恵みの時代における教会生活と、神の国の時代における教会生活との違い

2017年11月21日

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恵みの時代、神が第三の天に戻った時、全人類の罪を贖う神の働きは、実のところもう最後の部分に移っていた。地上に残っていたのは、イエスが担いだ十字架、イエスを包んでいた上質の亜麻布、いばらの冠、そしてイエスが着ていた緋色のローブだけだった(これらはユダヤ人がイエスを嘲笑するために使ったものである)。すなわち、イエスの磔刑の働きが大きなセンセーションを引き起こした後、物事は落ち着きを取り戻したのである。それ以降、イエスの弟子たちはイエスの働きを行ない始め、各地の教会で人々を牧養して潤した。彼らの働きの内容はすべての人に対し、悔い改め、自分の罪を告白し、洗礼を受けるよう求めることだった。そして使徒全員がイエスの磔刑の内情、つまりそのありのままの記録を広めたので、誰もがイエスの前にひれ伏して自分の罪を告白せざるを得なかった。さらに、使徒たちは至る所に行ってイエスの話した言葉を伝えた。その時から恵みの時代の教会建設が始まったのである。

『神の出現と働き』「働きと入ること(6)」(『言葉』第1巻)

過去には、各地で開かれた特別集会や大規模な集会において、実践の道の一側面についてしか語られなかった。そうした実践は、恵みの時代に実践されるべきものであり、神についての認識とはほとんど無関係であった。というのは、恵みの時代のビジョンは、ただイエスの十字架のビジョンであり、それ以上のビジョンが無かったからである。人間が知るべき事は、イエスの十字架による人間の贖いの働きだけであったので、恵みの時代においては、人間が知るべきビジョンは、それ以外には無かった。このように、人間は神について乏しい認識しか無く、イエスの愛と慈しみに関する認識を別にすれば、人間が実践すべき事としては、僅かばかりの単純で哀れな事、今日とは全くかけ離れている事しかなかったのだ。過去、集いがどのような形をとったかに関わらず、人間は神の働きの実践的認識について話すことができず、ましてや人間が入るに最も適した実践の道がどれであるかを明言することなど誰にもできなかった。人間は、ただ寛容や忍耐の基礎に幾つかの簡単な詳細を加えただけであった。人間の本質においては全く何の変化もなかった。なぜなら、同じ時代において、神はそれよりも新しい働きを何も行わず、神が人間に要求したのは、寛容と忍耐、または十字架を負うことのみだったからである。このような実践を除けば、イエスの十字架よりも高いビジョンは無かった。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

いずれは神の言葉について語ることが、あなたが話すときの原則になる。あなたがたが集まるときは通常、神の言葉についての交わりを持ち、神の言葉を交流の内容とし、それらの言葉について知っていること、それをどのように実践するか、そして聖霊がどのように働くかについて話し合いなさい。神の言葉について交わりを持っている限り、聖霊はあなたを照らすだろう。神の言葉の世界を実現するには、人間の協力が必要になる。あなたがこれに入っていかなければ、神は働くことができない。あなたが口を閉ざしたまま、神の言葉について語らなければ、神はあなたを照らすことができない。他のことに従事していないときはいつでも、神の言葉について話し、無駄なおしゃべりをしないようにしなさい。日々の生活を神の言葉で満たしたとき、初めてあなたは敬虔な信者となる。あなたの交わりが表面的なものであっても、それは問題ではない。表面なしに深みもありえないからだ。過程というものが必要なのだ。あなたは訓練を通して、自分に対する聖霊の照らしを把握し、神の言葉を効果的に飲み食いするにはどうするべきかを知るのである。しばらくの手探りの後、あなたは神の言葉の現実に入ることになる。協力する決意をして初めて、聖霊の働きを受けることができるのだ。

『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)

「経験を共有して伝える」とは、心の中のあらゆる考え、自分の状態、神の言葉に関する経験と認識、自分の中の堕落した性質について語ることを意味します。その後、他の人はそれらを識別し、肯定的なことを受け入れ、否定的なことを認識します。それだけが共有することであり、それだけが真に伝えることなのです。それはただ神の言葉や賛美歌の一部について識見をもち、自分の好きなように伝えてもそれ以上は取り上げないことでも、自分の実生活に関することを何も言わないことでもありません。誰もが教義や理論的知識について語りますが、実際の経験から得た認識については何も述べません。みなこうした物事、自分の個人的生活や兄弟姉妹との教会生活や、自分の内なる世界について語ることを避けるのです。そうしたところで、人のあいだに真の意思疎通がどうしてあり得ますか。本物の信頼がどうしてあり得ますか。まったくあり得ません。妻が心の中の言葉を決して夫に話さないのであれば、その二人は気心の知れた仲だと言えますか。二人は互いに打ち明け合っていますか。彼らが「あなたを愛している」と一日中言っているとしましょう。二人はそれを言うばかりで、自分が心の中で思っていること、相手に求めていること、そして自分が抱えている問題をさらけ出したことがありません。このようなことを互いに話し合ったことも、互いに打ち明け合ったこともありません。互いに打ち明け合ったことがないなら、この二人は互いに愛し合っていますか。一緒にいても仰々しいことしか言い合わないのであれば、本当に夫と妻ですか。絶対にそのようなことはありません。一緒にいるときに互いに打ち明け合い、助け合い、糧を与え合おうとするならば、兄弟姉妹の一人ひとりが自分の本当の経験を語らなければなりません。自分自身の本当の経験を語らず、立派に聞こえる言葉や表面的な教義上の言葉を語るだけなら、あなたは正直な人ではなく、正直であることもできません。

『キリストの言葉の記録』の「正直であることの最も基本的な実践」より引用

神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、どのような試練を用いて人々を精錬し、彼らの性質を変えるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。本当の物事を、自分の実際かつ本物の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです。あなたたちはかつて、神に最も強く反対し、神に服従しようという気持ちが一番ない人々でしたが、今は征服されています。それを忘れてはいけません。これらのことについてもっと熟慮し、考えなさい。いったんそれをはっきり理解すれば、どのように証しをすべきかがわかります。さもないと理知に欠ける恥ずかしい行為をしがちになります。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」より引用

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