第13節 いかにサタンの影響を振り払い、救いへと至るかについて
488. 人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく――これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。
『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)
489. 最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。
『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)
490. 暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもできない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを求める。「死人」とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々であり、真理を実践せず、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことである。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲み食いしても、神の言葉を生きることはできない。彼らは生きているが、歩く死体、呼吸する屍である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方はすべてサタンの本性を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。
『神の出現と働き』「あなたは生き返った人か」(『言葉』第1巻)
491. 暗闇の影響とは何か。このいわゆる「暗闇の影響」とは、サタンが人を騙し、堕落させ、束縛し、操る影響のことであり、サタンの影響は死の雰囲気を帯びた影響である。サタンの支配下で生きる者は残らず滅びる運命にある。
神への信仰を得たあと、あなたはどのようにしてサタンの影響から逃れられるか。ひとたび心を込めて神に祈ると、あなたは自分の心を完全に神へと向け、この時点で、あなたの心は神の霊によって感動する。あなたは自分を残らず神に捧げたいとますます思うようになり、その瞬間、暗闇の影響から脱していることになる。人の行なうあらゆることが神を喜ばせ、神の要求にかなっているなら、その人は神の言葉の中で、神の気遣いと加護のもとで生きる人である。人々が神の言葉を実践できず、神を騙そうと常に試み、神に対していい加減に振る舞い、神の存在を信じていないのであれば、それらはみな暗闇の影響下で生きている人である。神の救いを受けていない人たちはサタンの支配下で生きている。つまり、そのような人はみな暗闇の影響下で生きているのだ。神を信じない者はサタンの支配下で生きている。神の存在を信じている者でさえ、必ずしも神の光の中で生きているとは限らない。なぜなら、神を信じる者であっても、実際には神の言葉の中で生きておらず、神に従うこともできないかもしれないからである。人間は神を信じるのが限界であり、また神についての認識がないので、依然として古い規則や死んだ言葉の中で生き、暗く不確かな生活を送り、神によって完全に清められることも、完全に神のものとされることもないのである。したがって、神を信じない者が暗闇の影響下で生きていることは言うまでもないが、神を信じる人でさえも、依然としてその影響下にあるかもしれない。なぜなら、その人たちには聖霊の働きが欠けているからである。神の恵みや慈悲を授かっていない者、聖霊の働きを見ることができない者はみな、暗闇の影響下で生きている。そしてたいていの場合、神の恵みを享受するだけで、神を知らない者もまたそうである。神を信じながらも人生の大半を闇の影響下で過ごすなら、その人はすでに存在意義を失っている。そうであれば何の必要があって、神が存在することを信じていない人に触れなければならないのか。
神の働きを受け入れられない者、あるいは神の働きを受け入れながら神の要求を満たせない者はみな、暗闇の影響下で生きる人である。真理を追い求め、神の要求を満たせる者だけが、神から祝福を受けるのであり、またそうした者だけが暗闇の影響から脱する。解放されておらず、何らかの物事に絶えず支配され、神に心を捧げられない者は、サタンに束縛され、死の雰囲気の中で生きる人である。自分の本分に忠実でない者、神から委ねられた使命に不忠な者、そして教会で自分の役割を果たさない者は、暗闇の影響下で生きる人である。教会生活を故意にかき乱す者、兄弟姉妹にわざと不和の種を蒔く者、および徒党を組む者は、サタンによる束縛の中、暗闇の影響下のさらに深いところで生きる人である。神との関係が異常な者、贅沢な欲望が常にある者、自分にとって有利なことを絶えず求める者、自身の性質の変化を決して求めない者は、暗闇の影響下で生きる人である。常に自堕落で、真理の実践において真剣でない者、神の旨を満たすことを求めず、その代わりに自分の肉を満足させることだけを求める者もまた、死に包まれながら闇の影響下で生きる人である。神のために働きを行なう際、不正や欺瞞に手を染める者、いい加減なやり方で神に対応する者、神を騙す者、絶えず自分のために計画を立てる者は、闇の影響下で生きる人である。神を誠実に愛せない者、真理を追い求めない者、自分の性質を変化させることに重点を置かない者はみな、暗闇の影響下で生きる人である。
『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)
492. 人は肉の中に生きるが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰なくしては、人間はサタンと同様にけがれている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間のための最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい鍛錬は、人間をサタンの影響から解放し、自分の狭い世界から解放し、神の顔の光の中で生きることができるようにする。刑罰と裁きよりも優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたがわたしを罰し、裁かれる限り、わたしはあなたがわたしを見捨てていないことを知るでしょう。たとえあなたがわたしに喜びや平安を与えられず、わたしを苦しみの中で生活させ、わたしに無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたがわたしを見捨てない限り、わたしの心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きはわたしにとって最高の守りであり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたがわたしに与えられる恵みがわたしを守っています。現在あなたがわたしに授けられる恵みは、あなたの義なるご性質の表れであり、刑罰と裁きです。さらに、それは試練であり、なによりもそれは、苦難の生活です」。彼は肉の喜びを脇へ置き、一層深い愛と一層大きな守りを求めることができた。なぜなら、彼は神の刑罰と裁きから、極めて大きな恵みを得たからである。人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光であり、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない。人間はサタンの影響下で生活し、肉の中に存在する。人間が清められず、神の守りを受けないのであれば、人間は一層堕落するであろう。人間が神を愛することを望むのであれば、人間は清められ、救われなければならない。彼は祈って言った。「神よ、あなたがわたしを優しく扱われる時、わたしは喜び、安らぎを感じます。あなたがわたしに刑罰を与えられる時、わたしはそれにも増して喜びと安らぎを感じます。わたしは弱く、予期せぬ苦しみを受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、わたしの不従順さと弱さの故であることを、あなたは知っておられます。わたしが泣くのは、自分があなたの望みを満足させられないからであり、わたしが悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの要求に満たないからです。しかしわたしは進んでその領域に到達しようとし、あなたを満足させるためにできること全てを喜んで行います。あなたの刑罰はわたしに守りをもたらし、わたしに最高の救いを与えてくれました。あなたの裁きはあなたの寛容さと忍耐にまさります。あなたの刑罰と裁きがなければ、わたしはあなたの憐れみと慈愛を享受することはできないでしょう。現在、わたしはあなたの愛が天を超越し、あらゆるものを凌いだことを、一層理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけではなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、わたしは多くのことを与えられました。あなたの刑罰と裁きなくしては誰一人として、清められることも、創造主の愛を経験できることもないでしょう。わたしは数百回の試練と患難を受け、死に瀕したことさえありましたが、それらによってあなたを真に知り、最高の救いを得ることができました。もしあなたの刑罰と裁き、そして鍛錬がわたしからなくなったら、わたしは闇の中、サタンの領域で生きることになるでしょう。人間の肉にどんな益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きがわたしからなくなるなら、それはあなたの御霊がわたしを見捨て、もはやあなたがわたしと共におられないようなものでしょう。そうであるとしたら、どうやってわたしは生きてゆけましょうか。あなたがわたしに病を与えられ、わたしの自由を奪われても、わたしは生き続けることが出来ますが、あなたの刑罰や裁きがなくなったならば、わたしは決して生きてゆくことはできないでしょう。わたしにあなたの刑罰と裁きがなかったとしたら、わたしには言葉にできないほど深いあなたの愛を、わたしは失うでしょう。あなたの愛がなければ、わたしはサタンの領域下で生活することになり、あなたの栄光の御顔を見ることはできないでしょう。わたしはどうして生き続けられるでしょうか。そのような闇や生活は、わたしには耐えられないでしょう。わたしがあなたと共におられることは、あなたにお目にかかることと同様ですから、どうしてわたしがあなたから去ることができましょうか。わたしはあなたに対し、たとえそれが短い励ましの御言葉であったとしても、わたしの最大の慰めを奪わないよう懇願し、願います。わたしは従前あなたの愛を享受し、今はあなたから離れることができません。どうしてわたしがあなたを愛せないでしょうか。わたしは、あなたの愛のために、多くの悲しみの涙を流しましたが、そうした生活は一層有意義であり、もっとわたしを豊かにし、さらにわたしを変化させ、被造物が持つべき真理をわたしが一層得られるようにすることができると、常に感じて来ました」。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
493. 人の肉はサタンに属しており、反抗的な性質に満ちており、嘆かわしいほど汚れて不純である。人は肉の喜びを過度に切望し、肉の現れは過多にある。そのため神は肉をある程度嫌っている。汚れて、堕落したサタンのものを人が捨て去れば、神の救いを得る。しかし、汚れや堕落から抜け出さないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下に生きることになる。人の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はすべてサタンに属するものである。神があなたを救うのは、こうしたサタンのものからあなたを解放するためである。神の働きが間違っていることはなく、すべては人を闇から救うために行われる。ある程度まで信じ、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けないならば、救われるのではないのか。サタンの支配下で生きるなら、神を現わすことはできず、あなたは汚れており、神の嗣業を受け取ることはできない。いったん清められ完全にされると、あなたは聖くなり、正常な人になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる。
『神の出現と働き』「実践(2)」(『言葉』第1巻)
494. 人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配からどうやって自分を解放すればよいのか分からない。何時の時代も、この秘密を発見してそれを理解した者は稀である。それ故人間はサタンを憎み、肉を忌み嫌っているが、罠のようなサタンの影響から逃れる方法を知らない。現在、あなたがたは依然としてサタンの支配下にいるのではなかろうか。あなたがたは自分の不従順な行為を後悔せず、まして自分がけがれており、反抗的であると感じることなどはない。神に反抗した後、あなたがたは安心し、大いに落ち着くことさえある。あなたの落ち着きは、自分が堕落していることが原因ではなかろうか。こうした安心は、あなたの不従順から来るのではなかろうか。人は、人間地獄の中で生き、サタンの闇の影響下で生きている。全地で幽霊が人間と共に住み、人間の肉を侵害している。地上では、あなたは美しいパラダイスに住んでいるのではない。あなたが住む場所は悪魔の領域であり、人間地獄であり、冥府である。清められなければ、人はけがれた者である。人が神によって守られておらず、神に顧みられていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。その人がもし裁きや刑罰を受けていないのであれば、その人にはサタンによる闇の影響の弾圧から逃れる術はないであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活していることを証明するには、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な振る舞いだけで十分である。あなたの心や思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在がいまだにサタンの領域に支配されており、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操られ、あなたの存在全てがサタンの手により支配されているのだ。あなたは、自分がペテロの基準から一体どれほどかけ離れているか知っているであろうか。あなたにはそのような素質があるだろうか。あなたは、現在の刑罰と裁きについて、どの程度知っているだろうか。あなたは、ペテロが知ったことをどの程度自分のものにしているだろうか。現在において、あなたが知ることができないのであれば、将来その認識を獲得することができるであろうか。あなたのように怠惰で臆病な者が刑罰と裁きを知ることは、まったく不可能である。あなたが肉の平安と享楽を追求するのであれば、あなたには清められる術が全くなく、あなたは最後にはサタンのところへ戻されるであろう。なぜなら、あなたが実際に生きているのは、サタンと肉だからである。物事の現状として、多くの人々がいのちを追求していないが、それは、彼らが清められることにも、一層深いいのちの経験の中に入ることにも注意していないことを意味する。そんなことでは、どうして彼らが完全にされることがあろうか。いのちを追求しない者には、完全にされる機会が全くなく、神に関する認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
495. 神を信じながら真理を追い求めない者はみな、サタンの影響から逃れる術をもたない。人生を正直に生きない者、人前での振る舞いが背後での振る舞いと違う者、上辺は謙虚で、忍耐と愛があるように見えるものの、その本質は陰険で、悪賢く、神への忠実さが一切ない者。こうした人たちは暗闇の影響下で生きる者の典型的な代表例である。彼らはへびの同類である。ひたすら自分の益のために神を信じるだけの者、独善的で横柄な者、自分を誇示する者、自分の地位を守る者は、サタンを愛し真理に反抗する人である。このような人たちは神に抵抗し、完全にサタンのものとされている。神の重荷に気を配らない者、心から神に仕えない者、常に自分や家族の利益ばかり考えている者、すべてを捨てて神のために自分を費やせない者、決して神の言葉によって生きようとしない者は、神の言葉の外で生きる人である。このような人たちが神の称賛を受けることはできない。
神が人間を造った時、それは、人間が神の豊かさを享受し、神を真に愛せるようにするためだった。そのようにして、人間は神の光の中で生きるのだ。今日、神を愛することができず、神の重荷に気を配らず、自分の心を完全に神に捧げられず、神の心を自分の心とすることができず、神の重荷を自分のものとして背負えない者全員について言えば、神の光がそうした人たちを照らすことはなく、それゆえ彼らはみな暗闇の影響下で生きている。彼らは神の旨に真っ向から反する道を歩み、彼らが行なう一切のことには真理の片鱗さえない。彼らはサタンとぐるになって悪事を行ない、暗闇の影響下で生きる人である。神の言葉を頻繁に飲み食いして神の旨に気を配り、神の言葉を実践することできるなら、あなたは神のものであり、神の言葉の中で生きる人である。サタンの支配から逃れて神の光の中で生きることを、あなたは望んでいるのか。あなたが神の言葉の中で生きるなら、聖霊には働きを行なう機会があるだろう。サタンの影響下で生きるなら、あなたが聖霊にそうした機会を与えることはないだろう。聖霊が人間に対して行なう働き、聖霊が人間を照らす光、そして聖霊が人間に与える確信は、ほんの一瞬しか残らない。ゆえに、もしも人々が不注意で配慮を怠ったならば、聖霊の働きは彼らの前を素通りする。人間が神の言葉の中で生きるならば、聖霊は彼らと共にあり、彼らに対して働きを行なう。人間が神の言葉の中で生きていないならば、彼らはサタンの束縛の中で生きている。人間が堕落した性質の中で生きているならば、彼らには聖霊の臨在も働きもない。あなたが神の言葉の範囲内で生き、神が求める状態の中で生きているならば、あなたは神のものにされた人であり、あなたに対して神の働きが行なわれる。あなたが神の要求の範囲内でなく、サタンの支配下で生きているならば、あなたは間違いなくサタンの堕落の中で生きている。神の言葉の中で生き、神に自分の心を捧げることでのみ、あなたは神の要求を満たすことができる。あなたは神の言う通りに行動し、神の発する言葉を自分の存在の基礎とし、自分のいのちの現実としなければならない。そうして初めて、あなたは神のものとなる。もしもあなたが神の旨にしたがう形で実際に実践するならば、神はあなたに対して働きを行ない、あなたは神の祝福の下、神の顔から放たれる光の中で生き、聖霊が行なう働きを理解し、神の臨在の喜びを感じるだろう。
『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)
496. 暗闇の影響から脱するには、まず神に対して忠実であり、真理を追い求める熱意が心になければならない。そうして初めて、あなたは正しい状態になることができる。正しい状態で生きることが、暗闇の影響から脱する必要条件である。正しい状態にないというのは、神に忠実でなく、真理を求める熱意が心にないということであり、暗闇の影響から脱することなど問題外である。わたしの言葉は、人間が暗闇の影響から脱する基礎であり、わたしの言葉にしたがう形で実践できない人は暗闇の影響の束縛から逃れることができない。正しい状態で生きるというのは、神の言葉の導きの下で生き、神に対して忠実な状態で生き、真理を求める状態で生き、神のために真摯に自分を費やす現実の中で生き、神を真に愛する状態で生きることである。このような状態、このような現実の中で生きる者たちは、真理の奥底に入るにつれて徐々に変化する。また彼らは、働きが深まるとともに変化して、最後は必ずや神に得られて心から神を愛する人になる。暗闇の影響から脱した者たちは徐々に神の旨を確かめられるようになり、また徐々に神の旨を認識するようになって、やがては神の知己になることができる。彼らは神についての観念を抱くことも、神に反抗することもないだけでなく、以前に抱いていたそれらの観念や反抗心をますます憎み、神に対する真の愛が心の中に生じるようになる。暗闇の影響から脱け出すことができない者はみな、肉によって完全に占められており、反抗心で一杯である。彼らの心は人間の観念と処世哲学、そして自身の意図と思案で満たされている。神が求めるのは人間からの一途な愛、そして人間が神の言葉によって、神への愛に満ちた心によって占められることである。神の言葉の中で生き、自分が求めるべきものを神の言葉の中から探し、その言葉ゆえに神を愛し、神の言葉のために奔走し、神の言葉のために生きることこそ、人間が努力して成し遂げるべき目標である。すべては神の言葉の上に築かれなければならない。そうして初めて人間は神の要求を満たすことができる。神の言葉を備えていなければ、その人はサタンに取り憑かれた蛆虫に過ぎない。次のことを考えなさい。神の言葉のうち、自分の中に根づいているものはどのくらいあるのか。自分はどの物事において、神の言葉にしたがって生きているのか。自分はどの物事において、神の言葉にしたがわずに生きてきたのか。神の言葉がいまだに自分の中で完全に根づいていないなら、自分の心を占めるのはいったい何なのか。日常生活において、自分はサタンに支配されているのか、それとも神の言葉によって占められているのか。神の言葉が自分の祈りの基礎となっているか。自分は神の言葉の啓きによって否定的な状態から脱したのか。神の言葉を自分の存在の基盤にすることが、誰もが入らなければならないことである。神の言葉があなたの生活に存在していなければ、あなたは暗闇の影響下で生き、神に反抗し、神に逆らい、神の名を汚している。このような人たちの神に対する信仰は害悪と撹乱以外の何物でもない。自分の人生のうち、あなたはどれほどの期間を神の言葉にしたがって生きてきたのか。また自分の人生のうち、どのくらいの期間を神の言葉にしたがわずに生きてきたのか。神の言葉があなたに要求したことのうち、どれほどのものがあなたの中で成就されたのか。どれほどのものがあなたの中で失われたのか。あなたはこうしたことをじっくり見つめたことがあるのか。
暗闇の影響から脱するには、聖霊の働きと人間による献身的な協力の両方が必要である。わたしはなぜ、人間は正しい道に乗っていないと言うのか。正しい道に乗っている人は、まず自分の心を神に捧げることができる。それは入るのに長い時間を要する作業である。なぜなら、人類は常に暗闇の影響下で生き、数千年にわたってサタンに束縛されてきたからである。したがって、この入りはたかが一日や二日で達成できるものではない。わたしが今日この問題をとり上げたのは、人間が自分の状態を把握できるようにするためである。暗闇の影響とは何か、光の中で生きるとはどのようなことかをひとたび識別できれば、入りはずっと簡単になる。なぜなら、サタンの影響から逃れられるようになるのに先立ち、あなたはまずサタンの影響とは何かを知らなければならないからである。そうして初めて、あなたはそれを捨て去る術を得る。その後何をすべきかについて言えば、それは人間自身の問題である。何事も肯定的な側面から入り、受け身になって待っていてはいけない。そうすることでのみ、あなたは神に得られることができる。
『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)
497. 605. 神が行なうことはどれも必要であり、そこには並外れた意義があります。なぜなら、神が人において行なうすべてのことは、神の経営と人類の救いに関連するからです。神の目から見て、ヨブは完全で正しい人でしたが、当然、神がヨブにおいて行なった働きも同じです。言い換えれば、神が何を行なうか、その手段がどのようなものか、代価がどれほどのものか、および神の目標がどのようなものかにかかわらず、神の業の目的は変わらないのです。神の目的は自身の言葉を人の中に働かせること、そして人間に対する自身の要求と旨を人の中に働かせることです。つまり、肯定的だと信じるすべてのものを、自身の歩みに応じて人間に対して働かせ、人間が神の心を理解できるようにし、神の本質を把握できるようにするとともに、神の支配と采配に従えるようにすることで、神を畏れて悪を避けるようにするためです。これらが、神が行なう一切のことにおける、神の目的の一つの側面です。もう一つの側面は、サタンが引き立て役で神の働きに役立つものなので、人間がしばしばサタンに与えられるということです。これは、サタンによる試みと攻撃の中、人々がサタンの邪悪さ、醜さ、そして卑劣さを見るために神が用いる手段であり、それによって人々はサタンを憎み、否定的なものを知って理解するようになります。この過程により、人々はサタンの支配、断罪、妨害、攻撃から徐々に解放され、やがては神の言葉のおかげで、そして神に関する認識と神への従順、神に対する信仰と畏れのおかげで、サタンの攻撃と断罪に勝利します。そうして初めて、人々はサタンの支配から完全に解放されるのです。サタンからの解放とは、サタンが打ち負かされたという意味であり、人々がもはやサタンの餌食ではないということです。サタンは人々を飲み込む代わりに手放したのです。なぜなら、そのような人々は正しく、信仰をもち、従順であり、神を畏れ、サタンと完全に決別したからです。彼らはサタンを辱め、怖じ気づかせ、完全に打ち負かします。神に付き従うという彼らの信念、そして神への従順と畏れがサタンを打ち負かし、自分たちへの攻撃を諦めさせるのです。このような人たちだけが真に神のものとされ、それが人間を救う神の最終目標です。救われることを願うのであれば、そして完全に神のものとされることを願うのであれば、神に従うすべての人はサタンによる大小の試みと攻撃に直面しなければなりません。このような試みや攻撃から抜け出てサタンを完全に打ち負かせる人こそ、神によって救われた人なのです。つまり、神により救われた人は神の試練を経た者、サタンの試みと攻撃を無数に受けた者なのです。神によって救われた人は神の旨と要求を理解し、神の支配と采配に従い、サタンの試みのさなかにあっても、神を畏れて悪を避ける道を捨てません。神によって救われる人は正直であり、心優しく、愛と憎しみを区別し、正義感と理性をもっており、神を気遣い神のすべてを大切にすることができます。そのような人たちはサタンに束縛されたり、監視されたり、断罪されたり、虐げられたりしておらず、完全に自由で解放されています。ヨブはまさにそうした自由な人であり、それこそが、神が彼をサタンに渡した理由の意義なのです。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)
498. ヨブの信仰、従順、そしてサタンに勝利した証しは、人々にとって大きな助け、そして励ましであり続けてきました。人々はヨブの中に自分の救いの望みを見出し、また信仰を通じて、そして神への従順と畏れを通じて、サタンを打ち負かして勝利することが完全に可能であることを見出します。神の主権と采配に従い、すべてを失っても神を捨てないという決意と信仰がある限り、サタンを辱めて打ち勝つことができると知るのです。また、たとえそれが命を失うことを意味しても、固く立って証しをする決意と忍耐力さえあれば、サタンを怯えさせて退散させられることも知るのです。ヨブの証しは後の世代への警告であり、サタンを打ち負かさなければその断罪と干渉から逃れられず、サタンの虐待と攻撃から抜け出すのも不可能だと伝えています。ヨブの証しは後の世代に啓示を与えました。この啓示は人々に対し、完全で正しくありさえすれば、神を畏れて悪を避けることができると教えています。つまり、神を畏れて悪を避けさえすれば、神に対する鳴り響くような力強い証しをすることができる、そして神に対する鳴り響くような力強い証しをするだけで、その人は決してサタンに支配されず、神の導きと加護のもとで生きることができる、そうして初めて真に救われるということを教えているのです。救いを求める人はみな、ヨブの人格と、彼が人生において追い求めたものを見習うべきです。ヨブがその生涯をどう生きたか、試練の中でどう振る舞ったかは、神を畏れて悪を避ける道を追求するすべての人にとって、大切な宝であるのです。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)
499. まだ救われていない人々の生活はしばしばサタンに干渉され、支配さえされています。言い換えれば、救われていない人々はサタンの虜であり、自由がなく、サタンに放棄されておらず、神を礼拝する権利も資格もなく、サタンにしっかり追跡され、激しく攻撃されます。そのような人には語るべき幸せがなく、普通の存在でいる権利もなく、さらには尊厳もありません。あなたが立ち上がり、神への信仰、従順、そして畏れを武器に命がけでサタンと戦い、サタンを完全に打ち負かし、そうしてサタンがあなたを見るたびに尻尾を巻いて怯えるようになり、あなたへの攻撃と非難を完全に放棄するなら、そのとき初めてあなたは救われ、自由になるのです。サタンとの関係を完全に断ち切ろうと決意していても、サタンを打ち負かす武器を身につけていないのであれば、あなたはまだ危険な状態にあります。時間が経ち、サタンにひどく苦しめられ、一握りの力も自分の中に残っていないのに、それでもまだ証しをすることができず、サタンの断罪と攻撃から完全に解放されていないのであれば、救われる望みはほぼありません。最後に神の働きの完了が告げられるとき、あなたはいまだサタンの手中にあり、自分を解放することができず、ゆえに救われる機会も望みもありません。これが意味するのは、そのような人々は完全にサタンの虜となってしまうということです。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)
500. 人間に対する永続的な施しと支えの働きの間、神は自身の旨と要求を余すところなく人間に伝え、自身の業、性質、そして自身が所有するものと自身そのものを人間に示します。その目的は、人間が神に付き従う中、彼らに霊的背丈を身につけさせ、神から様々な真理を得られるようにすることです。その真理は、サタンと戦う武器として神から人間に与えられるものです。これらのものが備わったならば、人は神の試験に直面しなければなりません。神は人間を試す多くの手段や手法をもっていますが、どれも神の敵であるサタンの「協力」を必要とします。つまり、サタンと戦う武器を人に与えたあと、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の霊的背丈を「試す」ことを許すのです。人間がサタンの軍勢から脱出し、サタンの包囲網から逃れ、それでも生きていられるなら、試験に合格したということです。しかし、サタンの軍勢を離れるのに失敗し、サタンに服従するのであれば、その人は試験に合格しなかったということです。神が人間のどの側面を検証しようと、その基準は、サタンの攻撃を受けた人間がしっかり立って証しをできるかどうか、またサタンに誘惑された際に神を捨て、サタンに降伏して服従するかどうかです。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利して打ち倒せるかにかかっており、また自由を獲得できるかどうかは、神から与えられた武器を自ら手にしてサタンの束縛に打ち勝ち、サタンが完全に希望を失って手出ししなくなるかどうかにかかっています。サタンが希望を失って誰かを手放すとは、二度とその人を神から奪おうとはしない、二度とその人を断罪したり、干渉したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味です。そのような人だけが、真に神のものとされるのです。これが、神が人々を自分のものにする過程です。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)
501. 今日、完全にされることや、外側の人間性における変化と素質の向上を求めることができる。しかし、最も重要なことは、神が今日行うことにはみな意味があり有益であるということを理解できることである。それにより、汚れに満ちた地で生まれたあなたは汚れを逃れ、払い落とすことができる。それにより、あなたはサタンの影響を克服し、サタンの闇の影響から離れることができる。そして、これらに集中することによって、あなたはこの汚れの地において守られる。最終的にどのような証しを立てることをあなたは求められるのか。あなたは汚れの地で生まれたが、聖くなることができ、二度と汚れることがなく、またサタンの支配下に生きているが、サタンの影響から脱け出すことができ、もはやサタンにとりつかれたり悩まされたりすることもなく、全能者の手の中で生きることができる。これが証しであり、サタンとの戦いに勝利した証拠である。あなたはサタンを捨てることができ、自分の生においてサタン的な性質を表わすことはもはやなく、その代わり、神が人間を創造したとき、人間に達成するよう求めたことを生きる。それはすなわち、正常な人間性、正常な理知、正常な見識、神を愛そうという正常な決意、神への忠実である。これこそが神の創造物が立てる証しである。あなたは言う。「わたしたちは汚れの地で生まれたが、神の守りのおかげで、神の導きのおかげで、また、神がわたしたちを征服したおかげで、わたしたちは自分からサタンの影響を取り除いた。わたしたちが今日従えるのもまた神による征服の成果であり、わたしたちが良いからでも、わたしたちが自然に神を愛したからでもない。神がわたしたちを選び、予め定めたからこそ、わたしたちは今日征服されており、神に証しを立てることができ、神に仕えることができるのである。また、神がわたしたちを選び、守ったから、わたしたちは救われ、サタンの支配から助け出され、赤い大きな竜の国にあっても汚れを捨てて清められることができる」。
『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(2)」(『言葉』第1巻)
502. 現在、あなたはわたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を全く気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全てを目にする時、あなたは後悔し、唖然とするであろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではなかろうか。現在、神の働きの次の段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが実際に生きるよう求められている事には、何も例外的な事はない。極めて多くの働きと多くの真理があるのだが、それらには、あなたに知られる価値があるのではなかろうか。神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのであろうか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのであろうか。あなたは、サタンの影響の下で、平安と悦楽と、少しばかりの肉の享楽と共に暮らすことに満足しているのであろうか。あなたは全ての人々のうちで最も卑しい者ではなかろうか。救いをその目で見たことがあるが、それを得るよう追求しない者よりも愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚と犬の間には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちは皆、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちは皆、生ける屍ではなかろうか。あなたがたの間で語られた言葉は、一体いくつあるであろうか。あなたがたの間で行われた働きは、ほんの少しだろうか。わたしは、あなたがたの間で、どれくらい与えたであろうか。それなのに、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべきことは、何かあるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎるからではなかろうか。また、それはあなたが愚か過ぎるからではないか。あなたは、これらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことを、神のせいにするのか。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
503. 神がこのように大規模な働きを行い、完全にこの集団の人たちを救うのは、あなたがサタンの影響から逃れ、聖なる土地に暮らし、神の光の中で生き、その光に導かれ助けられるようにである。そこで生きることには意義がある。あなたがたが食し、着るものは未信者とは異なり、あなたがたは神の言葉を享受し、意味のある生活を送る。では未信者は何を享受するのか。彼らは「祖先の遺産」と「国民精神」だけしか享受しない。彼らはほんのわずかな人間性の痕跡さえ持ち合わせない。あなたがたの衣服、言葉、行動はすべて彼らのものとは異なる。最終的に、あなたがたは完全に汚れから逃れ、もはやサタンの誘惑に陥ることはなくなり、神から日々の施しを得る。あなたがたはいつも注意深くしていなければならない。あなたがたは汚れた場所に暮らしているが、汚れに染まってはおらず、神のそばで暮らし、神の偉大な保護を受けることができる。神はあなたがたをこの黄色い大地にいるあらゆるものの中から選んだ。あなたがたは最も祝福された人ではないのか。あなたは被造物であり、もちろん神を崇拝し、意味のある人生を送るべきである。神を崇拝せず、汚れた肉体のうちに生きるならば、人間の衣装を身に着けた獣にすぎないのではないか。あなたは人間であるから、神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブやペテロのように意味のある人生を送るべきである。この世で人は悪魔の服をまとい、悪魔が与える食べ物を食べ、悪魔の言いなりになって働き、仕え、汚濁の中ですっかり踏みにじられる。あなたが人生の意味を把握せず、また真の道を自分のものにしないならば、このように生きることに何の意義があるのか。あなたがたは正しい道を追求する人、向上を求める人である。あなたがたは赤い大きな竜のいる国で立ち上がり、神が義なる者と呼ぶ人である。これは最も意味のある人生ではないのか。
『神の出現と働き』「実践(2)」(『言葉』第1巻)