宗教的観念を暴く

日々の神の御言葉 抜粋 281

神と人を同列に語ることはできない。神の実質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世で自ら働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の旨を理解することはできない。一生を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を受けることはできないだろう。神が働きに乗り出さなければ、人がどれほど立派に行動しようと無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人の理解を超えているからである。そのため、神と神の働きを「完全に理解している」と主張する人たちは無能な輩で、皆自惚れていて無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には、人は蟻と同じくらい取るに足らないのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」などと好んでまくし立てる人々――彼らは皆傲慢に話しているのではないだろうか。わたしたちは皆、肉なる存在である人間はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するというのがまさに人の本性である。人が神と同等になることはできず、ましてや神の働きに助言しようと望むことなどできない。神が人をいかに導くかについて言えば、これは神自身の働きである。人はあれこれ見解を言わず、服従するのがふさわしい。人はちり芥にすぎないのだから。神を探求するのがわたしたちの意図なのだから、神が考慮するべき神の働きの上に自分の観念を重ね合わせるべきではないし、ましてや神の働きに故意に反対するために自分の堕落した性質を最大限用いるなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。そのような人々がどうして神を信じていようか。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動にいったい何の益があるだろう。

今日、神は新しい働きを行ってきた。あなたはこれらの言葉を受け入れることができず、奇妙な言葉に思えるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓かれ、導かれることができるからである。口論や対立ではなく、地道に心を静めて真理を探求することで、結果を得られる。わたしが「今日、神は新しい働きを行ってきた」と言う時、神が再び肉へと戻ることに言及している。おそらく、これらの言葉があなたを悩ませることはない。あなたはこれらの言葉を軽蔑するか、あなたにとって極めて興味深い言葉ですらあるかもしれない。いずれにせよ、わたしは、神が出現するのを本当に切望するすべての人々が、結論に飛びつくのではなく、この事実を直視し、慎重に検討することを希望する。これが賢い人の行うべきことである。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 282

神を信じることにおいて、どのように神を知るべきだろうか。逸脱や誤謬を避けつつ、今日の神の言葉と働きに基づいて神を知るようにならなければならず、何よりもまず神の働きを知るべきである。これが神を知る基礎である。神の言葉の純粋な理解に欠ける様々な誤謬はみな宗教的な観念であり、逸脱して誤った理解である。宗教家は、過去に理解された神の言葉を取り上げ、今日の神の言葉と照らし合わせる技能に最も長けている。今日の神に仕える際、聖霊による過去の啓示で明かされた物事に固執するなら、あなたの奉仕は妨害を引き起こし、あなたの実践は時代遅れのものであり、ただの宗教的儀式に過ぎない。様々な性質の中でも、神に仕える者は外から見て謙虚で辛抱強くなければならないと信じているとしたら、また、そのような認識を今日実践しているとしたら、そのような認識は宗教的な観念であり、そのような実践は偽善的である。「宗教的な観念」という言葉は古く廃れたもの(神が以前に語った言葉の理解や、聖霊によって直接明かされた光も含む)を指しており、それらを今日実践するなら、神の働きを妨害し、人に益をもたらさない。宗教的な観念に属するそれらの物事を自分から一掃することができなければ、神に対するその人の奉仕の大きな妨げとなってしまう。宗教的な観念を持つ人々は、聖霊の働きの歩みに歩調を合わせる術を持たず、一歩そしてまた一歩と遅れをとる。その理由は、これらの宗教的な観念が人を非常に独善的かつ傲慢にしてしまうからである。神は自身の過去の言動に懐古の念を抱くことがなく、廃れたものは淘汰する。あなたは自身の観念を手放すことが本当にできないのか。過去に神が語った言葉に固執するのであれば、あなたが神の働きを知っているという証拠になるのか。今日の聖霊の光を受け入れることができず、過去の光にしがみついているとしたら、あなたが神の足跡に従っている証拠になるだろうか。あなたはいまだ宗教的な観念を手放せないのか。そうであれば、あなたは神に逆らう人になるだろう。

宗教的な観念を手放すことができれば、その人は自分の頭脳を使って今日の神の言葉や働きを測ったりせず、むしろ直接従うはずだ。今日の神の働きは過去のものと明らかに違っているが、あなたは過去の見方を手放し、今日の神の働きに直接従うことができる。神が過去にどう働きを行ったかに関係なく、今日の神の働きを尊ぶべきだと理解できれば、あなたは自分の観念を捨て、神に服従し、神の働きと言葉に従い、神の足跡に付き従うことができる人である。ここにおいて、あなたは真に神に従う人になる。神の働きを分析することも吟味することもないが、それはあたかも、神が自身による過去の働きを忘れ、あなたもまた忘れたかのようである。現在は現在であり、過去は過去であり、そして今日、神は自身が過去に行ったことを脇にのけたのだから、あなたはそれに浸っていてはならない。このような人だけが神に完全に従い、自身の完全に宗教的な観念を手放した者である。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知る者だけが、神に仕えてもよい」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 283

神の働きにはいつも新しい進展があるので、新たな働きが生じた際には、廃れて古くなる働きも出てくる。これら新旧異なる種類の働きは矛盾するものではなく、補い合うものであり、一歩また一歩と続いている。新しい働きがある以上、古い働きは当然淘汰されなければならない。たとえば、長年実践されてきた慣習や、習慣的に用いられてきた言い習わしは、長年にわたる人の経験や教えと相まって、人の心にありとあらゆる観念を形成した。長年にわたる古代からの伝統的な理論の広まりと共に、神が自分の真の顔と本来の性質をいまだ完全には人に現していないという事実は、人間のそうした観念の形成にとってさらに好都合だった。人が神を信じる過程において、様々な観念の影響により、神についてのありとあらゆる観念的な認識が人々の中で継続的に形成され、進化し、それによって神に仕える数多くの宗教人が神の敵になったと言えるだろう。したがって、人々の宗教的な観念が強ければ強いほど、彼らは神に逆らい、神の敵となってしまう。神の働きはいつも新しく、決して古くない。教義を形作ることは一切なく、むしろ程度の差はあれ継続的に変化し、新たにされる。このような形で働きを行うことは、神自身に固有の性質の表れである。それはまた神の働きに固有の原則でもあり、神が自身の経営を成し遂げる手段の一つである。仮に神がこのような形で働かないとしたら、人は変わらず、神を知ることもできず、サタンが打ち負かされることもないだろう。よって、神の働きにおいては、一貫性のないように見える変化が継続して生じるものの、それは実際のところ、周期的なものである。しかしながら、人が神を信じる方法はまったく異なり、親しみのある古い教義や制度にしがみつき、それが古ければ古いほど心地よく感じる。石のように頑固で愚かな人の頭脳が、神による計り知れない多数の新しい働きと言葉を、どうして受け入れることができようか。いつも新しく決して古くない神を人は嫌悪する。人が好むのは、歳をとり、髪が白く、同じ場所から動かない古い神だけだ。つまり、神と人はそれぞれ好みが異なるので、人は神の敵となったのである。神が新しい働きを行って六千年近く経った今日でも、このような矛盾の多くが依然として存在する。ゆえに、手の施しようはない。それは人の頑固さが原因かもしれないし、神の行政命令が人間には不可侵であるがゆえかもしれない。しかし、聖職者がかびの生えた古い本や書物に固執する一方、神はいまだ完成していない経営の働きを、あたかも味方が誰一人いないかのように遂行している。これらの矛盾により、神と人とが敵対し、解決不可能にさえなっているが、神は、そのような矛盾など浮かんでは消えるとでもいうように、気にも留めない。しかし、人は自分の信念と観念にしがみつき、それらを決して手放さない。それでも、はっきりしていることが一つある。つまり、人が自分自身の姿勢を変えなくても、神の足は常に動いており、神は状況に応じて絶えず自分の姿勢を変える、ということである。最終的に、戦わずして打ち負かされるのは人間である。一方、神は敗北したすべての敵にとって最大の敵であり、打ち負かされたかいまだ打ち負かされていないかを問わず、人類の擁護者である。誰が神と競って勝利できるのか。人の観念の多くは神の働きが発端となるため、神に由来するように思える。しかし、神はそのために人を赦すことなどしないし、神の働きから外れている「神のため」の製品を、その働きに続いて次々製造する人を褒めそやすことももちろんしない。それどころか、神は人の観念や古くて敬虔な信仰にこの上なく嫌気がさしていて、これらの観念が生まれた日を認めるつもりすらない。人の観念は人によって広められ、それらの源は人の思考と頭脳であり、神ではなくサタンに由来するものなので、これらの観念は自身の働きによって生じたものだと、神は決して認めない。神の意図は常に、自身の働きを、古く死んだものではなく、新しく生き生きとしたものにすることであり、神によって人の拠りどころとされたものは時代や期間に合わせて変化し、永遠不朽のものでも不変のものでもない。これは、神が人を生かして新たにさせる神であり、人を死に至らせ古くする悪魔ではないからである。あなたがたはまだこれが理解できないのか。あなたは心を閉ざしているので、神について観念を抱き、手放すことができない。それは、神の働きが理不尽だからでも、人間の感情を思いやっていないからでもなく、ましてや神がいつも自身の本分に怠慢だからではない。あなたが自分自身の観念を手放せないのは、従順さに欠けすぎているから、また被造物らしさが少しもないからであって、神があなたを困らせているからではない。すべての原因はあなたであり、神とは一切関係ない。すべての苦しみと不幸は人が引き起こしている。神の思考はいつも良いものであって、あなたに観念を生み出させようとは願っていない。あなたが時代とともに変わり、新しくなることを願っている。それでもあなたは、自分にとって良いことは何かを知らず、いつも吟味や分析をしている。神があなたを困らせているのではなく、あなたが神への畏れを持っておらず、あまりに不従順なだけなのだ。小さな被造物が、かつて神から与えられたもののほんの一部を取り、それから身を翻し、それを用いて神を攻撃しようとする。これこそ人の不従順ではないのか。人には神の前で自分の見方を表明する資格などまったくなく、ましてや悪臭を放つ無意味で腐った美辞麗句を、自分の好きなようにひけらかす資格などないと言っていいし、かびの生えた観念については言うまでもない。それらはさらに無価値ではないのか。

『神の出現と働き』「今日の神の働きを知る者だけが、神に仕えてもよい」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 284

神の働きは常に前進し続けており、その目的が変わることはないが、神が働きを行う手段は絶えず変化しており、それはつまり、神に付き従う人々も絶えず変化していることを意味する。神が働きを行えば行うほど、人はより徹底的に神を知るようになる。また、神の働きに続き、それに応じて人の性質も変化する。しかし、神の働きが絶えず変化しているので、聖霊の働きを知らない者や真理を知らない愚かな者は神に逆らう人になる。神の働きは人間の観念と決して一致しない。神の働きはいつも新しく、決して古くないからであり、神は古い働きを決して繰り返さず、むしろこれまでなされたことのない働きをたゆみなく行う。神は自身の働きを繰り返さず、また人は例外なく、神が以前になした働きを基に神の現在の働きを判断するので、神が新しい時代の働きの各段階を実行するのは極めて困難になってしまった。人にはあまりにも多くの困難があり、人の考えは保守的過ぎる。誰も神の働きを知らないのに、誰もがそれを規定する。神から離れると、人はいのちも真理も神の祝福も失ってしまうのに、いのちも真理も受け入れず、ましてや神が人類に授けるさらに大きな祝福も受け入れない。神を得たいとすべての人が願っているのに、神の働きのいかなる変化も許せずにいる。神の新しい働きを受け入れない者たちは、神の働きは不変であり、永久に停滞したままだと信じている。彼らの信じるところによれば、神から永遠の救いを得るには律法を守りさえすればよく、悔い改めて罪を告白しさえすれば、神の旨は必ず満たされる。彼らは、律法の下での神、人間のために十字架にかけられた神だけが神のはずだと考えている。また、神は聖書を超えるべきではないし、超えることはできないとも考えている。まさにこうした考えが彼らを古い律法に堅く縛りつけ、死んだ規則に釘付けにしてきたのである。また、次のように信じる者がさらに多数いる。つまり、神の新しい働きがどのようなものであっても、預言による裏付けがなければならず、その働きの各段階で、「本心」から神に付き従うすべての者に啓示が示されなければならない、そうでなければ、それは神の働きではあり得ない、というのだ。人が神を知るようになるのは、ただでさえ容易なことではない。さらに、人の愚かな心、そして尊大さと自惚れという反抗的な本性を考慮すると、人が神の新しい働きを受け入れるのはなおさら難しくなる。人は神の新しい働きを入念に調べることも、謙虚に受け入れることもない。それどころか、神による啓示と導きを待ちながら、軽蔑的な態度をとる。これは神に逆らって反抗する人の行動ではないのか。そのような者がどうして神の承認を得られようか。

今日、イエスの働きも後れをとったとわたしが言うように、イエスは、ヤーウェの働きは恵みの時代において後れをとったと述べた。律法の時代だけがあり、恵みの時代がなかったら、イエスが十字架にかけられることはなく、全人類が贖われることもなかったはずだ。律法の時代しかなければ、人類は果たして今日に至ることができただろうか。歴史は前進する。歴史は神の働きによる自然の法則ではないのか。それは宇宙全体における、神による人の経営の一表現ではないのか。歴史は前進し、神の働きも前進し、神の旨は絶えず変化している。神は六千年にわたる働きの、どれか一つの段階に留まるはずがない。誰もが知るように、神は常に新しく、決して古くないからであり、磔刑のような働きを行い続け、十字架にそして一度、二度、三度……と釘付けにされることは到底あり得ない。このように考えるのは馬鹿げたことである。神がひたすら同じ働きをすることはなく、神の働きは絶えず変化し、いつも新しい。わたしがあなたがたに日々新しい言葉を語り、新しい働きを行うのと同じである。これがわたしの行う働きだが、「新しい」そして「驚くべき」という言葉こそが重要である。「神は不変であり、神は常に神である」という言葉はまったくその通りである。神の本質は変化せず、神は常に神であり、決してサタンにはなり得ないが、だからといって、神の働きが神の本質と同様に一定不変であることの証明にはならない。あなたは、神は不変だと断言するが、では、神は常に新しく、決して古くないことをどのように説明できるのか。神の働きは絶えず広がり、常に変化し、神の旨は絶えず明らかにされ、人に知らされる。神の働きを経験するにつれて、人の性質は絶え間なく変化し、認識も絶え間なく変化する。では、この変化はどこから生じるのか。変わり続ける神の働きからではないのか。人の性質が変われるのなら、なぜわたしの働きや言葉が変化し続けるのを人は許すことができないのか。わたしは人の制約に従わなければならないのか。それについて、あなたはこじつけの理屈や詭弁に訴えているのではないか。

『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 285

当時のユダヤ人はみな旧約聖書を読んでいて、男の子が飼い葉桶の中で生まれるというイザヤの預言を知っていた。それではなぜ、彼らはその預言を十分知っていたにもかかわらず、イエスを迫害したのか。それは彼らの反抗的な本性と、聖霊の働きに対する無知のためではなかったか。当時、パリサイ人は、イエスの働きは預言された男の子について自分たちが知っていることと違っていると信じており、今日の人が神を受け入れないのも、受肉した神の働きが聖書と一致しないからである。神に対する彼らの反抗の本質は同じものではないだろうか。あなたは聖霊のすべての働きを、疑うことなく受け入れられるか。聖霊の働きなら、それは正しい流れであり、あなたは疑念を一切抱かずに受け入れるべきである。何を受け入れるか、選り好みをしてはならない。神からさらなる洞察を得て、神に対してさらに用心するのであれば、それは無用の行為ではないか。聖書からさらなる実証を求める必要はない。聖霊の働きならば、あなたはそれを受け入れなければならない。あなたが神を信じるのは神に付き従うためであり、神を調べてはならないからである。わたしがあなたの神であることを証明するために、わたしについてのさらなる証拠を求めるべきではなく、わたしがあなたのためになるかどうかを見定められるようにならなければならない。それが何より重要である。たとえ聖書の中に反論不可能な証拠を見つけたとしても、それによってあなたが完全にわたしの前へと導かれることにはならない。あなたはわたしの前ではなく、聖書の制約の中で生きているに過ぎない。聖書はわたしを知る助けにはならないし、わたしに対するあなたの愛を深めることもできない。聖書は男の子が生まれると預言したが、人は神の働きを知らなかったため、その預言が誰において実現するかは誰にも分からなかった。そのため、パリサイ人はイエスと対立することになった。わたしの働きが人にとって有益であることを知っている者もいるが、それでも彼らは、イエスとわたしが互いに相容れない二つのまったく別の存在だと信じ続けている。当時、イエスは恵みの時代において、弟子たちに一連の説教しか与えず、実践の方法、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方といったことが主題だった。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、彼が説明したのは、弟子たちやイエスに付き従う人々はどのように実践すべきかだけだった。イエスは恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何一つしなかった。ヤーウェが律法の時代に旧約の律法を定めたとき、恵みの時代の働きをその際に行わなかったのはなぜなのか。なぜ恵みの時代の働きを前もって明らかにしなかったのか。そうすれば人が受け入れる助けになったのではなかろうか。ヤーウェは、男の子が生まれて指導者になると預言しただけで、恵みの時代の働きを前もって実行することはなかった。各時代における神の働きには明確な境界線がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、各時代を代表する神の働きが前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるしについて、そしていかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を背負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどう入りを成し遂げるべきか、神の旨を満たすべくどのように追求すべきかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に探し求めるのは馬鹿げてはいないか。聖書を手に携えているだけで何が分かるのか。聖書の解説者であれ説教者であれ、今日の働きを予見し得る者などいただろうか。

『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 286

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の実質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのち真理を追い求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。あなたがたに訊くが、これほど愚かで頑固で無知な人々が神の祝福を得るなど、どうしてあり得ようか。彼らがメシアを見るなど、どうしてあり得ようか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみな、ただメシアの名前に固執しながら、できる限りのことをしてメシアの実質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人の実質は頑固で、傲慢で、真理に従うものではなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものだった。この信仰は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにさらに問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを拒み、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け取らず、白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度も告白を口にするという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 287

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分自身の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け取ることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し、真の道といのちを解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知を備え、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど祝福されている人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自分をもてあそんではならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。

『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 288

その際、イエスの働きの一部は旧約聖書と一致しており、律法の時代におけるモーセの律法とヤーウェの言葉とも一致していた。これらのすべてを、イエスは自身の働きの一部を行なうために使ったのである。イエスは会堂で人々に説教し、教えを伝えた。そして自身に敵対していたパリサイ人を叱責するために旧約聖書の預言者たちの預言を用い、また彼らの不従順さをあばいて非難するために聖書の言葉を用いた。というのも、彼らはイエスがしたことを軽蔑し、特に、イエスの働きの多くが聖書の律法に沿っていなかったこと、そしてさらに、イエスの教えが自分たちの言葉より高尚であり、聖書の預言者たちが預言したことよりもさらに高尚だったことを忌み嫌ったからである。イエスの働きは人類の贖いと十字架のためだけにあった。そのため、イエスは人を征服するために、それ以上の言葉を語る必要はなかった。イエスが人に教えたことの多くは聖書の言葉から来ており、たとえイエスの働きが聖書を越えなかったとしても、イエスはやはり十字架の働きを達成することができた。イエスの働きは言葉の働きでも、人類を征服するためになされた働きでもなく、人類を贖う働きであった。イエスは人類のために罪のいけにえとして行動しただけで、人類のための言葉の源泉として行動したのではなかった。イエスは異邦人の働き、つまり人間を征服する働きはしなかったが、十字架の働き、つまり神の存在を信じた人々のあいだでなされた働きをした。たとえイエスの働きが聖書に基づいて実行され、またパリサイ人たちを非難するために、昔の預言者によって言われたことを用いたとしても、これは十字架の働きを完成するのに十分であった。もし今日の働きが依然として聖書にある昔の預言者たちの預言に基づいて実行されるなら、あなたがたを征服するのは不可能であろう。というのも、旧約聖書にあなたがた中国人の不従順さと罪の記録はなく、またあなたがたの罪の履歴もないからである。ゆえに、この働きがまだ聖書に残っているなら、あなたがたは決して屈しないであろう。聖書に記録されているのはイスラエル人の歴史の一部だけであり、あなたがたが善か悪かを判断したり、あなたがたを裁いたりすることができるものではない。わたしがイスラエル人の歴史に従ってあなたがたを裁くと想像してみなさい。今日のように、あなたがたはわたしに従っているだろうか。あなたがたは自分たちがどれほど難しい人間かわかっているのか。この段階で言葉がまったく話されなかったら、征服の働きを完成することは不可能であろう。わたしは十字架にかけられるために来たのではないので、あなたがたが征服されるよう、聖書とは別の言葉を話さなければならない。イエスが行なった働きは、旧約聖書より高位にある一段階に過ぎなかった。それはひとつの時代を始めるため、その時代を先導するために使われたのである。なぜイエスは「わたしは律法を廃するためではなく、成就するために来たのである」と言ったのであろうか。しかしイエスの働きには、旧約聖書のイスラエル人が実践した律法、および彼らが従った戒めと一致しないことがかなりあった。それは、イエスが来たのは律法を守るためではなく、成就するためだったからである。律法を成就する過程には、多くの現実的な事柄が含まれていた。イエスの働きはもっと実際的かつ現実的であり、さらにそれはより一層生きたものであり、規則への盲従ではなかった。イスラエル人は安息日を守っていたのではないか。イエスは来たときに安息日を守らなかった。なぜなら、人の子は安息日の主であるとイエスが言ったように、安息日の主が来たときには、自由に振舞うものだからである。イエスが来たのは旧約聖書の律法を成就し、それを変えるためだった。今日なされるすべてのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代におけるヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえば、言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなどは、旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前にもたらされたものより高次の戒めや律法から成り立っているが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのも、神の働きの各段階は以前の段階を基盤にして実行されるからである。ヤーウェが当時イスラエルで行った働き、たとえば犠牲を捧げ、父と母を敬い、偶像崇拝をせず、他人に暴行を加えたり呪ったりせず、姦淫を犯さず、喫煙や飲酒をせず、死肉を食べず、血を飲まないよう人々に求めたことなどについて言えば、それは現在でもあなたがたの実践の基盤を形作っているのではないか。過去の基盤の上に、働きは今日に至るまで行なわれてきたのである。もはや過去の律法が語られることはなく、新しい要求が課せられるようになったからといって、過去の律法は廃止されたどころか、より高く引き上げられたのである。過去の律法が廃止されたということは、前の時代が期限切れになったことを意味する一方、戒めには未来永劫守らなければならないものがある。過去の戒めはすでに実践されてきており、すでに人間の在り方となっているので、喫煙をしてはならないとか、飲酒をしてはならないといった戒めをことさら強調する必要はないのである。この基盤の上に、あなたがたの今日の必要性にしたがって、あなたがたの霊的背丈にそって、現在の働きに合わせて、新しい戒めが定められるのである。新時代の戒めを制定することは、旧時代の戒めを廃止することではなく、この基盤の上でさらに高く持ち上げ、人間の行動をさらに完全なもの、現実とより調和したものとすることである。今日、あなたがたがイスラエル人と同じように、戒めに従い、旧約聖書の律法を守ることしか要求されず、ヤーウェによって制定された律法を暗記することさえ求められていたら、あなたがたが変われる可能性はないだろう。これらの限られた戒めを守ったり、数えきれないほどの律法を暗記したりするだけならば、あなたがたの古い性質は深く根ざしたままで、それを引き抜く方法はないであろう。そのため、あなたがたはますます堕落し、あなたがたのうち誰ひとりとして従順にならないであろう。つまり、少数の簡単な戒めや数知れない律法は、あなたがたがヤーウェの業を知る上で助けにはならないということである。あなたがたはイスラエル人と同じではない。律法に従い、戒めを暗記することによって、彼らはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェだけに献身を捧げることができた。しかし、あなたがたがそれを成し遂げることはできない。そして、旧約聖書時代の僅かな戒めは、あなたがたに心を捧げさせることも、あなたがたを守ることもできないだけではなく、それどころかあなたがたをだらしなくさせ、ハデスに落とすだろう。わたしの働きは征服の働きで、あなたがたの不従順さや古い性質に向けられているからである。ヤーウェとイエスの優しい言葉は、今日の厳しい裁きの言葉に比べてはるかに劣っている。そのような厳しい言葉がなければ、何千年ものあいだ服従してこなかった、不従順の「専門家」であるあなたがたを征服するのは不可能であろう。旧約聖書の律法はずいぶん前にあなたがたへの力を失い、今日の裁きは古い律法よりはるかに手ごわい。あなたがたに最もふさわしいのは裁きであって、律法という取るに足らない制限ではない。なぜなら、あなたがたはごく最初の人間ではなく、何千年ものあいだ堕落してきた人間だからである。人間が今成し遂げなければならないことは、今日の人間の現状に即しており、現代人の素質と実際の霊的背丈にそったものであり、規則に従うことは要求されない。それはあなたの古い性質に変化を生じさせ、あなたが自分の観念を捨てるようにするためである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 289

歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。六千年にわたる神の経営計画が終わりを迎えるには、前方へと進み続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を切り開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを開始し、それらとともに新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。神の霊は刻一刻と新しい働きを行なっており、古いやり方や規則に固執することは決してない。また、神の霊の働きが止まったことは一度もなく、どの瞬間にも生じている。聖霊の働きは不変であると言うなら、ヤーウェが祭司に対し、神殿の中で自分に仕えるよう求めたのに、イエスが来たときには、彼は大祭司だとか、ダビデの家系で大祭司でもあり、偉大な王であると人々が言ったにもかかわらず、どうしてイエスは神殿に入らなかったのか。そしてなぜイエスはいけにえを捧げなかったのか。神殿に入ろうが入るまいが、これはすべて神自身の働きではないのか。もしも人が想像するように、イエスが再び到来し、終わりの日にいまだイエスと呼ばれ、依然として白い雲に乗り、イエスの姿のままで人のもとに降臨するなら、それはイエスの働きの反復ではないだろうか。聖霊が古いものにしがみつくなどあり得るのか。人が信じているものはすべて観念であって、人が理解しているものはすべて文字通りの意味、または人の想像力に沿ったものである。それらは聖霊の働きの原則と一致しておらず、神の意図に沿っていない。神はそのような形で働きを行なわないはずだ。神はそれほどばかでも愚かでもなく、神の働きはあなたが想像するほど簡単ではない。人が想像するあらゆることを基にすると、イエスは雲に乗って現われ、あなたがたの中に降りることになっている。あなたがたは、雲に乗りながら「自分はイエスだ」と告げる彼を見る。また、イエスの手にある釘の跡を見て、その人がイエスであることを知る。いのか。すべての人間はサタンによって堕落させられたのではないか。もしも神が人の観念に沿って自身の働きを行なったのなら、神はサタンということになるのではないか。神は自身の被造物と同じようなものだということにはならないか。神の被造物がサタンによって堕落させられるあまり、人はサタンの化身になったので、もしも神がサタンの物事に沿って働いたなら、神はサタンの仲間だということになるのではないか。どうして人が神の働きを理解できるのか。したがって、神が人の観念に沿って働きを行なうことは決してなく、あなたが想像するように働きを行なうこともない。自分は雲に乗って来ると神自身が述べたと言う人たちがいる。神自身がそう言ったのは確かだが、神の奥義を推し測れる人は誰もいないことを、あなたは知らないのか。神の言葉を説明できる人間は一人もいないことを、あなたは知らないのか。自分は聖霊に啓かれ、照らされていると、あなたはみじんの疑いもなく確信しているのか。当然それは、聖霊がそうした直接的な形であなたに示したわけではない。聖霊があなたに指示したのか、それともあなた自身の観念によってそう考えるようになったのか。あなたは「これは神自身によって述べられた」と言った。しかしわたしたちは、神の言葉を測るにあたって自分たちの観念や思考を用いることはできない。イザヤが語った言葉について言えば、あなたは絶対の確信をもって彼の言葉を説明することができるのか。あえてイザヤの言葉を説明するつもりなのか。イザヤの言葉をあえて説明するつもりがないのに、どうしてイエスの言葉をあえて説明しようとするのか。イエスとイザヤのどちらがより崇められているのか。答えはイエスであるのに、なぜイエスの語った言葉を説明するのか。神は自身の働きを前もってあなたに告げるだろうか。被造物の誰も、天の御使たちさえも、人の子でさえも知らないのに、どうしてあなたにわかるのか。人はあまりに多くのものを欠いている。あなたがたにとって今最も重要なのは、三段階の働きを知ることである。ヤーウェの働きからイエスの働きに至るまで、イエスの働きからこの現段階の働きに至るまで、これら三段階は神の経営全体を隙間なく覆うものであり、またそのすべてが一つの霊による働きである。創世以来、神は常に人類の経営にいそしんできた。神は初めにして終わりであり、最初にして最後であり、時代を始める存在にして時代を終わらせる存在である。異なる時代、異なる場所における三段階の働きは、間違いなく一つの霊の働きである。これら三段階を切り離す者はみな神に敵対している。今、第一段階から今日に至るまでの働きが、すべて一つの神の働きであり、一つの霊の働きであることを、あなたは理解しなければならない。そのことに疑いの余地はあり得ない。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 290

神を信じている以上、人間は神の歩調に一歩ずつしっかり従わなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきなのである。このような者たちだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は、聖霊の働きによって淘汰された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、また各期間において、人間には新たな始まりがある。もしも人間が、「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような、それぞれに時代にのみ当てはまる真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きと歩調を合わせることが決してできず、聖霊の働きを得ることも永遠にできない。神がどのように働くかにかかわらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、しっかりとついて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊によって淘汰されることがあるだろうか。神が何を行なうかにかかわらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、疑念を抱くことなく聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰せられることがあるだろうか。神の働きは一度も停止したことがなく、神の歩みも止まったことがない。また神の経営の働きが完了するのに先立ち、神は常に忙しく、休んだことがない。しかし、人間は違う。人間は、ほんの少し聖霊の働きを得ただけで、あたかもそれが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得ただけで、より新しい神の働きの歩みに進んでついて行こうとしない。人間は、わずかな神の働きを見ただけで、すぐに神を一種の木の人形のように決めつけ、神はいつまでも人間の見るこの形のままであり、過去も未来も常にそのような形であると信じる。人間は、表面的な知識だけを得て、誇らしくなって我を忘れ、まったく存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の働きの一段階について確信するあまり、神の新たな働きを宣べ伝えるのがどのような人であれ、人間はそれを受け入れない。これらの者たちは、聖霊の新たな働きを受け入れることができない人々である。彼らはあまりに保守的で、新しい物事を受け入れられない。このような人々は、神を信じてはいるが、神を拒む者たちである。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェを信じるだけでイエスを信じなかった」のは間違っていたと信じているが、大多数の人々が「ヤーウェを信じるだけでイエスを拒む」という役、そして「メシアの再来を切望するがイエスというメシアには反対する」という役を演じている。それならば、聖霊の働きの一段階を受け入れた後も、人間が依然としてサタンの支配下で生き、依然として神の祝福を受けていなくても何ら不思議ではない。これは、人間の反抗心の結果ではなかろうか。現在の新たな働きに追いついていない世界各地のクリスチャンはみな、神が自分たちの望みを一つひとつかなえてくれると思い込み、自分たちは幸運であるという希望にしがみついている。しかし、神が自分たちを第三の天へと引き上げるのはなぜかを、確信を持って述べることはできず、白い雲に乗ったイエスがどのようにして自分たちを引き上げに来るかについても確信しておらず、ましてや自分たちが想像している日に、本当にイエスが白い雲に乗って到来するかどうかも断言できずにいる。彼らはみな不安であり、途方にくれている。自分たち、すなわち各教派から来た一握りの様々な者たちを、神が一人ひとり引き上げるかどうかさえ知らない。神が現在行なっている働き、今の時代、そして神の旨――彼らはそれらの事柄を一切把握しておらず、その日を指折り数えることしかできない。子羊の歩みに最後まで従う者のみが、最終的な祝福を得られる。一方、最後まで従えないにもかかわらず、自分はすべてを得たと信じている「賢い人々」は、神の出現を証しすることができない。彼らの一人ひとりが、自分は地上で最も賢い人間だと信じており、神の働きの継続的な発展を何の理由もなく中断させ、「この上なく神に忠実で、神に従い、神の言葉を守る」自分たちを神は天に引き上げると、絶対的な確信を持って信じているようである。彼らは、神が語った言葉に対して「この上なく忠実」であるにもかかわらず、彼らの言動は極めて忌まわしい。なぜなら、彼らは聖霊の働きに逆らい、欺瞞や悪を犯すからである。最後まで従わない者、聖霊の働きと歩調を合わせられない者、旧来の働きにしがみ付くだけの者は、神への忠誠を果たせなかったどころか、神に逆らう者となり、新たな時代に拒絶され、罰せられる者となった。これ以上哀れなことがあるだろうか。多くの人たちが、古い律法を拒んで新たな働きを受け入れる者はみな、良心がないとさえ信じている。「良心」についての話をするだけで、聖霊の働きを知らないそれらの人々は、最終的に自らの良心によって前途を絶たれる。神の働きが教義に従うことはなく、またそれは神自身の働きかもしれないが、神がそれに固執することはない。否定されるべきことは否定され、淘汰されるべきものは淘汰される。しかし人間は、神の経営の働きのほんの一部に固執し、自ら神に敵対している。それは人間の愚かしさではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを恐れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福を得ることと、最後の祝福を受けることがますます不可能となる。奴隷のように律法を守っている人はみな、律法に対してこの上ない忠誠を示している。そして律法に対してこのような忠誠を示せば示すほど、彼らは一層神に逆らう反逆者となる。というのは、今は律法の時代ではなく、神の国の時代であり、現在の働きと過去の働きを同じ言葉で語ることはできず、過去の働きを現在の働きと比較することもできないからである。神の働きは変化しており、人間の実践もまた変化した。それは、律法にしがみつくことでも、十字架を背負うことでもない。ゆえに、律法や十字架に対する人間の忠誠が、神に認められることはないのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 291

あなたを今日征服する目的は、神があなたの神であり、また他の人々の神でもあり、最も重要なことに、神を愛するすべての人の神であり、すべての被造物の神であることをあなたに認めさせることである。神はイスラエル人の神であり、エジプト人の神である。神は英国人の神であり、アメリカ人の神である。神はアダムとエバだけの神ではなく、アダムとエバの子孫すべての神でもある。神は天のすべてのものと地上のすべてのものの神である。あらゆる種族は、イスラエル人であろうと異邦人であろうとみな、唯一神の手の中にいる。神はイスラエルで数千年働き、かつてユダヤに生まれただけでなく、今日は中国に、赤い大きな竜の国がとぐろを巻いているこの場所に降り立った。もしユダヤに生まれることで神がユダヤ人の王になるのなら、あなたがたみなのもとに降り立つことで、神はあなたがたの神となるのではないのか。神はイスラエルの民を導きユダヤに生まれたが、また、異邦人の国にも生まれた。神の働きはみな、神が創造した人類全体のためではないのか。神はイスラエルの民を百倍愛し、異邦人を千倍憎んでいるのか。それはあなたがたの観念ではないのか。神があなたがたの神ではなかったということはなく、どちらかというと、あなたがたが神を認めないのである。神があなたがたの神でありたくないということはなく、どちらかというと、神を拒んでいるのはあなたがたである。被造物のうち誰が全能者の手の中にいないのか。今日あなたがたを征服することにおける目的は、神はあなたがたの神にほかならないとあなたがたに認めさせることではないのか。もしあなたがたが神はイスラエル人だけの神であるといまだに言い張り、イスラエルのダビデ家が神の誕生の起源であり、イスラエル以外の民族にはどれも神を「生む」資格がないどころか、異邦人の種族はヤーウェの働きを直接受けることはできないと主張するのなら、もしまだこのように考えているのなら、頑固に抵抗していることにならないであろうか。いつまでもイスラエルにこだわるのではない。神は現在ここに、あなたがたとともにいる。また、天を仰ぎ見てばかりいるのではない。天の神を慕い求めるのはやめなさい。神はあなたがたのもとに来たのだから、どうして天にいることになるのか。神を信じるようになって長くはないのに、あなたには神についての観念が多くあり、そのせいでイスラエル人の神がもったいなくも自分たちに現れてくださるなどとはほんの一瞬も考えようとしないほどである。まして自分たちが耐え難いほど汚れていることを思い、どうして神自身の出現を自分たちが見ることができるのかを考えようとしない。あなたがたはまた、神がどうして異邦人の国に直接出現しえるということを考えてみたこともない。神はシナイ山かオリーブ山に下り、イスラエル人に現れるはずである。異邦人(つまり、イスラエル以外の人)はみな、神の嫌悪の対象ではないのか。どうして神が自らそのような人たちのもとで働くことなどあるのか。こうしたことはみな、あなたがたが長年にわたって築き上げた根深い観念である。今日あなたがたを征服する目的は、あなたがたのそうした観念を打ち砕くことである。だから、シナイ山やオリーブ山ではなく、あなたがた、過去に神が導いたことのない民族のもとに神が自ら現れるのをあなたがたは見ているのである。神がイスラエルで二段階の働きを行なった後、イスラエル人とすべての異邦人は等しくある観念を抱くようになった。神は確かに万物を創造したが、神はイスラエルの民だけの神であり、異邦人の神になるつもりはない、という観念である。イスラエル人は次のように信じている。神は自分たちだけの神であり、あなたがた異邦人の神ではなく、また、あなたがたはヤーウェを崇めないので、わたしたちの神であるヤーウェはあなたがたを憎んでいる。こうしたユダヤ人はさらにこうも信じている。主イエスはわたしたちユダヤ人の姿をとり、ユダヤ民族のしるしをつけた神である。神はわたしたちのもとで働く。神の姿とわたしたちの姿は同じである。わたしたちの姿は神に近い。主イエスはわたしたちユダヤ人の王である。異邦人には、このような偉大な救いを受ける資格がない。主イエスはわたしたちユダヤ人の罪のための捧げ物である。イスラエル人とユダヤ民族がこのような観念をもつようになったのは、あの二段階の働きに基づいているにすぎない。彼らは神を自分たちだけのものであると傲慢に主張して、神が異邦人の神でもあることを認めない。このようにして、異邦人の心の中で神は欠落することになった。神は異邦人の神になることを望まず、イスラエル人、つまり神の選民、そしてユダヤ民族、とりわけ神に従った弟子たちだけを好むのだと誰もが信じるようになったためである。ヤーウェとイエスの働きは全人類の存続のためであると知らないのか。あなたは今、神はイスラエルの外に生まれたあなたがたみなの神であると認めるのか。神は今日ここに、あなたがたのもとにいるのではないのか。これは夢ではありえない。そうではないのか。この現実を受け入れないのか。あなたがたはこれを信じようともこれについて考えようともしない。あなたがたがどのように見ようと、神はここ、あなたがたとともにいるのではないのか。あなたがたはこれらの言葉を信じることをまだ恐れているのか。今日のこの日からは、征服された人と神に従いたいと願う人はみな神の選民ではないのか。あなたがたは今日従っているが、みなイスラエルの外にいる選ばれた民ではないのか。あなたがたの身分はイスラエル人と同じではないのか。これはみなあなたがたが認めなければいけないことではないのか。これはあなたがたを征服する働きの目標ではないのか。あなたがたには神が見えるのだから、神は永遠に、始まりから未来まで、あなたがたの神である。あなたがたみなが神に従い、忠実で従順な被造物でいたいと願う限り、神はあなたがたを見捨てない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 292

自分の古い観念を捨ててこそ、新しい認識を得ることが可能であるが、古い認識が古い観念と同じだとは限らない。「観念」とは、現実にそぐわない、人が想像した物事を指す。古い認識が古い時代にもう時代遅れとなり、人が新しい働きに入るのを阻んだなら、そのような認識も観念である。人がそのような認識に正しく対処でき、神をいくつかの異なる側面から認識し、古いものと新しいものを組み合わせることができれば、古い認識も人の助けとなり、人が新しい時代に入る基盤となる。神を認識するという学びにおいては、例えば、どのようにして神を認識する道へと入るのか、神を認識するにはどの真理を理解すべきなのか、またいかにして自分の観念と古い性質を取り除き、神の新しい働きの采配にすべて従うようになるのかなど、多くの原則を習得する必要がある。神を知るという学びに入るため、これらの原則を基盤として用いれば、あなたの認識はますます深くなる。あなたが三段階の働き、つまり神の経営計画全体についてはっきりした認識を持ち、前の二段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きだと捉えることができれば、あなたは比類なき強固さの基盤を持つことになる。三段階の働きは一つの神によってなされた。これは最も偉大なビジョンであり、神を認識する唯一の道である。三段階の働きは、神自身によってしかなされ得なかったことであり、神に代わってそのような働きを行えた人はいない。要するに、初めから今日まで、神の働きは神自身にしかできなかったのである。神の三段階の働きは、異なる時代の異なる場所で実行され、内容もそれぞれ異なるが、それらはすべて一つの神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、人がこれを完全に理解するなら、その人は揺るぎなく立つことができる。現在、様々な宗教や教派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識しておらず、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できないことである。そのため彼らは、先の二段階の働きと同様に、この段階の働きもヤーウェ神によるものかどうかわからずにいる。神に従ってはいても、ほとんどの人が、それが正しい道なのかどうかをいまだ区別できない。人は、神自身がこの道を自ら導いているのかどうか、神の受肉が事実なのかどうかと気に病んでいるが、大半の人が、このような事柄をどう識別すべきかについて、一切手掛かりがないままである。神に従う者たちは、道を決めることができずにいるので、このような人たちのあいだにおいて、発せられる言葉は部分的な効果しか持っておらず、また完全に効果を発揮できないために、そのような人たちのいのちの入りに影響を及ぼしている。三段階の働きにおいて、それらが違う時代に、違う場所で、違う人々に対して、神に自身によってなされたことだと見きわめることができ、またたとえ働きが違っていても、それらはすべて一つの神によってなされたことであり、一つの神によってなされる働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念にそぐわなくても、一つの神の働きなのは否定できないということを理解できれば――もしも人が、それは一つの神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細なこととなり果て、言及する価値もなくなるだろう。人のビジョンが明確でないために、また、ヤーウェが神でありイエスが主であることしか人は知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念したままで、今日の働きについての観念に悩まされており、ほとんどの人が常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていない。人は、見ることができなかった先の二段階の働きに関して、何の観念も持っていない。それは、人が先の二段階の働きの現実を理解せず、それらを自ら目撃しなかったからである。これらの段階の働きが見えないからこそ、人は好きなように想像するが、何を思いついてもそうした想像の証拠となる事実はないし、それらを正す者もいない。人は気分に任せて警戒心を捨て、自由に想像を働かせているが、その想像を立証する事実がないので、証拠があるかどうかにかかわらず、人の想像したことが「事実」となっている。したがって、人は頭の中で想像した神を信じているのであって、実際の神を求めてはいない。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人がいれば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きの現実を見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取り憑かれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。ゆえに、信者になってわずか一年の人も、自身の観念を通して神を信じるようになっているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神についての観念がある信仰から抜け出すことができない。人は自身の古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や風聞以外の何物でもないことを、人は知らないのか。人はみな、自分の観念が正確で間違いないと思い込み、そうした観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を解き放つ。過去の想像と思考がこの段階の働きの障害になってしまい、人がそのような観念を手放し、そのような思考に反論するのが困難になっている。今日まで神に付き従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は、以前にも増して深刻になっており、これらの人たちは、受肉した神に対する頑固な敵意を徐々に形成している。この憎しみの根源こそ、人の観念と想像なのである。人間の観念と想像が今日の働き、すなわち人間の観念と一致しない働きの敵になってしまったのだ。そうなったのはまさに、事実のせいで人が自由に想像を働かせることができず、それ以上に、人が事実に反論するのは容易なことではないから、また人の観念と想像は事実の存在を許さず、さらに人は事実の正確さと信憑性を考慮せず、ただひたすら自分の観念を解き放ち、自分自身の想像力をたくましくするからである。これは人の観念の誤りとしか言えず、神の働きの誤りとは言えない。人が何を想像しても、それはその人の自由だが、神の働きのどの段階も、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えてはならない。神の働きの事実は、人には侵せないものなのだ。あなたは自由に想像してかまわないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても結構だが、ヤーウェとイエスによる働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなたがたはこれらの問題の重要性を理解しなければならない。人は、この段階の働きは人間の観念と合致しないが、以前の二段階の働きはその限りではないと信じている。人は自身の想像の中で、以前の二段階の働きは今日の働きと同じではないと確信している。だが、神の働きの原則はすべて同じであり、神の働きは常に実践的であること、そして時代に関係なく、神の働きの事実に逆らい、反対する人がいつも大量に現れることを考えたことがあるのか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく神に逆らっていただろう。そのような者は常に神の敵なのだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てる。このような人が神を知る者、真に神に付き従う者である。神の経営の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、神は最後に、人を自身の支配下に戻さなければならない。これが三段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける以前の二つの段階は、全宇宙における神の経営計画である。これは誰にも否定できないし、神の働きの事実である。人々はまだ、この働きの大半を経験も目撃もしていないが、事実は事実であり、人は誰もこれを否定できない。神を信じる宇宙の各地の人々はみな、必ずやこの三段階の働きを受け入れる。特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず、過去の時代における神の働きも理解しないなら、あなたは神の経営計画全体の真相を残らず語ることができず、神に関するあなたの認識は一方的である。神への信仰において、あなたは神を知らず、理解していないので、あなたには神を証しする資格がないからである。これらの事柄について、あなたの現在の認識が深かろうと浅かろうと、最後には、認識を得て完全に納得するはずであり、あらゆる人が神の働きを余すところなく目にして、神の支配の下に服従するようになる。この働きの終わりには、すべての宗教が一つになり、すべての被造物が創造主の支配の下に戻る。彼らは唯一の真の神を礼拝するが、邪悪な宗教はすべて無に帰し、二度と現れることはない。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 293

神の働きの目的、神の働きが人にもたらす効果、そして神の人への心意とは厳密に何であるのかを把握することは、神に従うすべての人が到達すべきことである。今日、すべての人に欠けているのは、神の働きを知ることに他ならない。天地創造から現在にいたるまで神が人に行なった業、神の働きの全体、そして神の心意とは人にとって厳密に何であるのかを人は知りも理解もしていない。この不十分さは宗教界全体だけでなく、神を信じるすべての人にも見られる。あなたが本当に神を見る日が来るとき、神の知恵を真に認識するとき、神が行なったすべての業を見るとき、神の存在そのものと神が所有するものを認識するとき、つまりあなたが神の豊かさ、知恵、不思議、そして神が人に為したすべてのことを見たとき、あなたは神の信仰において成功を収めたことになる。神はすべてを包み込み、極めて豊かであると言われるとき、厳密にどのようにすべてを包み込み、どのように極めて豊かなのだろうか。これがわからなければ、あなたは神を信じているとみなされることはできない。わたしが宗教界の人々は神を信じるのではなく、悪魔と同類の悪行者であると言うのはなぜか。わたしが彼らが悪行者であると言うとき、それは彼らには神の心意がわからず、神の知恵が見えないからである。神は決して彼らに働きを明かさない。彼らは盲目である。彼らには神の業が見えず、彼らは神に見捨てられている。そして、彼らには聖霊の働きは言うまでもなく、神の気遣いや守りは一切ない。神の働きのない人はすべて悪行者であり、神への反対者である。わたしが言う神の敵とは、神を知らない人、口先では神を認めながらも神を知らない人、神の後ろをついては来るが神に従わない人、そして神の恵みを享楽するが神への証しを立てることができない人を指す。そのような人は、神の働きの目的や神が人において為す働きを理解せず、神の心意と一致することも、神への証しを立てることもできない。人が神に反対する理由は、一方ではその堕落した性質から、他方では神を知らないことと神が働く原理と人への神の心意を理解していないことに由来する。これら二つの側面を一つにすると、人が神に抵抗してきた歴史を構成する。信仰の初心者は神に反対する。なぜなら、そのような反対は彼らの本性の中にあるからである。一方、長年信仰してきた人々が神に反対するのは、彼らの堕落した性質に加え、神を知らないことが原因である。神が肉となる前は、ある人が神に反対しているか否かは、その人が天国にいる神が定めた命令を守っているか否かに基づいていた。たとえば、律法の時代では、ヤーウェの律法を守らない人は誰であれ、神に反対している人とみなされた。ヤーウェへの捧げ物を盗んだ人やヤーウェに好まれている人に敵対した人は誰であれ、神に反対している人とみなされ、石打刑で殺されることになっていた。父母を敬わない人や他人を殴ったり罵ったりした人は誰であれ、律法を守らない人とみなされた。そして、ヤーウェの律法を守らない人はみな、神に敵対しているとみなされた。恵みの時代においては、こうしたことはもはやなく、イエスに敵対する人は誰であれ神に敵対する人とみなされ、イエスの言葉に従わない人は誰であれ神に敵対する人と見なされた。このとき、神への反対の定義の仕方が、これまでより正確で実際的になった。神がまだ肉になっていなかったころ、人が神に反対しているか否かの尺度は、人が天国にいる目に見えない神を崇拝し、尊敬しているか否かに基づいていた。そのころ、神への反対の定義の仕方はそれほど現実的ではなかった。なぜなら、人には神が見えず、神の姿がどのようなものか、神がどのように働き、語るのかを知らなかったからである。人には神についての観念が一切なく、神はまだ人のところに現れていなかったので、神を漠然と信じていた。したがって、人がいかに想像で神を信じていたとしても、人には神が全く見えなかったので、神は人を断罪したり、過多な要求を突きつけたりすることはなかった。神が肉になり、人の間で働くようになると、すべての人が神を見、神の言葉を聞き、神がその肉体の内側から為す業を見る。そのとき、人の観念はすべて泡となる。神が肉に現われるのを見た人は、喜んで神に従うならば断罪されることはないが、意図的に神に敵対する人は神の反対者とみなされる。そのような人は反キリストであり、故意に神に対抗する敵である。神についての観念を抱いていながらも神に従うことをいとわない人は断罪されない。神は人の意図や行動に基づいて人を断罪するのであり、決して人の思いや考えのためではない。もし神が人の思いや考えに基づいて断罪するなら、一人として神の怒りの手から逃れることはできない。受肉した神に故意に対抗する人は、その不従順ゆえに罰せられる。神に故意に対抗するそのような人が神に反対するのは、神についての観念を抱いていることに由来し、それが神の働きを妨害する行動をその人にとらせるのである。この人は意図的に神の働きに抵抗し、破壊する。単に神についての観念があるだけでなく、神の働きを妨害する活動にも携わり、この理由ゆえにこのような人は断罪されるのである。神の働きを故意に妨害しない人々は、罪人として断罪されることはない。喜んで従うことができ、妨害や混乱を引き起こす活動に従事することができないからである。このような人は断罪されない。神の働きを長年にわたって経験してきたのに、神についての観念を抱き続け、受肉した神の働きを知ることができないままであるならば、そして何年ものあいだ神の働きを経験しながらも、神についての観念に満たされたままで神を知ることができないならば、たとえ混乱を引き起こすような活動に従事していなくても、そのような人の心は神についての多くの観念で満たされているのであり、たとえこれらの観念が明らかにならないとしても、このような人は神の働きには何ら一切の役に立たない。そのような人は神のために福音を広めることも、神への証しを立てることもできない。それは何の役にも立たない愚か者である。神を知らず、さらに神についての観念を捨てることがどうしてもできないため、そのような人は断罪される。つまり、次のように言うことができる。信仰の初心者が神についての観念を抱いたり、神を全く知らないのは普通のことであるが、長年にわたって神を信じ、神の働きをかなり経験した人が観念をもち続けることは普通ではなく、このような人が神を知らないのはさらに普通ではない。この普通ではない状態ゆえに、その人は断罪されるのである。こうした異常な人はみなごみである。そのような人は神へ最大の反対を見せ、神の恵みも最大に享受しながら、それに対して何も報いない。そのような人はみな最後には淘汰される。

『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 294

神の働きの目的を理解していない人は誰であれ、神に反対しているのであり、神の働きの目的を理解するようになっても神を満足させようとはしない人は、なおさら神の反対者とみなされる。荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは「健全な体質」をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。神の臨在において自分を高く評価する人は人間の中でも最も卑しいが、自分を低く考える人は最高の栄誉に浴する。そして、自分は神の働きを知っていると思っており、さらに、神を目の前に見ながらも神の働きを人々に大げさに宣言することができる人は、人間の中でも最も無知な人である。そのような人には神の証しがなく、傲慢でうぬぼれに満ちている。神について実際の経験と実際の認識があるにもかかわらず、自分は神についてほとんど知らないと信じている人が、神に最も愛されるのである。そのような人だけに真の証しがあり、真に神によって完全にされることができる。神の心意を理解していない人は、神の反対者である。神の心意を理解しているが、真理を実践していない人は神の反対者である。神の言葉を飲み食いしても神の言葉の本質に反する人は神の反対者である。肉となった神についての観念を持ち、さらに反乱に関与する心を持つ人は神の反対者である。神を批判する人は神の反対者である。そして、神を知ることができない人、神に証しをすることができない人は誰であろうと神の反対者である。だからわたしはあなたがたに求める。もしあなたがたが本当にこの道を歩けると信じているなら、道に従い続けなさい。しかし、もしあなたがたが神への対抗をやめられないのなら、手遅れになる前に立ち去るがよい。そうでなければ、物事の展開があなたがたにとってひどくなる可能性が非常に高い。それは、あなたがたの本性があまりに堕落しきっているからである。あなたがたには忠誠心や従順、義と真理を渇望する心、神への愛などみじんもない。神の前のあなたがたの状況は完全な修羅場であると言える。従うべきことに従うことができず、言うべきことを言うこともできない。実践すべきことを実践することに失敗し、果たすべき役割を果たすことができていない。持つべき忠誠心、良心、従順、決意を持たない。耐えるにふさわしい苦しみに耐えておらず、もつべき信仰もない。簡単に言うと、あなたがたには真価がまったくない。このまま生きていて恥ずかしくないのか。神があなたがたのせいで心配したり、あなたがたのために苦しんだりしなくていいように、あなたがたは永遠の眠りについたほうがいいと説得させてほしい。あなたがたは神を信じていても神の心意を知らない。神の言葉を飲み食いしても、神が人に要求することを守ることができない。神を信じても神を知らず、努力する目標もなく、一切の価値も意味もないまま生きている。人間として生きていても、良心、品位、信頼性は少しもない。それでもあなたがたはまだ自分を人間と呼ぶことができるのか。神を信じていても神を欺く。さらに、神の金を取り、神への捧げ物を食い尽くす。それでも、結局のところ、神の気持ちを少しでも考えたり、神にわずかな良心を見せることもない。神のごく些細な要求さえも満たすことはできない。それでもまだ、あなたがたは自分を人間と呼ぶことができるのか。神が提供する食物を食べ、神が与える酸素を吸い、神の恵みを受けても、結局のところ、あなたがたは神を少しも知らない。それどころか、あなたがたは神に反対する無益者になった。それではあなたがたは犬よりも劣る獣になるのではないのか。あなたがたよりも悪意のある動物が他にあるだろうか。

高い説教壇に立って人々に教えを説く牧師や長老は、神の反対者でありサタンの仲間である。高い説教壇に立って人に教えていないあなたがたは、さらに大きな反対者ではないのか。牧師や長老以上にサタンと共謀していないのか。神の働きの目的を理解していない人は、神の心意と一致する方法を知らない。確かに、神の働きの目的を理解している人が、神の心意と一致する方法を知らないことはありえない。神の働きは決して誤ることがなく、むしろ、欠陥があるのは人の追求である。神に故意に反対する堕落者は、牧師や長老よりも腹黒く邪悪ではないのか。神に反対する人は多いが、神に反対する方法はさまざまである。ありとあらゆる種類の信者がいるように、神に反対する人たちもさまざまで、互いに異なる。神の働きの目的を明確に認識できない人は一人も救われない。過去に人がどのように神に反対したかに関わらず、人が神の働きの目的を理解し、神を満足させることに努力を捧げると、神は以前の罪をすべて水に流す。人が真理を求め、真理を実践するのならば、神は人がしたことを心に留めない。さらに、神が人を正しいとするのは、人による真理の実践に基づく。これが神の義である。神を見たり神の働きを体験したりする前は、人が神に対してどのように行動するかに関係なく、神はそれを心に留めない。しかし、ひとたび人が神を見、その働きを体験すると、人のあらゆる業や行動は、神によって「年譜」に記録される。人が神を見、神の働きのもとに生きたからである。

神が所有するものと神が何であるかを人が本当に見たとき、神の優越性を目にしたとき、そして神の働きを本当に知るようになり、さらに人の古い性質が変わったとき、人は神に反対する反抗的な性質を完全に捨て去ったことになる。誰もが一度は神に反対し、一度は神に反抗したことがあると言える。しかし、肉となった神に喜んで従い、この時点から忠誠心で神の心を満たし、実践すべき真理を実践し、尽くすべき本分を尽くし、守るべき規則を守れば、あなたは反抗心を捨てて神を満足させるのをいとわない人であり、神が完全にすることのできる人である。頑なに自分の誤りを見ようとせず、自身を悔い改めるつもりがないならば、また、神と協力し、神を満足させる意図が少しもなく反抗的な行動に固執するなら、あなたのような頑固で矯正のしようがない人は必ず罰せられ、神に完全にされることは決してない。このように、今日あなたは神の敵であり、明日も神の敵であり、その次の日も神の敵のままである。永遠に神の反対者であり、神の敵である。その場合、神がどうしてあなたを放免することができるだろうか。神に反対するのは人の本性であるが、人の本性を変えることは克服できない課題であるという理由だけで、意図的に神に反対する「秘訣」を求め探ってはならない。もしそうなら、将来の刑罰がさらに厳しくならないように、最後には神があなたの肉体を終わらせるところまで、あなたの凶暴な本性が爆発して制御できなくならないように、手遅れになる前に立ち去ったほうがいい。あなたは、祝福を受けるために神を信じているが、最終的に不幸しか降りかからないのであれば、それは残念なことではないのか。あなたがたに強く勧める。別の計画を立てたほうがよいだろう。できることであれば何でも、神を信じるよりもましだろう。確かに、この道だけしかないはずがない。真理を求めなくても、生き残れるのではないのか。なぜこのように神と対立する必要があるのだろうか。

『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 295

わたしは人のあいだで多くの働きをしてきたが、その間、多くの言葉も発した。これらの言葉は人の救いのためであり、人がわたしと相容れるようにと発したものである。しかし、わたしと相容れる者を、地上でほんの数名しか得ていない。だからわたしは、人はわたしの言葉を重んじないと言う。それは、人がわたしと相容れないからである。このように、わたしの行う働きは、単に人がわたしを崇めるようにするためだけではなく、さらに重要なこととして、人がわたしと相容れられるようにするのが目的である。人は堕落させられ、サタンの罠の中で生きている。誰もが肉に生き、利己的な欲求の中で生きていて、わたしと相容れる者は彼らの中に一人もいない。わたしと相容れると言う者もいるが、このような人はみな漠然とした偶像を崇めている。彼らはわたしの名を聖いものとして認めているが、わたしに反する道を歩んでおり、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。みな心の底でわたしに敵対しており、わたしと相容れないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」節を見つけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと相容れる方法を知らず、わたしに敵対することが何を意味するかも知らない。闇雲に聖句を読むだけなのだ。彼らは聖書の中に、見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を閉じ込め、暇なときに取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内でしか信じず、わたしと聖書を同一視している。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や業を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端な特別の注意を払う。また、さらに多くの人が、聖書で預言されていない限り、わたしは自分のしたいことを何もしてはいけないとさえ信じている。このような人は聖書の文章を重視し過ぎているのだ。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一言一句を評価したり、わたしを批判したりするほどだ、と言える。彼らが求めているのは、わたしと相容れる道ではなく、また、真理と相容れる道でもなく、聖書の語句と相容れる道なのだ。また、聖書に合致しないものは例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の忠実な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法を用いてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスと相容れることを求めず、律法の字句に忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないと断罪して、最後は無実のイエスを十字架にかけたのである。彼らの本質は何だったのか。真理と相容れる道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの旨に注意を払わず、わたしの働きの手順や方法にも無関心だった。真理を求める人たちではなく、あくまで字句に固執する人たちだった。彼らは神ではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬なのである。聖書の権益を守るため、聖書の尊厳を維持するため、そして聖書の評判を保護するため、彼らは慈悲深いイエスを十字架にかけさえした。単に聖書を守るため、そして人々の心における聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのだ。だから、彼らは自分の前途と罪の捧げ物を捨て、聖書の教義に合致しないイエスを断罪して死に処したのである。彼らはみな、聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

では、今日の人々はどうか。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受け取れるよう、そのキリストをこの世から追い出すほうを選ぶ。彼らは聖書の権益を守るために真理の到来を完全に否定し、また聖書の永続を確実にするため、再び受肉したキリストをまたも十字架にかけるほどである。心がかくも悪意に満ち、本性がかくもわたしを敵視している人間が、どうしてわたしの救いを受けられようか。わたしは人のあいだで暮らしているが、人はわたしの存在を知らない。わたしが人に光を照らしても、人はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人の上に放っても、人はますます強くわたしの存在を否定する。人は字句と相容れること、聖書と相容れることは求めるが、真理と相容れる道を求めてわたしの前に来る者はただの一人もいない。人は天のわたしを見上げ、天のわたしに特別な関心を向けているが、肉におけるわたしに気を配る者は誰一人いない。人のあいだで生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の字句と相容れることしか求めない者、漠然とした神と相容れることしか求めない者は、わたしの目には哀れに映る。それは、彼らの崇めているのが死んだ字句と、計り知れない宝を与えられる神だからである。彼らが崇めているのは、人の思いのままになる神、存在しない神である。では、そうした者はわたしから何を得られるのか。人はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する者、わたしに限りない要求をする者、真理を愛さない者、わたしに反抗心を抱く者――そのような者たちがどうしてわたしと相容れることができるのか。

わたしに敵対する者たちは、わたしと相容れない人であり、真理を愛さない者たちも同じである。また、わたしに反抗する者たちは、いっそうわたしに敵対し、わたしと相容れることができない。わたしと相容れないすべての者たちを、わたしは悪しき者の手に引き渡す。そうした人々を悪しき者による堕落に委ね、彼らの有害さを自由に暴かせ、最後は悪しき者に手渡し、食い尽くされるに任せる。どれだけ多くの人がわたしを崇めるかなど、わたしは気にしない。つまり、どれだけ多くの人がわたしを信じているかなど、わたしは気にしないのだ。わたしが問題にするのは、どれだけ多くの人がわたしと相容れるかである。それは、わたしと相容れない人はみな、わたしを裏切る悪しき者だからだ。彼らはわたしの敵であり、わたしは自分の敵を家で「祀り」はしない。わたしと相容れる者たちは、永遠にわたしの家でわたしに仕える。そして、わたしに敵対する者たちは、永遠にわたしの懲罰を受けて苦しむ。聖書の字句しか大事にしない者、真理に関心がなく、わたしの足跡を求めることもしない者――そうした者たちはわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対してこの上ない冒瀆を働くからである。そうした者たちがどうしてわたしの前に出られようか。その人たちはわたしの業、わたしの旨、そして真理に注意を払わず、文字――殺す文字――に執着している。そのような者たちが、どうしてわたしと相容れることができようか。

『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 296

イエスの受肉という事実の後、人は、天には父だけでなく、子と、さらには霊がいると信じた。これが、天にはこのような神、すなわち父であり、子であり、聖霊であるところの三位一体の神がいるという、人が抱いている従来の観念である。神は一つの神だが、三つの部分からなっているという観念を、すべての人が持っている。そして、従来の観念に深くはまり込んだ人はみな、それが父、子、聖霊だと考える。それら三つの部分を一つにしたものだけが神のすべてなのである。聖なる父がいなければ、神は完全ではない。同様に、子、または聖霊がいなければ、やはり神は完全ではない。人々は自身の観念の中で、父だけで、あるいは子だけで、神と見なすことはできないと信じている。父と子と聖霊が合わさって初めて神そのものと見なすことができるのだ。今、すべての宗教信者のみならず、あなたがたの中のあらゆる追随者でさえも、この信念を抱いている。だが、この信念が正しいかどうかに関しては、誰も説明できない。と言うのも、神自身に関する事柄について、あなたがたはいつも意識が曖昧だからである。これらは観念であるが、あなたがたはそれが正しいか、間違っているかがわからない。あなたがたが宗教的観念にあまりにも強く影響を受けてしまったからである。あなたがたは、こうした従来の宗教的観念をあまりにも深く受け入れており、その毒があなたがたの内部にあまりにも深く浸透している。したがって、あなたがたはこの件に関しても、そうした有害な影響に屈している。なぜなら、三位一体の神は絶対に存在しないからである。つまり、父と子と聖霊の三位一体など絶対に存在しないのだ。これらはすべて人の従来の観念、人の誤った信念である。人は何世紀にもわたり、人間の心の中の観念が生み出し、人間によってねつ造され、人間がこれまで見たことのない、この三位一体の存在を信じてきた。長年にわたり、多数の聖書解説者が三位一体の「真の意味」を説明してきたが、三位一体の神ははっきり区別できる三つの同質の位格であるという説明は曖昧模糊としており、人々はみな神の「構成」のせいで混乱している。これまで完全な説明ができた偉人は一人もいない。論法という点で、また理論という点で、ほとんどの説明は合格点に達しているが、その意味を十分明確に理解している人は一人としていない。これは、人が心の中で抱いている偉大な三位一体など存在しないからである。誰も神の本当の顔を見たことがないし、幸運にも天に昇って神の住まいを訪れ、神がいる場所にどのようなものがあるのかを調べたり、「神の家」には何万世代、何億世代がいるのかを正確に判断したり、あるいは神の本来の構成はいくつの部分から成り立つのかを調査したりした人はいないからである。主に調べる必要があるのは、父と子、ならびに聖霊の年齢、それぞれの位格の外見、それらがいったいどういうわけで分かれたのか、どういうわけで一つになるのか、である。残念ながら、長きにわたるこれまでの年月の中で、これらの事柄の真相を突き止められた者は一人としておらず、みな推測しているに過ぎない。と言うのも、三位一体に関心を抱く熱心かつ敬虔なすべての宗教信者に対し、この件の真相について報告するため、天に昇って見学し、全人類のために「調査報告書」を携えて戻ってきた者は一人としていないからである。もちろん、そのような観念を形成したからといって、人を責めることはできない。それではなぜ、父なるヤーウェは人類を創造したとき、子のイエスを同行させなかったのか。最初にすべてがヤーウェの名に沿って進んでいたなら、そのほうがよかったはずだ。責めを負わせなければならないとしたら、天地創造のときに子と聖霊を呼び寄せず、単独で働きを実行したヤーウェ神の一時的な過失である。仮にその三つがすべて同時に働いていたなら、一つになっていたはずではないのか。最初から最後までヤーウェの名だけしかなく、恵みの時代からイエスの名がなかったら、または、イエスがその時もまだヤーウェと呼ばれていたら、神は人類によってこのように分割される苦しみを免れたはずではないのか。確かに、このすべてについてヤーウェを責めることはできない。責めを負わせなければならないとしたら、それは聖霊である。聖霊は何千年にもわたり、ヤーウェ、イエス、さらには聖霊の名で自身の働きを続け、いったい誰が神なのかわからなくなってしまうほどに人を当惑させ、混乱させてしまったからである。聖霊そのものが形や姿を持たないまま、さらにはイエスといった名前を持たないまま働いていたら、そして人が聖霊に触れることも見ることもできず、ただ雷鳴の音だけを聞いていたら、この種の働きは人類により多くの恩恵をもたらしたはずではないのか。では、今となっては何ができるだろう。人の観念は山のように高く、海のように広く蓄積したので、今日の神はもはやそれらに耐えることができず、まったく途方に暮れている。ヤーウェとイエス、そしてそれらのあいだにいる聖霊だけだった昔においても、人はすでに、どう対処すべきか途方に暮れていたが、今はそこに全能者が加わり、神の一部だと言われるほどである。それが誰であるのか、どのくらいの年月にわたって、三位一体のどの位格と混じり合っていたのか、あるいはどの位格の中に隠れていたのかなど、誰が知っていようか。どうして人がこのようなことに耐えられようか。三位一体の神だけで、人が一生かけて説明するのに十分だったが、今では「四つの位格における一つの神」がいる。これをどう説明できるというのか。あなたは説明できるのか。兄弟姉妹よ。どうしてあなたがたは今日までこのような神の存在を信じてきたのか。わたしはあなたがたに脱帽する。三位一体の神ですら、あなたがたが担うのにもう十分だったのに、どうすれば四つの位格から成るこの一つの神に揺るぎない信仰を抱き続けられるのか。あなたがたは立ち去るよう促されたのに拒絶している。とてもあり得ないことだ。あなたがたは本当に素晴らしい。四つの神の存在を実際に信じることさえできて、それをなんとも思わない。あなたがたはこれを奇跡だと思わないのか。あなたがたを見て、このような偉大な奇跡を引き起こせるとは誰一人知り得なかっただろう。実のところ、三位一体の神などこの宇宙のどこにも存在しないと言っておこう。神には父も子もおらず、ましてや父と子が聖霊を道具として共同で使うという概念など存在しない。これはどれもこの世における最大の誤謬であり、断じてあり得ない。とは言え、そのような誤謬であっても発端があり、根拠がまったくないわけではない。なぜなら、あなたがたの頭脳はそれほど単純ではないし、あなたがたの考えには理知がないわけではないからである。むしろ、それらの考えはかなり適切で、しかも独創的なので、いかなるサタンを相手にしても動じない。残念なのは、そうした考えがどれも誤謬であり、断じて存在しないことである。あなたがたは本当の真実を一切見たことがない。推測と想像を巡らせてから、他者を騙して信用を得るために、また機知や理性のない極めて愚かな人々を支配するために、そのすべてを物語にまとめ上げ、あなたがたの偉大で名高い「専門家の教え」を人々に信じさせようとしているに過ぎない。それは真理なのか。人が受けるべきいのちの道なのか。どれも馬鹿げているし、一語たりとも適切ではない。この長い年月を通してずっと、神はこのような形であなたがたによって分けられてきて、世代を追うごとにますます細かく分けられ、一つの神が公然と三つの神に分けられるまでに至った。そして今、神をあまりに細かく分けたため、人が神を一つに再結合するのはまったく不可能である。手遅れにならないうちにわたしが迅速に働きを行っていなければ、あなたがたがどのくらい長く、厚かましくもこのようなことを続けるかはわからない。このように神を分け続けるなら、どうして神はあなたがたの神でいられようか。あなたがたは依然として神を認識できるだろうか。あなたがたはいまだに、自分の起源を探し求めているのか。仮にわたしが少しでも遅く到着していたら、あなたがたは「父と子」、すなわちヤーウェとイエスをイスラエルに送り返し、自分たちこそ神の一部だと主張していただろう。幸いにも、今は終わりの日である。わたしが長いこと待っていたこの日がついに来て、この段階の働きを自分の手で実行して初めて、あなたがたは神自身を分割することをやめた。これがなければ、あなたがたはさらにエスカレートして、あなたがたのあいだにいるサタンをすべて祭壇に載せて崇拝さえしていただろう。これがあなたがたの企み、あなたがたが神を分ける手段である。あなたがたは今なおそのようにし続けるつもりなのか。あなたがたに尋ねたい。神はいくつあるのか。どの神があなたがたに救いをもたらすのか。あなたがたがいつも祈りを捧げるのは最初の神か、二番目の神か、それとも三番目の神か。どの神を常に信じているのか。父か。それとも子か。あるいは霊か。あなたが信じるのはどれなのか、わたしに教えてほしい。あなたがたはあらゆる言葉をもって神を信じていると言うが、実際に信じているのは自分自身の知力である。あなたがたは断じて心の中に神を持っていない。しかし頭の中には、そのような三位一体が多数あるのだ。あなたがたもそう思わないか。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 297

三段階の働きがこの三位一体の概念に従って評価されるならば、それぞれが行う働きは同じではないので、三つの神がいなければならない。あなたがたの中の誰かが三位一体は実際に存在すると言うならば、三つの位格にあるこの一つの神とは一体何か説明してみたまえ。聖なる父とは何か。子とは何か。聖霊とは何か。ヤーウェは聖なる父なのか。イエスは子なのか。それでは聖霊についてはどうか。父は霊ではないのか。子の実質も霊ではないのか。イエスの働きは聖霊の働きではなかったのか。当時のヤーウェの働きは、イエスの働きと同じ霊によって行われたのではなかったのか。神はいくつの霊を持つことができるのか。あなたの説明によると、父、子、聖霊という三つの位格は一つである。もしそうなら、三つの霊がいることになるが、霊が三ついるということは神が三ついることを意味する。となると唯一の真の神はいないことになる。このような神がどうして、神が本来備え持つ実質を持つことができるのか。神が一つしかいないことを受け入れるならば、神はどうして子を持ち、父であることができるのか。これらはすべて観念にすぎないのではないか。神は唯一であり、この神の中には一つの位格しかなく、神の霊は一つしかいない。聖書に「唯一の聖霊、唯一の神のみがいる」と書かれている通りである。あなたの言う父と子が存在するかどうかにかかわらず、結局は唯一の神のみがあり、あなたがたが信じる父、子、聖霊の実質は聖霊の実質である。言い換えれば、神は一つの霊であるが、万物の上に立つことができるのはもちろん、肉体になり、人々の中で暮らすこともできる。神の霊はすべてを含んでおり、どこにでも存在する。神は同時に肉体の形になり、全宇宙に、そしてその上に存在することができる。神は唯一の真の神であるとすべての人が言うからには、神は一つだけで、誰も意のままに分けることはできない。神は唯一の霊で、唯一の位格である。そしてそれが神の霊である。あなたが言うように、それが父、子、聖霊であるならば、三つの神ではないのか。聖霊は一つの事柄であり、子は別の事柄、さらに父も別の事柄である。彼らの位格が異なり、彼らの実質が異なるのだから、どうしてそれぞれが唯一の神の一部分でありえようか。聖霊は霊である。これは人にとって理解しやすい。もしそうなら、父はさらにいっそう霊である。父は地上に降臨したことも、肉体になったこともない。父は人の心の中でヤーウェ神であり、確かに霊でもある。では父と聖霊の関係は何か。それは父と子の関係なのか。それとも聖霊と父の霊の関係なのか。それぞれの霊の実質は同じなのか。それとも聖霊は父の道具なのか。これはどうすれば説明できるのか。それならば、子と聖霊の関係は何なのか。それは二つの霊の関係なのか。それとも人と霊の関係なのか。これらはすべて説明できない事柄である。彼らがみな一つの霊ならば、三つの位格という話はあり得ない。彼らはただ一つの霊を有しているからである。彼らがはっきり異なる位格であるならば、霊の力も異なるものになり、断じてただ一つの霊ではあり得ないはずだ。父、子、聖霊というこの概念は非常に不合理である。これは神を分割し、それぞれが地位と霊を持つ三つの位格に分けてしまう。それでどうして神は一つの霊、一つの神でいられようか。教えて欲しい。天地と万物は父、子、あるいは聖霊によって造られたのか。中には、彼らが一緒になって天地を創造したのだと言う人がいる。それでは誰が人類を贖ったのか。聖霊か、子か、それとも父なる神か。人類を贖ったのは子であると言う人もいる。それでは実質上、子とは誰か。彼は神の霊の受肉ではないのか。受肉した神は天の神を、被造物たる人間という観点から、父の名で呼ぶ。イエスが聖霊による受胎から生まれたことを、あなたは知らないのか。彼の中には聖霊がいる。あなたが何と言おうと、彼は神の霊の受肉なので、やはり天の神と一つである。子というこの考えは断じて真実ではない。働きのすべてを実行するのは一つの霊である。働きを実行するのは神自身、すなわち神の霊だけである。神の霊とは誰か。聖霊ではないのか。イエスにおいて働くのは聖霊ではないのか。働きが聖霊(すなわち神の霊)によって実行されなかったのなら、彼の働きが神自身を表すことができただろうか。イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物たる人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉をまとい、被造物たる人の外見をしていたためであった。彼の中に神の霊があったとしても、外見は普通の人だった。言い換えれば、彼は、イエス自身を含めたすべての人が言うところの「人の子」になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、イエスが父の名で天の神を呼ぶことは、あなたがたが最初天の神を父と呼んだ時と同じだった。彼は被造物たる人の観点からそうしたのだ。イエスが覚えるようにとあなたがたに教えた主の祈りをまだ覚えているか。「天にいますわれらの父よ……」イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだのだが、あなたがた全員と対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたがたが天の神を父の名で呼んだので、イエスは自分のことを、あなたがたと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていた。もしあなたがたが神を「父」と呼ぶならば、これはあなたがたが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑に先立ち、イエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのは、もっぱら彼の謙虚さと従順さによるものだった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけたからといって、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっているということであり、彼が別の位格であるということではない。別個の位格の存在というのは間違った考えである。磔刑以前、イエスは肉体の限界に縛られた人の子であり、霊の権威を十分には所有していなかった。そのため、彼は被造物の視点からのみ父なる神の意志を求めることができた。ゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と三度祈ったときのように。十字架にかけられる前、彼はユダヤ人の王にすぎなかった。彼はキリスト、人の子であり、栄光の体ではなかった。そのため、彼は被造物の観点から神を父と呼んだのである。さて、神を父と呼ぶ者はすべて子であると言うことはできない。仮にそうなら、ひとたびイエスがあなたがたに主の祈りを教えたら、あなたがたはみな「子」になっていたのではないだろうか。まだ納得しないなら、教えてほしい。あなたがたが父と呼ぶのは誰なのか。イエスのことだと言うのなら、あなたがたにとってイエスの父は誰なのか。イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切だったのであり、それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたがたが神を父と呼ぶときの、創造主と被造物との関係である。父、子、そして聖霊という三位一体のこの考えが成り立つ時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しないのだ。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 298

これでほとんどの人は、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り……」(創世記 1:26)という創世記の神の言葉を思い起こすかもしれない。神が「われわれのかたちに……人を造り」と言ったことから考えると、「われわれ」は二人以上を示す。神が「われわれ」と述べたのだから、神は一つだけではない。このようにして、人はそれぞれ異なる抽象的な位格について考え始め、これらの言葉から父、子、聖霊という考えが生じた。では、父とはどういうものか。子とはどういうものか。そして聖霊とはどういうものか。ひょっとして今日の人類は、三つを合わせて一つの姿に造られたのか。それで、人の姿は父、子、あるいは聖霊の姿に似ているのか。人は神のどの位格の姿をしているのか。人が抱くこの考えはまったく間違っており、馬鹿げている。これは一つの神をいくつかの神に分けることしかできない。モーセが創世記を記述したのは、創世に続いて人類が造られた後のことだった。そもそも最初、世界が始まったとき、モーセは存在していなかった。モーセが聖書を記述したのはそれからずいぶん後のことなので、天なる神がいったい何を語ったのかを、モーセがどうして知り得ただろうか。神がどのように世界を創造したかについて、彼は少しも知らなかった。旧約聖書の中に、父、子、聖霊についての言及は一切なく、唯一の真の神、すなわちヤーウェがイスラエルで働きを行ったことにしか触れていない。神は時代が変わるにつれて異なる名前で呼ばれているが、そのことは、それらの名前がそれぞれ異なる位格を指しているという証明にはならない。仮にそうなら、神には無数の位格があることにならないだろうか。旧約聖書に書かれていることは、ヤーウェの働き、つまり、律法の時代に開始する神自身の働きの段階である。それは、神が語るとそのようになり、神が命じるとその通りになるという神の働きだった。ヤーウェは、自分は働きを実行するために来た父であるとは決して言わなかったし、子が人類を贖うために来ると預言することもなかった。イエスの時代になったとき、神は人類を残らず贖うために受肉したと言われただけで、来たのは子であるとは言われなかった。各時代は同様ではないし、神自身が行う働きも異なるので、神は異なる領域の中で働きを実行する必要がある。このようにして、神が表す身分も異なるのである。ヤーウェはイエスの父だと人は信じているが、このことは実のところ、イエスによって認められておらず、イエスは次のように語った。「わたしたちは決して父と子として区別されなかった。わたしと天なる父は一つである。父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある。人は子を見るとき、天なる父を見ているのである」。すべてが語られたとき、父であろうと子であろうと、彼らは一つの霊であり、別々の位格に分けられることはない。ひとたび人が説明を試みると、それぞれ異なる位格や、父、子、霊の関係で、問題は複雑になる。人が個別の位格について話すとき、これは神を物質化しているのではないか。人は位格を第一、第二、第三とランク付けさえしている。これはどれも人の想像に過ぎず、言及する価値はなく、まったく非現実的である。あなたが誰かに「神はいくつあるのか」と尋ねたら、神は父、子、聖霊の三位一体で、唯一の真の神だという答えが返ってくるだろう。さらに「父とは誰か」と尋ねると、「父は天なる神の霊である。父はすべてを司り、天の主である」という答えが返ってくるだろう。「では、ヤーウェは霊なのか」と尋ねれば、答えは「そうだ」だろう。次に「子とは誰なのか」と尋ねたら、もちろんイエスが子である、という答えが返ってくる。「では、イエスの経歴はどうなっているのか。どこからイエスは来たのか」と尋ねれば、答えは「イエスは聖霊による受胎を通してマリアの子として生まれた」となるだろう。では、イエスの実質も霊ではないのか。イエスの働きも聖霊を表しているのではないか。ヤーウェは霊であり、イエスの実質も霊である。終わりの日の今、それがやはり霊であることは言うまでもない。どうしてそれらが異なる位格であり得ようか。それは単に、神の霊が異なる観点から霊の働きを実行しているだけではないのか。このように、位格の間に区別はない。イエスは聖霊によって宿り、彼の働きがまさしく聖霊の働きだったことに疑いの余地はない。ヤーウェによって行われた第一段階の働きにおいて、神は肉になることも、人の前に現れることもなかった。そのため、人は神の姿を目の当たりにしなかったのである。いかに大きくとも、いかに背が高くとも、それはやはり霊であり、最初の時に人を造った神自身である。つまり、それは神の霊だったのだ。それは雲の合間から人に語りかけ、単なる霊に過ぎず、誰もその姿を目撃しなかった。神の霊が肉となり、ユダヤの地で受肉した恵みの時代になって初めて、人はユダヤ人として受肉した姿を見た。ヤーウェに見るべきところは何もなかったが、神は聖霊によって、すなわちヤーウェ自身の霊によって受胎されたので、イエスはやはり神の霊の化身として生まれた。人が最初に見たものは、イエスの上に鳩のように降りてくる聖霊だった。それはイエスだけに限定された霊ではなく、むしろ聖霊だった。では、イエスの霊を聖霊から切り離すことはできるのか。イエスが神の子イエスであり、聖霊は聖霊であるなら、どうしてこの二つが一つになり得ようか。もしそうなら、働きを行うことはできなかったはずだ。イエスの中の霊、天にある霊、ヤーウェの霊はすべて一つである。それは聖霊、神の霊、7倍に強化された霊、すべてを包みこむ霊と呼ばれる。神の霊は多くの働きを実行することができる。それは世界を創造することができ、地球に洪水を起こして世界を滅ぼすこともできる。それは全人類を贖うことができ、そのうえ、全人類を征服し、破滅させることもできる。この働きはすべて神自身によって実行され、神の位格のいずれかが神の代わりに行なったということはありえない。神の霊はヤーウェ、イエス、ならびに全能者という名で呼ぶことができる。それは主であり、キリストである。また人の子になることもできる。天にも地にもいる。天上の高みにも、群衆の中にもいる。天と地の唯一の主人である。天地創造から今に至るまで、この働きは神自身の霊によって実行されてきた。天における働きであろうと、肉体での働きであろうと、すべては神の霊によって実行される。すべての被造物は、天であろうと、地上であろうと、神の全能の手のひらの中にある。このすべては神自身の働きであり、神に代わって行うことは誰にもできない。天において、神は霊であるが、神自身でもある。人々のもとでは、神は肉体であるが神自身のままである。神は何十万もの名前で呼ばれるかもしれないが、それでも神は神であり、神の霊の直接的な表現である。神の磔刑による全人類の贖いは神の霊の直接的な働きだったし、終わりの日にすべての国、すべての地に向けた宣言もそうである。いかなる時も、神は全能で唯一の真の神、すべてを包みこむ神自身としか呼ぶことができない。はっきりと異なる位格は存在しないし、ましてや父、子、聖霊というこの考えも存在しない。天にも地にも神はただひとつである。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 299

神の経営計画は六千年に及び、働きの違いに応じて三つの時代に分けられる。第一の時代は旧約の律法の時代である。第二は恵みの時代で、第三は終わりの日の時代、すなわち神の国の時代である。時代ごとに異なる身分が表されているが、これは単に働きの違い、つまり働きの要件によるものである。律法の時代における第一段階の働きはイスラエルで行われ、贖いの働きを完結させる第二段階はユダヤの地で行われた。贖いの働きのため、イエスは聖霊の受胎を通して、ひとり子として生まれた。それはすべて働きの要件のためである。終わりの日、神は自身の働きを異邦人の国々まで広げてそこの人々を征服し、神の名が彼らの間でも偉大になることを望んでいる。神は人を導き、すべての真理を理解してそれに入れるようにすることを望んでいる。この働きはすべて一つの霊によって行われる。神はさまざまな立場から働きを行うかもしれないが、働きの本質と原則は変わらない。行われた働きの原則と本質をよく見れば、どれも一つの霊によってなされたことがわかるだろう。それでもまだ、「父は父であり、子は子であり、聖霊は聖霊であり、そして最後にそれらは一つにされるだろう」と言う人もいるかもしれない。では、それらを一つにするにはどうすればよいのか。どうして父と聖霊を一つにすることができるのか。それらがもともと二つなら、どのように結合しても、二つのままではないだろうか。それらを一つにすることについて話すとき、それは単に二つの別々の部分を結合し、全体で一つにすることではないのか。しかし、それらは一つにされる前、二つの部分ではなかったのか。それぞれの霊には別個の実質があり、二つの霊を一つにすることはできない。霊は物質ではなく、物質界の他の何物とも異なっている。人々が理解するところによると、父は一つの霊であり、子は別の霊で、聖霊もさらに別の霊である。ゆえに、三つの霊は三つのコップに入っている水のようなもので、混ざり合って一つの全体になる。そうすれば三つが一つになるのではないか。これはまったく間違いの、実にばかげた説明である。これは神を分割しているのではないか。どうして父、子、聖霊をすべて一つにできるのか。これらはそれぞれ異なる性質を持つ三つの部分ではないのか。「イエスは自分の愛する子であると、神ははっきり述べなかったか」と言う人たちもいる。イエスは神の愛する子、神が喜びを覚える者である――これは確かに神自身によって語られた。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたに過ぎない。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。あなたにわかるだろうか。「わたしが父におり、父がわたしにおられる」というイエスの言葉は、両者が一つの霊であることを指し示しているのではないのか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないのか。実際には、彼らはやはり一つであり、いずれにせよ、神が自身の証しをしているに過ぎないのである。時代の変化、働きの要件、神の経営計画における段階ごとの違いのために、人が神を呼ぶ名前も違ってくる。第一段階の働きを行うために来たとき、神はイスラエル人の羊飼いであるヤーウェとしか呼ばれなかった。第二段階において、受肉した神は主およびキリストとしか呼ばれなかった。しかし当時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子であるとは一切言わなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。神がひとり子を持つなどどうしてあり得ようか。それでは神が人になってしまったはずではないか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じたが、それは単に天と地に別れていたためである。イエスは肉体の観点から祈った。イエスは普通の人間性を持つ肉体をまとっていたので、肉体の観点から「わたしの外観は被造物のそれである。わたしは肉をまとってこの世に来たので、今や天からは遠く、遠く離れている」と言ったのである。そのため、イエスは肉体の観点からしか父なる神に祈ることができなかった。これがイエスの本分であり、受肉した神の霊が備えていなければならないものだった。イエスが肉体の観点から父に祈ったというだけで、彼が神でなかったと言うことはできない。イエスは神の愛する子と呼ばれたが、それでも神自身だった。彼は霊の受肉に他ならず、実質はやはり霊だからである。イエスが神自身ならばなぜ祈ったのかと、人は疑問に思う。これは、イエスが受肉した神であり、肉体の中に生きる神であり、天なる霊ではなかったからである。人が理解するところ、父、子、聖霊はすべて神である。その三つをすべて合わせて一つにしたものだけが唯一の真の神と見なすことができ、このようにして神の力は並外れて大きくなる。そうでなければ神は七倍に強化された霊ではない、と言う人々がいる。子が到来してから祈ったとき、祈りはその霊に向かってなされた。実際のところ、彼は被造物の観点から祈っていた。肉体は完全なものではないからであり、彼もまた肉体になったとき、完全ではなく数多くの弱点があり、肉体において働きを行った際、大いに難儀した。そのため、彼は磔刑に先立って父なる神に三度祈り、それ以前にも何回も祈ったのである。彼は弟子たちのあいだで祈り、山上で一人で祈り、釣り船の上で祈り、大勢の群衆の中で祈り、パンを割きながら祈り、人々を祝福するときに祈った。彼はなぜそうしたのか。彼が祈ったのは霊に向かってである。肉体の観点から霊に向かって、天なる神に向かって祈っていたのだ。したがって、人の立場から見れば、イエスはその働きの段階で神の子になった。しかし現在の段階で、神は祈らない。それはなぜか。神がもたらすものは言葉の働きであり、言葉による裁きと刑罰だからである。祈りの必要はなく、神の職分は話すことだ。十字架にかけられてなどいないし、人によって権力者たちに引き渡されることもない。神はただ自身の働きを行うだけである。イエスが祈ったとき、彼は天国が来るように、父なる神の旨が行われるように、そして働きが訪れるようにと、父なる神に祈っていた。現在の段階で、天国はすでに降臨したのだが、神はそれでも祈る必要があるのか。神の働きは時代を終らせることであり、新しい時代はこれ以上ない。それなのに、次の段階のために祈る必要があるというのか。そんな必要などないはずだ。

人の説明には数多くの矛盾がある。実際、これらはすべて人の観念であり、さらなる精査がなければ、あなたがたはみな、それらは正しいと信じるだろう。あなたがたは、三位一体の神という考えが人の観念にすぎないことを知らないのか。人の認識に十分で完全なものはない。いつも不純物があり、人はあまりに多くの考えを抱いている。これは、被造物が神の働きを説明するのは到底不可能であることを立証している。人の心の中にはあまりにも多くのものがあり、どれも論理と思考から来ており、真理と矛盾している。あなたの論理は神の働きを完全に分析できるだろうか。ヤーウェのすべての働きについて識見を得ることができるだろうか。そのすべてを見通すことができるのは人であるあなたなのか、それともとこしえからとこしえまで見ることができる神自身なのか。とこしえの昔からとこしえの未来まで見ることができるのはあなたなのか、それともそれができるのは神なのだろうか。あなたはどう思うか。どうしてあなたが神を説明するのに値するのか。あなたの説明の基礎は何か。あなたは神なのか。天地と万物は神自身によって造られた。これをしたのはあなたではないのだから、なぜあなたは正しくない説明をしているのか。さて、あなたは三位一体の神の存在を信じ続けるのか。それはあまりにも厄介だとは思わないのか。三つではなく一つの神を信じるのが最善のはずだ。軽いのがもっともよい。主の荷は軽いからである。

『神の出現と働き』「三位一体は存在するのか」(『言葉』第1巻)

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