被造物が神の名前を決められるのか
神は多くの名前を持っているが、これらの多くの名が神の性質を余すところ無く明確に表現することはできない。というのは神の性質はあまりにも豊かで、人の認識をはるかに越えているからである。人間の言語は、神を余すところ無く要約することができない。神の性質について人間が知っていることすべてを要約するには、人間には限られた語彙しかない。ひとつの特定の言葉あるいは名前では神のすべてを表すにはあまりにも不十分である。では神はひとつの決まった名前を持つことができるだろうか。神はあまりにも偉大で聖であるのに、なぜ神がそれぞれの新しい時代に名前を変えてはいけないのか。
神が自ら働きを行なうそれぞれの時代に、神が行なう働きを要約するその時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における神の性質を表すために、その時代の意義を反映する特定の名前を用いる。神は自身の性質を表現するために人間の言葉を用いる。神がヤーウェ、イエス、メシヤと呼ばれない日がやって来るだろう――神はただ創造主と呼ばれるであろう。その時、神が地上で呼ばれたすべての名前は終わりを迎える。というのは神の地上での働きは終わり、その後神は名前を持たなくなるからである。
すべての物が創造主の支配下に入るときに、何故神を適切ではあるが不完全な名前で呼ぶのか。今も神の名を求めているのか。未だに神はヤーウェとしか呼ばれないと敢えて言うのであろうか。未だに神はイエスとしか呼ばれないと敢えて言うのであろうか。神を冒涜する罪を負うことができるのか。神は本来どんな名前も持たなかったということを知るべきである。神にはするべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったので、一、二の、あるいは多くの名前を持っただけであった。どのような名で呼ばれるにしても、それは神自身が自由に選んだのではないだろうか。神はそれを決めるのに被造物を必要とするだろうか。
『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より編集