主イエスは人のための罪祭として十字架に釘付けにされ、それによって私たちを罪から贖ってくださいました。もし私たちが主イエスから離れて全能神を信じるなら、これは主イエスへの裏切りではないのですか。これは背教ではないのですか。

2021年3月17日

回答:終わりの日である現在、神様は新たな働きをなさり、新たな御名を名乗られましたが、主イエスの御名から離れて全能神の御名を受け入れたとき、私たちは神様を裏切っているでしょうか。それとも神様の働きに歩調を合わせているでしょうか。神様が新たな働きを始められるとき、人間は神様の働きに歩調を合わせることでしか救われません。これは真実です。全能神の御言葉から、神様が全能神の名をおとりになった理由は、終わりの日になされる働きと、神様が表現なさる性質に関係していたことがわかります。全能神はこうおっしゃっています。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。終わりの日における神様の働きは、堕落した人類を裁いて罰し、人々を種類ごとに分けて時代を終わらせるものです。主イエスによる贖いの働きのおかげで、私たちの罪は赦されました。しかし、私たちが罪から完全に離れていないことは否定できません。私たちの性質は傲慢で、自己中心的で、貪欲で、不正直で、邪悪なままです。私たちは日中に罪を犯して夜に悔い改めるという悪循環に陥っており、救いのために恵みを当てにしています。ゆえに、神様は私たちを完全に救うべく、ご自身の義なる性質と威厳があって犯すことができない性質とをもって終わりの日に語られ、人間を裁き、罰し、征服し、清めるという新たな働きをなさり、私たちを完全に新しい時代、すなわち神の国の時代へと導かれます。神様が終わりの日の段階でなさる働きは奇跡を示しません。すべては御言葉によって成し遂げられるのです。人間の罪、反抗、不義は神様の御言葉によって裁かれ罰せられ、かくして人間はすっかり清められて完全にされますが、そのことから神様がかくも全能でお知恵のあることがわかります。神様はまさに全能の神ご自身なのです。万物をお作りになり、すべてを支配なさるのは神様なのです。よって、人々は神様の御前にひれ伏し、神様を崇拝します。同時に、全能神の御名は六千年にわたるサタンとの戦いに完全な終止符を打つべく用いられるのです。

終わりの日における神様の裁きと刑罰の働きは、人々をその種類に応じて分類する働きでもあります。それは『ペテロの第一の手紙』第4章17節の預言を成就します。「さばきが神の家から始められる時がきた」それはまた、山羊から羊を、毒麦から小麦を、悪しきしもべからよきしもべを選り分けるという預言も成就します。それらは神様が終わりの日になさる働きです。全能神の御言葉を何節か読めばそれがはっきりわかります。

終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

過去に語られた神の家から始まる裁きにおいて、その言葉における『裁き』は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)。終わりの日における神様の主要な働きはあらゆるものをその種類に応じて分けることであると、神様の御言葉は私たちにはっきり伝えています。それはまた、言葉により人間を裁き、罰し、人間の罪を裁き、人間の反抗と不義を罰し、人間をすっかり変えて完全にする働きでもあります。終わりの日における神様の働きを受け入れてそれに従う人はみな、神様の裁きと清めの対象です。神様の義なる裁きだけが人間を救い、完全にし、新たな領域へと導くことができます。愛と憐れみに満ちた救い主イエスは、人間の罪を赦す働きだけをなさいました。イエスは人間を清めて変える働きをなさることにはなっておらず、人々をその種類に応じて選り分ける働きについては言うまでもありません。したがって、全能神の御言葉による裁きと刑罰の働きを受け入れ、全能神の御名を偉大だと讃えることでのみ、人間は神様の完全な救いを受け取れるのです。主イエスの御名を高く掲げながら全能神の御名を拒むなら、終わりの日に全能神が人類にお与えになる真理も救済も受け取ることはありません。

「脚本に関する質問への回答」より引用

全能神は、人類が生活を送るための律法をかつて宣布されたヤーウェ神です。また、人類を贖うために十字架につけられた主イエスでもあります。全能神の裁きも、主イエスの贖いも、ヤーウェ神の律法もすべて同じ神の働きです。ご自身の計画と人類の必要に応じて、神は人を一歩ずつ救ってくださるのです。

今日、私たちは全能神の御名を受け入れますが、それは主イエスに感謝せず、主を裏切ったことにはなりません。小羊の足跡をたどり、神の道に忠実であり、忠誠心をもって神に従うことになるのであり、そうして初めて私たちは神の承認を得るのです。ヨハネの黙示録14章4節に「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である」とあるとおりです。イエスの御名にこだわって全能神の御名を受け入れることを拒む人はただ神の裏切り者になり、神に排除されます。神がイエスという御名で働きに来られたとき、神の新たな働きを受け入れて主イエスに追随した弟子たちは、真の道を捨ててもいなければ、ヤーウェ神を裏切ってもいなかったのです。実際のところ、彼らは神の歩みに足並みをそろえていたのであり、神に忠実な者であり、一方自分たちがヤーウェ神に忠実だと思ってヤーウェの御名だけに固執したパリサイ人は主イエスを拒みました。その結果、彼らの忠誠心はヤーウェ神の承認を得ず、むしろその逆でした。彼らは神の呪いと罰の対象となったのです。したがって、私たちはパリサイ人の失敗から学ばなくてはなりません。全能神の御名を受け入れ、神の働きの歩みに足並みをそろえなくてはならないのです。このようにして初めて神の救いを得られるのです。

「脚本に関する質問への回答」より引用

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