しかし、多くの兄弟姉妹が心では牧師や長老たちを崇拝しています。彼らはしばしば聖書を解釈し、讃えていたにもかかわらず、なぜ真理を忌み嫌い、受肉された全能神に未だに反抗し、非難するのかは理解していません。聖書を解釈し、讃えることは、主について証し、讃えることと同じでしょうか?

2019年4月2日

回答:すでに宗教界では、聖書を一番良く解釈できる者、最も優れた聖書論を持つ者こそ広く讃えられ、崇拝されるという傾向があります。聖書と預言の謎を解き明かせる者が一番讃えられるのです。したがって多くの人が教会で牧師や長老たちを崇拝しています。彼らが聖書を解釈し、讃えるほど主について証し、主を讃えている、とみなされるからです。終わりの日に牧師や長老たちが全能神の働きに反抗し、非難するのを見て彼らの多くが葛藤し、困惑しています。一方で、彼らは牧師や長老たちが聖書を解釈し、讃えることが主について証することだと思っている者もいます。全能神は真理を表されているにもかかわらず、なぜ牧師や長老たちは彼に反抗し、非難するのでしょうか? 彼の名前が主イエスではないから非難するのでしょうか? いずれにせよ、全能神は表して下さるものはすべては真理ですので、非難されるべきではありません! それでは何故、真理を表してくださる全能神を、牧師や長老たちは徹底的に反抗し、非難するのか? 多くの人が理解していません。実際は、この問題の説明はそんなに難しくありません。主イエスが御業を行われた時のことを思い出してみてください。ユダヤ教の祭司長、律法学者やパリサイ人たちは同じように狂ったようにに主イエスを非難し、反抗しませんでしたか? 主イエスを十字架に磔にしませんでしたか? これは主イエスがメシアという名で呼ばれていなかったからでしょうか? 彼が多くの真理を表したからではなかったでしょうか? 彼らは主イエスの言葉には権威と力があり、奇蹟を起こすことができると分かっていたからです。何千という多くの人がイエスに従うのを見、ユダヤ全体を驚かせたからです。もし彼らがイエスが神の御業を広めることを許していたなら、ユダヤ教そのものが倒されるかもしれず、その結果は想像を絶するものだったでしょう。だからこそ、彼らは主イエスに対する嫌悪を持つようになり、彼を殺そうと望んだのです。これが主イエスが十字架に磔にされた理由です。当時、祭司長、律法学者、パリサイ人たちはみんな聖書を解釈し、讃えていませんでしたか? では、彼らはなぜ主イエスを十字架に磔にしたのでしょうか? 簡単に言うと、パリサイ人たちは真理と神の御業を忌み嫌っていたからではありませんか? 彼らはその地位と食い扶持を守るため、真理を表す神に対して冷酷で残忍でした。見てお分かりの通り、神に反抗するためならどんな邪悪なことでも喜んでやったのです! 真理を忌み嫌い、神に反抗するという彼らの真の姿を見抜くのはそう難しいことではありません。彼らは自分たちの地位と食い扶持のために聖書を解釈し、讃えています。神と真理への嫌悪でいっぱいだったのです。なので、主イエスが真理を表され、御業を行われた時、真理を忌み嫌い、神に反抗するその真の正体が完全に暴かれたのです。これから分かるように、人が神に反抗するのは聖書をどう解釈するかによって影響されるものではありません。彼らの本質によるものです。真理を忌み嫌い、神に反抗する本質を持つ人々にとっては、どのように聖書を解釈しようが、心の中にある真理への嫌悪と神への反抗は変えられません。パリサイ人たちは、主イエスを非難し、反抗するために聖書の解釈を使っていませんでしたか? これは昔、神が明らかにされたものです。これでもまだわかりませんか?

パリサイ人たちも牧師や長老たちも、どちらも聖書を解釈し、讃えています。にもかかわらず、どうして肉となった神に反抗し、非難することができるのでしょうか? 私たちはもう一つの事実を理解しなければなりません。聖書は神の証でしかありません。律法の時代と恵みの時代における、神の働きの記録です。神はその働きの段階に応じていくつかの真理を表し、人々は、その言葉の中に神の性情のすべてを見るのです。したがって、人は神の働きの段階を踏んでゆくことで真理を知り、神についてもっと学んでいくのです。その経営計画の3段階を通して、神はその性質のすべてを少しづつ明らかにされるのです。神の国の時代では、神はその本来の義なる性情、全能性、知恵、権威、そして栄光を完全に明らかにされます。もし私たちが、律法の時代と恵みの時代の神の御業だけしか知らなかったら、それは限られた神についての認識でしかありません。律法の時代に信者たちが、ヤーウェ神の働きを通して神の実存と知恵のある行いを知った、ヤーウェ神の律法は侵害されることのないものだと認識したのです。恵みの時代では、信者たちが主イエスの御業を見たとき、彼が憐れみ深く、慈悲深い神、人類の救い主だということを知りました。しかし、神の本質、その本来の義なる性情については理解することがありませんでした。真の神への認識を得ることはできなかったのです。ですから、もし私たちが律法の時代と恵みの時代の神の御業と言葉しか知らないのであれば、私たちの神への認識は偏ったものだということになります。神の性情、神が何であるかを部分的にしか知らないということであり、本当に神について知っているというレベルには達していません。神を知らない人が聖書を解釈すると、神を人の定義に押し込め、反抗しがちです。そうですね? しかし、ユダヤ教の祭司長、律法学者やパリサイ人たちは神を知らなかったばかりか、それ以上に重大なのは、悪魔のような本質を持っていたということです。彼らは真理を忌み嫌い、神に反抗したのです。それこそが彼らの致命的な欠点でした! もし彼らの心が正しければ、たとえ神を知らなかったとしても、愛に満ちた主イエス、人類の救世主を十字架に磔になどしなかったでしょう。パリサイ人の心の中には神の居場所はなかったということが理解できました。彼らの地位と食い扶持は何よりも重要だったのです。だからこそ、それらが神の働きによって脅かされたとき、神を敵と見なし、死に至らしめたのです。ご存知のように、彼らの心と本質は非常に醜いものでした! 神が彼らを「まむしの子ら」と呼ばれたのも納得がいきます。宗教界の指導者たちが神を知らなかったとしても、神を非難することに狂奔し、反抗する者は反キリストとして正体を暴かれるでしょう。もちろん、宗教界の指導者によっては神の働きについて持論を持っているでしょう。それでも、神を畏れる心があれば、言葉で神を非難したり反抗したりはしないでしょう。例えば、主イエスがその働きを行われた時、律法学者であるガマリエルは主イエスを非難しませんでした。ニコデモは夜ひそかに主イエスを訪れ、真理を探ることができました。これらはすべて聖書に書かれている事実です。見ての通り、神を信じていながら神を知らない人や神を畏れている人は、神に仕えていても、反抗しがちです。もし真理を忌み嫌う本質と醜い心を持つ人が宗教界の指導者になれば、遅かれ早かれ、反キリストとして正体を暴かれるでしょう。これは誰も否定することのできない事実です! これではっきりと理解できましたか? 当時、主イエスは偽善的なパリサイ人の正体を批判的に暴き、呪いました。終わりの日には全能神が、間違った聖書の解釈で人々を迷わせ、主に反抗する反キリストの本質を持つ牧師や長老たちの正体を暴き、裁き、非難しました。全能神の言葉からもう2節読みましょう。「荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)

そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。……彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの『神聖で犯すべからざる』本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で『王』となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか(『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の言葉は牧師や長老たちの本質を明確に表しています。彼らは聖書を解釈しているにもかかわらず神に反抗しているのです。牧師や長老たちは神を知りません。むしろ神を人の定義に押し込め、反抗しています。これは特に、全能神を非難し、冒涜している牧師と長老たちに当てはまります。彼らの本質は主イエスを十字架に磔にしたパリサイ人たちと同じで、真理を忌み嫌う、悪魔のような、卑劣な人たちなのです。彼らは皆、神の御業によって正体を暴かれた反キリストです。彼らは皆、再び神を磔にした者たちで、神によって呪われています。

誠に主に証し、主を讃えるのは、いかに聖書を解釈するかとは関係ありません。神の言葉を実践し、神の働きを体験できるか、が重要なのです。真理を愛するのであれば、聖霊の啓示と神の言葉の経験と認識を本当に得るでしょう。この認識は神の言葉を実践し、体験することから生まれるもので、誠に神を知ることを意味します。これらの実際の体験と証を伝えることが、誠に神を讃え、神に証する、ということです。神を讃え、証する人たちが言う真の神への認識とは、自分自身の考えや想像、または道理から来るものではなく、ましてや、神の言葉を文字通りに解釈することからくるものなどでは絶対にありません。神を讃え、証する人たちは聖書の中の神の言葉を伝え、人々が神の御心と性情を理解し、誠に神を知ることができるように神の御心、神から人々への要求、神の性情のすべてを伝えることに心を配っているのです。これが神をあがめ、従うための方法です。このような聖書の解釈と伝え方によって本当に神を讃え、証することができるのです。しかし、牧師や長老たちが聖書を解釈するとき、本当に神の言葉にある真理の本質を伝えることができているでしょうか? 神の心を伝えることができているでしょうか? 神の性情について証できているでしょうか? ほかの人たちが神を知り、従い、あがめることができているでしょうか? これらの事実によって、宗教界の牧師や長老たちが真理を忌み嫌い、神に反抗しているのがよくわかります。これが彼らの本質なのです。神の言葉を実践せず、神の働きさえも体験しようとしません。神の御心や要求を理解しようとせず、ましてや、神の性情のすべてを理解することなど全くありません。なので彼らは本当の神への認識を伝えることなどできず、主イエスの神性の本質や愛すべき人柄について証することもできません。彼らは、単に聖書の知識と神学的な理論や、聖書の中のある登場人物の話を歴史的背景をかいつまんで解釈し、人々の尊敬を得ようとしているだけです。そればかりか、パウロのような、聖書の中に出てくる人間の言葉を解釈するのがほとんどです。パウロの、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものである」という言葉をまさに神が言われたように受け取っています。これによって、宗教界全体が使徒の言葉を神の言葉として実践し、従うよう、信者に教えるようになってしまったのです。彼らは、説教をしたり、伝道や証するとき、これまで以上にもっと使徒の言葉を引用するようになりましたが、神と主イエスの言葉の引用は少なくなる一方です。結果的に、聖書にある神と主イエスの言葉はすべて置き換えられ、削除されてしまっています。パウロや他の使徒の影響がどんどん大きくなり、人々の心の中の主イエスの存在はますます小さくなってしまい、パウロとその他の者の言葉で人の心はいっぱいになってしまっています。人々は主イエスの名を信じてはいますが、実のところは、パウロの言葉のように、聖書の中の人間の言葉によって神への信仰の道を自分なりに進んでいます。神を信じている人はどうすれば神の道から外れることなく歩めるのでしょうか? このような行いが神の御心に叶っていことがあり得るのでしょうか? 例えば、主イエスはある時、天の国について「天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」。しかし牧師や長老たちは、主の言葉ではなくパウロの言葉を用いて、救いと天国について語っています。これは主イエスの言葉に対しての完全な裏切りであり、その結果、信者のほとんどが神の心に従うにはどうすればいいのかわかっておらず、またどのような人が天の国に入れるかもわかっていません。人々は、というパウロの言葉を教訓としています。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである……(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)。牧師や長老たちは、パウロのように主のために働き、苦しみに耐えさえすれば天の国に入ることができると教えています。神の言葉を人のそれで置き換え、神の言葉を排して人々を惑わしています。このような聖書の解釈で、神を讃え、証していると言えるでしょうか? 私は、彼らは神に対して真っ向から対立していると思います。これは非常に深刻な問題です! 牧師や長老たちはしばしば聖書の中の人物の言葉を神の言葉として代用します。これによってどういうことになるか、皆さんはもうご存知ですよね? 多くの人が長年信じてきたにもかかわらず、主を知らないのはどうしてでしょうか? 彼らはなぜ主の言葉を一度も体験したことがないのでしょうか? どうして、このように主を信じている人たちは真理と命を得ることができるでしょうか? これは牧師や長老たちが聖書の中の人物の言葉を解釈し、証し続け、彼らに従う人たちにこれらの言葉を守るよう促してきたからではありませんか? このような解釈の仕方で、どうやって主を讃え、証するのでしょうか? このような行いが主の御心と一致していることはあり得なくないですか? 彼らは偽善的なパリサイ人たちと何ら変わりはありません。神に反抗しながらも、神に仕える道を歩んでいます。終わりの日に、受肉された神が現れて働きを行うときに、彼らは平然と反抗し始め、神の働きを非難し、それによって、彼らの真理を忌み嫌い、神に反抗する悪魔のような本質が暴かれたのです。最終的に、彼らは神によって罰せられるでしょう。まさに全能神が言われる通りです。「各教派の指導者を見てみなさい。彼らはみな傲慢で、独善的で、彼らによる聖書の解釈には背景がなく、自分自身の想像に導かれています。彼らはみな才能と知識に頼って働きを行ないます。彼らがまったく説教できなければ、人々は従うでしょうか。彼らにもやはり多少知識があるので、何らかの教義を説くことができたり、人を勝ち取る方法や、策略の活用法を知っていたりします。彼らはそれを用い、人々を自分たちの前に連れてきて惑わします。名目上、それらの人たちは神を信じますが、実際には指導者に従っているのです。そうした人が真の道を説く人物に出会うと、『私たちの信仰について、指導者に相談しなければならない』と言う人がいます。神に対する彼らの信仰は人間が媒介になっているわけですが、それは問題ではありませんか。それで、これらの指導者はどうなりましたか。パリサイ人、偽の羊飼い、反キリスト、人々が真の道を受け入れるのを妨げる躓きの石となったのではありませんか(「真理を追求することだけが、神を真に信じることである」『キリストの言葉の記録』)。全能神は、神に反抗する牧師と長老たちの本質を明確に暴きました。真の信者と真理を求めている人は、牧師と長老たちは、自分たちの都合のいいように聖書を引用し、神への反抗として聖書を誤って解釈しているという事実を理解すべきです。そうすれば、彼らの欺瞞と支配を逃れ、神の御座へと戻ることができるでしょう。

終わりの日の全能神の働きは、宗教界の牧師や長老たちの反キリストである正体を暴きました。もしそうでなかったら、彼らの聖書への讃えと解釈が人々を騙し操るための狡猾な手段だとはわからず、また、彼らが神の敵として独自の国を築こうとしているという事実にも気付かなかったでしょう。その昔、パリサイ人は聖書を讃え、証しました。聖書の中に神を押し込めたのです。彼らは真理を求めようとも、神の足跡を辿ろうともしませんでした。その結果、主イエスが旧約聖書の遵守を拒否したことを理由に、彼を十字架に磔にしました。彼らは非常に深刻な罪を犯したのです! 終わりの日の牧師や長老たちは、まさにパリサイ人たちのようです。彼らは聖書を讃え、証し、聖書によって神を定義し、「神の言葉や御業は聖書以外には存在しない」「聖書を信じるということは神を信じるということである。聖書は神を象徴し、聖書から離れれば、すなわち神を信じなくなったということである」などと、誤った考えを広めています。このような言葉を使って、聖書を信じ、崇拝するように人々を迷わせ、まるで聖書が神であるかのようにふるまい、神を聖書で置き換えてしまっています。牧師や長老たちはこの手の込んだ秘密のやり方で神から人々を奪い、聖書へと導いているのです。これは人々が無意識のうちに神との関係を失う原因となっていて、かつて神を信じていた人たちは、今となっては聖書のみを信じています。彼らにとっては聖書が主であり、神になってしまっていて、その盲目的な信条と崇拝は、牧師や長老たちのような聖書学者を崇拝し、従う原因となっているのです。牧師や長老たちは、聖書を、宗教界を操り彼らの野心を遂げるための道具として使い、人々を騙し、陥れ、操るために讃えて、都合よく解釈しています。彼らは人々が人を崇拝し、人に従い、神に反抗する敵となるように潜在的に導いています。彼らは、聖書を崇拝し、聖書を守ることが神を信じることであり、神の存在を得ることだ、という誤った考えで人々を迷わせているので、終わりの日の神の働きを求めたり学んだりせず、救われる最後のチャンスを逃しているのです。これこそ、サタンの最も陰険で狡猾な計画です。非常に悪どいやり方です! これで、宗教界の牧師や長老たちが本物のパリサイ人また詐欺師であることがわかります。彼らは、神の選民を迷わせ操ろうとする偽羊飼いであり、反キリストなのです! 宗教界は、神に反抗するパリサイ人たちと反キリストの悪魔によって操られていて、ずっと前から、神が働きを行える場所ではなくなっています。神を敵と見なすサタンの陣営、大いなる都市バビロンになってしまったのです! 神の怒りの下にこの宗教的バビロンが倒れないことなどあるでしょうか?

少なくとも律法の時代の末期までさかのぼることがお分かりだと思います。恵みの時代の間、神が肉となって初めて働きをされた時宗教界はすでにパリサイ人や反キリストによって乗っ取られていて、主イエスの贖いの働きに対する反抗勢力となったのです。終わりの日のキリストである全能神が現れ御業を行われる時でも、宗教界の人々は神の裁きの御業に対して反抗する敵として立ちはだかります。彼らは徹底的に全能神を非難し、冒涜するだけでなく、全能神教会を迫害し、弾圧するために中国共産党の悪魔政権と手を組み、神を十字架に磔るという凶悪な罪を再び犯したのです! 主イエスはパリサイ人を呪われ、宗教界の闇を明らかにされただけでなく、終わりの日に全能神が裁きの働きを行われる時に神に反抗する牧師や長老たちの本質を暴かれました。さらに、再び神を磔にした反キリスト達も呪われました。非常に考えさせられる内容です! 神が肉となられたどちらの時代でも、神は宗教界を非難され、呪われました。これは何を示しているでしょうか? 神の選民は、宗教界、すなわち大いなるバビロンは倒される運命にあるということが、ようやく理解できるということです。宗教界は名目上神を信じていますが、神を讃えたり証したりすることは一切ありません。御心を満たすこともせず、神の選民を御座に引き上げることもできず、もちろん神の言葉の実践と体験により、彼らが真理を理解し神を知るよう正しい道へと導くことさえもできません。宗教界の指導者たちは完全に御心に反して、彼ら自身、真理を実践していないのにもかかわらず、人々が彼らを尊敬し崇拝されるために聖書の知識や神学的な理論を人々に見せびらしているのです。彼らは信者をパリサイ人の偽善的な道へと導き、神の選民を傷つけ、ダメにしてしまいます。宗教界の指導者たちは皆、本物の反キリストというサタンの道具になってしまったのです。人類を救う働きの3つの段階で、人類を贖い救うために神は2度受肉されました。宗教界全体がキリストの敵であり、神の救いの御業に対して躓き石となり、神の性情を傷つけた結果、呪われ罰されたのです。まさに預言にある通り、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住むところ、あらゆる汚れた霊の巣くつ……(ヨハネの黙示録 18:2)。「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者(ヨハネの黙示録 14:8)。「ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた(ヨハネの黙示録 18:10)

それでは、神に徹底的に反抗する反キリストと、その反キリストに操られた宗教界を全能神がどのように非難されるかを見てみましょう。全能神は言われる、「キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。……キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。……なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよい。ユダヤ人はイスラエルから追放され、世界中の国々に逃亡した。多くは殺され、全ユダヤ民族は前例を見ない破壊を受けた。彼らは神を十字架に釘付けにし――凶悪な罪を犯し――そして神の性質を侵害した。彼らは自分たちが為したことの代価を払い、その行動の責任の一切を取らなければならなかった。彼らは神を罪に定め、神を拒絶したので、たどる運命は一つしかなかった。すなわち、神の罰を受けたのである。これが彼らの支配者たちがその国と民族にもたらした苦い結果と災害であった(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)

わたしたちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)

しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。……全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)

世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。あぁ、宗教界よ。どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教関係者か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。……どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十二章」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の言葉の一つひとつが真理であり、権威と力を兼ね備えています。そして神の義、威厳、怒り、そして傷つけられることのない性情を完全に示しています。神に反抗し、神の御業を邪魔する者は間違いなく神から罰と報復を受けるでしょう。律法の時代、ソドムの民は公然と神を否定し、反抗していました。彼らは神の性情を激怒させ、神によって一人残らず滅ぼされました。恵みの時代には、ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人たちが公然と神に反抗し、主イエスを非難していました。ローマ政府と手を組んで、主イエスを十字架に磔にし、神の性情を挑発する重大な罪を犯したのです。ユダヤの国全域は、これまでにないほど破壊されました。終わりの日には、宗教界の指導者たちは全能神をでたらめに裁き、反抗し、非難しています。しかも中国共産党の悪魔と手を組み、共謀して神の国の福音を広める兄弟姉妹を弾圧し、逮捕させて迫害しているのです。彼らは聖霊を冒涜し、再び神を十字架に磔にするという凶悪な罪を犯しました。彼らの邪悪な振る舞いはソドムの民のそれよりもさらに悪く、ユダヤのパリサイ人たちのそれとは比べものにならないくらいはるかに悪いです。彼らこそ、終わりの日に神の御業によって暴かれた反キリストです。彼らは歴史上最も激しく神に反抗した邪悪な宗教勢力です! 宗教界は何から何まですべて神に反抗する邪悪な力で構成されている、反キリストの悪魔の巣なのです。キリストの国に対抗しようとする、堅固な砦です。神に対してとことん反抗し、神の敵だと公言したサタンの陣営です。神の義なる性情を傷つけることはできません! 同様に、神の神聖さも汚すこともできません。終わりの日の神の御業は、新しい時代の始まりと古い時代の終わりです。反キリストの悪魔によって操られている宗教界と邪悪な世界は終わりの日の神の災いによってもうすぐ滅ぼされるでしょう。神の義なる罰がすでにやってきたのです! これは全能神が言われている通り、「世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。あぁ、宗教界よ。どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十二章」〔『言葉』第1巻〕)

映画『滅びゆく都』より引用

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