重な機会を大切にせず、創造主より各個人に向けた導きを享受することが造られた人間にとってどれほど貴重であるかを認識することもありません。したがって、創造主の実の姿を直ちに直接見て、できるだけ早く祝福を得ることができるよう、神の働きが迅速に終わり、神が人間の終りの時をできるだけ早期に計画することを望む人々は、最も重い反逆の罪の裁きを受ける究極的に愚かな人々であると言えます。その一方、限られた時間に、創造主の統治を知るという唯一の機会を得ることを望む人々は、この上なく鋭敏な精神を備えた聡明な人々です。これら二通りの異なる願望により、二通りの全く異なる見解と追求が浮き彫りになっています。祝福を求める人々は自己中心であり、卑劣であり、神の旨に対する配慮を全く示さず、決して神の統治を知ろうとも、それに従おうともせず、単に自分の好きなように生きることを望みます。彼らは軽率な堕落者であり、滅ぼされるべき種類です。神を知ることを望む人々は、自分の欲望を捨てることが可能であり、神の統治と采配に進んで服従し、神の権威に従順であるとともに神の望みを満たす側の人になろうとします。そのような人々は光と神の祝福の真っただ中に生活し、確実に神の賞讃を享受します。いかなる場合であっても、人間による選択が役に立つことはなく、神の業がどのくらいの期間を要するかについて人間が干渉することはできません。人間にとって、自らを神の采配に委ね、神の統治に服従する方が良いのです。あなたが自らを神の采配に委ねないとしたら、あなたに何ができますか。神に損害が及びますか。神の采配に自らを委ねずに、自らが担い手になろうとした場合、あなたの選択は愚かであり、最終的に損害を被るのはあなたです。人間ができる限り早く神に協力し、神の采配を受け容れ、神の権威を知り、人間に対する神の業のすべてを理解した場合に限り、人々には希望があります。この方法によってのみ、人間は人生を無駄に生きることなく、救いを得るでしょう。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)

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