真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

神の教会とは何か。宗教団体とは何か。

12

1.神の教会とは何か。宗教団体とは何か。

参照聖書箇所

「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、『「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』。」(マタイによる福音書 21:12-13)

「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』。」(ヨハネの黙示録 18:2-3)

関連する神の言葉

「今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々を神は賞賛しない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に従うことができない。⋯⋯『聖霊の働きに従う』とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要件に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。」

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

「聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。現在において、その流れの中にいる者が協力出来ず、神に要求された通りに真理を実践出来ないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。⋯⋯しかし、新たな業を受け容れない者は、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外に居て、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな業における要求では無く、ましてや神との協力などでは無い。神の新たな業を受け容れない者には神の存在が欠落し、その上神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の業の過去における要求に固執している。その要求は教義であり、真理ではない。そうした教義や規律は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選民でも神の業の対象でも無い。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようが無く、教会とは呼べない。これは変えようの無い事実である。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

「宗教的な教会における実践が旧態化していると言われているのは、何故だろうか。それは、そうした教会で実践されている物事が現在の業と断絶されているからである。恵みの時代においては、教会で実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の業は変化し、教会の実践は次第に旧態化していった。そうした実践は、新たな業と光に置き去りにされている。聖霊の業は、元来の基礎の上で、何段階か深化している。しかし、そうした教会の人々は神の業の、元来の段階のまま滞り、旧来の実践と光を未だに固守している。⋯⋯聖霊の業は常に進行しており、聖霊の流れの中に居る者もまた一層深化し、漸進的に変化する必要がある。人間は、ある段階で停滞すべきではない。神の元来の業に留まり、聖霊の新たな業を受け容れないのは、聖霊の業を知らない者のみである。聖霊の業を得ることが出来ないのは、不従順な者だけである。人間の実践が聖霊の新たな業に遅れたならば、人間の実践もまた、現在の業から分離していること、そして現在の業と相容れないことは確実である。そうした旧態化した人々は、明らかに神の心を実現出来ず、いわんや神の証しに立つ最後の者となることなど出来ないであろう。さらに、経営の業全体は、そうした人々の中では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者にとって、終わりの日の業の段階を受け容れられなければ、そうした者が行った物事は全て無に帰し、無駄になるであろう。⋯⋯人間がある段階に停滞するならば、それは人間が神の業や新たな光に遅れずにいることが出来ないことを証明する。それは神の経営計画が変化していないことを証明するものでは無い。聖霊の流れの外部に居る者は、常に自分達が正しいと考えるが、実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

「なぜなら、キリスト教では、神が存在することを認めているにすぎず、神に反抗し、敵意を抱いているからである。キリスト教徒は、キリストを再び十字架に架け、終わりの日における神の業に敵対する立場を取り、その結果として宗教団体のひとつに零落している。キリスト教は宗教の一種であるため、信仰のみに関連することは確実である。キリスト教は、一種の儀式であり、教派であり、宗教であり、真に神に付き従う信仰とは別のものである。わたしがキリスト教を5大宗教のひとつに挙げたのは、キリスト教がユダヤ教、仏教、イスラム教と同じレベルにまで零落しているからである。大部分のキリスト教徒は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、いわんや神の実在を信じているということは無い。その代わりに、キリスト教徒は、単に聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて人間に対して親切にすること、辛苦に耐えること、善行を行うよう諭すのみである。それがキリスト教という宗教である。つまり、神学的理論のみに集中し、人間を経営し、救う神の業とは全く関係なく、神によって認められていない神に付き従う人々の宗教である。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より

「主イエスが『宮よりも大いなる者がここにいる。』と言った時、『者』とは誰をさしていたであろうか。ここで『者』とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェを礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が『いけにえを捧げる』とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。こうした言葉を現在に当てはめた場合、こうした言葉は当時と同様に正当であり、適切である。現在の人々は律法時代の人々とは異なる業を経験してはいるが、人々の本質は同じである。⋯⋯こうした状況のなかで、これらの人々と、2000年前に神殿で自分の個人的な取り引きを行っていた人々と何か違うであろうか。」

『言葉は肉において現れる(続編)』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より