全能神教会 アプリ

神の声を聞き主イエスの再臨を喜んで迎えなさい!

真理を探求されている方々からのご連絡をお待ちしています

神の教会とは、宗教団体とは何か

57

参考聖書箇所

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ人への手紙 1:23)

それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。(マタイによる福音書 21:12-13)

「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』。

関連する神の言葉

聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望ましない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな働きを受け入れない人々には、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外にいるので、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな働きにおける要求ではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、その上、神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の働きの過去における要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選ばれた者たちでも神の働きの対象でもない。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者には聖霊の新たな働きが無い。そうした者の為すことには宗教の匂いがあり、そうした者が行動で示している事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の臨在と働きが無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。これらの人々は、全員いのちの無い屍であり、霊の無い蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の働きや神の現在における心など知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。彼らの為すことには神の経営に関連する事は一切なく、ましてや神の計画を損なうことはできない。彼らの言動は過度に不快であり、たいへん惨めであり、まったく語るにも値しない。聖霊の流れの中にいない者の為すことは、一切が聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、彼らは聖霊の懲らしめを欠いている上、聖霊の啓きにも欠けている。何故なら、彼らはみな真理への愛を持たない人々であり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられたからである。彼らは悪を行う者と呼ばれる。何故なら、彼らは肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が働きを行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であるので、故意に神に逆らうそうした人々は特に然るべき罰を受けるのではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

ヤーウェを信じた人々を神は何と名付けますか。ユダヤ教です。彼らは一種の宗教団体となったのです。神はイエスを信じる人々をどのように定義しますか。彼らはキリスト教という宗教団体の一部として定義されます。そうですね?神の観点からは、ユダヤ教とキリスト教は宗教団体です。なぜ神はこのように定義するのですか。神によって定義されたこれらの宗教団体の全構成員の中に、神を畏れ悪を避ける人、神の心を行なう人、神の道に従う人はいますか。(いません。)神の観点からは、名目上は神に従う人はみな、神の信者として神が認める人々であり得ますか。彼らはみな神とのつながりを持ち得ますか。神の救いの対象であり得ますか。(あり得ません。)あなたたちは今では終わりの日の神の働きを受け入れていますが、神が宗教団体とみなすものにあなたたちが成り果てる日が来ますか。それはあり得ないことのように思えます。神の目に宗教団体と映るものの一部になれば、あなたたちは神に救われず、それはつまりあなたたちが神の家の人でないことを意味します。それではまとめてみましょう。名目上は真の神を信じながら、神からは宗教団体の一部であるとみなされる人々は、どの道を歩きますか。これらの人々は決して神の道に従うことも神を崇めることもなく、その代わりに神を見捨て、信仰の旗を振る道を歩くと言うことができますか。つまり、神を信じながらサタンを崇め、自分自身の経営を行ない、自分達の王国を打ち立てようと試みる道を歩く。これがその本質ですか。このような人々は、人間を救う神の経営計画と何らかのつながりを持っていますか。(持っていません。)どれほど多くの人々が神を信じようと、その信仰がなんらかの宗教または団体であると神によって定義された瞬間、彼らは決して救われないと神は決めたのです。私はなぜこう言うのでしょうか。神の働きと導きを持たず、神をまったく崇めない人々の群れや集まりにおいて、人は誰を崇めますか。誰に従いますか。彼らは心の中で神を認めていますが、実際には人間による操作と支配の対象です。名目上はおそらく人に従いますが、本質的にはサタン、悪魔に従います。神に敵対的な勢力、神の敵に従うのです。神がこのような人々の群れを救うことがあり得ますか。彼らは悔い改めることができるでしょうか。人間の事業を実行し、自らの経営を行ないつつ、信仰の旗を振り、人類を救うための神の経営計画に背くのです。彼らの最終的な結末は神に憎まれ、拒絶されることです。神は到底これらの人々を救うはずがなく、彼らは悔い改めるはずがなく、すでにサタンに捕らわれています。彼らは完全にサタンの手の中にあるのです。…神の道をたどることができず、完全な救いの道を歩くことができなければ、最終的な結末はどうなりますか。それはキリスト教やユダヤ教を信じる人々と同じになります。そこに違いはありません。これが神の義なる性質です!いくつ説教を聞いたといえども、またいくつ真理を理解したといえども、最終的にやはり人に従いサタンに従うのであれば、最終的にやはり神の道をたどることができず、神を畏れ悪を避けることができないのであれば、このような人は神によって憎まれ、拒絶されます。外から見る限り、神に憎まれ、拒絶されるこれらの人々は字句や教義について多くのことを語れますが、それでも神を崇めることができません。神を畏れ悪を避けることができず、完全に神に服従することができないのです。神の観点では、彼らを宗教、単なる人間の集団、そしてサタンのねぐらと神は定義します。彼らはひとまとめにサタンの群れと呼ばれ、神に大いに嫌悪されます。

『キリストの言葉の記録』の「常に神の前で生きてのみ、救いの道を歩くことができる」より

まずは、「信仰する者」の「信仰」が何を指すかについて話をする。「信仰」とは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の5大宗教を指す。…

…………

先述した5大宗教のうち、キリスト教は少し特殊である。それでは、キリスト教の特殊性とは何であろうか。キリスト教徒は、真の神を信仰する人々である。真の神を信仰する人々がここで挙げられているのは、何故であろうか。なぜなら、キリスト教では、神が存在することを認めているにすぎず、神に反抗し、敵意を抱いているからである。キリスト教徒は、キリストを再び十字架に架け、終わりの日における神の業に敵対する立場を取り、その結果として宗教団体のひとつに零落している。キリスト教は宗教の一種であるため、信仰のみに関連することは確実である。キリスト教は、一種の儀式であり、教派であり、宗教であり、真に神に付き従う信仰とは別のものである。わたしがキリスト教を5大宗教のひとつに挙げたのは、キリスト教がユダヤ教、仏教、イスラム教と同じレベルにまで零落しているからである。大部分のキリスト教徒は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、いわんや神の実在を信じているということは無い。その代わりに、キリスト教徒は、単に聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて人間に対して親切にすること、辛苦に耐えること、善行を行うよう諭すのみである。それがキリスト教という宗教である。つまり、神学的理論のみに集中し、人間を経営し、救う神の業とは全く関係なく、神によって認められていない神に付き従う人々の宗教である。

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身 10」より

「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12章6〜8節)という聖句について検討する。ここでいう「宮」とは、何であろうか。「宮」とは、簡単に言えば高い大きな建物を指し、律法の時代は、宮とは司祭が神を礼拝する場であった。主イエスが「宮よりも大いなる者がここにいる。」と言った時、「者」とは誰をさしていたであろうか。ここで「者」とは、明らかに肉体を持つ主イエスを指す。なぜなら、神殿よりも偉大なものは主イエスのみだったからである。この聖句は人々に何を伝えているだろうか。この聖句では、神殿の外に出るよう、人々に伝えている。なぜなら、神は既に神殿の外に出ており、神は神殿では何も行っていなかったので、人々は神の足取りに続き、神の新たな業における段階に従うべきだったからである。主イエスがこうした言葉を伝えた背景には、律法のもとにおいては、神殿が神そのものよりも偉大なものであると人々が考えるようになっていたということがある。すなわち、人々は神ではなく、神殿を礼拝したので、主イエスは人々に対して偶像を崇拝せず、神は至高の存在であるので、神を崇拝するよう警告したのだ。そうしたわけで、主は「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」と述べたのである。主イエスから見て、律法のもとでは、人々はもはやヤーウェ神を礼拝しておらず、単にいけにえを捧げる手続に従っていただけであったことは明瞭であり、したがって主イエスはその手続を偶像崇拝であると判断された。これらの偶像崇拝者は、神殿を神よりも偉大で崇高なものと考えていた。こうした者の心には神殿しかなく、神は存在しなかったので、神殿を失った場合、こうした者はすみかを失った。神殿無くしては、こうした者は礼拝を行うために訪れる場所がなく、いけにえを捧げることができなかった。ここでいう、こうした者のすみかとは、ヤーウェ神の礼拝という名目で活動を行っていた場所であり、こうした者は神殿に滞在して自分たちの私事を行うことができた。ここでいう、こうした者が「いけにえを捧げる」とは、神殿で礼拝を行うという口実のもとに、自分の個人的な恥ずべき取引を行う、ということであった。当時の人々が、神殿は神よりも偉大であると考えていたのは、このためであった。こうした者は、神殿を隠れ蓑として利用し、いけにえを人々と神を欺くための口実として利用していたので、主イエスは人々に警告したのだった。こうした言葉を現在に当てはめた場合、こうした言葉は当時と同様に正当であり、適切である。現在の人々は律法時代の人々とは異なる業を経験してはいるが、人々の本質は同じである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より

関連した内容