いのちへの入り(5)

日々の神の御言葉 抜粋 520

イエスに付き従っている間、ペテロはイエスについて多くの意見を持ち、常に自身の観点からイエスのことを判断していた。ある程度は霊について理解していたものの、その理解はいささか曖昧であり、それゆえこのように言った。「わたしは天なる父によって遣わされたお方に付き従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」。ペテロはイエスが行ったことを理解していなかったし、それについて明瞭さを欠いていた。しばらくイエスに付き従った後、ペテロはイエスの言動、またイエス自身に次第に興味を抱き始めた。イエスが愛と尊敬の念を呼び起こすのを感じるようになり、イエスと交わり、イエスのそばにいたいと思うようになった。そして、イエスの言葉に耳を傾けることで、糧と助けを施された。イエスに付き従っていた期間、ペテロはイエスの生活のすべて、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情を観察し、心に留めた。また、イエスが普通の人と違うことを深く理解した。イエスの人間としての外見は極めて普通だったが、イエスは人間に対する愛、憐れみ、寛容で満ちていた。イエスの言動はどれも他の人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスから、それまで見たことも所有したこともない物事を目の当たりにし、自分のものとした。イエスには大きな背丈や並外れた人間性は一切ないが、実に驚くべき非凡な雰囲気があることを、ペテロは見たのである。それを完全に説明することはできなかったものの、イエスの行動が他の誰とも違っていることは理解できた。と言うのも、イエスが行ったことは、普通の人が行うこととまったく異なっていたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格が普通の人とは違っていることも目の当たりにした。常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、また物事を控えめに表現することもなく、ごく普通でありながら称賛に値する性格を表わすような生活を送っていたのである。率直かつ上品に話し、朗らかながら穏やかな物腰で常に交わり、それでいて働きを実行するときは、決して威厳を失わなかった。ペテロは、イエスが無口になることもあれば、絶え間なく話すこともあるのを見た。嬉しさのあまり、あちこち飛び回ってはしゃいでいる鳩のように見えることもあれば、悲しみのあまり、まるでくたびれ疲れ果てた母親のように、悲嘆に暮れてまったく口をきかないこともあった。また時として、敵を殺そうと突進する勇敢な兵士のように憤りで一杯になることもあれば、吠え猛るライオンのように見えることさえあった。時には笑い、時には祈りながら泣くこともあった。イエスがどのように振る舞うかにかかわらず、ペテロは限りない愛と敬意をイエスに対して抱くようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを悲嘆に落とし入れ、イエスの怒りはペテロを恐れさせたが、その一方で、イエスの憐れみ、赦し、そして人々に対する厳しい要求によって、ペテロはイエスを真に愛し、イエスに対して真の畏敬と憧憬を抱くようになった。もちろん、ペテロがそのすべてを次第に認識するようになったのは、イエスのそばで長年暮らした後のことである。

『神の出現と働き』「ペテロはいかにしてイエスを知るに至ったか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 521

身体をほぼ完全に砕かれたときがペテロの経験の頂点だったが、イエスはそれでも彼の中で励ましを与えた。そして一度、イエスはペテロに姿を見せた。ペテロがとてつもない苦しみに遭い、心が打ち砕かれるように感じたとき、イエスはペテロにこう教えた。「あなたは地上でわたしと共にいたが、わたしもあなたと共にいた。わたしたちが天国で一緒になるのはこれからだが、結局のところ、それは霊の世界のことである。今、わたしは霊の世界に戻っているが、あなたは地上にいる。なぜなら、わたしは地のものではなく、あなたもまた地のものではないけれど、地上における自分の役割を果たさなければならないからだ。あなたはしもべなのだから、自身の本分を尽くさなければならない」。神のもとへ戻れるようになると聞いて、ペテロは慰められた。当時、ペテロは寝たきりになるほど苦しんでおり、「わたしはあまりに堕落しており、神に満足していただくことができない」と言うほど自責の念にかられていた。イエスは彼の前に現れ、言った。「ペテロよ、あなたはわたしの前で決心したことを忘れてしまったのか。わたしが言ったことを本当にすべて忘れてしまったのか。わたしに対して決意したことを忘れてしまったのか」。それがイエスだとわかったペテロは床から起き上がった。そしてイエスはこのように言って彼を慰めた。「すでに述べた通り、わたしは地のものではない――あなたはそれを理解しなければならないが、わたしがあなたに言ったもうひとつのことも忘れてしまったのか。『あなたも地のものではなく、世の者でもない』と。今、あなたには行わなければならない働きがある。このように嘆き、このように苦しんでいてはいけない。人間と神が同じ世界で共に暮らすことはできないが、わたしにはわたしの働きが、あなたにはあなたの働きがあり、いつかあなたの仕事が終わるとき、わたしたちは同じ領域で一緒になる。そしてわたしは、永遠にわたしと共にいるよう、あなたを導く」。ペテロはこの言葉を聞いて慰められ、安心した。この苦しみは、自分が耐えて経験しなければならないものであることを知り、それ以降、霊感を与えられたのである。イエスは特に要所要所でペテロの前に姿を見せ、特別な啓きと導きを与え、彼に対して多くの働きをした。では、ペテロは何を一番後悔したのか。ペテロが「あなたは生ける神の子です」と言ってから間もなく、イエスは別の質問をペテロにした(ただし、聖書にはそのように記されていない)。イエスは彼に「ペテロよ、あなたはかつてわたしを愛したことがあるのか」と訊いた。ペテロはイエスの言わんとすることを理解し、こう言った。、「主よ! わたしはかつて天なる父を愛しましたが、あなたを愛したことはないと認めます」。するとイエスは、「人が天なる父を愛さないなら、地上の子をどうして愛することができようか。人が神によって遣わされた子を愛さないなら、天なる父をどうして愛することができようか。人が地上の子を本当に愛するなら、天なる父も本当に愛しているのだ」と言った。ペテロはこれらの言葉を聞いて、自分に欠けているものに気づいた。「わたしはかつて天なる父を愛しましたが、あなたを愛したことは一度もありません」と言って涙を流すほど、常に後悔を感じたのである。イエスが復活し、昇天した後、ペテロはさらに自責の念にかられ、それらの言葉に悲しんだ。自分の昔の働きや現在の背丈を思い出し、神の旨を満たしていないことや、神の基準に達していないことを常に後悔し、負い目を感じて、しばしば祈りの中でイエスの前に出た。これらのことは彼の最大の重荷となった。ペテロは、「いつかわたしは、自分が持つすべてのものと、自分のすべてをあなたに捧げます。わたしはもっとも価値あるものをなんでもあなたに捧げます」と言った。また彼は、「神よ、わたしには一つの信仰と一つの愛しかありません。わたしのいのちにはなんの価値もありませんし、わたしの体も無価値です。わたしには一つの信仰と一つの愛しかないのです。わたしは思いの中であなたを信じ、心の中であなたを愛しています。あなたに捧げるものはこの二つしかなく、他には何もありません」と言った。ペテロはイエスの言葉で大いに励まされた。十字架にかけられる前、イエスがペテロに「わたしはこの世の者ではなく、あなたもこの世のものではない」と告げたからである。後に、ペテロが苦悩の絶頂に達したとき、イエスは彼にこう注意した。「ペテロよ、あなたは忘れてしまったのか。わたしはこの世のものではない。わたしが早くに去って行ったのは、ただわたしの働きのゆえなのだ。あなたもこの世のものではない。忘れてしまったのか。あなたに二度言ったが、覚えていないのか」。これを聞いたペテロは「わたしは忘れていません!」と言った。するとイエスはこう続けた。「かつて、あなたは天でわたしと幸せな時を過ごし、わたしのそばでしばらく過ごしていた。あなたはわたしがいなくて寂しく思っているが、わたしもあなたがいなくて寂しい。わたしから見て、被造物は言及する価値もない存在だが、純朴で愛しい者をどうして愛さずにいられようか。あなたはわたしの約束を忘れてしまったのか。地上でわたしが託したことを、あなたは受け入れなければならない。わたしが託した任務を果たさなければならない。わたしはいつか、必ずやあなたをわたしのそばに導く」。ペテロはこれを聞いてますます励まされ、さらに大きな霊感を受け、その結果、彼自身が十字架にかけられたとき、このように言うことができた。「神よ! わたしはあなたをいくら愛しても愛しきれません。たとえあなたが、わたしに対して死ねと言われても、やはりわたしはあなたを愛しても愛しきれません。あなたがわたしの魂をどこに送られても、あなたが過去の約束を果たされても果たされなくても、またあなたがその後何をなされても、わたしはあなたを愛し、信じます」。彼がしっかり持っていたのは、自身の信仰と真の愛だったのである。

『神の出現と働き』「ペテロはいかにしてイエスを知るに至ったか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 522

今、ペテロがいったいどんな道を歩んだのか、あなたは明確に見て取れるはずだ。ペテロの道をはっきり見て取れるなら、今日なされている働きを確信するようになり、不満を言ったり、消極的になったり、何かを切望したりすることはない。あなたは当時のペテロの気持ちを経験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来もどんな祝福も求めなかった。現世の利益、幸福、名声、富を求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけを求めた。つまり、神の愛に報い、自身にとって貴重この上ないものを神に捧げることである。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば次のような言葉で祈った。「主イエス・キリストよ、わたしはかつてあなたを愛していましたが、心から愛したことはありません。わたしはあなたを信じていると言いましたが、決して真の心であなたを愛してはいませんでした。わたしはあなたを尊敬し、お慕いし、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでも、心からあなたを信じていたのでもありません」。彼は絶えず祈って決意をし、イエスの言葉によっていつも励まされ、それらの言葉から動機を引き出していたのである。しばらくの経験の後、イエスはペテロを試し、自分をもっと慕うように促した。ペテロは言った。「主イエス・キリストよ、わたしはどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。わたしにはあまりに多くの欠点があり、あなたの愛にお応えすることができません。わたしをすぐに取り去ってくださるよう、切にお願いします。あなたはいつわたしを必要とされるのでしょうか。あなたはわたしをいつ取り去ってくださるのでしょうか。わたしはいつあなたの御顔をもう一度拝することができるでしょうか。わたしはもうこの体で生きたいとは思わず、このまま堕落し続けることも、これ以上反抗することも望んではいません。わたしが持っているすべてのものを一刻も早くあなたに捧げる用意ができています。そして、あなたをこれ以上悲しませたくありません」。ペテロはこのように祈ったが、イエスが彼の中で何を完全にするのか、そのときの彼にはわからなかった。ペテロが試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼の前に再び現れ、こう言った。「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全にする中で、あなたがその果実、その結晶となり、わたしがそれを享受できるように。あなたはまことにわたしを証しすることができるのか。わたしがあなたに求めたことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。しかし、あなたは確かにわたしを愛したけれども、果たしてわたしを生きたのか。わたしのために何をしたのか。あなたは、自分はわたしの愛にふさわしくないと認めたが、わたしのために何をしたのか」。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことを悟り、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それゆえ、彼はもはや不平不満を言わなくなり、その後の祈りはさらに素晴らしくなった。ペテロはこう言って祈った。「主イエス・キリストよ、わたしはかつてあなたから去りましたが、あなたもわたしから去られました。わたしたちは離れて時を過ごすこともあれば、一緒に過ごすこともありました。でもあなたは、他の誰よりもわたしを愛してくださいました。わたしはあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたがわたしに行われた働き、またわたしに託してくださったことを、わたしはいつも覚えておりますし、決して忘れることはありません。あなたがわたしにしてくださった働きのために、わたしは自分にできることを何でもしました。あなたはわたしができることをご存知で、わたしが果たせる役割はもっとご存知です。わたしはあなたの指揮に服従することを望み、自分が持つすべてのものをあなたに捧げます。わたしがあなたのために何をできるかは、あなただけがご存知です。サタンはわたしをずいぶん欺き、わたしはあなたに反抗しましたが、あなたはこのような過ちを覚えておられず、それを基にわたしを取り扱われないと信じています。わたしはあなたに一生を捧げたいのです。わたしは何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。ただあなたの意図に沿って行動し、あなたの御旨を行うことを望むだけです。わたしはあなたの苦い杯から飲み、あなたの命じられるとおりにします」。

あなたがたは自分が歩む道について明確でなければならない。また、自分が将来歩む道、神が何を完全にするのか、そして、自分に任されたことについても明確でなければならない。おそらくいつの日か、あなたがたは試されるだろう。そしてその時が来た際、あなたがたがペテロの経験から霊感を得られるのであれば、あなたがたがまことにペテロの道を歩いていることを示している。ペテロは真の信仰、愛、そして神への忠誠のために、神から称えられた、そして神が彼を完全にしたのは、彼の実直さと、彼が心に抱く神への切望のためだった。あなたが本当にペテロと同じ愛と信仰を持っているなら、イエスは必ずやあなたを完全にするだろう。

『神の出現と働き』「ペテロはいかにしてイエスを知るに至ったか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 523

神によって罰せられたとき、ペテロは祈って言った。「神よ、わたしの肉は従順でなく、あなたはわたしを罰し、裁かれます。わたしはあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたがわたしを求められなくとも、わたしはあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義の性質を目の当たりにします。他の人たちがあなたの裁きの中に、あなたの義なる性質を目にすることができるように、あなたがわたしを裁かれるとき、わたしは満足しています。あなたの性質が示され、あらゆる被造物があなたの義なる性質を見られるようになり、わたしがもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きはよいものであり、それはあなたの恵み深い御旨によるものです。自分にはいまだ反抗的な部分が多く、あなたの御前へ出るのにふさわしくないことは分かっております。過酷な環境と通してであろうと、あるいは大いなる患難を通してであろうと、あなたがわたしをさらに裁いてくださることを望みます。あなたが何をなさろうとも、わたしにとってそれは貴いものです。あなたの愛はかくも深く、わたしは一切不平を言わずに進んで自分自身をあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。現在、あなたがたはすでに征服されているが、この征服は、あなたがたの中でどのように表されているだろうか。中にはこのように言う人がいる。「わたしが征服されたことは、神による至高の恵みと引き上げである。人生は空虚であり、何の意味もないと、今になってやっと分かった。人間は人生を忙しく過ごし、何世代にもわたって子供を産み育てるが、結局何も残らない。神によって征服された今、このように生きるのが無価値なことをようやく知った。それは本当に無意味な人生だ。そのような人生など死んで終わらせたほうがいい」。神によって征服されたこのような人々は、神のものとされ得るだろうか。彼らは型となり模範となれるだろうか。このような人たちは消極性の見本であり、まったく熱意を持たず、向上しようと努力しない。彼らは征服された者の中に含まれるが、このように消極的な人間は完全にされることが不可能である。晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、わたしの余命があと数年あるならば、あなたへのさらに清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。そして十字架にかけられる直前、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたがわたしのために用意された時が来ました。わたしはあなたのために十字架にかけられ、この証しをしなければなりません。わたしの愛があなたの要求を満たし、いっそう清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架にかけられることは、わたしにとって慰めであり、励みでもあります。なぜなら、あなたのために十字架にかけられ、あなたの望みを満たし、自分自身をあなたに捧げ、わたしのいのちをあなたに捧げることができるのは、この上ない喜びだからです。神よ、あなたは本当に愛しいお方です。わたしが生きることをあなたが許されるなら、わたしはあなたを愛することをいっそう望むでしょう。生きている限り、わたしはあなたを愛するでしょう。わたしは、あなたをさらに深く愛することを望みます。あなたはわたしを裁かれ、刑罰を与えられ、わたしを試されます。なぜなら、わたしが不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なる性質が、わたしに対していっそう明らかになります。それはわたしにとって祝福です。なぜなら、わたしはあなたをいっそう深く愛することができ、あなたがわたしを愛されなかったとしても、わたしはあなたをこうして愛することを望むからです。わたしはあなたの義なる性質を喜んで見たいと思います。なぜなら、そうすることにより、有意義な人生を生きることがますます可能になるからです。わたしは今、自分の人生はさらに有意義だと感じています。なぜなら、わたしはあなたのために十字架にかけられており、あなたのために死ぬのは意味のあることだからです。しかしながら、わたしはまだ満足していません。なぜなら、あなたのことをほんの少ししか知らず、あなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんど報いなかったからです。わたしは人生において、自分のすべてをあなたに報いることができず、それに遠く及んでいません。今、振り返ってみると、わたしはあなたに大きな借りがあり、自分のすべての過ちと、いまだあなたに報いていないすべての愛を償うには、今この瞬間しかありません」。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 524

人間は意味のある人生を生きることを追い求めなければならず、現状に満足していてはならない。ペテロの姿を生きるには、ペテロの認識と経験を備えていなければならない。人間は、より高く、より深遠な物事を追求しなければならない。神に対するいっそう深く純粋な愛と、価値ある有意義な人生を追い求めなければならない。これだけが人生であり、そうして初めて、人はペテロと同じようになれる。あなたは、肯定的な側面へ入ることに対して積極的になることに重点を置くべきであり、一時的快楽のために、さらに深遠で、具体的で、実践的な真理を無視しつつ、誰かに追随して引き下がっていてはならない。あなたの愛は実践的でなければならず、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を、あなたは見出すべきである。意味のある人生、価値のある人生を生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない。神を愛することを目指すすべての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきだろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは何にも増して、そうした大志と根気を持っていなければならず、気骨のない者、意志の弱い者のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたに神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うのか、どのようにして自分自身を神に捧げるべきなのか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきなのか、そして、神を愛している以上、どのようにしていっそう清く、いっそう美しく、いっそう好ましく神を愛するべきなのかを慎重に考慮することができなければならない。あなたは今、自分が征服されたことに満足するだけでなく、将来歩む道についても考慮しなければならない。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思っていてはならない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すだろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理と距離を置くからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたのほうが、正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが長年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのであれば、それはいのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生きつつも、光を得られないでいるのなら、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたのもとを去ったからである。追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生においてまったく勇気がなく、闇の勢力に対抗する霊がないとしか言えない。あなたは弱過ぎるのだ。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことだけを望んでいる。あなたが成し遂げるべきは、征服されることの追求であり、それがあなたに課された本分である。征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払う。あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、またより多くの真理を得るために、さらに多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたのなすべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、自分の一生の尊厳や人格を失ってはならない。あなたは、美しく素晴らしいすべてのこと、またいっそう有意義な人生の道を追求すべきである。このような俗悪な生活を送り、何の目的も追い求めないのであれば、あなたは人生を無駄にしているのではないか。そのような人生から何が得られるのか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、わずかばかりの享楽のためにすべての真理を投げ捨ててはならない。このような人には品位も尊厳もなく、その存在には何の意味もない。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 525

神が人間を罰して裁くのは、そうすることが神の働きに必要であり、またさらに、人間にとって必要だからである。人間は刑罰と裁きを受ける必要があり、そうして初めて神への愛に達することができる。現在、あなたがたは完全に納得しているが、小さな挫折に直面するだけで窮地に陥ってしまう。あなたがたの霊的背丈はまだ小さ過ぎるので、いっそう深い認識を得るために、そうした刑罰と裁きをもっと経験しなければならない。現在、あなたがたはある程度神を敬い、神を畏れており、神が真の神であることを知っているが、神に対する大きな愛はなく、まして純粋な愛になど達していない。あなたがたの認識は浅過ぎ、あなたがたの霊的背丈はいまだ不十分である。ある環境にまさしく直面するとき、あなたがたはやはり証しに立つことがなく、積極的な入りはほとんどなく、どう実践すべきかを知らずにいる。大半の人は消極的で活発でない。心の中で密かに神を愛するだけで、実践する術がなく、自分の目標が何であるかを理解していない。完全にされた者は正常な人間性だけでなく、良心の尺度を超え、良心の基準よりも高い真理も備えている。自分の良心で神の愛に報いるのみならず、それ以上に、神を知っており、神が愛しい存在であること、人間の愛を受けるのにふさわしいこと、また神には愛すべき物事が数多くあることを理解している。人は神を愛さずにはいられないのだ。完全にされた者の神への愛は、自分の個人的な大志を満たすためのものである。その愛は自発的な愛、見返りを求めない愛であり、取引ではない。そうした人が神を愛するのは、神に関する自身の認識のゆえに他ならない。このような人は、神が自分に恵みを授けるかどうかを気にせず、神を満足させればそれで十分である。神と取引することがなく、「あなたに与えられたから、それに応じてあなたを愛する。あなたが与えないのであれば、それに応じて与えるものは何もない」というように、神への愛を良心で測ることもない。完全にされた者は常にこう信じている。「神は創造主であり、わたしたちに対して働きをなさっている。わたしには完全にされる機会と状況、そして資格があるのだから、有意義な人生を生きることを追求し、神を満足させねばならない」。これはまさにペテロが経験したことと同様である。つまり、ペテロは、自分が最も弱かったとき、神に祈ってこう言った。「神よ、時間や場所に関係なく、わたしが常にあなたを覚えていることを、あなたは知っておられます。時間や場所に関係なく、わたしがあなたを愛したいと思っていることを、あなたは知っておられます。しかし、わたしの霊的背丈はあまりに小さく、わたしは弱く無力過ぎ、わたしの愛はあまりに限られていて、あなたに対するわたしの誠実さは乏し過ぎます。あなたの愛に比べると、わたしは生きるのにまったくふさわしくありません。わたしが望むのは、自分の人生が無駄にならないこと、そしてあなたの愛に報いるだけでなく、それ以上に、自分が持つものをすべてあなたに捧げられることだけです。あなたに満足いただけるなら、被造物であるわたしは心安らぎ、それ以上何も求めないでしょう。今のわたしは弱く無力ですが、あなたの訓戒と愛を忘れることはないでしょう。今、わたしはただあなたの愛に報いる以外に何もしていません。神よ、わたしは惨めに感じます。心の中の愛をあなたにお返しし、全力を尽くしてあなたの望みを満たし、わたしが持つすべてのものをあなたに捧げるには、いったいどうすればよいのでしょうか。あなたは人間の弱さを知っておられます。いったいどうすれば、わたしはあなたの愛を受けるにふさわしい者となれるでしょうか。神よ、わたしの霊的背丈が小さいこと、わたしの愛が乏し過ぎることを、あなたはご存じです。わたしはこのような環境の中で、どうすれば最善を尽くせるでしょうか。わたしは、自分があなたの愛に報いるべきこと、自分が持つすべてのものをあなたに捧げるべきことは知っていますが、現在のわたしの霊的背丈は小さ過ぎます。あなたに捧げる純粋な愛をさらに備え、自分が持つすべてのものをもっとあなたに捧げられるよう、わたしに強さと確信を与えてくださることを願います。そうすれば、あなたの愛に報いることができるだけでなく、あなたの刑罰、裁き、試練、そしていっそう厳しい呪いをもっと経験することができるでしょう。あなたのおかげで、わたしはあなたの愛を見られるようになったので、あなたを愛さずにはいられません。また現在、わたしは弱く無力ですが、どうしてあなたのことを忘れられましょうか。あなたの愛、刑罰、そして裁き。これらのすべてによって、わたしはあなたのことを知るようになりましたが、それでもなお、あなたの愛に応えることができないと感じています。なぜなら、あなたは極めて偉大であられるからです。いったいどうすれば、わたしは自分の持つすべてのものを創造主に捧げられるでしょうか」。これがペテロの願いだったが、それでもペテロの霊的背丈は不十分に過ぎた。ペテロはこのとき、あたかも自分の心がナイフでえぐられているかのような苦痛を感じた。そうした状態で、ペテロはどうすればよいか分からなかったが、それでも祈り続けてこう言った。「神よ、人間は霊的背丈が幼く、人間の良心はひ弱で、わたしが成し遂げられるのは、あなたの愛に報いることだけです。現在、どのようにしてあなたの願いを満たせばよいのか、わたしには分かりません。そこで、わたしが唯一願うのは、自分にできるすべてのことを行い、自分の持てるすべてのものをあなたに渡し、自分の持てるすべてのものをあなたに捧げることです。あなたの裁きや刑罰、またあなたがわたしに何を授けられるか、あなたがわたしから何を奪うかにかかわらず、あなたに対する不平がわたしに一切ありませんように。あなたがわたしを罰し、裁かれたとき、わたしは何度も愚痴をこぼし、純粋さに至ることも、あなたの願いを満たすこともできませんでした。あなたの愛にわたしが報いようとしたのは、強いられたからそうしたのであり、そのときわたしは自分をますます憎みました」。ペテロがこのように祈ったのは、いっそう純粋な神への愛を求めていたからである。ペテロは求め、懇願し、さらには自分自身を非難し、自らの罪を神に告白した。ペテロは神に対して借りがあると感じ、自己嫌悪を覚えつつ、いくぶん悲しみも感じ、消極的だった。彼はいつもこのように感じていたが、それはあたかも、神の願いに対して自分が不十分であり、最善を尽くせないかのようだった。そうした状況において、ペテロはいまだヨブの信仰を追い求めていた。ヨブの信仰がどれほど偉大だったかを、彼は理解していた。と言うのも、自分の物はすべて神から授けられたのであり、神がそのすべてを自分から奪うのは当然であること、また神は、相手が誰であれ、自身が望む者に対して与えるのであって、それが神の義なる性質であることを、ヨブは理解していたからである。ヨブは一言も不満を言わず、なおも神を讃美することができた。ペテロもまた自分を知っていたので、心の中でこう祈った。「今日、わたしは、自分の良心であなたの愛に報いること、また、わたしがあなたにお返しする愛の多さに満足するべきではありません。なぜなら、わたしの思いは堕落し過ぎており、あなたを創造主として見ることができないからです。わたしはいまだあなたを愛するのにふさわしくないので、自分の持てるすべてのものを、自ら進んであなたに捧げる能力を養わなければなりません。あなたがわたしを通して大いなる栄光を得られるように、わたしは選り好みせず、あなたが行ったすべてのことを知らねばならず、またあなたの愛を見て、あなたを讃美する言葉を話し、あなたの聖なる御名を讃えることができるようにならなければなりません。わたしはあなたのために、喜んでこの証しに揺るぎなく立ちます。神よ、あなたの愛は極めて貴く、美しいものです。悪しき者の手中で生きることを、どうしてわたしが望みましょうか。わたしはあなたに造られたのではありませんか。どうしてサタンの支配下で生きられるでしょうか。それならばむしろ、自分の全存在があなたの刑罰の中で生きるほうを望みます。わたしは悪しき者の支配下で生きることを望みません。わたしが清くされ、自身のすべてをあなたに捧げることが可能ならば、わたしは進んで自分の身体と心を、あなたの裁きと刑罰に捧げます。なぜなら、わたしはサタンを忌み嫌い、その支配下で生きることを望まないからです。わたしに対する裁きを通して、あなたはご自身の義なる性質を示されます。わたしは幸せであり、不満は一切ありません。わたしが被造物としての本分を尽くせるのであれば、わたしの一生にあなたの裁きが伴うことを喜びます。それを通して、わたしはあなたの義なる性質を知り、悪しき者の影響から脱することができるでしょう」。ペテロはいつもこのように祈り、このように求め、比較的高い領域へと達した。彼は神の愛に報いることができたばかりでなく、さらに重要なこととして、被造物としての本分も尽くしたのである。彼は自分の良心の呵責に苛まれなかっただけでなく、良心の基準を超越することができた。彼の祈りは神の前へと昇り続け、彼の志はさらに高くなり、神への愛はますます大きくなった。彼は激しい苦痛に襲われながらも、神を愛することを忘れず、神の旨を理解できるようになることを求め続けた。そして祈りの中で、次の言葉を発した。「わたしは、あなたの愛に報いること以外に何も成し遂げていません。サタンの前であなたを証ししておらず、自分自身をサタンの影響下から解放しておらず、依然として肉の中で生きています。わたしは自らの愛でサタンを打ち破り、辱め、それによってあなたの願いを満たすことを望みます。自分のすべてをあなたに捧げ、たとえ一部でもサタンに捧げないことを望みます。なぜなら、サタンはあなたの敵だからです」。このように追求すればするほど、ペテロはますます感動し、そうしたことに関する認識がいっそう高まっていった。自分をサタンの影響から解放し、完全に神へと立ち返るべきであることを、無意識のうちに知るようになったのである。これが、ペテロが達した領域だった。彼はサタンの影響を超越し、肉の快楽と悦楽から脱し、神の刑罰と裁きの両方を自ら進んでいっそう深く経験した。ペテロは言った。「わたしはあなたの刑罰と裁きのただ中で生きていますが、それに伴う苦難にかかわらず、わたしはサタンの領域下で生き、サタンの策略に陥ることを望みません。あなたの呪いの中で生きることを喜び、サタンの祝福の中で生きることに痛みを感じます。あなたの裁きの中で生きることにより、わたしはあなたを愛し、それが自分に大いなる喜びをもたらします。あなたの刑罰と裁きは義にして聖いものであり、それらはわたしを清め、またそれ以上に、わたしを救うためのものです。あなたの配慮の下で暮らせるよう、わたしはあなたの裁きの中で生涯を送るほうを望みます。わたしは一瞬たりともサタンの支配下で生きたくありません。あなたによって清められることを望み、たとえ苦難を受けるとしても、サタンに利用され、欺かれることは望みません。わたしというこの被造物は、あなたに用いられ、所有され、裁かれ、刑罰を与えられるべき存在です。あなたから呪われるべき存在でさえあります。あなたがわたしを祝福しようとなさるとき、わたしの心は喜びます。なぜなら、あなたの愛を見たからです。あなたは創造主であられ、わたしは被造物です。わたしはあなたを裏切ってサタンの支配下で生きてはならず、サタンに利用されるべきでもありません。サタンのために生きるくらいなら、あなたの馬となり、牛とならねばなりません。物質的な悦楽なしに、あなたの刑罰の中で生きるほうを選びますし、たとえあなたの恵みを失ったとしても、そうして生きることがわたしに喜びをもたらすでしょう。たとえあなたの恵みがなくても、わたしはあなたの刑罰と裁きを受けることを喜びます。それは、あなたの最高の祝福であり、最大の恵みなのです。あなたはわたしに対して常に威厳があり、怒りに満ちておられますが、それでもなお、わたしはあなたから去ることができず、あなたをどれほど愛しても愛しきることができません。わたしはあなたの家に住み、あなたに呪われ、刑罰を受け、打たれることを望み、サタンの支配下で暮らすことも、ただ肉のために忙しく奔走することも望まず、ましてや肉のために生きることなど望みません」。ペテロの愛は純粋な愛だった。これこそが完全にされる経験であり、完全にされることの最高の領域であって、これ以上に有意義な人生はない。ペテロは神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を大切にしたが、ペテロに関することで、それ以上に貴いことはなかった。彼は言った。「サタンはわたしに物質的な享楽を与えるが、わたしはそれを貴ばない。神の刑罰と裁きがわたしの上に臨む――わたしはそこから恵みを受け、喜びを見出し、祝福される。仮に神の裁きがなかったとしたら、わたしは決して神を愛さず、依然としてサタンの支配下で暮らし、サタンに支配され、操られていることだろう。そうした場合、わたしは決して真の人間になれないはずだ。なぜなら、神を満足させることができず、自分のすべてを神に捧げることがなかったからだ。たとえ神がわたしを祝福されず、あたかも自分の中で火が燃えているように、心に慰めがないままになって、平安も喜びもなかったとしても、また神の刑罰と懲らしめが決してわたしから離れなくとも、神の刑罰と裁きの中に、神の義なる性質を見ることができる。わたしはそれに喜びを感じるし、人生において、それ以上に貴いことも有意義なこともない。神のご加護と慈しみが容赦ない刑罰と裁き、呪いと打ちのめしとなったが、それでもなお、わたしはこれらを嬉しく思う。なぜなら、そうしたことはわたしをさらに清めて変化させることができ、わたしを神に近づかせ、わたしがますます神を愛するようにして、神に対するわたしの愛をいっそう清くすることができるからだ。これにより、わたしは被造物としての本分を尽くすことができるようになり、神の御前へと導かれ、サタンの影響から遠ざけられるので、サタンに仕えることはもはやない。サタンの支配下で生活しておらず、自分の持てるすべてのものと、自分にできるすべてのことを、何の躊躇もなく神に捧げることができる時こそ、わたしが完全に満足する時だ。わたしを救ったのは神の刑罰と裁きであり、わたしの一生は神の刑罰と裁きから切り離せない。地上におけるわたしの生活はサタンの支配下にあるので、神の刑罰と裁き、すなわち神による慈しみと加護がなかったとしたら、わたしはいつまでもサタンの支配下で生きていただろうし、それに何より、有意義な人生を生きる機会も術もなかったはずだ。神の刑罰と裁きが決してわたしから去らない場合にのみ、わたしは神によって清くされ得る。神の厳しい御言葉と義なる性質、そして神の威厳ある裁きによってのみ、わたしは最高の加護を得て、光の中で生きるようになり、神の祝福を得たのだ。清くされ、自分をサタンから解放し、神の支配下で生きることができるのは、現在における我が人生最大の祝福なのだ」。これが、ペテロが経験した最高の領域である。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 526

人は肉の中で生きているが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰がなければ、人間はサタンと同様に汚れている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間にとって最高の加護、そして最も素晴らしい恵みだと信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい懲らしめは、人間をサタンの支配から解放し、自分の狭い世界から解放するとともに、神の臨在が放つ光の中で生きられるようにする。刑罰と裁き以上に優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたがわたしを罰し、裁かれる限り、わたしを見捨てていないことを、わたしは知るでしょう。たとえわたしに喜びや平安を与えられず、わたしを苦しみの中で生活させ、わたしに無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたがわたしを見捨てない限り、わたしの心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きはわたしにとって最高の加護であり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたからわたしに授けられた恵みが、わたしを守っているのです。あなたが現在わたしに授けられる恵みは、あなたの義なる性質の表れであり、それは刑罰と裁きでもあります。さらに、それは試練であり、また何よりも、苦難の生活です」。ペテロは肉の喜びを脇へ置き、いっそう深い愛といっそう大きな加護を求めることができた。なぜなら、神の刑罰と裁きから、極めて多くの恵みを得たからである。人生において、清められて性質の変化を成し遂げ、有意義な人生を生き、被造物としての本分を尽くそうと望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れなければならず、神の懲らしめと打ちのめしが自分から去らないようにし、そうすることで、サタンによる操作と支配から逃れて、神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光、人間の救いの光であり、人間にとってそれ以上の祝福と恵みと加護はないことを知らなければならない。人間はサタンの支配下で生活し、肉の中に存在する。清められず、神の加護を受けなければ、人間はますます堕落する。神を愛したいと望むのであれば、清められ、救われなければならない。彼は祈って言った。「神よ、あなたがわたしを優しく扱われるとき、わたしは喜び、安らぎを感じます。あなたがわたしに刑罰を与えられるとき、わたしはそれにも増して喜びと安らぎを感じます。わたしは弱く、予期せぬ苦しみを受け、多くの涙と悲しみがありますが、この悲しみは、わたしの不従順さと弱さのゆえであることを、あなたは知っておられます。わたしが泣くのは、自分があなたの望みを満たせないからであり、わたしが悲しみと後悔を感じるのは、自分があなたの要求に満たないからです。しかしわたしは、自ら進んでその領域へと到達しようとしており、あなたを満足させるためなら、自分にできることをすべて行います。あなたの刑罰はわたしに加護をもたらし、最高の救いを与えてくれました。あなたの寛容さと忍耐も、あなたの裁きの前ではかすんでしまいます。あなたの刑罰と裁きがなければ、わたしがあなたの憐れみと慈愛を享受することはないでしょう。現在、あなたの愛が天を超越し、他のあらゆるものを凌いだことを、わたしはいっそう理解しています。あなたの愛は憐れみと慈愛だけでなく、それ以上に、刑罰と裁きです。あなたの刑罰と裁きにより、わたしは多くのものを与えられました。あなたの刑罰と裁きがなければ、誰一人清められず、創造主の愛を経験できることもないでしょう。わたしは数百回の試練と患難を受け、死に瀕したことさえありますが、それらのおかげであなたを真に知り、至高の救いを得ることができました。あなたの刑罰、裁き、そして懲らしめがわたしのもとを離れてしまえば、わたしは闇の中、サタンの支配下で生きることになるでしょう。人間の肉にどんな益があるでしょうか。あなたの刑罰と裁きがわたしのもとを離れてしまえば、それはまるで、あなたの御霊がわたしを見捨て、もはやあなたがわたしと共におられないようなものでしょう。だとしたら、わたしはどうして生きてゆくことができましょうか。あなたがわたしに病を与え、わたしの自由を奪われても、わたしは生き続けることができますが、あなたの刑罰と裁きがわたしのもとを去ってしまえば、生きてゆくことは決してできないでしょう。あなたの刑罰と裁きがなければ、わたしはあなたの愛を失っていたでしょう。あなたの愛は非常に深く、それを表現するなどわたしにはできなせん。あなたの愛がなければ、わたしはサタンの支配下で生き、あなたの栄えある御顔を見ることができないでしょう。わたしはどうして生き続けられるでしょうか。そのような闇や生活は、わたしにはとても耐えられません。あなたがわたしと共におられることは、あなたにお目にかかることと同様ですから、どうしてわたしがあなたから去ることができましょうか。わたしはあなたに対し、たとえそれが短い励ましの御言葉であったとしても、わたしの最大の慰めを奪わないよう懇願し、乞い願います。わたしはすでにあなたの愛を享受し、今はあなたから離れることができません。どうしてわたしがあなたを愛せずにいられましょうか。わたしはあなたの愛ゆえに、多くの悲しみの涙を流しましたが、そうした生活はさらに有意義であり、もっとわたしを豊かにし、ますますわたしを変化させ、被造物が持つべき真理をわたしがいっそう得られるようにすることができると、常に感じております」。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 527

人間はサタンの支配下で生涯を送り、サタンの支配から自力で逃れられる者は一人もいない。人間はみな汚れた世界で、堕落と空虚さの中、意義や価値が少しもないまま生きている。このような人は、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。人間は自分をサタンの影響から解放する真理を見出すことができない。人間は神を信じ、聖書を読むにもかかわらず、サタンの影響による支配から自分をどう解放すればよいのか分からずにいる。いつの時代も、この秘密を発見して理解した者は稀である。このように、人間はサタンを憎み、肉を忌み嫌っているが、サタンの支配という罠から逃れる方法を知らない。現在、あなたがたは依然としてサタンの支配下にいるのではないか。あなたがたは自分の不従順な行為を後悔せず、まして自分が汚れており、反抗的であると感じることなどない。神に反抗した後、あなたがたは安心し、大いに落ち着くことさえある。あなたの落ち着きは、堕落していることが原因ではないのか。こうした安心は、あなたの不従順から生じているのではないか。人は人間地獄の中で生き、サタンの闇の支配下で生きている。あらゆる地で幽霊が人間と共に暮らし、人間の肉に侵入している。地上では、あなたは美しい楽園に住んでいるのではない。あなたが住む場所は悪魔の領域であり、人間地獄であり、冥府である。清められなければ、人は汚れた存在である。神によって守られず、神の気遣いを受けていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。裁きや刑罰を受けていないのであれば、サタンの闇の支配による圧迫から逃れる術はない。あなたが依然としてサタンの支配下で生きていることは、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な振る舞いだけで十分証明できる。あなたの心と思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在はいまだサタンの領域に操られ、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操作され、あなたの存在全体がサタンの手により支配されているのだ。現在、自分がペテロの基準からどれほどかけ離れているか、あなたは果たして知っているのか。そのような素質があなたにあるのか。現在の刑罰と裁きについて、あなたはどの程度知っているのか。ペテロが知るに至ったことを、どの程度自分のものにしているのか。現在知ることができないのであれば、将来その認識を獲得することができるだろうか。あなたのように怠惰で臆病な者が刑罰と裁きを知ることは、まったく不可能である。あなたが肉の平安と享楽を追求するのであれば、清められる術など一切なく、最後にはサタンのところへ戻される。なぜなら、あなたが生きているのはサタンであり、肉だからである。現状、多くの人はいのちを追い求めていないが、それは、彼らが清められることにも、より深いいのちの経験へと入ることにも注意していないことを意味する。そうであれば、完全にされることがどうしてあり得ようか。いのちを追い求めない者には、完全にされる機会など一切なく、神についての認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない。宗教を信じる者や、儀式に従い定期的な礼拝に参加するだけの者と同じく、神に関する自分の認識や、性質の変化への入りについて真剣ではないのである。これでは時間の無駄ではないか。人が、神への信仰の中で、いのちに関する問題を真剣に考えず、真理に入ることを求めず、自分の性質の変化を追求せず、ましてや神の働きに関する認識など追求しないのであれば、その人が完全にされることはあり得ない。自分が完全にされることを望むのであれば、神の働きを理解しなければならない。特に、神の刑罰と裁きの意義と、この働きが人間に対して行われる理由を理解しなければならない。あなたは受け入れることができるのか。この種の刑罰において、ペテロと同等の経験と認識に達することができるのか。神についての認識と、聖霊の働きについての認識を追求し、自分の性質の変化を追い求めるのであれば、あなたには完全にされる機会がある。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 528

完全にされる者については、征服されるこの段階の働きこそが不可欠である。人間は征服されて初めて、完全にされる働きを経験できる。征服される役割をただ演じることに大きな価値はなく、それによって、あなたが神に使われるのにふさわしいと見なされることはない。あなたには、福音を宣べ伝える役割を果たす手段がないのである。なぜなら、いのちを追い求めることがなく、自分を変えて一新させることを追求しておらず、そのため、いのちの実経験がないからである。この段階的な働きにおいて、あなたは効力者や引き立て役としての役割を果たしたことがあるが、最終的にペテロのようになることを追求せず、あなたの追求が、ペテロが完全にされた道に沿うものでないならば、当然、あなたが性質の変化を経験することはない。完全にされることを追求する者ならば、証しをしてこのように言うはずだ。「神によるこの段階ごとの働きにおいて、わたしは神の刑罰と裁きの働きを受け入れた。また、わたしは大いなる苦しみに耐えてきたが、神がどのようにして人間を完全にされるかを知り、神による働きを自分のものにし、神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。神の義なる性質がわたしの上に臨み、祝福と恵みをもたらした。わたしを守り、わたしを清めたのは神の裁きと刑罰である。仮にわたしが神による刑罰と裁きを受けておらず、神の厳しい御言葉がわたしの上に臨んでいなければ、わたしは神を知らず、救われることがなかったはずだ。今ではわかる。被造物たる者、創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に大事なこととして、神の性質は人間が享受するに値するのだから、あらゆる被造物は神の義なる性質と義なる裁きを享受しなければならない。サタンに堕落させられた被造物として、神の義なる性質を享受すべきだ。神の義なる性質には刑罰と裁き、そしてそれ以上に、大いなる愛がある。現在、わたしは神の愛を完全に得ることができないものの、それを見る幸運に恵まれており、そのことにおいて、わたしは祝福されている」。これこそが、完全にされた者の歩む道であり、彼らが語る認識である。このような人はペテロと同じであり、ペテロと同様の経験がある。このような人はまた、いのちを得た者でもあり、真理を有する者である。彼らが最後まで経験するとき、神の裁きのさなかに、必ずやサタンの影響を自分から一掃し、神のものとされるだろう。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 529

最初に神によって造られたアダムとエバは、聖なる人間だった。すなわちエデンの園にいた間、彼らは聖く、汚れがなかった。またヤーウェに忠実であって、ヤーウェを裏切ることなど一切知らなかった。なぜなら、サタンの影響による妨害を受けず、サタンに毒されておらず、全人類の中で最も純粋だったからである。彼らはエデンの園に住み、汚されることも、肉に囚われることも一切なく、ヤーウェを畏れていた。その後、サタンに誘惑された彼らは蛇の毒に見舞われ、ヤーウェを裏切ることを望み、サタンの支配下で生きた。最初、彼らは聖く、ヤーウェを畏れていた。この状態においてのみ、彼らは人間だったのである。その後、サタンに誘惑された後、彼らは善悪の知識という木の実を食べ、サタンの支配下で生きるようになった。サタンによって次第に堕落させられ、本来の人間の姿を失っていった。最初、人間にはヤーウェの息吹があり、不従順であることは一切なく、心に悪は一切なかった。当時、人間は本当の意味で人間だったのだ。サタンによって堕落させられた後、人間は獣となった。人間の考えは悪と汚れで満たされ、善や聖さはまったくなかった。それはサタンではなかろうか。あなたは神の働きの多くを経験したが、変化しておらず、清められてもいない。依然としてサタンの支配下で暮らし、いまだ神に服従しない。これは、すでに征服されてはいるが、まだ完全にされていない者である。それでは、このような人がいまだ完全にされていない者だと言われるのはなぜか。それは、その人がいのちを求めず、神の働きに関する認識も追い求めず、肉の快楽や束の間の慰めを無闇に欲するからである。その結果、彼らのいのちの性質はまったく変化せず、神に造られたときの、人間の本来の姿を取り戻していない。このような人は生ける屍であり、霊のない死人である。霊の事柄に関する認識を追求しない者、聖さを追求しない者、真理を生きることを追求しない者、否定的な側面で征服されることに満足しているだけの者、そして神の言葉によって生きられず、聖なる人になれない者――このような者たちはみな救われていない人々である。なぜなら、真理がなければ、人間は神の試練の時に揺るぎなく立つことができないからである。神の試練の中で揺るぎなく立てる者のみが、救われた者である。わたしが望むのは、完全にされることを追い求めるペテロのような人々である。現在の真理は、真理を切望し、求める者たちに与えられる。この救いは、神によって救われることを切望する者たちに授けられており、あなたがたが得ることだけを意図しているのではない。その目的は、あなたがたが神によって得られることであり、神によって得られるために、あなたがたは神を得るのだ。今日、わたしはあなたがたに以上の言葉を語り、あなたがたはそれを聞いたのだから、これらの言葉に従って実践すべきである。最終的に、あなたがたがこれらの言葉を実践する時こそ、わたしがこれらの言葉を通してあなたがたを得る瞬間である。それと同時に、あなたがたもこれらの言葉を得ている。つまり、この至高の救いを得ているのだ。ひとたび清められれば、あなたがたは真の人間になるだろう。真理を生きることができず、完全にされた者の姿を生きることもできなければ、あなたは人間ではなく、生ける屍であり、獣であると言えるだろう。なぜなら、あなたには真理がなく、それはつまり、ヤーウェの息吹がなく、したがってあなたは霊のない死人だからである。征服された後でも証しをすることは可能だが、あなたが得るのは多少の救いだけであり、霊を持った生者とはなっていない。あなたは刑罰と裁きを経験したが、その結果、自分の性質が一新されることも変化することもない。あなたは依然として古い自分自身のままであり、いまだサタンに属しており、清められた者ではない。完全にされた者にしか価値はなく、このような人だけが真の人生を得たのである。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 530

現在、神に用いられることを追求する人もいるが、そのような人が征服された後に直接用いられることはない。現在語られている言葉について言えば、神が人々を用いるとき、あなたがそれらの言葉をいまだに成し遂げられないのであれば、あなたは完全にされていないのだ。言い換えると、人間が神に淘汰されるか、それとも神に用いられるかは、人間が完全にされる期間の最後に決定される。征服された者たちは、消極性と否定的な物事の実例に過ぎない。彼らは見本であり模範であるが、一つの対比に過ぎない。いのちの性質が変化し、内面でも外面でも変化を成し遂げて初めて、その人は十分完全にされたことになる。現在、あなたは、征服されることと、完全にされることのうち、どちらを求めるのか。どちらを成し遂げたいのか。あなたは完全にされるための条件を満たしたのか。いまだ欠けている条件はどれか。あなたは、どのように自ら備え、不足を補うべきなのか。完全にされる道へと、どのように入るべきなのか。どのようにして完全に服従すべきなのか。あなたは完全にされることを求めているが、それなら聖さを追求しているのか。あなたは、神に清めてもらえるよう、刑罰と裁きを経験することを求めている人なのか。清められることを追求しているなら、刑罰と裁きを喜んで受け入れるか。あなたは神を知ることを求めているが、神の刑罰と裁きに関する認識があるのか。現在、神があなたに対して行う働きのほとんどは刑罰と裁きである。あなたに対して行われたこの働きについて、あなたの認識はどのようなものか。自分が経験した刑罰と裁きにより、あなたは清められたのか。それによって変化したのか。それによって何か効果があったのか。あなたは、呪い、裁き、暴露など、現在の多くの働きに疲れ果てているのか。それとも、そうした物事は自分にとって大きな恩恵であると感じているのか。あなたは神を愛しているが、その理由は何か。あなたが神を愛しているのは、多少の恵みを受けたからか。それとも平安と喜びを得た後に、神を愛しているのか。あるいは、神の刑罰と裁きによって清められた後に、神を愛しているのか。あなたはいったいなぜ、神を愛しているのか。ペテロは完全にされるために、どういった条件を満たしたのか。ペテロが完全にされた後、そのことが表現された重要な方法は何か。ペテロが主イエスを愛したのは、主を切望していたからなのか。それとも主に会えなかったからなのか、あるいは責められたからなのか。それとも、患難の苦しみを受け入れ、自分の汚れと不服従を知り、主の聖さを認識するようになったから、主イエスをいっそう愛したのか。神に対するペテロの愛がいっそう清くなったのは、神の刑罰と裁きのゆえなのか、それとも別の理由のためなのか。いったいどちらなのか。あなたが神を愛するのは、神の恵みのゆえであり、現在あなたにわずかばかりの祝福を与えたからである。これが真の愛なのか。あなたは、どのように神を愛するべきか。神の刑罰と裁きを受け入れ、神の義なる性質を目の当たりにした後、完全に確信して神についての認識を有するようになるほど、真に神を愛せるようになるべきか。ペテロのように、神をどれほど愛しても十分ではないと言えるだろうか。あなたが追求するのは、刑罰と裁きの後に征服されることか、それとも、刑罰と裁きの後に清められ、守られ、世話されることか。あなたが追求しているのはどれなのか。あなたの人生は有意義なものか、それとも意味も価値もないものか。あなたが欲するのは肉か、それとも真理か。あなたが望むのは裁きか、それとも快楽か。神の働きを数多く経験し、神の聖さと義を目の当たりにしてきたあなたは、どのように追求すべきか。どのようにしてこの道を歩むべきか。神への愛をどのように実践すべきか。神の刑罰と裁きは、あなたの中で何らかの効果を上げたのか。あなたに神の刑罰や裁きに関する認識があるかどうかは、あなたが何を生き、どの程度神を愛しているかに左右される。あなたの唇は、自分は神を愛していると言うが、実際に生きているのは、古い堕落した性質である。あなたに神への畏れはなく、ましてや良心などない。そのような人は神を愛しているのか。そのような人は神に対して忠実なのか。神の刑罰や裁きを受け入れる者なのか。あなたは神を愛し、信じていると言うが、自分の観念を捨てていない。あなたの働き、入り、語る言葉、そして生活において、神に対するあなたの愛は一切表されておらず、神への畏敬がまったくない。これが刑罰と裁きを得た者なのか。こうした者がペテロのようになれるだろうか。ペテロのような者たちが、認識を持っているだけで、それを実際に生きないということがあるだろうか。現在、人間が真の人生を生きるのに必要な条件は何か。ペテロの祈りは、単に口から出た言葉に過ぎなかったのか。それは、ペテロの心の奥底から出た言葉ではなかったのか。ペテロは祈るだけで、真理を実践しなかったのか。あなたの追求は誰のためなのか。神の刑罰と裁きの際に、あなたはどのようにして加護と清めを受けられるようにすべきだろうか。神の刑罰と裁きは、人間にとってまったく無益なものなのか。裁きはすべて懲罰なのか。人間のいのちに有益なのは、平安と喜び、物質的な祝福、束の間の快楽だけなのか。人間が快適かつ楽な環境の中で、裁きの生活なしに生きるのであれば、その人は清められるだろうか。変化することと清められることを望むなら、完全にされることをどのように受け入れるべきか。現在、あなたはどちらの道を選ぶべきだろうか。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 531

ペテロと聞くと、人々は果てしなく彼のことを褒める。彼が三度、自分は神を知らないと言ったこと、サタンの手助けをすることで神を試みたこと、そして最後は神のために、逆さに十字架にかけられたことなどを即座に思い出す。ここで、ペテロがどのようにしてわたしを知り、最後の結末がどのようなものだったかをあなたがたに説明することに、わたしは重点を置く。ペテロは優れた素質の持ち主だったが、彼の境遇はパウロのそれと同じではなかった。彼の両親はわたしを迫害し、サタンにとりつかれた悪魔であり、結果として、神についてペテロに何も教えなかった。ペテロは賢く、才能に恵まれ、幼いときから両親に溺愛された。しかし成人すると、神を知ることを絶えず追求し続けたので、両親の敵となり、結果として両親に背を向けた。というのも、ペテロは何にも増して、天地と万物は全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に由来し、サタンに加工されることなく、神から直接発せられたと信じたからである。両親との対比によって、ペテロはわたしの愛情深さと憐れみとをさらに知り、そうしてわたしを求める欲求が高まった。彼はわたしの言葉を飲み食いするだけではなく、わたしの旨を把握することに集中した。そして、心中でいつも注意を怠らなかった。その結果、彼は常に霊が敏感で、何をするにもわたしの心に適っていた。過去の人々の失敗に絶えず集中して自分を奮起させ、失敗に陥ることを深く恐れた。さらに、各時代を通して神を愛した全ての人たちの信仰と愛を吸収することに集中した。このようにして――否定的な側面においてだけでなく、より重要なことに肯定的な側面において――ペテロは急速に成長し、彼の知識はわたしの前で最も大きなものとなった。そのため、想像に難くないことだが、彼は所有するすべてのものをわたしの手に託し、食事、衣服、睡眠、および住む場所についての決定さえもわたしに任せ、あらゆることにおいてわたしを満足させることを基に、わたしの豊かさを享受したのである。わたしはペテロを無数の試練に晒し、当然ながら、それらの試練のせいで彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中、彼は一度たりともわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと言った時でさえ、ペテロはくじけず、実際的なやり方で、過去の実践の原則に沿ってわたしを愛し続けた。わたしは彼に、たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後はサタンの手中に投げ込む、と言った。しかし、そうした試練、つまり肉への試練ではなく、言葉の試練のさなか、ペテロはそれでもわたしに祈り、こう言った。「おお、神よ。天地と万物の中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者たるあなたの手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたがわたしに憐れみを示してくださるとき、その憐れみにわたしの心は大いに喜びます。あなたがわたしを裁かれるとき、わたしはそれにふさわしい者ではありませんが、その御業の計り知れなさをさらに深く感じます。なぜなら、あなたは権威と知恵とに満ちておられるからです。わたしの肉は困難に苦しんでも、わたしの霊は慰められます。どうしてあなたの知恵と御業をたたえずにおられましょう。たとえあなたを知った後に死ぬとしても、喜びと幸せのうちに死なないことがあり得ましょうか。全能者よ。あなたはまことに、ご自分の姿をわたしに見せたくないのでしょうか。わたしはまことに、あなたの裁きを受けるのにふさわしくないのでしょうか。わたしの中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか」。このような試練の間、ペテロはわたしの旨を正確に把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえ、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、わたしの裁きを受けたとしても)誇りに思い、光栄だと感じ、そうした試練に苦悶することがなかったのは明らかだった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた祝福のゆえに、ペテロは数千年もの間、人間にとっての手本と模範であり続けた。これこそが、あなたがたが見習うべきことではないのか。わたしがなぜペテロのことをこれほど長々と述べているのか、じっくり熟考せよ。これがあなたがたの行動の原則でなければならない。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第六章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 532

ペテロは何年にもわたりイエスに従い、他の人にはない多くのことをイエスに見た。一年間イエスに従った後、ペテロはイエスに十二使徒の中から選ばれた(もちろん、これをイエスは声高に言ったのではなく、他の人はこのことにまったく気づいていなかった)。生活において、ペテロはイエスのすることすべてを基準にして自己を評価した。イエスの説教は特にペテロの心に刻まれた。ペテロはイエスに徹底的に献身して忠実であり、決してイエスに対する不平不満を口にしなかった。そのため、彼はイエスが行く先々で忠実な同伴者になった。ペテロはイエスの教え、イエスの穏やかな言葉、食べ物、着る物、宿、旅の仕方を観察した。ペテロはあらゆる点でイエスを見習った。ペテロは決して独善的になることなく、時代遅れのことをすべて投げ捨てて、言動においてイエスの例に従った。天地万物は全能者の手の中にあるとペテロが感じたのはその頃で、そのため、彼は個人的な選択をしなかった。ペテロはまた、イエスという存在のすべてを吸収し、それを見本とした。生活を通して、イエスが行動において独善的ではなく、自慢するどころか、人を愛によって動かすことが見て取れた。さまざまなことがイエスという存在を示し、そのためペテロはあらゆることにおいてイエスを見習ったのである。この経験により、ペテロはますますイエスの素晴らしさを感じ、次のように言った。「わたしは全宇宙で全能者を探し求め、天地万物のふしぎを見た。それゆえわたしは全能者の素晴らしさを深く実感した。しかし、これまでわたしは心に純粋な愛を抱いたことはなかったし、全能者の素晴らしさをこの目で見たこともなかった。今日、わたしは全能者から好意的に見られ、ついに神の素晴らしさを感じた。人類が神を愛するようになるのは、神が万物を創造したからだけではないことが、ようやくわかった。日常生活の中で、わたしは神の無限の素晴らしさを見つけた。それがどうして現在見えることだけに限られるだろうか」。時が経つにつれて、その素晴らしさの多くがペテロからも表出した。彼はイエスにとても従順になり、もちろん、かなりの挫折にも苦しんだ。イエスが説教のためにペテロをさまざまな場所に連れて行くと、ペテロはいつも謙虚にイエスの説教に耳を傾けた。長年イエスに従っているからといって、決して高慢にならなかった。イエスがペテロに、自分がこの世に来た理由は十字架につけられてその働きを終えることだと語った後、ペテロはしばしば心に苦悩を感じ、一人でそっと泣いた。しかし、あの「不運な」日がやって来た。イエスが捕えられた後、ペテロは自分の釣舟に乗って一人で泣き、このために多くの祈りを唱えた。だが心の中では、これは父なる神の旨であり、誰にも変えられないとわかっていた。彼はその愛ゆえに、苦悩したまま目に涙をたたえていた。もちろん、これは人間の弱点だった。そのため、イエスが十字架に釘で打ち付けられると知った時、ペテロはイエスに尋ねたのである。「あなたが去られた後、わたしたちのもとに戻ってきて、わたしたちを見守ってくださいますか。わたしたちは、またあなたにお会いできるでしょうか」。この言葉は非常に未熟で、人間的観念に満ちていたが、イエスはペテロの苦しみの辛さがわかっていたので、愛ゆえにペテロの弱さを思いやった。「ペテロ、わたしはあなたを愛してきた。それがわかっているか。あなたの言うことには何の道理もないが、わたしが復活した後に四十日間人々の前に現れることを、父は約束した。わたしの霊が何度もあなたがた全員に恵みを与えることを信じないのか」。これにペテロは少し安心したが、まだ何かがひとつ欠けていると感じた。そこで、復活後、イエスは初めにペテロの前に公然と現れた。しかし、ペテロが自分の観念に固執し続けないように、ペテロがイエスのために用意した豪華な食事を拒絶し、あっという間に姿を消した。その瞬間から、ペテロはついに主イエスをより深く理解し、さらに愛するようになった。復活後、イエスはしばしばペテロの前に現れた。四十日経って昇天した後も、イエスはペテロの前にさらに三度現れた。イエスの出現は毎回必ず聖霊の働きがまもなく完了し、新しい働きが開始される時だった。

ペテロは全生涯を通して漁師として生計を立てたが、それ以上に説教するために生きた。晩年には、ペテロの第一と第二の手紙を書き、当時のフィラデルフィア教会に数通の手紙を書いた。当時の人々は彼に深く感動した。自分の資格を利用して人々に説教するのではなく、ペテロは人々に相応しいいのちを施した。一生を通じて彼はイエスが去る前に与えた教えを決して忘れず、その教えに鼓舞され続けた。イエスに従っている間、ペテロは主の愛に死をもって報い、あらゆることにおいてイエスの手本に見習うことを決意した。イエスもこれに同意し、そのためペテロが五十三歳になった時に(イエスが去った後、二十年以上経ってから)、ペテロの望みをかなえるためにイエスは彼の前に現れた。それから七年間、ペテロは自己を知ることに日々を費やした。その七年間が終わろうとしていたある日、彼は逆さ十字の刑を受け、その数奇な生涯は幕を閉じた。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、ペテロの一生」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 533

暗闇の影響とは何か。このいわゆる「暗闇の影響」とは、サタンが人を騙し、堕落させ、束縛し、操る影響のことであり、サタンの影響は死の雰囲気を帯びた影響である。サタンの支配下で生きる者は残らず滅びる運命にある。神への信仰を得たあと、あなたはどのようにしてサタンの影響から逃れられるか。ひとたび心を込めて神に祈ると、あなたは自分の心を完全に神へと向け、この時点で、あなたの心は神の霊によって感動する。あなたは自分を残らず神に捧げたいとますます思うようになり、その瞬間、暗闇の影響から脱していることになる。人の行なうあらゆることが神を喜ばせ、神の要求にかなっているなら、その人は神の言葉の中で、神の気遣いと加護のもとで生きる人である。人々が神の言葉を実践できず、神を騙そうと常に試み、神に対していい加減に振る舞い、神の存在を信じていないのであれば、それらはみな暗闇の影響下で生きている人である。神の救いを受けていない人たちはサタンの支配下で生きている。つまり、そのような人はみな暗闇の影響下で生きているのだ。神を信じない者はサタンの支配下で生きている。神の存在を信じている者でさえ、必ずしも神の光の中で生きているとは限らない。なぜなら、神を信じる者であっても、実際には神の言葉の中で生きておらず、神に従うこともできないかもしれないからである。人間は神を信じるのが限界であり、また神についての認識がないので、依然として古い規則や死んだ言葉の中で生き、暗く不確かな生活を送り、神によって完全に清められることも、完全に神のものとされることもないのである。したがって、神を信じない者が暗闇の影響下で生きていることは言うまでもないが、神を信じる人でさえも、依然としてその影響下にあるかもしれない。なぜなら、その人たちには聖霊の働きが欠けているからである。神の恵みや慈悲を授かっていない者、聖霊の働きを見ることができない者はみな、暗闇の影響下で生きている。そしてたいていの場合、神の恵みを享受するだけで、神を知らない者もまたそうである。神を信じながらも人生の大半を闇の影響下で過ごすなら、その人はすでに存在意義を失っている。そうであれば何の必要があって、神が存在することを信じていない人に触れなければならないのか。

神の働きを受け入れられない者、あるいは神の働きを受け入れながら神の要求を満たせない者はみな、暗闇の影響下で生きる人である。真理を追い求め、神の要求を満たせる者だけが、神から祝福を受けるのであり、またそうした者だけが暗闇の影響から脱する。解放されておらず、何らかの物事に絶えず支配され、神に心を捧げられない者は、サタンに束縛され、死の雰囲気の中で生きる人である。自分の本分に忠実でない者、神から委ねられた使命に不忠な者、そして教会で自分の役割を果たさない者は、暗闇の影響下で生きる人である。教会生活を故意にかき乱す者、兄弟姉妹にわざと不和の種を蒔く者、および徒党を組む者は、サタンによる束縛の中、暗闇の影響下のさらに深いところで生きる人である。神との関係が異常な者、贅沢な欲望が常にある者、自分にとって有利なことを絶えず求める者、自身の性質の変化を決して求めない者は、暗闇の影響下で生きる人である。常に自堕落で、真理の実践において真剣でない者、神の旨を満たすことを求めず、その代わりに自分の肉を満足させることだけを求める者もまた、死に包まれながら闇の影響下で生きる人である。神のために働きを行なう際、不正や欺瞞に手を染める者、いい加減なやり方で神に対応する者、神を騙す者、絶えず自分のために計画を立てる者は、闇の影響下で生きる人である。神を誠実に愛せない者、真理を追い求めない者、自分の性質を変化させることに重点を置かない者はみな、暗闇の影響下で生きる人である。

『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 534

神に讃えられたいと望むなら、まずはサタンによる暗闇の影響から脱し、神に心を開き、完全に神のほうへ向けなければならない。あなたが現在行なっていることを、神は讃えるだろうか。あなたは心を神に向けたのか。あなたが行なってきたことは、神があなたに求めることなのか。それらの行ないは真理にかなっているのか。常に自分を検証し、神の言葉を飲み食いすることに集中しなさい。自分の心を神の前に曝け出し、誠実に神を愛し、自分自身を神のために忠実に費やしなさい。そのようにする人は、必ずや神の称賛を受けるだろう。神を信じながら真理を追い求めない者はみな、サタンの影響から逃れる術をもたない。人生を正直に生きない者、人前での振る舞いが背後での振る舞いと違う者、上辺は謙虚で、忍耐と愛があるように見えるものの、その本質は陰険で、悪賢く、神への忠実さが一切ない者。こうした人たちは暗闇の影響下で生きる者の典型的な代表例である。彼らはへびの同類である。ひたすら自分の益のために神を信じるだけの者、独善的で横柄な者、自分を誇示する者、自分の地位を守る者は、サタンを愛し真理に反抗する人である。このような人たちは神に抵抗し、完全にサタンのものとされている。神の重荷に気を配らない者、心から神に仕えない者、常に自分や家族の利益ばかり考えている者、すべてを捨てて神のために自分を費やせない者、決して神の言葉によって生きようとしない者は、神の言葉の外で生きる人である。このような人たちが神の称賛を受けることはできない。

神が人間を造った時、それは、人間が神の豊かさを享受し、神を真に愛せるようにするためだった。そのようにして、人間は神の光の中で生きるのだ。今日、神を愛することができず、神の重荷に気を配らず、自分の心を完全に神に捧げられず、神の心を自分の心とすることができず、神の重荷を自分のものとして背負えない者全員について言えば、神の光がそうした人たちを照らすことはなく、それゆえ彼らはみな暗闇の影響下で生きている。彼らは神の旨に真っ向から反する道を歩み、彼らが行なう一切のことには真理の片鱗さえない。彼らはサタンとぐるになって悪事を行ない、暗闇の影響下で生きる人である。神の言葉を頻繁に飲み食いして神の旨に気を配り、神の言葉を実践することできるなら、あなたは神のものであり、神の言葉の中で生きる人である。サタンの支配から逃れて神の光の中で生きることを、あなたは望んでいるのか。あなたが神の言葉の中で生きるなら、聖霊には働きを行なう機会があるだろう。サタンの影響下で生きるなら、あなたが聖霊にそうした機会を与えることはないだろう。聖霊が人間に対して行なう働き、聖霊が人間を照らす光、そして聖霊が人間に与える確信は、ほんの一瞬しか残らない。ゆえに、もしも人々が不注意で配慮を怠ったならば、聖霊の働きは彼らの前を素通りする。人間が神の言葉の中で生きるならば、聖霊は彼らと共にあり、彼らに対して働きを行なう。人間が神の言葉の中で生きていないならば、彼らはサタンの束縛の中で生きている。人間が堕落した性質の中で生きているならば、彼らには聖霊の臨在も働きもない。あなたが神の言葉の範囲内で生き、神が求める状態の中で生きているならば、あなたは神のものにされた人であり、あなたに対して神の働きが行なわれる。あなたが神の要求の範囲内でなく、サタンの支配下で生きているならば、あなたは間違いなくサタンの堕落の中で生きている。神の言葉の中で生き、神に自分の心を捧げることでのみ、あなたは神の要求を満たすことができる。あなたは神の言う通りに行動し、神の発する言葉を自分の存在の基礎とし、自分のいのちの現実としなければならない。そうして初めて、あなたは神のものとなる。もしもあなたが神の旨にしたがう形で実際に実践するならば、神はあなたに対して働きを行ない、あなたは神の祝福の下、神の顔から放たれる光の中で生き、聖霊が行なう働きを理解し、神の臨在の喜びを感じるだろう。

『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 535

暗闇の影響から脱するには、まず神に対して忠実であり、真理を追い求める熱意が心になければならない。そうして初めて、あなたは正しい状態になることができる。正しい状態で生きることが、暗闇の影響から脱する必要条件である。正しい状態にないというのは、神に忠実でなく、真理を求める熱意が心にないということであり、暗闇の影響から脱することなど問題外である。わたしの言葉は、人間が暗闇の影響から脱する基礎であり、わたしの言葉にしたがう形で実践できない人は暗闇の影響の束縛から逃れることができない。正しい状態で生きるというのは、神の言葉の導きの下で生き、神に対して忠実な状態で生き、真理を求める状態で生き、神のために真摯に自分を費やす現実の中で生き、神を真に愛する状態で生きることである。このような状態、このような現実の中で生きる者たちは、真理の奥底に入るにつれて徐々に変化する。また彼らは、働きが深まるとともに変化して、最後は必ずや神に得られて心から神を愛する人になる。暗闇の影響から脱した者たちは徐々に神の旨を確かめられるようになり、また徐々に神の旨を認識するようになって、やがては神の知己になることができる。彼らは神についての観念を抱くことも、神に反抗することもないだけでなく、以前に抱いていたそれらの観念や反抗心をますます憎み、神に対する真の愛が心の中に生じるようになる。暗闇の影響から脱け出すことができない者はみな、肉によって完全に占められており、反抗心で一杯である。彼らの心は人間の観念と処世哲学、そして自身の意図と思案で満たされている。神が求めるのは人間からの一途な愛、そして人間が神の言葉によって、神への愛に満ちた心によって占められることである。神の言葉の中で生き、自分が求めるべきものを神の言葉の中から探し、その言葉ゆえに神を愛し、神の言葉のために奔走し、神の言葉のために生きることこそ、人間が努力して成し遂げるべき目標である。すべては神の言葉の上に築かれなければならない。そうして初めて人間は神の要求を満たすことができる。神の言葉を備えていなければ、その人はサタンに取り憑かれた蛆虫に過ぎない。次のことを考えなさい。神の言葉のうち、自分の中に根づいているものはどのくらいあるのか。自分はどの物事において、神の言葉にしたがって生きているのか。自分はどの物事において、神の言葉にしたがわずに生きてきたのか。神の言葉がいまだに自分の中で完全に根づいていないなら、自分の心を占めるのはいったい何なのか。日常生活において、自分はサタンに支配されているのか、それとも神の言葉によって占められているのか。神の言葉が自分の祈りの基礎となっているか。自分は神の言葉の啓きによって否定的な状態から脱したのか。神の言葉を自分の存在の基盤にすることが、誰もが入らなければならないことである。神の言葉があなたの生活に存在していなければ、あなたは暗闇の影響下で生き、神に反抗し、神に逆らい、神の名を汚している。このような人たちの神に対する信仰は害悪と撹乱以外の何物でもない。自分の人生のうち、あなたはどれほどの期間を神の言葉にしたがって生きてきたのか。また自分の人生のうち、どのくらいの期間を神の言葉にしたがわずに生きてきたのか。神の言葉があなたに要求したことのうち、どれほどのものがあなたの中で成就されたのか。どれほどのものがあなたの中で失われたのか。あなたはこうしたことをじっくり見つめたことがあるのか。

暗闇の影響から脱するには、聖霊の働きと人間による献身的な協力の両方が必要である。わたしはなぜ、人間は正しい道に乗っていないと言うのか。正しい道に乗っている人は、まず自分の心を神に捧げることができる。それは入るのに長い時間を要する作業である。なぜなら、人類は常に暗闇の影響下で生き、数千年にわたってサタンに束縛されてきたからである。したがって、この入りはたかが一日や二日で達成できるものではない。わたしが今日この問題をとり上げたのは、人間が自分の状態を把握できるようにするためである。暗闇の影響とは何か、光の中で生きるとはどのようなことかをひとたび識別できれば、入りはずっと簡単になる。なぜなら、サタンの影響から逃れられるようになるのに先立ち、あなたはまずサタンの影響とは何かを知らなければならないからである。そうして初めて、あなたはそれを捨て去る術を得る。その後何をすべきかについて言えば、それは人間自身の問題である。何事も肯定的な側面から入り、受け身になって待っていてはいけない。そうすることでのみ、あなたは神に得られることができる。

『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 536

神の言葉は一つ一つがわたしたちの急所を突き、わたしたちは傷ついて恐れに満たされる。彼はわたしたちの観念、想像、そして堕落した性質を明らかにする。すべての言動から思いや考えの一つ一つに至るまで、わたしたちの本性実質は神の言葉によって暴かれ、わたしたちは恥じ入って隠れる場所もなく恐怖に震える。彼はわたしたちの行動、目的や意図、そして自分でも知らなかった堕落した性質まで、すべてを一つ一つわたしたちに示すので、わたしたちは自分の惨めな不完全さをすべて見せつけられ、さらには完全に打ち負かされた気持ちになる。彼はわたしたちが反抗したことを裁き、神を冒涜し糾弾したことでわたしたちを罰し、自分たちが神の目には何の贖うべき特徴もなく、生きたサタンなのだと思わせる。希望は粉々にされ、もはや神に理不尽な要求をしたり、神への下心を抱いたりすることもなくなり、夢さえも一夜にして消え去る。これは誰一人として想像できず、受け入れることもできない事実である。一瞬のうちにわたしたちは内面の平静を失い、この先どうやって進んでいけばいいのか、どうやって信仰を保っていけばいいのかわらなくなる。まるで自分たちの信仰が振り出しに戻ったような、そして主イエスに会ったことも、主を知ったこともないような気持ちになる。目の前のすべてがわたしたちを困惑させ、ためらいに揺れ動かせる。わたしたちは狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには抑えきれない憤りと屈辱感がくすぶる。そしてうっぷんを晴らそう、出口を探そうと試み、さらには救い主イエスを待ち続けて、イエスに胸中を打ち明けようとさえ考える。表面上は平静で、高慢でも謙虚でもないように見えるときもあるが、心の中ではこれまでにない喪失感に苛まれている。ときには表面上いつになく冷静に見えることもあるかもしれないが、内面は荒れた海原のような苦悶に揺れている。彼の裁きと刑罰はわたしたちの希望と夢のすべてを奪い去ったため、贅沢な望みはみな葬られ、わたしたちはあの人が救い主で自分たちを救えるのだと信じようとはしなくなる。彼の裁きと刑罰はわたしたちと神との間に亀裂を作り、それがあまりに深いため、誰も渡ろうとさえしない。彼の裁きと刑罰によって、わたしたちは人生で初めてこれほどの挫折と屈辱を感じたのである。わたしたちは彼の裁きと刑罰によって、神の名誉と人の侮辱に対する神の不寛容とを本当に認識した。それと比べると、わたしたちはなんと卑しく汚れていることか。彼の裁きと刑罰によってわたしたちは初めて、いかに自分たちが傲慢で尊大か、いかに人間が決して神と同等でなく、神と肩を並べることは一切ないかを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、わたしたちはもうこのような堕落した性質の中で生きることをやめたい、この本性実質からできるだけ早く抜け出したい、神にとって卑劣で不快なものでなくなりたいと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、わたしたちは神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と采配に反抗することはなくなった。彼の裁きと刑罰によって、わたしたちは生き残ることを再び切望するようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった……。わたしたちは征服の働きから抜け出し、地獄から、死の影の谷から抜け出した……。全能神はわたしたちを、この一群の人々を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、数多くの敵を打ち倒したのだ。

『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 537

自分の堕落した性質を捨て去り、正常な人間性を生きることを成し遂げて初めて、あなたは完全にされる。たとえ預言を語ったり奥義について話したりすることができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。神は人を創ったが、その後、人はサタンによって堕落させられ、「死人」になってしまった。ゆえに、あなたは変わった後、もはやそうした「死人」のようではなくなる。人々の霊を蘇らせ、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生したとき、人には生命が吹き込まれる。「死人」について語るとき、わたしは霊を持たない死体のこと、内なる霊が死んでしまった人々のことを指している。人の霊が蘇ると、その人には生命が吹き込まれる。以前語られた聖者とは、生命を吹き込まれた者、またサタンの支配下にありながらサタンを打ち負かした者を指す。中国の選民は、赤い大きな竜による悲惨かつ非人道的な迫害や策略に耐えてきたため、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって、彼らの霊の目覚めは、自身の実質から始まらなければならない。つまり自分自身の実質の中で、少しずつ霊を目覚めさせなければならないのである。ある日、生命を吹き込まれたとき、もはや障害物は何もなくなり、すべては順調に進む。今のところ、これは達成不可能なままである。ほとんどの人は死の空気を数多くもたらすような生き方をしており、死の気配に包まれていて、欠けているものがかなり多くある。中には、言葉が死を帯び、行動も死を帯びていて、死しかもたらさないような生き方をしている人もいる。もし今日、人々が神の証しを公に行っても、この任務は失敗する。なぜなら、いまだ完全には生命を吹き込まれておらず、あなたがたのあいだにあまりにも多くの死人がいるからである。今日、なぜ神はしるしや不思議を示さないのか、そうすれば異邦人たちのあいだに神の働きをすばやく広めることができるのに、と言う人々がいる。死人は神の証しをすることができない。それは生きている者だけが行えることだが、今日ほとんどの人は「死人」であり、あまりにも多くの人が死の衣をまといながら、サタンの影響下で生きており、勝利を得ることができずにいる。そうであれば、そのような人が神の証しをどうしてできるだろうか。福音の働きを広めることなどできるだろうか。

暗黒の影響下で生きる人はみな、死の中で生きる者、サタンにとりつかれた者である。神に救われなければ、そして神の裁きと刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れられず、生きている人になれない。こうした「死人」は神の証しをすることも、神に用いられることもできず、まして神の国に入ることなどできない。神は死人ではなく、生きている人の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人が神のために働くことを求める。「死人」とは神に逆らい、神に反抗する者、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない者である。また、真理を実践せず、神への忠誠心など微塵もない者、サタンの支配下で生き、サタンに利用されている者でもある。死人は真理に逆らい、神に反抗し、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自分自身を表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲み食いしても、神の言葉を生きることはできない。生きてはいるが、歩いて呼吸する屍に過ぎないのである。死人は神を満足させることがまったくできないし、ましてや神に対して完全に従順でいることなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできず、彼らの生き方がもたらすものはどれもサタンの本性を明らかにする。生きている存在になり、神の証しをし、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神の刈り込みと、神によって取り扱われることを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人は神によって救われ、神による裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、神のために喜んで生命を投げ出し、一生を神に捧げる。生きている人が神の証しをして初めて、サタンを辱めることができる。生きている人だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人だけが神の心にかない、生きている人だけが本当の人である。神によって創られた人は本来生きていたが、サタンに堕落させられたために死のただ中で生き、サタンの影響下で生きるようになった。ゆえに、人々はこのようにして霊のない死人、神に逆らう敵、サタンの道具、サタンの捕囚になってしまった。神が創った生きている人はすべて死人となり、そのため神は証しを失うとともに、自身が創り、自身の息を吹き込んだ唯一の存在、すなわち人類を失ったのである。神が自身の証しを取り戻し、神の手で創られたもののサタンに囚われた人々を奪い返そうとするならば、彼らを蘇らせて生きている者とし、また彼らを奪い返して神の光の中で生きるようにしなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に逆らう人々のことである。彼らは何より、神を知らない人々である。このような人は神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗して逆らうだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えているが、このような人だけが神の家で神に喜ばれる。生命を吹き込まれることのできる人々、神の救いを見ることのできる人々、神に忠実でいられる人々、および進んで神を探し求める人々を神は救う。また、神の受肉と出現を信じる人々を神は救う。生命を吹き込まれることのできる人もいれば、そうでない人もいるが、それはその人の本性が救われ得るか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず、神の旨を理解せず、いまだ真理を実践できない人が大勢いる。このような人はいかなる真理も生きられず、神の働きを故意に妨げる。彼らは神のためにいかなる働きも行えず、神に何も捧げられず、そのうえ教会の資金を密かに使い込んだり、ただで神の家で食べたりする。これらの人は死人であり、救われない。神は自身の働きのただ中にいるすべての人を救うが、一部の人は神の救いを得られない。神の救いを得られるのはほんの少数だけである。なぜなら、ほとんどの人はあまりに深く堕落して死人となり、救いようがないからである。そのような人はサタンによってすっかり利用され、本性があまりに悪意で満ちているからである。また、先の少数の人たちも完全に神に従うことができない。彼らは最初から完全に神に忠実だった人、あるいは最初から神に最大限の愛を抱いていた人ではない。むしろ、神の征服の働きゆえに神に従うようになったのであり、神の究極の愛ゆえに神を見ているのであり、神の義なる性質ゆえに性質が変化したのであって、実際的で正常な神の働きゆえに神を知るようになるのである。神のこの働きがなければ、どれほど善良であろうと、これらの人たちはいまだサタンに属しており、いまだ死に属しており、いまだ死んでいることだろう。今日、これらの人たちが神の救いを得られるのは、進んで神に協力しようとしているからに他ならない。

生きている人は、神に忠実であるために神のものとされ、神の約束のただ中で生きる。死人は、神に逆らうがゆえに神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いのただ中で暮らす。これが神の義なる性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。人は自ら探し求めるがゆえに、神の承認を得て光の中で生きる。人は狡猾な企みのゆえに、神に呪われ、懲罰へと落ちてゆく。人は自身の悪行のゆえに、神に懲罰される。そして神に対する切望と忠実のゆえに、神の祝福を受ける。神は義である。つまり、神は生きている人を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、神の光の中で生きることは決してない。神は生きている人を神の国へと、そして神の祝福へと導き、永遠に神といられるようにする。しかし死人について言えば、神は彼らを撃ち、永遠の死へと陥れる。死人は神による滅ぼしの対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。真に神を探し求める人はみな、必ずや神の家に留まり、そして神に逆らい、神と相容れない人は必ずや神の懲罰を受けながら生きる。おそらくあなたは肉における神の働きについて確信がないだろうが、いつの日か、神の肉が人の終末を直接的に定めるのではなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、そのとき人々は、神の肉と霊が一つであること、神の肉が間違いを犯すことはあり得ず、神の霊が間違いを犯すことなどさらにあり得ないことを知る。最終的に、神は一人の余分も一人の欠けもなく、生命を吹き込まれた者たちを必ずや神の国へと導く。そして生命を吹き込まれていない死人について言えば、サタンの巣窟へと放り込まれる。

『神の出現と働き』「あなたは生き返った人か」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 538

聖霊が人の中で働く第一歩は、まず何より人間の心を人々や出来事や物事から引き離して神の言葉へ導き入れ、神の言葉には疑いの余地が一切なく完全に真実であることを、人が心の中で信じるようにすることである。神を信じているのであれば、神の言葉を信じなければならない。長年にわたり神を信じてきたのに、聖霊が歩む道に気づかないままなら、あなたは本当に信者なのか。正常な人間生活、つまり神との正常な関係がある正常な人間生活を実現するには、まず神の言葉を信じなければならない。聖霊が人の中で行なう働きの第一歩を、あなたが達成していないのであれば、あなたには何の基盤もない。最も小さな原則にさえ達することができなければ、あなたはどうやって前途を歩むつもりか。神が人間を完全にする正しい道に足を踏み入れることは、聖霊による現在の働きの正しい道に入るという意味であり、聖霊が歩む道に足を踏み入れるという意味でもある。目下のところ、聖霊が歩む道とは、神の現在の言葉である。このように、聖霊の道に足を踏み入れるのであれば、その人は受肉した神の現在の言葉に従い、それを飲み食いしなければならない。受肉した神が行なう働きは言葉の働きであり、あらゆることが受肉した神の言葉から始まり、すべては受肉した神の言葉の上、その現在の言葉の上に築かれる。受肉した神について確信することであれ、あるいは受肉した神を知ることであれ、その一つひとつが受肉した神の言葉により多くの努力を注ぐことを求めている。さもなければ、人は何一つ成し遂げることができず、その人には何も残らない。神の言葉を飲み食いすることを基礎とし、それによって神を知り、神を満足させるようになることでのみ、人は徐々に神との正常な関係を築くことができる。人にとって、神の言葉を飲み食いし、それを実践すること以上に、神とのよりよい協力は存在しない。このような実践を通じ、人々は神の民の証しにおいてもっともよく立つことができる。神の現在の言葉の本質を理解し、それに従えるとき、その人は聖霊によって導かれる道を生きており、神が人を完全にする正しい軌道に乗っている。それまでは、ただ神の恵みを求めていれば、あるいは安らぎと喜びを求めていれば、人は神の働きを得ることができた。しかし今は違う。受肉した神の言葉がなければ、その言葉の現実がなければ、人は神の承認を得ることができず、神によって一人残らず淘汰される。正常な霊的生活を実現させるには、まず神の言葉を飲み食いし、それを実践に移してから、それを基に神との正常な関係を確立させなければならない。あなたはどのように協力するのか。神の民の証しにおいてどうしっかり立つのか。神との正常な関係をいかに築くのか。

次に挙げるのは、日常生活においてあなたが神と正常な関係にあるかどうかを確かめる方法である。

1.あなたは神自身の証しを信じているか。

2.神の言葉は真実であり、絶対に誤りがないと、あなたは心の中で信じているか。

3.あなたは神の言葉を実践する人か。

4.神が託す使命に忠実か。神が託す使命に忠実であるべく、あなたは何をするべきか。

5.あなたが行なうすべてのことは、神を満足させ、神に忠実であるためのものか。

上に挙げた各項目により、自分が現段階において神と正常な関係にあるかどうかを検討することができる。

神から託された任務と約束を受け入れ、聖霊の道に従うことができるなら、あなたは神の旨に従っている。あなたの中で聖霊の道は明瞭だろうか。現在、あなたは聖霊の道に従って行動しているか。あなたの心は神に近づいているか。聖霊の最新の光と歩調を合わせたいと望んでいるか。神に得られたいと願っているか。地上における神の栄光の現われになりたいと望んでいるか。神が自分に求めることを成し遂げる決意があるか。神の言葉が語られるとき、あなたの中に協力する決意、神を満足させる決意があれば、そしてそれがあなたの心構えであれば、神の言葉があなたの中で実を結んだことを意味する。あなたにそうした決意がなく、何の目標もないのであれば、あなたの心がいまだ神によって感動していないということである。

『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 539

いのちの性質の変化を追い求めるにあたり、実践の道は単純である。実体験において聖霊の現在の言葉に従い、神の働きを経験できるなら、あなたの性質は変わることができる。聖霊が何を言おうとそれに従い、それを求めるなら、あなたは聖霊に従う人であり、あなたの性質に変化が生じる。人の性質は、聖霊の現在の言葉とともに変化する。あなたがいつも昔の経験や過去の規則にしがみつくなら、あなたの性質は変化できない。すべての人が正常な人間性の生活に入るよう、聖霊による今日の言葉が求めているにもかかわらず、あなたがあくまで外面的な物事に固執し、現実について混乱してそれを真剣に捉えないのであれば、あなたは聖霊の働きに歩調を合わせられなかった人、聖霊による導きの道に入っていない人である。あなたの性質が変化できるかどうかは、あなたが聖霊の現在の言葉に歩調を合わせられるかどうか、あなたに真の認識があるかどうか次第である。これは、あなたがたが以前に理解していたこととは異なる。あなたがかつて理解していた性質の変化とは、早合点しがちな自分が神の鍛錬によって不注意に話すことをやめた、というものである。しかし、それは変化の一面に過ぎない。現時点で最も重要なのは、聖霊の導きに従うことである。神が何を言おうとそれに従い、服従すること。人は自分の性質を変えることができず、神の言葉による裁きと刑罰、苦難と精錬を経験するか、あるいは神の言葉による取り扱い、懲らしめ、そして刈り込みを受けなければならない。そうして初めて、その人は神への従順と忠誠を実現することができ、もはや神に対していい加減ではなくなる。人の性質が変わるのは、神の言葉による精錬のもとである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受けることでのみ、その人はあえて軽率に行動することがなくなり、平静沈着になる。最も重要な点は、神の現在の言葉、および神の働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を脇にのけて進んで従うことができる、ということである。過去、性質の変化について話すとき、それは主として自分を捨て去れること、肉が苦しむのを甘受すること、自分の肉体を懲らしめること、そして肉の好みを自分から取り除くことを指していた。それが性質の変化の一種だというのである。だが今日、性質の変化の真の現われは、神の現在の言葉に服従し、神の新たな働きを真に認識することだと、誰もが知っている。このようにして、自分の観念に彩られた、神に関する以前の理解は消し去られ、その人は神に対する真の認識と服従を成し遂げることができる。性質の変化については、それ以外に真の現われは存在しない。

『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 540

いのちへの入りに対する人々の追求は神の言葉に基づいている。以前は、すべては神の言葉ゆえに成し遂げられると言われていたが、その事実を見た者は誰もいない。もしも現在の歩みを経験することへと入るなら、あなたにとってすべてが明瞭になり、あなたは将来の試練に向けて素晴らしい基盤を築いていることになる。神が何を語ろうと、神の言葉への入りにだけ集中しなさい。これから人々を罰し始めると神が言うのであれば、神の刑罰を受け入れなさい。神が人々に死ぬことを求めるのであれば、その試練を受け入れなさい。あなたが神の発する最新の言葉の中で常に生きているなら、神の言葉は最後にあなたを完全にする。神の言葉に入れば入るほど、あなたはすぐさま完全にされる。わたしが交わりに次ぐ交わりの中で、神の言葉を知ってそこに入るよう、あなたがたに求めるのはなぜか。神の言葉を追い求めて経験し、その言葉の現実に入って初めて、聖霊はあなたの中で働く機会を得る。したがって、あなたがたはみな、神が働きを行なうあらゆる手段への参加者であり、あなたがたの苦しみがどの程度であろうと、最後に全員「記念品」を受け取ることになる。あなたがたが最終的に完全になることを遂げるには、神のすべての言葉に入らなければならない。聖霊が人々を完全にするのは、一方的なことではない。聖霊は人々の協力を求め、誰もが意識的に聖霊と協力することを必要とする。神が何を語ろうと、神の言葉への入りにだけ集中しなさい。それがあなたがたのいのちにとってより有益なものになる。すべてはあなたがたが性質の変化を遂げるためである。あなたが神の言葉に入るとき、あなたの心は神によって感動し、働きのこの段階において神が達成しようと望むすべてのことを知ることができ、それを成し遂げる決意をもつ。刑罰の時において、それは働きの手段だと考え、神の言葉を信じなかった人がいる。その結果、彼らは精錬を経験せず、何一つ得ることも理解することもないまま刑罰の時から抜け出した。疑いの片鱗も抱かず、それらの言葉へ真に入った上で、神の言葉は誤りのない真理であり、人類は罰せられるべきだと言った人もいた。彼らはその中で一定期間苦闘し、自分の将来と運命を捨て去った。そしてそこから抜け出すと、彼らの性質はいくらか変化を遂げ、神についてのより深い理解を得ていた。刑罰から抜け出た人はみな神の素晴らしさを感じ、働きのその段階が自分に下る神の大いなる愛を体現していること、そしてそれが神の愛による征服と救いであることに気づいた。彼らはまた、神の思いは常に善であり、神が人において行なうすべてのことは憎しみでなく愛から生じると言った。神の言葉を信じなかった者、神の言葉に目を向けなかった者は、刑罰の時に精錬を受けておらず、その結果、聖霊は彼らと共におらず、彼らは何も得なかった。刑罰の時に入った者は精錬を受けたものの、聖霊は彼らの中に隠れて働きを行なっていた。そしてその結果、彼らのいのちの性質は変わったのである。外面的にはたいへん積極的で、一日中朗らかさで一杯のように見える人もいたが、彼らは神の言葉による精錬の状態に入っておらず、ゆえにまったく変わらなかった。それは神の言葉を信じなかった結果である。あなたが神の言葉を信じないのであれば、聖霊はあなたの中で働きを行なわない。神は自身の言葉を信じるすべての人の前に現われ、神の言葉を信じて受け入れる人は神の愛を得ることができる。

神の言葉の現実へと入るには、実践の道を見つけ、神の言葉をどう実践すべきかを知らなければならない。そうすることでのみ、あなたのいのちの性質に変化が生じる。またその道を通じてでなければ、神によって完全にされることができず、そのようにして神によって完全にされた人だけが、神の旨にかなうことができる。新たな光を受けるには、神の言葉の中で生きなければならない。聖霊によって感動しても、それが一度だけならまったく役に立たない。もっと深くに進まなければならないのである。一度しか感動していなければ、その人の中で熱情が生じ、探求することを望むものの、それは決して長続きしない。そのような人は、聖霊によって絶えず感動しなければならない。わたしは過去何度も自分の望みを口にした。それはつまり、神の霊が人々の霊を感動させることで、彼らがいのちの性質の変化を追い求めるようになること、また彼らが神によって感動することを求めつつ、自分の欠点を認識し、神の言葉を経験する過程で自分の中の不純物(独善、傲慢、観念など)を捨てることである。新たな光を積極的に受ければそれでいいと考えてはならない。あなたは否定的な物事をも一切捨てなければならないのである。あなたがたは積極的な側面から入らなければならない一方で、否定的な側面から見れば、すべての不純物を自分から取り除く必要がある。絶えず自分を検証し、自分の中にどの不純物がまだ残っているのかを確かめなさい。人類の宗教的な観念、意図、希望、独善、傲慢といったものは、どれも不潔なものである。自分の内側に目を向け、あらゆるものを神によるすべての暴きの言葉と一緒に並べ、自分がどの宗教的観念をもっているかを確かめなさい。本当に認識して初めて、あなたはそれらを捨て去れる。中には、「今は聖霊の現在の働きによる光に従うだけで十分だ。他のことで悩む必要はない」と言う人がいる。そうであれば、宗教的観念が生じたとき、あなたはそれらをどう取り除くのか。今日の神の言葉に従うのは簡単なことだと思っているのか。もしもあなたが宗教の人であれば、あなたの宗教的観念や、あなたの心にある伝統的な神学理論に妨害されることがあり得る。そしてそうした物事が生じるとき、それはあなたが新しい物事を受け入れるのを妨げる。それらはどれも本当の問題である。聖霊の現在の言葉を追求するだけであれば、あなたに神の旨を満たすことはできない。聖霊の現在の光を追い求めると同時に、自分がどの観念や意図を抱いているのか、自分にどのような人間の独善があるのか、どの振る舞いが神への反抗なのかを認識すべきである。そしてそうした物事をすべて認識した後、それらを捨て去らなければならない。以前の行動や振る舞いを捨てさせるというのはひとえに、聖霊が今日語る言葉に従えるようにさせるためである。性質の変化が神の言葉を通じて成し遂げられる一方、それは人間の協力を必要とする。神の働きがあれば人間の実践もあり、両者はともに不可欠である。

『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 541

将来の奉仕の道において、あなたはどうすれば神の旨を満たせるだろうか。重要な点は、いのちへの入りを追い求めること、性質の変化を追い求めること、そして真理へのより深い入りを追い求めることであり、それが完全にされ、神に得られる道である。あなたがたはみな、神からの任務を受け取る人だが、それはどのような任務なのか。それは次なる段階の働きに関連しており、次なる段階の働きは、全宇宙で行なわれるさらに偉大な働きとなる。ゆえに今日、あなたがたはいのちの性質の変化を追い求め、それによって自分が将来、神が働きを通じて栄光を得ることを真に証明する者となり、神の将来の働きの模範とならなければならない。今日の追求はひとえに将来の働きの基礎を築くためであり、それによってあなたは神によって用いられ、神への証しを行なえるようになる。それを自分の追求の目標とするなら、あなたは聖霊の臨在を得られるようになる。自分の追求に対して高い目標を設定すればするほど、あなたはより完全にされることができる。あなたが真理を追求すればするほど、聖霊は働きを行なう。自分の追求に活力を注げば注ぐほど、あなたはより多くのものを得る。聖霊はその人の内なる状態に応じて人を完全にする。中には、自分は神に用いられることや完全にされることを望まず、自分の肉が安全で、いかなる不幸にも苦しまなければそれでいい、と言う人がいる。また、神の国に入ることを望まず、底なしの穴に降りることを望む人もいる。その場合、神もあなたの望みを叶えるだろう。あなたの追い求めることが何であれ、神はそれを実現させるのだ。では、あなたは現在何を追い求めているのか。それは完全にされることか。あなたの現在の行動や振る舞いは、神によって完全にされ、神に得られるためなのか。あなたは日常生活の中で、絶えず自分をこのように評価しなければならない。ただ一つの目標の追求に自分の心を残らず捧げれば、神は確実にあなたを完全にする。それが聖霊の道である。聖霊が人々を導く道は、その人たちの追求によって獲得される。あなたが神によって完全にされ、神に得られることを渇望すればするほど、聖霊はあなたの中で働きを行なう。求めなければ求めないほど、あなたは否定的になって退歩し、聖霊から働きを行なう機会を奪う。そして時間が経つにつれ、聖霊はあなたを捨てる。あなたは神によって完全にされることを望んでいるのか。神に得られることを望んでいるのか。神に用いられることを望んでいるのか。あなたがたは、神によって完全にされること、神に得られること、そして神に用いられることのために、すべてを行なうことを追い求めるべきである。それによって宇宙と万物は、あなたがたの中に神の業が現われるのを見ることができる。あなたがたは万物の主人であり、存在するすべてのものの中で、神があなたがたを通じて証しと栄光を享受できるようにする。そのことは、あなたがたがあらゆる時代の人の中で最も祝福されていることを証明している。

『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 542

あなたが神の旨に配慮すればするほど、あなたの重荷は大きくなり、その重荷が大きければ大きいほど、あなたの経験は一層豊かになる。あなたが神の旨に配慮するとき、神はあなたに重荷を与え、あなたに委ねた務めについてあなたを啓いてくださる。神があなたにこの重荷を与えると、あなたはそれに関連するすべての真理に留意しながら、神の言葉を飲み食いするようになる。あなたが兄弟姉妹のいのちの状態に関する重荷を負っているとすれば、それは神があなたに委ねた重荷であり、あなたは日々の祈りの中で常にその重荷を負うことになる。神の行いはあなたに課せられており、あなたは神が望むことを喜んで行なう。これが、神の重荷を自らの重荷として背負うということである。この時点であなたは、神の言葉を飲み食いする際、この種の問題に集中し、そして考えるようになる―「どうやってこの問題を解決すればいいだろうか。兄弟姉妹が解放され、霊的喜びを得られるようにするにはどうすればいいだろうか」と。また交わりにおいてもこうした問題の解決に集中し、神の言葉を飲み食いする際は、そうした問題に関する言葉の飲み食いに集中する。そして神の重荷を負いつつ、神の言葉を飲み食いする。ひとたび神の要求を理解すれば、あなたは歩むべき道を明確に理解できるようになる。これがあなたの重荷によってもたらされる聖霊の啓きと照らしであり、またあなたに与えられた神の導きでもある。わたしがこう言うのはなぜか。重荷がなかったとしたら、あなたは不注意に神の言葉を飲み食いすることになるが、重荷を負いつつ神の言葉を飲み食いすれば、神の言葉の本質を把握し、自分の道を見出し、神の旨に配慮することができる。だから神に祈るときは、自分にもっと多くの重荷を与え、より大きな任務を委ねてくださるよう祈りなさい。前途により多くの実践の道を得て、神の言葉の飲み食いをより効果的に行い、神の言葉の本質を把握し、より一層聖霊によって感動することができるようになるために。

神の言葉を飲み食いし、祈りを実践し、神の重荷を受け容れ、神が自分に委ねる任務を受け容れることはすべて、自分の前途を拓くためである。神の委託による重荷が大きければ大きいほど、神によって完全にされることが容易になる。神に仕える中で、召し出されても他者と協力したがらない者がいるが、そうした者は怠惰で、ただ快楽に溺れることを望んでいる。他者と協力して神に仕えることを求められれば求められるほど、得られる経験が多くなる。そしてより多くの重荷と経験を持つことで、完全にされる機会も増えることになる。そのためあなたが誠意を持って神に仕えることができれば、あなたは神の重荷を心に留めるようになるので、神によって完全にされる機会を一層多く得られるようになる。現在完全にされているのは、まさにこうした人々である。聖霊があなたに触れるほど、あなたは神の重荷を心に留めるために割く時間が増え、より一層神によって完全にされ、より神のものとされて、最終的には神に用いられる者となる。現在、教会のための重荷をまったく担っていない者もいる。そうした者は怠惰で不注意で、自らの肉のことしか考えていない。彼らは極度に自分勝手で、盲目でもある。この事実を明確に理解できないなら、あなたは重荷を担わないだろう。あなたが神の旨に配慮すればするほど、神があなたに託す重荷も大きくなる。自分勝手な者はそうした物事に煩わされたがらず、代償を払いたがらず、その結果として、神に完全にされる機会を失うのだ。これは自らを害する行為ではないだろうか。あなたが神の旨に配慮する者であれば、教会のために真の重荷を抱くようになる。だが、それは教会のための重荷と言うより、自分のいのちのための重荷と言ったほうがいい。なぜならあなたが教会のために抱くこの重荷は、あなたがその経験によって神に完全にされるためのものだからだ。したがって、教会のために最大の重荷を担う者、いのちに入るための重荷を負う者は、神によって完全にされる者である。このことを明確に理解しているか。あなたが属する教会が砂のように乱れているにもかかわらず、あなたが憂慮も懸念もせず、兄弟姉妹が神の言葉を普通に飲み食いしていなくても見て見ぬふりさえしているなら、あなたは何の重荷も負っていない。そのような者は神に好まれない。神が好む者は、義に飢え渇き、神の旨に配慮している。だから、あなたがたはたった今神の重荷を心に留めるべきである。神がその義なる性質をすべての人間に表したら、それから神の重荷を心に留めようといって待っていてはならない。そのときにはすでに手遅れではないか。今は神に完全にされる好機である。もしこの機会を逃したなら、あなたは一生後悔するだろう ― カナンの良き地に入れずに一生後悔して、自責のうちに死んだモーセのように。神がその義なる性質をすべての民に表すと、あなたは後悔の念に満たされることになる。神があなたを罰しないとしても、あなたは自責の念で自らを罰するだろう。このことに納得しない者もいるが、信じないなら、ただ見ていればいい。これらの言葉を全うすることだけを目的としている者もいるのだ。あなたは、この言葉のために身を捧げる意志があるだろうか。

神によって完全にされる機会を求めず、誰よりも早く完全にされるよう努めないならば、最終的には後悔の念で満たされることになるだろう。完全にされる絶好の機会、絶好の時は、今である。神に完全にされることを熱心に求めなければ、神の働きが完了した時にはすでに手遅れで、あなたは機会を逸したことになる。どれほど強く願っても、神がもう働きを行っていなければ、どんな努力を払っても、決して完全にされることはできない。あなたはこの機会をとらえ、聖霊がその大いなる働きを行っている間に協力する必要がある。この機会を逃せば、どれほど努めても二度と機会は与えられない。中には「神よ、わたしは喜んであなたの重荷を心に留め、あなたの旨を喜んで満たします」と叫ぶ者もいるが、そうした者には実践の道がないので、重荷は長く続かない。目の前に道があるなら、あなたは一歩ずつ経験を得ていき、その経験は体系的に整理されたものになるだろう。1つの重荷が完了すると、別の重荷が与えられる。あなたのいのちの経験が深まるほど、あなたの重荷も深みを増す。人によっては、聖霊に触れられたときだけ重荷を負い、しばらくして実践の道がなくなると、それ以降は重荷を負わない者もいる。あなたの重荷は、ただ神の言葉を飲み食いするだけで抱けるものではない。あなたは多くの真理を理解することで分別を身に付け、真理を用いて問題を解決できるようになり、神の言葉と旨についてのより正確な認識を得るだろう。こうしたことによってあなたは重荷を抱えるようになり、そうなって初めて、正しい働きを行えるようになる。重荷を抱えていても真理を明確に理解していなければ、それもまた意味がない。あなたは神の言葉を直接体験し、それを実践する方法を知らなければならない。自分自身が現実に入って初めて、他者に施し、他者を導き、神に完全にされることができるようになるのだ。

『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 543

現在の神の働きは、すべての人が正しい道に入り、正常な霊的生活を送り、真の経験をし、聖霊によって動かされ、そうしたことを基盤として、神の委託を受け容れるようにするためのものである。神の国の訓練に入ることの目的は、あなたがたのすべての言葉、行為、動作、思い、考えが神の言葉に入るようにすること、そしてより頻繁に神に触れられることであなたがたの中に神への愛が生まれるようにすること、さらに神の旨の重荷をより多く引き受けることですべての人が神に完全にされる道に入り、正しい方向へ進むようにすることである。この神に完全にされる道を歩み始めたならば、あなたは正しい方向へ進んでいる。あなたが自分の思いや考えだけでなく誤った意図をも修正できるようになり、自らの肉に配慮することをやめて神の旨に配慮出来るようになり、誤った意図が生じたときもそれに心を奪われることなく、神の旨に従って行動できるようになったなら ― そのような変化をあなたが実現できるなら、あなたはいのちの経験の正しい道を歩んでいる。あなたの祈りの実践の道が正しければ、祈りの中で聖霊があなたに触れるだろう。あなたが祈るたび、聖霊があなたに触れ、あなたは神の前で心を静めることができるようになる。あなたが神の言葉の一節を飲み食いするたびに、現在神が行っている働きを把握し、どのように祈り、協力し、いのちに入るべきかを学べるようになったら、そのとき初めて、あなたは神の言葉を飲み食いしたことの成果を得られるのである。あなたが神の言葉によって入りの道を見出し、神の働きの現在の動向と聖霊の働きの傾向を把握することができるようになれば、それはあなたが正しい道を歩んでいることを意味する。あなたが神の言葉を飲み食いしていながらもその要点を把握しておらず、その後も実践の道を見出すことができないなら、それはあなたがまだ神の言葉をどうやって正しく飲み食いすればよいか知らず、その方法や原則を見出していないことを意味する。神が現在行っている働きをまだ把握していないなら、神に託される任務を受け入れることはできないだろう。神が現在行っている働きは、人間が今まさに入り、理解しなければいけない働きなのだ。あなたがたはこうしたことを理解しているだろうか。

神の言葉を効果的に飲み食いすれば、あなたの霊的生活は正常になり、どのような試練に直面し、どのような状況に遭遇し、どのような肉体の病に耐え、どのような兄弟姉妹との不和や家庭内の問題を経験しようとも、あなたは神の言葉を正常に飲み食いし、正常に祈り、正常に教会生活を送ることができる。そのすべてを成し遂げることができるなら、それはあなたが正しい道を歩んでいることを意味する。人によっては過度に繊細で根気に欠ける者もいる。そうした者は些細な障害に遭遇すると泣き言を言い、否定的になってしまう。真理の追求には根気と決意が必要だ。もし今回神の旨を満たすことに失敗したなら、自分自身を嫌悪し、次回は神の旨を満たすと心の奥で静かに決意できなければならない。もし今回神の重荷を心に留めていなかったのなら、将来同じ障害に遭遇したときには断固として肉に背き、神の旨を満たすと決意を固める必要がある。そうすることで、あなたは称賛に値する者となるのだ。自分自身の思いや考えが正しいかどうかすら知らない者もいるが、そうした者は愚かである。自分の心を抑えて肉に背きたいのなら、まず自分の意図が正しいかどうかを知る必要があり、その後初めて自分の心を抑えることができるようになるのだ。自分の意図が正しいかどうかを知らずに、自分の心を抑えて肉に背くことができるだろうか。肉に背いたとしても、曖昧なやり方になるだけだ。あなたは自分の誤った意図に背くことを知らなければならない。それが自分の肉に背くということなのだ。自分の意図、思い、考えが正しくないことに気づいたら、すぐに方向を変えて正しい道を歩む必要がある。まずこの問題を解決してから、この側面における入りを達成できるよう訓練しなさい。自分の意図が正しいかどうかを最もよく知っているのは自分自身だからである。誤った意図が正され、すべてが神のためとなったなら、自分の心を抑えるという目的を達成したことになる。

現在あなたがたにとって最も重要なことは、神と神の働きについて知ることである。また、聖霊が人間に対してどのように働きを行うかも知らなければならない。これが、正しい道に入るために必須の行いである。あなたがこの重要な点を把握できれば、正しい道に入ることは容易になるだろう。あなたが神を信じ、かつ神を知っていることは、神に対するあなたの信仰が本物であることを意味する。いくら経験を積んでも、最終的にまだ神を知ることができないなら、あなたは間違いなく神に逆らう者である。イエス・キリストのみを信じ、現在の受肉した神を信じない者は皆、罪に定められている。そうした者は皆現代のパリサイ人である。彼らは現在の神を認めず、皆神に背いているからである。そうした者がどれほど献身的にイエスを崇拝しても、すべては無駄であり、神の称賛を受けることはない。神を信じると大声で言いつつ、神に関する正しい認識を心の中に一切持たない者は、皆偽善者である。

『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 544

神に完全にされることを求めるには、まず神に完全にされるということの意味と、完全にされるために満たすべき条件とを知る必要がある。そうしたことを把握できたら、次に実践の道を追求しなければならない。神に完全にされるためには、一定の素質を備えている必要がある。多くの者はそのような崇高な性質を生まれつき備えてはいないため、代償を払って主体的に努力する必要がある。性質が劣っていればいるほど、一層主体的に努力しなければならない。神の言葉に関する認識が多ければ多いほど、そして神の言葉を多く実践すればするほど、完全にされる道に入れる時期が早まる。祈ることにより、祈りの領域で完全にされることができる。また神の言葉を飲み食いし、その本質を把握し、その現実性を行動で示すことによっても、完全にされることができる。神の言葉を日々経験することで、あなたは自分に欠けている物事を知るようになるだけでなく、自分の致命的な欠点や弱点を認識し、神に祈り嘆願するようになるはずだ。そうすることで、あなたは徐々に完全にされる。完全にされる道とは、祈りを捧げること、神の言葉を飲み食いすること、神の言葉の本質を把握すること、神の言葉の経験に入ること、自分に何が欠けているかを知ること、神の働きに従うこと、神の重荷を心に留め神への愛をもって肉を捨てること、そして兄弟姉妹との交わりを頻繁に持つことである。こうした交わりはあなたの経験を豊かにし、それが社会的生活か個人的生活かを問わず、また大規模な集会か小規模な集まりかを問わず、すべて経験を積み訓練を受けるのに役立つため、それによってあなたは神の前で心を静め、神へと還ることができるようになる。これはすべて完全にされる過程の一部である。前述した、神の言葉を経験するということは、実際にその言葉を味わい、それを行動で示せるということを意味する。それによってあなたは神への一層大きな信仰と愛を得るのである。このようにして、あなたは次第にサタンのような堕落した性質を払拭し、不適切な動機から脱却し、正常な人間らしさを行動で示すようになるだろう。神に対するあなたの愛が大きければ大きいほど、つまりあなたの中で神に完全にされた部分が多ければ多いほど、サタンによって堕落させられた部分は少なくなる。あなたは実際の経験によって、徐々に完全にされるための道に足を踏み入れるだろう。それゆえ、完全にされることを願うなら、神の旨に配慮することと、神の言葉を経験することが特に重要である。

『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 545

今、神は一種の人々の集団、つまり神と協力することに努め、神の働きに従うことができ、神が語る言葉は真実だと信じ、神の要求を実践できる人から成る集団を獲得することを望んでいる。このような人は、心の中に真の認識を有している者たちであり、完全にされることができ、必ずや完全への道を歩める者たちである。完全にされることができない者とは、神の働きをはっきり認識しない人、神の言葉を飲み食いしない人、神の言葉に注意を払わない人、心の中に神への愛がまったくない人である。受肉した神を疑い、受肉した神についていつも確信がなく、その言葉を決して真剣に扱わず、受肉した神を絶えず騙す者は、神に抵抗し、サタンに属する人であり、このような人を完全にする術はない。

完全にされることを望むのであれば、まずは神の好意を得なければならない。なぜなら、神は自分が好意をもつ者、自身の心にかなう者を完全にするからである。神の心にかなうことを望むのであれば、神の働きに従う心をもち、真理の追求に努め、万事において神の吟味を受け入れなければならない。あなたが行なうすべてのことは、神の吟味を経ただろうか。あなたの意図は正しいだろうか。あなたの意図が正しければ、神はあなたを褒めるだろう。あなたの意図が正しくなければ、あなたの心が愛しているのは神でなく、肉とサタンであることを示している。したがって、あなたは万事において神の吟味を受け入れる手段として、祈りを用いなければならない。あなたが祈るとき、わたしは自らあなたの前に立っているわけではないが、聖霊があなたとともにあり、あなたが祈っているのはわたし自身と神の霊の両方である。あなたはなぜこの肉を信じているのか。あなたが信じているのは、この肉に神の霊があるからである。神の霊がないなら、あなたはこの人を信じるだろうか。この人を信じるとき、あなたは神の霊を信じている。この人を畏れるとき、あなたは神の霊を畏れている。神の霊への信仰はこの人への信仰であり、この人への信仰は神の霊への信仰でもある。祈るとき、あなたは神の霊が自分とともにあり、神が目の前にいると感じ、それゆえあなたは神の霊に祈る。今日、大半の人は恐ろしさのあまり、自分の行ないを神の前に示すことができない。また、神の肉を欺くことはできても、神の霊を欺くことはできない。神の吟味に耐えられない物事は、どれも真理と一致しないので、捨て去られなければならない。そうしないのは、神に対して罪を犯すことである。だから、祈るときであれ、兄弟姉妹と話して交わるときであれ、自分の本分を尽くして仕事を進めるときであれ、あなたは自分の心を絶えず神の前に晒さなければならない。あなたが自分の役割を果たすとき、神はあなたと共にあり、あなたの意図が正しく、神の家の働きのためである限り、神はあなたが行なうすべてのことを受け入れる。ゆえにあなたは、自分の役割を果たすよう真摯に献身すべきである。あなたが祈るとき、心の中に神への愛があり、神の気遣い、加護、そして吟味を求め、そうしたことがあなたの意図であれば、あなたの祈りには効果がある。たとえば、集会で祈るとき、心を開いて神に祈り、偽りを述べることなく心の思いを神に話すなら、あなたの祈りは必ずや効果的である。心の中で熱心に神を愛しているなら、次のように誓いなさい。「天地と万物の間におられる神よ、わたしはあなたに誓います。わたしが行なうすべてのことをあなたの霊が吟味なさり、どんな時にもわたしを守り、お気遣いくださり、わたしの行なうすべてのことがあなたの前で持ちこたえられますように。万が一にも、わたしの心があなたを愛さなくなったり、あなたを裏切ったりしたならば、わたしを厳しく罰し、呪ってください。この世でも、次の世でも、わたしを赦さないでください」。このように誓う勇気があなたにあるだろうか。そう誓えないのであれば、あなたが臆病者であり、依然として自分自身を愛していることを示している。あなたがたにそうした決意があるのか。それが本当にあなたの決意ならば、そのように誓うべきである。あなたにそのような誓いをする決意があるなら、神はあなたの決意を成就させる。あなたが神に誓うとき、神は耳を傾ける。神はあなたの祈りと実践を尺度として、あなたが罪深いか義であるかを判断する。それがあなたがたを完全にする今の過程であり、もしもあなたが、自分が完全にされることを本当に信じているのであれば、自分が行なうすべてのことを神の前に示し、神の吟味を受け入れるだろう。一方、あなたがひどく反抗的なことをしたり、神を裏切ったりしたならば、神はあなたの誓いを成就させる。ゆえに、永遠の滅びであれ、刑罰であれ、あなたに何が起きたとしても、それはあなた自身の問題である。あなたは誓いを立てたのだから、それを守るべきである。誓いを立てても守らないのであれば、あなたは永遠の滅びに陥るだろう。それがあなたの誓いなのだから、神はその誓いを成就させる。祈った後で不安になり、「すべて終わりだ。放蕩や悪事を行ない、世俗の欲にふける機会がなくなった」と嘆く者たちもいる。このような人は依然として世俗の物事と罪を愛しており、間違いなく永遠の滅びに陥る。

『神の出現と働き』「神は自身の心にかなう者を完全にする」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 546

神を信仰する者になるというのは、自分が行なうすべてのことを神の前に示し、神の吟味に晒さなければならないということである。自分が行なうすべてのことを神の霊の前に示せても、神の肉の前に示せないのであれば、あなたが神の霊による吟味に晒されていないことを示す。神の霊とは誰のことか。神が証しする人とは誰のことか。両者は同一の者ではないのか。大半の人は両者を別々の存在と見なし、神の霊は神の霊で、神が証しする人物は人間に過ぎないと信じている。しかし、あなたは間違っているのではないか。その人物は誰のために働きを行なうのか。受肉した神を知らない者たちには、霊的な認識がない。神の霊と、受肉した神の肉は一つである。なぜなら、神の霊がその肉の中に具現化されているからである。もしもこの人物があなたに対して不親切ならば、神の霊は親切だろうか。あなたは混乱しているのではないか。現在、神による吟味を受け入れられない者は、誰も神の承認を受けることができず、受肉した神を知らない者は完全にされることができない。自分が行なうすべてのことに目を向け、それを神の前に示せるかどうかを確かめなさい。自分が行なうすべてのことを神の前に示せなければ、それはあなたが悪を行なう者であることを示している。悪を行なう者が完全にされ得るだろうか。あなたが行なうすべてのこと、一つひとつの行ない、一つひとつの意図、一つひとつの反応を神の前に示さなければならない。あなたの日々の霊的生活、つまり、あなたの祈り、神との親密さ、神の言葉を飲み食いする仕方、兄弟姉妹との交わり、教会における生活、そしてあなたが共同で行なう奉仕さえも、神の前に示して吟味され得る。あなたがいのちの成長を遂げるにあたり、それを助けるのはこのような実践である。神の吟味を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の吟味を受け入れられればられるほど、あなたはいっそう清められ、神の旨と一致するので、放蕩に引き込まれることがなくなり、あなたの心は神の前で生きる。あなたが神の吟味を受け入れれば受け入れるほど、サタンの屈辱はますます大きくなり、あなたはさらに肉を捨てることができる。したがって、神の吟味を受け入れることは、人が従うべき実践の道である。あなたが何をしようとも、たとえ兄弟姉妹と交わっているときでさえも、あなたは自分の行ないを神の前に示し、神による吟味を求め、神自身に従うことを目標にすることができる。それにより、あなたが実践することははるかに正しいものとなる。自分が行なうすべてのことを神の前に示し、神の吟味を受け入れなければ、あなたは神の前で生きる人とはなれない。

『神の出現と働き』「神は自身の心にかなう者を完全にする」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 547

神に関する認識がない者は、決して神に完全に従うことができない。そのような人は不服従の子である。彼らは野心が強過ぎ、過剰な反抗心が中にあるので、神と自分との間に距離を置き、自ら進んで神の吟味を受け入れようとしない。このような人は、容易に完全にされることができない。神の言葉をどう飲み食いして受け入れるかについて、選り好みする人もいる。そのような人は神の言葉のうち、自分の観念と一致する部分は受け入れるが、一致しない部分は拒絶する。それは神に対する最も露骨な反逆と反抗ではないか。長年にわたって神を信じているにもかかわらず、神に関する認識を少しも得ていないのであれば、その人は不信者である。進んで神の吟味を受け入れる者は、神についての認識を追求する者であり、進んで神の言葉を受け入れる者である。彼らは神の遺産と恵みを授かる者たちであり、最も祝福されている。神は心の中に神の居場所がない者を呪い、そうした人たちを罰して捨てる。あなたが神を愛さないなら、神はあなたを捨て、あなたがわたしの言葉に耳を傾けないなら、神の霊があなたを捨てるだろうと約束する。それが信じられないなら、試してみるがよい。今日、わたしはあなたに実践の道を明らかにするが、それを実践するか否かはあなた次第である。あなたがそれを信じず、実践に移さないなら、聖霊があなたの中で働くかどうか、身をもって知るだろう。あなたが神について認識することを追求しないのであれば、聖霊はあなたの中で働かない。神は、神の言葉を追い求め、それを貴ぶ者たちの中で働きを行なう。あなたが神の言葉を貴べば貴ぶほど、神の霊はますますあなたの中で働く。人が神の言葉を貴べば貴ぶほど、その人が神によって完全にされる確率も高くなる。神は、真に神を愛する者たち、心が神の前で安らいでいる者たちを完全にする。神のすべての働きを貴び、神の啓示を貴び、神の臨在を貴び、神の気遣いと加護を貴び、神の言葉が自分の現実となり、自分のいのちに糧を施すことを貴ぶのは、いずれも神の心に最もかなうことである。あなたが神の働きを貴ぶなら、つまり、神があなたに対して行なったすべての働きを貴ぶなら、神はあなたを祝福し、あなたが所有するすべてのものを何倍にも増やすだろう。あなたが神の言葉を貴ばないなら、神はあなたの中で働きを行なわず、あなたの信仰に応じてわずかな恵みを与えるか、もしくは、わずかな富であなたを、わずかな安全であなたの家族を祝福するだけだろう。あなたは、神の言葉を自分の現実とし、神を満足させ、神の心にかなうことができるよう努めるべきである。ただ神の恵みを享受するためだけに努力してはならない。信者にとって、神の働きを受けること、完全になること、そして神の旨を行なう者となること以上に重要なことはない。これがあなたの追求すべき目標である。

恵みの時代に人間が追求したものは今や役に立たない。なぜなら、現在ではより高水準の追求が存在するからである。追求されるものはより高尚かつ実践的であり、人間の内面的必要をよりよく満たすことができる。過去の時代において、神は人々に対して今日のように働きを行なわなかった。人々に対して今日ほど多く語ることもなく、彼らへの要求も今日の要求ほど高くはなかった。神が現在あなたがたにこれらのことを語るのは、神の最終的な意図があなたがた、すなわちこの人々の集団に重点を置いていることを示している。あなたが神によって完全にされることを心から望むのであれば、それをあなたの目標の中心として追い求めなさい。あなたが奔走していようが、自分を費やしていようが、何らかの役割を果たしていようが、神が託す任務を受け取っていようが、目標は常に、完全にされて神の旨を満たすこと、そしてそれらの目標を達成することである。もしも誰かが、自分は神によって完全にされることも、いのちに入ることも追い求めず、肉の安泰と快楽だけを追い求めると言うのであれば、その人は最も盲目な者である。いのち現実を追求せず、次の世における永遠のいのちと、この世における安全だけを追求する人は、最も盲目な者である。したがって、あなたが行なうすべてのことは、神によって完全にされ、神に得られることを目的としてなされるべきである。

神が人々の中で行なう働きは、彼らの様々な必要に応じて彼らに施すためのものである。人のいのちが大きければ大きいほど、その人はいっそう多くのものを必要とし、さらに多くのものを追求する。もしこの段階であなたに何も追求するものがないなら、それは聖霊があなたを捨てた証拠である。いのちを追求する者はみな、決して聖霊に捨てられることがない。このような人たちは常に追い求め、常に心の中で渇望している。このような人たちは決して現状の物事に満足しない。聖霊による働きの各段階は、あなたの中で効果を発揮することを目的としているが、あなたが自己満足して何も必要としなくなり、聖霊の働きを受け入れなくなったなら、聖霊はあなたを捨てるだろう。人々は神による日々の吟味を必要としている。彼らは神から施される日々の豊かな糧を必要としている。神の言葉を日々飲み食いすることがなければ、人は対処できるだろうか。神の言葉をどれだけ飲み食いしても満足できず、常に神の言葉を求め、それに飢え渇いているなら、聖霊はその人の中で絶えず働きを行なう。人が渇望すればするほど、その人の交わりからより実践的な物事が生じる。真理を強く求めれば求めるほど、その人は自分のいのちをより早く成長させ、経験豊富になり、神の家の豊かな住人となるだろう。

『神の出現と働き』「神は自身の心にかなう者を完全にする」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 548

聖霊は各人において歩むべき道をもち、各人に完全にされる機会を与える。あなたは自らの消極性をとおして自らの堕落を知らしめられ、その後消極性から脱け出すことにより実践の道を見いだす。それはどれもあなたが完全にされる方法である。さらに、あなたの中にある肯定的なものの幾つかに継続的に導き照らされて、あなたは積極的に自らの役割を果たし、識見を増やして識別力を身に付ける。状態が良好な時、あなたは神の言葉を読むことや神に祈ることを殊更に望み、聞く説教を自らの状態と関連づけることができる。このような時、神は内側からあなたを啓き照らし、あなたに肯定的側面の幾つかについて理解させる。あなたはこのように肯定的側面において完全にされる。消極的な状態において、あなたは弱く消極的である。自分の心には神がいないと感じるが、神はあなたを照らし、あなたが実践の道を見いだすのを助ける。ここから出ることが、消極的側面における完全化の達成である。神は肯定的側面と消極的側面の両面で人間を完全にすることができる。それはあなたが経験することができるか、神に完全にされることを追求するか否かにより異なる。神に完全にされることを真に求めるならば、消極的側面は損失ではなく、現実的なものをもたらす。また、自分に欠如しているものを知ること、自分の真の状態をさらに把握すること、人間は何も持っておらず何でもないことを知ることがさらにできるようになる。試練を経験しないならば、知らないままであり、常に自分が他人よりも上で、優れていると感じる。これらすべてをとおして、あなたはこれまで遭遇したことは全て神が行ったことであり、神により保護されていたことを知る。試練に入ることにより、愛も信仰もなく、祈りが欠如し、讃美歌を歌うことができない状態に陥る。そして気付かぬうちに、この真最中に自分自身を知る。神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある「奥義」を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることができるように、神は暴露、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段を通して人間を完全にする。

『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 549

あなたがたが現在追求しているのは何か。それは神に完全にされること、神を知ること、神を得ることである。あるいは、90年代のペテロの風格を身につけることや、ヨブに勝る信仰を持つことを求めているかもしれない。または、神に義なる者と呼ばれて神の玉座の前に到達することや、神を地上に表して神のために力強く響き渡るような証しをすることを求めているかもしれない。求めるものが何であれ、あなたがたは全体として、神に救われるために求めている。義なる者となることを求めるか、ペテロの風格を求めるか、ヨブの信仰を求めるか、神に完全にされることを求めるかにかかわらず、それはどれも神が人において行う働きである。換言すると、何を求めようと、それは全て神に完全にされるため、神の言葉を経験するため、神の心を満足させるためである。何を求めようと、それは全て神の美しさを見出すためであり、現実の経験において実践する道を求めるためであり、その目的は反抗的性質を払拭し、自身の中で正常な状態を実現し、神の心に完全に一致できるようになることであり、それで正しい人間となり、あらゆる行いにおいて正しい動機をもつようになる。あなたがこうしたことを全て経験する理由は、神を知り、いのちの成長を達成するためである。あなたが経験するのは神の言葉であり、実際の出来事であり、また周囲にある人や物事であるが、最終的にあなたは神を知り、神に完全にされることができる。義なる者の道を歩むことや、神の言葉を実践することを求めるのであれば、それが走路であり、神を知り、神に完全にされることが終着点である。現在、あなたが求めているのが神による完全化であろうと、神のために証しすることであろうと、全体的に見ると、それは全て最終的に神を知るためである。それはあなたの中で神が行う働きが無駄にならないようにするため、あなたが最終的に神の現実性を知り、神の偉大さを知り、そしてさらに、神の謙りと隠秘性を知り、神があなたにおいて行う多くの働きを知るためである。神は、これほどまで自らを低くしたので、汚れて堕落した人において働きを行い、この集団を完全にするのである。神は人間のもとで生活し、食べ、人々を牧し、人々に必要なものを与えるためだけに受肉したのではない。さらに重要なのは、耐えがたいほど堕落した人を救い征服する大規模な働きを行うことである。あらゆる人が変えられ一新されるように、最も堕落した人を救うために赤い大きな竜の核心に神が来たことである。神が耐える大いなる苦難は、受肉した神が受ける苦難だけでなく、それは何よりも神の霊が受ける極度の屈辱である。神は大いに自分を低くし隠れるために凡人となる。神が正常な人間の生活を送り、正常な人間と同じものを必要としていることを人々が理解できるように、神は受肉して肉の姿となった。神がかなりの程度まで自ら謙ったことは、これで十分証明される。神の霊が肉の姿で現れている。神の霊は極めて高貴かつ偉大であるが、霊の働きを行うため、神は取るに足りない凡人の姿となっている。あなたがた各人の素質、識見、理知、人間性、生活は、あなたがたがこのような神の働きを受ける価値が本当にないことを示している。あなたがたのためにこのような苦難を神に受けさせるだけの価値は、あなたがたにはない。神は極めて偉大である。神は至高の存在であり、人は極めて卑しく下等であるが、それでも神は人に働きを行う。神は受肉して人間に必要なものを与え、人間と話すだけでなく、人間と一緒に生活している。神は極めて謙遜で、愛しむべき存在である。神の愛の話になるとすぐに、また神の恵みの話になるとすぐに涙を流しながら大いなる讃美を口にするならば、この状態に達するならば、あなたは神を真に認識している。

『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 550

昨今では、人間の追求が逸脱している。神を愛し、神を満足させることだけを追求し、神を認識しておらず、自らの内部における聖霊の啓きと照らしをおろそかにしている。そうした者は神についての真の認識という基礎を備えていない。そのような状態であるので、彼らは経験が進行してゆくにつれて、熱意を失う。神に関する真の認識を求める者は皆、以前は状態が良くはなく、消極的になったり弱くなったりする傾向にあり、頻繁に涙を流したり、意欲喪失に陥ったり、希望を失ったりしていたが、経験を重ねる中で、彼らの状態は改善している。取り扱いを受けて打ち砕かれ、試練と精錬を一通り経た後、彼らは大いに進歩を遂げた。その否定的な状態は減少し、彼らのいのちの性質に多少の変化が生じた。さらなる試練を経るにつれ、彼らの心は神を愛するようになる。神による人間の完全化には法則があり、それは、あなたの望ましい部分を用いて神はあなたを啓くということである。これは、あなたが実践の道を得てあらゆる消極的な状態と訣別できるようにするためであり、あなたの霊が解放され、あなたが神をさらに愛すことができるようにである。こうすることにより、あなたはサタンの堕落した性質を払拭できる。あなたは純朴で素直であり、自分を知って真理を実践することを望んでいる。神は必ずやあなたを祝福するので、あなたが弱く消極的な時、神はあなたを二倍啓き、あなたがさらに自分を知り、自分のために悔い改めることをさらに望むようになり、実践すべきことを実践できるようになるように助ける。あなたの心が落ち着き安らかになるには、この方法によるほかない。神を知ること、自らを知ること、自らの実践に普段より注意する人は、神の働き、また神による導きや啓きを頻繁に授かることができる。そのような人は消極的な状態にあっても、良心の働きか、あるいは神の言葉による啓きにより、すぐに状況を好転させることができる。人の性質の変化は、人が自らの実際の状態と神の性質と働きを知ると必ず実現する。自らを知ること、そして自ら心を開くことを望む人は真理を実践できる。そうした人は神に忠実であり、神に忠実な人は、その理解が深かったり浅かったり、少なかったり豊富であったりするが、神を理解している。これが神の義であり、人間が得るものである。これは人間自らにとっての収穫である。神に関する認識のある人は、基盤とビジョンがある。こうした人は神の肉、言葉、働きに関して確信している。神が働きを行う方法や話す方法、そして他人がどのように混乱を引き起こすかに関わらず、その人は自分の立場を強く守り、神の証しに立つことができる。人がこのようであればあるほど、理解した真理をさらに実行できる。常に神の言葉を実践しているので、神をさらに認識し、永遠に神の証しに立つ決意がある。

『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 551

識別力を身に付け、服従し、物事を見抜く力を身に付けて霊的に鋭敏であるということは、何かに直面するとすぐに、神の言葉が内側から照らし啓くということである。これが霊的に鋭敏であるということである。神が行うことは全て人間の霊を復活させるためである。なぜ神は人間は麻痺しており愚鈍であると常に言うのか。それは人間の霊が死んでおり、人間は霊的な物事を全く意識できない状態にまで麻痺してしまっているからである。神の働きは、人間が霊的な物事を見抜き、心の中で常に神を愛して神を満足させることができるように、人々のいのちを成長させ、人々の霊が蘇生するのを助けるためである。この段階への到達は、人の霊が復活していることを示すものであり、その人が次に何かに遭遇しても即座に対応できる。このような人は説教に敏感に反応し、状況に迅速に対応する。これが霊的に鋭敏になるということである。外面的な出来事に対して迅速に反応する者が多数いるが、現実性に入ることや霊的な物事の詳細に関する話になると、彼らは直ちに愚鈍になる。物事が目前に迫り明白でなければ理解しない。これはすべて霊的に麻痺して愚鈍であることや、霊的な物事の経験がほとんどないことのしるしである。霊的に鋭敏で識別力を身に付けている者もいる。彼らは自分の状態を指摘する言葉を聞くと即座に書き留める。実践の原則に関する言葉を聞くと、彼らはそれを受け入れ、その後の経験に適用することができ、その結果自分を変える。それが霊的に鋭敏な者である。なぜ彼らは即座に反応できるのか。それは、日常生活においてそうした物事に集中しているからである。彼らは神の言葉を読むと、それに照らして自分の状態を確かめ、自己反省することができる。交わりや説教を聞いたり、自分に啓きと照らしをもたらす言葉を聞いたりすると、それを即座に受け取ることができる。それは空腹の者に食べ物を与えるのと同様で、すぐに食べることができるのである。空腹でない者に食べ物を与えても、それほど迅速には反応しない。神に頻繁に祈ると、何かに直面した際に、神がそれにより何を求めているか、自分がどう行動すべきかについて即座に反応できる。神はそのことに関して前回あなたを導いたのであり、今日になって類似のことに遭遇した際、神の心を満足させるにはどう実践すればよいかをあなたは自然と知っている。常にそのように実践し、常にそのように経験するならば、ある時点でこれは簡単にできるようになる。神の言葉を読んでいる時に、神がどのような者のことを指しているか、どのような霊の状態について語っているかをあなたは知っており、要点を把握して実践することができる。これは、あなたに経験する能力があることを示している。なぜこの側面に欠けている者がいるのか。それは、実践の側面にあまり努力しないからである。彼らは真理を実践することをいとわないものの、奉仕の詳細や生活における真理の詳細についての真の識見を備えていない。何かが発生すると混乱する。そのため、にせ預言者やにせの使徒が現れると、道を見失う可能性がある。神の言葉と働きについて頻繁に交わらなければならない。そうすることでのみ、真理を理解して識別力を育むことができるのである。真理を理解していなければ、識別力は得られない。例えば、神が述べること、神がどのように働くのか、神が人間に要求することは何か、どのような人に接触すべきか、どのような人を避けるべきかといったことについて、頻繁に交わる必要がある。常にそのようにして神の言葉を経験するならば、真理を理解し、数多くの物事を完全に理解するとともに、識別力も身に付く。聖霊の懲らしめとは何か、人間の意志から生じる非難とは何か、聖霊による導きとは何か、環境の用意とは何か、内面的啓きをもたらす神の言葉とは何か。このような事柄を明瞭に理解していないならば、識別力を得られない。聖霊から来るものは何か、反抗的な性質とは何か、神の言葉にいかに従うべきか、自分の反逆性をいかに払拭するべきかを知るべきである。これらのことを経験から理解すれば、基礎が得られる。何かが起こっても、それを測る適切な真理とふさわしいビジョンを基礎としてもつ。何をするにも原則をもち、真理に従って行動できるようになる。そうなれば、あなたの生活は神の啓きと祝福で満たされる。神を真摯に求める者や神を生き、神を証しする者を神は決して不適切に扱わず、また真理を真摯に渇望することのできる者を決して呪わない。神の言葉を飲み食いしている際に、自らの真の状態を知ることや自らの実践、自らの認識に注意を払うことができるならば、問題に直面した時、啓きを授かり、実践的認識を得る。その後、あらゆることにおいて実践の道を得て、万事に関して識別力を得る。真理を身に付けた者は、惑わされたり、妨害行為をしたり、途方もない行動をとったりすることがほとんどない。真理のおかげでそうした者は守られ、またさらなる認識を得る。真理のおかげで実践へのさらなる道を得て、聖霊が自分の中で働く機会と、完全にされる機会をさらに多く得る。

『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 552

完全にされる者になるには、満たさねばならない基準がある。あなたは自分の決意、忍耐、良心を通して、そして自分の追求を通して、いのちを体験し神の旨を成就することができる。それがあなたの入りであり、それらが完全にされるための道で要求されることだ。完全にする働きはすべての人に対して行うことができる。神を追い求める人は誰でも、完全にされることができ、完全にされるための機会と資格が備わっている。そこに一定の規則はなく、人が完全にされるかどうかは主に、その人が何を追い求めているかによる。真理を愛し、真理を生きることができる人々は、間違いなく完全にされることができる。真理を愛さない人々は神に褒められず、神が要求するいのちを持っておらず、完全にされることができない。完全化の働きは人々を得るためだけのものであり、サタンとの戦いの一部ではない。征服の働きはサタンと戦うためだけのもので、つまり人の征服を用いてサタンを打ち破るのである。この征服の働きこそ主な働きであり、最新の働きであり、どの時代にも成されなかった働きである。この段階の働きの目標は主に、すべての人々を征服してサタンを打ち倒すことだといえる。人々を完全にする働きは、新しい働きではない。神が肉において行うすべての働きは、人々の征服をその目標の真髄としている。これは恵みの時代と同様で、当時の主な働きは十字架上の死による全人類の贖いであった。「人々を神のものとすること」は、肉における働きに追加されたもので、十字架による磔刑の後に初めてなされた。イエスが到来してその働きをしたとき、イエスの目標は主に磔刑によって死のくびきと黄泉の国に勝利し、サタンの影響に勝利すること、すなわちサタンを打ち負かすことだった。ペテロが一歩ずつ完全にされる道へと乗り出したのは、イエスが十字架にかけられた後のことだった。もちろんペテロはイエスが働いている間、イエスに付き従う使徒の一人だったが、その当時はまだ完全にされてはいなかった。ペテロはイエスが働きを終えた後になって、次第に真理を理解し、そして完全にされたのだ。受肉した神が地上にやって来るのは、ただ短期間で重要かつ不可欠な働きの段階を完了するためであり、地上の人々の間に長い間住んで彼らを完全にするためではない。神はそのような働きは行わず、人が完全にされるまで待ってから自らの働きを終えるのではない。それは神の受肉の目標でも意義でもない。彼は人間を救う短期間の働きをするためにやって来るのであり、人間を完全にする非常に長期的な働きのためにやって来るのではない。人間を救う働きは代表的なものであり、新しい時代を開くことができ、短期間で終えることができる。しかし人間を完全にするには、人をある程度のレベルまで引き上げる必要があり、それには長い時間がかかる。それは神の霊によって行われなければならない働きだが、その働きは神が肉における働きの間に語った真理を基盤として行われる。また同時に、神は長期間人々を指導させるための使徒を起こし、人間を完全にするという目標を達成する。受肉した神はこの働きを行わない。神はただいのちの道について語って人々に理解させ、真理を与えるだけであり、常に人に付き添って真理を実践させるわけではない。それは神の職分の範疇ではないからだ。そのため神は、人が真理を完全に理解し完全に手に入れるまで人に付き添うことはない。肉における神の働きは、人が正式に神への信仰の正しい道に入り、完全にされるための正しい道に踏み出したときに終了する。そしてもちろんそれは神が完全にサタンを打ち負かし、世界に勝利する時でもある。神はそのとき人が最終的に真理に入ったかどうかを気にかけることはなく、人のいのちが大きいか小さいかを気にかけることもない。そうしたことはいずれも、肉となった神が管理すべきことではなく、受肉した神の職分の範疇ではない。神は意図した働きを終えると、肉としての働きを終了する。このため受肉した神が行う働きは、神の霊が直接行えない働きのみである。さらにそれは短期間の救いの働きであり、長期的に地上で行う働きではないのだ。

『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 553

あなたがたの間で行われているこの働きは、どんな働きが必要かに従って行われている。この人々が征服された後、一群の人々が完全にされることになる。そのため現在の働きの多くは、あなたがたを完全にするという目標のための準備でもある。真理に飢えており、完全にされることができる人々は大勢いるからだ。もしあなたがたに対して征服の働きが行われた後、それ以上の働きが行われないとしたら、真理を待ち焦がれる一部の人々がそれを得られないということにならないだろうか。現在の働きは、後で人々を完全にするために道を開くことを目的としている。わたしの働きは征服の働きだけだが、わたしが語るいのちの道は後で人々を完全にするための準備である。征服の後に来る働きは、人々を完全にすることを中心としたものになり、征服は完全化の働きの基盤を敷くためになされる。人は征服された後に初めて完全にされることができる。現在の主要な仕事は征服することであり、その後、真理を求め切望している人々が完全にされる。完全にされるためには、いのちの入りに関する人々の積極的な面が必要になる。あなたは神を愛する心を持っているだろうか。この道を歩く中で、あなたの体験の深みはどれほどのものだっただろうか。あなたの神への愛はどれほど純粋だろうか。あなたの真理の実践はどれほど厳格だろうか。人が完全にされるためには、人間性のすべての側面について基本的知識を持っていなければならない。それが基本要件である。征服された後に完全にされることができない人々は、みな奉仕する「物」となり、最終的にはやはり火と硫黄の池に投げ込まれ、底なしの穴に落ちるだろう。なぜならあなたの性質は変わっておらず、依然としてサタンに属しているからだ。完全になるための条件を備えていなければ、その人は役立たずで、屑であり、単なる道具であり、火の試練に耐えることができないものでしかない。今、神へのあなたの愛はどれくらい大きいだろうか。あなたは自分自身をどのくらい嫌っているだろうか。サタンのことをどのくらい深く知っているだろうか。決心は強まっただろうか。人間としての生活は規律正しいものだろうか。人生は変わっただろうか。新しい人生を生きているだろうか。人生の見方は変わっただろうか。こうしたことが変わっていないなら、あなたはたとえ退かなかったとしても完全にされることはなく、ただ征服されただけである。試練が訪れるとき、あなたには真理が欠けており、その人間性は異常で、荷役用の家畜並みに下等なのだ。成し遂げたのはただ征服されたということだけで、あなたは単にわたしが征服したものでしかない。それはちょうどロバが主人のむちを経験した後、主人を見るたびに恐れのため行動できなくなるのと同じで、あなたも単なる征服されたロバなのだ。人がそうした積極的局面を持たず、消極的で恐れを抱き、あらゆることに臆病で煮えきらず、何ごともはっきり識別できず、真理を受け入れることもできず、依然として実践の道を持たず、その上さらに神を愛する心さえ持たないなら――神をどのように愛すべきか知らず、どのように意義深い人生を生きるべきか、どのように本当の人間になるべきかを理解しないなら――そのような人がどうして神の証しをすることができようか。それはあなたの人生にほとんど価値がなく、あなたがただ征服されたロバでしかないことを示している。征服されたとしても、それはただ赤い大きな竜を捨て、その支配への服従を拒否したことを意味するだけだ。それはあなたが神の存在を信じ、神のすべての計画に従うことを望み、不満は持っていないことを意味するが、積極的な側面については、神の言葉を生き、神を顕すことができるだろうか。そうした側面を一つも持っていないなら、あなたは神のものとされていないのであり、ただの征服されたロバでしかないのだ。あなたに望ましい点は何もなく、聖霊はあなたの中で働いていない。あなたはあまりに人間性を欠いており、神があなたを用いることはできない。あなたは神に承認され、不信仰な獣や生きる屍よりも100倍良い存在にならなくてはいけない。そのレベルに達する者だけが、完全にされる資格があるのだ。人間性があり良心がある者だけが、神に用いられるにふさわしいのだ。あなたがたは完全にされて初めて、人間と見なされることができる。完全にされた人々だけが、意義深い人生を生きることができるのだ。そのような人々だけが、より一層力強く神の証しをすることができるのだ。

『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 554

神はどのような道をたどって人を完全にするのだろうか。そこにはどのような側面が含まれているのだろうか。あなたには神によって完全にされる覚悟があるのか。神の裁きと刑罰を受け入れる覚悟があるのか。このような問いについてあなたは何を知っているのか。あなたに語るべき認識がないのなら、このことは、あなたが依然として神の働きを認識せず、聖霊によってまったく啓かれていないことを証明している。そのような人が完全にされるのは不可能である。わずかな恵みを与えられてほんのひととき享受するだけであり、それが長続きすることはない。神の恵みを享受するだけなら、人は神に完全にしてもらうことができない。一部の人たちは、自身の肉が平穏と喜びの中にあり、人生が安楽で逆境や不運がなく、家族全体が調和して暮らし、争いやいさかいがなければ満足し、それは神の祝福だと信じさえする。実を言えば、それは神の恵みにすぎない。あなたがたは、神の恵みを享受するだけで満足してはいけない。このような考え方は非常に低俗である。たとえ神の言葉を毎日読み、日々祈りを捧げ、あなたの霊が大きな喜びを感じ、ひときわ穏やかであるとしても、結局のところ、神や神の働きについて語るべき認識はなく、何一つ経験していない。そして神の言葉をどれほど飲み食いしたとしても、あなたの感じるのが霊の平安や喜びだけで、神の言葉は比類なく甘美であり、享受してもし尽くせないとしか感じず、神の言葉について実際の経験が一切なく、神の言葉の現実をまったく欠いているなら、あなたはそのような神への信仰から何を得られるだろうか。神の言葉の本質を生きられないなら、あなたがそれらの言葉を飲み食いして祈ったとしても、それは宗教的な信仰にすぎない。そのような人が神によって完全にされることはできず、神のものとされることもできない。神のものとされる人とは、真理を追い求める人である。神のものとされるのは、人の肉でもなければ、その人に属するものでもなく、人の内にある、神に属する部分である。ゆえに、神は人を完全にするとき、その人の肉ではなく心を完全にするであり、そうすることで、人の心が神のものとなるようにする。つまり、神が人を完全にするのは本質的に、人の心を完全にすることで、その心が神のほうを向き、神を愛するようにさせることである。

人の肉体はみな肉のものである。人の肉を得ることは、神のいかなる目的にも役立ちはしない。人の肉は必ずや衰え、神からの嗣業や祝福を受け取ることができないものだからである。仮に人の肉が得られ、人の肉だけがこの流れの中にあるとしたら、名目上、人はその流れの中にいることになるが、その心はサタンに属するだろう。そうであれば、人は神を表わせないばかりか、神の重荷になってしまい、ゆえに人を選ぶ神の行為は無意味になるはずだ。神が完全にしようと意図している人たちはみな、神の祝福と嗣業を受け取る。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものと神そのものを取り入れるので、それが、彼らが内部に持つものとなる。つまり、神の言葉が彼らに組み入れたすべてのものを所有しているのだ。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそのまま受け入れることができ、そうすることで、真理を生きられる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人である。そのような人だけが、次に挙げる、神が授ける祝福を受け取る資格がある。

1. 神の愛の全部を得ること。

2. 万事において神の旨に沿って行動すること。

3. 神の導きを得て、神の光の中で生き、神の啓示を得ること。

4. 神が愛する姿を地上で生きること。すなわち、ペテロと同じように真に神を愛すること、神のために十字架にかけられ、死んで神の愛に報いるのにふさわしい存在となること、そしてペテロと同じ栄光を受けること。

5. 地上の誰からも愛され、敬われ、称賛されること。

6. 死やハデスの束縛のあらゆる側面を克服すること、サタンに働く機会を与えず、神のものとされていること、新鮮でいきいきとした霊的状態であること、そして疲労を感じないこと。

7. 一生を通じ、あたかも神の栄光の日の到来を目の当たりにした人のように、言語を絶する高揚感や気持ちの高まりを抱くこと。

8. 神とともに栄光を勝ち取ること、神の愛する聖人たちに似た容貌を持つこと。

9. 神が地上で愛するもの、すなわち神の愛する子になること。

10. 姿を変え、神と共に第三の天に昇り、肉を超越すること。

神の祝福を受け継げる人だけが、神によって完全にされ、神のものとされる。あなたは今、何かを獲得してきたのか。神はどの程度まであなたを完全にしてきたのか。神は手当たり次第に人を完全にしない。神が人を完全にするにあたっては条件があり、そこには目に見える明確な結果がある。人が想像するように、神への信仰がある限り、神によって完全にされ、神のものとされ、神の祝福と嗣業を地上で受け取れる、ということではないのだ。そのようなことは極めて難しく、人が姿を変えることについては言うまでもない。現在、あなたがたが主として追求すべきことは、万事において神によって完全にされること、あなたがたが向かい合っているすべての人、事柄、物事を通して、神によって完全にされることである。そうすることで、神という存在がさらにあなたがたの中へ取り込まれる。あなたがたはまず、神の嗣業を受け取らなければならない。そうして初めて、神からのより大きな祝福をさらに受け継ぐ資格が得られる。これらはすべて、あなたがたが追求すべきことであり、何よりも先に理解すべきことである。万事において神によって完全にされることを求めれば求めるほど、何事においても神の手を見られるようになり、その結果、様々な観点を通じて、また様々な事柄において、神の言葉の存在に入ること、そして神の言葉の現実に入ることを積極的に求めるようになる。単に罪を犯さない、あるいは観念を抱かない、処世哲学を一切持たない、人間としての意思を持たないといった、消極的な状態に甘んじてはいけない。神は多数の方法で人を完全にする。あらゆる事柄に完全にされる可能性が潜んでいるのであって、神は肯定的な面だけでなく、否定的な面においてもあなたを完全にすることができ、結果的にあなたが得るものをより豊富にする。神によって完全にされる好機、神のものとされる機会は毎日ある。そのような経験をしばらくすると、あなたは大きく変わり、それまで知らなかった多くの事柄を自然と理解するようになる。誰かから教えられる必要はなく、神があなたを知らぬ間に啓き、それによってあなたは万事において啓示を受け取り、自分のあらゆる経験に詳しく入るようになる。神はあなたを、左右どちらにもふらつかないように導くはずだ。こうしてあなたは、神によって完全にされる道へと足を踏み入れるのである。

『神の出現と働き』「完全にされた人々への約束」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 555

神によって完全にされることは、神の言葉の飲み食いによって完全にされることに限定されない。そのような経験の仕方はあまりにも偏っていて、含まれるものが少なすぎ、人を非常に狭い範囲に閉じ込めるだけだろう。そうであれば、必要な霊の養分が大いに欠けていることになる。あなたがたが神によって完全にされることを望むなら、万事においてどう経験すべきかを学び、どのようなことが我が身に降りかかっても、そこから啓示を得られるようにならなければならない。良いことであれ悪いことであれ、それはあなたに益をもたらさなければならず、あなたを消極的にさせることがあってはならない。いずれにせよ、あなたは神の側に立ちつつ物事を考えられるようになる必要があり、人の観点から分析あるいは検討してはならない(これは、あなたの経験における逸脱と言えよう)。あなたがそのように経験するのであれば、あなたの心はいのちの重荷で一杯になるだろう。あなたは常に神の顔の光の中で生き、実践において容易に逸脱することはない。そのような人の前途には、明るい未来がある。人が神によって完全にされる機会は数多く存在する。そのすべては、あなたがたが神を真に愛する人かどうか、そして神によって完全にされ、神のものとされ、神の祝福と嗣業を受け取る決意があるかどうかにかかっている。決意だけでは十分でなく、多くの認識を持たなければならない。さもなければ、実践においていつも逸脱してしまうだろう。神は、あなたがた一人ひとりを完全にしたいと思っている。現在、大半の人が長きにわたって、神の働きをすでに受け入れてきたものの、彼らは単に神の恵みに浴することだけにとどまり、神が自分にささやかな肉の慰めを与えることしか望まず、より高度な啓示をさらに受け取ることには熱心でない。それは、人の心が依然として、いつも外側の世界に属していることを示している。人の働き、奉仕、そして神を愛する心は、以前ほど不純でないにしても、人の内なる本質と後ろ向きな考え方に関する限り、人は依然として、肉の平安と喜びを絶えず求めるだけで、神が人を完全にする条件と目的が何であるかには関心を持たない。このように、大半の人の生活はいまだ俗悪かつ退廃的であり、ほんの少しも変わっていない。神への信仰を重要な問題とはまったく見なさず、他人のために信仰を持っているかのように、目的もなくふらつきながら、動作を繰り返し、いい加減に乗り切るだけである。万事において神の言葉へ入ることを求め、より豊かな物事をさらに獲得し、そして今日、神の家のより大きな富となり、神の祝福をさらに多く受け取れる人はほとんどいない。万事において神によって完全にされることを求め、地上で神が約束したものを受け取れるなら、また、万事において神に啓かれることを求め、年月が怠惰に過ぎ去るままにしないなら、それこそが、積極的に入るべき理想の道である。そうして初めて、あなたは神によって完全にされる価値と資格のある人間になる。あなたは真に、神によって完全にされることを求める者か。あなたは真に、万事において勤勉な者か。ペテロと同じく、神を愛する心を持っているか。イエスと同じく、神を愛する意志を持っているか。あなたは長年にわたり、イエスへの信仰を持ち続けてきた。では、イエスがどのように神を愛したかを理解しているのか。あなたが信仰しているのは、本当にイエスなのか。あなたは、今日の実践の神を信じている。では、肉にある実践の神が天なる神をどのように愛するかを理解しているのか。あなたは、主イエス・キリストへの信仰を持っている。それは、人類の罪を贖うためにイエスが十字架にかけられたことと、彼の行った奇跡が、広く受け入れられた事実だからである。しかしながら、人の信仰は、イエス・キリストについての認識や真の理解から生じるものではない。あなたはイエスの名前だけを信じ、彼の霊は信じていない。イエスがどのように神を愛したかなど気にも留めないからである。あなたの神への信仰は、あまりにも純朴である。長年にわたるイエスへの信仰にもかかわらず、あなたは神をどう愛すべきかを知らない。このことは、あなたを世界一の愚か者にしてしまわないだろうか。このことは、あなたが長年にわたり、主イエス・キリストという食べ物を無駄に食べてきたことを証明している。わたしはそのような人を嫌うだけでなく、あなたが崇拝する主イエス・キリストもまたそのような人を嫌うと確信する。一体どのようにして、そのような人が神によって完全にされ得るだろうか。あなたは恥ずかしさのあまり赤面しないのか。恥ずかしく思わないのか。あなたには依然として、あなたの主イエス・キリストに顔を向ける厚かましさがあるのか。あなたがたはみな、わたしが述べたことの意味を理解しているのか。

『神の出現と働き』「完全にされた人々への約束」(『言葉』第1巻)

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