神の教会とは何か。宗教団体とは何か

2017年11月23日

参考聖書箇所:

「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、『「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』」(マタイによる福音書 21:12-13)

「ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない』」(ヨハネの黙示録 3:14-17)

「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』」(ヨハネの黙示録 18:2-3)

関連する神の言葉

神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな働きを受け入れない人々には、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外にいるので、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな働きにおける要求ではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、その上、神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の働きの過去における要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、それらの人々の集まりが宗教以外の何物でもないことを十分に示している。そうした者は選ばれた者たちでも神の働きの対象でもない。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者には聖霊の新たな働きが無い。そうした者の為すことには宗教の匂いがあり、そうした者が行動で示している事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の臨在と働きが無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。これらの人々は、全員いのちの無い屍であり、霊の無い蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の働きや神の現在における心など知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。彼らの為すことには神の経営に関連する事は一切なく、ましてや神の計画を損なうことはできない。彼らの言動は過度に不快であり、たいへん惨めであり、まったく語るにも値しない。聖霊の流れの中にいない者の為すことは、一切が聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、彼らは聖霊の懲らしめを欠いている上、聖霊の啓きにも欠けている。何故なら、彼らはみな真理への愛を持たない人々であり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられたからである。彼らは悪を行う者と呼ばれる。何故なら、彼らは肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が働きを行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であるので、故意に神に逆らうそうした人々は特に然るべき罰を受けるのではないだろうか。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」(マタイによる福音書 12:6-8)という聖書の一節を検討しましょう。ここでいう「宮」、つまり神殿は何を指していますか。簡単に言えば、それは高くて壮麗な建物を指しており、律法の時代においては、司祭が神を礼拝する場所でした。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる」と言った際、「大いなる者」とは誰を指していましたか。それは明らかに、肉体をもつ主イエスを指しています。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスだけだったからです。この言葉は人々に何を伝えましたか。神殿から出るよう、人々に伝えたのです。神はすでに神殿から出ており、もはやそこでは何も行なっていなかったので、人々は神殿の外で神の足跡を求め、新たな働きにおける神の歩みに従うべきなのです。主イエスがそう言ったとき、その言葉の背景には一つの前提がありました。つまり、人々は律法のもと、神殿を神自身よりも偉大なものとして見なすようになっていたことです。要するに、人々が神でなく神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、至高の存在である神を崇拝するよう警告したのです。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べました。主イエスから見て、ほとんどの人は律法のもと、もはやヤーウェを礼拝しておらず、単に生贄を捧げる動作を繰り返していたのは明白であり、主イエスはその動作を偶像崇拝だと判断しました。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていました。彼らの心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失うとすみかを失うことになりました。神殿がなければ礼拝する場所がなく、生贄を捧げることができませんでした。ここでいう「すみか」とは、神殿に留まって自分の活動を行なうべく、ヤーウェ神を礼拝するふりをしていた場所のことです。また「生贄を捧げる」とは、神殿で奉仕を行なうという口実のもと、自分個人の恥ずべき取引を行なうということでした。当時の人々が、神殿は神より偉大だと見なしていたのはこれが理由でした。こうした人たちは神殿を隠れ蓑として、生贄を人々と神を欺く口実として利用していたので、主イエスは人々への警告としてこれらの言葉を語ったのです。現在に当てはめても、これらの言葉は依然として正当であり、適切なものです。現在の人々は律法の時代の人々と異なる神の働きを経験していますが、人の本性は同じです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

人々が真理を信仰の中で順守すべき教義として扱うならば、彼らは宗教的儀式に陥りやすくなりますか。そして、この種の宗教的儀式を順守することと、キリスト教の信仰との違いは何ですか。古い教えと新しい教えとの間には違いがあり、語られることもより深遠で進歩的かもしれませんが、教えが一種の理論に過ぎず、単に儀式の一形態、人々にとっての教義の一形態にしかならないのであれば、そして同様に、そこから真理を得たり真理の現実に入ったりできないとすれば、そのような人々の信仰はキリスト教とまったく同じではないのですか。本質的に、これがキリスト教ではないのですか。それでは、振る舞いや本分を尽くすことに関して、あなたたちは何においてキリスト教の信者と同じ、あるいは類似した見方をしていますか。表面的なよい行ないを追い求め、霊的な外見を用いて自己を装うことに最大限の力を尽くす。霊的な人の真似をする。口にすること、行なうこと、明らかにすることにおいて霊的な見せかけを作り出す。人々の観念や想像において賞賛に値するいくつかの物事を行なう。これらはすべて偽の霊性を追い求めることであり、偽善です。高いところに立って言葉や道理を述べ、よい行ないをし、よい人になり、真理を追い求めることに集中するよう人々に説いても、自分自身の振る舞いや本分を尽くすことにおいて、あなたたちは真理を探し求めたことがなく、真理の原則によって行動したことがなく、真理において何が語られているか、神の心は何なのか、神が人間に求める基準は何なのかを理解したことがなく、これらのどれも真剣に受け止めたことがないのです。何らかの問題に遭遇すると、自分自身の意志にだけ従って行動し、神を脇に追いやります。これらの外面的な行ないと内面的な状態は、神を畏れ悪を避けることですか。信仰と真理の追求に何のつながりもなければ、何年神を信じようと、心から神を畏れ悪を避けることはできません。それでは、そうした人々はどのような道を歩くことができますか。彼らは何を身につけて日々を過ごしているのですか。言葉や道理ではないのですか。彼らは自分をパリサイ人のようにするため、神に仕えているとされる人々のようにするため、自らを武装し、言葉や道理で自分を飾りながら日々を過ごしているのではないのですか。これらすべての行動は一体何なのですか。彼らは動作を淡々と済ませているに過ぎません。信仰の旗を振り、宗教的な儀式を行ないながら、祝福されるという目的を達成するために神を騙そうと試みているのです。彼らはまったく神を崇めていません。結局、こうした人々は教会堂の中で神に仕え、神を信じ神に従うとされる人々のようになってしまうのではありませんか。

『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より引用

ヤーウェを信じた人々を神は何と名付けますか。ユダヤ教です。彼らは一種の宗教団体となったのです。神はイエスを信じる人々をどのように定義しますか。(キリスト教です)神から見て、ユダヤ教とキリスト教は宗教団体です。なぜ神はこのように定義するのですか。神によって定義されたこれらの宗教団体の全構成員の中に、神を畏れ悪を避ける人、神の心を行なう人、神の道に従う人はいますか。(いません)では、神の目から見て、名目上は神に従う人はみな、神の信者として神が認める人々であるかどうかがわかりますか。神の目から見て、彼らはみな神とのつながりを持ち得ますか。神の救いの対象であり得ますか。(あり得ません。)ならば、神が宗教団体とみなすものにあなたたちが成り果てる日が来ますか。(あり得ます)宗教団体に成り果てることはあり得ないように思えます。神の目に宗教団体と映るものの一部になれば、神に救われますか。神の家の住人ですか。(違います)それでは少し考えてまとめてみましょう。神の家の住人ではなく、名目上は真の神を信じながら、神からは宗教団体の一部であるとみなされる人々は、どの道を歩きますか。これらの人々は、決して神の道に従うことなく神を信じる振りをし、神を信じながら神を崇めず、その代わりに神を見捨てる道を歩いていると言えるでしょうか。つまり、神を信じながら神の道に従わず、神を見捨てる道を歩んでいます。彼らの道は、神を信じながらサタンを崇め、悪魔を崇め、自分自身の経営を行ない、自分達の王国を打ち立てようと試みる道です。これがその本質ですか。このような人々は、人間を救う神の経営計画と何らかのつながりを持っていますか。(持っていません)どれほど多くの人々が神を信じようと、その信仰がなんらかの宗教または団体であると神によって定義された瞬間、彼らは決して救われないと神は決めたのです。私はなぜこう言うのでしょうか。神の働きと導きを持たず、神をまったく崇めない人々の群れや集まりにおいて、人は誰を崇めますか。誰に従いますか。形式上、名目上は人に従いますが、実際には誰に従いますか。彼らは心の中で神を認めていますが、実際には人間による操作、采配、支配の対象です。彼らはサタン、悪魔に従います。神に敵対的な勢力、神の敵に従うのです。神がこのような人々の群れを救うことがあり得ますか。(あり得ません)なぜですか。彼らは悔い改めることができるでしょうか。できません。人間の事業を実行し、自らの経営を行ないつつ、信仰の旗を振り、人類を救うための神の経営計画に背くのです。彼らの最終的な結末は神に憎まれ、拒絶されることです。神は到底これらの人々を救うはずがなく、彼らは悔い改めるはずがなく、すでにサタンに捕らわれています。彼らは完全にサタンの手の中にあるのです。……では、数多くの真理を聞き、神の旨を理解するようになったこの時代の人たちが、神の道をたどることも、完全な救いの道を歩くこともできなければ、最終的な結末はどうなりますか。それはキリスト教やユダヤ教を信じる人々と同じになります。そこに違いはありません。これが神の義なる性質です! いくつ説教を聞いたといえども、またいくつ真理を理解したといえども、最終的にやはり人に従いサタンに従うのであれば、最終的にやはり神の道をたどることができず、神を畏れ悪を避けることができないのであれば、このような人は神によって憎まれ、拒絶されます。外から見る限り、神に憎まれ、拒絶されるこれらの人々は字句や教義について多くのことを語ることができ、数多くの真理を理解するようになりましたが、それでも神を崇めることができません。神を畏れ悪を避けることができず、完全に神に服従することができないのです。神の観点では、彼らを宗教、単なる人間の集団、人間の群れ、そしてサタンのねぐらと神は定義します。彼らはひとまとめにサタンの群れと呼ばれ、神に大いに嫌悪されます。

『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より引用

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