言葉は肉において現れる

目次

唯一の神自身 8

神は万物の生命の源である (2)

前回伝えた事項について、引き続き話をする。前回伝えた事項を覚えているだろうか。(神は万物の生命の源である、だった。)「神は万物の生命の源である」は、あなたがたにとって極めて関係の薄い事項であろうか。この事項について前回伝えた事柄の要点を述べることが出来る者は居るだろうか。(神による万物創造により、神が万物や人間を養われていることが分かる。従前は、神が人間に施される時、神は、神の選民に対し、神の御言葉を与えられるのみであると、常に考えていたが、神が万物の律法により人類を養われているということは気付かなかった。真理のこの側面に関する話によって、万物の生命が神に施されていること、神がその律法を操られていること、神が万物を養われていることを、はじめて理解できた。神の万物創造から、神の愛を理解し、神は万物の源であると感じる。)フム、前回はおもに神の万物創造、そして神が万物の律法と原則をどのようにして確立したかについて話をした。そうした律法や原則に基づき、万物は神の支配下において、そして神の見守るなかで、人間とともに生き、死に、共存する。最初に話をした話題は何であっただろうか。神は万物を創造し、独自の方法により万物の成長の律法やその成長の軌跡と成長様式を定め、また万物が継続して生存し、依存し合うよう、万物が地上に存在する形態を定めた。そうした方法と律法により、万物は地上で無事に平和に存在して成長することが可能となる。人間が安定した住居と生活環境を得て、神の導きにより継続的に発展し、進歩し続けることができるのは、ひとえにそうした環境があるからである。

前回は、神が万物に全ての必要を与えたことの基本的概念の話をした。神は、まずこのようにして万物に全ての必要を与えたので、万物は人間のために存在し生きる。こうした環境が存在するのは、神により定められた律法があるからである。人間の現在の生活環境が存在するのは、ひとえに神がこうした律法を維持し、管理しているからである。前回話をした内容は、従前に話をした神に関する認識から大きく飛躍した内容であった。そのような飛躍がある理由は何であろうか。それは、従前に神を知ることに関する話をした時、神が人間を救済し、経営する事、すなわち神の選民の救いと経営、神や、神の業、神の性質、神が持っているものや神自身、神の心、神がどのようにして人間に真理といのちを与えるかに関する範囲内で話をしたからである。しかし、前回話をした事項は、聖書や神による神の選民の救いの範囲だけに限定されていない。前回の話は、聖書や神の選民に対して神が行う3段階の業により神自身について話をするという制約を超えていた。したがって、わたしの話のうち、この部分を聴いた時、あなたがたは、自分が知っている神に関する認識を、聖書や神の業の3つの段階に限定してはならない。むしろ、あなたがたは視野を制限せず、万物の中にあって神の業、神の持つものと神そのものを理解し、神がどのように万物を支配し、管理するかを知る必要がある。あなたがたは、それを手段とし、基礎として、神がどのように万物に施すかを理解することができる。こうすることにより、人間は、神が万物のいのちの真の源であり、それが神自身の真の身分であることが理解できる。つまり、神の身分、地位、権威など、神の全ては、現在神に付き従っている者だけを対象とするものではない、つまりあなたがただけでなく、万物を対象としているということである。それでは、万物の範囲は何であろうか。万物の範囲は極めて広い。わたしは神の万物支配の範囲を説明するために「万物」という語を用いているが、それは、あなたがたに、神により支配されている物事は、あなたがたの目に見えるものだけではなく、人間全員に見える物質世界とともに、それと別の、人間の目には見えない、物質世界以外の世界、そして人間が現在存在する範囲外の宇宙や惑星も含まれる、ということである。それが、神の万物支配と、神が万物を支配しているという概念の範囲である。神による万物支配の範囲は極めて広い。あなたがたが理解すべきこと、知るべきこと、そして何によって認識を得るか―これが、ここに座っているあなたがたが理解し、知り、明確にしなければならない事柄である。この「万物」の範囲は極めて広いものの、わたしはあなたがたが全く見たり接したりすることが出来ない物事については話をしない。わたしは、人間が接する可能性のある事柄、理解できる事柄の範囲について話をするので、全員が「神は万物の生命の源である」という言葉の本当の意味を実感できる。こうすることにより、わたしがあなたがたに伝える事柄は、空虚な言葉ではなくなる。前回は、神が万物に施すことについて、基本的な認識を得ることが出来るように、物語を使って、「神は万物の生命の源である」という主題の概要を説明した。こうした基本概念をあなたがたの身に付けさせたことの目的は何であろうか。それは、聖書や神の業の3段階以外に、神は人間が見たり接したり出来ない業を、それ以上に行っているということを、あなたがたに知らせることである。そうした業は神が個人的に実施しているものである。もし神が、経営の働き以外の業無しで選民だけを導いているとすれば、あなたがたを含めた人類にとって、前進することは極めて困難となり、人類や世界は発展を継続できなくなるであろう。これが、本日話をしている「神は万物の生命の源である」という言葉の重要性である。

1.神が人類のために造った基本的な生活環境

「神は万物の生命の源である」という言葉に関連する主題と内容について多くの事柄を話したが、神の言葉と神の刑罰、そして裁きの業のほかに、神が人間に与える事柄を、あなたがたは心得ているであろうか。一部の者は「神は恵みと祝福、鍛錬とやすらぎ、労りと保護をあらゆる方法で与えてくださる」と答えるであろう。また、「神は日々の食べ物や飲み物を与えてくださる」と答える者や、「神は全てを与えてくださる」と答える者も居るであろう。こうした人間が日常的に接する物事に関しては、あなたがた全員が、自分の物理的な生活体験から何らかの答えがあるであろう。神は、人間それぞれに対し、多数の物事を与えるが、ここで話をする物事は、人間が日常的に必要とする物事の範囲だけではなく、あなたがた全員が視野を広げることのできる物事である。マクロ的な観点からすると、神は万物の生命の源であるのであれば、神はどのようにして万物のいのちを維持しているのであろうか。神は、万物の存在と、万物の存在に関する律法を維持するために万物に対して何を与えているであろうか。それが、本日の話の主眼である。あなたがたはわたしが述べたことを理解できるだろうか。わたしの話の速さについて来ることが出来るであろうか。(出来る。)あなたがたが話を聞いていることを確認したので、話を先へ進める。この事項は、あなたがたにとって極めて馴染みが薄いかも知れないが、深刻すぎる教義などについては一切話をしない。あなたがたが話を聞いて理解できるよう、努力する。あなたがたは負担を感じる必要は無い。ただ注意して聞いてくれればよい。しかし、ここでもう一度強調しておく必要がある。わたしの話はどのような事項に関するものであろうか。答えて欲しい。(神は万物の生命の源である、という事項である。)それでは、神はどのようにして万物に施すであろうか。神は万物に何を与えるであろうか。「神は万物の生命の源である」と言えるのは何故だろうか。この事柄について、あなたがたには何かしらの概念や思想があるであろうか。わたしが話そうとしている事柄について、あなたがたは全く白紙の状態のようである。しかし、わたしが話す事柄を、知識と関連づけたり、人間の文化や調査研究と結びつけたりするのではなく、神の業と関連づけることが出来ることを願っている。わたしは神と神自身についてのみ話をしている。それが、あなたがたに対するわたしの提案である。あなたがたは理解しているであろうか。(理解している。)

神は人類に、数多くの物事を与えてきた。わたしがまず話をするのは、人間が見ることが出来る物事、したがって人間が感じることのできる物事である。こうした物事は、人間が心の中で理解し、受け容れることのできる物事である。まず、物質世界について、神が人類に与えてきた物事の話をする。

1)空気

まず、神は人間が呼吸できるように、空気を造った。この「空気」は、人間が日常生活において常に接している空気ではないのか。この空気は、就寝中も含めて、常時人間が依存している物ではないだろうか。神が造った空気は、人間にとって計り知れないほど重要なものである。空気は人間が呼吸するとき毎回必要不可欠であり、命そのものに不可欠な物である。感じることのみ可能であり、目に見えない、この空気という物質は、万物に対する神の最初の賜物である。空気を造った後、神はそれで業を終わりにしたであろうか。これについては、人間の想像を超える側面が多数ある。空気を造った後、空気の正確な濃度や量を、人間の生存に応じて供給する必要があった。濃度については、まず酸素含有量の問題がある。これは物理学の問題である。神が空気を造った時、神は何を考えていたであろうか。神が空気を造ったのは何故であろうか。また神の理由付けはどのようなものであったであろうか。人類には空気が必要であり、呼吸する必要がある。まず、空気の濃度は、人間の肺に対応する必要がある。あなたがたのうち、空気の濃度を知っている者は居るだろうか。空気の濃度は、人間が知る必要のあるものでは無い。空気の濃度を知る必要は無い。その概要について知るのみで十分である。空気の濃度について、正確な数値を把握する必要は無い。まず、神は、人間の肺による呼吸に最適な濃度で空気を造った。空気は人間の呼吸に適したものにした。つまり、空気は、呼気時に身体を害さない濃度である。これが空気の濃度の根本となる概念である。空気の成分は、概して人間に無害であるので、肺や身体に危害を与えることは無い。神はそうしたこと全てに配慮する必要があった。神は、人間が呼吸する空気は円滑に人間から出入りする必要があり、また吸い込んだとき、空気の成分と分量は、血液や肺や身体内部の排気が適切に代謝されるものである必要があり、また空気には有毒な成分が一切含まれていないものである必要があると考えた。こうした2つの基準について、わたしはあなたがたに大量の情報を与えることを望んではおらず、神が万物を造った時、それぞれについて最良の物とするため、神には特定の思考過程があったということを、あなたがたに知らせたいだけである。空気中の粉じん、土中の粉じんや砂、泥、空から舞い落ちる粉じんの含有量についても、そうした物質を除去ないし分解する方法に関し、神には計画があった。神は、粉じんが多少含まれて居ても、それが人間の身体や呼吸を阻害することなく、また粉じんが人体に危害を加えない大きさとなるようにした。神による空気の創造は神秘であっただろうか。(神秘であった。)それは、神が口から空気を吐き出すだけの、簡単な作業であっただろうか。(そうではなかった。) どれほど単純な創造物であっても、そこには神秘や神の心、神の考え、神の知恵が見られる。神は現実的であるだろうか。(現実的である。)つまり、単純な物を造る時でも、神は人類のことを考慮していた。第一に、人間が呼吸する空気は汚染されておらず、毒性が無く、人間の呼吸に適したものであり、人間に危害を与えず、またその濃度は人間の呼吸に合わせて調整されている。人間が呼吸する空気は人間の身体に不可欠である。したがって人間は制約や懸念なく、自由に呼吸することができる。人間は普通に呼吸可能である。空気は神が最初に造ったものであり、人間の呼吸に不可欠なものである。

2)気温

2番目の物事は、気温である。気温が何かは誰でも知っている。気温は、人間の生存に適した環境に備わっていることが必要とされるものである。摂氏40度を超える場合など気温が高すぎる場合、人間の生活は極めて過酷なものとなる。そうした気温は、極めて体力を消耗させるものではなかろうか。摂氏零下40度を超える場合など気温が低すぎる場合はどうであろうか。それもまた人間には耐え難いであろう。したがって、神はそうした気温の範囲設定時に、極めて正確であった。人体が適応可能な気温の範囲は、基本的に摂氏零下30度から摂氏40度までである。これが南部から北部までの基本的な気温の範囲である。寒冷地域では気温が摂氏零下50度程度に達することもある。そうした地域は、神が人間の居住を許可している地域ではない。そのような寒冷地域が存在するのは、何故であろうか。その存在にも、神の知恵と意図がある。神は、人間がそうした地域付近に行くことを禁じている。神は暑すぎる地域や寒すぎる地域を保護している、すなわち神はそうした地域に人間が居住する準備をしていない。そうした地域は人間のための地域ではない。神が地上にそうした地域を存在させているのは何故だろうか。神がそうした地域に人間が居住するのを許していないのであれば、神がそうした地域を造ったのは何故であろうか。そこには、神の知恵がある。つまり、人間の生存環境のための基本的な気温もまた、神により適宜調整されたものである。気温にも法則がある。神はこうした気温の維持に役立ち、気温を制御する物事を造った。この気温を維持するために用いられている物事は、何であろうか。まず、太陽は人間に温もりをもたらすが、暑すぎると人間は耐えられなくなる。地球上には、太陽に近付くことができる物はあるであろうか。(無い。)それは何故であろうか。それは、太陽が熱すぎるからである。その物は溶けるであろう。したがって、人間から太陽までの距離についても、神は特定の処置を実施した。神には、その距離についても基準を設けている。また、地球には南極と北極がある。南極と北極には、何があるだろうか。南極と北極は一面の氷河である。人間は氷河の上に住めるだろうか。氷河上は人間生活に適しているだろうか。(適していない。) 適していないので、氷河へは行かない。人間が南極へも北極へも行かないので、氷河が保護され、氷河は、気温を制御するという氷河の役割を果たすことができる。分かるであろうか。南極と北極が無く、太陽が常に地球を照りつけているとしたら、地上の人間は熱で全員死滅してしまうであろう。神が気温を制御するのに用いるのは、この2つだけであろうか。神が人間に適した気温を制御するのに用いるのは、この2つだけでは無い。それ以外に、野原の草や森の木々や植物など、様々な生き物も存在する。こうした生き物は太陽の熱を吸収し、太陽の熱エネルギーを合成して、人間が生活する気温を調整する。また、河川や湖沼などの水源も存在する。河川や湖沼の表面積は、人間が決めることの出来るものでは無い。誰かが地球上の水の量や、水の流れる先、方向、水量、流れる速度を制御できるであろうか。誰もそうした事柄を制御できない。それは、神のみぞ知る事柄である。地下水や、人間が見ることのできる地表の河川や湖沼などの様々な水源もまた、人間が生活する気温を調整することができる。それ以外にも、山や平野、峡谷や湿地など、様々な地形が存在する。こうした様々な地形それぞれの表面積や規模により気温を制御することができる。たとえば、ある山の半径が100キロメートルである場合、その半径100キロメートルの範囲には、100キロメートル分の効果がある。そうした神が地上に造った山地や峡谷の数についても、神が十分に考慮したものである。つまり、神の創造物ひとつひとつの存在について、それぞれに経緯があり、それぞれに神の知恵と計画が含まれている。たとえば、森と植生について、その地域面積や規模を制御できる人間や、森と植生を最終的に決定できる人間は居ない。森と植生がどの程度の水や太陽の熱エネルギーを吸収するかについても、それを制御できる人間は居ない。これらの物事は、全て神の万物創造時に、神により計画された物事の範囲に含まれる。

また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、その全ての側面についての神の周到な計画、検討、采配のおかげである。したがって、太陽など人間が見るあらゆる物、南極や北極など人間が頻繁に話を聞く物、地上や地中、海中の様々な生き物、森その他の植生の面積、水源、様々な形態の水域、そうした水域の淡水や海水の量、さらに様々な地理的環境を用いて、神は人間の生存のための常温を維持している。これは絶対である。また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、神の周到な検討のおかげである。そうした環境は寒すぎることも暑すぎることも無い。人体が順応出来る気温を超えるほど暑い場所は、間違い無く神が人間のために用意した場所では無い。気温が低すぎて寒すぎる場所、すなわち人間が到着して数分で凍えてしまい、話が出来ず、脳が凍り、思考不可能となり、息が詰まるような場所も、神が人間のために用意した場所ではない。人間がどのような調査を行うことを望んだとしても、現状を革新したい、あるいはこうした制約を打破したいと考えたとしても、人間がどう考えるかを問わず、人体が順応可能な限界を超えることは決して出来ない。人間は、こうした神が人間のために設けた限界を解消することは決して出来ない。神は人間を創ったので、神は人体が順応可能な温度について最も深く理解している。人間はその温度について知っているであろうか。(知らない。)知らないと言えるのは、何故であろうか。人間はどのような愚行を行って来たであろうか。北極や南極に常に挑んでいる人々は、これまで多数居なかったであろうか。そうした人々は北極や南極へ向かい、その地を占有して定住して開発することを常に望んでいる。これは自滅的行為ではないだろうか。(自滅的行為である。)仮にあなたが南極と北極を完全に調査したとしよう。しかし、あなたがそうした気温に順応できたとしても、南極や北極の生活環境や生存環境を変えることが、人類に何らかの利益をもたらすであろうか。南極や北極の氷が全て溶けたとしたら、あなたは満足であろうか。それは信じがたいことである。それは愚かな行為である。人間には、生存できる環境があるが、素直にそこで静かに誠実に留まっていることが出来ず、生存不可能な場所へ行かずには居られない。それは何故であろうか。人間は適切な気温の中で生活することに飽きている。人間が享受した祝福が多すぎるのである。また、この通常の生活環境は、人類によってかなり破壊されて来たので、南極や北極へ行って更なる破壊を行ったり、ある種の「先駆者」となることができるよう、何らかの「活動」を行ったりする。それは愚かではなかろうか。そうした人間の祖先であるサタンの指揮下において、そうした人間は次から次へと愚かな行動を続け、神が人間のために造った美しい住処を、見境無くみだりに破壊してゆく。それはサタンの業である。さらに、地球上における人類の生存が多少危うくなったのを見て、月へ行ってそこに住む方法を模索し、月に住めるのであれば地球から脱出しようとする者も大勢居る。だが結局月に欠如しているものは何であろうか。(酸素である。)酸素無しで人間は生存できるであろうか。(生存できない。) 月には酸素が無いので、人間が居留できる場所ではないが、人間は相変わらず月へ行きたがる。これは何であろうか。(自滅行為であり、悩み事を招く行為である。)それは自滅行為であろう。月は空気の無い場所であり、気温も人間の生存に不適であるので、月は神が人間のために用意した場所では無い。

つい先ほど話をした気温の問題は、人間が日常生活で接することの出来る問題で、「本日は素晴らしい空模様で、気温は23度である。好天快晴で空気は爽快だ。新鮮な空気を吸い込もう。太陽が光り輝いている。日の光が降り注ぐ中で、身体を伸ばそう。良い気分だ。」あるいは「本日は非常に寒い。手を出すと、すぐ冷たくなるだろう。寒いから屋外に長時間居てはならない。身体が冷えないうちに帰宅しよう。」というような会話を交わす。気温は全ての人間が体感できるものであるが、この気温がどのようにして現れたか、あるいは人間の生活に適した気温を制御しているのは誰かについては、誰も考えない。本日明らかにしようとしているのは、この問題である。気温には、神の知恵が含まれているであろうか。気温には、神の業が含まれているであろうか。(含まれている。)人間の生活に適した気温の環境は、神が造ったことを考えると、気温は神が万物に恵みを与えるひとつの方法だろうか。実際、それはひとつの方法である。このことにより、神が万物に恵みを与え、管理していることは、真に現実的なものであることが分かるのだ。

3)音

3番目の物事は、音である。音もまた、人間の通常の生活環境に備わっていることが必要とされるものである。音は、神が万物を造った時に出現した。その時、神は音を極めて周到に造った。それは、神にとって、そして人間の生存にとっても、極めて重要なものである。神が音の問題を周到に扱わなかったとしたら、人間の生存に対する大きな障壁となっていたことであろう。そうした状況は、人間の身体と生活に著しい悪影響を及ぼし、人類がそのような環境で生存することが不可能となっていたであろう。また、あらゆる生き物がそうした環境では生存できないと言えるであろう。それでは、音とは、どのようなものであろうか。それは、音である。神は万物を造り、万物は神の手の中で生きる。神の目から見ると、万物が動き、生きている。神は万物を創造し、万物の存在には、それぞれ価値と意義がある。つまり、万物には、すべてその存在の根底に必要性がある。しかし、神の創造物には、それぞれ命がある。万物はそれぞれ生きており、動いているので、必然的に音を発する。たとえば、地球も太陽も、そして月も自転している。万物のいのちと動きからは、常に音が発生する。地上にある物もまた常に繁殖し、成長し、動いている。たとえば、山の基盤は動いており、移動しており、海中の生き物はすべて移動し、遊泳している。こうした生き物や万物は、神の目から見ると、全て継続的かつ恒常的に運動している。それでは、こうした密かな拡張、成長、運動により、何が発生するだろうか。力強い音である。地球以外のあらゆる惑星もまた継続的に運動し、惑星上の生き物や有機体もまた継続的に拡張し、成長し、運動している。つまり、いのちのある物やいのちの無い物は、神の目から見るとすべて継続的に動いており、いのちのある物が全て動いている時、それらの物は同時に音を発生させる。神はこうした音についても取り扱っている。それは何故か。あなたがたはその理由を知っているはずであろう。あなたがたが航空機に近付いた時、航空機の轟音は、あなたがたにどのような影響を与えるであろうか。(私達は難聴になる。)その音は人間の聴覚を損傷させるであろうか。人間の心臓はその音に耐えきれるであろうか。(耐えきれない。) 心臓の弱い人間は耐えきれないであろう。無論、心臓の強い人間であっても、その音が長期化すると耐えられないであろう。つまり、音の人体に対する影響は、それが耳であるか、心臓であるかを問わず、各人にとって極めて甚大であり、音量が大きすぎる音は人間に危害を与える。したがって、神が万物を創造し、万物が正常に機能し始めた時、こうした音すなわち運動する物の音に、神は適切な処置を施した。こうしたことも、人間のための環境を造る時に、神にとって必要な配慮のひとつであった。

まず、地上にある大気圏により音が消され、制限される。また地面の間にある空間すなわち土壌の隙間の大きさによって音が変化し、影響を受ける。さらに様々な地理環境が重なり、それも音に影響を与える。つまり、人間の耳や心臓が耐えることの出来る環境で人間が生存できるように、神は特定の方法を用いて音の一部を消している。さもなければ、人間の生存にとって音が大きな障害となり、音は生活上大問題となるであろう。これは大問題である。つまり、神は地面と大気、そして様々な地理的環境を造った時、極めて特定的であった。こうした物事すべてに神の知恵が含まれている。こうした事情に対する人間の理解は、それほど詳細である必要は無い。理解する必要があるのは、こうした物事に神の業が含まれて居るということのみである。神の万物創造は、まさに人間生存のためのものであった。さて、あなたがたに尋ねるが、音を変化させる神の業は必要であったであろうか。あなたがたは、神がこの業を行う必要性を感じることが出来るであろうか。神が行った業は、音を極めて正確に変化させることであった。神はこの業を行い、人間の生活環境と通常の生活を維持した。この業は必要だったであろうか。(必要だった。)この業が必要であるとすると、その観点から見て、神はそうした方法を用いて、万物に全ての必要を与えたと言えるであろうか。神は、人間の身体が静かな環境で極めて正常に生活出来るように、また人間に障害が無く、普通に存在して生活出来るように、人類のためにそうした環境を造り、そして与えた。これは神が人間に全ての必要を与える方法のひとつではないだろうか。(その通りである。)神が行ったこの業は極めて重要であろうか。(重要である。)その業は是非必要であった。それでは、あなたがたはその業に対して、どのように感謝しているであろうか。あなたがたは、それが神の業であると感じる事が無く、当時それを神がどのように行ったかを知らなかったとしても、神がこの業を行う必要性を感じることが出来るであろうか。こうした業に神が注ぎ込んだ知恵や配慮、そして思いを感じることが出来るだろうか。(出来る。)それを感じる事が出来れば、それでよい。それで十分である。人間が感じることの出来ない物事や、見ることの困難な物事で、神が行った業は多数ある。今わたしがこう述べるのは、単に神の業に関する情報をあなたがたに与え、あなたがたが神を知ることが出来るようになるためである。こうした手がかりにより、あなたがたは神の業を一層理解することができる。

4)光

4番目の物事は、人間の目に関する事柄、すなわち光である。光は極めて重要である。あなたがたが眩しい光を見た時、そしてその光がある程度の光度に達した場合、あなたがたは盲目になる。つまるところ、人間の目は、肉の目である。肉にある目は損傷に耐えられない。太陽の光を敢えて直視する者が居るだろうか。(居ない。) 直視してみたことのある者は居るだろうか。試しに直視した者が一部に存在する。サングラスをかければ、直視することが出来るであろう。直視するには、道具の助けが必要となる。道具が無ければ、人間は敢えて裸眼で太陽を直視しない。人間には、太陽を直視できる能力が無い。神は、人間に明るい光を与えるために太陽を造ったが、神はこの光も操作した。神は太陽を造った後、太陽をそのまま放置して無視していたということは無い。「人間の目が太陽に耐えうるかなど関係ない。」などということは、神は決してなさらない。神は極めてきめ細やかに業を行い、あらゆる側面を考慮する。神は、物を見ることができるように、人間に目を与えたが、同時に人間が見ることの出来る光度の範囲も設けた。光量が不足すると、人間の目は見ることができない。人間が目の前にある自分の手を見ることが出来ないほど暗い場合、人間の目は機能しなくなり、役に立たない。人間の目は光量が多すぎる場所に耐えられず、その場合も何も見えなくなる。したがって、人間の生活環境において、神は人間の目に適した量の光を与えた。この光は、人間の目に損傷を与えない。さらに、この光は人間の目の機能を停止させることも無く、この光により、人間が見るべきもの全てを明瞭に見ることが出来ることが保証されている。神が太陽と地球の周囲に適量の雲を加えたのは、このためであり、また空気の濃度も人間の目や肌を負傷させる光を除去することが可能である。こうした事は相互に関連している。さらに、神が造った地上の色彩もまた太陽光やその他の光を反射させ、人間を不快にする光量の一部を除去する。こうしたわけで、人間は、屋外を歩く場合や生活する時に、色の濃いサングラスを常時着用する必要が無い。通常の条件下では、人間の目は視界内の物を見ることが可能であり、光により妨害されることは無い。つまり、この光は眩しすぎることも暗すぎることも無い。光が暗すぎる場合、人間の目は損傷し、間もなく目が機能しなくなり、使えなくなる。光が明るすぎる場合、人間の目はそれに耐えきれず、30年から40年、あるいは40年から50年後には、その目を使えなくなる。つまり、この光は人間が見るのに適しており、光による目の損傷は、神の様々な手段により最低限度に抑制されている。光が人間の目に利益をもたらすか、問題をもたらすかを問わず、光は人間の目を人間の寿命に達するまでの期間にわたり耐用可能とするに十分である。そうではないか。(その通りである。)神はそのことを極めて周到に考慮していたであろう。しかし、サタンすなわち悪魔が業を行う時は、そうしたことは一切考慮しない。サタンは、何かが人間に危害を加えるかどうかなど、全く気にしない。サタンは生態環境に危害を加える業を多数行って来ており、人間は現在その一部を理解するようになった。光は眩しすぎたり、暗すぎたりして、人間の感情を全く考慮していない。

神は視力、聴力、味覚、呼吸、感情など、人体の全側面について考慮し、人間の生存のための順応力を最大限に発揮させているので、人間は普通に生活を続けることができる。神が造った、こうした既存の生活環境は、人間の生存に最適かつ最も有益な生活環境である。こうしたことはとりわけ重要ではなく、すべて至って普通であると考える者も居るであろう。音、光、そして空気は、人間が生来持っているもの、生まれた時点から享受出来るものと感じるものである。しかし、人間がこれらのものを享受する陰で神が行った業は、あなたがたが知る必要のあることである。簡潔に言うと、これらのものを知る必要があると感じるかどうかを問わず、神がこれらのものを造った時、神は配慮し、計画を立て、一定の概念を持っていた。神は単純に、何気なく、あるいは何も考えること無しに、そうした環境の中に人間を置いたわけではない。わたしが話をした物事は、いずれも大したことが無いと考えるかも知れないが、わたしの考えでは、神が人類に与えた物事は、いずれも人類の生存に必要なものである。こうしたものには、神の業が行われている。

5)気流

5番目の物事は何であろうか。5番目の物事は、各人に深く関係している物事であり、それ無しでは、この物質世界で人体が生きて行けない物事でもある。それは気流である。「気流」とは、おそらくあらゆる者が理解する言葉であろう。気流とは何であろうか。あなたがた自身の言葉で説明して欲しい。(気流は空気の流れである。)そのようにも説明できるであろう。空気の流れを「気流」と呼ぶ。その他の説明する方法があるだろうか。「気流」という語は、何を意味するであろうか。気流とは、人間の目に見えない風である。またそれは、気体の運動形態のひとつでもある。それも正しい。しかし、ここで話をする気流とは、何であろうか。わたしが述べればすぐに分かるであろう。地球には、山や海などがあり、地球が回ると全てが回転し、回転時の回転速度がある。あなたがたが回転していると全く感じない場合であっても、地球は間違い無く回転している。この回転により、何が発生するであろうか。人間が走ると、何が発生するであろうか。走ると耳に風を受けないだろうか。(受ける。)その通り。人間が走った時に風が発生するのであれば、地球が回転した時に風が発生しないということは、有り得ない。地球が回転する時、万物は運動している。万物は運動し、一定の速度で回転しているが、それと同時に地上の万物は継続的に繁殖し、展開している。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生する。これが気流である。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすだろうか。(及ぼす。)影響を及ぼすであろう。地球全体が平野であったとしたら、地球と万物が一定の速度で回転した場合、人体は極めて小さいので、風力に耐えることが出来ないであろう。台湾と香港は、両者とも台風に見舞われる。台風はそれほど強力では無いが、台風に見舞われると、人間は立っていることが出来ず、風の中を歩くのに困難を感じる。1歩進むのも困難である。これは、気流が人間に影響を与える形態のひとつである。地球全体が平野であったと仮定すると、地球が回転した時に発生する気流は人体が耐えうるものでは無い。その気流に対処するのは、極めて困難である。この場合、気流は人間に危害を及ぼすだけでなく、人間を破壊してしまう。このような環境では、誰も生存出来ないであろう。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を用いて、こうした気流を解消し、気流の方向や速度、威力を変え、緩和させる。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、川など、様々な地理的環境が見られるのは、そのためである。神はこうした様々な地理的環境を適用して気流の速度、方向、威力を変化させ、それによって気流を適切な風速、風向、風力へと変化させるので、人間は通常の生活環境を得ることができる。こうしたことを行うのは、人間にとって困難であると思われるが、神にとっては容易である。なぜなら神は万物を監督しているからである。神にとって、人間に適した気流のある環境を造ることは極めて単純かつ容易である。したがって、こうした神が造った環境において、万物のそれぞれが不可欠である。つまり、万物には、すべてその存在に価値と必要性がある。しかし、サタンと腐敗した人間は、こうした思想が無い。サタンと腐敗した人間は破壊と開発を続け、むやみに山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、そこに高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出そうとする。人類が幸福に生活し、成長し、神が人間のために用意した、人間に最適な環境において人間が幸福な毎日を送ることが、神の願いである。人間の生活環境を扱う時に神が決して不注意でないのは、このためである。人間の生活環境と身体が自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と調和して共に正常に生活できるように、神は気温から空気、音、光にいたるまで、精緻な計画を立て、精緻な采配を行った。こうした事柄は全て神により万物と人間に与えられたものである。

これら5つの人間の生存のための基本的な条件を神が取り扱う方法から、神が人間に与えている物事が理解できるであろうか。(理解できる。)つまり、神は最も基本的な人間生存条件5つを全て造った。同時に、神はこれらの条件を管理し、制御し、人間の存在が始まって数千年を経た今も、神は依然として継続的に人間の生活環境を変化させ、人間にとって最善かつ最適な生活環境を与えているので、人間の生活が普通に維持されているのである。この環境は、いつまで維持されるであろうか。つまり、神がそうした環境を与える期間は、どれくらいであろうか。神の経営の業を神が完了するまでである。その後は、神は人間の生活環境を変化させるであろう。その変化は同様の方法で行われる可能性もあり、異なる方法で行われる可能性もあるが、今人間が真に知る必要のある事は、人類に必要とされる物事を神が継続的に与え、人間の生活環境を管理し、維持し、保護しているということである。神の選民がこのように普通に生活し、神の救いと刑罰、そして裁きを受けることが出来るのは、こうした環境があるからである。神の支配のおかげで万物は存続し、また神がこうして与えているおかげで全人類は進歩を続けている。

今話をした部分により、あなたがたの中に何か新たな考えが浮かんだであろうか。あなたがたは、これで神と人間の最大の違いを感じることが出来るようになったであろうか。それでは、万物の支配者は誰であろうか。その者は人間であろうか。(人間では無い。) それでは、あなたがたは万物の取り扱い方における神と人間の相違が何かを知っているだろうか。(神は万物を支配して取り決めるが、人間はその全てを享受する。)あなたがたはこの意見に賛成するだろうか。(賛成する。)神と人間の最大の相違点は、神が万物を支配し、全てを与えるということである。神は万物の生命の源であり、神は万物に与えるのに対し、人間は万物を享受しているという事である。つまり、神が万物に与えるいのちを人間が享受した時、人間は万物を享受するということである。人間は神の万物創造の成果を享受するのに対し、神は主である。そうではないか。それでは、万物の立場から見ると、神と人間の相違点は何であろうか。神は万物の成長形態を明瞭に理解しており、その成長形態を管理し、支配する。すなわち、万物は神の目に見えており、神の監視範囲内である、ということである。人間は万物を見ることができるであろうか。(できない。)人間が見ることの出来る物事には制限がある。それを「万物」と呼ぶことは出来ない。それは人間の目に見えるものの全てである。人間が山に登った場合、人間に見えるのは、その山である。人間には、その山の反対側にあるものが見えない。人間が海岸へ出向いた場合、人間に見えるのは目の前にある海であるが、その対岸の海がどのような海かを知らない。人間が森に辿り着いた時、人間には自分の周囲と目の前にある植物が見えるが、その先の森の奥に何があるかは見えない。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることが出来ない。人間に見えるものは、目の前にある物事と、視野の中にある物事だけである。人間が1年間の四季の反復様式や万物の成長様式を知っていたとしても、人間は万物を管理したり支配したりすることができない。その一方、神の万物に対する認識は、あたかも神が製作した機械を神自身が見るようなものである。神はそれぞれの部品について熟知している。神は、その原則が何か、その様式はどのようなものか、その目的は何かについて、全てを明白に知っている。それゆえに、神は神であり、人間は人間であるのだ。たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲である一方で、神は万物を支配している。それは人間にとって無限である。神が行った極めて小規模な業を人間が研究した場合、人間は生涯を研究に捧げても、真の結論に達することは出来ないであろう。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究した場合、神を知る事も理解することも決して出来ないのは、このためである。しかし、真理の道を用いてと神を求め、神を知るという観点から神を見た場合、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物の生命の源であると言われるのが何故かを知るであろう。そうした認識を多く得れば得るほど、神が万物の主であると呼ばれる理由を一層深く理解できるであろう。あなた自身を含めた万物は、神から安定した施しを間断なく受け取っている。また、あなたはこの世界で、人類の中において、こうした万物の存在を支配し、管理し、維持する力と真髄を持つことの出来る者は、神を除いて存在しないことを、強く感じることが出来るであろう。あなたがこうした理解に達した時、あなたは、神があなたの神であることを真に認めるであろう。あなたがそうした状態に達した時、あなたは神を真に受け容れ、神をあなたの神であり主である存在とするであろう。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのレベルに達した時、神はそれ以降あなたを試したり、あなたを裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなるであろう。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け容れたからである。このことは、神の万物支配と管理に関するこれらの事項を伝えることの重要な理由のひとつである。このことは、人々に対して一層多くの認識と理解を与えること、すなわち、単にあなたがたに神の業を認めさせるだけでなく、神の業に関する実践的な認識を与えることを目的とするものである。

2.神が人類のために用意した日常の食料と飲料

ここまでは、全体的な環境、すなわち神が世界を創造した後に人間のために用意した、人間の生存に必要とされる条件について話をした。5つの物事について話をしたが、この5つの物事が、全体的な環境である。次に話す内容は、肉にある人間全員の生活と密接に関連する事柄である。それは、肉にある人間の生活に一層よく当てはまり、則した必要条件である。それは、食料である。神は人間を創り、適切な生活環境に置いた。その後、人間には食料と飲料が必要であった。人間には、そうした必要性があるので、神はそれに必要なものを用意した。したがって、神の働きの各段階と神の行なうひとつひとつの業は、空虚な言葉ではなく、実際に行われたものであることが分かる。食料は人間の日常生活において不可欠であろうか。(不可欠である。)食料は空気よりも重要であろうか。(それらは等しく重要である。)それらは等しく重要である。両者は人間の生存と人間生活の維持継続に不可欠な条件と物事である。空気と水のどちらの方が重要であろうか。気温と食料のどちらの方が重要であろうか。それらはすべて等しく重要である。人間はそのいずれも欠くことが出来ないので、人間は選択できない。これは現実的な問題であり、人間が選択できるものではない。あなたは知らないが、神は知っている。あなたがそれらの物事を見た時、あなたは「食べ物無しでは死んでしまう」と感じるだろう。しかし、あなたが造られた直後にそのような状況の中に置かれた場合、あなたは食べ物が必要だということを知っているであろうか。あなたは知らないだろうが、神は知っている。あなたが空腹になり、そして木が実を付け、地面に穀粒があるのを見た時、はじめてあなたは「そうだ、食べ物が必要だ。」と意識する。あなたの喉が渇き、水を飲みたいと思った時、はじめて「水が欲しい。水はどこにあるだろうか。」と意識する。あなたは目の前に泉があるのを見つけ、それを飲む。そして「これはとても美味しい飲み物だ。これは何だろう。」とつぶやく。それが水であり、水は神が人間のために用意したものである。食料については、1日3食摂るか、2食にするか、あるいは4食以上にするかは問題ではなく、要するに、食料は人間の日常生活に不可欠なものである、ということである。食料は人体の正常な生存を維持するために必要なもののひとつである。それでは、食料は主として何に由来するであろうか。第一に、食料は土に由来する。土は神が人間のために最初に用意したものであった。土は、木や草だけでなく、様々な植物の生存に適している。神は人間のために様々な穀粒の種と食料、そして栽培に適した土を用意し、よって人間に食料を与えた。そうした食料には、何があるだろうか。あなたがたは、これについて明確に理解している必要がある。第一に、様々な穀粒がある。穀粒には何があるだろうか。小麦、粟、キビ、米など、殻のついているものである。禾穀類にも、様々な種類がある。禾穀類には、大麦、小麦、オート麦、蕎麦など、南部地方から北部地方まで様々な種類がある。様々な地域での栽培に適した、様々な種類が存在する。また、米にも様々な種類がある。南部には南部特有の様々な種類の米があり、穀粒が長く、粘り気が強すぎず、南部出身の人々に適している。南部は気候が比較的温暖なので、インディカ米などといった種類の米を食べる必要がある。米は粘り気が強いと食べ難く、食欲を失うので、粘り気は強すぎてはならない。北部の人々が食べる米は、比較的粘り気が強い。北部は気候が常に寒冷なので、粘り気の強い米を食べる必要がある。それに加えて、様々な種類の豆がある。豆は地上で成育する。また、ジャガイモ、サツマイモ、タロイモなど、土中で成育する豆もある。これらが、様々な穀類と人間の日常の食料や飲料として必要なものである。人間は様々な穀類を用いて麺、蒸しパン、米、ビーフンなどを作る。また、人間はジャガイモを食べ、ジャガイモやサツマイモを使って主食を作る。南部の人々が食べることが多いタロイモも主食とすることができる。神は、こうした様々な種類の穀類を人間に対して豊富に与えた。それほど多くの種類が存在するのは何故であろうか。そこから神の意図を見出すことができる。理由のひとつとして、東西南北で異なる土壌と気候に適合するため、ということがある。またもうひとつの理由として、これらの穀類に含まれる様々な成分が、人体の様々な成分と一致する、ということがある。人間が自分の身体に必要とされる様々な栄養素を維持するためには、こうした様々な穀類を食べることによるほか無い。北部の食料と南部の食料は異なるものの、両者には相違点よりも共通点の方が多い。これらの食料は、人体の通常の必要性をすべて満たし、人体の正常な生存を維持することが可能である。このように、各地において豊富な種類が生産されている理由は、人体の必要がこれらの食料で供給されているからである。人間は、人体の正常な生存を維持し、通常の人間生活を実現するために、土中から発育した様々な食料により共有されるものを必要とする。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)ジャガイモは北部で生長する。北部のジャガイモは極めて高品質である。人々が食べる穀類が無い場合、ジャガイモはそうした人々の主食となり得るので、そうした人々は1日3食を維持できる。ジャガイモもまた、食料として供給することが出来る。サツマイモは、品質がジャガイモに劣るが、それでも人間はサツマイモを食料として1日3食を維持することができる。穀類が食べられない状態の時、人間はサツマイモで空腹を満たすことができる。タロイモもサツマイモと同様にして利用できる。つまり、神は人間に対して大いに配慮していた。神が人間に与えた様々な食料は、単調ではなく、極めて幅広い。シリアルを食べたければ、シリアルを食べることができる。「麺類が嫌いだから米を食べたい」と言う者が居るかも知れないが、そうした者は米を食べることができる。米には穀粒が長い米、短い米など様々な種類があり、それら全てが人間の味覚を満たせるであろう。したがって、こうした穀類を食べる場合、その者の食べ物に対する好き嫌いやこだわりが極端に激しく無ければ、人間は栄養不足にならず、老いるまで健康に生活出来ることが保証されている。それが、神が人間に食料を与えた時の当初の心であった。人体にはこうした食料が不可欠である。これは現実ではないだろうか。(現実である。)人類は、こうした現実の問題を解決出来ないが、神は既にその問題について十分に検討し、対策を完了している。遠い昔に、神は人間のための物事を用意し、それを豊富に用意した。これは事実である。

神が人間に与えたのは穀類だけではなく、野菜もある。米を食べ、食事が米だけの場合、栄養が不足するおそれがある。そこで、野菜を炒めて小皿の料理を2種類ほど作ったり、野菜を組み合わせてサラダを作って付け合わせにしたりすれば、野菜に含まれるビタミン類や複数の微量元素その他の栄養素により、人体に必要とされる物を自然に補給することができる。人間は、主な食事以外に、果物を食べることも出来るだろう。時折、人間が追加の水分やその他の栄養素、異なる味を必要とする場合も、野菜や果物を摂取することができる。野菜や果物も、北部、南部、東部、西部で土や気候が異なるので様々な種類のものがある。南部の気候は暑すぎるので、果物や野菜の大部分は清涼な種類のもので、食べた時に人体の熱を冷ますことができる。一方、北部では果物や野菜の種類が比較的少ないが、それでも北部地方の人々が十分楽しめる種類が揃っている。そうではないだろうか。(その通りである。)しかし、近年における社会的発展やいわゆる社会的進化、東西南北の各地方を結ぶ交通機関や通信の改善により、北部の人々も、南部地方の果物や特産品、野菜を一年中食べることができる。これにより、人々は食欲や物欲を満たすことができるものの、人体には知らないうちに様々な危害が及ぶ。それは、神が人間のために用意した食料には、南部地方の人間に適した果実や野菜などの食料と、北部地方の人間に適した果実や野菜などの食料があるからである。つまり、ある者が南部地方で生まれた場合、その者には南部地方産の食料が極めて適している。神がこれらの野菜や果物などの食料を用意したのは、南部地方には特有の気候があるからである。北部には、北部地方の人々の身体に必要とされる食料がある。しかし人間は非常に食欲があるため、知らぬ間に社会的発展の波に呑まれ、そうした法則に反してしまう。人間は現在の生活が向上したと感じるものの、こうした社会的発展は潜在的な危害を一層多くの人体に加える。神はこうしたことが実現されるのを求めておらず、こうしたことは、神が食料、果物、野菜など万物を人間に与えた当初に意図していたものでは無い。これは、人間が自然の法則に反し、科学の進展を実現したことにより発生したものであり、神とは無関係である。

神が人間に与えた物事は豊富であり、各地域に独自の特産物があった。たとえば、ナツメという名称で知られる紅棗が豊富な場所もあれば、クルミや落花生などのナッツ類が豊富な地域もある。こうした物質的な物は、人体が必要とする栄養素を供給する。しかし、神は季節や時期に従って物を供給し、かつ適切な時期に適切な分量を与える。人類は物理的な快楽を求め、貪欲であるため、神が人間を創った時からの人類の発展の正常な法則に反しやすくなっている。例としてサクランボを挙げるが、サクランボは皆知っているであろう。サクランボの旬はいつだろうか。(6月である。)サクランボは6月頃に収穫される。通常の条件下において、サクランボが出回らなくなるのはいつ頃であろうか。(8月である。)人々は、サクランボが出回り始める6月から8月の2ヵ月間のうちにサクランボを食べ始める。サクランボが新鮮な状態であるのは、2ヵ月間のみであるが、科学的手法により、人間はその期間を12ヵ月、あるいは来年のサクランボの旬の時期まで延長することが可能になった。これは、サクランボは年間を通して存在するということである。この現象は正常であろうか。(正常ではない。) それでは、サクランボを食べるのに最適な季節はいつであろうか。それは、6月から8月までの期間である。この期間以外は、サクランボを如何に新鮮な状態に保ったとしても、サクランボの味は同じではなく、人間の身体が必要とするものではない。期限日が過ぎた後は、どのような薬品を使用しても、自然に栽培された状態にすることは出来ない。さらに、薬品が人間に与える危害は、解消したり変化させたりすることは、誰も出来ないものである。この点は理解できるであろうか。現在の市場経済は、人間に何をもたらすであろうか。人々の生活は向上しているように思われ、どこへ行くにも交通の便は極めて良くなり、人々はあらゆる種類の果物を、四季を問わずに食べることができる。北部の人々は、バナナなどの食料や南部の特産品や果物を頻繁に食べることができる。しかし、こうした生活は、神が人間に与えることを望んだ生活ではない。こうした生活は、人類の科学的進歩により実現された。市場経済が人体に与える物事は、自然な発展の正常な法則に反している。市場経済がもたらしたのは、危害と災害であり、幸福ではない。この点は理解できるであろうか。(理解できる。)

考えてみて欲しい。ブドウは市場で四季を通して売られているだろうか。(売られている。)通常ブドウが新鮮な状態であるのは、収穫後の極めて短い期間のみである。ブドウを翌年の6月まで取っておいた場合、それは依然としてブドウであると言えるだろうか。それは生ゴミであると言えるのではないか。そのブドウは、ブドウ元来の成分を既に失う一方、ブドウの薬品含有量が増えている。1年経過すると、ブドウは新鮮でないのみならず、栄養素も既に失っている。ブドウを食べるとき、人間は「本当に嬉しい。本当に満足だ。30年前、この季節にブドウが食べられただろうか。食べたくても食べられなかっただろう。なんと素晴らしい生活だろう。」などと感じるであろう。これは本当に幸福であろうか。興味があるのであれば、薬品で保存されたブドウを調べて構成成分と、その構成成分が人間に有益であるかどうかを確認すればよい。律法の時代を振り返ってみよう。イスラエルの人々がエジプトから出た時、神は道中でうずらとマナを与えた。神はイスラエルの人々がうずらとマナを保存することを許したであろうか。(許さなかった。) 一部の人々は偏狭で翌日に無くなることを心配し、多少残しておいた。「後で必要になった時のために残しておこう。」すると、どうなったであろうか。翌日には、それが腐っていた。神は、イスラエルの人々に、予備として残しておくことを許さなかった。なぜなら、神は既に、ある用意をしていたからであり、その用意によりイスラエルの人々は飢えないことが保証されていたからである。しかし、人々は確信が持てず、常に少しだけ残しておくことを望んだ。なぜなら、人々は「神の業は信頼できない。それは見ることも触ることも出来ない。今後のために少しだけ残しておいた方が良い。自分で何とかしなければ、誰も助けてくれないから、先を見越しておく必要がある。」と考えたからである。お分かりの通り、人間にはそうした確信も、神に対する真の信仰も無い。人間は常に将来のために少しだけ残し、神が人間のために用意した物事の根底にある配慮と思いを、決して理解できない。人間はそれを感じることが出来ず、神を疑い、「神の業は信頼できない。神が与えるか、与えるならそれは何時か、誰も知らない。私が空腹であるのに神がそれを与えなかったとしたら、私は飢えるのではないか。栄養が不足するのではないか。」などと言うのが常である。人間の確信が如何に少ないかが分かる。

穀物や果物、野菜、様々なナッツ類などは、すべて植物性の食料である。それらは植物性の食料であるものの、人体の必要性を十分に満たすだけの栄養素が含まれている。しかし、神は「これだけ人間に与えれば十分であろう。人間はこれだけ食べていればよい。」などとは言われなかった。神はそうした食料に留まらず、人間にとって一層美味しい食料を用意した。その食料とは何であろうか。それは、人間が毎日の食卓で食べたいと思う、様々な肉や魚である。肉や魚にも種類が多数ある。魚は全て水中で生活している。魚肉は、食感が地上で育った生き物の肉とは異なり、また人間に様々な栄養素を供給できる。魚の性質もまた人間の体温の高低を調整可能であるので、魚は人類にとって極めて利点が多い。しかし、美味しいものは、食べ過ぎてはならない。それは次の言葉にある通りである。「すなわち、神は人間に対して適切な時に適切な分量を与えるので、人間は季節や時期に従って恒常的かつ適切にそうした食料を享受することができる。」家禽にはどのようなものがあるだろうか。ニワトリ、ウズラ、ハトなどである。アヒルやガチョウを食べる人々も多い。神は、神の選民に対して必要なものを備えたが、律法の時代において、神は人々に要求事項を示し、特定の範囲を定めもした。この範囲は、個人の好みと理解に基づくものである。こうした様々な種類の肉により、人体に様々な栄養素が供給され、タンパク質や鉄が補給され、血液の栄養素が増し、筋肉や骨が強化され、エネルギーが増加する。要するに、人間が用いる肉の調理方法や食べ方を問わず、肉は味覚と食欲の向上に有効であり、また空腹を満たす。肉は人体に必要な日常的栄養素を供給するということが最も重要な点である。それが、神が人間に食料を与えた時点における神の心であった。植物性の食品と、肉が用意されているというのは、豊富で潤沢ではないだろうか。(そのとおりである。)しかし、人間は、神が人間のための食料を用意した時点における、神の元来の心が何であったかを理解する必要がある。それは、こうした物質的食料を、貪欲にむさぼることであっただろうか。人間が物質的食欲に耽溺するようになったら、どうなるであろうか。人間は栄養過剰になるのではないか。栄養過剰は、人体に様々な疾病を引き起こすのではないか。神が造った自然の律法に反することが良くないことに間違い無く、そのために、神は適切な時期に適切な分量を分割され、様々な季節の折々において、様々な食料を享受できるようにした。これが最適な方法である。たとえば、酷暑の夏を過ごした後、人間の身体には、大量の熱、病気の原因となる乾燥や湿気が蓄積される。秋が来ると、多くの果実が熟れ、人間が果物を食べると、その湿気は解消される。同時に、牛や羊は逞しく成長するので、人間はその肉を栄養補給として食べるとよい。様々な肉を食べた後、人体はエネルギーと熱を得て、冬の寒さに耐えるのに役立つので、冬を無事に乗り越えることができる。人間のために、いつ何を用意するか、いつ何を生長させるか、結実させるか、熟れさせるかといったことは、全て神により管理され、遙か昔に、神が極めて正確に取り決めた。しかし、人間は神の心を理解しない。これが「神が人間の日常生活に必要な食料を用意される方法」に関する事項である。

様々な食料のほか、神は人間に対して様々な水源を与えている。人間は、食事の後に水分を摂る必要がある。果物を食べるだけで十分であろうか。人間は果物を食べるだけでは耐えられず、また季節によっては果物が無い場合もある。それでは、人間の水分に関する問題は、どうすれば解決できるであろうか。神は、その解決策として、湖沼、河川、泉など、地上や地中に多数の水源を用意した。これらの水源は、汚染や人間による処理や危害が無い場合、飲むことができる。人間の物理的身体による生命のための食料に関し、神は極めて正確で、精密で、適切な用意を行ったので、人間の生活は豊富であり潤沢であり、何も不足していない。これは、人々が感じ取り、認識可能な事柄である。さらに、動物であるか植物であるか草であるかを問わず、万物の中には、神が造った、人体の負傷や疾病を癒やすために必要とされる植物もある。たとえば、あなたがたが火傷した場合には、どうするであろうか。水で洗えばよいであろうか。布を探してそれを巻けばよいだろうか。そのようなことをすれば膿が溜まって菌を散らすであろう。たとえば、あなたがたが裸火や熱湯で火傷してしまった場合には、どうするであろうか。水ですすげばよいであろうか。たとえば、発熱したり、風邪をひいたり、肉体労働で負傷したり、悪いものを食べて胃腸の病気になったり、生活習慣や感情的な問題から、脈管病や精神疾患、臓器疾患などの疾病を患った場合、それぞれの疾病に応じた治療法がある。血行を促進して血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、正常な皮膚の回復を促進する植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などもある。要するに、これら全ての植物を日常生活で使用できる。これらの植物は人間にとって利便性があり、人体に必要な場合のために神が用意したものである。神により人間が偶然発見できるようにされた植物もあれば、特殊な現象により発見された植物もあり、神が用意した特定の人間により発見された植物もある。そうした発見の後、人間はそれを伝えて多くの人々がそのことを知るようになる。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意義がある。すなわち、これらの物は全て神に由来し、神が人間の生活環境を造った時に用意し、植え付けられたものである。これら全ての植物は、極めて必要性が高い。このことは、神が天と地、そして万物を造った時に、神の配慮が人間の配慮よりも優れていたことを示すものではないだろうか。あなたは、神が行った様々な業を見る時、神の実践的側面を感じることが出来るだろうか。神は隠れて業を行った。この世界に人間が現れる前、神が人類と接する前に、神は既にこれら全てを造り終えていた。神が行った業は、全て人間と、人間の生存のためのものであり、また人間の存在のために配慮されたものであるので、人類は、神が人類のために造った、このような豊富で潤沢な物質世界で生活することができ、食料や衣料に懸念すること無く、不自由無く幸せに生活することができる。人間はそうした環境の中で継続的に繁殖し、生存してきたが、神がその全てを人間のために造ったことを理解できる者は、それほど多くない。サタンは、それら神が造ったものを、自然により造られたものであると偽っている。

答えて欲しい。神が行う業のうち、その大小を問わず、価値や意義が無いものがあるだろうか。神の業には、すべて価値と意義がある。このことについて、人々が頻繁に口にする疑問に基づいて話をしよう。ニワトリと卵は、どちらが先に現れたか。あなたがたは、どちらと答えるだろうか。ニワトリが先である。これは確実な答えである。ニワトリが先であるのは何故であろうか。卵が先でないのは何故であろうか。ニワトリは卵から生まれるのではないか。卵からニワトリが生まれ、ニワトリは卵を抱く。卵を21日間抱いた後に、ニワトリが生まれる。そのニワトリは卵を産み、その卵から再びニワトリが生まれる。それでは、ニワトリと卵は、どちらが先に現れたか。(ニワトリである。)あなたがたは自信をもって「ニワトリ」と答えたが、それは何故だろうか。(聖書には、神が鳥と獣を造られたと書いてあるからである。)その理由は、聖書に基づいている。神の業に関する実際の認識があなたがたにあるかどうかを判断したいので、あなたがた自身の認識で答えて欲しい。その答えで間違い無いだろうか。(神により造られた万物は互いに補強し合い、抑制し合い、相互に依存しているからである。神はニワトリを造られ、ニワトリは卵を産むことが出来る。そして雌鳥が卵を抱く。そうした必要性と実践性がある。)あなたがたの中に笑った者が居る。意見を述べて欲しい。(神はニワトリを造られ、ニワトリに繁殖する能力を与えられた。)その能力とは、どのようなものだろうか。(卵を孵化させる能力と、生命を継続させる能力である。)その説明は概して正しい。その他の者の答えを聞こう。気兼ねせずに述べて欲しい。ここは神の家である。ここは教会である。意見があれば、述べて欲しい。(私が思うには、神は万物を造られ、神が造られた物事は全て善良かつ完璧である。ニワトリは有機的な創造物であるので、増殖し、卵を孵化させる機能を備えている。それは完璧である。したがって、ニワトリが先に現れ、次に卵が現れた。その順番である。)(まずニワトリが現れ、次に卵が現れた。)それは確かである。これはそれほど遠大な神秘ではないが、この世の人々は、この問題を極めて大きなものとして捉え、その根拠に哲学を用いる。結局、そうした人々は、現在も結論に達していない。この問題は、ニワトリが神に造られたことを人間が知らないのと類似する問題である。人間はこの原則を知らず、また卵とニワトリのどちらが先に現れたかも分からない。人間には、どちらが先に現れたかを知らないので、答えを見出すことが出来ずに居る。それでは尋ねるが、ニワトリと卵は、どちらが先に現れたか。ニワトリが先であることは、極めて普通のことである。卵がニワトリよりも先であったとしたら、それは異常である。間違い無くニワトリが先に現れた。それは非常に単純なことである。この問題の解決には、それほど多くの知識は必要ない。神はそれら全てを造った。神の当初の心は、それを人間が享受することであった。ニワトリが現れた後、必然的に卵が現れる。これは明白ではないだろうか。卵が先に造られたと仮定すると、卵を孵化させるニワトリが必要になるのではなかろうか。それよりも、直接ニワトリを造るほうが、はるかに容易であろう。したがって、神は直接ニワトリを造り、ニワトリは卵を産み、ひよこをかえすことが可能となると同時に、人間がニワトリを食べることも出来る。これは便利なことではないだろうか。神の業はすべて簡明であり、煩わしいことは無い。卵には祖先が存在するが、それがニワトリである。神が造ったのは、生き物である。こうした単純な問題の深みにはまり、挙げ句の果てに数々の邪論を生み出す腐敗した人類は、極めて滑稽である。極めて子供じみている。卵とニワトリの関係は、極めて明白である。ニワトリが先に現れた。これが最も正確な説明であり、解釈方法であり、回答である。これは正しい。

最初に、人間の生活環境やその環境に対して神が行った業、用意した物事、そして対処したことに関して話した。そしてまた、神が人間のために用意した全ての物事の関連性、そして万物が人間に危害を加えるのを防ぐために、神がこれらの関連性をどのように取り扱ったかについて話した。また神は、万物がもたらす様々な要素と、それらが人間の環境に与える悪影響を解決し、万物が機能を最大限に発揮することを実現し、好ましい環境を人間に与え、全ての要素を有益なものとし、よって人間がそうした環境に順応して、生死を正常に繰り返すことが出来るようにした。その次は、人体に必要とされる食料、すなわち日常の食料と飲料であった。これもまた人間の生存の必要条件である。つまり、人体は、呼吸するだけでは生きられず、日光や風だけでは生きられず、適切な気温だけでも生きられないということである。人間は、それに加えて空腹を満たす必要もある。人間の空腹を満たす食料や飲料もまた、すべて神が人間のために用意したものであり、それが人間の食料源である。こうした豊富で潤沢な産物、すなわち人間の食料や飲料の源に関する話を聞いて、神は人間と万物の供給源であると言えるであろうか。そう言えることに間違い無い。仮に、万物創造時に、神が草木だけ、あるいは様々な生き物だけを造り、人間がそれらの物を一切食べられなかったとしたら、人間は現在まで生存できたであろうか。もし、神が造った万物のうち、様々な生き物や植物が、牛や羊、シマウマ、鹿その他の動物のための食料であったとしたら、たとえば、ライオンはシマウマや鹿を食べ、虎は羊や豚を食べるが、人間の食料として適したものが一切なかったとしたら、どうなるであろうか。それでうまく行くであろうか。それはうまく行かないであろう。もしそのような状態であったとしたら、人間は生存を続けられなかったであろう。もし、人間が木の葉だけを食べるとしたら、どうであろうか。それでうまく行くであろうか。人間の胃はそれを受け容れられないであろう。試してみなければ分からないが、実際に試せばよく分かるであろう。それでは、人間は牛や羊のために用意された草を食べられるであろうか。少し試すだけなら問題無いかも知れないが、長期間にわたって食べ続けるとしたら、先は長くないであろう。動物は食べることが出来るが、人間が食べるには有毒な物もある。毒があり、人間は食べられないが、動物は問題無く食べられる物もある。神は人間を創ったので、人体の原則や構造、人間に必要なものを最も深く理解している。人間の構成要素、成分、必要な物事、人体内部の臓器がどのように機能し、吸収し、排出し、代謝するかを、神は完全に把握している。人間はこの問題についてそれほど把握しておらず、やみくもに食べたり補給したりすることがある。補給しすぎて、結果として栄養不良を引き起こす。神が人間のために用意した物を常食とし、享受していれば、何も問題は起こらないであろう。気分がすぐれず、鬱血があったとしても、それは問題とはならない。特定の植物を食べる必要があるが、それで鬱血は解消される。神はこうした物全てを用意した。神の目から見ると、人間はその他の生き物よりも遙かに優れている。神は、ありとあらゆる植物の生息環境を用意し、ありとあらゆる動物の棲息環境と食料を用意したが、人間の生活環境に対する人間の必要条件は他の何よりも厳格であり、軽視が許されないものであった。その条件が満たされなければ、人類は発展と生殖、正常な生活を継続出来ないであろう。神は、他の何者よりもこのことを心得ていた。神がこの用意を行った時、神は人間の必要条件を他の何よりも重要視した。人間が見て享受する些細な物事、あるいは持って生まれたので享受可能であるかのように感じる物事の重要性を、おそらく感じられないであろうが、遠い昔に、神はそれらの物事を人間のために既に用意していた。神は、人間にとって不利であり人体に危害を加える可能性のある有害要素を、全て最大限に除去し、解消した。このことから、何が確認できるであろうか。このことから、神がそれらの物事を造った時の神の姿勢が確認できるだろうか。その姿勢はどのようなものであっただろうか。神は、厳格かつ真剣な姿勢であり、いかなる要素や条件、神に敵対する者の影響力による妨害に対しても、一切容赦しなかった。このことから、今回神が人間を造り、人間を経営した際の神の姿勢が分かる。神の姿勢とは、どのようなものだろうか。人間が享受する生活環境や生存環境、日常の食料や飲料、必需品などから、人類の繁殖と生活を維持する神の姿勢、人間に関する神の責任、さらに今回人間を救うことに対する神の決意が分かる。こうした物事から、神の真実性を理解できるだろうか。神の驚異性を理解できるだろうか。神の無限の遠大性を理解できるだろうか。神の全能性を理解できるだろうか。神は、自身の全能かつ思慮深い手段により、全ての人間と万物に恵みを与える。

このことに関し、ここまでの様々な話を聞いて、神が万物の生命の源であると言えるであろうか。(言える。)それは絶対的に確実である。神が万物の生命の源であることは、神の万物に対する供給だけで十分証明される。なぜなら、万物の存続、生活、繁殖、継続を実現する供給物の源は神であるからである。そうした源は神以外には存在しない。神は、最低限度として必要なものであれ、人間が日常的に必要とするものであれ、人々の魂に対する真理の供給であれ、万物と人間に必要な物事の全てを与える。あらゆる面から見て、人間に対する神の身分と地位に関しては、万物の生命の源は神自身のみである。これは絶対的に確実である。神は、人間が目で見て感じる事の出来る物質世界の支配者であり、主であり、それに供給する方である。人間にとって、これは神の身分ではなかろうか。これは完全に正しい。したがって、空を飛ぶ鳥を見た時、神は空を飛べる物を造ったことを理解できる。しかし、水中を泳ぐ生き物も存在し、こうした生き物もまた様々な形態で生存している。土中で生きる草木は春に芽吹き、秋に結実して落葉し、冬には完全に落葉して冬を過ごす。これが、これらの生き物の生存のしかたである。神は万物を造り、万物はそれぞれ異なる形態と方法により生き、様々な方法によりその生命の力と形態を示す。その方法がどのようなものであれ、それらは全て神の支配下にある。神が様々な形態のいのちと生き物を支配する目的は何であろうか。それは人間の生存のためであろうか。(その通りである。)神は人間の生存のために、生命の律法の全てを管理する。このことにより、人間の生存が神にとっていかに重要であるかが分かる。そのことが理解できたであろうか。

人間が正常に生存し、繁殖することは、神にとって最も重要である。したがって、神は継続的に人類と万物に供給する。神は、万物に対して様々な方法で供給し、万物の生存維持の状況下において、人間の正常な存続を維持するために、神によって人間が前進を続けることが可能となっている。これらが、本日伝えている内容の2つの側面である。その2つの側面とは何であろうか。(神はマクロ的観点から人間の生活環境を造られた。それが最初の側面である。また、神は人間が必要とし、目で見て触れることのできる物質的な物事を用意された。)それら2つの側面により、本日の主題を伝えた。本日の主題は何であろうか。(神は万物の生命の源である、が本日の主題である。)現在までの話から、わたしがそのような主題からこうした内容を伝えた理由について、あなたがたはある程度の知識を得たはずである。これまで、その主題と無関係の話をしたであろうか。全くしていないであろう。これらの話を聞いて、おそらくある程度の認識を得てこれらの言葉が重要であると感じている者も居るであろう。しかし、その他の者は言葉通りの知識を多少得ただけで、それらの言葉は重要では無いと感じているかも知れない。あなたがたがこの話をどの程度理解したかを問わず、あなたがたが経験を重ねる中で、やがてあなたがたの認識が、ある特定の量に達する時が来るであろう。つまり、神の業と神自身に関するあなたがたの認識がある特定の量に達した時、あなたがたは自分自身の実践的な言葉により神の業の真の証しをするであろう。

現在におけるあなたがたの認識は極めて単純であり、言葉通りであると思う。しかし、わたしがこれら2つの側面をあなたがたに話したので、あなたがたは、少なくとも人間に供給する上で神が用いる方法や、神が人間に対して供給している物事を認識することが出来るであろうか。あなたがたは基本的な概念と理解を身に付けているであろうか。しかし、わたしが伝えたこれらの側面は、聖書と関連しているであろうか。(関連していない。) これらの側面は、神の国の時代における神の裁きと刑罰に関連しているだろうか。(関連していない。) それでは、なぜわたしはこの2つの側面について話をしたのであろうか。それは、神を知る上で、人間はこれらの側面を知る必要があるからであろうか。(その通りである。)これらの側面を知ること、理解することは、間違い無く必要である。神に関する全てを理解する上で、聖書や、神の裁きと刑罰だけに捕らわれることがあってはならない。わたしが、聖書について伝えることや、神の国の時代の神の言葉から逸脱した目的は何であろうか。それは、神は、神の選民の神であるだけではないことを、人々に知らせることである。現在あなたがたは神に付き従っており、神はあなたがたの神であるが、神に付き従う者以外の人々にとって、神はそうした人々の神であるであろうか。神は、神に付き従う者以外の、あらゆる人々の神であるだろうか。(あらゆる人々の神である。)それでは、神は万物の神であるだろうか。(万物の神である。)それでは、神は、単に神に付き従う者だけに対して業を行うであろうか。(そうではない。) その対象範囲は、宇宙全体である。狭い観点から見ると、その対象範囲は人類全体と万物である。広い観点から見ると、その対象範囲は宇宙全体である。したがって、神は人類全体に対して業を行うと言える。人々に対して神自身を知らせるには、これで十分である。神を真に知り、理解することを望むのであれば、神の業の3段階や神が従前行った業の話だけにとらわれてはならない。そのようにして神を知ろうとした場合、あなたは神を一定の限界に制限していることになる。あなたの考えている神の重要性が低すぎる。そうした結果は、あなたにどのような影響を及ぼすであろうか。あなたは、神の驚異性や崇高性、神の力や全能性、そして神の権威の範囲を決して理解できないであろう。そうした認識は、神は万物の支配者であるという真理をあなたが受け容れる能力や、神の真の身分と地位に関するあなたの認識に影響を及ぼす。すなわち、神に関するあなたの認識の範囲が限られているとすれば、あなたが得られる物も限られている。あなたがその範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、そのためである。神の業、神の管理、神の支配の範囲であるか、神により支配され、管理されている万物であるかを問わず、あなたはそれら全てを知り、そこに含まれる神の業を知る必要がある。そのような理解方法により、あなたは無意識のうちに神が万物を支配し、管理し、万物に供給しているということを感じるであろう。それと同時に、あなたは自分が万物の一部であり、一員であることを実感するであろう。神は万物に供給しているので、あなたも神の支配と供給を受ける。これは事実であり、誰も否定出来ない。万物はそれ自体の法則の適用対象となり、その法則は神の定めに基づくものであり、また万物にはそれ自体に生存のための定めがあり、その定めもまた神の定めに基づくものである。その一方で、人類の運命や人類に必要な物事もまた神の定めや神による供給と密接な関連性がある。神の統治と支配下において、人類と万物が密接に関連し、相互に依存し、織り交ぜられているのは、そのためである。それが、神による万物創造の目的であり、価値である。あなたがたは、そのことが理解できただろうか。(理解できた。)理解できたということなので、これで本日の話を終えることにする。ごきげんよう。

2014年2月2日