神の言葉をどのように飲み食いし、考察すべきか
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神の言葉を飲み食いする原則の一つは認識に関連し、もう一つは入りに関連している。まず、どのような言葉を知るべきか。それはビジョンに関連する言葉である(神の働きが今どの時代に入ったか、神が今何を成し遂げようとしているか、受肉とは何か、その他のことに関連する言葉は、みなビジョンと関連している)。人間が入るべき道とは何を意味しているのか。それは人間が実践し、入るべき神の言葉を意味している。これが、神の言葉を飲み食いすることの二つの側面である。これからは、このように神の言葉を飲み食いしなさい。ビジョンに関する神の言葉を明確に理解しているなら、絶えずそれを読み返す必要はない。最も重要なのは、どのように心を神に向けるべきか、どのように神の前で心を静めるべきか、どのように肉に背くべきかといった、入りに関する言葉をさらに飲み食いすることである。これらはあなたが実践すべき事柄である。どのように神の言葉を飲み食いするべきかを知らなければ、真の交わりは不可能である。ひとたび神の言葉をいかに飲み食いすべきかを知り、何が鍵なのかを把握できれば、交わりは自由なものとなり、どのような問題が提起されても、それについて話し合い、現実を把握することができるようになる。神の言葉について交わりを持つとき、現実を持っていないのなら、それは何が鍵かを把握していないからであり、あなたが神の言葉をどのように飲み食いすべきかを知らないことを意味している。中には神の言葉を読んでうんざりする人もいるかもしれないが、それは正常な状態ではない。正常な状態とは、神の言葉を決して読み飽きることなく、常に神の言葉を渇望し、常にそれを良いものと感じることである。これが、真に入りを成し遂げた人が神の言葉を飲み食いするやり方である。神の言葉を非常に実際的でまさに人間が入るべきものだと感じ、その言葉を極めて役に立つ人間に有益ないのちの糧であると感じるとき、その感情を与えているのは聖霊であり、聖霊があなたを動かしているのである。これは聖霊があなたの中で働いており、神があなたから離れていないことを証明している。中には神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、それを読んでも読まなくても大したことではないと考える人もいるが、それは正常な状態ではない。彼らには現実に入ることを渇望する心がなく、このような人々は完全にされることを渇望も重要視もしていない。自分が神の言葉に渇いていないと気づいたときはいつでも、あなたが正常な状態でないことを示している。昔は神が自分から離れたかどうかは、自分の内面が穏やかであるか、喜びを感じているかどうかで判断することができた。今では、鍵となるのは神の言葉に渇きを覚えるか、神の言葉が自分の現実となっているか、自分が忠実か、そして神のためにできることをすべて行えるかということである。言い換えれば、人間は神の言葉の現実によって判断されるのだ。神はその言葉を全人類に向けている。それを読む気があるなら、神はあなたを啓いてくれるが、そうでないなら神に啓かれることはない。神は義に飢え渇く人々と、自らを探し求める人々に啓きを与える。中には、神の言葉を読んでも神からの啓きが与えられなかったという人々もいる。しかし、その言葉をどのように読んだのか。もし乗馬しながら花に目をやる人のように神の言葉を読み、現実を一切重視しなかったなら、どうやって神があなたを啓けるだろうか。神の言葉を大切にしない者が、どうして神に完全にされることができるだろうか。神の言葉を大切にしないなら、あなたは真理も現実も得ることはない。神の言葉を大切にすれば、真理を実践することができ、そうして初めて現実を得ることになる。そのため、忙しいかどうか、逆境にあるかどうか、試練の最中にあるかどうかにかかわらず、いつも神の言葉を飲み食いしなければならないのである。結局のところ、神の言葉は人間の生存の基盤である。誰一人として神の言葉から離れることはできず、三度の食事のように神の言葉を食べなければならない。神に完全にされ、神のものとされることが、そんなに簡単でありうるだろうか。現在あなたが理解しているかどうか、神の働きを見抜いているかどうかにかかわらず、できるだけ多くの神の言葉を飲み食いしなければならない。それが積極的な入りというものである。神の言葉を読んだら、自分が入っていけることを急いで実践し、入っていけないことはとりあえず脇へ置いておきなさい。当初は神の言葉の多くが理解できないかもしれないが、二、三ヶ月後、あるいは一年後には理解できるようになる。なぜそのようになるのか。それは、神が人間を一日や二日で完全にすることはできないからである。神の言葉を読んでも、多くの場合すぐには理解できないかもしれない。その時点ではただの文章にしか見えないかもしれず、理解できるようになるには、ある程度の期間それを経験する必要がある。神は非常に多くを語っているので、あなたは神の言葉の飲み食いに最大限努めるべきであり、そうすることでいつの間にか理解できるようになり、いつの間にか聖霊があなたを啓くのである。聖霊が人を啓くとき、多くの場合人はそれに気づかない。聖霊があなたを啓き導くのは、あなたが渇き探し求めているときである。聖霊の働きの原則は、あなたが飲み食いする神の言葉を中心としている。神の言葉を一切重視せず、神の言葉に対して常に態度を変え、混乱した考えをもって、神の言葉を読むか読まないかなどどうでもいいと考えている人々は皆、現実を得ていないのである。そのような人の中には、聖霊の働きも聖霊による啓きも見ることができない。そのような人々はただ惰性で生きているのであり、ちょうど寓話の南郭氏[a]のように、真の資格を持たない偽善者なのである。
『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)
神の言葉を飲み食いするときは、自分自身の状態の現実を言葉に照らして判断しなければならない。つまり、実体験を通して自分の欠点に気づいたときは、実践の道を見つけ出し、自分の誤った動機や観念に背を向けることができなければならない。常にそうしたことを目指して努力し、それを達成することに精魂を傾けていれば、辿るべき道を得て、虚しさを感じなくなり、それによって正常な状態を保てるようになる。そのとき初めて、あなたは自分のいのちに重荷を抱えた、信仰を持つ人となる。なぜ神の言葉を読んでもそれを実践に移せない人がいるのか。それは、もっとも重大なことを把握できないからではないのか。いのちを真剣に考えていないからではないのか。重大なことを把握できず、実践の道を得られないのは、神の言葉を読んでもそれと自分自身の状態を結びつけることができず、また自分の状態を掌握できないからである。中にはこのように言う人もいる。「神の言葉を読んで、自分の状態をそれと結びつけている。自分が堕落していて素質が低いこともわかっている。けれど神の旨を満たすことができない」。あなたは非常に表面的なことしか見ていない。しかし、あなたの知らない現実的なことがたくさんある。たとえば肉の楽しみを捨て去る方法、独善を捨て去る方法、自分を変える方法、こうしたことに入る方法、自分の素質を高める方法、どの面から始めるべきかといったことである。あなたは数少ないことを表面的に把握しているだけで、ただ自分が本当に堕落しているということしか知らない。兄弟姉妹に会えば、自分がどれほど堕落しているかを語り、自分自身を知り、いのちの大きな重荷を負っているように見えはする。しかし実際には、その堕落した性質は変わっておらず、それはあなたが実践の道を見出していないことを証明している。
『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)
神の言葉の実際の意味を本当に理解することは、決して単純なことではありません。「自分は神の言葉の文字通りの意味を解釈できて、その解釈はみんなにいいと言われて賛成してもらえる。だから、私は神の言葉を理解していることになる」と考えてはいけません。それは神の言葉を理解することと同じではありません。神が発する言葉の内側から何らかの光を得て、神の言葉の真の意味を感じ取ったなら、また神の言葉の裏にある意図と、それらが最終的に成し遂げる効果を表現できるなら、そのすべてについてはっきり認識したところで、あなたは神の言葉についてある程度の理解を得たと見なされます。ゆえに、神の言葉を理解することはそこまで簡単ではないのです。神の言葉の文字通りの意味を美辞麗句で説明できるからといって、神の言葉を理解していることにはなりません。それらの文字通りの意味をどれだけ説明できたとしても、あなたの説明はやはり人間の想像と考え方を基にしています。何の役にも立たないのです。どうすれば神の言葉を理解できるでしょうか。鍵となるのは、その中から真理を求めることです。そうすることでのみ、あなたは神が言うことを本当に理解できます。神は語るたび、大まかなことしか語らないということは決してありません。神が発する一つひとつの文章には、神の言葉の中で必ずやさらに明かされる詳細が含まれており、それらは異なる形で表現されるでしょう。神による真理の表現の仕方を人間が推し測ることはできません。神が発する言葉は極めて深遠であり、人間の考え方では推し測れません。人は努力さえすれば、真理の各側面の意味をすべて突き止められます。そのようにすれば、それらを経験する中で、聖霊があなたを啓くにつれて残りの詳細が完全に埋まり、それによってそうした具体的な状態を理解するようになります。
『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用
神の言葉を正しく飲み食いすれば、あなたは真理を理解できるようになります。とは言え、ただ真理を理解しただけで、その現実に入れるというわけではありません。中には優れた素質を持ちながら、真理を愛していない人もいます。そうした人は若干の真理を理解することはできますが、それを実践することはありません。そのような人が真理の現実に入れるでしょうか。真理を理解することは、教義を理解することほど単純ではありません。真理を理解するには、神の言葉を飲み食いする方法を知らねばなりません。例として、神への愛の真理に関する一節を飲み食いする方法を見てみましょう。神の言葉にはこうあります。「『愛』と呼ばれるものは、純粋で汚れのない感情を指し、心をもって愛し、感じ、思いやりをもつということである。愛においては条件、障壁、距離がない。愛においては疑念、偽り、悪賢さもない。愛においては取引も不純なものもない」。神は愛をこのように定義しており、これは真理です。しかし、誰を愛するべきなのでしょうか。自分の夫でしょうか。妻でしょうか。兄弟姉妹たちでしょうか。いいえ。神が愛について語るとき、それは人間同士の愛のことではなく、神に対する愛のことを言っているのです。この愛こそが真の愛です。この真理はどのように理解すべきでしょうか。それが意味するのは、神を疑ったり神から遠ざかったりせず、純粋で穢れのない愛を持ってほしいと、神が人々に望んでいるということです。「穢れのない」とは、法外な欲望を持たず、神に法外な要求をせず、神に条件を出さず、言い訳もしないということです。そして心の中で神を何よりも優先するということであり、神の言葉だけが心を占めているということです。それが、純粋で穢れのない感情というものです。この感情は心の中で一定の場所を占めます。あなたは常に神のことを思い、神を慕い、いつどの瞬間にも神を思い起こすことができるのです。愛するということは、心をこめて愛するということです。心をこめた愛というものは、配慮と思いやりと思慕によって成り立ちます。心をこめて愛せるようになるには、知るという過程が必要になります。現時点で、あなたには神についての認識がほとんどありませんが、心でもって神を渇望し、慕い、従い、思いやり、祈り、そして呼び求めなければなりません。そしてさらに、神の思いや懸念をも分かち合えなければならないのです。こうしたことに心を注がなければなりません。ただ口先だけで、「ああ、神よ! 私はあなたのためにこんなことも、あんなこともしています」などと言うだけではいけません。心から神を愛し、満足させることだけが本物なのです。大声でそう言わずとも、心の中に神を抱き、心の中で神を思うのです。夫や妻、子供や親のことは忘れても構いませんが、心から神を失うことはできません。神がいなければ、生きることはできないのです。それが愛を持ち、心に神を抱くということです。「心をもって愛し、感じ、思いやりをもつ」。ここには多くのことが含まれています。それこそ神が人に求める真の愛であり、言い換えれば、あなたは心から神を愛して思いやらねばならず、常に神を心に留めていなければなりません。これは単に言葉を発するという意味ではなく、自分自身をどのように態度で表わすかという意味でもありません。むしろ、それはおもに、心をこめて物事を行ない、心にすべての行動を支配させるということです。そのように物事を行なっていれば、動機も、不純さも、疑いもなくなります。そのような心ははるかに純粋なのです。心の中の疑いは、どのように表わされるでしょうか。それはあなたが絶えずこのように考えているときに表わされます。「神がこんなことをするのは正しいのだろうか。神はなぜ、こんなことを言うのだろうか。理由もなくこんなことを言っているのなら、それには従うまい。神がこうするのが不当なら、それには従うまい。今はとりあえずやめておこう」。疑いを抱かないということは、神が言うことやすることは何であれすべて正しく、神には正誤がないと認めることを意味します。人は神に従い、神を思いやり、満足させ、神の思いや懸念を分かち合わなければなりません。神が行なうすべてのことが、あなたにとって有意義に見えるかどうか、人の観念や想像と合致しているかどうか、人にとって道理にかなうかどうかにかかわらず、ひたすら従い、それらに対し畏敬の念と従順な心を持っていればよいのです。そのような実践は、真理と合致してはいないでしょうか。それが愛の現われであり、実践ではないでしょうか。ですから、もし、神の言葉から神の旨やその言葉の裏にある意図を理解できないなら、神の言葉が達成しようとしている目的や結果を理解できないなら、神の言葉が人間の中で何を達成し完成しようとしているかを理解できないなら――こうしたことを理解できていないなら、それはあなたがまだ真理を掴めていない証拠です。神はなぜ、今語っているようなことを語るのでしょうか。なぜあのような口調で語るのでしょうか。なぜ神が語る言葉の一つ一つが、こんなにも熱心で誠実なのでしょうか。なぜ特定の言葉を選んで使うのでしょうか。こうした質問に答えられますか。もし自信をもって答えられないなら、それはあなたが神の旨や意図を理解しておらず、神の言葉の裏にある背景を理解していないことを意味します。それが理解できないなら、どうして真理を得ることができるでしょうか。真理を得るということは、神が語る一つ一つの言葉を通して神の旨を理解することであり、また理解したなら神の言葉を実践し、自分を通してその言葉を実現し、それが自分の現実となるようにすることです。神の言葉を完全に理解して初めて、真理を本当に把握することができるのです。
『キリストの言葉の記録』の「真理の実体を持つ者だけが指導者となれる」より引用
要約すると、神への信仰においてペテロの道を歩むとは、真理を追い求める道を歩むことであり、その道はまた真に自分自身を知り、自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を正確に言ってどのように歩むのか、またそれをどのように実践に移すかをはっきり知らなければなりません。第一に、自分自身の意図や不適切な追求だけでなく、自分の家族や肉体にかかわるすべてのことさえも脇へのける必要があります。心から献身的であらねばなりません。つまり、神の言葉に自分自身を完全に捧げ、神の言葉を飲み食いすること、真理を探求すること、そして神の言葉の中にある神の意図を探し求めることに集中し、すべてにおいて神の心を把握しようと努めなければなりません。それが最も根本的にして極めて重要な実践の方法です。ペテロがイエスを見たあとに行なったのもそれであり、そのように実践することでのみ、人は最高の結果を得られます。神の言葉への心からの献身はおもに、真理を探し求めること、神の言葉の中にある神の心を探し求めること、神の心を把握することに集中すること、神の言葉からさらなる真理を理解し獲得することが含まれます。神の言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の言葉を守る数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。またイエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。ペテロは神の言葉から、自身を本当に理解しただけでなく、神の言葉において表現されるもの、すなわち神の義なる性質、神が所有するものと神そのもの、働きに関する神の心、神の人間への要求といったことの言葉から、神を完全に知るようになりました。ペテロは神の性質と本質を知り、神が所有するものと神そのものに加え、神の愛らしさ、そして神の人間への要求を知り理解するようになったのです。当時、神は今日ほど多くを話しませんでしたが、これらの側面においてペテロに成果がそれでも達成されたのです。これは希にして貴重なことです。ペテロは数百の試練を経ましたが、無駄に苦しんだわけではありません。神の言葉と働きから自己を認識するようになっただけでなく、神を知るようにもなったのです。加えて、ペテロは特に神の言葉の中にある人類への要求を重視しました。どの側面において人間が神を満足させ、その心意に一致すべきであるにせよ、ペテロはそれらの側面に大きな努力を払い、完全にはっきりさせることができました。これは彼自身の入りにとって極めて有益なことでした。神が何を語ろうと、その言葉が自分のいのちになり得る限り、そしてそれらが真理に属する限り、ペテロはそれを心に刻み、常にじっくり考え、正しく認識することができたのです。イエスの言葉を聞いたあと、ペテロはそれを心に留めることができましたが、そのことは、彼がとりわけ神の言葉に集中し、最後は本当に成果を挙げたことを示しています。つまり、ペテロは神の言葉を自由自在に実践すること、真理を正確に実践すること、神の心意と一致すること、完全に神の意図に従って行動すること、自分の個人的な意見や想像を捨てることができたのです。このようにして、ペテロは神の言葉の現実に入りました。
『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用
脚注
a. 原文に「寓話の」の語句は含まれていない。
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