神を知る(4)
日々の神の御言葉 抜粋 120
マクロ的観点とミクロ的観点から神の権威を理解すること
神の権威は、唯一無二です。それは神自身の身分を特徴的に表わすもの、およびその特定の本質であり、いかなる被造物であれ、あるいは非被造物であれ有していないものです。唯一創造主のみにこの種の権威があるのです。すなわち、創造主、つまり唯一無二の神のみが、そのように表現され、唯一の神のみに、そのような本質があるのです。なぜ神の権威について話すのでしょうか。神自身の権威は、人間の考える権威と、どのように異なるのでしょうか。その特殊な点とは、何でしょうか。なぜここで話すほど、とりわけ意義深いのでしょうか。この問題については、あなたがた一人ひとりが熟慮しなければなりません。大部分の人々にとって「神の権威」とは曖昧な概念であり、理解するのに多大な努力を要するものであり、神の権威に関する議論は、漠然としたものとなりがちです。したがって、人間が把握できる神の権威と、神の権威の本質の間には、常に隔たりがあるのです。この隔たりを埋めるためには、実生活において人間の手の届く範囲にあるとともに人間の理解の範疇にある人々、出来事、物事、様々な現象を通して、徐々に神の権威を知らなければならないのです。「神の権威」という表現は深遠なものに感じるかもしれませんが、決して抽象的なものではありません。神は人間の生活の中で、片時も離れることなく人間とともにあり、人間を日々導いています。そのため、あらゆる人が実生活において、神の権威の最も具体的な様相を必然的に見て、経験しているのです。この具体的な様相は、神の権威が実際に存在することの何よりの証拠であり、神にそのような権威があるという事実を人に完全に認識させ、理解させるものです。
神は万物を造りました。そして、万物を造ってきた神は、そのすべてに対する主権を握っています。神は、万物に対する主権を握っているだけでなく、万物を支配します。「神は万物を支配する」という概念は、何を意味するのでしょうか。その概念をどのように説明できるでしょうか。その概念は実生活とどのように結び付くのでしょうか。「万物を支配する」という事実を理解することが、どうして神の権威を理解することに繋がるのでしょうか。「神は万物を支配する」という、まさにその言葉を通して、神が支配する物事は惑星や創造物の一部ではなく、ましてや人類の一部でもなく、すべてのものであるということが分かります。それは巨大な物から微小な物、見えるものから見えないもの、宇宙の星から地球上の生き物、肉眼で見ることのできない微生物やその他の形態で存在する物に至るまで、すべてです。これが、神が「支配」している「万物」の正確な定義であり、神の統治と支配の及ぶところ、神の権威の全貌です。
宇宙、すなわち、天界のありとあらゆる惑星と星は、人間が出現する前に、既に存在していました。マクロレベルでは、こうした天体は、神の支配下で、誕生してからどれだけの年月が過ぎようと一度も変化することなく、軌道を規則的に回り続けてきました。どの惑星が、いつどこに移動するか、どの惑星がいつどのような役割を果たすか、どの惑星がどの軌道に乗るか、どの惑星がいつ消滅するか、あるいはいつ置換されるかなどといった事柄が、すべて寸分の狂いもなく進行しています。惑星の位置や惑星同士の距離は厳密な規則に従っており、正確なデータで表すことができます。惑星が移動する経路、軌道の一周における速度と規則性、特定の位置に到達する時刻、これらすべてを正確に数値化し、特定の法則で表すことができます。数十億年にわたり、惑星は、少しも逸脱することなく、これらの法則に従ってきました。どのような力をもってしても、惑星の軌道や、惑星が従う規則性を変えたり乱したりすることはできません。惑星の運動を律する特定の法則と、それを表す正確なデータは、創造主の権威により運命づけられており、惑星は創造主の統治と支配の下、そうした法則に自然と従います。マクロレベルでは、ある程度の規則性やデータ、そして奇異で説明できない法則や現象を見出すことは、人間にとってそれほど困難ではありません。人間は神が存在することを認めることもなければ、創造主が万物を造り、万物に対する主権を握っているという事実を受け入れることもなく、さらには創造主の権威の存在を認めることもありません。それにもかかわらず、人文科学者、天文学者、物理学者は、宇宙における万物の存在、そして万物の運動を律する原理と法則が、巨大で目に見えない暗黒のエネルギーにより統治され、支配されているという結論に達することが益々多くなってきています。この事実により、人間は、こうした規則性の中心に並外れた者が存在し、すべてを指揮しているということに向き合い、認めざるを得なくなっているのです。彼の力は非凡であり、その素顔を見ることができる人はいないものの、彼は常に全てを統治し、支配しています。彼の主権を超えることができる人や力は存在しません。人間は、こうした事実と向き合う中で、万物の存在を統治する法則は人間が制御できないものであり、誰にも変えられないものであることに気付かねばならず、また、こうした法則は人間が完全に理解できないものであり、自然に発生するものではなく、統治者の命令によるものであることを認めなければなりません。こうした物事は、すべて人間がマクロレベルで認識できる神の権威の表現なのです。
ミクロレベルでは、人間が地上で見る山々、川、湖、海、大陸、人間が体験する季節、地球上に生息する植物、動物、微生物、人間などの万物は、すべて神の統治と支配の下にあります。神による統治と支配の下においては、万物は神の思いに従って出現し、消滅し、その存在を統治する法則が生まれ、その法則に沿って生長し、繁殖します。これらの法則を超える人間や物事は存在しません。それは何故でしょうか。唯一の答えは、神の権威にあります。言い換えると、それは神の思いと言葉によるものであり、神自らの成せる業によるものなのです。すなわち、こうした法則を生むのは神の権威と心であり、神の思いにより移行し、変化し、そうした移行と変化はすべて神の計画のために発生し、消滅します。例として、疫病を挙げます。疫病は何の前触れもなく突発します。その起源や正確な発生原因を知る人はおらず、疫病がある場所へと到達すると、運の尽きた人はその災難から逃れることができません。人間の科学では、疫病は悪性または有害な微生物の拡散により発生することが確認されていますが、その感染の速度、範囲、方式を人間の科学で予測したり制御したりすることはできません。人間はありとあらゆる手段を尽くして疫病に抵抗しますが、疫病が突発した時に、どの人間や動物が被害を受けざるを得ないかについて制御することはできません。人間ができることは、それを予防し、抵抗し、研究することのみです。しかし、いずれの疫病についても、その発生と終息の原因を知る人はおらず、また、その発生と終息を管理できる人もいません。疫病が発生して蔓延した時、人間が行う最初の対策はワクチンの開発ですが、ワクチンが用意される前に往々にして疫病が自然と消滅することがあります。疫病が消滅するのは何故でしょうか。病原菌を抑えることができるようになったためという人もいれば、季節の移り変わりにより消滅するという人もいます。こうした根拠のない憶測に弁護の余地があるかどうかに関しては、科学では説明することも正確に回答することもできません。人間は、こうした憶測だけでなく、疫病に対する人間の理解の欠如と恐怖を考慮に入れなければなりません。結局のところ、なぜ疫病が発生して、なぜ終息するのか、誰にも分かりません。人間は科学のみを信じ、科学に全面的に依存し、創造主の権威を認めることも創造主の統治を受け入れることもないため、決して答えを得ることがないのです。
神の統治下において、万物は神の権威と経営ゆえに生まれ、生き、消滅します。静かにやって来ては去っていく物事もあり、人間にはそれらがどこから来るのか分からず、それらが辿ってきた道筋を把握することもできず、ましてやその往来の理由を理解することなどできません。人間は万物のうちに起こる物事をすべて自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分のからだで経験することができ、それはすべて人間に関係があり、さらに人間は様々な現象の相対的な異常や規則性、あるいは異様ささえも無意識のうちに捉えるものの、その背景に何があるのか依然として知りません。そこには、創造主の旨と心があるのです。そうした現象の背景には様々な経緯と隠された事実があります。人間は創造主から遠く離れて彷徨い、創造主の権威が万物を統治しているという事実を受け容れないため、創造主の権威による統治の下に起こるあらゆる物事を決して知ることもなければ理解することもないのです。神の支配と統治は、概して、人間の想像、知識、理解、人間の科学が到達可能な範囲を超越しており、被造物である人間の知力の及ばないものです。「あなたは神の統治を自らの目で見たことがないにもかかわらず、万物が神の権威の支配下にあるとどうして信じられるのですか」と言う人もいます。見ることが、必ずしも信じること、認めること、理解することであるとは限りません。それでは、信仰はどこからもたらされるのでしょうか。わたしは確信をもって、信仰とは、物事の実態と根源に関する人の理解と経験の程度と深さからもたらされる、と言うことができます。神は存在すると信じていても、万物を神が支配し統治している事実を認めることができず、ましてやそれを感知することもできなければ、神にこのような権威があり神の権威は唯一無二であるということを心の中で認めることは決してありません。創造主をあなたの主、あなたの神として真に受け入れることは決してありません。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 121
人間の運命と万物の運命は創造主による統治と不可分である
あなたがたは皆、成人です。壮年の人もいれば、老年期に入った人もいます。あなたがたは、神を信仰していない状態から神を信仰するまでに至り、そして神を信仰し始めてから、神の言葉を受け入れ、神の働きを経験するまでに至りました。神の統治についてどの程度の認識がありますか。人間の運命について、どのような識見を得ましたか。人間は、生涯の中で望むことをすべて達成できますか。あなたがたは、数十年間生きてきた中で、いくつの物事を自分の望むとおりに達成することができましたか。全く予期していなかった出来事はいくつありますか。思いもよらなかった喜びはいくつありますか。無意識に好機を待ち、天の意を待ちながら、今もなお結実すると期待して待っている物事はいくつありますか。絶望的で挫折したと感じる事はいくつありますか。人は誰でも自分の運命には大きな希望を抱き、人生におけるすべてが思い通りになり、衣料や食料が不足せず、運勢が好転することを期待します。貧しく、虐げられ、困難でいっぱいで災難が付きまとう人生を望む人はいません。しかし人間は、こうした物事を予測することも、操作することもできません。おそらく一部の人々にとって、過去とは雑多な経験の寄せ集めに過ぎません。彼らは天の旨を知る事も、それが何であるかについて関心を向けることもありません。彼らは、動物のように、何も考えずに日々を過ごし、人間の運命や人間が生きている理由、人間はどのように生きるべきかなど考えることはありません。そのような人々は人間の運命について何も理解を得ることなく年老いてゆき、死ぬ瞬間まで人生の意味について何も知ることはありません。そのような人は死んでおり、霊のない生き物、獣です。人々は万物の中で生活し、この世で物質的な要求を満たす様々な手段により快楽を得て、この物質世界が常に進歩しているのを見ていますが、自分自身の経験、すなわち人間の心や霊が感じて経験する事柄は、物質的な事柄とは何ら関係がなく、また、物質的な事柄は経験に取って代わるものではありません。経験とは人間の心の奥深くにある認識であり、肉眼で見えないものです。この認識は、人生と人間の運命について、その人が理解し、それを感じ取ることの中にあります。そして多くの場合、その認識は、目に見えない支配者が人間のために万物を用意し、すべてを指揮していることの理解へと繋がります。こうした物事の中にあって、人は運命の采配や指揮を受け入れざるを得ません。創造主が定めた道筋、創造主に統治された運命を受け入れざるを得ないのです。これは紛れもない事実です。人が運命についてどのような先見性と心構えを持っていようとも、誰もこの事実を変えることはできません。
あなたが毎日どこへ行き、何をして、誰、または何に出会い、何を言うか、あなたに何が起こるか、といった事柄を一つでも予測することができますか。人々はこれらの発生を一切予測することができず、ましてその状況がどのように展開してゆくかを予測することなどできません。人生においては、このような予期せぬ出来事が日常的に発生します。それらは毎日起こることなのです。こうした日常の変化、その変化の展開の仕方や辿る道筋を通して、人が常に思い起こすこととは、無作為に起こる物事はなく、それぞれの物事が発生する過程やその必然性を人間の意志で変えることはできないということです。あらゆる出来事は、人間に創造主の訓戒を伝えるとともに、人間は自分自身の運命を支配できないということを告げています。自らの運命を掌握しようとする人間の大それた、無意味な野望や願望への反証として起こるのです。こうした出来事は、人の顔を何度も平手打ちするように続けざまに起こり、人間は、誰が最終的に人間の運命を統治し支配するかについて考え直すことを余儀なくされます。人間の野望や願望が繰り返し阻まれ、砕かれてゆくにつれ、人間は、待ち受ける運命や、現実、天の意、そして創造主の統治を、無意識のうちに自然と受け入れるようになります。こうした日常の変化から全人生の運命に至るまで、創造主の計画や統治を明らかにしないものはありません。すなわち、「創造主の権威は超越不可能である」ということを告げないもの、「創造主の権威は至高のものである」という恒久の真理を伝えないものは存在しないのです。
人間の運命と万物の運命は、創造主の統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を創造主の権威から引き離すことはできません。人間は、万物の法則を通して創造主の指揮と統治を理解するようになり、万物の生存の法則を通して創造主の統治を認識するようになるとともに、創造主が万物を統治し支配する方法を、万物の運命を通して察知します。また人間は、人間と万物のライフサイクルのうちにあって、万物やあらゆる生物への創造主による指揮と采配を真に経験し、そうした創造主の指揮や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や勢力よりいかに優れていて掛け替えのないものであるかということを目の当たりにします。これに鑑みると、創造主の統治は、いかなる被造物にも侵害できないものであり、いかなる勢力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したりすることはできないことを、人間は認めざるを得ません。人間や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われます。これこそ、創造主の権威が真に具現化されたものではありませんか。人間は客観的な法則の中に、あらゆる出来事や万物に対する創造主の統治と定めを見出しますが、創造主による万物の統治の原理を把握できる人間はどのくらいいますか。自分自身の運命を創造主が統治し采配することを真に知り、認め、受け入れて、それに服従することができる人間はどのくらいいますか。創造主が万物を統治するという事実を信じてきた人の中で、創造主が人類の一生の運命も支配していることを真に信じ、認めることができる人はいますか。人間の運命は創造主の掌中にあるという事実を真に理解できる人はいますか。創造主が人間の運命を統治し、支配しているという事実に直面した時、創造主の統治に対して人間はどのような姿勢で向き合うべきですか。それは、現在この事実に直面しているすべての人間が自らのために判断しなければならないことなのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 122
人間の人生における六つの節目 (抄出)
一生のうちに、あらゆる人が一連の重要な節目を経験します。こうした節目は、その人の人生における運命を決定づける、最も基本的かつ最も重要な段階です。一生のうちに誰もが経験する、こうした重要な節目をこれから概説します。
出生:第一の節目
人が誕生する時、生まれた家庭環境、性別、容姿、出生時期が、その人生における第一の節目の内容です。
この節目に関して、誰も特定の内容を選択することはできません。それらはすべて、創造主により遥か以前に定められています。こうした内容は外的環境の影響を一切受けず、創造主により予め定められたこれらの事実が人的要因によって変えられることもありません。ある人の誕生は、創造主がその人について定めた運命の第一段階を既に成し遂げたことを意味します。創造主は遥か以前にこうした内容をすべて定めているため、それらを変える力を持つ人はいません。ある人の誕生後の運命とは関係なく、その誕生の条件は予め定められたものであり、定められた通りであり続けます。それらの条件は、その人の人生の運命から影響を受けることは一切なく、その人の人生の運命に対する創造主の統治に影響を及ぼすことも一切ありません。
a.新たないのちは創造主の計画から生まれる
第一の節目の詳細、すなわち、ある者の出生地、家族、性別、容姿、出生期日のうち、人間が自分で決められるものはあるでしょうか。言うまでもなく、人の出生とは受動的な出来事です。人は、自分の意志とは関係なく、ある時、ある場所で、ある家庭に、ある容姿で生まれ、ある家族の一員となり、ある家系に入ります。第一の節目において、人に選択の余地はなく、創造主の計画の下に決定された環境で、特定の家庭に、特定の性別と容姿で、特定の時期に生まれ、それは、その後の人生と密接な繋がりがあります。この重要な節目に、人は何ができるでしょうか。先述の通り、そうした出生の詳細に関して、人間に選択の余地は一切ありません。創造主による予定と導きがなければ、この世に新しく生まれるいのちは、どこへ行き、どこに留まるかを知らず、身寄りもなく、どこにも属することなく、家と呼べるものも持ちません。しかし、創造主の周到な采配があるからこそ、新たないのちは、留まる場所、両親、そのいのちの属する場所、親戚が揃った状態で、人生の旅路に就くのです。この過程全体を通して、創造主の計画に基づく決定により新たないのちが体現され、そのいのちは、あらゆる物事を創造主から与えられることになります。名もなき浮遊物体の状態から、次第に血と肉を持ち、目に見える、神の創造物である有形の人間になります。その人間は考え、呼吸し、寒暖を感じ、物質世界において被造物が行う日常活動に参加することができ、造られた人間が人生で体験すべきあらゆる物事を体験します。創造主が人の出生を予定するということは、創造主が人の生存に必要な物事を余すところなく人に与えることを意味します。同様に、人が生まれるという事実は、人は生存に必要な物事を余すところなく創造主から授かり、それ以降は、創造主の備えのもと、創造主の統治下に別の形態で生きるということを意味します。
b.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由
人々は、もし自分が生まれ変わったならば、名家に生まれる、女性の場合は白雪姫のような容姿で皆に愛される、男性の場合は白雪姫に登場する王子のように何ひとつ不自由なく全世界を意のままにする、などと想像することが往々にしてあります。自分の出生について多くの幻想を抱きながら、自分の家族や容姿、性別、さらには出生時期までも恨み、自分の出生について大いに不満を感じている人がよくいます。しかし人々は、自分が特定の家庭に生まれた理由や、なぜ自分がそのような容姿を持っているかを決して理解できません。そうした人々は、出生地や容姿の如何を問わず、創造主による経営のもとで、自分が様々な役割を担い、様々な使命を果たさねばならず、その趣旨は決して変わらないということを知りません。創造主の観点から見ると、人間の出生地、性別、肉体的な外観は、すべて一時的なものです。これらは、神が全人類を経営する各段階において一連のささいなもの、僅かな象徴でしかありません。そして、人の真の終着点と結末は、どの段階においても人の出生により決定されることはなく、それぞれの人生において全うする使命や、創造主の経営(救いの)計画が完了した時点で創造主から人に下される裁きにより決定されます。
あらゆる結果には原因がある、原因なくして結果はない、と言われています。したがって、人の出生は、必然的に人の現世や前世と結びついています。人の死がその人生の終わりであるとすれば、人の出生は新たな周期の始まりです。従前の周期が人の前世であるとすれば、新たな周期は必然的に人の現世となります。人の出生は、その者の前世と現世と関連しているため、その者の出生に関連する場所、家庭、性別、容姿、その他の要素は、当然そのすべてが人の前世と現世に関連しているということになります。つまり、人の出生の要素は、人の前世に影響されるだけでなく、現世における人の宿命によっても決定されるということであり、そこに、人々の生まれる環境が様々たる所以があります。貧しい家庭に生まれる人もいれば、裕福な家庭に生まれる人もいます。一般的な家柄に生まれる人もいれば、名家に生まれる人もいます。南部地域で生まれる人もいれば、北部地域で生まれる人もいます。砂漠で生まれる人もいれば、緑の生い茂る場所で生まれる人もいます。喝采、歓喜、祝賀のうちに生まれる人もいれば、悲嘆、災難、苦悩のうちに生まれる人もいます。生まれてから宝のように扱われる人もいれば、雑草のように見捨てられる人もいます。端正な容姿で生まれる人もいれば、奇形な容姿で生まれる人もいます。愛らしい外見で生まれる人もいれば、醜い外見で生まれる人もいます。深夜に生まれる人もいれば、真昼の陽光の中で生まれる人もいます。……あらゆる人々の出生は、創造主が人々のために準備している運命により決定されます。人の現世の運命、人が遂行する役割、果たす使命は、人の出生により決まります。こうした物事は、すべて創造主による統治の下、創造主により予め定められます。誰一人として、定められた運命から逃れたり、出生を変えたり、自分自身の運命を選択したりすることはできません。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 123
人間の人生における六つの節目 (抄出)
成長:第二の節目
人々は、生まれた家庭により異なる様々な環境で育ち、自分の両親から様々な教えを受けます。こうした要因により、人が成長して大人になるまでの条件が決定され、成長は人の人生における第二の重要な節目となります。この節目においても人々には選択の余地がないことは言うまでもありません。この節目もやはり事前に定められた不変のものです。
a.各人の成長時における不変の条件は創造主により計画されている
人は成長する際、啓発や影響を受ける人物、出来事、および物事を選択できません。人は、どのような知識や技能を身に付けるか、何を習慣とするかを、選択できません。誰が自分の両親や親戚となるか、自分がどのような環境で成長するかについて発言権は一切なく、他の人々との関係、出来事、周囲の物事、またそうした物事が自分の発達にどのような影響を及ぼすかは、すべて自分で制御できる範囲を超越しています。それでは、こうした事柄は誰が決めるのでしょうか。こうした事柄を事前に用意するのは誰でしょう。こうした事柄は、人々が選択できるものではなく、自分で決められるものでもなく、また自然と具体化するものでもないことは明らかであるため、こうした人物や出来事や物事の形成が創造主の掌中にあることは言うまでもありません。当然ながら、創造主は、各人の出生する特定の状況を予め定めるのと同様に、各人が成長する具体的な状況をも予め定めます。人の出生により、その周囲の人々や出来事、物事が変化する場合、人の成長や発達もまた必然的に、それらの人々や出来事、物事に影響を与えることになります。たとえば、貧しい家庭に生まれても裕福な環境で成長する人々がいる一方で、裕福な家庭に生まれてもその家庭の財産が減ってゆき、貧しい環境で育つ人々もいます。その出生が一定の法則により管理されている人はおらず、必然的な一定不変の状況下で成長する人もいません。こうした物事は人が想像したり制御したりできるものではなく、人の運命から生まれる結果であり、人の運命により決定されるものです。無論、根本的にこれらの物事は創造主が各人のために予定した運命により決定されているとともに、その運命に対する創造主の統治と計画により決定されています。
b.人間の成長時の様々な条件により、様々な役割が生まれる
人の出生の状況により、人が成長する環境や基本的な水準と状況が確立されるのと同様に、人が成長する状況も、その出生の状況から生まれる結果です。この期間は、人が言語を学び始め、人の心が多くの新しい物事に遭遇してそれを吸収し始め、継続的に成長する過程です。人がその耳で聞く事柄、その目で見るもの、その心で吸収する物事は、人の内部の世界を次第に豊かにし、活力を与えます。人が遭遇する人々、出来事、物事、人が学ぶ常識、知識、技能、人が影響され、植え付けられ、教えられる考え方のすべてが、その人生の運命を導くとともに人生の運命に影響を与えます。人が成長する時に学ぶ言語と人の考え方は、幼年期を過ごす環境と切り離せないものであり、その環境は両親や兄弟姉妹、その他の人々、出来事、そうした人々の周囲にある物事で構成されています。したがって、人が発達する過程は、人の成長時の環境により決定されるとともに、この時期に遭遇する人々、出来事、物事により左右されます。人の成育時の諸条件は遥か昔に定められているため、当然ながら、その過程における生活環境も定められています。それは、人が好みで選んで決めるものではなく、創造主の計画に従い、創造主の入念な采配と、人の人生の運命への創造主による統治の下に決定されます。それゆえに、あらゆる人が成育時に出会う人々や遭遇する物事は、すべて必然的に創造主の指揮と采配に関連しています。人々はそうした複雑な相互関係を予測することも、制御することも、推測することもできません。その成育環境には様々な物事や様々な人々が関連し、そうした広大な網の目のように広がる結びつきを用意したり、指揮したりすることができる人間はいません。創造主を除き、いかなる人間や物事も、すべての人々、出来事、物事の出現、存続、消滅を制御することはできません。広大な網の目のような結びつきにより、人の発達は創造主が定めた通りに形成され、人々の様々な成育環境が形成されるとともに、創造主の経営の働きに必要とされる様々な役割が造り出され、人々がその使命を完遂するための堅牢な基盤が築かれるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 124
人間の人生における六つの節目 (抄出)
独立:第三の節目
人が少年期と思春期を経て、徐々に不可避的に成熟すると、次に成すべきは、青年期と完全に訣別し、両親に別れを告げ、独立した成人として将来の道へと向かうことです。この時点においては、成人が直面しなければならない人々、出来事、物事、そして程なく現われるあらゆる運命と向き合わなくてはなりません。これが、人が経験しなければならない第三の節目です。
a.人は独立後に創造主の統治を経験するようになる
人の人生の旅路において、出生と成長が人の運命の基礎を築くための「準備期間」であるならば、人の独立は、その人生の運命における冒頭の独白です。人の出生と成長が人生の運命のために人が蓄えた富であるならば、人が独立するのは、その富を消費ないし追加し始める時です。人がその両親を離れて独立する時、人が直面する社会の状況、人が得られる職業や経歴の本質は共に運命により定められ、両親とは無関係です。大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、意気揚々と人生の旅路の第一歩を踏み出す人もいます。様々な技能をたくさん学んで身に付けても、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなどありえず、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、不確かな人生を送る人もいます。熱心に勉強に励んでも、高等教育を受ける機会をあと少しのところで逃してしまい、その後の成功運は尽きたように思われ、人生の旅路における初心の志が消沈してしまう人もいます。人々は、先行きが順調なのか困難なのか分からなくなって初めて、人間の運命がいかに移ろいやすいものであるかを実感し、人生に期待と恐れを抱きます。それほど優れた教育を受けていないにもかかわらず、著書を出版し、一定の名声を得る人や、ほぼ無学でありつつ事業で生活できるだけの金額を稼ぐ人もいます……。人々は、自分が選ぶ職業や生計を立てる手段について、その選択が正しいか間違っているかを制御することができますか。物事は、人間が望み、決定した通りになりますか。大半の人は、少ない労働時間でたくさん稼ぎたい、日照りや雨の中で骨折って働きたくない、身なりを良くしたい、どこでも眩く輝く人でありたい、他人よりも秀でた存在でありたい、家の名を上げたいと願っています。人間は完璧を望みますが、人生の旅路の一歩を踏み出した時、人間の宿命がどれほど不完全であるかを認識するようになり、また、自分の将来に大胆な計画を立て、大それた夢を抱くことはできても、それを叶える能力や権力を持つ人、自分の将来を制御する立場にある人は誰一人としていないという事実を、初めて真に理解します。自分の夢と、直面しなければならない現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決してなく、そうした現実に直面した人々は決して満足感や充足感を味わうことがありません。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいます。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められたことは決して超越することができません。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、運命を前にして人々は皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別はありません。人が従事する職業、人の生業、人が生涯にわたって蓄える富は、両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められています。
b.両親を離れ、人生の舞台で本格的に自分の役割を果たすこと
人は成熟すると、親元を離れて独立することができるようになり、この時点で、人は真に自分の役割を担い始めます。霧が晴れ、人生における使命が次第に明瞭になるのです。名目上、人は依然として両親と密接に繋がっていますが、人の人生における使命と果たす役割は、父母とは無関係であるため、実際には、この密接な繋がりは、人が独立してゆくに従って次第に解かれていきます。生物学的な面から見ると、人々は潜在意識下で両親に依存せずにはいられませんが、客観的に言うと、成人後、人は自分の両親とは完全に分離した生活に入り、独自に決めた役割を果たします。子供の生活に対する両親の責任は、出産と育児を除くと、ひたすら子供に慣習的な成育環境を与えることです。なぜなら、創造主の予定以外に、人間の運命と関係のある物事はないからです。人の将来がどのようになるかを制御できる人はいません。人の将来は遥か昔に予め定められており、両親でさえも変えることはできません。運命に関しては、人間は皆独立しており、各人には独自の運命があります。したがって、自分の子供の人生における運命を阻んだり、その子供が人生で担う役割に何らかの影響を与えたりすることができる両親はいません。人が生まれる運命にある家庭や、人の成育環境は、人の人生における使命を果たすための前提条件でしかないと言えるでしょう。それらの条件が、何らかの形で人の人生における運命を決めたり、どのような宿命の中で人が使命を果たすかを決めたりすることはありません。したがって、人の人生における使命の遂行を、その人の両親が助けることもできなければ、人が人生で担う役割を、その人の親類が助けることもできないのです。人がどのように使命を完遂するか、どのような生活環境で役割を遂行するかは、一つ残らずすべて人の人生の運命によって決定されます。言い換えれば、創造主により予め定められた人の使命に、その他の客観的条件が影響を与えることはないということです。すべての人々は、それぞれ特定の成育環境で成人に達し、段階的に自分自身の人生の道を歩み始め、創造主が各人のために計画した使命を果たします。人々は、自然と無意識のうちに、人類の大海原へと入り、その生涯における役割を担い、そこで創造主の定めのため、創造主の統治のために、被造物として自分の責任を遂行し始めます。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 125
人間の人生における六つの節目 (抄出)
結婚:第四の節目
人が成長して成熟すると、自分の両親や自分が生まれ育った環境から離れて行き、自分の両親とは異なる、自分の人生の方向性と人生の目標を追究するようになります。この時期、人はもはや両親を必要としませんが、一緒に生活できる相手、すなわち、自分の運命と密接な関連性を持つ、配偶者を必要とします。このように、人が独立してから最初に遭遇する主要な出来事は結婚であり、それが、人間が経験すべき第四の節目です。
a.人には結婚に関する個人的選択の余地がない
誰にとっても結婚は人生における重要な出来事であり、人が様々な務めを本当の意味で担い始める時であるとともに、次第に様々な使命を遂行し始める時です。人々は、自分が自ら結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱いており、それらの幻想はすべて実に美しいものです。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような人と結婚することを想像します。こうした空想は、あらゆる人が、それぞれ結婚に対して一定の条件、要望と基準の諸条件を持っていることをまさに証明しています。この邪悪な時世において、人々は結婚に関して歪んだ情報に常にさらされ、それにより必要条件がさらに増加し、人々にあらゆる種類の負担が課せられ、結婚に対する人々の姿勢は奇妙なものになっています。しかし、結婚を経験した人は、人が結婚をどう理解しているか、結婚に対してどのような姿勢であるかを問わず、結婚とは個人的選択の問題ではないことを知っています。
人間は、人生において多数の人々に出会いますが、誰が結婚相手となるかを知る人はいません。誰もが結婚という問題に対して個人的な概念や心構えを持っているものの、最終的に誰が真の相手となるかを予測できる人はおらず、また、この問題に対する自分自身の概念はほとんど意味をなしません。自分が好きな人物と出会い、その後、その人物を追いかけることはできても、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められることではありません。自分が慕う人物は必ずしも自分が人生を共にする相手であるとは限りません。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に静かに登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が切り離せないほどに結びついている人物、すなわち配偶者となります。そのようなわけで、世界には数百万の結婚がありますが、ありとあらゆる結婚はそれぞれに異なります。不満な結婚、円満な結婚、東西にまたがる結婚、南北にまたがる結婚、完璧な相性の結婚、同じ階級同士の結婚、幸福で調和した結婚、辛く悲しい結婚、羨望される結婚、誤解され、疑問視される結婚、幸福に満ちた結婚、涙に溢れた絶望的な結婚、こうした結婚がそれぞれ非常にたくさんあります。そのように無数の類の結婚がある中で、人間は結婚生活への忠誠と一生の約束を示します。愛情、慕情、分かちがたい結びつき、あるいは断念、無理解、裏切り、さらには憎悪を示す人々もいます。結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わることがありません。この使命はあらゆる人が全うしなければならないことなのです。それぞれの結婚の背景にある各人の運命は変わりません。なぜなら、それは創造主により遥か昔に定められているからです。
b.結婚は二人の配偶者の運命から誕生する
結婚は人の人生における重要な節目です。結婚は人間の運命の産物であり、人の運命における極めて重要な接点です。結婚は人の個人的な意志や嗜好に基づくものでもなければ、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、その一切は、当事者双方の運命、双方の運命への創造主による采配と定めにより決定されます。表面的には、結婚の目的は人類の存続ですが、実際は、結婚は人が使命を全うする過程で経験する儀式に他なりません。結婚において人々が果たす役割は、単に次の世代を養育するにとどまりません。人々には、結婚を継続する過程においてありとあらゆる役割と、その役割を完遂する使命があります。人の出生は、人々、出来事、その周囲の物事のうちに起こる変化に影響を与えるので、人の結婚もやはり、必然的にそうした人々、出来事、物事に影響を与え、さらには、それら一切を色々な方法で変化させるのです。
人が独立する時、人は自分自身の人生の旅路につき、自分の結婚に関連する人々、出来事、物事へと、一歩一歩導かれていきます。それと同時に、その人と結婚する配偶者もまた、同じ人々、出来事、物事へと、一歩一歩近付いていきます。創造主の統治下において、繋がりのない二人の人間が繋がりのある運命を共有し、次第に結婚する方向へ進み、奇跡的に家族、すなわち「一本の縄に張り付く二匹のいなご」となります。したがって、人が結婚すると、その人の人生の旅路は配偶者に関与して影響を与え、同様に配偶者の人生の旅路はその人の人生の運命に関与して影響を与えます。言い換えれば、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことができる人はいないということです。人間の出生は、極めて幅広い一連の結びつきと関係があります。成育もやはり一連の複雑な結びつきに関係しています。同様に、結婚は必然的に極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、その範囲内に維持されて、その結びつきの中にいるあらゆる人の運命に影響します。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能、その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と、繋がりのある運命から生じます。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 126
人間の人生における六つの節目 (抄出)
子孫:第五の節目
結婚後、人は次の世代の養育を開始します。どのような子供が何人生まれるかについて、人には発言権がなく、これもまた、創造主が予め定めた、人の運命により決定されます。これが、人が経験しなければならない第五の節目です。
人がある人の子としての役割を果たすために生まれるならば、人はある人の親としての役割を果たすために次の世代を養育するということになります。こうした役割の変化により、人は人生の様々な段階を、様々な立場で経験します。またそこから得られる様々な人生経験を通して、人は創造主の統治を知るようになります。創造主の統治は常に同じ方法で行われ、それを通して人は、誰一人として創造主の定めを逸脱したり変更したりすることはできないという事実に直面します。
a.人間は自分の子供がどうなるかを制御できない
出生、成育、結婚はすべて、様々な種類と様々な程度の失望感を人々にもたらします。家族や容姿に不満がある人もいれば、両親が嫌いな人や、成育環境に対して憤慨したり、不服を持ったりする者もいます。そして大半の人々にとって、こうした失望感のなかでも、結婚が最も大きな不満となります。出生や成長、結婚にどれほど不服であるかを問わず、そうした節目を既に経験した人は、自分の出生地や出生期日、自分の容姿、自分の両親、自分の配偶者を選ぶことはできず、天の意を受け容れるほかないことを知っています。しかし、人々が次の世代を養育する時になると、彼らは自分の半生で叶わなかった願望を子供に投影し、自分がその半生において経験した失望感が、子供により埋め合わせられることを願います。そうしたわけで、自分の娘は息を呑むような美女に育つ、自分の息子はさっそうとした紳士に育つ、自分の娘は教養が高く才能に溢れている、自分の息子は優等生になり、卓越したスポーツ選手になる、自分の娘は優しくて気立てが良く、感情が豊かになる、自分の息子は聡明で能力が高く、気配りのできる人になるなど、人々は自分の子供に関して様々な幻想にふけります。彼らは、娘であれ息子であれ、自分の子供が年長者を敬い、両親に気遣い、皆に愛され、称賛されることを願います。この時点では、人々は人生の新たな希望が膨らみ、心の中では新たな情熱に火がつきます。人々は、自分の人生においては自分が弱く、無力であること、何かに卓越する機会や希望は二度とないこと、自分の運命を受け容れるほかないことを知っています。それゆえに、人間は自分の希望や、叶わなかった願望や理想をすべて、次の世代に投影し、自分の子供が自分の夢を叶え、自分の願望を実現する手助けとなること、自分の娘や息子が家の名に栄誉をもたらし、重要人物や富豪、有名人となることを望んでいます。つまり、彼らは自分の子供が幸運に恵まれることを願っているのです。人々の計画や幻想は完璧です。自分の子供の数や自分の子供の容姿、能力などは自分で決められるものではなく、自分の子供の運命は僅かたりとも自分の掌中にはないということを彼らは知らないのでしょうか。人間は、自分が自分自身の運命の主ではないにもかかわらず、若い世代の運命を変えることを願い、自分自身の運命から逃れる力が全くないにもかかわらず、自分の娘や息子の運命を制御しようとします。彼らは、自己を過信していないでしょうか。これは人間の愚かさと無知さではないでしょうか。人々は自分の子供のためなら一切努力を惜しみませんが、最終的には、自分が授かる子供の人数や、その子供がどのような子供であるかは、人の計画や願望通りにはならないのです。貧しいながら多くの子供を授かる人もいれば、裕福ながら子供を授からない人もいます。娘を欲しがっていてもその願いが叶わない人や、息子を欲しがっていても息子を授からない人もいます。自分にとって子供が祝福となっている人もいれば、自分にとって子供が災いとなっている人もいます。自分達は聡明でも、知能の発達が遅い子供を授かる夫婦や、自分達は勤勉で誠実でも、育てている子供が怠惰であるという両親もいます。自分達は親切で正義感があっても、悪賢く凶暴な子供を授かる両親もいます。自分達は心身共に健全であっても、障害を持つ子供を授かる両親もいます。自分達は平凡で出世できずとも、偉業を成し遂げる子供を授かる両親もいます。自分達は低い身分であっても、授かった子供の身分が高くなる両親もいます。……
b.人間は、次の世代を養育した後、運命に対して新たな認識を得る
結婚する人々の大半は、三十歳前後という、人生において人間の運命の何たるかをまだ何も心得ていない時期に結婚します。しかし、子育てを始めると、子供が育つにつれ、人々は、一つ前の世代の人生とあらゆる経験が新しい世代により繰り返されるのを目の当たりにし、そうした状況に自分の過去が反映されているのを見て、自分の道と同様に、若い世代が歩む道も、計画したり選択したりすることができないことに気付きます。人々は、この事実に直面すると、あらゆる人の運命は予め定められていると認めざるを得ず、それほど意識することなく自分の願望を徐々に捨て去り、心に秘めた情熱は冷めていきます……。こうしている間に、人々は、実際のところ人生におけるいくつかの重要な節目を通り越し、人生に対する新たな認識を得て、新たな姿勢を取るようになります。この年齢の人は、将来にどの程度期待することができ、どのような見込みを待ち望むべきでしょうか。王子が現れるのを夢見続けている五十歳の女性はいますか。白雪姫を夢見続けている五十歳の男性はいますか。醜いアヒルの子から白鳥へと生まれ変わることを願い続けている壮年の女性はいますか。高齢男性は、若い男性と同じように出世に対する欲望を持っていますか。要するに、男性か女性かを問わず、この年齢に達した人は、結婚、家族、子供について比較的合理的かつ実践的な姿勢を取りがちです。そのような人には、基本的に選択肢がなく、運命への挑戦へと駆り立てられる事もありません。人間の経験に関する限り、人がこの年齢に達すると、自然と「運命を受け止める必要がある。子供には独自の運命があり、人間の運命は天により定められたものである」という姿勢を取るようになります。真理を理解しない人々の大半は、この世の栄枯盛衰や挫折、苦難を切り抜けてきた後、人生に関する識見を「それが運命である!」というひと言で表現します。このひと言は、人々の運命に対する理解と人々が行き着いた結論が世俗的な観点から要約されたものであり、また、人類の無力さを表現し、的を射た正しいものだと言えますが、それは創造主の統治に対する理解からは遠くかけ離れたものであり、創造主の権威に対する認識には到底代わることのないものです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 127
運命を信じることは、創造主の統治に対する認識に代わるものではない
運命について、長年にわたり神に付き従って来たあなたがたの認識と俗世人の認識には大きな違いがありますか。あなたがたは、創造主の定めを真に理解し、創造主の統治を真に知りつつありますか。「それが運命である」という言葉について心から深く共感している人もいますが、彼らが神の統治を一切信じず、人間の運命が神により定められ、指揮されているということを信じず、神の統治に服従したがりません。そのような人々は、あたかも大海原に漂流し、波にもまれ、潮に流されるように、受け身で運命に身を委ねるほかありません。依然として、彼らは、人間の運命が神の統治下にあることを認めません。彼らは、神の統治について自ら自発的に気付くことで神の権威を知り、神の指揮と采配に従い、運命に逆らうのを止め、神の慈しみと保護、導きの下に生きるということができません。言い換えれば、運命を受け容れることは、創造主の統治に従うこととは異なり、運命を信じる事は、神の統治を受け容れ、認め、知ることではなく、単にその事実と表面的な現象を認めることにすぎません。それは、創造主が人間の運命をどのように支配するかを知る事、創造主が万物の運命を支配する源であることを認める事とは異なるものであり、創造主による人の運命への采配と計画に服従する事とは明らかにはなはだしい隔たりがあります。人が運命のみを信じ、それについて深く共感していても、それにより人間の運命への創造主による統治を知り、認め、それに服従し、それを受け容れることができなければ、人の人生は悲惨で虚無のうちに生きる人生となり、創造主の支配に服従することも、造られた人間という言葉が真に意味するところの存在となることも、創造主の是認を享受することもできません。創造主の統治を本当に知り、経験する人は、受動的でも無力でもなく、能動的であるべきです。そのような人は、すべてが運命づけられていることを認めると同時に、いのちは創造主の統治下にあるという人生と運命の正確な定義を把握している必要があります。人が自分の歩んで来た道程を振り返り、旅路のそれぞれの段階を回想すると、その道の苦楽を問わず、人は、それぞれの段階で神が自分の進む道を導き、計画していたことを知ります。人が気付かぬうちに人を今日まで導いてきたのは、神の周到な采配と入念な計画です。創造主による統治を受け容れ、創造主の救いを得ることができるということは、何と幸運なことでしょう! 人が自分の運命に対して消極的な姿勢でいる場合、それは、神が彼らのために用意したあらゆる物事をその人が拒否し、従順な姿勢ではないということを意味します。神による人間の運命の統治に対して、人が能動的な姿勢でいるならば、人が自分の旅路を回顧し、神の統治を真に把握するようになった時、人は神が用意した物事のすべてに従うことを一層真剣に望むようになるとともに、人の運命を神の指揮に委ね、神に反抗することを止めるということに一層強い決断と確信を得るでしょう。運命を把握することもなく、神の統治を理解することもなく、霧の中を敢えて苦労してよろめきながら手探りでさまよった時、旅路は困難で悲痛すぎるものになることが分かります。したがって、人の運命への神の統治を人々が認めた時、賢明な人は、それを知り、受け容れて、自らの手で良い人生を作り上げようとしていた悲痛な日々と訣別することを選び、運命に逆らい、いわゆる「人生の目標」なるものを自らの方法で追い求めることを止めます。神の存在もなく、神を見ることもなく、神の統治をはっきりと認識することもなければ、毎日は無意味で、無価値で、惨めです。どこにいようが、どのような仕事をしようが、人の生き方と目標への追求は終わりのない悲しみと深刻な苦痛しかもたらさず、回想するに堪えないものになります。創造主の統治を受け容れて、その指揮と采配に従い、真の人生を求めて初めて、人は徐々にすべての悲しみや苦痛から解き放たれ、人生の虚無感を払拭できるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 128
創造主の統治に従う人々のみが真の自由を得ることができる
人々は神の指揮と統治を認識していないので、常に挑戦的かつ反抗的な態度で運命に立ち向かい、神の権威や統治、待ち受ける運命を捨て去ることを願い、現状を変え、運命を改変するという儚い望みを抱いています。しかし、人間は決してそれに成功することはなく、事あるごとに挫折します。こうした葛藤は、人の魂の奥底で生じ、骨身に沁みるほどの並々ならぬ苦痛を伴うものであり、人はその間絶えず自分の命を浪費しています。この痛みの原因は何でしょうか。神の統治が原因でしょうか、それとも人が不運な境遇に生まれたことが原因でしょうか。明らかに、そのいずれでもありません。結局は人々が進む道、人々が選択する人生の過ごし方が原因となっています。こうした物事を認識していない人々もいるかもしれません。しかし、神が人間の運命を統治していることをあなたが真に知り、それを真に認め、自分のために神が計画し、決定したあらゆる物事が大きな利益であり、大いなる保護であるということを真に理解した場合、その痛みが次第に緩和され、心身共にくつろいだ気持ちになり、自由になり、解放されます。大半の人々の状態から判断すると、人々は、主観的には、従前のような生活を望まず、苦痛から解放されることを望んでいるにもかかわらず、客観的には、創造主が人間の運命を統治していることの実際の価値と意義を真に把握することができず、創造主の統治を認めて従うこともできず、ましてや創造主の指揮や采配を求め、受け容れる方法を知るよしもありません。そうしたわけで、創造主が人間の運命と、人類のあらゆる物事を統治しているという事実を人々が真に認識できず、創造の統治に真に服従できない場合、その人々にとって、「人間の運命は自分の掌中にある」という観念に駆られて捕らわれることのないようにするのは困難でしょう。彼らにとって、運命や神の権威に対抗する激しい葛藤による痛みを払拭することは困難であり、また、言うまでもなく、彼らが真に解放されて自由になり、神を崇拝する人々となることもやはり困難でしょう。こうした状態から自由になるための非常に簡単な方法があります。それは、自分の以前の生き方や人生の目標と訣別し、以前の生き方、人生観、追求、願望、理想を概括し、分析し、それを神の旨や人間への要求と比較し、それらのいずれかが、神の旨や要求と一致しているか、人生の正しい価値をもたらすか、一層深い真理の理解へと導くか、人間性と人間らしさを伴った生き方を可能にするかを確認することです。人々が追求する人生の様々な目標や多種多様な生き方を繰り返し調査し、注意深く分析すると、創造主が人類を創った時の創造主の本来の意図と一致するものがひとつもないことが分かります。それらはすべて、人間を創造主の統治と慈しみから引き離し、人々を堕落させて地獄へと導く罠です。このことを認識した後の課題は、以前の人生観を捨て、様々な罠から離れ、自分の人生を神に託して神の采配に委ねることです。それは、神の指揮と導きのみに従うよう心がけ、個人的な選択肢を持たず、神を崇拝する人になるということです。これは簡単に思えますが、行うのは困難です。苦痛に耐えられる人々もいれば、耐えられない人々もいます。喜んで従う人々もいれば、ためらう人々もいます。ためらう人々には、それを行うことを望む気持ちと決意が不足しています。つまり、彼らは、神の統治を明確に認識するとともに、人間の運命を計画し、采配を行うのは神であることを完全に知っているにもかかわらず、それでもなお反抗しようとあがき、自分の運命を神の掌中に委ねて神の統治に従うことを許さず、さらには、神の指揮と采配に憤慨しています。そのようにして、自らのために自分の能力を知ることを願う人々が常に存在するのです。彼らは自分の運命を自らの手で変えること、自分の力で幸福になること、神の権威の範囲を出て、神の統治を超えることができるかどうかを試すことを望みます。人間の悲劇は、人間が幸せな人生を望むことや、富や名声を望むこと、霧の中で自分の運命に立ち向かうことではなく、創造主の存在を知り、創造主が人間の運命を統治しているという事実を知ってなお、自分自身のあり方を正し、泥沼から抜けるということができず、心を頑なにして自分の過ちを押し通そうとすることです。人間は、すべてにおいて悔恨の欠片もなく、泥の中でのたうち回り、創造主の統治に対して頑固に対抗し続け、苦々しい結末を見るまで抗い続けます。うちひしがれ、重傷を負って倒れた時、やっと諦めて戦いを止めるのです。これが、人間の本当に悲しい性です。ですから、わたしは言います。服従することを選ぶ人々は賢者であり、苦闘して逃れることを選ぶ人々は実に愚か者です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 129
人間の人生における六つの節目 (抄出)
死:第六の節目
慌ただしい日々と、挫折と失望、歓喜と悲哀、幸運と不運、忘れられない年月など、無数の出来事を経験し、巡る季節のなかで、人生の重要な節目をそれと気づくことなく瞬く間に過ごした末、人間は衰退期に入ります。過ごした年月の跡は身体全体に刻み込まれています。もはや真っ直ぐ立つことはできず、濃色の頭髪は白くなり、かつて明るく澄んでいた眼は暗く曇り、滑らかで柔らかい肌はシミとシワのある肌へと変化します。耳が遠くなり、歯が抜け落ち、反応が鈍くなり、動きが遅くなります……。この時点で、人は情熱溢れる若年期に最後の別れを告げ、人生の黄昏期に入ります。その次に、人間は人生最後の節目である死を迎えます。
a.創造主のみが人間の生死に対する力を握っている
人の出生が人の前世により運命づけられているとすれば、人の死はその運命の終りとなります。人の出生がその人生における使命の始まりであるとすれば、人の死は、その使命の終りとなります。創造主は人の出生の諸条件を定めているので、創造主が人の死についても諸条件を定めていることは言うまでもありません。言い換えれば、偶然生まれる人はおらず、突然訪れる死はなく、出生と死は必然的に人の前世と現世に関連しています。人の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらは人の宿命であり、人の運命です。出生について様々な真相がある以上、人の死も当然ながらそれぞれ特定の諸条件のもとに起こります。これこそが、人の寿命が様々であり、死の経緯や時刻が異なる理由です。強健でも早死にする人もいれば、虚弱でも長生きして安らかに永眠する人もいます。不自然な原因で死ぬ人もいれば、自然な原因で死ぬ人もいます。自宅から遠く離れて死ぬ人もいれば、最後に最愛の人々に看取られながら目を閉じる人もいます。空中で死ぬ人もいれば、地下で死ぬ人もいます。水中に沈む人もいれば、災害の犠牲者となる人もいます。朝死ぬ人もいれば、夜死ぬ人もいます。人は皆、華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望みますが、自分の運命から脱したり、創造主の統治から逃れたりできる人はいません。これが人間の運命というものです。人は将来に向けて様々な計画を立てることができますが、出生と他界の経緯や時期は誰にも計画できません。人々は死を回避し、阻止しようと最大限の努力をしますが、やはり、死は人知れず静かに近付いて来ます。自分がいつどのように死ぬかを知る人はおらず、ましてや何処で死ぬかなど知る人はいません。生死に対する力を握っているのは人間でもなければ自然界の生き物でもなく、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかです。人類の生死は自然界の法則の産物ではなく、創造主の権威による統治の結果です。
b.創造主の統治を知らない人間は、死の恐怖に苛まれる
人が老年になると、人が直面する課題は、家族を養うことでも、人生の大望を抱くことでもなく、人生にどのように別れを告げるか、どのように臨終を迎えるか、自分という存在に、どのように終止符を打つかということです。表面的には、人間は死を少しも気にかけていないように思われますが、その問題を追及せずに済む人はいません。なぜなら、誰一人として、死の向こう側に別の世界が存在するかどうか、人間が知覚したり感じ取ったりできない世界、誰も知らない世界が存在するかどうかを知る人はいないからです。このため、人間は死と正面から向き合うこと、然るべき時に死と対峙することを恐れ、その問題を避けるよう最大限の努力をします。したがって、あらゆる人が死をひどく恐れ、人生において避けることのできない事実が謎に包まれ、あらゆる人の心に絶えず影を落としているのです。
自分の身体の劣化を感じ、死が迫っていると感じる時、人は曖昧で表現し難い恐怖を覚えます。死に対する恐怖により、人は一層淋しさと無力感を感じ、この時点で人は、人間は何処から来て、何処へ向かっているのだろうか、こうして束の間の人生を終えて死ぬのだろうか、これが人の人生の終わりの時なのだろうか、最終的に人生の意味は何だったのだろうか、結局人生には何の価値があるのだろうか、それは富と名声なのだろうか、それは家族を養うことなのだろうか、などと自問します。こうした具体的な疑問について考えてみたことがあるか、死をどれほど恐れているか如何を問わず、すべての人の心の奥深くには、この謎を究明したいという欲求、自分は人生について無理解であるという感覚が常にあり、またこうした気持ちの中に、この世に対する感傷、この世を去ることへの不本意さが混在しています。人間が恐れているものが何か、探し求めるものは何か、人間は何に対して感傷的になるか、何を残して去るのが不本意なのかを明確に表現できる人は、おそらく誰一人としていないでしょう。
人々は死を恐れているので、多くの心配を抱えています。彼らは死を恐れているので、捨て去れない物事が多すぎるのです。臨終する時、あれやこれやと気を揉み、子どもや自分が愛する人々、財産など様々な事について、あたかも心配すれば死がもたらす苦悩や恐怖を解消できるかのように、あたかも生きている人々と何らかの親しい関係を維持すれば死に伴う無力感と淋しさから逃れられるかのように思う人々もいます。人間の心の奥底には、漠然とした恐怖、愛する人と離別する恐怖、青い空や物質世界を二度と見られないことへの恐怖があります。愛する人と共にいることに慣れきった、人を恋しがる魂は、握りしめたものを手放して未知の世界にたった一人で立ち去ることに抵抗を感じています。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 130
富と名声を追求して人生を過ごした人間は、臨終時に途方に暮れる
創造主の統治と定めにより誕生した名もなき孤独な魂は、両親と家族を得て、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得ます。この魂は、創造主の統治を経験する機会、創造主の創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、神の権威に服従する機会を得ます。しかし大半の人が、こうした稀少で束の間の機会を実際に掴むことはありません。人は一生分のエネルギーを運命に立ち向かうことに使い果たし、家族を養おうとせわしなく働き、富と地位の間を行き来して、すべての時間を費やします。人々が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、彼らはこれらを人生において最も価値の高いものとみなします。すべての人々が自分の運命に不満を言うものの、人間はなぜ生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、といった、最も喫緊に検討して理解すべき問題を頭の隅に追いやって考えないようにしています。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、ただせわしなく富と名声を追い求めて全生涯を生きます。富と名声で人間の老衰を止めることはできないこと、金銭で心の空虚感を埋められないこと、誰一人として出生、老化、疾病、死の法則から除外される人はいないこと、待ち受ける運命から逃れられる人はいないことを悟るまで、そのような生き方をするのです。人々は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、やはり死を免れられる人はおらず、人は一人残らず、元来の名もなき孤独な魂という境遇に還らなければならないということを理解します。両親のいる人々は両親がすべてであると考え、財産のある人々は金銭が自分の頼みの綱であり生きる上での手段であると考えます。立派な地位があれば、人々はそれにしがみついて、そのために命を賭けます。この世界を手放そうとする時になって初めて、人々は自分が生涯をかけて追求してきた物事が、空を過ぎゆく雲のようなものであり、いずれも掴み続けることもできなければ、自分とともに連れていくこともできないものであり、自分を死から免れさせることもなければ、この世を去る孤独な魂の帰路に仲間や慰めを与えることもないものであり、またとりわけそうした物事のなかに、人々を救って死を超越することを可能にするものなどないということに気付きます。人々は、この物質世界で富と名声を得ることで、一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を覚え、その結果、道を踏み外します。人々はそのようにして、広大な人間の世界で、平和、慰め、心の平穏を求めて手足をばたつかせてもがくうちに、次々と襲ってくる波に呑まれます。人間は何処から来て、なぜ生きていて、どこへ行くのか、など、最も理解するべき重要な問題を見出せずにいる時、人々は富や名声により誘惑され、惑わされ、支配され、道を見失って取り返しがつきません。時の流れは速く、年月は瞬く間に過ぎ去り、人は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げます。人は、まもなくこの世を去ろうとする時、この世の物事はすべて流れ去って行き、それまで自分の持っていたものを手放さずに繋ぎ止めておくことはもはやできないという認識へと徐々に辿り着きます。そして、自分がまだ名もなき、この世に生まれたばかりの泣き叫ぶ赤ん坊のようだと実感します。この時点において人は、人生で何を成し遂げたか、生きていることの価値とその意味、自分がこの世に現れた理由をじっくり考えることを余儀なくされます。そして、来世というものは本当にあるのだろうか、天国は本当に存在するのだろうか、報いというものは本当にあるのだろうか、といったことを人が益々知りたくなるのは、この時点です。人は死に近付けば近付くほど、人生とは何かを知りたい気持ちが強くなります。死が近付けば近付くほど、人の心は益々空虚になり、無力感が強くなるので、死に対する恐れが日々強くなります。人々が死に近付く時にこのような感情が表れる理由は二つあります。一つ目には、自分の人生を依存してきた富と名声を失いつつあり、この世の目に見える物事すべてを置き去りにしようとしていることです。二つ目には、愛する人々や支援の手段が存在しない、足を踏み入れるのが不安になるような、馴染みのない世界、謎に包まれた未知の領域にただ独りで立ち向かおうとしていることです。この二つの理由のため、あらゆる人は死に直面すると、不安になり、それまで決して知ることのなかった混乱と無力感を覚えます。人々は、実際にこの時点になって初めて、人がこの地上に足を踏み入れた時にまず理解すべきことは、人間がどこから来るのか、なぜ人々は生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に糧を施し、それを統治するのは誰であるのかということだと知るのです。これらを理解していることは人が生きるための真の手段となり、人間の生存に不可欠な基盤となります。それは、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知ることでもなければ、人々よりも卓越した存在となる方法や一層豊かに生活する方法を知ることでもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を学ぶことなどでもありません。生涯をかけて習得する生存のための様々な技能により、人々は物質的な快楽を豊富に得ることができるものの、そうした技能は決して人の心に真の平和と慰みをもたらすことはなく、むしろ絶えず人間に道を踏み誤らせ、自分を掌握するのを難しくさせ、人生の意味を知る機会を一つ残らず失わせます。これら生存のための技能は、然るべく死を迎えるにはどうすれば良いかということに対して漠然とした不安を生み出します。こうして、人々は人生を台無しにするのです。創造主は、あらゆる人を平等に扱い、生涯にわたり創造主の統治を経験し、知る機会を与えるにもかかわらず、人は、死が近づき、自分に死の恐怖が差し迫って初めて光が見えるようになり、その時は、既に手遅れなのです。
人々は、金銭と名声を追い求めて人生を過ごします。それらがあれば、生き長らえて死を免れるとでもいうように、金銭と名声が唯一の支えだと考え、それらの藁にしがみつくのです。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独で無力であり、進退窮まった状態にあるかを悟ります。人間は、いのちは金銭や名声で買うことができないこと、いかに裕福であっても、いかに高い地位であっても、死を前にした人間は皆同様に貧しく取るに足らない存在であることを悟ります。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭や名声では、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを悟ります。それを強く感じれば感じるほど、人々は生きていたいと切に願う気持ちが強くなり、死が近付くのを一層恐れます。この時点で初めて、人々は、自分のいのちが自分自身のものではなく、自分で制御できるものではないこと、自分が生きるか死ぬかについて、自分自身は発言権がないこと、そうしたことが自分の制御できる範囲外にあることを、真に理解します。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 131
創造主の統治を受け、安らかに臨終を迎える
人が生まれる時、一つの孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活、創造主の権威を経験し始めます。これが、その人物、すなわちその魂にとって、創造主の統治に対する認識を得て、創造主の権威を知るようになり、それを自ら経験するにあたり格好の機会となることは言うまでもありません。人々は、創造主が人々のために定めた運命の法則に基づいて生活します。道理をわきまえた良心のある人にとって、数十年にわたる人生の中で創造主の統治を受け容れるとともに創造主の権威を知ることは、それほど困難なことではありません。したがって、数十年にわたる自分の人生経験の中で、万人の運命は予め定められていることを認め、生きることの意味を把握あるいは概括することは、誰にとっても極めて容易なはずです。こうした人生の教訓を取り入れるうちに、人は、いのちがどこから来るかを次第に理解するようになるとともに、心が本当に必要とするものは何か、人を真の人生の道へと導くものは何か、人生の使命や目標であるべきものは何かを次第に把握するようになります。人は、自分が創造主を拝まず、創造主の統治を受けない場合、死に直面する時が来たとき、すなわち、その魂が再び創造主に対面するとき、その心は無限の恐怖と動揺でいっぱいになるだろうということを次第に認識します。人がこの世に数十年存在してきたにもかかわらず、人間のいのちがどこから来るかを知らず、人間の運命が誰の掌中にあるかを認識せずにいるのであれば、安らかに臨終を迎えられないのは当然です。数十年の人生経験の中で創造主の統治に対する認識を得た人は、人生の意味と価値を正しく理解している人です。そのような人は、創造主の統治を真に経験し理解する中で、人生の目的に対する深い認識を持ち、さらに創造主の権威に服従することができる人です。神による人類創造の意味や、人間は創造主を崇拝すべきであること、人間の持つあらゆるものが創造主からもたらされたものであり、近い将来に創造主へと還ることを理解しているのです。そういった人は、創造主が人間の出生を計画するとともに人間の死を支配する権利を持ち、生と死の両方は創造主の権威により予め定められているということを理解します。したがって、人は、こうした事柄を真に把握する時、自然と安らかに死を迎えることができ、この世におけるすべての所有物を穏やかに手放し、その後の物事を喜んで受け容れ、それに従うことができ、創造主が計画した人生最後の節目を、盲目的に恐れて避けようともがくのではなく、あるがままに歓迎することができるでしょう。人が、人生は創造主の統治を体験し、その権威を知る機会であると見なし、人生は創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えるのであれば、必ずや正しい人生の見通しを得て、必ずや創造主により祝福され、導かれる人生を送り、必ずや創造主の光の中を歩み、必ずや創造主の統治を知り、必ずや創造主の支配に服従し、必ずや創造主の奇跡の業の証人、その権威の証人となるでしょう。言うまでもなく、そのような人は必ずや創造主に愛され、受け容れられ、そのような人だけが死に対して落ち着いた姿勢で臨み、人生の最後の節目を喜んで歓迎することができます。死に対して明らかにこのような姿勢で臨んだ人は、ヨブです。ヨブは人生最後の節目を喜んで受け容れる準備ができており、自分の人生の旅路を穏やかに終え、自分の人生における使命を全うして、創造主の許へと還りました。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 132
ヨブは人生において追求と進歩を重ねることで、安らかな死を迎えることができた
聖句では、ヨブについて、次のように述べられています。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」(ヨブ記 42:17)。これは、ヨブが死んだ時、彼には何も後悔することがなく、苦しむこともなく、この世から自然と去ったことを意味しています。皆が知っている通り、ヨブは、生きている時分には神を畏れ、悪を避けた人間でした。ヨブの正しい行いは神より称賛され、人々の記憶に残りました。ヨブの人生は、他の誰の人生よりも価値があり、有意義であったと言えるかもしれません。ヨブは神の祝福を享受し、神はヨブを地にあって正しき者と呼び、また、ヨブは神からの試みに会い、サタンに試されました。ヨブは神を証し続け、正しき者と呼ばれるに相応しいとされました。ヨブが神の試みに会った後の数十年間、ヨブは従前にも増して価値が高く、有意義で着実で、平和な人生を送りました。ヨブの正しい行いゆえに、神はヨブを試し、ヨブの正しい行いゆえに、神はヨブの前に現れ、直接言葉を伝えました。したがって、ヨブは試された後の年月において、人生の価値を一層具体的に理解し、認識し、創造主の統治を一層深く理解し、創造主がどのように祝福を与え、奪うかについて、一層正確かつ確実な認識を得ました。ヨブ記には、ヨブに対してヤーウェ神がそれ以前よりも大きな祝福を与えるとともに、ヨブが創造主の統治を知り、安らかに死と直面する上で更に有利な立場にヨブを立たせたことが記されています。したがって、ヨブが老いて死を迎えた時、自分の財産について懸念しなかったことは確実でしょう。ヨブには心配も後悔もなく、無論死に対する恐れもありませんでした。なぜなら、ヨブは生涯を通して神を畏れ、悪を避けて生活したからです。彼には、自分の最期を懸念する理由がなかったのです。現在、死に直面した時のヨブのように行動できる人々がどれだけいるでしょうか。なぜ、誰もこうした簡単な態度を示すことができないのでしょうか。その理由はただ一つです。すなわちヨブは、神の統治に対する信念、認識、服従を主観的に求めて人生を過ごし、ヨブはこうした信念と認識、服従をもって人生の重要な節目を経験し、晩年を過ごし、人生の最期の節目を迎えました。ヨブが経験した事柄を問わず、ヨブの人生における追求と目標は苦痛ではなく、幸福でした。ヨブが幸福であったのには、創造主がヨブに与えた祝福や称賛のみならず、より重要な理由がありました。それは、ヨブの追求と人生の目標、神を畏れ、悪を避けることで得た、創造主の統治に対する漸進的な認識と真の理解、そして更には、ヨブが人生において、創造主の統治の対象として個人的に体験した創造主の驚くべき業、そして人間と神の共存、面識、相互理解に関する、暖かくも忘れがたい経験と記憶です。創造主の旨を知ることでもたらされる慰めと幸福、そして、神の偉大さ、驚異性、愛すべき存在、忠実性を理解した後に生まれた崇敬の念があるからこそ、ヨブは幸福だったのです。ヨブが一切苦しむことなく死を迎えることができた理由は、ヨブは死ぬことで創造主の許に還ることを知っていたことにあります。そして、ヨブの人生における追求と進歩があったからこそ、ヨブは安らかに死を迎えることができ、創造主がヨブのいのちを取り戻そうとすることに冷静な気持ちで向き合うことができ、さらには汚れのないまま、懸念することなく神の前に立つことができたのです。現在の人々はヨブが手に入れたような幸福を掴むことができるでしょうか。あなたがた自身は、そうした幸福を掴む条件を備えていますか。今日の人々は確かにそうした条件を備えていますが、それでは、なぜヨブのように幸福に生きられないのでしょうか。なぜ彼らは死の恐怖の苦悩から抜け出せないのでしょうか。死に直面した時、失禁したり、震えたり、気絶したり、天と人間を区別なく非難したり、中には号泣したり、むせび泣いたりする人々もいます。こうした反応は、決して死が近付いた時に突然現れるものではありません。人間がこうした気恥ずかしい行動を取る主な理由は、心の奥底で死を恐れていること、神の統治と采配に対する明瞭な認識や経験がなく、ましてやそれに心から服従することなどないことにあります。人々は、あらゆる物事を自ら計画して管理し、自分の運命や人生、死を自ら制御することしか望まないがゆえに、こうした反応をするのです。したがって、人々が決して死の恐怖から逃れることができないのは当然です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 133
人間は、創造主の統治を受け容れることによってのみ、創造主の許に戻ることができる
人に、神の統治や采配に関する明瞭な認識や経験がない場合、その運命や死に関する認識はつじつまの合わないものにならざるを得ません。人々は、すべては神の掌中にあることを明確に見ることができず、すべては神の支配と統治の下にあることに気付くこともなければ、その統治から脱したり逃れたりできないことを理解することもありません。そのため、死を迎える時期になると、彼らの最期の言葉や懸念、後悔は尽きることがないのです。彼らは、過剰な重荷、過剰な嫌気、過剰な困惑に潰されそうになっています。彼らが死を恐れる原因はそこにあります。この世に生を受けたあらゆる人にとって、出生は必然であり死は不可避であり、誰一人としてその過程を超越することはできません。苦痛を感じることなくこの世から去りたい、抵抗や懸念なく人生最後の節目と直面したいと願うのであれば、その唯一の方法は、後悔を残さないようにすることです。そして、後悔せずに他界する唯一の方法は、創造主の統治を知り、その権威を知り、それらに服従することです。人は、この方法によってのみ、人間同士の不和、邪悪、サタンの拘束から離れることが可能となり、この方法によってのみ、ヨブのように創造主に導かれ、祝福される人生、自由で解放された人生、価値と意義のある人生、正直で率直な人生を送ることが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように創造主により試され、奪われるに従い、創造主の指揮と采配に服従することが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように生涯を通して創造主を崇拝し、創造主の称賛を得て、創造主の声を聞き、創造主が現れるのを目撃することが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように、苦痛や懸念、後悔なく幸福に生活して幸福に死ぬことが可能となります。この方法によってのみ、ヨブのように光の中に生き、光の中にあって人生の一つひとつの節目を過ごし、光の中にあって穏やかに人生の旅路を終え、造られた人間として創造主の統治を経験し、学び、知るという自らの使命を果たし、光の中に死んで、造られた人間として、永遠に創造主の許にあり、創造主の称賛を受けることが可能となるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 134
創造主の統治を知る機会を逃してはならない
人生を構成する数十年間は短くもあり長くもあります。出生から成人までの二十年余りは瞬く間に過ぎ去り、人生のこの時点で人は成人とみなされるものの、この年頃の人々は、人生や人間の運命に関して、ほぼ何も知りません。彼らは多くの経験を重ねながら、次第に壮年期へと移行します。三十代と四十代の人々は人生と運命に関する初期的な経験を得ますが、それらの物事に対する彼らの認識は依然として極めて曖昧です。四十歳になって初めて、一部の人は、神が造った人類や宇宙について理解し始めるとともに、人生とは何たるか、人間の運命とは何たるかについて把握し始めます。長年にわたり神に付き従い、現在、壮年に達している人の中には、神の統治に対する正確な認識や定義を持たず、ましてや真の服従については知る由もないという人々がいます。祝福を受けることを求めるのみで、それ以外のことには関心を向けようとしない人々もおり、そうした人々は長年生きてきたにもかかわらず、人間の運命を創造主が統治しているという事実に対する認識や理解を少しも持たず、神の指揮や采配に服従することについて実践経験を積もうとすることが少しもありません。そのような人々は完全に愚鈍であり、人生を無駄に過ごしています。
人生経験と人間の運命というものを人々がどの程度認識しているかに基づいて人間の生涯を区分すると、大まかに三つの段階に分けられます。第一段階は出生から壮年あるいは三十歳になるまでの青年期です。第二段階は壮年から老年あるいは三十歳から六十歳までの熟年期です。第三段階は、老年期あるいは六十代から他界するまでの晩年期です。言い換えれば、出生から壮年に至るまでは、運命や人生に対する大半の人々の認識は、他人の考えを踏襲するに留まるもので、その考えの中に現実的、実践的な部分は全くないに等しいです。この時期においては、人生観や、他者との付き合い方は、総じて極めて表層的で、未熟です。これが人の青年期です。人生の喜びや悲しみをすべて味わって初めて、人は運命を真に理解し、潜在意識で、そして心の奥底において、運命の不可逆性を徐々に認識し、人間の運命に対する創造主の統治が実際に存在することを少しずつ認識します。これが人間の熟成期です。運命に対抗して苦戦するのを止め、争いに巻き込まれるのを厭うようになり、むしろ、自らの人生における運命を知り、天の意に服従し、自分の人生における功績と失敗を概括し、人生に対する創造主の裁きを待つ時、人は完熟期に入ります。こうした三段階の期間において人間が得る様々な経験や進歩を考慮すると、通常の状況では、創造主の統治を知る機会はそれほど多くありません。人が六十歳まで生きる場合、人が神の統治を知るための期間は三十年ほどしかありません。人がそれよりも長い期間を望むのであれば、長生きして百年生きられる場合のみ、それは可能となります。それゆえ、人が創造主の統治を知るという問題に初めて直面する時から、創造主の統治という事実を認めることができるようになり、その後、それに服従することができるようになるまでの過程は、極めて長期的な過程です。しかしながら、人間の平均寿命に基づいて実際にその年月を数えてみると、人がこうした恩恵を受け取れる機会は、わずか三十年ないし四十年程度しかないと言えます。しかるに、人々は、祝福を得るという自らの願望や大望に夢中になるため、人生の本質が何処にあるかを見分けることができず、創造主の統治を知ることの重要性を把握できないということが往々にしてあります。そのような人々は、人間の世界で人間の生活を送って創造主の統治を経験するという貴重な機会を大切にせず、創造主より各個人に向けた導きを享受することが造られた人間にとってどれほど貴重であるかを認識することもありません。したがって、創造主の実の姿を直ちに直接見て、できるだけ早く祝福を得ることができるよう、神の働きが迅速に終わり、神が人間の終りの時をできるだけ早期に計画することを望む人々は、最も重い反逆の罪の裁きを受ける究極的に愚かな人々であると言えます。その一方、限られた時間に、創造主の統治を知るという唯一の機会を得ることを望む人々は、この上なく鋭敏な精神を備えた聡明な人々です。これら二通りの異なる願望により、二通りの全く異なる見解と追求が浮き彫りになっています。祝福を求める人々は自己中心であり、卑劣であり、神の旨に対する配慮を全く示さず、決して神の統治を知ろうとも、それに従おうともせず、単に自分の好きなように生きることを望みます。彼らは軽率な堕落者であり、滅ぼされるべき種類です。神を知ることを望む人々は、自分の欲望を捨てることが可能であり、神の統治と采配に進んで服従し、神の権威に従順であるとともに神の望みを満たす側の人になろうとします。そのような人々は光と神の祝福の真っただ中に生活し、確実に神の賞讃を享受します。いかなる場合であっても、人間による選択が役に立つことはなく、神の業がどのくらいの期間を要するかについて人間が干渉することはできません。人間にとって、自らを神の采配に委ね、神の統治に服従する方が良いのです。あなたが自らを神の采配に委ねないとしたら、あなたに何ができますか。神に損害が及びますか。神の采配に自らを委ねずに、自らが担い手になろうとした場合、あなたの選択は愚かであり、最終的に損害を被るのはあなたです。人間ができる限り早く神に協力し、神の采配を受け容れ、神の権威を知り、人間に対する神の業のすべてを理解した場合に限り、人々には希望があります。この方法によってのみ、人間は人生を無駄に生きることなく、救いを得るでしょう。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 135
神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることができない
神の権威の下では、あらゆる人が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け容れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど歪んだ道を歩んだとしても、結局は創造主が彼らのために定めた運命の軌道に戻ります。これが創造主の権威の凌駕することが不可能であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法です。万物のいのちを支配する法則を担い、妨害されることなく人間が何度も生まれ変わることを可能とし、毎日、毎年、世の中を規則正しく変化させ、進歩させているのは、この凌駕不可能な性質と、この形態による制御と支配です。あなたがたは、こうした事柄のすべてを目のあたりにし、表面的に理解しているか、あるいは深く理解しています。理解の程度は、真理に関する自分の経験と認識、そして神に対する自分の認識により異なります。真理現実をどの程度知っているか、神の言葉をどの程度経験しているか、神の実質と性質をどの程度知っているか、これらすべてが、神の統治と采配に対するあなたの理解度を示しています。神の統治と采配の存在は、人類がそれらに服従しているかどうかに依存していますか。神にこの権威があるという事実は、人間がそれに服従するかどうかにより決まるものですか。神の権威は、状況を問わず存在するのです。すべての状況において、神はあらゆる人間の運命と万物を、神の考えと望みに従って支配し、計画します。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変わることがありません。なぜなら、神の権威は、神の実質そのものだからです。人間が神の統治を知って受け容れられるかどうか、そしてそれに服従できるかどうか、神による人間の運命の統治という事実に一切影響しないものです。つまり、神の統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実は絶対に変わることがないのです。たとえあなたが神の統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神の統治を知ることができなくても、神の権威は依然として存在します。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることのないものです。神の権威はあらゆる場所にあり、いつでも、どの瞬間にも存在します。天と地がなくなるとしても、神の権威は決してなくなりません。なぜなら、神は神自身であり、神には唯一無二の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからです。神は、これまでと同様に、常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営の働きを継続します。神は、これまでと同様に、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮します。誰もこれを変えることはできません。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けています!
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 136
神の権威に服従することを望む人の適切な姿勢と行動
神の権威と、神が人間の運命を統治しているという事実を、人間はどのような姿勢で自覚し、考えるべきでしょうか。これはあらゆる人の前に立ちはだかる真の問題です。現実の問題に対処する時、神の権威と神の統治をどのように知り、理解すべきでしょうか。あなたがこうした問題に直面した時、それらをどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、神の統治と采配に服従するという意向、願望、服従しているという事実を、あなたはどのような姿勢で示すべきでしょうか。あなたは、まず待つこと、次に追い求めること、その後に従うことを覚える必要があります。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の思いが徐々に明示されてゆくのを待つことです。「追い求める」とは、神が計画した人々、出来事、物事を通して、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事を通して真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、神は人間の中にどのような結果を実現させようとしているか、人間の中に何を達成させようとしているかを理解することです。当然ながら、「従う」とは、神が周到に準備した人々、出来事、物事を受け容れ、神の統治を受け容れることであり、それらを受け容れることを通して、創造主が人間の運命をどのように支配しているか、神はどのようにして人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることです。神の采配と統治の下にあるすべての物事は自然の法則に従っており、あなたが自らのすべてを神の采配と支配に委ねると決心したのであれば、あなたは待つこと、追い求めること、従うことを学ぶべきです。これこそが、神の権威に服従することを望むあらゆる人が取るべき姿勢であり、神の統治と采配を受け容れることを望むあらゆる人に備わっているべき基本的な資質です。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要です。そうした努力をして初めて、あなたがたは真の現実に入ることができるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 137
自分の唯一の主として神を受け容れることが、救いを得る第一歩である
神の権威に関する真理とは、あらゆる人が真剣に取り扱い、心で経験して理解すべきです。なぜなら、こうした真理は、あらゆる人の人生、あらゆる人の過去、現在、そして未来と関係があるとともに、人生においてあらゆる人が通らなければならない非常に重要な節目、神の統治に対する人の認識、そして神の権威に対して人が取るべき姿勢と関係があり、当然ながら、あらゆる人の終着点と関係があるためです。したがって、それらを知り、理解するには、一生涯の努力が必要なのです。あなたが神の権威を真っ直ぐに見つめ、神の統治を受け容れる時、あなたは、神の権威が実在することに次第に気付き、理解するようになります。しかし、神の権威を認めず、神の統治を受け容れないならば、あなたが何年生きようとも、神の統治について少しも認識を得ることはないでしょう。神の権威を真に知って理解することがないのであれば、終着点に到達した時に、それまで何十年神を信じていようとも、人生において何も尽すものがなく、当然ながら、人間の運命への神の統治に対する認識は皆無となります。それは非常に悲しいことではないでしょうか。それゆえに、人生の道をどの程度歩んで来たか、現在何歳か、残りの旅路がどの程度あるかを問わず、まず神の権威を認め、それを真剣に捉え、神が自分の唯一の主であるという事実を受け容れなければなりません。人間の運命への神の統治に対する明瞭かつ正確な認識と理解を得ることは、あらゆる人にとって必須の経験であり、人生を知り真理を得るための鍵です。神を知る人生とは、生涯学習の基本であり、あらゆる人が日々直面し、避けることのできないことなのです。この目標を達成する近道を通りたいと思う人がいるなら、わたしはこう言います、それは不可能です! 神の統治から逃れたいのであれば、それはなおさら不可能です! 神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主であり、それゆえに、人間にとって自分の運命を決定することは不可能であり、神の統治から抜け出すことは不可能です。人の能力が如何に優れていようとも、人は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、采配したり、制御したり、変更したりすることはできません。人間のすべてを支配するのは、唯一無二の神自身のみです。なぜなら、人間の運命に対する統治権を握る唯一の権威があるのは、唯一無二の神自身のみであり、創造主こそが人間の唯一の主だからです。神の権威は、創造物である人間だけでなく、人間には見えない非創造物、惑星、宇宙に対する統治権をも握っています。これは異論の余地のない事実、実在する事実であり、人や物が変えることのできない事実です。もし、現在の状態に不満であり、自分には何らかの特別な技能や能力があると考え、運が良ければ現状を変えたり現状から逃れられたりすると考えている人や、人間の力で自分の運命を変えようとしたり、他人よりも卓越し、名声と富を得ようとしている人がいるならば、わたしは言いましょう、あなたは自ら物事を困難にし、災難を招くようなことをして、墓穴を掘っていると。遅かれ早かれ、ある日、あなたは自分が選択を誤っていること、無駄な努力をしてきたことに気付くでしょう。運命に立ち向かうあなたの野心と欲望、大それた行動は、あなたを引き返せない道へと導き、そのために辛い代償を払うことになるでしょう。現在、あなたがその結果の重大性を理解しておらずとも、神が人間の運命の主であるという真理を一層深く経験し、正しく認識するにつれ、本日わたしが話したこととその真意を徐々に理解するでしょう。あなたに真の心と霊があるか、あなたが真理を愛する人であるかは、神の統治と真理に対して、あなたがどのような姿勢を取るかにより決まります。そして必然的に、その姿勢により、あなたが神の権威を真に知り、理解しているかが決まります。人生において神の統治と采配を感じたことがなく、ましてや神の権威を認め、受け容れたことなどないのであれば、あなたは全く無価値であり、あなたが選んだ道と選択肢のために、神に嫌悪され拒絶される対象となることは間違いありません。しかし、神の業により、神からの試練と神の統治を受け容れ、神の権威に服従し、徐々に神の言葉に関する真の体験を得る人々は、神の権威に対する真の認識と神の統治に対する真の理解を得て、真に創造主に従う人となるでしょう。真に救われるのは、そのような人々のみです。彼らは、神の統治を知り、それを受け容れたため、人間の運命への神の統治に対する彼らの認識と、その統治への彼らの服従は、真正かつ正確なのです。彼らが死に直面する時、ヨブのように死を恐れない精神を得て、個人的な選択や個人的な願望をもつことなく、すべての物事において神の指揮と采配に従うことができるでしょう。そのような人だけが、真の創造物である人間として、創造主の許へと還ることができるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 138
人間に対するヤーウェ神の命令
創世記 2:15-17 ヤーウェ神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。ヤーウェ神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
女を惑わすへび
創世記 3:1-5 さてヤーウェ神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。そしてへびはその女に言った。「あなたがたは必ずしも死ぬわけではありません。いつかそれを食べる日、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のように善悪を知ることを、神は知っているからです」。
これら二節は、聖書の創世記からの抜粋です。あなたがたはみな、これらの聖句に馴染みがあるでしょうか。これは、人類が最初に造られたときに起きた出来事に関係しており、それらの出来事は実際のものです。まず、ヤーウェ神がアダムとエバにどのような命令を与えたのかを見てみましょう。この命令の内容は今日の話題にとって極めて重要だからです。「ヤーウェ神はその人に命じて言われた、『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。この聖句における神の人間への命令には、どのような内容が含まれているでしょうか。まず、神は人間に食べてよいものを伝えました。つまり、様々な木になっている果実です。危険も毒もなく、また不安や疑念を抱く必要もなく、望むままに好きなだけ食べることができます。これが神の命令の一部分です。もう一つの部分は警告です。この警告の中で、神は人間に対し、善悪の知識の木からその実を取って食べてはならないと告げています。その木から実を取って食べると、何が起きるでしょうか。神は人間に「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」と言いました。この言葉は実に率直ではありませんか。神があなたにそう告げたものの、それがなぜなのかが分からなければ、その言葉を従うべき規則や命令と見なすでしょうか。そうした言葉には従わなければなりません。しかし、人間が従えるかどうかに関係なく、神の言葉は明確です。食べてよいもの、食べてはならないもの、そして食べてはならないものを食べるとどうなるかを、神は人間に極めて明瞭に述べました。神が述べたこの短い言葉に、神の性質を何か認識できるでしょうか。この神の言葉は真実でしょうか。何か欺瞞があるでしょうか。何か虚偽があるでしょうか。何か脅しがあるでしょうか。(いいえ。)神は人間に対し、正直に、誠実に、そして真摯に、食べてよいものと食べてはならないものを伝えました。明瞭かつ簡潔に語ったのです。この言葉の中に、隠された意味があるでしょうか。この言葉は率直ではないですか。推測する必要があるでしょうか。推測する必要はありません。言葉の意味は一目見れば明瞭であり、読むとすぐに、その意味を完全にはっきり理解できます。つまり、神が述べたいこと、神が表現したいことは、その心から出るのです。神が表現することに混じりけはなく、率直かつ明瞭です。そこに隠れた動機や意味などはありません。神は人間に直接語り、食べてよいものと、食べてはならないものを伝えます。つまり、神のこの言葉から、神の心が透明で、かつ真実であることを、人間は理解するのです。ここに偽りなどみじんもなく、食べられるものを食べてはならないと言ったり、食べられないものについて「食べて、どうなるか見てみなさい」などと言ったりはしません。神はそのようなことを意味しません。心の中で考えることが何であれ、それが神の述べることです。神は聖い、なぜならこれらの言葉の中で、このようにして自身を示し、表すのだから、とわたしが言えば、あなたはおそらく、わたしは些細なことを大げさに述べているとか、それは言い過ぎだなどと感じるかもしれません。もしそうなら、心配することはありません。話はまだ終わっていないのですから。
ここで、「女を惑わす蛇」について話をしましょう。この蛇は誰のことですか。サタンです。六千年にわたる神の経営計画において、サタンは引き立て役であり、それは神の聖さについて交わるときに触れなければならない役割です。わたしがこう述べるのはなぜですか。サタンの邪悪さや堕落、あるいはサタンの本性を知らなければ、聖さを認識することも、聖さとは実際に何かを知ることも決してできません。人間は困惑し、サタンの行うことが正しいと思い込みます。なぜなら、人間はそうした堕落した性質の中で生きているからです。引き立て役がなく、比較すべきものもなければ、聖さとは何かを知ることはできません。ここでサタンに触れる必要があるのはそのためです。それについて触れることは決して無駄話ではありません。わたしたちはサタンの言動から、サタンがどのように行動し、どのように人類を堕落させ、どのような本性を持ち、どのような顔つきであるかを見ることができます。では、女は蛇に何と言いましたか。女は、ヤーウェ神が彼女に言ったことを蛇に説明しました。その言葉を言ったとき、その女は、神が自分に言ったことは真実だと確信していたでしょうか。女は確信することができませんでした。新たに造られたばかりの者であるその女には、善と悪を見分ける能力がなく、自分の周囲にあるものを認識することもできずにいたのです。女が蛇に語った言葉から判断すると、女は心の中で、神の言葉が正しいことを確信していませんでした。それが女の態度だったのです。そこで、女が神の言葉に対して不確かな態度を取っていることを見てとった蛇は、「あなたがたは必ずしも死ぬわけではありません。いつかそれを食べる日、あなたがたの目が開かれ、あなたがたが神のように善悪を知ることを、神は知っているからです」と言いました。この言葉に何か問題があるでしょうか。この一文を読んで、あなたがたは蛇の意図を感じ取れるでしょうか。その意図はどういったものですか。蛇はこの女を惑わし、神の言葉に耳を傾けるのをやめさせようとしましたが、そうしたことを直接話したのではありませんでした。ゆえに、蛇は極めて狡猾だと言うことができます。人間に気付かれないよう心の中に秘めている、自身の意図する目的を果たすために、その意味をずる賢く曖昧な方法で表現するのです。これが蛇の狡猾さです。サタンはいつもこのように話し、行動してきました。蛇は「必ずしもそういうわけではない」という言い方をして、こうなるとも、ああなるとも断言しません。しかし、この話を聞いて、この無知な女の心は動きました。言ったことが望みどおりの効果をもたらしたので、蛇は喜びました。これが蛇の狡猾な意図だったのです。さらに、「いつかそれを食べる日、あなたがたの目が開かれ」と述べ、人間にとって望ましく思われる結果を約束して、女を惑わしました。そこで女は「わたしの目が開くのはよいことだ」と考えました。すると蛇は、さらに魅力的なこと、すなわち人間がそれまで知らなかった、聞く者を強く惹きつける言葉を話しました。すなわち「あなたがたが神のように善悪を知る」と言ったのです。この言葉は、人間にとって極めて誘惑的ではないですか。それはまるで、誰かがあなたに、「あなたの顔の形はすばらしい。ただ、鼻がわずかに低いだけだ。それを直せば世界的な美人になるだろう」と言うようなものです。整形手術をしたいと思ったことがない人は、このような言葉を聞いて心が動くでしょうか。この言葉は人を惹きつけるでしょうか。この誘惑は、あなたにとって魅力的でしょうか。これは惑わしではないでしょうか。(はい、惑わしです。)神がこのようなことを言うでしょうか。たったいま読んだ神の言葉に、このようなものが少しでもあったでしょうか。神は心で考えることをそのまま述べるでしょうか。人は神の言葉を通して神の心が見えるでしょうか。(はい。)しかし、蛇が女にそれらの言葉を語ったとき、あなたに蛇の心が見えましたか。いいえ、見えませんでした。人間は自身の無知のせいで、蛇の言葉にあっさり惑わされ、簡単に騙されました。では、あなたにサタンの意図が見えましたか。サタンの言葉の裏にある意図を見抜くことができましたか。サタンの策略と計略を見抜くことができましたか。(いいえ。)サタンの話し方はどのような性質を表していますか。その言葉を通して、サタンのどのような本質が見えましたか。サタンは狡猾ではないですか。おそらく表面的には、サタンはあなたに微笑みかけるか、あるいは何の表情も示しません。しかし胸中では、いかにして自分の目的を果たすかを計算しており、あなたはその目的を知ることができません。サタンがあなたにするすべての約束、サタンが説明するすべての利点は、その誘惑を覆い隠すものです。あなたは、それらの物事をよいと判断し、サタンの話すことが神の言葉よりも役に立ち、重要だと感じます。このようなことが起きると、人間は従順な囚人になるのではないでしょうか。サタンが用いたこの戦略は悪魔的ではないでしょうか。あなたは堕落へと自ら沈み込んでしまいます。サタンが指一本動かすことなく、単に二言発するだけで、あなたは喜んでサタンに従い、言いなりになってしまいます。このようにして、サタンの目的は達成されたのです。この意図は邪悪ではないでしょうか。これがサタンの本来の顔ではないでしょうか。サタンの言葉から、人間はその邪悪な動機と醜悪な顔、そしてその本質を見ることができます。そうではないですか。これらの文章を比較すると、詳しく分析するまでもなく、ヤーウェ神の言葉は退屈でありふれたつまらないものであり、神の誠実さを讃美する美辞麗句に値しないと感じるかもしれません。しかしながら、サタンの言葉と醜悪な顔を引き立て役として見てみると、この神の言葉には現在の人間にとってかなりの重みがないでしょうか。(その通りです。)この比較を通して、人間は神の純粋無垢さを感じることができます。サタンが述べる一言一句、サタンの動機、意図、そして話し方はすべて汚れています。サタンの話し方の主な特徴は何ですか。サタンは曖昧な言葉であなたを惑わし、あなたはその二枚舌を見抜くことも、その目的を識別することもできません。サタンはあなたを餌に食いつかせ、あなたはサタンを称賛し、その功績を礼賛することになります。これがサタンの常套手段ではないですか。(その通りです。)
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 139
サタンとヤーウェ神の対話 (抄出)
ヨブ記 1:6-11 ある日、神の子たちが来て、ヤーウェの前に立った。サタンも来てその中にいた。ヤーウェは言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンはヤーウェに答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
ヨブ記 2:1-5 ある日、また神の子たちが来て、ヤーウェの前に立った。サタンもまたその中に来て、ヤーウェの前に立った。ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンはヤーウェに答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
これらの二節はすべて、神とサタンの対話から成っており、神が述べたこととサタンが述べたことを記録しています。神は多くを語らず、しかも簡潔に話しました。神の簡潔な言葉の中に神の聖さを見ることができるでしょうか。それは簡単ではないと言う人もいるでしょう。ならば、サタンの返答にその醜悪さを見ることができるでしょうか。まずは、ヤーウェ神がサタンにどのような質問をしたかを見てみましょう。「あなたはどこから来たか」。この質問は明解ではありませんか。何か隠された意味があるでしょうか。いや、そのようなものはなく、これは単刀直入な質問に過ぎません。仮にわたしが「あなたはどこから来たか」と質問したなら、あなたがたはどのように答えるでしょうか。答えるのが難しい質問でしょうか。「行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」などと答えるでしょうか。(いいえ。)そのようには答えないはずです。では、サタンがこのように答えたのを見て、あなたがたはどのように感じますか。(サタンは愚かだけど、同時に狡猾だと感じます。)わたしがどのように感じているか、分かりますか。わたしはサタンのこの言葉を読むたびに嫌悪感を覚えます。サタンは話していますが、その言葉には何の実質も伴っていないからです。サタンは神の質問に答えたでしょうか。いや、サタンの言葉は答えではなく、何も生み出しませんでした。神の質問に対する答えではなかったのです。「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。あなたはこの言葉をどう理解しますか。サタンはいったいどこから来たのですか。あなたがたは答えを得たでしょうか。(いいえ。)これがサタンの狡猾さの「天分」であり、実際に何を言っているのかを誰にも突き止めさせません。サタンがすでに答え終わっていても、この言葉を聞いたあなたは、サタンが何を言ったかいまだはっきり理解できずにいます。それでもサタンは、自分は完璧に答えたと思い込んでいます。あなたはどう感じますか。嫌悪を感じますか。(はい。)あなたがたは今、これらの言葉を聞いて嫌悪を感じ始めています。サタンの言葉にはある種の特徴があります。サタンが言うことのせいであなたは頭をかきむしり、サタンの言葉がどこから生じたのかを見抜くことができません。サタンは、動機があって意図的に話すこともあれば、自身の本性に支配されてそうした言葉が勝手に生じ、サタンの口から一直線に出てくることもあります。サタンはそうした言葉をじっくり考慮したのではなく、むしろ何も考えずに表すのです。あなたはどこから来るのかと神が訊くや否や、サタンはいくつかの曖昧な言葉で答えました。あなたは大いに困惑し、サタンがいったいどこから来たのかを決して知ることがありません。あなたがたの中に、このような話し方をする人はいるでしょうか。これはどのような話し方ですか。(曖昧で、明確な答えを述べません。)このような話し方を表現するには、どういった言葉を使うべきですか。それは偽りと惑わしです。自分が前日に何をしたかを他人に知られたくない人を考えてみなさい。その人に、「昨日あなたを見かけたが、どこへ向かっていたのか」と質問をすると、その人は、どこへ行ったのかを直接答えません。むしろ、「昨日は大変な一日だった。本当に疲れ果ててしまった」などと答えるでしょう。その人はあなたの質問に答えたでしょうか。答えてはいますが、あなたの求める答えではありません。これが人間の巧妙な話し方に秘められた「天分」なのです。このような人が何を言わんとしているのか、またその言葉の根源や意図を、あなたは決して突き止められません。相手が何を避けようとしているのか、あなたには分かりません。なぜなら、彼らの心の中には独自の事情があるからです。これは陰険なことです。あなたがたの中にも、このような話し方をしばしばする者がいるでしょうか。(はい。)では、その目的は何ですか。自分の利益を守ること、あるいは自分の自尊心、地位、体面を保つこと、私生活の秘密を守ることが目的ですか。目的が何であれ、それは自分の利益と不可分であり、利益に結びついています。これが人間の本性ではないのですか。このような本性を持つ人はみな、サタンの家族ではなくても、密接に結びついています。そのように言えるでしょう。そうではないですか。一般的に、こうした表れは嫌悪される忌まわしいものです。あなたがたも今、嫌悪を感じているはずです。(はい。)
聖句の続きを見てみましょう。サタンは再びヤーウェの質問に答えて「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」と述べています。サタンはヤーウェによるヨブの評価を攻撃し始めますが、この攻撃は敵意の色を帯びています。「あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか」。これが、ヨブに対するヤーウェの働きの、サタンによる理解と評価です。サタンはこのように評価し、「あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言います。サタンは常に曖昧な話し方をしますが、ここでは明確に述べています。しかし、明確に述べられたとはいえ、これらの言葉はヤーウェ神、そして神自身に対する攻撃であり、冒涜であり、反抗的な行為です。これらの言葉を聞いて、あなたがたはどう感じるでしょうか。反感を抱くでしょうか。サタンの意図を見抜けるでしょうか。まず何より、神を畏れて悪を避ける人間、すなわちヨブに関するヤーウェの評価を、サタンは否定しています。次に、ヨブの言動をすべて否定しています。つまり、ヤーウェに対するヨブの畏れを否定しているのです。これは非難ではないですか。サタンは、ヤーウェの言動をすべて非難し、否定し、疑っています。サタンはまったく信じず、「そのようなことを言うならば、どうしてわたしがそれを目撃していないのか。あなたはヨブに多くの祝福を与えたのだから、どうしてヨブがあなたを畏れずにいられようか」と言います。これは神の業をすべて否定しているのではないですか。非難、否定、冒涜など、サタンの言葉は攻撃ではないですか。サタンが心で考えることを真に表すものではないですか。これらの言葉は、先に読んだ「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」という言葉と決して同じではなく、まったく違うものです。これらの言葉を通して、サタンは心の内、すなわち神に対する態度と、ヨブの神への畏れに対する嫌悪を完全に露わにしています。この時、サタンの悪意と邪悪な本性が完全に暴かれるのです。神を畏れる者、悪を避ける者、そしてそれ以上に、人間に祝福を与えるヤーウェを、サタンは嫌悪します。サタンは、神が手ずから育てたヨブをこの機会に滅ぼしたいと考え、「ヨブはあなたを畏れ、悪を避けるとあなたは言うが、わたしはそう思わない」と言います。サタンは様々な方法でヤーウェを挑発して試しつつ、ヤーウェ神がヨブをサタンに引き渡し、サタンの意のままに翻弄させ、傷つけさせ、虐待させるよう、様々な策略を駆使します。サタンは、神の目から見て義であり完全なヨブを、この機会を利用して滅ぼしたいのです。サタンがこのような心を持つのは、一時的な衝動のせいでしょうか。いや、そうではありません。これは以前から長く続いてきたことなのです。神が働きを行い、人を慈しみ、その人を見守るとき、そして神がその人に好意を示して認めるとき、サタンはすぐ後をつけ、その人を騙して害をもたらそうとします。神がその人を得たいと望むと、サタンはあの手この手で神の邪魔をし、様々な邪悪な企みで神の働きを試し、妨害し、傷つけようとしますが、それは自身の密かな目的を達成するためです。その目的とは何ですか。神が誰かを得ることを、サタンは欲していません。サタンは、神が得たいと望む人を奪って我が物とし、彼らを支配し、掌握することで、彼らにサタンを崇拝させ、自身と共に邪悪なことを行わせ、神に抵抗させたいのです。これがサタンの悪意に満ちた動機ではないでしょうか。あなたがたは、サタンは邪悪であまりにひどいとよく言いますが、それを見たことはありますか。あなたがたは、人類がいかにひどいかということは目にできますが、実際のサタンがどの程度ひどいかを見たことはありません。しかしヨブの件においては、サタンがいかに邪悪かをはっきり見ています。この件によって、サタンの醜悪な顔つきと本質が極めて明瞭になっています。神と戦い、神をつけ回すサタンの目的は、神が行おうと望む働きをすべて粉砕し、神が得ようと望む者たちを占有して支配し、完全に消滅させることです。消滅させられることがなければ、彼らはサタンのものとなり、サタンに用いられます。これがサタンの目的です。では、神はどうするのでしょうか。この聖句では、神は簡潔な言葉を言うだけです。神がそれ以外に言ったことの記録はありませんが、サタンの言動についてはそれ以外にも、多数の記録があることが分かります。続く聖句で、ヤーウェがサタンに「あなたはどこから来たか」と訊ねます。サタンは何と答えましたか。(ここでも「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」と答えています。)ここでも同じ言葉です。それがサタンの標語、サタンのしるしとなったのですが、いったいどういうわけでしょうか。サタンは憎しみに満ちてはいませんか。この忌まわしい言葉は、一度口にするだけで十分です。なぜサタンはひたすらそれを繰り返すのでしょうか。これはあることを証明しています。つまり、サタンの本性は不変だということです。サタンは仮面を被って自身の醜悪な顔を隠すことができません。神はサタンに質問し、サタンはそのような答え方をします。そうであるなら、サタンが人々をどう扱うか想像してみなさい。サタンは神を怖がることも、畏れることもなく、神に服従することもありません。そのため、神の前でも無闇に厚かましく、同じ言葉を使って神の質問をはねつけ、同じ答えを繰り返し、その答えによって神を困惑させようと試みます。これがサタンの醜悪な顔なのです。サタンは神の全能を信じず、神の権威を信じず、神の支配に進んで服従するなど間違ってもあり得ません。サタンは絶えず神に敵対し、神が行うすべてのことをひたすら攻撃し、神が行うすべてのことを粉砕しようとしています。これがサタンの邪悪な目的なのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 140
サタンとヤーウェ神の対話 (抄出)
ヨブ記 1:6-11 ある日、神の子たちが来て、ヤーウェの前に立った。サタンも来てその中にいた。ヤーウェは言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンはヤーウェに答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。サタンはヤーウェに答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
ヨブ記 2:1-5 ある日、また神の子たちが来て、ヤーウェの前に立った。サタンもまたその中に来て、ヤーウェの前に立った。ヤーウェはサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンはヤーウェに答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
ヨブ記に記されているように、サタンが発した言葉のこれら二節と、サタンが行ったことは、六千年にわたる神の経営計画における、サタンによる神への反抗を表しており、ここにサタンの正体が明かされています。あなたは実際の生活において、サタンの言動を見たことがありますか。見たとしても、サタンによって語られる物事だとは思わず、人間が語る物事だと思うことがあるかもしれません。そうした物事を人間が語るとき、それは何を表していますか。それはサタンを表しています。たとえ認識したとしても、サタンが実際にそれを語っているとは気づけません。しかし、今ここで、サタン自身が語った言葉をはっきり見ました。今やあなたは、サタンの醜悪な顔つきと邪悪さをはっきりと、明確に理解したのです。サタンが述べたこれら二節は、現在の人々がサタンの本性を認識できるようにする上で、何らかの価値があるでしょうか。これら二節は、現在の人類がサタンの醜悪な顔と元来の真の顔を認識できるようになるために、慎重に保持する価値があるものでしょうか。このような言葉は適切ではないと思うかもしれませんが、こうして表現するのがやはり正確だと言えるでしょう。事実、わたしはこうした形でしかこの考えを表現できませんし、あなたがたが理解できるならそれで十分です。ヤーウェが行うことをサタンは何度も攻撃し、ヤーウェ神に対するヨブの畏れを非難します。サタンは様々な方法でヤーウェを挑発し、ヨブに対する試みをヤーウェが大目に見るように仕向けようとします。したがって、サタンの言葉には極めて挑発的な本性があります。それならば、ひとたびサタンがこれらの言葉を述べたなら、神にはサタンのしたいことが明瞭に見えるでしょうか。(はい。)神の心の中では、神が見守るヨブというこの男、この神のしもべ、神が義なる人とみなすヨブは、この種の試みに耐えられるでしょうか。(はい。)それについて、神がそれほど確信しているのはなぜですか。神は常に人間の心を調べているのですか。(はい。)サタンもまた、人間の心を調べることができますか。サタンにはできません。たとえあなたの心が見えたとしても、その邪悪な本性のために、聖さが聖さであることも、下劣さが下劣さであることも、サタンは決して信じることができません。邪悪なサタンは、聖いもの、義なるもの、光あるものを決して大切にすることができません。自身の本性と邪悪さにしたがって、また自身の常套手段を通じて、ひたすら行動せずにはいられないのです。神から懲罰を受けたり滅ぼされたりする代償を払ってでも、頑なに神に反抗することを辞さないのです。これが邪悪であり、サタンの本性です。そうしたわけで、サタンはこの聖句で、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と言うのです。神に対する人間の畏れは、人間が神から多くの利益を得ていることに起因すると、サタンは考えています。人間は神から利益を得ているので、神は善良であると言います。しかし、人間が神をそのように畏れるのは、神が善良だからではなく、人間が神から多くの利益を得ているために他なりません。神がひとたび人間から利益を奪ったなら、人間は神を見捨てます。サタンはその邪悪な本性の中で、人間の心が真に神を畏れることができるとは信じていません。その邪悪な本性のため、サタンは聖さが何かを知らず、ましてや畏れ敬うことなど知る由もありません。神に従うとはどういったことかを知らず、神を畏れるとはどういったことかも知りません。サタンはそれらの事柄を知らないので、人間も神を畏れることはできないと考えるのです。どうでしょう、サタンは邪悪ではないですか。わたしたちの教会を除き、様々な宗教や教派、あるいは宗教団体や社会団体のうち、神の存在を信じているものはなく、ましてや神が肉となり、裁きの働きを行っているとは信じていません。そのためこのような者たちは、あなたが信じているのは神でないと考えます。淫乱な人は周囲を見回し、他人もみな自分と同じくらい淫乱だと思い込みます。嘘つきが周囲を見回すと、そこには不誠実と嘘しか見えません。邪悪な人は、他人もみな邪悪であると考え、誰と出会っても争おうとします。比較的誠実な人は、他人もみな誠実であると考えるので、いつも騙され、常に裏切られ、なす術がありません。わたしがこれら少数の例を挙げるのは、あなたがたの確信を強めるためです。サタンの邪悪な本性は一時的な衝動でも、状況によって左右されるものでもなく、何らかの理由や背景から生じる一時的な徴候でもありません。絶対に違います。サタンはそのようでしかいられないのです。サタンは善良なことが一切できません。耳に心地よいことを言ったとしても、それはただあなたを誘惑するためです。心地よければよいほど巧妙であり、言葉が優しければ優しいほど、その背後に隠された腹黒い意図が悪意に満ちたものになります。これら二節において、サタンはどのような顔と本性を見せていますか。(陰険、悪意、邪悪さです。)サタンのおもな特徴は邪悪さであり、他の何にも増して邪悪で悪意に満ちています。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 141
神は人間を造り、それ以来、人類の生活を導いてきました。人類に祝福を授けるにしても、人間のために律法や神の戒めを定めるにしても、あるいは生活の様々な規則を定めるにしても、神はそれらを行う中でどういった目的を意図しているのか、あなたがたは知っていますか。まず、神が行うことはすべて人類の益のためだと、確信を持って言えますか。こうしたことは、もったいぶった空虚な言葉だと、あなたがたには思われるかもしれません。しかしそこにある詳細を検証してみると、神が行うすべてのことは、人間が普通の生活を営むように率い、導くためではないでしょうか。それによって人間が神の規則に従うようになるか、神の律法を守るようになるかにかかわらず、神の目的は、人間が転落してサタンを崇拝するようになるのを防ぐこと、そしてサタンに害されないようにすることです。これは最も基本的なことで、一番最初に行われたことです。人間が神の旨を理解していなかった最初の時、神は簡単な律法と規則を生み出し、考え得るすべての事柄を網羅する規定を定めました。これらの規定は簡単なものですが、その中には神の旨が含まれています。神は人類を大切にし、いつくしみ、心から愛しています。では、神の心は聖いと言えるでしょうか。神の心は清浄であると言えるでしょうか。(はい。)神には他の意図があるでしょうか。(いいえ。)ならば、神のこの目的は正しく、前向きなものでしょうか。神の働きの過程において、神が定めたすべての規定は人間にとって前向きな効果があり、人間のために道を導きます。では、神の念頭には利己的な考えがあるでしょうか。人間が関わるところで何か別の目的があるでしょうか。人間を何らかの形で利用したいと思っているでしょうか。そのようなことは一切ありません。神は言った通りのことを行い、その言動は心の中の思いと一致しています。何らかの目的や利己的な考えで汚されていることはありません。神が行うことはどれも自身のためではなく、何を行おうともそれは人間のためであり、自分自身の目標は一切含まれていません。神には人間を対象とする計画や意図があるものの、そのどれも自分自身のためではありません。神が行うすべてのことは純粋に人間のためであり、人類を守り、人類が誤った道へと迷い込まないようにするためのものです。神のこの心は貴重ではないですか。この貴重な心をほのめかすものが一抹でもサタンに見られますか。それをほのめかすものはサタンに一切見られません。そのようなものはまったく見られないのです。神が行うことは、すべて自然に明示されます。ここで神の働き方に目を向けてみましょう。神はどのように自身の働きを行いますか。これらの律法や言葉を、あたかも緊箍呪[a]のように、一人ひとりの頭にきつく結び付け、すべての人に強制しますか。神はそのように働きますか。(いいえ。)では、神はどのように自身の働きを行いますか。神は脅迫するでしょうか。あなたがたに語りかけるとき、回りくどい話し方をするでしょうか。(いいえ。)あなたが真理を理解できないとき、神はどのように導きますか。神はあなたに光を照らし、それをすることは真理に一致していないとはっきり伝え、それからなすべきことを明確に伝えます。神が働くこれらの方法から、あなたは神とどのような関係にあると感じますか。神は手の届かない存在だと感じるでしょうか。(いいえ。)それでは、神が働くこれらの方法を見て、どう感じますか。神の言葉はひときわ現実的で、神と人間との関係も並外れて正常です。神は極めてあなたに近く、あなたと神とのあいだに距離はありません。神があなたを導くとき、あなたに施すとき、あなたを助けて支えるとき、あなたは神の優しさと、神がかき立てる畏敬の念を感じ、神の愛おしさと温かさを感じます。では、神があなたの堕落を咎めるとき、あるいは神に背いたことについて、あなたを裁いて懲らしめるとき、どのような方法を用いますか。神は言葉で咎めますか。環境、人々、出来事、物事などを通して懲らしめますか。(はい。)神はあなたをどの程度まで懲らしめますか。サタンが人間を害するのと同じ程度まで、神は人間を懲らしめるのですか。(いいえ、神が人間を懲らしめるのは、人間が耐えられる程度までです。)神は、優しく、繊細で、愛に溢れ、思いやりのある方法で、また並外れて配慮された適切な方法で働きを行います。神の方法は、「神はわたしにこれをさせるべきだ」とか、「神はわたしにあれをさせるべきだ」といった強い感情的な反応を、あなたの中でかき立てることはありません。物事を耐えがたくするような激しい精神状態や感情を、神があなたにもたらすことはないのです。そうではないですか。神の裁きと刑罰の言葉を受け入れるときでさえ、あなたはどのように感じるでしょうか。神の権威と力を感じ取るとき、あなたはどう感じるでしょうか。神は神聖で侵せざる存在だと感じるでしょうか。そのようなとき、自分と神とのあいだに距離を感じるでしょうか。神に対する恐怖を感じるでしょうか。いや、感じません。むしろ、神に対する畏敬の念を感じます。人がそうしたことを感じるのは、神の働きのおかげではないのですか。働いているのがサタンだとしたら、人間はこうした感情を抱くでしょうか。絶対に抱きません。神は、神の言葉、神の真理、神のいのちを用いて、絶えず人間に施し、人間を支えます。人間が弱いとき、落ち込んでいるとき、神は決して厳しい言い方をしません。「落ち込むな。なぜ落ち込んでいるのか。なぜ弱いのか。何が理由で弱っているのか。あなたは常にとても弱く、いつも否定的だ。生きていることに何の意味があるのか。死んで終わりにしてしまえ」などとは絶対に言わないのです。神はこのように働くでしょうか。(いいえ。)神にはこのように振る舞う権威があるのでしょうか。そう、神にはそうした権威があります。しかし、神はそのように振る舞いません。神がそのように振る舞わないのは、神の本質、神の聖さの本質のためです。神が人間を愛し、大切にし、いつくしむことは、わずか一行や二行で明確に表現できることではありません。それは人間の誇りによってもたらされるものではなく、神が実際の実践において生み出すものです。つまりそれは、神の本質の明示なのです。神が働くこれらすべての方法によって、人間は神の聖さを見るでしょうか。神の善意、神が人間にもたらしたい効果、神が人間に働きかけるために用いる様々な方法、神が行う働きの種類、神が人間に理解させたいことなど、神が働くこれらすべての方法において、神の善意に何らかの邪悪さや狡猾さを見たことがあるでしょうか。(ありません。)ならば、神が行うすべてのこと、神が述べるすべてのこと、神が心の中で思うすべてのこと、また神が表すすべての本質において、神を聖いものと呼ぶことができるでしょうか。(はい。)この聖さを俗世において、あるいは自分自身の中に見たことがある人間はいるでしょうか。神は別として、人間やサタンの中に聖さを見たことがあるでしょうか。(ありません。)ここまでの話し合いから、神を唯一無二の聖い神自身と呼ぶことができるでしょうか。(はい。)神の言葉、神が人間に働きかける様々な方法、神が人間に語ること、人間に思い起こさせること、助言し、励ますことを含め、神が人間に施すものはすべて一つの本質に由来します。つまり神の聖さです。そのような聖い神が存在しなければ、神に代わって神の働きを行える人間は誰一人いません。神がこれらの人々をすっかりサタンに引き渡したなら、自分たち全員が今日どのような状況に置かれていたか、あなたがたは考えたことがあるでしょうか。全員無傷でここに座っていたでしょうか。あなたがたも「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」などと言うでしょうか。神の前で厚かましく、自信たっぷりに、恥ずかしげもなく、そのようなことを語り、自慢するでしょうか。疑いの余地なく、絶対にそうするでしょう。人間に対するサタンの態度により、サタンの本性実質が神のそれとまったく異なることを、人間は理解できます。サタンの本質のどこが、神の聖さと正反対なのですか。(サタンの邪悪さです。)サタンの邪悪な本性は、神の聖さと正反対です。神のこの顕示と神の聖さの本質を大部分の人が認識しないのは、彼らがサタンの支配下で、サタンの堕落の中で、サタンの生活圏の中で生きているからです。彼らは、聖さとは何かを知らず、聖さをどう定義するかも分かりません。たとえ神の聖さに気づいても、それが神の聖さであるとは断定できません。これこそ、神の聖さについて、人間の認識の中にある相違なのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」(『言葉』第2巻)
脚注
a.「緊箍呪」は中国の小説『西遊記』の中で三蔵法師が使った呪文である。三蔵法師はこの呪文を使い、孫悟空の頭にはめられた金属の輪を締め上げ、激しい頭痛を生じさせることで彼を操り支配下に置いた。そこからこの表現は、人を縛るものを表す比喩になった。
日々の神の御言葉 抜粋 142
人間に対するサタンの働きを特徴付けるものは何ですか。あなたがたは、それがサタンの典型的な特徴、繰り返し行うこと、人間一人ひとりに行おうとすることであると、自分自身の経験を通じて理解できるようにならなければなりません。あなたがたにはおそらくこの特徴が見えないので、サタンが極めて恐ろしく、憎らしいものとは感じません。この特徴が何であるか、誰か知っていますか。(サタンは人間を惑わし、誘い、試します。)その通りです。それらは、この特徴が現れているいくつかの側面です。サタンはまた、人間をたぶらかし、攻撃し、非難します。そのすべてがそこに現れているのです。それ以外に何かありますか。(サタンは嘘をつきます。)欺瞞と嘘はサタンが最も自然に行うことです。サタンはそうしたことを頻繁に行います。また、人を酷使し、駆り立て、物事を強制的に行わせ、命令し、その人を無理矢理我が物にするということがあります。これから、あなたがたを戦慄させることを説明しますが、あなたがたを怖がらせるためにそうするのではありません。神は人間に働きかけ、態度と心の両方において人間を大切にします。他方、サタンは人間をまったく大切にせず、人間をどう傷つけるかを考えることにすべての時間を費やしています。そうではないですか。サタンが人間を傷つけることを考えているとき、その精神状態は差し迫ったものでしょうか。(はい。)人間に対するサタンの働きについて言えば、サタンの邪悪さと悪意を十分に言い表し、あなたがたがサタンの憎らしさをまさに認識できるようにする二つの語句があります。人間に対する接し方において、サタンはいつも強制的に一人ひとりの人間を占有し、一人ひとりの人間に取り憑き、完全に支配して害を及ぼせるまでになります。それによってサタンの目的は果たされ、無謀な野望が満たされます。「強制的に占有する」とはどういう意味ですか。それはあなたの同意の上で起きることですか、それとも同意なしで起きることですか。あなたが知っている状態で起きることですか、それとも知らないうちに起きることですか。まったく知らないうちに起きるというのが答えです。あなたが意識していない状況において、それは起きるのです。その際、サタンはおそらくあなたに何も言わず、何も行わず、前提や背景もありません。サタンはそこにいてあなたを取り囲んでいるのです。サタンは利用する機会を探しており、それからあなたを強制的に占有し、あなたに取り憑いた上で、あなたを完全に支配して危害を加えるという目的を果たします。これが、サタンが神から人間を奪い取ろうと格闘する際の、典型的な意図と振る舞いなのです。これを聞いてどう感じますか。(心からぞっとして恐ろしいと感じます。)嫌悪を感じますか。(はい。)そうした嫌悪を感じるとき、サタンは恥知らずだと思いますか。サタンは恥知らずだと思うとき、あなたがたの周囲にいて、あなたがたを常に支配しようとする人々、地位や利益への並外れた野心を持つ人々に嫌悪を感じますか。(はい。)それでは、強制的に人間に取り憑き、占有するために、サタンはどのような方法を用いますか。あなたがたは、これについて明確に理解しているでしょうか。「強制的な占有」そして「取り憑く」という二つの語を聞くと、あなたがたは嫌悪感を覚え、これらの言葉について邪悪さを感じます。あなたの同意なしに、かつあなたが知らないうちに、サタンはあなたに取り憑き、強制的に占有して堕落させます。あなたは心でどう感じますか。憎悪と嫌悪を感じますか。(はい。)サタンのこうした方法に対して憎悪や嫌悪を感じるとき、神に対してどのような感情を持ちますか。(感謝の気持ちです。)救われたことに対する、神への感謝の気持ちです。それでは今この瞬間、自分が持つものと自分そのものをすべて神に委ね、支配させる希望や意向があなたにありますか。(はい。)どのような背景があって、そう答えるのですか。あなたはサタンに強制的に占有され、取り憑かれるのを恐れて「はい」と言うのですか。(はい。)そのような考え方は正しくないので、持ってはいけません。神がここにいるのだから、恐れることはありません。何も恐れることはないのです。ひとたびサタンの邪悪な本質を理解したなら、人間に対する神の愛、善意、憐れみ、寛大さ、そして神の義なる性質についてより正確に理解したり、もっと大切にしたりするはずです。サタンは憎しみに満ちていますが、それによって神への愛が呼び覚まされず、神にすがって委ねる気にもなれないなら、あなたはどのような人間ですか。サタンからそのように害されるのを許すつもりですか。サタンの邪悪さと醜悪さを検討したので、次に視点を変えて神について検討しましょう。神に関するあなたの認識は、何らかの変化を経ましたか。神は聖いと言えるでしょうか。神は完璧だと言えるでしょうか。「神は唯一無二の聖さである」。神はそう称するにふさわしいでしょうか。(はい。)それではこの世で、そして万物の中で、人間が神について抱く認識にふさわしいのは、神自身だけではないのですか。(はい。)ならば、神は人間にいったい何を施しますか。あなたが気づかないうちに、配慮や思いやり、気遣いを少し施すだけですか。神は人間に何を与えてきましたか。神は無条件に、何も要求せずに、隠された意図もなく、人間にいのちを与え、あらゆるものを与え、そのすべてを授けてきました。神は、真理、自身の言葉、自身のいのちを用いて人間を率い、そして導き、サタンの危害、試し、惑わしから人間を遠ざけ、人間がサタンの邪悪な本性と醜悪な顔を明瞭に見抜けるようにします。人類に対する神の愛と配慮は真実ですか。それは、あなたがたの一人ひとりが経験できることですか。(はい。)
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 143
今までの人生を振り返り、信仰生活の年月において神があなたに行ったことを顧みてみなさい。それによってかき立てられる感情が深いか浅いかにかかわらず、それは最も必要だったものではないですか。あなたが最も入手しなければならなかったものではないですか。(そうです。)それは真理ではないですか。それはいのちではないですか。(そうです。)神はかつて、あなたに啓示を授けた後、自分が授けたすべてのものの見返りとして何かを自分に与えるよう求めたことがあるでしょうか。(ありません。)それでは、神の目的は何ですか。なぜ神はこのようなことをするのですか。神にもあなたを占有するという目的があるのですか。(いいえ。)神は人間の心の中における玉座に昇りたいのですか。(はい。)ならば、神が玉座に昇ることと、サタンの強制的な占有との違いは何ですか。神は人間の心を得ること、人間の心を占有することを望んでいますが、これはどういう意味でしょうか。人間が神の操り人形や機械のようになることを、神が望んでいるということですか。(いいえ。)では、神の目的は何ですか。神が人間の心を占有したいと思っていることと、サタンが強制的に人間を占有し、取り憑くこととのあいだには、相違点があるでしょうか。(はい。)その違いは何ですか。はっきり答えることができますか。(サタンが力によってそうする一方、神は人が自主的にそうするようにします。)それが違いなのですか。神にとってあなたの心は何の役に立つでしょうか。また、神にとってあなたを占有することは何の役に立つでしょうか。あなたがたは、「神が人間の心を占有する」ことを、心の中でどのように理解しているのですか。ここで神のことをどう話すかについては、公平でなければなりません。そうしなければ、必ず人々は誤解して、「神は常にわたしを占有したがっている。神がわたしを占有したい理由は何か。わたしは占有されたくない。わたしはただ自分自身の主人でありたい。サタンは人間を占有すると言うが、神もまた人間を占有する。どちらにしても同じではないか。わたしは誰にもわたしを占有させたくない。わたしはわたし自身だ」などと考えます。ここでの違いは何ですか。しばらく考えてみなさい。あなたがたに尋ねますが、「神が人間を占有する」というのは、空虚な表現でしょうか。神による人間の占有とは、神があなたの心の中で生き、あなたの一語一句、一挙一動を支配するという意味でしょうか。神があなたに座れと言えば、あえて立とうとはしないのではないですか。神が東へ行けと言えば、あえて西には行かないのではないですか。この「占有」とは、そのようなことを指しているのですか。(違います。神は、神が持つものと神そのものを人間が生きるように望んでおられます。)神が人間を経営してきた年月のあいだ、この最後の段階における現在に至るまでの、神による人間への働きの中で、神が語ったすべての言葉は、人間に対してどのような効果をもたらすことを意図していたのでしょうか。神が持つものと神そのものを、人間が生きることですか。「神は人間の心を占有する」という言葉の文字通りの意味を検討すると、それはあたかも、神は人間の心を取り、それを占有し、そこで生きて二度と出てこないことのように思われます。すなわち神が人間の主人となり、人間の心を思いのままに支配し操作して、人間が神の命じることを何でも行なわざるを得なくさせる、ということです。その意味では、すべての人間が神となり、神の本質と性質を持てるかのように思われるでしょう。ならばこの場合、人間もまた神の業を実行することができるでしょうか。「占有」をこのように説明できるでしょうか。(いいえ。)では、それは何ですか。あなたがたに尋ねましょう。神が人間に施す言葉と真理はすべて、神の本質、および神が持つものと神そのものの顕示なのですか。(はい。)それは間違いなく真実です。しかし、神が人間に施す言葉のすべてを、神自身が実践して所有するのは、不可欠なことですか。それを少し考えてみなさい。神が人間を裁くとき、神はなぜ裁くのですか。その言葉はどのように生まれたのですか。神が人間を裁くときに語る言葉は、どのような内容なのですか。それらは何に基づいているのですか。人間の堕落した性質に基づいているのですか。(はい。)では、人間に対する神の裁きによって達成される効果は、神の本質に基づいているのですか。(はい。)ならば、神による「人間の占有」は、空虚な語句なのですか。そんなはずはありません。それでは、なぜ神はこのような言葉を人間に述べるのですか。これらの言葉を神が述べる目的は何ですか。神はこれらの言葉を使って人間のいのちにしたいのですか。(はい。)神はこれらの言葉で語ったこの真理のすべてを使い、人間のいのちとして機能させたいと思っています。人間がこの真理のすべてと神の言葉を受け取り、それを自分自身のいのちへと変換させるとき、人間は神に服従することができますか。そのとき人間は神を畏れることができますか。そのとき人間は悪を避けることができますか。この地点に達したとき、人間は神の主権と采配に従うことができますか。そのとき人間は神の権威に服従する位置にありますか。ヨブやペテロのような人がその道の最後に到達し、いのちが成熟に達したと見なすことができるとき、そして彼らが真に神を理解したとき、サタンはそれでも彼らを連れ去ることができますか。サタンは依然として彼らを占有することができますか。サタンは依然として彼らに無理矢理取り憑くことができますか。(できません。)では、それはどのような人間ですか。完全に神のものとされた人間ですか。(はい。)この段階の意味において、完全に神のものとされたこのような人を、あなたがたはどのように見るでしょうか。神の視点から見れば、この状況の下、神はこの人の心をすでに占有しています。しかし、この人は何を感じるでしょうか。神の言葉、神の権威、神の道が人間の中でいのちとなり、そしてこのいのちが人間の存在全体を占有し、その人が生きる物事とその人の本質を、神を満足させるのに適したものにするということですか。神の視点から見て、この瞬間の人類の心は、神に占有されていますか。(はい。)あなたがたは今、この水準の意味をどのように理解していますか。あなたを占有するのは神の霊ですか。(いいえ、わたしたちを占有するのは神の言葉です。)神の道、神の言葉があなたのいのちとなったのであり、真理があなたのいのちとなったのです。このとき、人間は神に由来するいのちを有していますが、このいのちが神のいのちであるとは言えません。言い換えるなら、人間が神の言葉から引き出すべきいのちは、神のいのちであるとは言えないのです。したがって、人間がいかに長く神に付き従っても、いかに多くの言葉を神から得ても、決して神にはなれないのです。たとえ神がある日、「わたしはあなたの心を占有した。あなたは今やわたしのいのちを持っている」と言ったとしても、あなたは自分が神だと感じるでしょうか。(感じません。)ならば、あなたはどうなりますか。神に対して絶対的に服従するのではないですか。あなたの心は、神があなたに授けたいのちで満たされるのではないですか。これは、神が人間の心を占有するときに起きることの、極めて普通の表れです。これは事実です。ではこの観点から見て、人間は神になることができるでしょうか。神の言葉の現実を生きることができ、神を畏れて悪を避ける人になったとき、人間は神のいのちの本質と聖さを自分のものにすることができるでしょうか。絶対にできません。何があったとしても、結局のところ人間はやはり人間なのです。あなたは被造物です。あなたが神から神の言葉と神の道を受け取ったとき、あなたは神の言葉に由来するいのちを持つだけで、神に称えられる人にはなっていますが、神のいのちの本質を持たず、まして神の聖さなどはありません。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 144
サタンの誘惑 (抄出)
マタイによる福音書 4:1-4 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
これは悪魔が主イエスを初めて試みようとしたときの言葉です。悪魔の言ったことの内容は何ですか。(「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。)悪魔が言ったこれらの言葉は極めて単純ですが、その本質に問題はありますか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言いましたが、心の中では悪魔はイエスが神の子であることを知っていましたか。キリストであることを知っていましたか。(知っていました。)それでは、なぜ悪魔は「もし……であるなら」と言ったのですか。(神様を試そうとしていたのです。)しかし、そうする悪魔の目的は何でしたか。悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言いました。心の中では、悪魔はイエス・キリストが神の子であることを知っていました。このことは悪魔の心の中ではとても明確でした。しかし、それを知っていながら、悪魔は主イエスに服従、あるいは主イエスを礼拝しましたか。(いいえ。)悪魔は何がしたかったのですか。悪魔はこの方法とこれらの言葉を用いることで、主イエスを怒らせ、自分の意図にしたがって行動するよう、主イエスを騙したかったのです。これが悪魔の言葉の裏に意図されたことではありませんでしたか。サタンは心の中では、明らかにそれが主イエス・キリストであることを知っていましたが、それにもかかわらずこう言ったのです。これがサタンの本性ではありませんか。サタンの本性は何ですか。(ずるくて、邪悪で、神様への畏敬の念がありません。)神への畏敬の念をもたないことで生じる結果は何でしょうか。サタンは神を攻撃したかったのではありませんか。神を攻撃するのにこの方法を用いたかったのです。それゆえに悪魔は、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と言いました。これはサタンの邪悪な意図ではありませんか。はたして悪魔は何をしようとしていたのですか。悪魔の目的は明らかです。この方法を用いて主イエス・キリストの地位と身分を反証しようとしたのです。それらの言葉の意味は、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。もしできないなら、あなたは神の子ではないので、その働きを今後一切行なうな」ということでした。そうではありませんか。悪魔はこの方法で神を攻撃したかったのです。神の働きを取り壊し、つぶしたかったのです。これはサタンの悪意です。サタンの憎悪はその本性の自然な表れです。サタンは主イエス・キリストは神の子であり、神の受肉そのものであると知っていたのに、このようなことをせずにはいられず、神の後ろをつけ、執拗に神を攻撃し続け、神の働きを妨害し破壊しようと手を尽くしたのです。
さて、サタンが言った「これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という表現を分析しましょう。石をパンにする、これは何かを意味していますか。もし食べ物があるのなら、なぜそれを食べないのですか。なぜ石を食べ物に変える必要があるのですか。ここには何の意味もないと言えますか。このとき主イエスは断食をしていましたが、食べ物をもっていたはずです。(もっていました。)つまり、ここにサタンがこの言葉を言ったことの馬鹿らしさがあります。サタンの狡猾さと悪意にもかかわらず、わたしたちはその馬鹿らしさと愚かさがわかるのです。サタンの行なう幾つものことを通して、サタンの悪意に満ちた本性が、サタンが神の働きを破壊するのが見え、とても憎むべき腹立たしいものだと感じます。けれど、他方ではサタンの言動の背後に幼稚で愚かな本性も見えませんか。これはサタンの本性が露呈しているのです。サタンはこのような本性をもつため、このようなことをします。この言葉は今日の人々には馬鹿げていて笑えてきます。けれど、このような言葉は確かにサタンが言いそうなものです。サタンは無知で愚かだと言うことができますか。サタンの邪悪はいたるところにあり、絶えず暴露されています。そして主イエスはどのように返答しましたか。(「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。)これらの言葉には力がありますか。(あります。)なぜ力があると言うのですか。これらの言葉は真理だからです。では、人はパンだけで生きるものですか。主イエスは四十日四十夜断食しました。飢え死にしましたか。飢え死にしませんでした。そこでサタンは主イエスに近づいて、「石を食べ物に変えれば、食べるものがあるではないか。それなら断食する必要もなく、空腹にならずにすむではないか」というようなことを言って、主イエスに石を食べ物に変えるように促しました。けれど主イエスは、「人はパンだけで生きるものではなく」と言いました。これは、人間は肉体に生きてはいるが、人間の肉体を生かし、呼吸させるものは食べ物ではなく、神の口から出るありとあらゆる言葉である、という意味です。一方で、これらの言葉は真理であり、人々に信仰を与え、自分は神に頼ることができ、神は真理であると感じさせます。他方で、この言葉には実際的な面がありますか。主イエスは四十日四十夜断食したあと、それでも立ち、なお生きていたのではありませんか。これは実例ではありませんか。主イエスは四十日四十夜のあいだ一切の食べ物を食べていませんでした。それでもまだ生きていました。これはこの聖句を裏付ける強力な証拠です。これらの言葉は単純ですが、主イエスはサタンに試みられたときにだけそれらを語ったのでしょうか、それともこれらの言葉はすでに、当然ながら主イエスの一部だったのでしょうか。別の言い方をするならば、神は真理であり、神はいのちですが、神の真理といのちは後に追加されたものでしたか。それは後の経験から生まれたものでしたか。いや、それは神に元来備わっているものです。つまり、真理といのちは神の本質なのです。神に何が起ころうと、神が表すものは真理です。この真理、この言葉は、その内容の長短に関わらず、人間を生かし、人間にいのちを与えることができます。この言葉は、人間がその中に真理を見出し、人生の道について明らかにし、神への信仰をもつことを可能にします。言い換えるなら、神がこの言葉を用いたことの源泉は肯定的です。それではこの肯定的なことは聖なるものだと言うことができますか。(はい。)サタンの言葉はサタンの本性に由来します。サタンはその邪悪な本性、悪意にみちた本性をいたるところで常に暴露します。さて、サタンはこのような暴露を自然に行ないますか。誰かが指図するのですか。誰かが手を貸すのですか。誰かが強要するのですか。いいえ。それはすべて自発的な暴露です。これがサタンの邪悪な本性です。神が何を、どのように行なおうと、サタンは神のすぐ後に付いて来ます。サタンのこのような言動の本質と真の本性が、邪悪で悪意に満ちたサタンの本質なのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 145
サタンの誘惑 (抄出)
マタイによる福音書 4:5-7 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
まず初めにサタンのこの言葉を見ましょう。サタンは「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と言い、そして「神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう」と聖書から引用しました。皆さんはサタンの言葉を聞いて、どう感じますか。とても幼稚ではありませんか。この言葉は幼稚で、馬鹿げていて、うんざりします。なぜわたしはこう言うのですか。サタンはたびたび愚かなことをしていて、自分をとても頭が良いと思っています。またサタンはたびたび聖書を、神の言葉そのものさえ引用して、そのような言葉を神に反して用い、神を攻撃し試そうとします。これをするサタンの目的は、神の働きの計画を破壊することです。サタンの言った言葉の中に何か気づくことがありますか。(そこには邪悪な意図があります。)サタンはその行為において、常に人類を試みようとしてきました。サタンは直截な話し方をせず、誘惑や欺き、そそのかしを使って遠まわしな話し方をします。サタンは、神もまた無知で愚かであり、人間と同じく物事の本当の形をはっきり区別できないと信じつつ、あたかも神が普通の人間であるかのように、神を試そうと取り組みます。サタンは神と人間は同様にサタンの本質を見通さず、神も人間もサタンの偽りや邪悪な意図を見抜けないと思っています。これがサタンの愚かなところではないでしょうか。さらに、サタンは堂々と聖書を引用します。こうすることで、自らに信頼性が備わり、相手はその言葉の中に欠点を見つけることもできなければ、騙されるのを避けることもできないと思っているのです。これがサタンの愚かで幼稚なところではないでしょうか。これはちょうど誰かが福音を広めて神へ証しをするときのようなものです。非信者は時としてサタンが言ったことと同じようなことを言いませんか。皆さんは誰かが同じようなことを言うのを聞いたことがありますか。そのようなことを聞くと、どう感じますか。うんざりしますか。(はい。)うんざりするとき、皆さんは根強い反感と憎悪も感じますか。そのような感情を抱くとき、サタンと、サタンが人間の中に入り込ませる堕落した性質が邪悪であることを認識することができますか。皆さんの心の中には、少しでも次のような気づきがありますか。「サタンが話すとき、それは攻撃と誘惑を意味する。サタンの言葉は愚かで、おかしく、幼稚で、うんざりする。けれど、神は決してこのような方法を用いて話すことも働きを行なうこともなく、実際、神はこれまでにそんなことをしたことはない」。もちろん、この状況においては、人々はわずかに感じることができるだけで、神の聖さを把握できずにいます。皆さんの現在の霊的背丈をもってすると、皆さんは「神が言うことはすべて真理だ。それはわたしたちに有益で、受け入れなければならない」と感じているだけです。これを受け入れることができるか否かに関わらず、例外なく皆さんは、神の言葉は真理で神は真理だと言いますが、真理そのものが聖さであり、神は聖なるものであることを皆さんは知らないのです。
さて、サタンの言葉に対するイエスの返答は何でしたか。「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。イエスがいったこの言葉には真理がありますか。そこには必ず真理があります。表面的には、それらの言葉は人が従うべき掟であり、単純な表現ですが、それにもかかわらず、人間もサタンもたびたびこれらの言葉に背いてきました。それで、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言いました。なぜならば、これはサタンがたびたび手をかけ苦労して行なったことだからです。恥を知らずにずうずうしくも行なったと言えるでしょう。神を畏れず心に神への畏敬の念をもたないのはサタンの根源的な本性実質です。サタンが神のそばにいて神を見ることができたときでさえ、神を試さずにはいられなかったのです。それで、主イエスはサタンに「主なるあなたの神を試みてはならない」と言ったのです。これは神がサタンにたびたび言ってきた言葉です。では、この言葉を今日にあてはめることは適切ですか。(適切です。わたしたちもよく神様を試すからです。)なぜ人はよくそうするのですか。人が堕落したサタン的な性質で満たされているからですか。(はい。)では先にサタンが言ったことは人がよく言うことですか。また、どのような状況で人はその言葉を発しますか。人はこのようなことを時間や場所を問わず言ってきたと言うことができます。これは、人の性質はサタンの堕落した性質とまったく同じだということを証明しています。主イエスは単純な言葉、真理を表す言葉、人が必要とする言葉を話しました。けれど、この状況において、主イエスはそのような話し方でサタンと議論していたのですか。主イエスがサタンに言ったことに、何か対立的ものがありましたか。(いいえ。)主イエスは心の中でサタンの誘惑をどのようにみなしましたか。主イエスはうんざりして嫌悪感をもちましたか。主イエスはうんざりして嫌悪感を抱きましたが、サタンと議論はしませんでしたし、ましてや大原則について話したりはしませんでした。それはなぜですか。(サタンはそのような状態で、変わることがないからです。)サタンは道理が通じないと言うことができますか。(はい、できます。)サタンには神は真理だということが認識できますか。サタンは神が真理であるということを決して認識しませんし、神が真理であるということを決して認めません。これがサタンの本性です。さらにもう一つ、サタンの本性でおぞましいことがあります。それは何ですか。主イエスを試そうと手を尽くす中で、サタンはもし神を試して成功しなかったとしても、とにかくやってみようと考えました。懲罰されるとしても、とにかくするのです。そうすることで何ら好都合なことを得られないとしても、サタンはとにかく試し、最後の最後まで手を尽して執念深く神に立ち向かいます。これはどういう本性ですか。邪悪ではありませんか。神のことを話に出すと激高して怒り出す人は、神を見たことがありますか。神を知っていますか。その人は神が誰か知りませんし、神を信じませんし、神はその人に語りかけたことはありません。神はその人に構ったことはありません。では、その人はなぜ怒るのでしょうか。その人は邪悪だと言うことができますか。俗世の潮流、飲食、快楽の追求、および著名人を追いかけることなどが、そのような人を悩ませることはありません。しかし「神」という一言が出たとたん、あるいは神の言葉の真理に触れた瞬間、その人は突然激怒します。これは邪悪な本性に該当するものではないでしょうか。これは、人間の邪悪な本性を十分証明しています。さて、皆さんに関しては、真理のことを話に出すと、あるいは人類に対する神の試練や、人間への神の裁きの言葉のことを話に出すと、避けたい気持ちになり、嫌悪感を抱き、そのことは聞きたくないと思う時がありますか。皆さんは心の中で、「人は皆、神は真理だと言っていないか。その言葉の一部は真理ではない! これは明らかに神の人間に対する訓戒の言葉に過ぎない」と思うかもしれません。心の中で強い反感を抱く人さえいるかもしれません。「これは毎日話題になる。我々に対する神の試練、神の裁き、これはいつ終わるのか。我々はいつ良い終着点を与えられるのか」と思うのです。この理不尽な怒りがどこからもたらされるのかは知られていません。これはどのような本性ですか。(邪悪な本性です。)これはサタンの邪悪な本性に導かれているのです。神の観点からすると、サタンの邪悪な本性と人間の堕落した性質について、神は決して人と議論したり恨みを抱いたりせず、人が愚かな行動をしたときも騒ぎ立てません。神が物事に関して人と同様の見解をもつことは一切ありませんし、さらに、神が人間の観点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理することもありません。もっと正確に言えば、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発してきたあらゆる言葉と、神が行なってきたあらゆる行為は真理と結びついているのです。この真理は、根拠のない空想の産物ではありません。この真理とそれらの言葉は、神の実質と神のいのちゆえに神が表すものなのです。これらの言葉と神が行なってきたあらゆることの実質は真理なので、神の実質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらし、人が前向きな物事とその現実性を見ることができるようにし、人が正しい道筋を歩けるよう、人に道を示します。これらの物事はすべて神の本質ゆえに決定され、神の聖さの実質ゆえに決定されます。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 146
サタンの誘惑 (抄出)
マタイによる福音書 4:8-11 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
悪魔のサタンは、先の二つの策略に失敗しますが、また別の策略を試します。主イエスにこの世のすべての国々とその栄華を見せ、悪魔を拝むように要求しました。皆さんはこの状況から、この悪魔の真の特徴について何を見て取れますか。悪魔のサタンはとてつもなく恥知らずではありませんか。(はい。)どのような点が恥知らずなのでしょうか。万物は神により創造されたにもかかわらず、サタンはそれを逆さまにして神に見せ、「これらの国々の富と栄華を見なさい。わたしを拝むなら、これらを皆あなたにあげましょう」と言ったのです。これは完全に役割の逆転ではありませんか。サタンは恥知らずではありませんか。神は万物を創造しましたが、それは神自身の楽しみのためでしたか。神は人類に万物を与えましたが、サタンはそれをすべて奪うことを望み、それをすべて奪い、「わたしを拝め! わたしを拝めば、これをみなあなたに与える」と言いました。これがサタンの醜い顔です。恥知らず以外の何物でもありません。サタンは「恥」という単語の意味さえ知りません。これがまさにサタンの邪悪を示しているもう一つの実例です。サタンは恥が何であるかさえ知りません。サタンは明らかに、神が万物を創造し、それを管理し支配していることを知っています。万物は神に属し、人間に属するのではなく、ましてやサタンに属するのでもありません。それなのにサタン悪魔はずうずうしくも自分が神に万物を与えようと言ったのです。これこそサタンが再び愚かで恥知らずなことをしていることを示すもう一つの実例ではありませんか。このことで神はサタンをさらに憎悪していますね。しかし、サタンが試みたことで、主イエスが騙されたことはありましたか。主イエスは何と言いましたか。(「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」です。)この言葉には実際的意味がありますか。(はい。)どのような実際的意味ですか。サタンの言葉にはサタンの邪悪と恥知らずさが見えます。では、もし人間がサタンを拝んだら、結末はどうなるでしょうか。人は国々の富と栄華を受け取るでしょうか。(いいえ。)人は何を受け取りますか。人類もサタンと同じくらい恥知らずで笑いの的になるでしょうか。(はい。)人はサタンと何ら変わりなくなるでしょう。それゆえに、主イエスはこの言葉を言ったのであり、それは一人ひとりの人間にとって重要な言葉です。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」ここでは、主以外に、神自身以外に誰かを拝むならば、もし悪魔のサタンを拝むならば、サタンと同じ不浄の中でもがくことになると述べています。そうなると、サタンの恥知らずさと邪悪を共有することになり、サタン同様に神を試し、神を攻撃します。そうなるとあなたの結末はどうなるでしょうか。神に嫌悪され、神に打ち倒され、神に破壊されるでしょう。サタンは主イエスを何度も試しては失敗に終わりました。サタンは再度試しましたか。サタンは再度試さず、去りました。これは何を証明しますか。これはサタンの邪悪な本性、その悪意、愚かさ、馬鹿らしさは神の前において触れるにさえ値しないことを証明します。主イエスはサタンを三つの文章だけで打ち負かしました。その後、サタンは尻尾を巻いて逃げ去り、恥ずかしさのあまり顔を見せることもできず、二度と主イエスを試すことはありませんでした。主イエスはこうしたサタンの誘惑を打ち負かしたので、今やするべき働きを容易に継続することができ、目の前にある課業に取り組むことができました。この状況において主イエスが話し、行なったことすべてが現在に適用されたなら、それは一人ひとりの人間にとって実際的意味を伝えるでしょうか。(はい。)どのような実際的意味ですか。サタンを打ち負かすのは簡単にできることですか。人はサタンの邪悪な本性について明確な認識をもつべきですか。人はサタンの誘惑について正確に理解するべきですか。(はい。)自分自身の生活においてサタンの誘惑を経験したとき、サタンの邪悪な本性を見抜くことができたならば、あなたはサタンを打ち負かすことができませんか。もしサタンの愚かさ、馬鹿らしさを知っていたとして、それでもサタンの側につき、神を攻撃しますか。もしサタンの悪意と恥知らずさが、あなたを通していかに暴露されているかを理解し、もしこれらのことを明確に認識し理解していたとして、それでもこのように神を攻撃し試しますか。(いいえ、しません。)どうしますか。(サタンに対抗し、サタンを捨て去ります。)それは簡単にできることですか。これは簡単ではなく、実行するには、人は頻繁に祈り、頻繁に神の前に出て内省しなければなりません。そして神の鍛錬、裁き、刑罰が自分の身に降りかかるようにしなければなりません。このようにすることでのみ、人はサタンの惑わしと支配から自分を解放できるのです。
サタンが言ったこれらの言葉から、サタンの本質を作り上げているものを要約していきます。第一に、サタンの本質は神の聖さとは対照的に、概して邪悪であると言うことができます。なぜわたしはサタンの本質は邪悪であると言うのでしょうか。この答えを得るには、サタンが人に対してすることのなりゆきを観察しなければなりません。サタンは人間を堕落させて支配し、人間はサタンの堕落した性質の下に行動し、サタンに堕落させられた人々の世界で暮らしています。人間は無意識のうちにサタンにとりつかれ同化されます。したがって、人間はサタンの本性である堕落した性質をもっています。サタンの言動のすべてに、その傲慢さを見ましたか。その偽りと悪意を見ましたか。サタンの傲慢さはおもにどのように示されますか。サタンはいつも神の地位を占めることを欲していますか。サタンはいつも神の働きと神の地位を破壊して自分のものとすることを望み、それにより人がサタンに従い、サタンを支持し、拝むようにしたいのです。これがサタンの傲慢な本性です。サタンが人を堕落させるとき、サタンは人が何をするべきか人に直接言いますか。サタンが神を試みるとき、サタンは出てきて「わたしは神を試し、神を攻撃している」と言いますか。絶対に言いません。では、サタンはどのような方法を用いますか。サタンはそそのかし、誘惑し、攻撃し、罠を仕掛け、聖書の引用さえします。サタンはその邪悪な目的を達成し、意志を叶えるために様々な方法で話し、行動します。サタンがこれを行なった後、人間に表れるものに何を見て取れますか。人も傲慢になっていませんか。人間は何千年ものあいだサタンの堕落した性質に苦しめられたので、傲慢で、欺瞞と悪意に満ちて、理知が働かなくなりました。これはすべて、サタンの本性のせいで起こりました。サタンの本性は邪悪なため、人間にこの邪悪な本性を与え、この邪悪で堕落した性質をもたらしました。したがって、人間は堕落したサタン的な性質の下に生き、サタンのように人間も神に逆らい、神を攻撃し、神を試し、もはや神を崇拝することができず、神を敬い畏れる心をもたないほどまでになっているのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 147
サタンはいかに知識を用いて人間を堕落させるか
知識とは誰もが好ましいとみなすものではないでしょうか。あるいは、少なくとも人は「知識」という言葉の言外の意味は否定的というよりは肯定的だと考えます。それではなぜ、サタンは人間を堕落させるために知識を用いるとわたしたちはここで言っているのですか。進化論は知識の一面ではありませんか。ニュートンの科学的法則は知識の一部ではありませんか。地球の引力もやはり知識の一部ですね。(はい。)それではなぜ、人類を堕落させるためにサタンが用いるものの項目のうちに知識が挙げられるのですか。皆さんはこのことをどうとらえますか。知識はその中に少しでも真理を含んでいますか。(含んでいません。)では、知識の本質は何ですか。人間が得る知識は何を基盤として習得されますか。それは進化論にもとづいていますか。人間が探究と総括から得た知識は、無神論にもとづいていませんか。この知識のうちの何かに神とのつながりがありますか。それは神を崇拝することとつながっていますか。真理とつながっていますか。(いいえ。)では、サタンはどのように知識を用いて人間を堕落させるのでしょうか。わたしはたったいま、この知識に関するもので神を崇拝することや真理につながっているものは一切ないと言いました。このことについて、「知識は真理とは何の関係ないかもしれないが、それでも人を堕落させることはない」と考える人もいます。皆さんはこれをどうとらえますか。人の幸福は人が自らの手で作り出すものだと、あなたは知識を通して教えられましたか。人間の運命は自らの手にあるとあなたは知識を通して教えられましたか。(はい。)今話しているのはどのような話ですか。(それは悪魔の話です。)その通り! これは悪魔の話です! 知識は、話し合うには複雑なものです。知識の一分野は知識以上の何ものでもないと簡単に言うことができます。それは、神を崇拝しないという状態、そして、神が万物を創造したことを理解していない状態を基盤として習得される知識の一分野です。このような知識を学ぶとき、人は神が万物を統治しているものとして見ず、神が万物を監督、管理しているものとして見ません。その代わりに人がすることは、その分野の知識をひたすら研究し、探究し、知識にもとづいた解答を求めるだけです。けれど、もし人が神を信じず、代わりにただ研究を追い求めるだけならば、決して真の解答を見つけ出すことはないということが真実ではありませんか。知識は、人がひもじい思いをしないように、生活の糧を与え、仕事を提供し、収入をもたらすだけです。しかし、それは決して人に神を崇拝させることはなく、人を悪から遠ざけることはありません。人は知識を学べば学ぶほど、神に反抗し、神を自分の研究対象とし、神を試し、神に逆らいたくなります。それでは今、知識が人に教えているのは何であるとわかりますか。これはすべてサタンの哲学です。サタンが堕落した人類のあいだに広めた哲学と生存の法則は、真理と何らかのつながりがありますか。真理とはまったく無関係ですし、実のところ、真理とは正反対です。人はよく、「生きていることは動いていることである」とか「人は鉄で、米は鋼である。食事を抜くと人は空腹を感じる」などと言います。これらの言い習わしは何ですか。いずれも間違った考えで、聞くとうんざりします。人間の知識と言われるものに、サタンは自身が生きるための哲学と思想をかなり浸み込ませています。またサタンはそうしつつ、人間にサタンの思想、哲学、観点を取り入れさせて、人間が神の存在を否定し、万物と人間の運命への神の支配を否定するようにしむけようとします。だから、人間の勉学が進み、より多くの知識を把握するにつれ、神の存在が曖昧になるのを感じ、もはや神が存在することさえ感じなくなるかもしれません。サタンが人間にある種の思考、見方、および観念を植えつけたので、ひとたびサタンがそうした害毒を人間に染みこませると、人はサタンに騙され、堕落してしまうのではありませんか。ではあなたがたは、今日の人々は何によって生きていると言うでしょうか。サタンが植えつけた知識と思想によって生きているのではありませんか。またそうした知識や思想の中に潜む物事は、サタンの哲学と害毒ではないのですか。人間はサタンの哲学と害毒によって生きています。ならば、サタンによる人間の堕落の中核にあるものは何でしょうか。人間が自分と同じく、神を拒み、神に逆らい、神と対立することを、サタンは望んでいます。これがサタンによる人間の堕落の目標であり、同時にサタンが人間を堕落させる手段なのです。
初めに、知識の最も表面的な部分について話し合います。語学の文法や単語は人を堕落させることができますか。単語が人を堕落させられますか。単語は人を堕落させません。それらは人が話すために使う道具であり、人が神と交わるのに用いる道具でもあり、現在では言うまでもなく、言語と言葉は神が人と交わる方法です。それらは道具であり、必要なものです。1+1=2、2x2=4、これは知識ですね。でも、これが人を堕落させる可能性はありますか。これは常識であり規則ですから、人を堕落させることはありません。では、どのような知識が人を堕落させるのでしょうか。堕落させる知識とは、サタンの観点と思想が混ざり込んだ知識です。サタンはこれらの観点や思想を、知識を通して人類に教え込ませようとします。例えば、論文において、そこに書かれた語句に問題はありません。問題は、著者が論文を書いたときの観点と意図、そして著者の思想の内容にあります。これらは霊的な物事であり、人を堕落させることができます。例えば、もしテレビ番組を観ていたとして、その中のどのようなことが人の見解を変え得るでしょうか。出演者が言ったこと、その台詞そのものが人を堕落させる可能性はありますか。(いいえ。)どのようなことが人を堕落させるでしょうか。それはおそらく番組の核心的な思想と内容で、ディレクターの見解を反映しているものでしょう。それらの見解に込められた情報が人々の心と頭脳を揺さぶるかもしれません。そうではありませんか。さて、サタンが知識を用いて人を堕落させる話において、皆さんはわたしが何を指しているのかわかっています。皆さんは誤解しないでしょうね。では、次回小説か論文を読むとき、書かれている言葉に表現されている思想が人類を堕落させるか否か、人類に貢献するか否かを判断することができますか。(はい、ある程度はできます。)これはゆっくり学習し経験しなければならないことで、ただちに容易に理解するものではありません。例えば、ある分野の知識を研究したり学習したりするとき、その知識の肯定的な側面が、その分野の常識を理解する手助けとなり、また同時に、人が避けるべき事柄をあなたがわかるようにする場合があります。例として「電気」を取り上げましょう。これは知識の一分野ですね。電気は人を感電させて傷つけることがあると知らなかったなら、あなたは無知だということになりませんか。けれど、一旦この分野の知識を理解すれば、不注意に電気の流れている物に触れることがなくなり、電気の使い方を覚えます。これらはどちらも肯定的なことです。知識がいかにして人を堕落させるかについて、わたしたちが何を話し合っているか明確にわかっていますか。この世において学習される知識には多くの種類があり、それらを皆さんが自分で区別するには時間をかけなければならないのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 148
サタンはいかに科学を用いて人間を堕落させるか
科学とは何ですか。一人ひとりの人間の考えにおいて、科学は高い威信のあるもので、深いものとみなされていませんか。科学と言うと、「それは一般人の理解を超えたものであり、科学の研究者か専門家だけが触れることのできる話題だ。我々のような一般人とは何の関係もない」と人は感じませんか。一般人と科学は何らかの関わりがありますか。(あります。)サタンはいかに科学を用いて人間を堕落させますか。ここでは、人々が生活において頻繫に遭遇する物事のみ話し合い、それ以外のことは度外視します。「遺伝子」という言葉があります。皆さんは聞いたことがありますか。あなたがたの全員がこの用語をよく知っています。遺伝子は科学を通して発見されたのではなかったですか。人にとって遺伝子とはいったい何を意味しますか。遺伝子は、人体とは神秘的なものだと人に感じさせませんか。この題目を持ち出されると、一部の人々、中でも好奇心の強い人たちは、もっと知りたい、もっと詳細が欲しいと思うのではないでしょうか。こうした好奇心の強い人たちは、この主題に全力を注ぎ、他にすることがないときに書籍やインターネットで情報を探し、さらに詳しく学ぼうとします。科学とは何ですか。単純明快に言うと、科学とは人間が好奇心をもっている物事、神から人間に向けて語られていない未知の物事に関する思想と理論です。科学とは、人間が探究したいと思う神秘に関する思想と理論です。科学の範囲とは何ですか。それは幅広いと言えるでしょう。人間は興味を抱いたすべての物事を調査し、研究します。科学とは、そうした物事の細目や法則を研究し、あらゆる人が納得するだけの妥当な理論を発表することを意味します。「この科学者たちは本当にすばらしい! よく知っていて、これらの事柄を理解するだけの十分な知識をもっている!」と誰もが思うのです。人々は科学者に大いに感服していますね。科学を研究する人々は、どのような見解をもっていますか。彼らは宇宙を研究し、自分の関心のある分野における神秘的な物事を研究したいのではありませんか。その最終的な成果は何ですか。科学の中には、人が推測により結論を導き出す分野もあれば、人の経験を基にして結論を出す分野もあります。さらに、歴史的観察や背景の考察により結論を導き出す分野もあります。そうではないですか。それでは、科学は人のために何をしますか。科学が人にするのは、物質的世界において対象物を見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎず、神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感をもたらすに過ぎず、その満足感は人間の心を物質的世界に閉じ込めることにしか役立ちません。人間は科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的見解を基盤としてその問題を証明し、受け入れようとします。人間は、心が科学に魅了され、取り憑かれるあまり、もはや神を知り、神を拝む心、万物は神からもたらされていると信じ、解答を得るには人は神に目を向けるべきであると信じる心をもたないまでになります。そうではありませんか。科学を信じれば信じるほど人は愚かになり、何事にも科学的な解決策があり、研究によって何もかも解決できると信じるのです。人は神を求めず、神の存在を信じません。長年にわたる神の信者の中にも、問題があるとコンピュータを使って検索し、答えを見つけようとする人が大勢います。そのような人は科学知識だけを信じています。彼らは神の言葉が真理であること、神の言葉によって人類のあらゆる問題が解決できることを信じず、人類の無数の問題を真理の観点から見ることもしません。どのような問題であろうと、彼らは神に祈らず、神の言葉から真理を探すことで解決を図ろうとすることもありません。多くの事柄において、問題は知識で解決できると、彼らは思いたがります。彼らにとっては、科学こそが究極の答えなのであり、このような人たちの心に神はまったく存在していません。彼らは不信者であって、神への信仰についての見方は、常に科学的手法を用いて神を調べようとしている、著名な多くの学者や科学者のそれとまったく変わりません。例えば、箱舟がたどり着いた山に行った宗教専門家が多数いて、彼らはそれによって箱船の存在を証明しました。しかし箱舟の外観に神の存在を見ないのです。彼らはただ物語と歴史を信じます。それが彼らの物質的世界に関する科学的研究の結果です。物質的なものを研究しても、それが微生物学であれ、天文学であれ、地理学であれ、神が存在する、あるいは神が万物を統治するということを明らかにする結果を見つけることは決してありません。では、科学は人に何をするのですか。科学は人間を神から遠ざけるのではありませんか。人は科学のせいで、神を研究対象にしているのではないですか。人は科学のせいで神の存在と主権をますます疑い、ゆえに神を拒んで裏切っているのではないですか。それが結果です。では、サタンが科学を用いて人間を堕落させるとき、どのような目標を達成しようとしているのですか。サタンは科学的結論を用いて人を騙し、麻痺させ、曖昧な解答を用いて人の心をしっかり捕まえて、人が神の存在を追求したり信じたりしないようにすることを望んでいます。それゆえに、科学はサタンが人を堕落させる方法の一つであるとわたしは言うのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 149
サタンはいかに伝統文化を用いて人間を堕落させるか
伝統文化の一部とみなされるものは多くありますか。(はい。)この「伝統文化」とは何を意味しますか。祖先から伝えられたものだと言う人がいますが、これは伝統文化の一面です。当初から、生活様式、習慣、言い伝え、規則は、家族、民族集団、さらには全人類のあいだでさえも伝えられてきており、それは教え込まれて思想の中に染み込んでいます。人はそれら自体が生命であるかのように見て、それを自分の生活の一部として欠かせないものであり、規則であると考えています。実際、それらは祖先から伝えられたものなので、人はこれらを変えたり捨てたりしたくないと思っています。伝統文化には他の側面もあります。例えば、孔子や孟子から伝えられたものや、中国の道教や儒教から教えられたものなどで、それらは人の骨の髄まで浸透しています。そうですね。伝統文化にはどのようなものがありますか。人々が祝う祭日がありますね。例えば、春節や元宵節、清明節、端午節、それに中元節や中秋節。老人がある年齢に達するのを祝ったり、子供が生まれてから一ヶ月あるいは百日経つと祝ったりする家庭さえあります。まだ他にもありますが、これらは皆、伝統的な祭日です。これらの祭日の根底には伝統文化が存在しませんか。伝統文化の核心は何ですか。それは神を礼拝することと何か関係がありますか。人に真理を実践するように言うことと何か関係がありますか。人が神に犠牲を捧げ、神の祭壇へ行き神の教えを受けるための祭日はありますか。そのような祭日はありますか。(ありません。)祭日に人々は何をしますか。現代では、祭日は食べて、飲んで、楽しむための機会とみなされています。伝統文化の根底にある源泉は何ですか。伝統文化は誰からもたらされていますか。それはサタンからもたらされています。これらの伝統文化の陰で、サタンは人間に物事を教え込みます。それはどのようなことですか。人々が自分たちの祖先を忘れないようにすること、これはその一つですか。例えば、清明節のあいだ、人々は墓をきれいに整えて祖先に供え物を捧げます。自分たちの祖先を忘れないようにするためです。また、サタンは人々が愛国心を確実に忘れないようにしますが、端午節などはその一例です。中秋節はどのようなものですか。(家族の再会です。)家族の再会の背景は何ですか。その理由は何ですか。それは情緒的に意思疎通してつながるためです。もちろん、旧正月を祝うのであれ元宵節を祝うのであれ、こうした祝祭の背景にある理由の説明には何通りもの方法があります。これらの背後にある理由をどのように説明するにしろ、一つひとつはサタンがその哲学と思想を人間に教え込む方法であり、その結果、人々は神から離れたままで、神がいることを知らず、祖先かサタンに捧げ物をするようになるか、肉の欲望のために飲み食いし楽しむようになるのです。これらの祭日の一つひとつが祝われるにつれ、サタンの思想と見解が人々の知らないうちにその精神の中に深く植え付けられます。人が四十代、五十代、あるいはもっと高齢になるときには、サタンのこれらの思想や観点は既に心に深く根付いています。さらに、人はこれらの思想を、正しかろうが間違っていようが、次世代へ見境なく、率直に伝えようと懸命になります。そうですね。(はい。)伝統文化とこれらの祭日は人をどのように堕落させますか。知っていますか。(人はそれら伝統の規則に制約され束縛されるようになり、そのため神様を求める時間もエネルギーもなくなります。)これが一つの側面です。例えば、誰もが旧正月を祝います。もし祝わなかったなら、悲しく感じるのではないですか。何か心の中にしまっている禁忌はありますか。「わたしは旧正月を祝わなかった。旧正月のこの日は悪い日だったし、今年の残りすべてが悪い日になるのだろうか」と感じないでしょうか。落ち着かなく、少し怖くなりませんか。何年ものあいだ祖先に供え物を捧げず、ある日突然故人が金銭を要求する夢を見る人々さえいます。彼らは何を感じるのでしょうか。「この故人がお金を必要としているとは、何て悲しいことだ。この人のために紙銭を何枚か焼いてあげよう。そうしないのは良くない。お金を焼かなかったら、生きている我々が何かトラブルに遭遇するかもしれない。災難にいつ襲われるか、誰にわかるというのだ」。人々は、心の中に恐れと心配の小さな雲を常に抱えているのです。この心配を人々にもたらすのは誰ですか。サタンがこの心配の根源です。これはサタンが人間を堕落させる方法の一つではありませんか。サタンは様々な方法と口実を用いて人間を支配し、脅迫し、束縛し、その結果、人間は茫然として、屈して、サタンに従います。こうしてサタンは人間を堕落させるのです。人が弱っているときや状況を完全に認識していないとき、うっかり何かを間抜けなやり方でする、つまり、意図せずサタンの腕の中に落ち、無意識に行動し、何かをしてしまいながらも、自分が何をしているのかわかっていないということがよくあります。これはサタンが人間を堕落させる方法です。現在、深く根ざした伝統文化から離れたがらない人さえ数多くいます。彼らはどうしてもそれを捨てられないのです。人は特に弱く受け身になっているときに、これらのような祭日を祝い、サタンに出会い、サタンを再び満足させることを望みます。それを通して自らの心を慰めるためです。伝統文化の背景は何ですか。サタンの黒い手が陰で糸を引いているのですか。サタンの邪悪な本性が物事を操り、支配しているのですか。サタンはこのようなことのすべてに影響を与えているのですか。(はい。)人が伝統文化の中で生活し、このような伝統的な祭日を祝う時、それは人がサタンに騙され、堕落させられる環境であり、さらに、人はサタンに騙されて堕落させられるのがうれしいのだと言うことができるでしょうか。(はい。)これは、皆さん全員が認識し、知っていることです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 150
サタンはいかに迷信を用いて人間を堕落させるか
サタンはいかに迷信を用いて人間を堕落させますか。人は誰しも自分の運命を知りたがるので、サタンは彼らの好奇心を利用して誘惑します。人々は易断や占い、あるいは人相見によって、自分に将来何が起きるかや、自分の前途はどのようなものかを知ろうとします。しかし最終的に、人々がこれほど気にしている運命や将来の見通しは、誰の掌中にありますか。(神様の掌中です。)これらのことはすべて神の掌中にあります。これらの方法を用いて、サタンは人に何を知らせたいのですか。サタンは人相占いや運勢占いを用いて、サタンが人のこの先の運勢を知っているということ、サタンがそれを知っているだけでなく支配しているということを人に伝えたいのです。サタンはこの機会をとらえ、それらの方法を用いて人を支配し、人がサタンを盲信しサタンのすべての言葉に従うようにしたいのです。例えば、もしあなたが人相占いをしてもらい、占い師が目を閉じて過去数十年間にあなたに起きたことをすべて明確に述べたら、内心どのように思いますか。「とても正確だ。わたしの過去についてこれまで誰にも話したことがないのに、どうやって知ったのだろう。この占い師には本当に感心する!」と直ちに感じるでしょう。サタンにとって、あなたの過去を知るのは、それほど困難なことではありませんね。神はきょうまであなたを導いてきました。そして、その間ずっとサタンは人を堕落させ、あなたをつけ回してきました。あなたの数十年の流れはサタンにとって何でもなく、サタンがそれらの物事を知るのは困難ではありません。サタンが言ったことが正確だと知ると、あなたはサタンに心を委ねるのではありませんか。将来や運勢を掌握するために、サタンの支配に依存していませんか。一瞬のうちに、あなたの心はサタンへの尊敬や畏敬を覚え、人によっては、この時点で既に魂をサタンにひっつかまれているかもしれません。そしてあなたは直ちに占い師に、「次は何をすべきですか。来年は何を避けるべきですか。してはならないことは何ですか」と尋ねるのです。すると占い師は、「そこへ行ってはならない、それをしてはならない、何色の服を着るな、どこそこへ行くな、これこれをもっとすべきだ……」と言うのです。あなたは占い師の言うことをすべて即座に心に刻むのではないでしょうか。それらを神の言葉よりも早く記憶するでしょう。なぜそれほど早く記憶するのでしょうか。サタンに依存して幸運を得たいからです。このときにサタンがあなたの心を掴むのではないでしょうか。サタンの言葉が予言通りに相次いで実現すると、あなたは来年の運勢はどうなるのかを知るためにサタンのところにすぐに戻りたくなるのではないでしょうか。(その通りです。)あなたはサタンがせよと言うことは何でも行ない、サタンが避けよと言うものを避けます。こうしてサタンの言うことすべてに従っているのではないのですか。たちまち、あなたはサタンの手中に落ち、迷わされ、支配されます。これは、サタンの言うことは真実であると信じるから、サタンがあなたの過去の人生、現在の人生、将来がどうなるかを知っていると信じるから起こるのです。これが人を支配するためにサタンが用いる方法です。けれど現実には、本当に支配しているのは誰ですか。それは神自身であり、サタンではありません。サタンはこの場合ただその巧みな策略を用いて無知な人、物質的世界しか見ない人を騙し、サタンを信じて依存するように仕向けているのです。このようにして、人はサタンの掌中に陥り、その言葉すべてに従います。しかし、人が神を信じ、神に従うことを望むとき、サタンは手を緩めるでしょうか。サタンは手を緩めません。この状況において、人は本当にサタンの掌中に陥っていますか。(はい。)これに関するサタンの振る舞いは恥知らずだと言うことができますか。(はい。)なぜそう言うのですか。それらは詐欺的で人を騙す戦術だからです。サタンは恥知らずで、サタンが人の何もかもを支配し、その運命を支配しているのだと信じ込ませます。これにより、無知な人は完全にサタンに従うようになります。そうした人は二言三言で騙されます。人は茫然としてサタンにひれ伏すのです。では、サタンは人にサタンを信じさせるためにどのような方法を用い、どのような言葉を言いますか。例えば、あなたはサタンに自分の家族の人数を言っていないかもしれませんが、それでもサタンはあなたの家族の人数と、両親と子どもの年齢を伝えるかも知れません。最初はサタンを疑い、不信を抱いていたかもしれませんが、それを聞くとサタンのことを少し信用できると感じるのではありませんか。するとサタンは、最近、あなたの仕事はどれほど大変だったとか、上司はあなたが受けるに値する評価を与えず、いつもあなたの不利になるようなことをしているなどと言うかも知れません。これを聞くと、あなたは「まさにその通り。職場での状況は順調じゃない」と思います。それで、サタンをさらにもう少し信じます。するとサタンは別の事を言ってあなたを惑わし、さらにサタンを信じさせます。少しずつ、あなたは自分がサタンに抵抗したり、疑ったりすることができないことに気づきます。サタンは些細な策略や、ちょっとしたたくらみを数回用いるだけで、あなたを混乱させます。混乱させられるにつれて、あなたは自分の方向を確立することができなくなり、何をするべきか途方に暮れて、サタンの言うことに従い始めます。これが人を堕落させるためにサタンが用いる「なんとも見事な」方法であり、あなたはそのせいで知らないうちにサタンの罠に陥り、誘惑されるのです。サタンは人が良いと想像することをいくつか言い、何をすべきか、何を避けるべきかをあなたに伝えます。このようにしてあなたは知らないうちに騙されるのです。ひとたびそこに陥ると、あなたにとって物事が厄介になります。サタンが言ったこと、サタンがせよと言ったことを常に考え、気付かぬうちにサタンに取りつかれます。これはなぜですか。それは人には真理が欠如しているため、サタンの誘惑に対して自分の立場を貫くことができないからです。サタンの邪悪と虚偽、狡猾さ、悪意に対して、人類はとても無知で、未熟で、弱いです。そうですね。これはサタンが人間を堕落させる方法の一つではありませんか。(そうです。)人間は知らないうちに、少しずつ、サタンの様々な方法により騙され、欺かれます。人間には肯定的なものと否定的なものを区別する能力が欠如しているからです。人間にはこの霊的背丈、サタンに打ち勝つ能力が欠如しているのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 151
サタンはいかに社会動向を用いて人間を堕落させるか
社会動向が存在するに至ったのはいつですか。それは現代においてのみ起こった現象ですか。社会動向はサタンが人間を堕落させ始めたときに生まれたと言えます。社会動向にはどのようなものがありますか。(服装や化粧のスタイル。)これは人がよく接することです。服装のスタイル、ファッション、流行、それは小さな側面です。他にも何かありますか。人がよく生み出す一般的な格言も数に入りますか。人が望む生活様式も入りますか。人々が好む音楽のスター、有名人、雑誌、小説は数に入りますか。(はい。)皆さんの考えでは、これらの社会動向のどの側面が人間を堕落し得ると思いますか。これらの社会動向で、皆さんにとって最も魅力的なのはどれですか。「我々はもう五十代、六十代、七十代、八十代で、ある程度の年齢に達しているので、そのような流行には合わないし、それほど興味はない」と言う人がいます。これは正しいですか。「我々は有名人を追いかけたりしない。それは二十代の若者のすることだ。流行の服も着ないし、それは外見を重視する人たちのすることだ」と言う人もいます。では、これらのうちで人を堕落し得るのは何ですか。(一般的な格言です。)こうした格言は人を堕落させるでしょうか。一つ例を挙げます。それが人を堕落させるか否かがわかります。「地獄の沙汰も金次第」。これは社会動向ですか。これは、皆さんが挙げたファッションや美食の社会動向と比較すると、もっと悪いものではありませんか。「地獄の沙汰も金次第」はサタンの哲学です。これは人類全体に、あらゆる人間社会に蔓延しており、社会動向であると言うことができます。それは、この格言が人間一人ひとりの心に染みこんでいるからであり、当初はこの格言を受け入れていなかったのですが、やがて現実の人生に触れたとき、それを暗黙のうちに受け入れるようになり、これらの言葉は実は本当だと感じるようになったのです。これは、サタンが人間を堕落させる手順ではありませんか。おそらく人々はこの格言を同等に理解しておらず、自分の周辺で起きたことや個人的な経験にもとづいて、一人ひとりがこの格言について異なる程度の解釈と認識をもっています。これは事実ですね。この格言について、ある人がどれほどの経験をしているかを問わず、これがある人の心に及ぼし得る否定的な影響とはどのようなものですか。皆さん一人ひとりを含め、この世にいる人々の人間的性質を通して明らかに示されるものがあります。それは何ですか。金銭崇拝です。それをある人の心から排除するのは困難ですか。極めて困難です! サタンによる人間を堕落させる方法は実に悪賢いようです。サタンは金銭を用いて人を誘惑し、堕落させ、金銭を崇めて物質的な物事を尊ぶようにさせます。では、この金銭崇拝は人々においてどのように表れますか。皆さんはお金がなくてはこの世で生き延びられない、一日でさえもお金なしでは過ごせないと感じませんか。人の地位はその人がどれだけお金をもっているかに基づいており、それは人が受ける尊敬の念についても同じです。貧しい人々は恥じて背を丸め、その一方で富裕な人々は高い地位を享受しています。彼らは胸を張って威張り、大きな声で話し、傲慢に暮らします。この格言と社会動向は人に何をもたらしますか。多くの人がお金を求めて何らかの犠牲を払っているというのが真実ではありませんか。より多くのお金を求めて自分の尊厳や高潔さを犠牲にしていませんか。お金のために、自らの本分を尽くして神に従う機会を失っていませんか。真理を得て救われる機会を失うのは、人にとって最大の損失ではありませんか。この方法と格言を用いて人間をここまで堕落させるサタンは邪悪ではありませんか。これは悪意に満ちた策略ではありませんか。この流布している格言に反対する状態から最終的にそれを真理として受け入れる状態へと進むにつれて、人の心は完全にサタンの掌中に落ち、そのため気付かないうちにこの格言によって生きるようになります。この格言は、どの程度あなたに悪影響を及ぼしましたか。あなたは真の道を知り、真理を知っているかもしれませんが、それを追求するには無力なのです。あなたは神の言葉が真理であることを明確に知っているかも知れませんが、真理を得るために代償を払う気も、苦しむ気もありません。それよりは、自分自身の将来と運命を犠牲にして、最後の最後まで神に逆らう方が良いと思うのです。神が何を言おうと、神が何をしようと、あなたへの神の愛が深く偉大であることをどれほど理解していようと、あなたは頑なに我が道を歩くことに固執し、この格言のために代償を払うのです。つまり、この格言は既にあなたの思考を騙して操り、あなたの行動を支配しているのです。そしてあなたは、富の追求を捨て去るよりむしろ、それが自分の運命を支配するのに任せます。人がこのように行動し、サタンの言葉に支配され、操られ得るという事実は、その人たちがサタンに騙され、堕落させられたことを意味しているのではないですか。サタンの哲学と考え方、そしてサタンの性質が、あなたの心に根を下ろしたのではないですか。あなたが無闇に富を追い求め、真理の追求を放棄するとき、サタンはあなたを騙すという目標を達成しているのではないですか。まさにそうです。では、サタンに騙され堕落させられたとき、あなたはそれを感じることができますか。できません。サタンが目の前に立っていることがわからず、サタンが密かに行動していることを感じられないのであれば、サタンの邪悪さを見ることができるでしょうか。サタンが人類を騙す方法がわかるでしょうか。サタンはあらゆる時にあらゆる場所で人間を堕落させます。サタンは人間がこの堕落に対して防御することを不可能にし、それに対して人間を無力にさせます。あなたがうっかりしていたり、自分に何が起きているかを認識していなかったりする状況において、サタンはその思想、観点、サタンに由来する邪悪な物事をあなたに受け入れさせます。人はそれらをすっかり受け入れ、それに異議を唱えることもありません。それらを宝のように大切に抱えてすがりつき、それらが自分を操り、もてあそぶにまかせます。サタンの力の下、人々はこのように生きており、無意識のうちにサタンに服従し、サタンによる人間の堕落がますます深刻になるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 152
サタンはこれらいくつかの方法を用いて人間を堕落させます。人間には知識と、何らかの科学的原理に関する理解があり、伝統文化の影響下に生きており、一人ひとりが伝統文化の継承者にして伝達者です。人間はサタンから与えられた伝統文化を継承するように縛られており、またサタンが人類に提供する社会動向に順応して行動します。人間はサタンから切り離すことができず、サタンのすることすべてに常に順応し、その邪悪、虚偽、悪意、傲慢さを受け入れます。サタンのこれらの性質を身に付けるようになった人間は、この堕落した人類のあいだで幸せに暮らしていますか、それとも悲しんでいますか。(悲しんでいます。)なぜそう言うのですか。(人間はそれらの堕落した物事に束縛され、操られ、罪のうちに生き、つらい苦闘に呑み込まれているからです。)眼鏡をかけて聡明そうな外観をしている人がいます。その人はとても立派に語り、その話は雄弁で筋が通っていて、また多くの物事を経てきたので、とても経験豊かで洗練されているかもしれません。その人は大小様々な事柄について詳細に話すことができ、物事の信憑性や理由を評価できるかもしれません。ある人は、こうした人たちの行動や外観を見て、またその人の性格、人間性、あるいは振る舞いなどを見て、その人に一切欠点を見出さないかもしれません。このような人は現代の社会動向にひときわ順応することができます。その人が歳をとっていても、決して時代の動向に遅れることなく、歳をとりすぎていて学べないということは一切ありません。表面的には誰もそのような人に欠点を見つけることができませんが、内面の本質のすぐ下では、サタンによって完全に徹底的に堕落させられています。そうした人は、外面的には何の欠点も見つからず、表面的には上品で洗練され、知識があり、ある程度の道徳性も備えています。高潔で、知識の面においては若者に劣るところがありません。けれど、本性実質に関しては、この人はサタンの完全な生ける模型で、サタンの生き写しです。これはサタンによる人間を堕落させる方法が「実を結んだ」ということです。わたしが言ったことは、皆さんにとっては辛いことかも知れませんが、これはすべて本当です。人間が学習する知識、理解する科学、社会動向に適合するために選ぶ手段は、例外なくサタンが人間を堕落させるのに使う道具なのです。これは絶対的な真実です。したがって、人間はサタンにより完全に堕落させられた性質の中に生き、神の聖さとは何なのか、あるいは神の実質とは何なのかを知る術を一切もちません。なぜなら、表面的にはサタンが人間を堕落させる方法に欠点を見つけることはできず、ある人の振る舞いから何かが不適切だと判断することはできないからです。人は一人ひとり、普通に働き普通の生活を送り、普通に書籍や新聞を読み、普通に学習し話します。中には多少の道徳を学び、話に優れ、ものわかりがよくて親しみやすく、役に立ち、寛大で、つまらない喧嘩を売ったり、人を利用したりしない人もいます。けれど、その人のサタン的な堕落した性質は内面に深く根付いており、その実質は外部的な努力に頼って変えることはできません。この実質ゆえに、人間は神の聖さを知ることができず、また神の聖なる実質が人間に向けて開示されているにもかかわらず、人間はそれを真剣にとらえません。これは、様々な手段を通してサタンが既に人間の思いや考え、観点、思想を完全に占有しているからです。この占有と堕落は一時的なものでも偶発的なものでもなく、いたるところに常に存在します。したがって、神を三、四年、あるいは五、六年も信じながら、サタンに吹き込まれた思想、観点、論理、および哲学に、まるで宝を握りしめるように固執し、それらを手放せない人が多数いるのです。人間はサタンの本性からもたらされる邪悪で傲慢で悪意に満ちたものを受け入れたため、必ずや人間関係において対立、論争、不和が頻繁に起こります。それらはサタンの傲慢な本性の所産として生じているのです。もしサタンが人類に肯定的なものを与えていたなら、例えばもし人間が受け入れた伝統文化の儒教や道教が良いものであるなら、それらを受け入れた後、同じ種類の人間同士は互いに仲良くやっていけるはずです。ではなぜ同じ物事を受け入れた人々のあいだにそれほどの大きな分裂があるのですか。なぜですか。それは、それらの物事はサタンからもたらされ、サタンが人々のあいだに分裂を生み出すからです。サタンが提供する物事は、それらがいかに表面的には立派で偉大に見えたとしても、人間にもたらし、人間の生活に生み出すものは傲慢さのみであり、それはサタンの邪悪な本性による虚偽でしかありません。そうではありませんか。自分自身の正体を隠すことができる人、豊かな知識をもつ人、あるいは育ちの良い人は、自分の堕落したサタン的な性質を隠すのにやはり苦労するでしょう。つまり、こうした人がどれほど多くの方法で自分を覆い隠しても、あるいはあなたがその人のことを聖人だ、完璧だ、あるいは天使だと思ったとしても、その人のことをどれほど純粋だと思ったとしても、その人の生活は陰ではどのようなものでしょうか。その人の性質が明らかにされると、どのような実質が見えるでしょうか。疑いなく、サタンの邪悪な本性が見えるでしょう。そう言うことができますか。(はい。)例えば、誰か親しい知人がいて、あなたはこの人のことを善人だと思っており、あるいは偶像化していたとします。現在のあなたの霊的背丈において、その人のことをどう思いますか。まず、あなたはそのような人に人間性があるか否か、誠実か、人々に対して真の愛があるか、その人の言動は他の人のためになり助けになるかを観察します。(その人にそういう部分はありません。)こうした人が示している親切、愛、あるいは善と言われるものとは何ですか。それはすべて偽物で、見せかけです。この見せかけの陰には、隠された邪悪な目的があります。それは、その人が愛され、偶像化されることです。皆さんにはこのことがはっきり見えますか。(はい。)
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 153
サタンが人を堕落させるために用いる方法は人類に何をもたらしますか。それに何か肯定的なものはありますか。まず、人間は善と悪を区別できますか。この世において、それが有名人であれ偉人であれ、あるいは何らかの雑誌であれその他の出版物であれ、人々が何かの善悪や正誤を判定する際に用いる基準は正確だと言えるですか。出来事や人々に関する彼らの評価は公正ですか。そこに真理がありますか。この世、人間は、真理の基準にもとづいて肯定的なものと否定的なものを評価しますか。(いいえ。)なぜ人にはその能力がないのですか。人は大量の知識を習得し、科学について多くを知っているゆえに、偉大な能力を備えているのではないのですか。なぜ人は肯定的なものと否定的なものを区別できないのですか。これはなぜですか。(人は真理を備えていないからです。科学や知識は真理ではありません。)サタンが人間にもたらすものはすべて邪悪で、堕落であり、それには真理、いのち、道が欠如しています。サタンが人間にもたらす邪悪と堕落をもってすると、サタンには愛があると言うことができますか。人間には愛があると言うことができますか。「あなたは間違っている。貧しい人やホームレスの人を助ける人が世界中に大勢いる。彼らは良い人ではないのか。また、良い取り組みを行なう慈善団体もあり、それらの団体がしていることは善行ではないのか」と言う人もいることでしょう。では、これに対して何と言いますか。サタンは様々な方法や理論を用いて人間を堕落させます。この人間の堕落は曖昧な概念ですか。いいえ、曖昧ではありません。サタンは実践的なことも行ない、この世界と社会において、何らかの観点や理論を提唱します。各王朝、各時代において、サタンは理論を提唱し、人間に思想を教え込みます。それらの思想や理論は、徐々に人の心に根付き、人はその理論や思想に基づいて生きるようになります。いったんそれらのものによって生き始めると、人は知らず知らずのうちにサタンになるのではありませんか。そうすると人はサタンと一体になりませんか。人がサタンと一体になったとき、最後には人の神への態度はどのようなものになっていますか。それはサタンの神への態度と同じではありませんか。誰もこれをあえて認めようとしませんね。これはとても恐ろしいことです。なぜわたしはサタンの本性は邪悪だと言うのですか。何の根拠もなく、サタンが邪悪だと言っているのではありません。サタンの本性はサタンが行なったことと明示した物事に基づいて判断され、分析されています。もしわたしがただサタンは邪悪だと言ったなら、皆さんはどう思いますか。皆さんは、「サタンは明らかに邪悪だ」と思うでしょう。そこで、わたしは質問します。「サタンのどういった面が邪悪ですか」。もし「サタンが神に抵抗することが邪悪だ」と返答しても、まだ明確に話していることにはなりません。今、わたしたちはこのように詳細について話しました。皆さんはサタンの邪悪の本質の具体的な内容について理解しましたか。(はい。)サタンの邪悪な本性をはっきり見ることができるなら、自分自身の状態も見えるようになります。これら両者に何らかのつながりはありますか。それは皆さんの役に立ちますか、それとも役立ちませんか。(役に立ちます。)わたしが神の聖なる本質について説教するとき、サタンの邪悪な本質について話すことは必要ですか。これについて皆さんの意見はどうですか。(はい、必要です。)なぜですか。(サタンの邪悪は、神様の聖さをはっきりと浮き彫りにするからです。)そうですか。サタンの邪悪なしには、人は神が聖なるものであるということを知ることはないという意味において、それは部分的に正しいです。正しいですが、もし神の聖さはサタンの邪悪との対比においてのみ存在すると言うと、それは正しいですか。この弁証的な考え方は誤りです。神の聖さは神に内在する本質です。神はそれを神の業を通して明らかにしますが、それはやはり神の本質の自然な表現であり、神に内在する本質です。それは常に存在し続けてきた、神自身に内在している固有のものですが、人間は見ることができません。なぜなら人間はサタンの堕落した性質の只中でサタンの影響下に生き、聖さについて知らず、ましてや神の聖さの具体的な内容について知るよしもないからです。それでは、わたしたちがまず最初にサタンの邪悪な本質について交わりをもつのは必要ですか。(はい、必要です。)「あなたは神自身について説教しているのに、なぜいつもサタンがいかに人間を堕落させ、サタンの本性がいかに邪悪であるかについて話すのか」と、疑念を表明する人がいるかもしれません。今、皆さんはこのような疑念を払拭しましたね。人は、サタンの邪悪を識別し、その正確な定義をもち、邪悪の具体的な内容と明示をはっきりと見て、邪悪の源と本質を明確に理解してはじめて、神の聖さについての話し合いを通して、神の聖さとは何か、聖さとは何かについてはっきりと理解、あるいは認識することができます。もしわたしがサタンの邪悪について話さないなら、人々が社会や人々のあいだで行なうこと、或いはこの世に存在する何かを、聖さと関係するものと誤解する人がいるでしょう。そのような見方は間違いではありませんか。(間違いです。)
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 V.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 154
サタンは知識を用いて人間を堕落させ、名声と利得を用いて人間を支配する (抄出)
サタンが人間を堕落させる五つの方法のうち、最初に言及したものは知識なので、まず知識を話し合いの主題として取り上げましょう。サタンは知識を餌として用います。注意して聴きなさい。知識は餌の一種に過ぎません。人間は学習に励み、日々自己を向上させ、知識を武器のように身に付け、知識を用いて科学の扉を開けるよう誘惑されます。つまり、身に付ける知識が多ければ多いほど、さらに多くの物事を理解するようになるのです。サタンは、人間にこのようなことを言います。また、サタンは人間に、知識を身に付けるとともに、高尚な理想を育み、大志と願望を持つよう命じます。人間に知られることなく、サタンはこのようなメッセージを数多く送り、無意識のうちにそれが正しい、あるいは有益であると人間に感じさせます。人間は、知らぬ間にそうした道に足を踏み入れ、知らぬ間に自分自身の理想と大志に導かれて進んでゆきます。サタンに与えられた知識から、人間は偉人や有名人の考え方を気付かぬうちに一歩ずつ学びます。また、英雄とみなされている人の行動からいくつかのことを学びます。こうした英雄の行動の何をサタンは人間に奨励していますか。サタンは人間に何を吹き込みたいのですか。人間は愛国心に溢れ、自国に忠誠であり、勇敢でなければならない。歴史や英雄の伝記から人間は何を学びますか。それは、人への忠義心を持つこと、あるいは友人やきょうだいのためであれば何でもすることです。こうしたサタンの知識から、人間は無意識のうちに多くの良からぬ物事を学びます。サタンが人間のために用意した種は、知らぬ間に人間の未熟な精神に植え付けられ、その種は、偉大な人物にならなければ、有名にならなければ、英雄にならなければ、愛国的でなければ、家族を愛する人間にならなければ、友人のためならば何でもしなければ、忠義感を持つ人間にならなければ、と人間に感じさせます。サタンに魅惑された人間は、サタンが人間に用意した道を知らず知らず進んでゆきます。その道を歩んでゆくうちに、人間はサタンの生活規則を受け入れることを余儀なくされます。自分でまったく気付かぬうちに、人間は独自の生活規則を作り出しますが、それはサタンが人間に強制的に吹き込んだ生活規則に過ぎません。サタンはこの学習過程において、サタンの餌に人間が食らいつくまで、人間を少しずつ誘惑するために、物語や伝記など使える限りのありとあらゆる手段を用いて、サタン的な物事を人間に吹き込むと同時に、人間に独自の目標を掲げさせ、独自の人生の目標や生活規則、人生の進路を決めさせます。こうして学習過程において、ある人は文学を、ある人は経済を好むようになり、ある人は天文学や地理に興味を持つようになります。政治を好むようになる人、また物理や化学、はては神学を好む人までいます。これらはすべて知識という全体の一部です。あなたがたは各自がこれまでにそうした知識に接する機会があったので、それが本当はどのようなものかを心の中で知っています。知識に関しては、誰もがそのうち特定の分野について、際限なく語ることができます。したがって、知識が人間の精神にどの程度深く入り込んでいるかは明白です。知識が人間の思考において占めている位置や、人間に及ぼしている影響の深さを見るのは簡単です。人が知識のある一面を好むようになり、それを深く愛するようになると、無意識のうちに大志が生まれます。ある人は著述家を目指し、ある人は文学者を目指し、ある人は政治を職業にすることを目指し、ある人は経済活動に従事して実業家となることを目指します。また英雄や、偉人、有名人になろうとする人もいます。どのような人になりたいかにかかわらず、目標は、知識を習得する方法により、自分自身の目的のためにそれを利用して願望や大志を実現することです。それがどれほど聞こえが良くても、つまり、自分の夢を実現したい、人生を無駄にしたくない、あるいは何らかの職業に就きたいということで、高尚な理想と大志を育んでいても、本質的には何が目的ですか。あなたがたは、このことについて考えたことがありますか。サタンはなぜこのように行動するのですか。サタンがこんな事を人間に吹き込む目的は何ですか。あなたがたの心は、この問題について明瞭に理解しなければなりません。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 155
サタンは知識を用いて人間を堕落させ、名声と利得を用いて人間を支配する (抄出)
人間が知識を習得する過程において、サタンは、物語であったり、一つの知識を与えるだけのことであったり、人間に自分の願望や大志を実現させたりと、あらゆる手段を用います。サタンはあなたをどの道に導きたいと思っていますか。人間は知識を習得することは自然であり、何も悪いことがないと考えています。聞こえの良い言い方をすれば、高尚な理想を育むことや、大志を抱くことは、向上心があると言うことであり、それは人生において正しい道のはずです。自らの理想を実現したり、職業で成功することができれば、そのように生きる方が人間にとって素晴らしいのではありませんか。そのようにすれば、自分の祖先に栄誉をもたらすのみならず、歴史に自分の名を残すことができ、それは良いことではありませんか。これは世俗的な人から見れば、良いことであり適切で前向きなことです。しかし、邪悪な動機をもつサタンが人間をそのような道へと導いて、それですべてですか。当然そうではありません。実際には、人間の理想がいかに高尚であったとしても、また人間の願望がいかに現実的であり、適切であったとしても、人間が成し遂げたい事、求める事は、二つの言葉と不可分に関連しています。その二つの言葉は、あらゆる人の生涯にとって極めて重要であり、サタンが人間に吹き込みたいことです。その二つの言葉とは何ですか。それは「名声」と「利得」です。サタンは極めて温和な方法、人間の観念に極めてうまく適合する方法、まったく過激でない方法を用いて、それにより人間は、無意識のうちにサタンの生き方や生活の規則を受け入れるようになり、人生の目標や方向性を決定し、またそうすることにより無意識のうちに人生における大志を抱くようになります。そうした人生の大志にどれほど高尚な響きがあったとしても、「名声」と「利得」に複雑に関連しています。偉人や有名人、実はあらゆる人が人生において従う事柄はすべて「名声」と「利得」だけに関連しています。人間はひとたび名声と利得を手に入れれば、それを利用して高い地位や莫大な富を堪能し、人生を楽しむことができると考えます。名声と利得を、悦楽の追求と不徳な肉の快楽を手に入れるために利用できるある種の資本と考えるのです。人間は、自分が求める名声と利得のために、無意識ではあるが率先して、自分の心身や所有するすべて、将来、運命をすべてサタンに引き渡します。こうするのに実に一瞬たりとも躊躇することなく、引き渡したものをすべて奪回する必要にも気づかないままです。このようにしていったんサタンを頼りにし、サタンに忠義を尽くしたなら、人間は自分自身を支配していることができるでしょうか。もちろんできません。人間はすっかり完全にサタンに支配されます。すっかり完全に泥沼に沈み込んだのであり、そこから抜け出すことは不可能です。ひとたび名声と利得の泥沼に陥いると、人間は明るいもの、義なるもの、美しく良いものを求めなくなります。これは、人間に及ぼす名声と利得の魅力が強すぎるため、それが人間が生涯を通して終わりなく永遠に追求するべきものとなってしまうからです。これが真実ではないですか。中には「知識の習得とは読書することや知らない事を幾つか習得して、時勢や世の中に遅れを取らないようにすることに過ぎない。知識を習得するのは、ただ生活の糧を得るため、自らの将来のため、必需品のためである」と言う人もいます。必需品や食糧の問題を解決するためだけに、十年におよぶ辛い学習を行なう人がいるでしょうか。そんな人は一切いません。それでは、辛い学習に長年にわたり耐えるのはなぜですか。それは名声と利得のためです。名声と利得がはるか前方に待っており人を呼んでいるため、勤勉と辛苦と努力をもってその道を進むほかなく、それによって名声と利得を得られるものと信じているのです。自らの将来の道のため、将来の快楽と生活向上のために辛苦を味わう必要があるのです。そんな知識とはいったい何なのか、わたしに説明できますか。それは、「党を愛し、国を愛し、宗教を愛せよ」とか「賢者は状況に従う」などといった、人に植え付けられた生存法則、生存哲学ではないですか。サタンが人間に吹き込む人生の「高尚な理想」ではないですか。たとえば、偉人の思想や、有名人の高潔さ、英雄の気概を、あるいは武侠小説の侠客や剣術家の俠骨や親切心を考えてみなさい。これらはどれもサタンが理想を植え付けるやり方ではありませんか。これらは世代を超えて影響を及ぼし、各世代の人々はそうした思想を受け入れるように仕向けられます。彼らは「高尚な理想」を求めて絶えず苦闘し、そのために生命をも犠牲にします。これが、サタンが知識を用いて人を堕落させるやり方であり、手段なのです。サタンが人をこの道へと導いた後、その人が神に服従し、神を崇拝することは可能ですか。神の言葉を受け入れ、真理を追い求めることができますか。絶対にできません。サタンによって惑わされてしまったからです。ここで再び、サタンによって人に植え付けられた知識、思想、および意見に目を向けましょう。これらの物事に、神への服従、神への崇拝に関する真理が含まれていますか。神を畏れ、悪を避ける真理がありますか。神の言葉が少しでもありますか。彼らの中に、真理に関連する物事が少しでもありますか。まったくありません。そうした物事は一切ないのです。サタンによって人に植え付けられた物事に真理は一切含まれていないと、あなたがたは断言することができますか。あえて断言することはないでしょうが、それで構いません。「名声」と「利得」がサタンが人間を邪悪な道へと誘惑するのに用いる二つの重要な語句だと理解しているかぎり、それで十分です。
ここでこれまで話し合ったことを簡単に確認します。サタンが人間を確実に支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために奮闘し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てるすべての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけ、人間にはそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに人間は足かせをかけられ、大変苦労しながら歩んでゆきます。この名声と利得のために、人類は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。このようにして世代を追うごとに人間はサタンの名声と利得の只中で破壊されてゆきます。サタンの行動を検討すると、サタンの邪悪な動機は、極悪非道ではありませんか。あなたがたはいまだに人は名声と利得なくしては生きてゆけないと考えているので、サタンの邪悪な動機を見抜くことができないかも知れません。名声と利得を捨て去ったら、将来が見えなくなり、目標を見失い、将来が暗く陰鬱になってしまうと人は考えています。しかし、ゆっくりとではありますが、名声と利得はサタンが人間を束縛するために用いる非常に重い足かせであると、やがてあなたがた皆が気づく日が来ます。その日が来れば、サタンの支配と、サタンがあなたを束縛するために使う足かせをあなたは徹底的に拒否します。サタンがあなたに吹き込んだあらゆる物事を捨て去りたいと望む時が来ると、あなたはきっぱりサタンと訣別し、サタンがあなたにもたらしたものすべてを心から嫌悪します。その時になって初めて、人は神への真の愛と思慕をもつのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 156
サタンは科学を用いて人間を堕落させる
サタンは科学という名を使って、人間の好奇心、科学を探究し神秘を調査する欲望を満たします。また、科学の名のもとに、人間の物質的必要と生活の質を継続的に向上させる要求を満たします。サタンはこのような口実のもと、科学を利用して人間を堕落させるのです。サタンがこのように科学を用いて堕落させるのは、人間の思想や精神だけですか。わたしたちに見え、わたしたちが接する人や出来事、物事のうち、サタンが科学を用いて堕落させるのは他に何がありますか。(自然環境です。)その通り。あなたがたはこのためかなり被害を受け、深く影響を受けているようですね。科学によるさまざまな発見や結論を用いて人間を欺くほか、サタンは科学を利用して神が人間に与えた生きる環境を無残に破壊し、濫用します。サタンはこれを、人間が科学的研究を実施すれば人間の生存環境と生活水準は継続的に向上し、さらには、科学の発展は、増え続ける日常生活における物質的要求や生活の質を継続的に改善させたいという人間の要求を満たすために行なわれるという口実のもと行ないます。これが、サタンの科学発展の理論的根拠です。けれど、科学は人類に何をもたらしましたか。わたしたちの生活環境、つまり全人類の生活環境が汚染されてしまったのではないですか。わたしたちが飲む水も汚染されてしまったのではないですか。わたしたちが食べる食べ物は、今でも有機的な天然のものですか。ほとんどの穀物や野菜は遺伝子学的に改変され、農薬を用いて栽培されており、科学を用いて作られた変種もあります。人間が食べる野菜や果実は、もはや天然のものではありません。自然な卵を見つけるのさえ困難で、その卵もサタンのいわゆる科学により加工されてしまったせいで、かつてのような味はしません。全体像を見ると、大気全体が破壊され、汚染されており、山や湖、森林、河川、海洋その他地上や地下にあるものすべてが、いわゆる科学的進歩により破壊されています。つまり、自然環境全体、神が人類に与えた生きる環境がいわゆる科学により破壊、崩壊されているのです。生活の質に関してずっと望んでいたものを手に入れ、欲望と肉体の両方を満たしている人が多数いますが、人間が生活する環境は、科学によりもたらされたさまざまな「成果」により根本から破壊され、荒廃しています。現在、わたしたちにはきれいな空気をほんの少し呼吸する権利さえもはやありません。これは人類にとって、悲しみではありませんか。このような空間で生活せざるを得ない人間に、何かしら幸福なことが残っていますか。人間が生きているこの空間、この環境はそもそも当初、人間のために神が創ったものでした。人間が飲む水、呼吸する大気、口にする様々な食糧、そして植物や生物、さらには山、湖、海洋など、この生活環境は、すべて神が人間に与えたものであり、天然であり、神が定めた自然の法則にそって営みを行なっています。仮に科学が存在しなければ、人々はいまだ、神から授けられた手段に従い、純粋な天然のものをすべて享受することができ、幸せに暮らしていたでしょう。しかし現在、サタンによりすべて破壊され、損なわれ、人間の基本的な生活環境はもはや純粋ではなくなってしまいました。それなのに、この結果を招いた原因や、この結果に至った経緯を認識できる人はおらず、さらに多くの人が科学に取り組み、サタンに吹き込まれた思想を用いて科学を理解しています。これは極めて忌み嫌うべき哀れなことではないでしょうか。サタンが人間の存在する空間と生活環境を占領し、人間をこのように堕落させ、また人類もこのような状態を継続している今日、神が直接手を下して人間を滅ぼす必要がありますか。人間がこのような発展を継続するのであれば、どのような方向へ進むでしょうか。(絶滅します。)どのように絶滅するのでしょうか。名声と利得の貪欲な追求に加え、人間は科学的探求や徹底した研究を継続しており、自らの物質的欲求や願望を満たすために絶え間なく動いていますが、人間の結末はどのようなものになるのでしょうか。第一に、生態系の均衡が失われ、それに伴い人間の身体、内臓はそうした環境に汚染され、傷みつけられ、様々な疫病や伝染病が世界各地に蔓延しています。これはもはや人間には制御できない状況であるというのが真実ではありませんか。今やあなたがたはこれを理解したのですから、もし人間が神に付き従わず、こうして常にサタンに付き従い、知識により自らを豊かにし続け、科学により絶え間なく人生の将来を探求し、このような方法で生き続けたなら、人類の自然な結末がどうなるかが分かりますか。人類は自然と絶滅します。人類は一歩ずつ破滅へと、自らの破滅へと向かっているのです。これは自分に破滅をもたらしているのではないですか。科学の進歩の結末ではないですか。今や科学とは、サタンが人間のために作った秘薬のようです。そのせいで、人間が物事を判断しようとしても五里霧中となり、いくら目を凝らしても明瞭に見ることができず、いくら努力しても理解できなくなるのです。しかし、サタンは依然として科学の名のもとに人間の欲望を刺激し、機先を制して人間を意のままに服従させ、地獄と死へと導こうとしています。そうであれば、人間の滅びは実のところ、サタンの手によってもたらされているのであり、サタンこそ首謀者なのだと、人々ははっきり知ることになるでしょう。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 157
サタンは伝統文化を用いて人間を堕落させる
サタンは伝統文化を用いて人間を堕落させます。伝統文化と迷信には、多くの類似点がありますが、相違点は、伝統文化には物語や引喩、典拠などがあることです。サタンは民間伝承や歴史書に登場する物語を数多く作り上げて、人間に伝統文化や迷信の登場人物などを深く印象付けています。例としては、中国には「八仙過海」「西遊記」「玉皇大帝」「ナーザの大暴れ」「封神演義」などがあります。これらは、人間の心に深く根ざしていませんか。あなたがたのうちには物語の詳細をすべて把握していない人もいるでしょうが、あらすじは知っており、内容の概要が心や頭に残って忘れることができないのです。これらは、サタンがはるか昔に人間向けに用意した様々な思想や伝説であり、異なる時期に流布されてきたものです。このような事柄は人間に直接的な危害を加え、人間の魂を蝕み、人々に次々と呪文をかけます。つまり、ひとたびそうした伝統文化、伝説、迷信的な物事を受け入れ、それが頭の中で定着し、心から離れなくなった時点で、あなたは呪文にかけられたようなものであり、このような文化の罠、思想、伝説的物語に捕らわれ、影響されるようになるのです。これは生活や人生観、判断力に影響を与えます。人生における真の道の追求にはさらに影響を与えるので、これはまさしく呪文です。どれほど努力しても捨てられず、切っても切り捨てられず、打っても打ち倒すことができません。さらに、人間が無意識のうちにこの種の呪文にかかった場合、知らぬうちにサタンを信仰するようになり、心の中にサタンの像を育てます。つまり、サタンを偶像、崇拝対象とし、過度の場合は神とみなします。こうした物事は人間の心に無意識のうちに存在し、人間の発言や行動を支配します。さらに、こうした物語や伝説をはじめのうちは虚偽とみなしますが、その存在を無意識のうちに認め、そこから本当の人物を作り出し、本当の実在する物事に変えていきます。知らないうちに意識下で、これらの思想や物事の存在を受け入れるのです。意識下で悪魔、サタンそして偶像も自宅や心に受け入れるのです。これはまさしく呪文です。あなたがたも、そう感じませんか。(感じます。)あなたがたのうちに、香を焚いて仏陀を崇拝したことのある人はいますか。(はい。)香を焚いて仏陀を崇拝した目的は何でしたか。(平安を祈ることでした。)今、考えてみれば、サタンに平安を祈るのは愚かなことではありませんか。サタンが平安をもたらしますか。(いいえ。)当時、自分がいかに無知だったかわかりませんか。そのようなふるまいは愚かで、無知でうぶなことです。そうではありませんか。サタンは人間を堕落させることしか考えていないので、平安をもたらすことはありえず、束の間の休息を与えるのみです。しかし、この休息を得るためには誓いをたてねばならず、約束やサタンにたてた誓いを破ったならば、それがいかにあなたを苦しめることになるかを思い知ります。あなたに誓わせることにより、サタンは実はあなたを支配したいのです。あなたがたは平安を祈って、平安を得ましたか。(いいえ。)平安を得なかったばかりか、逆に不幸や終わりのない災難やたくさんの悲惨な出来事が、まさに際限のない辛苦の大海原のごとく起こりました。サタンの領域に平安はない、というのが真実です。これは封建的な迷信と伝統文化が人類にもたらした結果です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 158
サタンは社会動向を用いて人間を堕落させる
サタンは社会動向を用いて人間を堕落させ、操ります。社会動向には多数の側面があり、有名人や偉人、映画スターや音楽スターへの崇拝、著名人への信奉、およびオンラインゲームなど、様々な領域がそこには含まれます。それらはどれも社会動向の一部であり、ここで詳しく説明する必要はありません。ここでは、社会動向が人間にもたらす考えや、社会動向が人間に世の中での行動にどう影響するか、そして社会動向が人間にもたらす人生の目標や人生観についてのみ話し合います。これらは人々の考えや意見を支配し、影響を与えることがあるので、極めて重要です。社会動向は次々と生まれ、それぞれに人間を堕落させ続け、良心、人間性、理知を失わせ、道徳や人格をどんどん低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人には誠実さや人間性、良心などなく、さらには理知さえ欠如しているとさえ言えるほどです。では、そのような社会動向とは何ですか。それは裸眼では見ることができない動きです。ある社会動向が席巻するとき、その最先端にいて仕掛け人となるのはごく僅かな人たちです。その人たちは何か新しいことを始め、次に何か新しい考え方や物の見方を受け入れます。しかし大部分の人々は無意識のうちに、この動向に汚染され、惹きつけられ、取り込まれ続け、やがてそれを知らず知らずのうちに無意識のうちに受け入れ、それに呑み込まれて支配されるようになります。このような社会動向のせいで、心身が健全でなく、真理とは何かを知らず、肯定的なものと否定的なものの区別ができない人たちは、そうした動向を次々と喜んで受け入れ、さらにはサタンに由来する人生観や価値観も受け入れてしまいます。このような人は、人生にどう取り組むかに関するサタンの言葉を受け入れ、サタンから「授けられた」生きる道を受け入れます。その人には抵抗する強さも能力もなく、ましてやその認識もありません。それでは、そうした動向をどう認識すべきでしょうか。あなたがたが徐々に理解できるような簡単な例を選びました。たとえば、昔は誰も騙されないように、買い手が誰であろうが同じ価格で商品を販売して、商業を営んでいました。ここに良心と人間性が感じられませんか。人がこのように信頼にもとづいて商業を営んでいたとき、ある程度の良心や人間性が当時あったと言うことがわかります。しかし、金銭への要求が増加を続けるにつれて、人間は知らぬ間に金銭や利得、快楽をますます愛するようになりました。人間は以前よりも、金銭を重要視しているのではないでしょうか。人間が金銭を非常に重要視するとき、その人は知らぬ間に自分自身の評判や名声、信望や人格を軽視するようになります。そうではありませんか。商売をしていると、人を騙すことで裕福になる人間を目にします。不正手段による利得ですが、その人はますます裕福になってゆきます。その人の家族全員が享楽にふけっているのを見て、あなたは動揺してこう考えます。「わたしたちはどちらも商売しているのに、向こうは豊かになった。わたしが大金を稼げないのはなぜなのか。こんなことは受け入れられない。もっと金を稼ぐ方法を見つけなければ」その後はどうすれば富を築けるかで頭がいっぱいになります。ひとたび「金銭は真面目に稼ぐべきで、誰も騙してはならない」という信念を諦めると、あなたは自分の利益に突き動かされ、考え方が徐々に変わり、行動の原則も変わってゆきます。初めて誰かを騙したとき、あなたは良心の呵責を感じ、心の声がこう告げます。「人を騙すのはこれで最後だ。いつも誰かを騙していれば、きっと報いを受けることになる」これが人間の良心の機能です。ためらいと自責の念のために、誰かを騙すと不自然に感じられるのです。しかし、うまく誰かを騙すと、以前よりも多くの金銭を持っていることに気付き、その方法が極めて有益になり得ると考えます。心に鈍い痛みがあるものの、自分の「成功」を祝いたくなり、自分に満足した気分になります。そこで初めてあなたは、自分の振る舞いと欺瞞行為を是認します。ひとたび人間がこの不正行為に汚されると、賭博に手を出してギャンブラーになってしまう人と同様です。無意識のうちに、自分の不正行為を容認し受け入れます。無意識のうちに、不正は正当な商業行為であり、自分の生存と生活のための最も便利な手段であるとみなし、この方法ですぐ裕福になれると考えます。これはひとつの過程です。最初は、人間はそんな行為を受け入れることはできず、そのような振る舞いや行為を侮蔑しますが、ひとたび自分自身で試し、自分なりの方法で実行し始めると、心は次第に変わり始めます。これはどういう変化ですか。それは、この動向を是認すること、この社会動向により自分の内に浸透した考え方を是認することです。商売で他人を騙さなければ、自分は損をするといつの間にか感じます。他人を騙さなければ、自分が何かを失ったように感じます。知らぬ間に、こうした不正が自分の魂そのものとなり、背骨となり、不可欠な振る舞いとなって、それが自分の人生の原則になります。人間がこのような行動と考え方を受け入れた後、そのせいでその人の心は変化してしまっているのではないですか。心が変化してしまったら、人格も変化していますか。人間性は変化していますか。良心は変化していますか。心から思考に到るまで、内面から外面に到るまで、あなたの存在全体が変わってしまい、それは質的な変化です。この変化により、あなたは神から次第に遠ざかって行き、次第にサタンに近くつながり、サタンに似てきます。その結果、サタンによる堕落のせいで、あなたは悪魔になるのです。
これらの社会動向を見て、それは人に大きな影響を及ぼすと言えるでしょうか。人間に深刻な悪影響を及ぼしますか。社会動向は人に極めて深刻な悪影響を及ぼします。サタンは一つひとつの社会動向を用いて、人間のどの側面を堕落させますか。サタンはおもに人間の良心、理知、人間性、道徳、そして人生観を堕落させます。そうした社会動向が、人々を徐々に腐敗させ、堕落させるのではないでしょうか。サタンはこうした社会動向を用いて、少しずつ人間を誘惑して悪の巣窟へと導き、社会動向に捕らわれた人間は気付かぬうちに金銭や物欲、邪悪と暴力を擁護するようになります。ひとたびこうした物事が人間の心に入ると、人間はどうなりますか。人間は邪悪なサタンと化すのです。なぜですか。なぜなら、人間の心にはどのような心理的傾向がありますか。人間は何をあがめますか。人間は邪悪と暴力を好むようになり、美や善を喜ばず、またそれ以上に平和を嫌います。人間は正常な人間性による質素な生活を送ろうとせず、高い地位や大きな富を楽しむことを望み、肉の享楽に耽溺し、自分の肉を際限も制約もなく満足させるために努力を惜しまず、したいことならば何でも行ないます。人間がこうした動向に没頭した場合、取得した知識は人が自分を解放するのに役立ちますか。伝統文化や迷信を理解していることは、この窮地から逃げるのに役立ちますか。人が知る伝統的な道徳や儀式は、人間が自制する上で役立ちますか。例として、『論語』と『道徳経』を考えてみなさい。これらは、人間がそうした悪しき動向の泥沼から抜け出すのに役立ちますか。絶対に役立ちません。このように、人間はますます邪悪で、傲慢で、尊大で、自己中心的で悪意に満ちてゆきます。もはや人間の間にも家族の間にも愛情はなく、親戚や友人の間に理解もなくなり、人間関係は暴力に満ちたものとなっています。誰もが暴力的方法で世間を生きていこうとして、自分自身の生活を確保するために暴力を使います。地位や利益を得るためにも暴力を用い、また乱暴で邪悪な方法でしたい放題です。このような人類は恐ろしくありませんか。そう、非常に恐ろしいです。彼らは神を十字架にかけただけでなく、神に付き従うすべての人を殺戮しようとしました。人間はあまりに邪悪だからです。今わたしが述べた事を聞いて、サタンが人類を堕落させているこの環境、この世界、このような人々のそばで暮らすのは恐ろしいと思いませんか。(恐ろしいと思います。)それでは、あなたがたは自分達が哀れだと感じたことはありますか。今、少々そのように感じているはずです。(はい。)あなたがたの口調からすると、あなたがたは「サタンは実に様々な方法で人間を堕落させている。サタンはあらゆる機会を捉え、あらゆる所に存在する。それでも人間は救われることができるだろうか」と考えているようです。それでも人間は救われることができますか。人間は自分自身を救うことができますか。(できません。)玉皇大帝は人間を救うことができますか。孔子は人間を救うことができますか。觀世音菩薩は人間を救うことができますか。(できません。)それでは、誰が人間を救うことができますか。(神様です。)しかし、心の中に疑問を抱く人もいます。たとえば、「サタンは人間を極めて激しく害するので、わたしたちには生きていく希望もなければ自信もない。わたしたちは皆堕落のただ中で生活し、いずれにしても誰もが神を拒否している。今や、人間の心は落ち込めるところまで落ちてしまった。サタンが人間を堕落させている間、神はどこにいるのか。神は何をしているのか。神が人間のために何をしているとしても、人間にはそれを感じることができない」と思うこともあれば、どうしようもなく意気消沈し、なんとなく落胆することもあります。あなたがたにとって、この気持ちは極めて深いものです。なぜなら、わたしがずっと述べてきたことは、皆に徐々に理解させ、希望がないことをますます強く感じさせ、神に見捨てられたとますます強く感じさせるためだからです。しかし、心配してはなりません。今日の主題「サタンの邪悪さ」は、わたしたちの真の主題ではありません。とは言え、神の聖さについて話すためには、まずサタンがどのように人間を堕落させるのか、そしてサタンの邪悪さについて話し合い、人間が現在置かれている状況を人に明確にする必要があります。これらの事を議論する目的のひとつは、人間がサタンの邪悪さを知ることであり、もうひとつは真の聖さとは何かを一層深く理解できるようにすることです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 159
神が人間に行なうことを通して、神の聖さを理解する (抄出)
サタンが人間を堕落させるとき、あるいは留まることを知らない危害を加えるとき、神は何もせず傍観することも、神の選民を無視したり、見て見ぬふりをしたりすることもありません。サタンが行なうことすべてを神は完璧に明瞭に理解しています。サタンが何をしても、サタンがどのような動向を引き起こしたとしても、神はサタンが何をしようとしているかを知っており、神はその選民を見捨てることはないのです。神は、その代わりに、誰の気を引くこともなく、秘密裏に、静かに、必要なことすべてを行ないます。神が誰かに働き始める時、誰かを選ぶ時、神はそれを誰にも告げず、またサタンに告げることもなければ、それを誇示することもありません。神は静かに、そして自然に必要なことを行なうのみです。まず、神はあなたのためにある家庭を選びます。つまり、家庭背景、両親、祖先などを神は前もって決定します。つまり、これらは神が思いつきで決めたことではなく、遠い過去に始めた業です。神があなたの家庭を選ぶと、神はあなたが生まれる日を選びます。神はあなたが産声を上げてこの世に生まれて来るのを見ています。あなたの誕生を、あなたが最初の言葉を口にするのを、あなたが躓きながら歩くことを覚えるのを見ています。あなたは最初の一歩を踏み出し、その後もう一歩を踏み出し、今では走ったり、跳んだり、話をしたり、感情を表現したりできます……。こうして人間が成長するにつれて、サタンの眼差しは獲物を睨む虎のように、人間一人ひとりに注がれています。しかし神は働く時、人間や出来事、物、場所や時間の制限を受けることが一切なく、神は行なうべきこと、行なわなくてはならないことを行ないます。成長過程において、あなたは自分が好まない物事、たとえば疾病や挫折に遭遇することがあります。しかしあなたがその道を進むにつれて、あなたのいのちと将来は厳密に神の加護のもとにあります。神は生涯にわたって有効な保証をあなたに与えます。神はあなたの傍らにあり、あなたを守り、見守るからです。あなたは、それを知らずに育ちます。あなたは新たな物事に接し、この世の中と人類を知るようになります。あなたにとってすべてが新鮮です。あなたには好きなことがあります。あなたは自分の人間性と環境の中で生活し、神の存在については一切の認識がありません。それでも神はあなたが成長し、前進してゆく過程のすべてを見ています。あなたが知識を習得したり、科学を学習したりしている時でさえ、神はあなたの側から一歩も離れることがないのです。あなたは他の人とまったく同様に、この世を知り、この世と関わるようになるなかで、あなた自身の理想を確立し、趣味を持ち、興味の対象を持ち、高尚な大志を抱くようになります。あなたは自分の将来について頻繁に思索し、自分の将来がどうなるかを思い描きます。しかし、その過程で何があったとしても、神はすべてをはっきりと見ています。あなたは自分の過去について忘れたかもしれませんが、神にとっては、神よりもあなたを理解できる者はありません。あなたは神の見守る中で生活し、成長し、成熟します。この間、神の最も重要な務めは、誰も気付かず、誰も知らないことです。神がそれについて誰かに伝えることは当然ありません。この最も重要なこととは何ですか。それは、神がある人間を救う保証であると言えます。つまり、神がその人を救うことを望むのであれば、神はそうしなければならないのです。その務めは人間にとっても神にとっても極めて重要です。それが何か知っていますか。あなたがたは、このことについて実感や概念がまったくないようなので、わたしが話します。あなたが生まれた時から現在に至るまで、神はあなたに多くの働きを行なってきましたが、神は行なったことをすべて詳しく伝えることはありません。神はあなたに知らせることはなく、あなたに伝えませんでした。しかし、人類にとって、神の行ないはすべて重要です。神にとって、それは行なうべきことです。神の心には、神がなすべきことで他の何よりも遙かに重要なことがあります。それは、人間が生まれてから現在に至るまで、神はその人の安全を保証する必要があるということです。これを聞いても、あなたがたは完全に理解できないように感じ、「その安全とは、それほど重要なものなのか」と言うかも知れません。「安全」という言葉の文字通りの意味は何ですか。あなたがたは、それを平安である、災害や災難に遭遇することがないことである、良い生活を送ることである、普通に生活することであるなどと理解しているかもしれません。しかし、安全とはそれほど単純なものではないということを、あなたがたは心の中で知らなければなりません。それでは、わたしが話している、神が行うべきこととは一体何ですか。安全は神にとって何を意味しますか。それは本当に普通の意味の「安全」の保証のことですか。いいえ。それでは、神が行なうことは何ですか。この「安全」とは、あなたがサタンに食い尽くされない、ということです。これは重要ですか。サタンに食い尽くされないことは、あなたの安全に関連しますか。はい。これはあなた自身の安全に関わり、それよりも重要な事はありません。ひとたびサタンに食い尽くされたなら、あなたの魂も肉も、もはや神に属しません。神はあなたをもはや救いません。神はサタンに食い尽くされた魂や人を見捨てます。ですから、神が行なうべき最も重要なことは、あなたの安全、あなたがサタンに食い尽くされないことを保証することだと言うのです。これは極めて重要ではありませんか。ではなぜ、あなたがたは回答できないのですか。あなたがたは神の大いなる優しさを感じることができないようですね。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 160
神が人間に行なうことを通して、神の聖さを理解する (抄出)
神は、人間の安全を保証すること、サタンに食い尽くされないことを保証すること以外にもかなりのことを行ないます。神は誰かを選んで救う前に準備の働きをかなり行ないます。まず、あなたはどのような性格になるか、どのような家庭に生まれるか、両親は誰か、兄弟姉妹は何名いるか、生まれる家庭の状況や経済的な地位や条件はどのようなものかなどについて、神は詳細な準備をします。神の選民の大部分がどのような家庭に生まれてくるかを知っていますか。名門の家庭ですか。名門家庭に生まれてくる人はまったくいないとは断言できません。何人かいるかもしれませんが、極めて少ないです。百万長者や億万長者など極めて裕福な家庭に生まれてきますか。その種の家庭に生まれてくることはほぼありません。それでは、神がそれらの人々の大部分に用意するのは、どのような家庭ですか。(普通の家庭です。)それでは、どのような家庭が「普通の家庭」とみなされますか。そこには労働者の家庭が含まれます。つまり、賃金に頼って生き延び、基本的な必需品を購入することができ、過度に裕福ではない家庭です。そこには農家の家庭も含まれます。農民は作物の栽培に頼って食糧を得ており、食糧として穀物があり、また着る衣服もあって、飢えたり凍え死んだりすることはありません。また、小規模な商売を営む家庭や、両親が知識人で普通の家庭と見なされる場合もあります。また両親が事務員や下級公務員である場合もあり、それらは名門家庭とは見なすことはできません。ほとんどは普通の家庭に生まれ、それはすべて神が用意したことです。つまり、まず、あなたの生活する環境は、人が想像するような資産家の家庭ではなく、神があなたのために決めた家庭であり、大部分の人がこうした家庭の制約範囲内で生活します。それでは、社会的地位はどうですか。大部分の親の経済状況は平均的であり、社会的地位は高くありません。彼らにとっては、職があるだけで十分です。長官はいますか。それとも大統領はいますか。いません。そうではないですか。地位が高かったとしても、小企業の管理職や経営者です。社会的地位は中間で、経済状態は平均的です。もう一つの要素は家庭の生活環境です。まず、自分の子どもに明らかに影響を与えて易断や運勢判断などの道へ進ませるような親はこれらの家庭にはいません。このようなことに関わる人はほとんどいません。大部分の親は極めて普通です。神は人間を選択すると同時に人間のためにこうした環境を用意しますが、それは人間を救う神の働きにとって大いに有益です。外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えます。神は行なうことをすべて静かに秘密裏に、かつ謙虚に沈黙のうちに行ないます。しかし実際には、神がすることはすべてあなたの救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要なすべての条件を用意するためです。次に、ある特定の時間になると、神は一人ひとりを神の前に戻します。あなたが神の声を聞き、神の前に出るのはその時です。その時が来るまでに、既に人の親となっている人もいれば、まだ誰かの子のままの人もいます。換言すると、既に結婚して子をもうけた人もいれば、独身のままで自分の家庭を持っていない人もいるのです。しかし、状況を問わず、あなたが選ばれる時期、神の福音と言葉があなたに届く時期を、神は既に決定しています。あなたが神の言葉を聞くように、神は状況を設定し、あなたに福音をもたらす特定の人物や状況を決定しています。神は必要なすべての条件をあなたのために既に用意しています。このように、ことが起こっていることを気づいていないものの、人は神の前に来て、神の家に戻ります。また、人は知らないうちに神に付き従い、神が人のために用意した働きの過程のそれぞれの段階に入っていきます。この時、人間のために何かを行なうのに、神はどのような方法を使うでしょうか。まず、最低限は、人間が享受する配慮と保護です。それ以外には、人間が神の存在と神による業をそこに見出せるように、神は様々な人や出来事、物を用意します。たとえば、家族が病を患っているために神を信仰する人がいます。誰かが彼らに福音を宣べ伝え、神を信じるようになり、その神への信仰は状況が原因となって生まれました。それでは、この状況を用意したのは誰ですか。(神様です。)この病により、全員が信者である家庭が存在する一方で、二、三人だけが信仰者である家庭も存在します。外見上は家族の誰かが病気にかかったのですが、実はその疾病は神の前へと行くように、あなたに与えられた条件であり、すなわちそれは神の優しさです。家庭生活が困難で平安を見出すことができない人のために、偶然の機会が訪れ、誰かが福音を伝え「主イエスを信じれば、平安が訪れる」と言うかもしれません。そうして、無意識のうちに、彼らは極めて自然に神を信じるようになります。これは一種の条件ではありませんか。それでは、家庭に平安がないというのは、神が彼らに与えた恵みではありませんか。他の理由で神を信じるようになる人もいます。信仰には様々な理由や在り方がありますが、神を信じるようになった理由がどのようなものであれ、実際には、それはすべて神が用意し、導いたものなのです。最初、神は様々な方法であなたを選び、あなたを神の家に連れてきます。これが神があらゆる人に与える恵みです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 161
神が人間に行なうことを通して、神の聖さを理解する (抄出)
この終わりの日における神の働きの現在の段階では、神はもはや以前のようにただ恵みと祝福を人間に与えるのではなく、また人間をなだめて前に導くこともありません。この働きの段階で、自身が経験した神の働きのあらゆる側面から、人間は何を見ましたか。人間は神の愛と神の裁きと刑罰を見ました。この期間、神は人間に施し、人間を支え、啓き、導き、人間は次第に神の意図、神が語る言葉、そして神が人間に与える真理を知るようになります。人間が弱く、落胆し、行き場を失った時、神は言葉を用いて人間を慰め、忠告し、励ますので、人間の小さな霊的背丈は次第に伸び、強くなり、前向きに立ち上がることができ、神と協力することを望むようになります。しかし、人間が神に従わず、神に抵抗する時、あるいは自分自身の堕落を表す時、神は容赦なく人を懲らしめ鍛錬します。しかし、人間の愚かさ、無知、弱さ、未熟さに神は寛容と忍耐を示します。このように、神が人間のために行なうすべての働きにより、人間は次第に成長、成熟し、神の意図を知り、何らかの真理を知り、何が肯定的で何が否定的な物事なのか、邪悪と闇とは何かを知るようになります。神は人間を懲らしめ、鍛錬する一つだけの方法を取らず、また常に寛容と忍耐を示すとは限りません。むしろ、神は各人に異なる方法で、様々な段階において、人間の異なる霊的背丈や能力に応じて施すのです。神は、人間のために多くのことを行ない、大きな代償を払います。人間はその代償や業を認識することはないものの、神のすることは本当に人間一人ひとりに実際に行なわれています。神の愛は実際的です。神の恵みにより、人間は災害を次々と回避する一方で、人間の弱さには、神は何度となく寛容を示します。神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与えること、神が人間を啓くこと、そして神による導きにより、人類は真理の本質、人間に必要なこと、進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。こうした神の業は、神の唯一の元来の目的と不可分です。それでは、その目的とは何ですか。神がそのような方法で人間への働きを行なうのは、なぜですか。神はどのような結果を実現したいのですか。言い換えれば、神は人間に何を見、人間から何を得たいのですか。神は、人間の心が蘇ることを見たいのです。神が用いるこのような方法は、人間の心を目覚めさせ、霊を目覚めさせ、人間がどこから来たのか、人間を導き、支え、人間に施しているのは誰か、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるための継続した努力です。創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、どのような道を歩むべきか、どのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるための手段です。人間が神の心を知り、理解し、神の人間を救う働きの背後にある大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるための手段です。人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質で生きることを望まなくなり、その代わりに神を満足させるために真理を追い求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンに支配されることも騙されることもなくなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 162
神が人間に行なうことを通して、神の聖さを理解する (抄出)
サタンの邪悪についてたった今した話しは、人間は極めて不幸に生きており、人間の生活は不運を極めていると皆に感じさせます。しかし、神の聖さと神の人間への働きについて話すと、あなたがたはどのように感じますか。(非常に幸福です。)神の行なうすべてや、人間のために神が慎重に用意する物事がすべて完璧であることが今では分かります。神が行なうことには誤りがありません。つまり、非の打ち所がなく、誰の修正も、助言も、変更も必要ないのです。個々の人間のために神が行なうことには、疑問の余地がなく、神はあらゆる人を手を引いて導き、あなたを常に見守り、あなたの傍らを決して離れません。このような環境と背景で人間が成長するのなら、実際のところ人間は神の手の中で成長すると言えるのではないですか。(はい。)それでは、あなたがたは依然として喪失感を抱いていますか。落胆している人はいますか。神は人類を見捨てたと感じる人はいますか。(いません。)それでは、神は一体何を行ないましたか。(神様は人類を見守ってくださいました。)神がすることすべてに注ぐ大いなる思いと慈しみには、疑問の余地がありません。さらに、働きを行なうとき、神は無条件で行なってきました。神があなたのために負う代償をあなたが知り、それゆえ神に深謝することを、あなたがたのうちの誰にも要求したことはありません。神はかつてそのようなことを要求したことがありますか。(ありません。)長い人生の中では、誰もが数多くの危険な状況や誘惑に遭遇します。これは、あなたの傍らにはサタンが存在し、あなたを常に見据えているからです。サタンは、あなたが災害に見舞われたり、災難が降りかかったり、何事もうまくいかなかったり、あなたがサタンの罠にかかることを大いに喜びます。しかるに神は、常にあなたを守り、次々起こる逆境や災難からあなたを守ります。これが、平安や喜び、祝福、身体の安全など、人間が持つものは、実際のところすべてが神の支配下にあり、神が各人の運命を導き決定している、とわたしが言う理由です。しかし、一部の人が言うように、神は自己の地位について仰々しい概念を持っていますか。神はあなたに、「わたしは最も偉大な存在であり、わたしがあなたがたを支配している。あなたがたはわたしに慈悲を請わなければならず、わたしに従わないなら死をもって罰とする」と言いますか。神はかつて、このように人類を脅迫したことがありますか。(ありません。)神は、これまでに「人類は堕落しているので、わたしが人間をどのように好き勝手に扱ってもどうでもよい。人間のために周到な用意を行なう必要はない」などと言ったことがありますか。神はこのように考えますか。神がそのように行動したことがありますか。(ありません。)それとは反対に、神による人間一人ひとりの扱いはまじめで責任感があり、あなたが自分自身を扱うよりも責任感に溢れています。そうではないですか。神は無益に言葉を述べることも、その高い地位を誇示することも、人を欺くこともありません。その逆で、神は誠実かつ静かに行なうべきことを行ないます。それらの業は人間に祝福、平安、喜びをもたらします。それらは人間を平安かつ幸福のうちに神の見えるところへ、神の家へと連れて行きます。すると人間は正常な理知と思考をもって、神の前で生きて神の救いを受け入れます。それならば、神はその働きにおいて人間について他意があったことがありますか。かつて神が人間に対して親切を装い、少々の愛想のよい言葉で騙し、それから背を向けたことがありますか。(ありません。)かつて神が、あることを述べ、それと一致しないことを行なったことがありますか。かつて神が、これをしてあげよう、あれをするのを助けてあげようと空虚な約束をし、豪語した上で消え去ったことがありますか。(ありません。)神には狡猾さや偽りがありません。神は信実で、神はそのすることすべてにおいて真実です。神は、人間が信頼できる唯一の存在であり、自分の人生、もっているものすべてを託すことのできる神です。神には狡猾さがないのであれば、神は最も真摯な存在であると言えますか。(はい。)当然言えます。「真摯な」という言葉は神に当てはめるには無力すぎ、人間的でありすぎるものの、他にどんな言葉が使えるというのでしょうか。これが人間の言語の制約です。神を「真摯である」とするのは不適ですが、当座はこの語を用います。神は信実かつ真摯です。それでは、こうした側面について話すとき、何を指していますか。神と人間の相違点や、神とサタンの相違点ですか。そう言うこともできます。なぜなら人間は、サタンの堕落した性質をまったく神に見出すことができないからです。これは正しいですか。その通り(アーメン)ですか。(アーメン!)サタンの邪悪な性質のどれも、神において明らかになることはありません。神が行ない明示することはすべて人間にとって有益であり、人間を助け、人間に施すために行なわれ、いのちに満ちあふれ、人間に進むべき道と方向性を与えます。神は堕落しておらず、さらに神のすることすべてを検討すると、神は聖なる存在であると言えますか。(はい。)神には人類の堕落した性質が一切なく、堕落した人類のサタン的本質に類似したものも一切ないので、この観点から見ると、神は聖なる存在であるとはっきり言うことができます。神が堕落を示すことはなく、働きを行なうと同時に自身の本質を明らかにしますが、それによって神自身は聖いのだと完全に確認できます。このことが理解できますか。神の聖なる本質を知るために、次の二つの側面について検討しましょう。第一に、神には堕落した性質がまったくない、第二に、人間への神の働きの本質により、人間は神自身の本質を理解することができ、この本質は完全に肯定的である。神の働きの一つひとつの部分が人間にもたらすものは、すべて肯定的だからです。まず、神は人間が誠実であることを要求します。これは肯定的なことではありませんか。神は人間に知恵を与えます。これは肯定的ではないですか。神は人間が善と悪を見分けることができるようにします。これは肯定的ではないですか。神は人生の意味と価値を人間に理解させます。これは肯定的ではないですか。神は人間に人、出来事、物の本質を真理に従って理解させます。これは肯定的ではないですか。これらすべての結果として、人間はもはやサタンに騙されたり、危害を加えられ、支配され続けることがなくなります。つまり、これらのおかげで人間はサタンの堕落から完全に自己を解放し、そうすることで神を畏れ悪を避ける道を徐々に歩むことができます。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 163
人間を堕落させるためにサタンが用いる手段は、おもに六つあります
第一の手段は支配と威圧です。つまり、サタンはあなたの心を支配するために、あらゆることを行ないます。「威圧」とは何ですか。脅迫と強制的な戦術を用いてあなたに言うことを聞かせ、従わなかった場合の結末を考慮させることを意味します。あなたは恐れて、逆らうような真似はせず、サタンに服従します。
第二の手段は騙しとごまかしです。「騙しとごまかし」には何が伴いますか。サタンは物語や嘘をでっち上げて人を騙してそれらを信じさせます。サタンは人間が神に造られたとは決して言いませんが、人間は神に造られたのではないとも直接的に言いません。サタンは「神」という言葉をまったく用いず、あなたを惑わすために言い換えの言葉を用いるので、あなたは神の存在については基本的に何も知りません。このごまかしには当然、これ以外にも様々な側面があります。
第三の手段は強制的な教化です。何について人は強制的に教化されますか。強制的な教化は、人間自身の選択により行なわれますか。人間の同意のもとで行なわれますか。そのような形では絶対に行なわれません。人間が同意しなくても、どうすることもできません。あなたの無意識のうちに、サタンの思想や生活法則、本質があなたに吹き込まれます。
第四の手段は脅迫と誘惑です。つまり、あなたにサタンを受け入れさせ、あなたをサタンに付き従わせ、サタンのために行動させるために、サタンは様々な手段を用います。サタンは目標達成のためならば、手段を選びません。サタンは時々あなたに僅かに恩恵を施し、あなたを誘惑して罪を犯させます。あなたがサタンに従わなかった場合、サタンはあなたを苦しめ、あなたに罰を与え、あなたを攻撃して危害を加えるために様々な手段を用います。
第五の手段は惑わしと麻痺です。「惑わしと麻痺」とは、人間を騙すことが唯一の目的なのに、あたかもサタンが人間の肉や生活、将来を考慮しているように見えるよう、人間の観念に一致し、もっともらしく思える甘い言葉や思想を人に植え付けることです。サタンはそうして人間を麻痺させるので、人間は善悪の判断がつかなくなり、人間は知らないうちに騙され、サタンに支配されてしまうのです。
第六の手段は、心身の破壊です。サタンは人間のどの部分を破壊しますか。サタンは人間の精神を破壊し、あなたを無力にして反抗させないようにします。つまり、あなたの心は自分の意思に反して少しずつサタンへ向いてゆきます。サタンは、考えや文化などを用いて、そのようなことを日常的に人間に吹き込み、人間に影響を及ぼし、教化し、少しづつ人間の意志を滅ぼし、もはや善人になりたくないと考えさせ、人間が義と呼ぶものを堅持する意志をくじきます。知らないうちに、人間は流れに逆らって上流へと進む意志の力を失い、下流に流されていきます。「破壊」とは、サタンが人間を苦しめるあまり、人間の幽霊で、もはや人間ではない状態にした上で、その機会に人間を食い尽くすことです。
サタンが人間を堕落させるこれらの手段は、どれもが人間を無力にして反抗できない状態に陥れることが可能です。どれもが人間にとって致命的なものです。つまり、サタンの行動とサタンが用いる手段は、すべてあなたを堕落させ、サタンの支配下に置き、罪悪の泥沼に陥れることができます。これらがサタンが人間を堕落させるために用いる手段です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 164
現在、神の本質に関するあなたがたの知覚的な理解には、学び、確認し、実感し、経験するための長い時間が必要です。やがて心の奥から「神の聖さ」が、神の本質が完璧なこと、神の愛が無私なこと、神が人間に与えるすべてが無私であることを知り、神の聖さは汚れがなく、非難の余地がないことを知ります。神の本質のこれらの側面は、神が自身の身分を誇示するために用いるただの言葉ではなく、むしろ神はその本質を用いて、静かに、真摯に個々の人間を取り扱うのです。つまり、神の本質は空虚なものでも、理論的なものでも、教義上のものでもなく、ましてやある種の知識などではないのです。それはまた人間のための教育の一種ではなく、神自身の行ないの真の顕示であり、神がもつもの、神であるものの本質の顕示です。人間はこの本質を知り、理解しなければなりません。なぜなら神が行なうこと、神が言う言葉にはすべて一人ひとりの人間にとって大いなる価値と意義があるからです。あなたが神の聖さを理解するようになれば、神を真に信仰することができます。神の聖さを理解するようになれば、「唯一無二の神自身」という言葉の真意を本当に理解できます。あなたはこの道以外にも他の道を歩むことも可能であるなどと想像することはもはやなく、神があなたのために用意したすべてを裏切ろうとはもはや思わなくなります。なぜなら神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみ義なる光の道にて人生を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人間性を生きることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができるからです。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、あなたがこれ以上苦しまないように、辛苦の海から救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。なぜなら被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い導く能力のある人や物は存在しないからです。これが人間にとっての神の本質の重要性です。あなたがたは、わたしがたった今語ったこれらの言葉が原理的には多少役立つと感じるかも知れません。しかし、あなたが真理を追い求め、真理を愛しているのであれば、わたしのこれらの言葉はあなたの運命を変えるのみならず、人生の正しい道へとあなたを導くことを体験するようになります。あなたがたはこのことを理解していますね。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)
日々の神の御言葉 抜粋 165
本日の集会の最初にあなたがたがしたことでわたしを驚かせたことについて話します。あなたがたの中にはおそらくありがたく思っていたり、感謝の気持ちを抱いていたりした人がいたのでしょう。そして、その思いが行為につながりました。その行為は咎められることではなく、正しくも誤ってもいません。しかし、あなたがたに理解して欲しいことがあります。それは何でしょうか。まず、あなたがたが、たった今したことについて尋ねます。それは礼拝のためのひれ伏し、あるいはひざまずきですか。誰か答えられますか。(ひれ伏しだと思います。)あなたがたはそれはひれ伏しだったと思っているということですが、その意味は何ですか。(礼拝です。)それでは、ひざまずいて礼拝することとは何ですか。これまであなたがたとこのことについて話し合ったことはありませんが、今日はこのことを話す必要があると感じます。あなたがたは普段の集会でひれ伏しますか。(いいえ。)祈るときにはひれ伏しますか。(はい。)条件が許す場合、祈る度にひれ伏しますか。(はい。)それはよろしい。しかし、今日わたしがあなたがたに理解してもらいたいのは、神は二種類の人間によるひざまずきしか受け入れないということです。聖書を参照したり、霊的人物の行動を参照したりする必要はありません。わたしが今ここで、ある真実を述べます。まず、ひれ伏すことと、ひざまずいて礼拝することは同じではありません。ひれ伏す者がひざまずくのを神が受け入れるのはなぜですか。それは、神が誰かを神のもとへ呼び、神からの任務を受け入れるよう命ずるのですから、神はその人が神の前でひれ伏すのを許します。これが第一の種類の人間です。第二の種類は、神を畏れ、悪を避ける人間がひざまずいて礼拝することです。この二種類の人間があるだけです。あなたがたはどちらの種類に属していますか。答えられますか。多少気持ちが傷つく人もいるかも知れませんが、これは事実の真相です。祈りを捧げる際に人々がひざまずくことについては、何も言うことがありません。それは適切であり、然るべきものでしょう。なぜなら、人々が祈る時大抵は、神に自分の心を開き、神と対面して、何かを求めて祈っているからです。それは神との心と心の意思疎通、意志交換です。ひざまずいて礼拝することは単なる形式となるべきではありません。今日のあなたがたの行動について咎めるつもりはありません。あなたがたがこの原則を理解できるように、明確にしたいだけです。わかりますね。(はい。わかります。)同じことが再び起こらないように、このように話しているだけです。それでは、人間が神の前でひれ伏し、ひざまずく機会はありますか。そのような機会は決してないということはありません。遅かれ速かれ、その時が来ますが、それは今ではありません。わかりますか。この話のせいで動揺していますか。(いいえ。)よろしい。こうした言葉はあなたがたの動機付けや激励となり、現在の神と人間との窮状や、神と人間の関係がどのようなものであるかをあなたがたは心で理解することができるかもしれません。最近、わたしたちはずいぶん話し合い、交流していますが、神に関する人間の認識は、未だに十分と言うには程遠いです。人間が神を認識するために進むべき道のりは、まだ先が長いです。わたしの意図は、あなたがたに早急にそうさせることでも、そうした意欲や感情を示させることでもありません。あなたがたが今日したことは、おそらくあなたがたの真の気持ちを示し表現するもので、わたしはそれを感じました。そうしたわけで、あなたがたがそうしている最中、わたしは立ち上がって、あなたがたの幸いを願うわたしの気持ちを表したかったのです。なぜなら、わたしはあなたがた全員の幸いを願っているからです。わたしは、あらゆる言動において、あなたがたがあらゆることを正しく理解して正しい見方ができるように、あなたがたを助け、導くことに最善を尽くしています。このことは理解できますね。(はい。)よろしい。神の様々な性質、神がもつもの、神であるものの側面、また神の働きについて、人はある程度理解しているものの、この理解の大部分が、表面的な読書、原理の理解、あるいは単にそれらについて考えることに留まっています。人間に最も不足しているのは、実経験から得られる真の理解と見解です。人間の心を目覚めさせるために神は様々な方法を用いているものの、このことが達成されるまでの道のりは、まだ先が長いです。わたしは、神に取り残され、無視され、見捨てられたように誰かが感じるのを見たくありません。わたしは、あなたがた全員が真理と神への理解を追求し、揺るがぬ意志で、不安や負担なく、勇気を持って前進することを望んでいます。あなたがこれまでどのような悪いことを行なったとしても、どれほど大きく道を外れたとしても、どれほど過ちを犯したとしても、そうしたことを神を知ろうとする追求における負担や重荷としてはなりません。絶えず前進しなさい。人間を救うことは常に神の心にあります。これは決して変わりません。これが神の本質のなかで最も貴い部分です。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VI.」(『言葉』第2巻)