言葉は肉において現れる

目次

神に対する本当の愛は自発的なものである

人間は、神の御言葉が原因となり、全員精錬を受けている。受肉した神が居なかったとしたら、人類はそのように苦難を受けて祝福されることは全く無かったであろう。それは、神の試練を受け容れることが出来る者は、祝福された者である、と換言することが出来る。人間の元来の能力、神に対する姿勢や態度に基づいて判断すると、人間にはそうした精錬を受ける価値が無い。人間がこの祝福を享受してきたのは、人間は神により励まされて来たからである。人間は、嘗て自分達が神の御顔を見る価値も御言葉を聞く価値も無いと言っていた。現在、人間が神の御言葉による試練を授かっているのは、神による励ましと憐れみが原因である。これが終わりの日に生きている、あらゆる者の祝福である。あなたがたは個人的にそれを経験しただろうか。人間がどの側面で苦難を受け、挫折すべきかは、神により運命づけられ、人間自身の要求に基づいていない。これは絶対的に正しい。あらゆる信者は神の御言葉の試練を経験し、神の御言葉の中で苦難を受ける能力がある。そのことは、あなたがたが明瞭に理解できる事柄であろうか。したがって、あなたがたが経験した苦難は、現在の祝福に引き換えられており、神のために苦難を受けていない場合、あなたがたは神の讃美を得られない。あなたがたは、嘗て不平を言ったかも知れないが、いくら不平を言ったとしても、神はあなたがたに関して、そのことを覚えていない。今日という日が来たのであれば、昨日の問題を検討する理由は無い。

神を愛そうとしたが出来なかったと言うが、神は去ろうとしていると聞くと、その後神に対する愛を抱く者も居る。概して真理を実践せず、神が怒って去ろうとすると、神の御前で「神よ、去らないでください。もう一度、機会をください。神よ、私は今まで、あなたにご満足いただけませんでした。私はあなたに負い目が有り、あなたを拒否してしまいました。私は、最終的にあなたにご満足いただき、あなたを愛することが出来るよう、現在、私は完全に自らの心身を捧げることを望んでいます。私がその機会を願うことは、二度と無いでしょう。」と祈る者も居る。あなたがたには、こうした祈りを捧げたことがあるであろうか。誰かがこのように祈る時、それは、神の御言葉により、その者の良心が目覚めさせられたからである。人間は皆、愚鈍である。人間は罰と精錬を受けるが、神が実現されている物事を知らない。もし、神がそのようにして御業を行われなかったとしたら、人間は依然として混乱し、誰も人間の心の中にある霊的感覚を触発することは出来ないであろう。そうした成果を得ることが出来るのは、人間を裁き、暴露する神の御言葉だけである。したがって、神の御言葉が原因で万物が実現され、満たされる。また神に対する人類の愛が目覚めるのは、ひとえに神の御言葉が原因である。もし、人間が自分の良心だけに基づいて神を愛するとしたら、人間は何も成果を実現出来ないであろう。過去において、人間は自分の良心を、神に対する自分の愛の根拠としていたのではなかろうか。率先して神を愛した者は、一人でも居たであろうか。人間が神を愛したのは、神の御言葉の励ましによるほか無かった。「長年にわたって神に付き従い、大いなる神の恵みと祝福を教授してきた。私は、神の御言葉による精錬と裁きの対象となった。ゆえに、私は多くの事を理解し、神の愛を知った。私は神に感謝し、神の恵みに報いる必要がある。私は死によって神にご満足いただき、神に対する自分の愛の基礎を良心に置く。」と述べる者も居る。人間が自分の良心の感覚だけに依存するのであれば、人間は神の愛しさを感じられない。人間が良心だけに依存するのであれば、神に対する人間の愛は稚拙であろう。神の恵みと愛に報いることだけを語るのであれば、あなたがたは、神に対する自分の愛に一切推進力を得ることは無いであろう。自分の良心の感覚に基づいて神を愛することは、受動的方法である。私がそれは受動的方法であると言うのは、何故であろうか。それは実践的問題である。これはどのような愛であろうか。それは、神を欺そうとして一連の身振りを行っているだけではないか。殆どの者が、神を愛することに見返りは無く、神を愛さないことについて、何も変わらずに罰を受けるので、罪を犯さないだけで十分である、と考えている。ゆえに、良心の感覚に基づいて神を愛し、神の愛に報いることは、受動的な方法であり、それは自分の心から自発的に産まれる神への愛では無い。神への愛は、人間の心の底からの真の気持ちでなければならない。「私は、神を求め、付き従うことを望んでいる。しかるに、神は私を見捨てることを望まれているが、私は依然として神に付き従うことを望む。神が私を求められているか如何を問わず、私は依然として神を愛し、最終的には神を得る必要がある。私は神に自分の心を全て捧げ、神がどのような御業を行われようと、私は生涯を通して神に付き従うつもりだ。何があっても、私は神を愛し、得る必要がある。私は神を得るまで、休まないつもりだ。」と言う者も居る。あなたがたには、こうした意志が有るであろうか。

神への信仰の道は、神を愛する道である。あなたがたは、神を信じているのであれば、神を愛する必要がある。しかし、神を愛するとは、神の愛に報いることや、良心的感覚に基づいて神を愛することだけを指すのでは無く、神に対する純粋な愛である。人間が単に自らの良心に依存し、神の愛を感じられない時もある。私が常に「神の御心が私達の心を感激させられますように」と述べたのは、何故だろうか。私が人間の良心を感激させて神を愛するようにさせることについて話をしないのは、何故だろうか。それは、人間の良心は、神の愛しさを感じることが出来ないからである。したがって、あなたがたは、そうした言葉により確信が持てないのであれば、自分の良心で神の愛を感じることが可能であり、その時に何らかの推進力を感じるが、それは後に消えるであろう。あなたがたが良心のみで神の愛しさを感じるのであれば、祈る時に推進力を感じるが、その後その推進力は消えて無くなる。それは何を意味するであろうか。あなたがたは、良心だけを用いるのであれば、神に対する自分の愛を目覚めさせることが出来ないであろう。あなたがたが心で神の愛しさを真に感じる時、あなたがたの霊は神により感激させられ、その時になって初めて、あなたがたの良心が元来の役割を担うことが出来るようになるであろう。つまり、神により人間の霊が感激させられ、人間の心が知識と励ましを得た時、すなわち、人間が経験を得て、初めて人間は実質的に良心で神を愛すことが出来るようになる。自分の良心で神を愛することは誤りでは無く、神を愛することの最低水準である。神の恵みに対して人間が単に正義を行うだけの、人間による愛し方では、人間を積極的で真摯な取り組みを推進することは絶対に出来ない。人間が聖霊の御業を多少得た時、すなわち自分の実経験のなかで神の愛を理解し、味わった時、神の知識を多少得て、神が人間の愛を受けるに値すること、そして如何に神が愛しいかを真に理解した時、その時人間は初めて神を真に愛することができるようになる。

人間が自分の心で神に接し、その心が完全に神へと回帰出来る時、それは神に対する人間の愛の第一歩である。神を愛したいのであれば、まず自分の心を神に回帰出来る必要がある。自分の心を神に回帰させるとは、どのような事であろうか。それは、自分の心が追求する物事全てが神を愛し、神を得るためである時のことであり、それは自分の心が完全に神に回帰したことを示す。神と神の御言葉以外に、自分の心には、ほぼ何も無い (家族、富、夫、妻、子などが無い)。たとえ何かあったとしても、それが自分の心を奪うことは無く、自分の将来の見通しについては考えず、ひたすら神を愛することを追求する。この時、あなたがたは、完全に自分の心を神に回帰させたことになるであろう。あなたがたが依然として心の中で自分のために計画を立てているのであれば、あなたがたは常に自分の利益を追求している。「私が神にちょっと御願い出来るのは何時だろうか。自分の家族は、いつ裕福になるだろうか。もう少し上質な衣服は、どうしたら手に入るだろうか。」このように生活しているのであれば、それはあなたがたの心が完全に神へと回帰していないことを示す。あなたがたの心の中にあるのが神の御言葉だけであり、あたかも神が自分に極めて親しいかのように、神が自分の中に居て自分が神の中に居るかのように常に神に祈り、神に近づくことが可能な状態にあるならば、それはあなたがたの心に神が存在することを意味する。あなたがたが毎日神に祈り、神の御言葉を食べ飲みし、教会の業のことを常に考え、神の御旨に対する配慮を示し、自分の心で神を真に愛し、神の御心を満たすのであれば、あなたがたの心は神のものである。あなたがたの心が、それ以外の多くの事柄に奪われているのであれば、あなたがたの心は依然としてサタンに奪われ、真に神へと向かってはいない。ある者の心が真に神へと向かっている時、そうした者には、神への真に自発的な愛があり、神の御業のことを配慮することが出来るであろう。そうした者の心は、依然として愚かで無意味な状態であるものの、神の御業のため、そして性情の変化のために、神の家の利益のことを配慮することが出来るであろう。そうした者の心は、完全に正しいであろう。自分の行動を問わず、教会の旗を揚げる者も居るが、本当のところ、それは自分達自身の利益のためである。こうした者には、正しい動機が無い。そうした者は歪んで不正直であり、そうした者の行動は、殆ど自分の個人的利益を求めるためのものである。そうした者は神を愛することを追求しない。そうした者の心は依然としてサタンのものであり、神へと向かうことが出来ない。神がそのような者を得られることは、決して無い。

真に神を愛し、神に得られるための第一歩は、自分の心を完全に神に向けることである。自分のあらゆる行動において、自分を検証して「私がこうしているのは、神を愛する心に基づいているだろうか。この行動には何か個人的意図が無いだろうか。この行動の実際の目的は、何であろうか。」と自問する必要がある。自分の心を神に捧げたいのであれば、まず自分の心を抑制し、自分の意図を全て捨て、完全に神のために存在する状態に達する必要がある。これが、自分の心を神に捧げる行為を実践する方法である。自分の心を抑制するとは、何を指すであろうか。それは、自分の肉の途方も無い欲望を捨て去り、地位の祝福や快楽をむさぼらず、全ての行為を神を満足させるために行うことであり、また自分の心が、自分自身のためでなく、完全に神のためとすることが出来るようにすることを指す。

神への真の愛は、心の深淵で生まれる。それは、人類が持つ神に関する知識に基づいてのみ存在する。ある者の心が完全に神へと向かっているのであれば、その者には神への愛があるが、その愛は必ずしも純粋であるとも、完全であるとも限らない。なぜなら、完全に神へと向かっている人間の心と、神に関する真の知識と、神に対する真の愛慕の情を持っている事には、一定の距離があるからである。ある者が神に対する真の愛を実現し、神のご性情を知る方法は、自分の心を神へと向かわせることである。そうした者は、自分の真心を神に捧げた後、人生の経験に対する真摯な取り組みを開始するであろう。そして、そうした者の性情が変化し始め、そうした者の神に対する愛が強くなり、神に関する知識もまた次第に増加してゆくであろう。このように、自分の心を神へと向かわせる事は、人生の経験の正しい道へと進む前提条件である。人間が神の御前に自分の心を置く時、人間には神を待ち望む心しか存在せず、神への愛の心は存在しない。なぜなら、そうした者には神に関する知識が無いからである。こうした状況において、そうした者に神への愛が多少あるものの、それは自発的ではなく、本当の愛では無い。なぜなら、人間の肉に由来するあらゆる物事には感情的な効果があり、真の理解に由来するものではないからである。それは単なる束の間の衝動であり、持続的な愛慕では無い。人間は、神に関する知識が無い時、自分の好みに基づいて神を愛することしか出来ない。この種の愛は自発的な愛とも、真の愛とも呼べない。ある者の心が真に神へと向かっている時、その者は、あらゆる物事において神の利益を考慮出来るが、その者に、神に関する知識が無い場合、その者は真に自発的な愛を抱くことが出来ない。そうした者は、教会で何らかの役割を担い、教会の任務を多少行うことしか出来ず、しかもそれには根拠が無い。そうした者には、変え難い性情がある。そうした者は、真理を追求しない者、あるいは真理を理解しない者である。ある者が完全に自分の心を神に向かわせたとしても、それはその者の神を愛する心が完全に純粋であることを意味するものでは無い。なぜなら、自分の心に神が存在する物は、必ずしも心の中に神への愛があるとは限らないからである。このことは、神に関する知識を追求する者と、しない者の違いに関連する。ある者が神に関する知識を得た時、それは、その者の心が完全に神へと向かっている事と、その者の心にある神への真の愛が自発的である事を示す。心に神が存在するのは、そうした者のみである。自分の心を神へと向かわせることは、正しい道を進む事、神を理解する事、神への愛を得る事の前提条件である。それは、神を愛する本分を完遂した事や、神への真の愛を持つことを示すものではない。ある者が神への真の愛を得るための唯一の方法は、自分の心を神へと向かわせる事であり、それは神の創造物のひとつとして行う必要のある最初の事でもある。神を愛する者は、いのちを求める全ての者、すなわち真理を求め、真に神を求める者である。こうした者には、全員に聖霊の啓きがあり、神により感激させられている。そうした者は全員、神に導かれることが可能である。

ある者が、神に対して負債を負っていると感じることが出来るのであれば、それは自分が御霊により感激させられたためである。そうした者がこのように感じるならば、そうした者は待ち望む心を持つ傾向にあり、いのちへの真摯な取り組みを行うことが出来るであろう。しかし、あなたがたは、ある段階で停止したならば、それ以上深化させることは出来ないであろう。サタンの罠にかかる危険性が依然としてあり、一定の段階に到達すると、あなたがたはサタンの虜となるであろう。神の照らしにより、人間は自分自身を知ることが出来るようになり、またそれ以降、神に対する負債を感じ、神に協力し、神を満足させない物事を捨て去ることを求めていると感じることが出来るようになる。これが神の御業の原理である。あなたがたは、全員自分の人生における成長を追求することを望み、神を愛している。それならば、あなたがたは自分の表面的な方法を捨て去ったであろうか。あなたがたが、そうした方法を捨て去り、阻害したり、自己顕示しないだけであれば、それは真に人生における成長を追求しているであろうか。表面的な行為があなたがたに一切無いが、神の御言葉に対して真摯に取り組まないのであれば、それは、あなたがたは積極的進歩が全く無いものであることを意味する。表面的行為をとる事の原因は何であろうか。あなたがたの行為は、自分の人生における成長のためであろうか。あなたがたは神の選民として認められることを求めているであろうか。あなたがたが重点を置く物事は、すべてあなたがたが真摯に取り組む物事である。表層的な方法に重点を置くならば、あなたがたの心は外面的に重点を置き、人生における成長を追求することは一切出来ない。神は性情の変化を要求しているが、あなたがたは常に外面的な物事を追求している。そうした者は、自分の性情を変化させることが一切無いであろう。人生において成熟する前には、あらゆる者に特定の方法があるが、それは、そうした者が神の裁きと罰、そして神の御言葉により完全にする御業を受け容れる必要があることである。あなたがたに神の御言葉が無く、自信と自分の意志だけに依存しているならば、あなたがたの行動は、全て単なる情熱に基づいている。つまり、あなたがたは、自分の人生における成長を求めるならば、神の御言葉を一層多く食べ飲みする必要がある。神の御言葉により完全にされた者は、全員その御言葉に真摯に取り組むことが出来る。神の御言葉による精錬や裁きを受けない者は、神の用途に適した者とはなれない。しかるに、あなたがたはどの程度、神の御言葉に真摯に取り組んでいるであろうか。あなたがたが神の御言葉を食べ飲みし、それと自分の人生の状況を比較し、私が挙げた問題に鑑みて実践方法を見つけるすることが出来て初めて、あなたがたの実践は正しいものとなる。また、その実践は神の御心を求めるものとなるであろう。神を愛する意志のある者とは、こうした実践のある者のみである。