神の性質、および神が所有するものと神そのもの
日々の神の御言葉 抜粋 232
わたしは義であり、誠実であり、人の心の奥底を探る神である。わたしは誰が正しく誰が不正かをただちに暴く。恐れることはない、すべてはわたしの時に従って行われる。わたしを心から求めているのは誰か、そしてそうでないのは誰かを、一人一人教えよう。あなたがたがわたしの前に来るときは、ただ注意してよく食べ、よく飲み、わたしに近づくだけでよい。わたしが自らの働きを行う。すぐに成果を得ようと焦ってはならない。わたしの働きは一度にすべて成し遂げられるものではない。この働きにはわたしの段階と知恵があり、そのためわたしの知恵を露わにできるのだ。わたしの手で何がなされるかをあなたがたに見せよう――それは悪を罰し、善に報いることだ。わたしは決して誰もひいきしない。ただわたしを心から愛する者を心から愛し、わたしを心から愛さない者には常に怒りをもって臨む。わたしが真の神であり、人間の心の奥底を探る神であることを、彼らが永遠に忘れないように。本音と建前を使い分けてはならない。わたしにはあなたのすることがすべてはっきりと見えている。他の人を欺くことはできても、わたしを欺くことはできない。わたしにはすべてがはっきりと見えているのだ。何も隠すことはできない。すべてはわたしの手の中にある。小賢しい計算で有利な結果を得られたからと言って、自分がとても賢いなどと思ってはならない。言っておくが、人間が何千何万と計画を立てたところで、最終的にわたしの手からは逃れられないのだ。万事万物はわたしの手に支配されているのだから、一人の人間など尚更である。わたしを避けたり、隠れたり、おだてようとしたり、隠し事をしたりしてはならない。わたしの栄光に満ちた顔貌、怒り、そして裁きが公にあらわされていることが、あなたにはまだわからないのか。わたしを心から求めない者はみな、ただちに容赦なく裁かれる。わたしの憐れみはすでに尽きた。もうこれ以上偽善者であることをやめ、狂気じみた無謀な生き方を捨て去りなさい。
我が子よ、用心して、もっとわたしの前で長く過ごしなさい。そうすれば、わたしがあなたを引き受けよう。恐れることなく、わたしの鋭い諸刃の剣を携え、わたしの旨に沿って、最後までサタンと戦い抜きなさい。わたしがあなたを守る、心配することはない。隠されているものはすべて開かれ、露わにされる。わたしは光を放つ太陽であり、すべての暗闇を容赦なく照らす。わたしの裁きは余すところなく下されており、教会が戦場となっている。あなたがたはみな支度を整え、全身全霊で最後の決戦に臨まねばならない。わたしは必ずあなたを守ろう、わたしのために善戦し勝利を収められるように。
気をつけなさい――最近の人々の心は偽りに満ちていて、何をするか予測がつかず、人間には他人の信頼を勝ち取る術がないからだ。完全にあなたがたの味方なのはわたしだけだ。わたしには偽りがない。だから、ただわたしを頼りなさい。わたしの子らは最後の決戦で必ずや勝利を収める。サタンは間違いなく姿を表し、死闘を繰り広げるだろう。恐れてはならない。わたしがあなたの力であり、あなたのすべてなのだ。物事を何度も考えるのはやめなさい、あなたはそれほど多くの考えに留意することはできない。前にも言ったが、わたしはこれ以上あなたがたの手を引いて進むことはしない。時が迫っているからだ。これ以上あなたがたの耳を捕らえて、毎回言い聞かせている時間はない。そんなことはできないのだ。ただ、戦いの準備を整えておきなさい。わたしがすべての責任を取る。すべてはわたしの手の中にある。これは決死の戦いであり、一方は必ず滅びることになる。しかし、このことははっきり理解していなければならない。わたしは永遠の勝利者であり、打ち負かされることはなく、サタンが確実に滅びるということだ。これがわたしのやり方であり、わたしの働きであり、わたしの旨であり、わたしの計画なのだ。
もう成し遂げられた。すべては成し遂げられたのだ。臆病にならず、恐れずにいなさい。わたしとあなた、そしてあなたとわたしは、永遠の王となるのだ。わたしの言葉は一度語られると決して変わることがなく、出来事はすぐにあなたがたに降りかかるだろう。用心していなさい。わたしの言葉の一つ一つをよく考えなさい、これ以上曖昧なままでいてはならない。はっきりと理解しなくてはならないのだ。覚えておきなさい、できるだけ多くの時間をわたしの前で費やすことだ。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第四十四章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 233
わたしは悪を行う者、権力を振るう者、そして神の子らを迫害する者たちを、罰する行動を開始した。これからは誰であれ、心の中でわたしに逆らう者には、必ずわたしの行政命令の手が下るだろう。このことを知りなさい。これはわたしの裁きの始まりであり、誰かに慈悲が示されることも、誰かが容赦されることも一切ない。わたしは義を実践する公平な神だからだ。このことは皆が認識しておいたほうがよい。
わたしは悪を行う者を罰したいわけではない。それはむしろ、彼らが自身の悪行によって自らにもたらした報いなのだ。わたしは誰をも急いで罰することはせず、誰をも不当に扱うことはなく、すべての者に対して義である。わたしはわたしの子らを間違いなく愛し、わたしに反抗する悪人たちを間違いなく憎む。これがわたしの行動の背後にある原則である。あなたがた一人一人が、わたしの行政命令について何らかの識見を得なければならない。そうでないと、わずかな恐れも持たず、わたしの前で不注意に行動することになる。さらに、わたしが何を完全にしたいのか、何を成し遂げたいのか、何を得たいのか、またわたしの国がどんな人間を必要としているのかも理解できないことだろう。
わたしの行政命令は次のとおりである。
1. 誰であれ、心の中でわたしに逆らう者は裁かれる。
2. わたしに選ばれた者たちは、間違った考えを持つとただちに懲らしめられる。
3. わたしを信じない者は、脇へ置いておき、最後の最後まで不注意に話し行動させておく。そして最終的に、徹底的に罰し懲らしめることになる。
4. わたしはいかなる時も、わたしを信じる者を守り世話する。そしていかなる時も、救いを通して彼らにいのちを与える。その人々はわたしの愛を得ることになり、決して躓いたり、道を見失ったりすることはない。彼らの持つどんな弱さもただ一時的なものとなり、わたしは決してそれらを思い出さない。
5. 信じているように見えても本当は信じてない者たち、すなわち神がいることは信じているがキリストを求めはせず、かといって抵抗もしない者たちは、最も惨めな種類の人々である。わたしは自らの業を通して、彼らにはっきりと理解させる。そのような人々はわたしの行為を通して救い、取り戻すことになる。
6. 長子たち、すなわちわたしの名を最初に受け入れた者たちは、祝福されることになる。あなたがたには必ずや最高の祝福を授け、それを心ゆくまで楽しめるようにしよう。誰一人それを妨げることはないだろう。これはすべて、あなたがたのために完全に用意されている。これがわたしの行政命令だからだ。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第五十六章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 234
わたしの言葉を読み、それが成就すると信じている者は幸いである。わたしは決してあなたを不当に扱わず、あなたが信じていることをあなたの中で成就させる。これがあなたに授けられるわたしの祝福である。わたしの言葉は一人一人の中に隠されている秘密を突く。誰もが致命傷を負っており、わたしはそれを癒す良き医者である。ただわたしのところへ来ればよい。なぜわたしが、将来は悲しみも涙もなくなると言ったと思うのか。これがその理由である。わたしにあってはすべてが成し遂げられるが、人間にあってはすべてが堕落し虚しく、人を欺くものだ。わたしの前であなたは必ずやすべてを受け取ることになり、想像もできなかったあらゆる祝福を確かに目にしかつ享受できる。わたしの前に来ない者は間違いなく反抗的であり、確実にわたしに抵抗する者だ。わたしは決して彼らを簡単に容赦はしない。この種の人間は厳しく懲らしめる。覚えておきなさい。人々はわたしの前に来れば来るほど、より多くを得ることになるが、それは単なる恵みである。後にはさらに大きな祝福を受けることになるだろう。
世界の創造以来、わたしはこの一群の民、すなわち今日のあなたがたを、予め定めて選び始めた。あなたがたの気質、素質、外見、霊的背丈、生まれた家族、仕事、結婚――髪や肌の色、生まれた時間さえも含むあなたのすべては、わたしの手によって定められたのである。あなたが日々為すことや出会う人たちも、わたしの手によって定められたのであり、もちろん今日あなたがわたしの前に来たという事実も、言うまでもなくわたしの采配である。混乱に陥ることなく、落ち着いて前進しなさい。今日わたしがあなたに享受させるのは、あなたにふさわしい取り分であり、それは創世のときからわたしが予定してきたものだ。人間はみな非常に極端で、過度に強情かまったくの恥知らずのどちらかだ。彼らはわたしの計画と采配に従って物事に対処することができない。そんなことはもう止めなさい。わたしにあっては、すべてが解放されている。自分自身を縛ってはならない、そうでないとあなたのいのちに損失が生じることになる。このことを覚えておきなさい。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十四章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 235
わたしは唯一無二の神自身であり、さらに唯一の神の本体である。またそれ以上に、わたしという肉全体が、神の完全な顕現なのだ。わたしを畏れない者、その目に反抗を表す者、反逆する言葉を話す者は、誰でも必ずやわたしの呪いと怒りによって死ぬだろう(わたしの怒りによって呪いが引き起こされるのだ)。さらに、わたしに忠誠や子としての愛を示さず、わたしをごまかそうとする者は、必ずやわたしの憎しみによって死ぬであろう。わたしの義と威厳と裁きは永遠に続いていく。当初、わたしは愛と憐れみに満ちていたが、それはわたしの完全な神性の性質ではない。義、威厳、そして裁きこそが、完全な神自身であるわたしの性質をなすものなのだ。恵みの時代、わたしは愛と憐れみに満ちていた。わたしは終えなければならない働きのために慈愛と憐れみを持っていたが、その後はそうしたものは必要なかったのだ(そしてそれ以降は一切必要ない)。すべては義と威厳と裁きであり、それがわたしの普通の人間性と完全な神性が一体となった完全な性質なのだ。
わたしを知らない者たちは底なしの穴で滅びるが、わたしのことを確信している者たちは永遠に生き、わたしの愛の中で世話され守られることになる。わたしが一言発した瞬間、全宇宙と地の隅々までが震える。わたしの言葉を聞いて恐れ慄かない者がいるだろうか。畏敬の念に満たされずにいられる者がいるだろうか。わたしの業からその義と威厳を知ることができない者がいるだろうか。そしてわたしの業の中に、わたしの全能と知恵を見ることができない者がいるだろうか。注意を払わない者は、誰であれ必ず死ぬであろう。なぜなら注意を払わない者は、わたしに抵抗する者であり、わたしを知らない者だからだ。彼らは大天使であり、最も理不尽な者である。自分自身をよく吟味しなさい。理不尽で、独善的で、自惚れていて、傲慢な者は誰であれ、間違いなくわたしの憎しみの対象であり、必ず滅びることになるのだ。
わたしは今、わたしの国の行政命令を布告する。すべてがわたしの裁きの内にあり、すべてがわたしの義の中にあり、すべてがわたしの威厳の中にある。わたしはすべての者に対して義を実践する。わたしを信じると言いながら心の奥でわたしに背く者や、心でわたしを捨てた者は追放されることになるが、すべてはわたしの時に応じて行われる。人に知られぬようにわたしのことを皮肉を込めて話す者は、ただちに死ぬであろう(彼らは霊も魂も肉体も滅びることになる)。わたしの愛する者たちを弾圧したり冷遇したりする者は、わたしの憤りによってただちに裁かれるだろう。つまり、わたしの愛する者たちに嫉妬心を抱き、わたしのことを義でないと思う者は、わたしの愛する者たちに引き渡され、裁かれることになる。品行方正な者、質素な者、正直な者(知恵がない者も含む)、そしてひたむきな誠実さでわたしに尽くす者は、みなわたしの国に留まる。訓練を受けていない者たち、つまり正直だが知恵と見識に欠けている者たちは、わたしの国で権力を持つことになる。しかし彼らも取り扱かわれ打ち砕かれてきたのだ。彼らが訓練を受けていないというのは絶対的なことではなく、むしろそのことを通して、わたしが全能性と知恵をすべての者に示すのだ。今もわたしを疑う者はすべて追放される。わたしはその中の一人も欲さない(このような時にまだわたしを疑っている者は非常に忌まわしい)。わたしは全宇宙にわたって行う業により、わたしの行為の素晴らしさを誠実な人々に示し、それによって彼らの知恵、見識、識別力を高める。そして不正直な人々は、わたしの驚くべき業によって一瞬のうちに滅ぼされる。最初にわたしの名を受け入れた長子たち(あの聖く穢れなき正直な人々)は皆、真っ先に神の国に入り、わたしと共に万国万民を支配し、神の国で王として治め、万国万民を裁くことになる(これは神の国のすべての長子たちを意味し、それ以外の者ではない)。万国万民の中で裁きを受けて悔い改めた者は、わたしの国に入り、わたしの民となる。一方、頑なで悔い改めない者たちは、底なしの穴に投げ込まれる(そして永遠に滅ぼされる)。神の国での裁きは最後の裁きとなり、それによってわたしは世界を完全に清めることになる。それ以降はもはやどんな不正も、悲しみも、涙も、嘆息もなくなり、そしてそれ以上に、世界も存在しなくなる。すべてはキリストの現れとなり、すべてがキリストの国となるのだ。何という栄光か!何という栄光だろうか!
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十九章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 236
今、わたしはあなたがたに行政命令を公布する(これは公布したその日から有効であり、人々に応じてそれぞれの刑罰を割り当てる)。
わたしは約束を守り、すべてはわたしの手の中にある。疑う者は誰でも必ず殺される。考慮の余地はない。彼らはただちに根絶やしにされ、わたしの心からは嫌悪が取り除かれる。(これ以降、殺されるものは決してわたしの国に属する者ではなく、サタンの子孫に違いないことが確定する。)
あなたがたは長子として自分の立場を守り、自分の本分をしっかりと尽くし、他人のことに首を突っ込んではならない。あなたがたはわたしの経営(救いの)計画のために身を捧げ、行く先々でわたしをよく証しし、わたしの名を賛美しなければならない。恥ずべき行いはせず、わたしの子らやわたしの民すべての模範となりなさい。一瞬たりとも慎みをなくしてはならない。誰の前にも常に長子という身分で現れ、卑屈な態度をせず、胸を張って堂々と歩かなければならない。あなたがたにはわたしの名前を賛美し、それを汚さないよう求める。長子たちはそれぞれ自分の役割を持っており、何でもしてよいわけではない。これはわたしがあなたがたに与えた責任であり、それを逃れてはならない。あなたがたはわたしが委ねたことを全身全霊で、全力を用いて果たすことに専念しなければならない。
この日から長子たちには、世界中の至る所でわたしの子らとわたしの民をすべて牧養するという本分が委ねられる。それを全身全霊で遂行できない者は、誰であろうとわたしが罰するだろう。これはわたしの義である。わたしは長子たちでさえ、大目に見ることも容赦することもない。
わたしの子らかわたしの民の中に、わたしの長子の誰かを馬鹿にしたり侮辱したりする者がいれば、わたしはその者を厳しく罰するだろう。わたしの長子たちはわたし自身を表しており、誰かが彼らに対してすることは、わたしに対してすることでもあるからだ。これはわたしの行政命令の中でもっとも厳しいものである。わたしの子らや民の中にこの命令に背く者がいれば、わたしは長子たちに、わたしの義を思うさま実践させる。
わたしを軽薄に扱い、わたしの食べ物や衣服や睡眠にだけ注目する者、わたしの外面的事柄だけに関心を向けてわたしの重荷を考慮しない者,自分自身の役目をきちんと果たすことに注意を払わない者を、わたしはみな着々と見捨てていく。これは聞く耳を持つ者すべてに向けられている。
わたしへの奉仕を終えた者はみな、素直に粛々と引き下がらねばならない。注意しなさい、さもないとわたしはあなたを懲らしめることになるだろう。(これは補足的な命令である。)
わたしの長子たちは今から鉄の棒を手に取り、わたしの権威を示す行動を始め、すべての国家や民族を統治し、すべての国家や民族の間を歩き、わたしの裁きと義と威厳をすべての国家や民族の中で遂行することになる。わたしの子らとわたしの民は止むことなくわたしを畏れ、褒め称え、わたしに喝采を送り、わたしを賛美する。わたしの経営(救いの)計画は完遂され、長子たちはわたしと共に支配することができるからである。
これはわたしの行政命令の一部である。これ以降、わたしは働きの進み具合に応じて、あなたがたに行政命令を告げる。この行政命令から、あなたがたはわたしが行う働きの速度と、その働きがどの段階に達したかがわかるだろう。これは確認である。
わたしはすでにサタンを裁いた。わたしの旨が妨げられることはなく、わたしの長子たちがわたしと共に栄光を得たため、わたしはこの世とサタンに属するすべてのものに対し、わたしの義と威厳をすでに行使した。わたしはサタンには何の労力も払わず、目を留めもしない(サタンはわたしと話をするにも値しないからだ)。わたしは自分のしたいことをし続けるだけだ。わたしの働きは一歩ずつ順調に進展し、わたしの旨は地上のどこでも妨げられない。このことはサタンをある程度恥じ入らせ、サタンは完全に滅ぼされたが、それ自体でわたしの旨が成就されたわけではない。わたしは長子たちにも、わたしの行政命令を彼らに対して実行させる。わたしがサタンに見せるものは、一方では奴に対する怒りだが、他方ではわたしの栄光も目にさせる(つまり、わたしの長子たちをサタンの屈辱のもっとも顕著な証人として見せつける)。わたしはサタンを直接罰することはなく、長子たちにわたしの義と威厳を遂行させる。サタンは以前わたしの子らを虐待し、迫害し、抑圧したので、今日サタンの奉仕が終わった後、わたしは成熟した長子たちにサタンを懲らしめることを許す。サタンは崩壊に対して無力であった。世界中のあらゆる国家が麻痺していることがそのもっともよい証拠であり、戦っている人々や交戦中の国々は、サタンの王国が崩壊したことを明らかに示している。わたしが過去にいかなるしるしも不思議も示さなかったのは、徐々にサタンを辱め、わたしの名前を賛美させるためだった。サタンに完全にとどめを刺したとき、わたしは自分の力を示し始める。わたしの言うことは実現し、人間の観念と一致しない超自然的なことが成就するだろう(これはまもなくやって来る祝福のことだ)。わたしは実際の神自身であり何の規則もなく、経営(救いの)計画の変化に応じて語っているため、わたしが過去に言ったことは必ずしも現在に当てはまるとは限らない。自分の観念に固執するのはやめなさい。わたしは規則に従う神ではなく、わたしにとってはすべてが自由で、超越的で、完全に解放されている。昨日語られたことは今日はもう古臭いかもしれず、あるいは今日は捨て去られるかもしれない(しかしわたしの行政命令は公布されて以来決して変わることはない)。これらがわたしの経営(救いの)計画の段階である。規則に固執してはいけない。毎日新しい光と新しい啓示があり、それがわたしの計画なのだ。毎日、わたしの光があなたの中にあらわされ、そしてわたしの声が全宇宙に発せられるだろう。わかるだろうか。これがあなたの本分であり、わたしがあなたに委ねた責任である。あなたはそれを一瞬たりとも怠ってはならない。わたしは最後まで、わたしが認める人々を使う。このことは決して変わらない。わたしは全能の神なので、どの種類の人がどんなことをするべきか、どの種類の人にどんなことができるかを知っている。これがわたしの全能性である。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八十八章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 237
わたしが語るすべての文は権威と裁きを備えており、誰もわたしの言葉を変えることはできない。わたしの言葉が発せられると、物事は間違いなくその言葉に従って成し遂げられる。それがわたしの性質である。わたしの言葉は権威であり、それを改変する者は誰であれわたしの刑罰に背いているため、打ち倒さなければならない。深刻な場合、彼らは自分自身のいのちに破滅をもたらし、冥府か底なしの穴に落ちることになる。これはわたしが人類を取り扱う唯一の方法であり、人間にそれを変える術はない――これがわたしの行政命令である。このことを憶えておきなさい。誰もわたしの行政命令に違反してはならず、物事はわたしの旨に従って行われなければならないのだ。これまでわたしはあなたがたに甘くし過ぎて、あなたがたはわたしの言葉だけに直面してきた。わたしが人々を打ちのめすことについて語った言葉は、まだ実現していない。しかし今日からはあらゆる災害(わたしの行政命令に関連する災害)が、わたしの旨に従わないすべての者たちを罰するため、次から次へと降りかかるだろう。事実の到来がなければならない、そうでないと人々はわたしの怒りを見ることができず、繰り返し放蕩に耽るだろう。これはわたしの経営(救いの)計画の一段階であり、わたしが次の段階の働きを行うやり方である。このことをあらかじめ伝えておくのは、あなたがたが過ちを犯して永遠の地獄に落ちることを避けられるようにするためだ。すなわちわたしは今日から、わたしの長子を除くすべての人々を、わたしの旨に従って適切な場所に就かせ、一人ずつ罰する。誰一人として見逃しはしない。もう一度放蕩に耽ろうとしてみるがよい。もう一度反抗しようとしてみるがよい。以前、わたしはすべての者に対して義であり感情のかけらもないと言ったが、それはわたしの性質が侵すべからざるものであることを示している。これがわたしの本体であり、誰もそれを変えることはできない。すべての人がわたしの言葉を聞き、すべての人がわたしの栄光に満ちた顔貌を見る。すべての人はわたしに完全に、そして絶対に従わなければならない――これがわたしの行政命令である。全宇宙と地の隅々に至るまで、すべての人々がわたしを賛美し、その栄光を讃えなければならない。わたしは唯一の神自身であり、神の本体であるからだ。誰もわたしの言葉や発言、話やふるまいを変えることはできない。それらはわたしだけの問題であり、太古の時代からわたしが所有してきたもので、永久に存在するからである。
『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 238
わたしの計画した働きは、一瞬もやむことなく進行している。神の国の時代に入って、あなたがたをわたしの国にわが民として移したので、新たにあなたがたに要求することがある。つまり、あなたがたの前に、この時代を統治する憲法の公布を始めるのである。
わが民と呼ばれているのだから、わたしの名に栄光をもたらさなければならない。つまり、試練の只中において証しするのである。もし誰かがわたしを騙して真実をわたしから隠そうとしたり、わたしの陰で不名誉な行為を働こうとしたりするなら、そのような者は例外なくわたしの家から追い出されて排除され、わたしに取り扱われるのを待つことになる。過去にわたしに対して不誠実かつ親不孝であって、今日再び立ち上がり、公然とわたしを裁こうとする人たちもまた、わたしの家から追い出される。わが民である人々は、わたしの負担に絶えず配慮を示し、また、わたしの言葉を知るように努めなければいけない。そうした人々だけをわたしは啓き、彼らは必ずわたしの導きと示しの下で生き、けっして刑罰を受けない。わたしの負担に配慮を示さず、自分の未来を計画することに集中する者――つまり、行動によってわたしの心を満足させることを目指さず、むしろ施しをねだる者――そうした乞食のような人々を使うことをわたしは絶対に拒む。そうした人々は、生まれたときから、わたしの負担に配慮を示すことの意味を何も知らないからである。彼らは正常な理知に欠ける人である。そうした人々は、脳の「栄養不足」に陥っていて、何か「栄養」をとるために家に帰らなければならない。わたしは、そうした人々に何の用もない。わが民の中で、すべての人はわたしを知ることを、食べる、着る、眠るといった、一瞬も忘れないことのように、最後までやり通すべき必須の本分とみなし、ついには、わたしを知ることが、食べることのように慣れ親しんだこと――何の努力もなしにする手馴れた動作になるようにしなければならない。わたしの話す言葉については、どの一言も、これ以上ないほど信頼し、完全に吸収されなければならない。おざなりの、その場しのぎであってはならない。誰であろうと、わたしの言葉に注意を払わない者は、真っ向からわたしに抵抗しているとみなされる。誰であろうと、わたしの言葉を食べない者、あるいは、知ろうとしない者は、わたしに注意を払っていない者とみなされ、すぐさま、わたしの家の戸口から掃き出される。なぜなら、わたしが以前に述べたように、わたしが望むのは大勢の人々ではなく、優秀な者だからである。百人の中から、たった一人がわたしの言葉を介してわたしを知るようになるなら、わたしは喜んでその他の者たちを捨て去り、そのたった一人を集中的に啓き照らそう。このことから、人数が多いからといって、必ずしもわたしを表現し、わたしを生きることができないことがわかる。わたしが望むのは、(実が詰まっていなくとも)麦であり、(たとえ実がいっぱいに詰まって立派に見えるものでも)毒麦ではない。追い求めることには関心がなく、怠惰な行動をする者たちは、自分から立ち去るべきである。わたしはもう彼らを見たくない。彼らがわたしの名を汚し続けることのないように。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第五章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 239
あなたは我が家の民の一人なのだから、また、わたしの国に忠実なのだから、自分が行なうすべてのことにおいて、わたしの求める基準に従わなければならない。わたしは、あなたが漂う雲以上のものであることは求めないが、あなたが輝く雪となってその実質をもつこと、またそれ以上に、その価値をもつことを求める。わたしは聖い地から来るのだから、名前だけで実質を伴わない蓮とは違う。蓮は聖い地ではなく、沼地から来るからである。また、新たな天が地に降臨し、新たな地が空に広がる時はまさに、わたしが正式に人間たちの中で働く時でもある。人間の中の誰が、わたしを知っているのか。誰がわたしの到着の瞬間をその目で見たのか。誰が、わたしには名があるだけでなく、それ以上に実質を備えていることを知っているのか。わたしは自らの手で白い雲を一掃し、空をじっくり調べる。天空には、わたしの手で秩序立てられていないものは何一つなく、また天空の下では、わたしの大いなる事業にわずかでも貢献しない者は一人もいない。わたしは地上の人々に面倒な要求はしない。わたしは常に実践の神であり、人間を創り、人間のことを熟知している全能者なのだから。すべての人は全能者の目の前にいる。地の遠い果てにいる者でさえ、どうしてわたしの霊の目から逃れられようか。人間はわたしの霊を「知って」いるが、それでもわたしの霊に背いている。わたしの言葉はすべての人の醜い顔、そして彼らの内奥の考えをさらけ出し、地上のすべてがわたしの光で明らかになり、わたしの吟味を受けて倒れるようにする。しかし、たとえ倒れても、彼らの心はわたしから遠く離れようとしない。わたしの業の結果として、わたしを愛するようにならない者が被造物の中にいるだろうか。わたしの言葉の結果として、わたしを切望しない者がいるだろうか。わたしの愛の結果として、自分の中で愛着が生じない者はいるだろうか。人間がわたしの求める状態に達せていないのは、ひとえにサタンの堕落のせいである。わたしが求める最も低い基準さえ、人々の中に不安を生じさせる。サタンが暴れ回り、狂ったように横暴であるこの時代、つまり、人間がサタンによって踏みにじられ、身体がすっかり汚物にまみれているときのことは言うまでもない。人間が自身の堕落のため、わたしの心を案じることができなかったとき、わたしが嘆かなかったことがあるだろうか。わたしがサタンを憐れんでいるということだろうか。わたしが自分の愛において誤っているということだろうか。人々がわたしに従わないとき、わたしの心はひそかにすすり泣く。人々がわたしに抵抗するとき、わたしは彼らを罰する。人々がわたしに救われ、死からよみがえるとき、わたしはこの上ない注意を払って彼らに糧を与える。人々がわたしに従うとき、わたしの心は安らぎ、すぐさま天地と万物に大きな変化を感じ取る。人間がわたしを賛美するとき、どうしてわたしがそれを喜ばずにいられようか。人間がわたしの証しをし、わたしのものとされるとき、どうしてわたしが栄光を得ないことがあるだろうか。それは、人間のどのような行為や振る舞いも、わたしに支配され、糧を施されているのではないということだろうか。わたしが指示を与えないとき、人々は怠惰で無活動であり、そのうえ、わたしの背後で「賞賛に値する」汚い取り引きをする。わたしが身にまとう肉は、あなたの行ない、振る舞い、そして言葉を何一つ知らないとでも思っているのか。わたしは長年にわたり雨風に耐えてきた。また、人間世界の辛さも経験した。しかし、よく考えてみると、どれほどの苦しみも、肉の体を持つ人間にわたしへの希望を失わせることはできない。ましてやどんな甘さも、肉の体を持つ人間が、わたしに対して冷淡になったり、落胆したり、わたしを捨て去ったりするようにさせることはできない。わたしに対する人間の愛は、苦痛や甘さのない間だけに限られているというのか。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第九章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 240
今日、わたしがこの時点まで導いてきたのだから、わたしには適切な計画があり、わたし自身の目的がある。もしわたしがそれらについて今日語るなら、あなたがたは、ほんとうにそれがわかるだろうか。わたしは、人間の考え方と、人間が心に望むこととをよく知っている――自分で逃げ道を探したことがない人などいるだろうか。自分の行く末について何も考えたことがない人などいるだろうか。しかし、人間は豊かでまばゆい知性を持っているが、長い時の果てに現在がこのようになるとは、誰が予想しただろう。これが、ほんとうにあなたの主観的努力の成果なのか。これが、あなたの疲れを知らぬ努力の報いなのか。これが、あなたが心に描いた美しい情景なのか。もしわたしがすべての人々を導かなければ、誰がわたしの定めから離れて別の出口を見出せるだろう。今日まで人間を導いてきたのは、人間の想像や願いなのか。多くの人は生涯、願いをかなえることなく生きる。これはほんとうに、その人たちの考えが間違っているせいだろうか。多くの人の生は、思いがけない幸福と満足で満たされている。これはほんとうに、彼らが多くを期待しないせいなのか。すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。人間の生死は自分の選択で生じるものなのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。わたしは姿を現して人間にはっきり見られるようにはしないが、多くの人はわたしの顔を見ることを恐れ、わたしが彼らを打ち倒すのではないか、彼らを消し去るのではないかとひどく恐れる。人間はほんとうにわたしを知っているのか、知らないのか。誰一人、確かなことは言えない。そうではないか。あなたがたは、わたしとわたしの刑罰を恐れる。しかし、あなたがたはまた、立ち上がって真正面からわたしに敵対し、わたしを裁こうとする。そうなのではないか。人間がわたしを知らずにきたのは、けっしてわたしの顔を見たことがなく、また、わたしの声を聞いたこともないからだ。そこで、わたしは人間の心の中にいるのだが、自分の心の中で、わたしが漠然とした存在でも、不可解な存在でもない者がいるだろうか。心の中のわたしが完全に明瞭な人が、誰かいるだろうか。わたしは、わが民までもがわたしをぼんやりと、不明瞭に見ていることを望まない。そこで、この大いなる業に取り掛かったのだ。
わたしは静かに人間の間に来て、飄然と去ってゆく。これまで誰か、わたしを見た者がいるだろうか。太陽は燃える炎があるから、わたしを見ることができるのだろうか。月はそのさやかな光のおかげで、わたしを見ることができるのだろうか。星々は空でそれぞれの場所にいるから、わたしを見る事ができるのだろうか。わたしがいつ来るのか、人間は知らないし、あらゆるものは知らずにいる。また、わたしがいつ去るかも、人間は気づいていない。誰がわたしについて証しできるのだろう。地上の人々のたたえだろうか。野に咲く百合だろうか。空を飛ぶ鳥だろうか。山々で吠える獅子だろうか。誰一人、わたしを完全に証しできない。誰一人、わたしのする働きができない。たとえ人々がこの働きをしてみても、それでどんな効果があるのか。わたしは毎日、大勢の人々の行いを見、毎日、多くの人々の心や考えを探る。誰一人、わたしの裁きから逃れた者はいない。また、誰一人、わたしの裁きの実際を免れた者はいない。わたしは空の上に立ち、遠くを見やる。無数の人々がわたしに打ち倒された。しかしまた、無数の人々がわたしの憐れみと慈愛の中で生きているのだ。あなたがたもまた、そうした中で生きているのではないか。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十一章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 241
地上にいるとき、わたしは人の心の中に留まる実際の神自身である。天にいるとき、わたしはあらゆる被造物の主である。わたしは山々に登り、川瀬を渡り、人のあいだをふらりと訪れては去った。誰が実際の神自身にあえて公然と敵対するだろう。誰が全能者の支配からあえて離れるだろう。誰がみじんの疑いもなく、わたしが天にいるとあえて断言するだろう。さらに、わたしが疑問の余地なく地上にいると、誰があえて断言するだろう。わたしが住まう場所について、すべてを細かく明確に語ることのできる者は、すべての人間の中に誰一人いない。天にいるとき、わたしは常に超自然的な神自身であり、また地上にいるとき、わたしは実際の神自身だということなのか。当然、わたしが実際の神自身であるかどうかは、わたしがあらゆる被造物の支配者であること、またはわたしが人間世界の苦しみを経験するという事実によって決まることではない。違うだろうか。そうであれば、人間は救いようもないほど無知なのではないか。わたしは天にいるが、地上にもいる。わたしは無数の被造物のあいだにいて、万人のあいだにもいる。人間は毎日わたしに触れることができ、そのうえ、毎日わたしを見ることができる。人間に関する限り、わたしは時に隠れ、時に目に見えるようである。わたしは実在しているようでありながら、実在しないかのようでもある。わたしの内には、人間には窺い知れぬ奥義が潜んでいる。人間はみな、わたしの内にさらなる奥義を見つけ出し、それによって内心の不安な思いをかき消そうと、顕微鏡でわたしを覗き込んでいるかのようだ。しかし、たとえX線を使ったところで、どうして人間にわたしが抱く秘密を発見することができようか。
わたしの働きの結果、我が民がわたしとともに栄光を得るまさにその瞬間、赤い大きな竜のすみかが暴かれ、泥とごみがきれいに一掃され、長い年月の間にたまった汚水がわたしの燃える炎で残らず干上がり、もはや存在しなくなる。すると、赤い大きな竜は火と硫黄の池で死ぬ。あなたがたは竜にさらわれないよう、本当にわたしの愛ある気遣いを受けたいのか。欺瞞に満ちた竜の策略を、あなたがたは本当に憎んでいるのか。誰がわたしのために力強い証しをできるのか。わたしの名のために、わたしの霊のために、わたしの経営計画全体のために、誰が持てる力をすべて捧げることができるのか。今日、神の国が人間世界にある時こそ、わたしが自ら人のあいだに来た時である。そうでなければ、臆することなくわたしの代わりに戦場へ臨める者が誰かいるだろうか。神の国が形をなすように、わたしの心が満ち足りるように、そしてさらに、わたしの日が来るように、無数の被造物が生まれ変わり、豊かに育つ時が来るように、人間が苦しみの海から救われるように、明日が来るように、その明日が素晴らしく花開き、豊かに生い茂るように、そしてさらに、未来の享受が実現するように、すべての人間が、わたしのために惜しみなくすべてを犠牲にして、全力で進む。それが、わたしがすでに勝利し、わたしの計画が完了したしるしなのではないか。
終わりの日にいればいるほど、人々は世の虚しさを感じ、人生を生きる勇気が弱くなる。そのため、無数の人が失望の中で死に、他の無数の人が探求する中で失望し、さらに無数の人がサタンの手に操られて苦しんでいる。わたしはまことに大勢の人を救い、支えてきた。そして、人間が光を失ったとき、たびたび彼らを光のある場所に戻し、光の中でわたしを知り、幸福の中でわたしを享受するように手助けした。わたしの光の到来により、わたしの国に住む民の崇敬の念は増す。わたしは人間が愛する神であり、人間が愛着をもってしがみつく神だからである。そして、人間はわたしの姿について忘れがたい印象に満たされる。それにもかかわらず、結局、それが霊の働きなのか、肉の働きなのか、理解できる者は誰もいない。この一つのことをつぶさに経験するだけでも、人は一生涯を要する。人間は心の奥底でわたしを嫌ったことなど一度もない。むしろ、霊の奥底でわたしにしっかりしがみついている。わたしの知恵は人間の崇敬の念を高め、わたしが行なう不思議は彼らの目を楽しませ、わたしの言葉は人間にとって計り知れないものであるが、それでも人間は、それらを心から愛している。わたしの実際は人間を呆然とさせ、驚かせ、戸惑わせるが、それでも人間はそれを進んで受け入れる。これこそが、人間のあるがままの背丈なのではないか。
『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 242
1. 人は自分を大きく見せてはならないし、自分を高めてもいけない。人は神を崇め、高めるべきである。
2.神の働きのためになることは何でも行い、神の働きの益を害することは一切してはならない。神の名、神の証し、神の働きを守ること。
3. 金銭、物質、および神の家のすべての財産は、人が提供すべき捧げ物である。これらの捧げ物を享受するのは祭司と神だけである。人からの捧げ物は神が享受するためのものであり、神はこれらの捧げ物ものを祭司とだけ分かち合い、他の誰も、捧げ物のどの部分であれ、それを享受する資格はなく、またそれにふさわしくもないからである。人からの捧げ物はすべて(金銭や享受できる物質的なものを含め)神に捧げられ、人には与えられない。したがって、これらのものを人は享受すべきではない。人が捧げ物を享受するなら、その人は捧げ物を盗んでいることになる。このようなことをする人は誰であってもユダである。ユダは裏切り者であることに加えて、金袋に入っているものも勝手に使ったからである。
4. 人には堕落した性質があり、その上、人は感情を有している。したがって、神に仕える際、男女が二人きりで一緒に働くことは絶対に禁止される。そうしていることが見つかった者は誰であっても例外なく除名される。
5. 神を批判してはならず、神に関連する事柄を軽率に話し合ってはならない。人がすべきことを行い、人が語ることを語らなければならず、限度を越えることも、境界を逸脱することも許されない。神の性質を犯すようなことをしないよう、口を慎み、自分の歩みに気をつけること。
6. 人が行うべきことを行い、自分の責務を遂行し、責任を果たし、本分を忠実に守ること。あなたは神を信じているのだから、神の働きに貢献するべきである。そうしなければ、あなたに神の言葉を飲み食いする資格はなく、神の家で暮らす資格もない。
7. 教会の働きや事務に関しては、神に従うことは別として、何事も聖霊に用いられている人の指示に従うこと。ほんのわずかな違反も認められない。絶対的に順守しなければならず、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかは、あなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。
8. 神を信じる人は神に従い、神を崇めるべきである。どんな人物であっても、人を崇めたり、仰ぎ見たりしてはならない。神を第一位とし、仰ぎ見る人々を第二位とし、自分自身を第三位としてはならない。どのような人間も、あなたの心の中に場所を占めるべきではなく、あなたは人々を、とりわけあなたが崇拝する人々を、神に劣らず、神と同等なものと考えてはならない。これは神にとって耐えられないことである。
9. 教会の働きを常に考えること。自分の肉体の前途は脇にのけ、家庭問題については決然とした態度をとり、心から神の働きに自己を捧げ、神の働きを第一にし、自分自身の生活は第二にすること。これが聖者の慎みである。
10. 信仰のない家族(あなたの子ども、夫または妻、姉妹、両親など)を強制的に教会に入れてはならない。神の家は人員に不足しておらず、役に立たない人々で数を補う必要もない。喜んで信じない人は誰も、教会に導き入れてはならない。この命令はすべての人に向けられる。この件に関し、あなたがたは互いに確認し、監視し、注意すべきである。誰であってもこれに違反してはならない。信仰を持たない家族が不本意ながら教会に入るときであっても、彼らに書籍を与えたり、新しい名前を与えたりしてはならない。そのような人は神の家に属しておらず、どんな手段を用いてでも彼らが教会に入るのを止めなければならない。悪魔が侵入したせいで教会に問題が持ち込まれたなら、あなた自身が除名されるか、またはあなたに制約が課せられる。要するに、誰もがこの件に関して責任があり、無謀なことをしてはならず、個人的な恨みを晴らすためにそれを利用してはならない。
『神の出現と働き』「神の国の時代に神に選ばれた人々が従わなければならない行政命令十項目」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 243
人は自分の尽くすべき多くの本分を遵守しなければならないということである。これが、人が遵守すべきこと、人が実行すべきことである。聖霊によってなされるべきことは、聖霊にまかせなさい。そこに人間の介入する余地はない。人間は、人間によってなされるべきことを遵守すべきであり、そこに聖霊との関係はない。これがまさに人のなすべきことであり、それは旧約の律法を守るのと同じように、戒めとして遵守すべきなのである。今は律法の時代ではないが、律法の時代に語られた言葉と同じ種類の遵守すべき言葉が、依然として数多く存在する。それらの言葉は、ただ聖霊による感動に頼ることで実行されるのではなく、むしろそれらは、人間が忠実に守るべきことである。例えば、
実際の神の働きを批判してはならない。
神によって証しされる者に反抗してはならない。
神の前では、自分の立場をわきまえ、自堕落であってはならない。
あなたは口を慎まなければならず、あなたの言動は神によって証しされている者の采配に従うものでなければならない。
あなたは神の証しを敬い畏れなければならない。神の働きと神の口から出る言葉を無視してはならない。
神の発する言葉の口調と目的を真似てはならない。
外から見て、神が証しする者に明らかに逆らうことは一切してはならない。
これらは各人が遵守すべきことである。各時代において、神は律法に似た、人間が遵守しなければならない多くの規則を定める。これを通して、神は人の性質を拘束し、人の誠実さを見極める。例えば、「あなたの父と母を敬え」という旧約聖書の時代の言葉を考えなさい。この言葉は今日では当てはまらない。当時、この言葉は、単に人間の外面的な性質の一部を拘束していただけであり、神に対する人間の信仰の誠実さを示すために使われ、神を信じる者の印だった。今は神の国の時代であるが、人が遵守しなければならない規則はいまだ多くある。過去の規則は適用できず、現在は人が実行するのに適切な実践がさらにたくさんあり、それらは不可欠である。それらに聖霊の働きは含まれず、人間によってなされなければならない。
恵みの時代、律法の時代の実践の多くは、当時の働きにおいて特に効果がなかったために廃止された。それらが廃止された後、その時代に適した数多くの実践が定められ、今日の多数の規則になっている。今日の神が到来したとき、これらの規則は取り除かれ、それらを遵守することはもはや求められず、今日の働きに適した多くの実践が定められた。今日、これらの実践は規則ではなく、成果を挙げることを目的としており、今日に適したものである――明日、それらはおそらく規則になるだろう。要するに、あなたは今日の働きにとって有益なものを忠実に守るべきなのである。明日のことは気にしなくてもよい。今日のことは今日のためになされるのだから。明日が来るとき、あなたが実行を求められるであろう、もっとよい実践があるのかもしれない――しかし、あまりそれに注意を払ってはならない。むしろ、神に背かないよう今日遵守すべきことを遵守しなさい。今日、人が遵守すべきことについて、次のことよりも重要なことはない。
目の前にいる神を騙したり、神から何かを隠したりしようと試みてはならない。
あなたの前にいる神の前で、みだらなことや傲慢なことを言ってはならない。
神の信頼を得ようとして、あなたの目の前の神を甘言やたくみな話で欺いてはならない。
神の前で不遜な振る舞いをしてはならない。あなたは神の口から出るすべての言葉に従うべきであり、それに対して抵抗したり、逆らったり、反論したりしてはならない。
神の口から出る言葉を自分勝手に解釈してはならない。悪い者の偽りの計略に陥らないよう、口を慎まなければならない。
神があなたのために定めた境界を超えないよう、自分の歩みに注意しなければならない。その境界を超えるなら、あなたは神の立場に立ち、自惚れた大げさな言葉を話すことになり、その結果神に忌み嫌われる。
神の口から語られた言葉を軽率に広めてはならない。さもないと、他人があなたをあざけり、悪魔が嘲笑するだろう。
今日の神の働きのすべてに従わなければならない。たとえ理解できなくても、それを批判してはならない。あなたにできるのは探求と交わりだけである。
誰も神の本来の地位を超えてはならない。あなたにできるのは、人間としての立場から、今日の神に奉仕することだけである。人間としての立場から今日の神を教えてはならない――そうすることは見当違いである。
誰も、神によって証しされている者の地位に立ってはならない。自身の言葉、行動、奥底の思いにおいて、人間としての立場に立ちなさい。これは忠実に守るべきことであり、人間の責任であり、誰もそれを変更してはならない。そうしようと試みるのは神の行政命令に背くことである。これはすべての人が覚えておくべきことである。
『神の出現と働き』「新時代の戒め」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 244
あなたがたに成し遂げてもらいたいと願っていることは数多くあるが、あなたがたのすべての行いと生活における一切のことが、わたしの求める事柄を完全に成就することはできないため、わたしは単刀直入にわたしの心の思いを説明するしかない。あなたがたの判断力、および理解力が極めて乏しいことを考えると、あなたがたは、わたしの性質と本質に関してはほとんど無知であると言える。それゆえ、それらについて急遽、あなたがたに伝える必要がある。あなたがこの件について以前どれだけ理解していたか、あなたに理解しようとする気持ちがあるかどうかにかかわらず、わたしはこれらについて詳しく説明しなければならない。これはあなたがたにとって全く馴染みのないものではないが、あなたがたは、それに含まれる意味について理解しているようにも、熟知しているようにも見えない。この件について、あなたがたの多くは、おぼろげに理解しているのみであり、それは部分的で不十分な理解である。真理をよりよく実践する、つまりわたしの言葉をよりよく実践することができるようあなたがたを助けるには、あなたがたがまずこの件について理解することを優先しなければならないとわたしは考える。そうしなければ、あなたがたの信仰は曖昧で偽善的、かつ宗教的な虚飾で満たされたままとなるであろう。神の性質を理解しなければ、神のためにあなたが行うべき働きを為すことは不可能である。神の本質を知らなければ、神に対して尊敬と畏怖の念を持つことも不可能であり、いいかげんな形式主義と言い逃れだけで、さらには救い難い冒涜のみが残るであろう。神の性質を理解することは極めて重要であり、神の本質についての認識は疎かにできないものの、これらの問題を徹底的に調べ、掘り下げて考える者はいなかった。あなたがたが皆わたしの発布した行政命令をないがしろにしているのは明らかである。神の性質を理解しなければ、神の性質を簡単に侵害する恐れがある。神の性質を侵害することは、神自身を激怒させることに等しく、このような場合、あなたの行動は最終的には行政命令に違反することになるだろう。ここであなたが認識すべきことは、神の本質を知るときに神の性質を理解できること、そして神の性質を理解するとき、行政命令を理解することにもなるということである。もちろん、行政命令に含まれている多くのことは神の性質が関わるものであるが、それらに神の性質の全てが表されているわけではないので、神の性質をもっとよく理解するために更に一歩踏み出すことが必要となる。
『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 245
神の性質というのは、人間の性格とは異なるため、誰にも極めて抽象的な問題に思われ、しかも、簡単には受け入れられないテーマである。神にもまた喜怒哀楽があるが、これら感情は人のものとは異なる。神には神そのものと神が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の表れである。神そのものと神が持っているもの、および神の本質と身分は、人が取って代わることができるものではない。神の性質には、人類への神の愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含されており、しかも人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無感覚である。神の性質とは、万物と全ての生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。彼の性質は尊厳、権勢、崇高さ、偉大さ、そして何よりも至高性を表す。彼の性質は権威の象徴であり、あらゆる正義の象徴であり、また、あらゆる美と善の象徴である。しかもそれは、暗闇やいかなる敵の勢力にも圧倒されず、侵害されることのない者の象徴であり、同時に、いかなる被造物も背くことができない(そして背くことが許されない)者の象徴である。彼の性質は最高権力の象徴なのである。一個人であれ複数であれ、いかなる人間も神の働きや性質を阻害できないし、阻害してはならない。しかし人間の性格は、動物よりもわずかに優位であることの象徴に過ぎない。人間は、自身の中にも自身においても、何の権威も自主性も、自分自身を超越する能力もないが、本質的に、様々な人々、出来事、または物に振り回されて怖じ気づく者である。神の喜びとは、正義と光の存在と現れに起因し、暗闇と邪悪の消滅の故である。彼は、人類に光と良い生活をもたらしたことを喜ぶ。彼の喜びは正義の喜びであり、あらゆる肯定的なものの存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは、不義の存在と、それによる妨害が自身の人類に害をもたらしていることに起因し、それは邪悪と暗闇の存在、また、真理を駆逐するものの存在の故であり、そしてそれ以上に、良いものと美しいものに反するものの存在の故である。彼の怒りは、全ての否定的な物事がもはや存在しないことの象徴であり、さらには、彼の聖さの象徴である。彼の悲しみは、彼が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類に起因し、彼が人のためにする働きが彼の期待にかなわず、彼が愛する人類がみな光りの中で生活できるようになっていないからである。彼は罪のない人類、正直だが無知な人、そして善良だが自分の見解を持っていない人に対して悲しみを感じている。彼の悲しみは彼の善良さと憐れみの象徴であり、美しさと慈愛の象徴である。彼の幸せは、もちろん彼の敵を打ち負かすこと、そして人の真心を得ることからもたらされる。さらに、それは全ての敵の勢力の駆逐と消滅、そして人類が良き平和な生活を得ることから生じる。彼の幸せは人の喜びとは異なり、むしろそれは良い実を集めるときの気持ちであり、それは喜びにまさる感情である。彼の幸せとは、人類が今後苦しみから解き放たれ、光の世界に入ることの象徴である。一方、人類の感情は全て己の利益の目的のために生じ、義、光、または美しいもののために生じるのではなく、ましてや天の恵みのために生じるものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。それは神の意志のために存在するものではなく、ましてや神の計画のために存在するものではないため、人と神のことを同等に語ることは決してできない。神は永遠に至高かつ尊厳ある方であり、一方人間は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、いつも自分の為に得る努力しかしない。神は人類の生存のために永遠に労苦しているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは一回の打撃にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって、他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全てを継承し、表現する者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいかなる時や状況においても、義を裏切り、神から遠く離れてしまう可能性がある。
『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 246
わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。わたしの言葉を慎重に熟考するとよい。必ずそれらから多くの利益を得るであろう。神の本質を把握することは非常に難しいが、わたしはあなたがた全員に神の性質について少なくともいくらかの認識があると信じている。ゆえにわたしは、あなたがたが行ってきた、神の性質に背かない事柄をさらに多くわたしに示すことを望むのである。そうすればわたしは安心するだろう。例えば、いかなる時にも心の中で神を思いなさい。何かを行う時は、神の言葉に従って行いなさい。全てのことにおいて神の意図を探し求め、神を軽視したり神の栄誉を汚したりする事は行わないようにしなさい。さらに、神を心の奥に追いやって心の中の未来の空虚さを埋めないようにしなさい。もしそのようなことをするならば、あなたは神の性質を侵害することになるのである。また、生涯を通じて決して神を冒涜する事を口にしたり、神に対して不平を言ったりせず、さらには、神があなたに委ねた全ての事を生涯、正しく行うことができ、神の言葉の全てに従うならば、行政命令に背くことを避けたことになる。例えば、「なぜわたしは彼が神であると思わないのか」、「これらの言葉は聖霊の啓示に過ぎないと思う」、「わたしに言わせれば、神がなす全ての事柄が正しいとは思わない」、「神の人間性が自分の人間性より優れているとは思わない」、「神の言葉はどうしても信憑性に欠ける」、または同様の批判的な事柄を言ったことがあるならば、罪を告白し、悔い改めることを勧める。あなたは、人間ではなく神自身を侵害したため、そうしなければ赦しの機会を得ることが決してないからである。あなたは、人を裁いているだけだと思っているかもしれないが、神の霊はそのようには考えない。神の肉体を軽視することは、神を軽視することと同じである。もしそうであるならば、あなたは神の性質を侵害したことになるのではないだろうか。神の霊によってなされる事柄の全ては、神の肉体における働きを維持し、その働きを十分に行うためのものであることを覚えておかなければならない。これを怠るならば、あなたは神を信じることにおいて決して成功を収めることができない者であると言おう。あなたは神の怒りを買ったため、神はそれに見合う懲罰を使ってあなたに教訓を与えるであろう。
神の本質を知るようになることは、ささいな事ではないのである。あなたは、神の性質を理解しなければならない。そうすることによって、知らないうちに神の本質を少しずつ認識するようになるだろう。これを認識するとき、あなたはより高尚で、より美しい状態へと邁進するだろう。最後には、自分の醜悪な魂を恥だと感じるようになるであろう。さらには、その恥から隠れられる場所がどこにもないと感じるだろう。その時、あなたの行為において神の性質を侵害することがますます減り、あなたの心はますます神の心に近づき、徐々に神への愛が心の中に育つであろう。これは、人類が美しい状態に入っているしるしである。しかし、あなたがたはまだこの状態に達していない。あなたがたは皆、自分の運命のためにあちこち奔走しているが、努めて神の本質をよりよく知ろうと思う者がいるだろうか。この状態が続くならば、神の性質をほんのわずかしか分かっていないために、無意識のうちに行政命令に背くことになるだろう。今あなたがたが行なっていることは、神の性質を侵害する行為の礎を築くことではないだろうか。あなたがたに神の性質を理解するよう求めることは、わたしの働きと無関係ではない。と言うのは、頻繁に行政命令に背くならば、あなたがたのうち懲罰を逃れることができる者がいるであろうか。そうならば、わたしの働きの全てが無駄になるのではないか。このため、わたしは今もあなたがた自身の行いを入念に吟味することに加え、自らの歩みに注意を払うようにあなたがたに求めるのである。これは、あなたがたに対するより高度な要求であり、あなたがたが皆これについてよく考え、真剣に扱うことを願う。あなたがたの行いがわたしの激しい怒りを買う日が来るならば、その結果はあなたがただけが考慮するものであり、あなたがたの代わりに罪を負う人は他にいないのである。
『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 247
人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に付き従う限り、神はまさに義なのだから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に付き従うなら、神が人間を見捨てることがあり得ようか。わたしはすべての人間に対して公平であり、すべての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、すべての人間は誰であろうと、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどういったものか、どれだけ長くその資格を保持しているかなど気に留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるかどうか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、わたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意することも配慮することもなく、ただ付き従うだけであれば、わたしはその時、あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するだろう。その際、あなたは何と言うだろうか。神は義でないと、あなたは言えるだろうか。現在、わたしが語った言葉に従っているなら、あなたはわたしに認められる類いの人である。あなたは、自分は神に付き従いながら常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に付き従い、よい時も悪い時も神と共にしてきたと言うが、神によって語られた言葉を生きておらず、神のために日々奔走して自分を費やすことばかり望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたは、このように言う。「とにかくわたしは、神は義だと信じている。わたしは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、気づかれていないにもかかわらず、懸命に努力してきた。神はきっとわたしのことを覚えてくださるはずだ」。神は義であるというのは本当だが、その義はいかなる不純物にも汚されていない。そこに人間の意志は一切含まれておらず、肉や人間の取引に汚されてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者はみな懲罰を受け、誰も赦されず、誰も容赦されない。中には「今日、わたしはあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたはわたしに少しばかりの祝福を与えてくださるでしょうか」と言う人もいる。そこで、わたしはあなたに「わたしの言葉に従ったのか」と尋ねる。あなたの言う義は、取引に基づくものである。あなたは、わたしが義であり、すべての者に公平で、最後までわたしに付き従う者は確実に救われ、わたしの祝福を得るとしか考えていない。「最後までわたしに付き従う者は確実に救われる」というわたしの言葉には、内なる意味がある。つまり、最後までわたしに付き従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされる者なのだ。あなたが満たした条件は何か。あなたが満たしたのは、最後までわたしに付き従うことだけだが、他に何を満たしたというのか。あなたはわたしの言葉に従ったのか。五つあるわたしの要求のうち、あなたは一つを満たしたが、残り四つを満たすつもりはまったくない。最も単純で容易な道を見つけ、幸運を得られればそれでいいという態度でその道を追い求めるだけである。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであって、悪を行う全員への義なる懲罰である。わたしの道を歩まない者は、たとえ最後まで付き従ったとしても、みな必ず懲罰を受ける。これこそが神の義である。この義なる性質が人間の懲罰において表されるとき、人間は唖然とし、神に付き従いつつも神の道を歩まなかったことを悔いるだろう。「そのとき、わたしは神に付き従いつつ、少しだけ苦しんだが、神の道を歩まなかった。どのような言い訳ができるだろうか。刑罰を受ける以外に選択肢はない」。しかし、その人は心の中でこう考えるだろう。「いずれにせよ、わたしは最後まで付き従ったのだから、あなたがわたしに刑罰を与えられたとしても、それはあまりに過酷な刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたはわたしを欲されるでしょう。あなたが義であられ、わたしを永遠にそのように扱われないことを、わたしは知っています。結局、わたしは一掃されるような者ではありません。一掃される者は厳罰を受けますが、わたしの刑罰はそれよりも軽いでしょう」。義なる性質は、あなたが言うようなものではない。自分の罪を告白するのに長けている者が寛容に取り扱われるということはない。義とは聖さであり、人間の背きを許さない性質である。ゆえに、汚れたものや変化していないものはすべて、神の嫌悪の対象である。神の義なる性質は、法ではなく行政命令である。それは神の国における行政命令であり、その行政命令は、真理がなく変化していないすべての者への義なる懲罰であって、そこに救いの余地はない。人間が一人ずつ種類ごとに分類されるとき、善良な者は報われ、邪悪な者は罰を受ける。その際、人間の終着点が明確にされ、救いの働きが終わり、人間を救う働きはそれ以後行われず、悪を行うすべての者に報復がもたらされる。
『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 248
わたしはすべてを焼き尽くす火であり、背きを許さない。人間はすべてわたしが造ったのだから、わたしが何を言い何を行なおうと、人間は従わなければならず、抵抗してはならない。人はわたしの働きに干渉する権利をもたず、ましてやわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格などない。わたしは創造主であり、被造物はわたしへの畏敬の念をもって、わたしが求めるすべてのことを成し遂げるべきである。また、わたしに理を説こうとしてはならず、抵抗などなおさらするべきではない。わたしは権威をもって我が民を統べるのであり、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日、あなたがたはわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなたがたを教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らない。それなのに、わたしはあなたがたの反抗にただ耐えているだけである。取るに足らない小さな蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは腹を立てて働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、忌み嫌うすべてのものが存在し続けるのに耐える。わたしの発言が完了するまで、わたしの最後の瞬間までそうするのである。心配することはない。わたしは名もない蛆虫と同じ程度に成り下がることはできず、わたしの技量をあなたと比べることはない。わたしはあなたを心から嫌うが、耐えることができる。あなたはわたしに従わないが、わたしがあなたに刑罰を与える日から逃れることはできない。それはわたしの父がわたしに約束した日なのである。創造された蛆虫が、創造主に匹敵することなどあり得るのか。秋になれば、落ち葉は土に還る。あなたは「父」の家に帰り、わたしは父の傍らに戻る。わたしは父の優しい愛に伴われ、あなたは自分の父に踏みにじられる。わたしは父の栄光を手にし、あなたは自分の父の辱めを受ける。わたしは長らく控えてきた刑罰を用いてあなたに伴い、あなたは何万年間も腐敗したままの悪臭を放つ肉体をもってわたしの刑罰を受ける。わたしは忍耐を伴った言葉の働きをあなたにおいて終え、あなたはわたしの言葉による災いに苦しむ役割を果たし始める。わたしはイスラエルで大いに喜び、働くが、あなたは悲嘆にくれて歯噛みをし、泥の中に生きて死ぬ。わたしは元の姿に戻り、もはやあなたと共に汚れの中に留まることはない。しかし、あなたは元の醜い姿に戻り、糞の山の中でうごめき続ける。わたしの働きと言葉が完了する時は、わたしにとっての喜びの日となる。あなたの抵抗と反抗が終わる時は、あなたにとっての悲嘆の日となる。わたしはあなたに同情せず、あなたは二度とわたしを見ない。わたしはそれ以上あなたと対話せず、あなたは二度とわたしに出会わない。わたしはあなたの反抗を憎み、あなたはわたしの愛らしさを恋しく思う。わたしはあなたを打ち、あなたはわたしのことを思い焦がれる。わたしは喜んであなたから離れ、あなたはわたしへの負い目に気づく。わたしはあなたに二度と会わないが、あなたは常にわたしを待ち望む。あなたが今わたしに抵抗するので、わたしはあなたを憎むが、わたしが今あなたに刑罰を与えるので、あなたはわたしを恋しく思う。わたしは進んであなたと共に生きようとは思わないが、あなたは自分がわたしにしたすべてのことを悔やむがゆえに、わたしと共に生きることを激しく切望し、永遠に悲嘆にくれる。あなたは自分の抵抗と反抗を後悔し、悔悟のあまり顔を地に伏せ、わたしの前に倒れ、二度とわたしに逆らわないと誓う。しかし、あなたは心の中でわたしを愛するだけで、わたしの声を聞くことは二度とできない。わたしはあなたを恥じ入らせる。
『神の出現と働き』「落ち葉が土に還る時、あなたは自分の行なったあらゆる悪事を後悔する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 249
わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分を否定する人に向けて現わされる。そして、邪悪な者にもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者はみな飢饉や疫病に苛まれ、涙を流す。あらゆる悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者でも罪の償いを免れることはできない。何百万年の時を通して誰も目にしたことのないような災いに陥り、絶えず恐怖と不安の中に生きることになる。そして、わたしだけに忠誠を示して従ってきた人は喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのないような喜びの中に生きる。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからである。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと心を同じとする人の集まりを獲得することを熱望してきた。わたしと同じ心を持たない人については、わたしは決して忘れない。彼らに報いを与え、その様子を楽しみながら眺める機会を待ち望みながら、彼らに心の中で憎み続ける。今日、遂にその日を迎え、もはや待つ必要はない。
わたしの最後の仕事は人を懲罰するためだけではなく、人の終着点を決めるためでもある。さらに、わたしのすべての業と行ないをあらゆる人が認識するためである。わたしは一人一人にわたしが行なってきたことは全て正しく、わたしの行なってきたことは全てわたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人の行いではなく、とりわけ大自然の行いではなく、創造世界のあらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅びる他なく、酷い災難を経験するだけである。人間はだれであろうとも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはない。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけである。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は壊滅的被害を受け、あらゆる亡霊に踏みつけられる。わたしは誰にもできない働きを行ない、人間が何らかの善行によりわたしに報いることを望むだけである。わたしに報いることができた人は僅かだが、それでもわたしは人間界での旅を終え、わたしの展開を続ける働きの次の段階を始める。なぜなら、わたしが長年人間のもとを行き来してきたことは実を結び、わたしは極めて喜ばしく思っているからである。わたしが気にするのは人の数ではなく、むしろ彼らの善行である。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分の終着点のために十分な善行を積むよう望む。そうすれば、わたしはどれほど満足することか。さもなければ、あなたがたの誰も自分に降りかかる災いを免れることはできない。災いはわたしを起源とし、もちろんわたしが采配を振る。もしあなたがたがわたしの目に良いと映ることができなければ、災いの苦しみから免れることはない。患難の中にあっては、あなたがたのふるまいも行いも完全には適切とはされなかった。あなたがたの信仰と愛はうわべだけで、あなたがたは自分たちの臆病さか屈強さしか示さなかったからである。これに関しては、わたしは良いか悪いかの評価のみをする。わたしの関心は引き続きあなたがた一人一人の行動と自己表現の仕方であり、それに基づいてわたしはあなたがたの終着点を決定する。しかし、わたしには明白にしなければならないことがある。すなわち、患難の時にわたしに全く忠誠を示さなかった者にわたしはもはや憐れみは与えない。わたしの憐れみはそこまでしか届かないからである。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者と係ることを望まない。それが誰であれ、これがわたしの性質である。あなたがたに伝えなければならないことがある。つまり、わたしを悲しませる者は誰であれ、再びわたしから寛容な扱いを受けることはなく、これまでわたしに忠実であった者はとこしえにわたしの心に留まるのである。
『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 250
地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。神は聖く義である。ちょうどイエスが恵みの時代に罪人たちと暮らしたのと同様に、神は穢れた土地に生まれ、汚れにまみれた人たちと暮らしているが、神の働きは隅々まで全人類の生存のために行われるのではないのか。それは全て、人類が大いなる救いを得られるようにそうなっているのではないのか。二千年前、神は何年間も罪人たちと暮らした。それは贖いのためであった。今日、神は穢れて賤しい人たちの集団と暮らしている。それは救いのためである。神の働きは全てあなたがた人間のためではないのか。もし人間を救うためでなかったとしたら、何ゆえに神は飼葉おけで生まれた後、罪人たちと何年間も暮らし、共に苦しんだのか。そして、人間を救うためでなかったとしたら、なぜ神は再び肉に戻り、悪魔が集まるこの地に生まれ、サタンに深く堕落させられている人たちと暮らすのか。神は忠実ではないのか。神の働きのどの部分が人類のためでないというのか。どの部分があなたがたの運命のためでないのか。神は聖い。これは変わることがない。神は穢れた地に来たが、穢れに汚されることはない。このこと全てが意味するのは、神の人類への愛は極端なほど無私であり、神が耐える苦難と屈辱は極めて大きいということに尽きる。あなたがた全員のため、そしてあなたがたの運命のために、神が受ける辱めがどれほど大きいかをあなたがたは知らないのか。偉人や裕福な権力者の息子を救うのではなく、神は賤しく他者から見下されている人たちを救うことを重視している。このことは全て神の聖さではないのか。このことは全て神の義ではないのか。全人類の生存のために、神は穢れた地に生まれ、あらゆる屈辱を受けることを選ぶ。神はとても現実的であり、虚偽の働きを一切行わない。各段階の働きは、このように実際的に行われるのではないのか。人は皆、神を中傷して神は罪人と共に食卓に着くと言ったり、神を嘲笑して神は穢れた息子たちと暮らすと言ったり、最も賤しい人たちと暮らすと言ったりするが、神はなおも無私無欲に自らを捧げ、依然として人類から拒まれる。神が耐え忍ぶ苦難は、あなたがたの苦難よりも大きくはないのか。神の行なう働きは、あなたがたが払った代価を上回らないのか。
『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 251
神は、これほどまで自らを低くしたので、汚れて堕落した人において働きを行い、この集団を完全にするのである。神は人間のもとで生活し、食べ、人々を牧し、人々に必要なものを与えるためだけに受肉したのではない。さらに重要なのは、耐えがたいほど堕落した人を救い征服する大規模な働きを行うことである。あらゆる人が変えられ一新されるように、最も堕落した人を救うために赤い大きな竜の核心に神が来たことである。神が耐える大いなる苦難は、受肉した神が受ける苦難だけでなく、それは何よりも神の霊が受ける極度の屈辱である。神は大いに自分を低くし隠れるために凡人となる。神が正常な人間の生活を送り、正常な人間と同じものを必要としていることを人々が理解できるように、神は受肉して肉の姿となった。神がかなりの程度まで自ら謙ったことは、これで十分証明される。神の霊が肉の姿で現れている。神の霊は極めて高貴かつ偉大であるが、霊の働きを行うため、神は取るに足りない凡人の姿となっている。あなたがた各人の素質、識見、理知、人間性、生活は、あなたがたがこのような神の働きを受ける価値が本当にないことを示している。あなたがたのためにこのような苦難を神に受けさせるだけの価値は、あなたがたにはない。神は極めて偉大である。神は至高の存在であり、人は極めて卑しく下等であるが、それでも神は人に働きを行う。神は受肉して人間に必要なものを与え、人間と話すだけでなく、人間と一緒に生活している。神は極めて謙遜で、愛しむべき存在である。
『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 252
神は人類の働きのために幾度も眠れぬ夜を過ごした。神は遥かな高みから深淵へと、人間が生活する生き地獄まで降り、人間と共に日々を過ごし、人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりしたことがなく、自ら働きを行ないながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に属していられようか。どうして神が地獄で生活できようか。しかし、全人類のため、また全人類が一刻も早く安らぎを得られるようにするため、神は屈辱に耐え、不義に苦しんでまで地上に来て、人間を救うべく自ら「地獄」と「ハデス」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。神について不平を述べるどんな理由が人間にあるというのか。どうして人間は厚かましくも神を見上げられるのか。天なる神は最も汚れたこの悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言ったことがなく、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受け入れる。人間の不合理な要求に反撃したことも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をしたこともない。教えること、啓くこと、叱責、言葉による精錬、注意の喚起、勧告、慰めること、裁くこと、暴くことなど、人間が必要とするすべての働きを、神は不平を言わずに行なうだけである。神の諸段階のうち、どれが人のいのちのためではなかったというのか。神は人間の前途や運命を取り去ったが、神によって行なわれた段階のうち、どれが人間の運命のためではなかったというのか。その段階のうち、どれが人間の生存のためではなかったというのか。それらのうちどれが人間をこの苦難から、夜のように黒い闇の勢力の抑圧から解放するためではなかったというのか。どれが人間のためではなかったというのか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、人間の冷酷な心、冷淡かつ無関心な眼差し、そして非難と侮辱の繰り返しによって報われてきた。つまり、辛辣な言葉と皮肉、蔑み、嘲笑、蹂躙と拒否、誤解と愚痴、疎外と忌避、そして他ならぬ欺瞞、攻撃、および苦しみで報いられてきたのである。温かい言葉に対しては、敵意の表情と、冷淡な反抗の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は我慢して頭を下げ、おとなしく従う牛のごとく人々に仕えるしかない[2]。神は幾度となく太陽と月と星を見上げてきた。神は幾度となく日の出と共に発ち、日の入りと共に戻って来て、父のもとを去った時より千倍大きな苦痛、人間の攻撃と打撃、そして取り扱いと刈り込みを耐え忍びながら、悶々として眠れぬ夜を過ごしてきた。神の謙虚さと慎ましさは、人間の偏見[3]、不当な意見、不公平な扱いで応じられ、また神が世に知られず静かに働きを行なう様、神の忍耐強さ、そして寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は何のためらいもなく神を踏みにじり、足蹴にして殺そうとする。神に接する人間の態度は、「類い希なる聡明さ」の一つであり、人間に虐待され、侮蔑された神が幾万もの人の足で踏みつぶされる一方、人間は意気揚々として立っている。それはあたかも丘陵に住む王のようであり、絶対的権力の掌握[4]を望み、陰で宮廷を支配し、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こしたりすることを許されない、裏方の主事にしようとしているかのようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由もない操り人形[5]にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神にあれこれ要求する資格が人間にあろうか。どうして神に提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情するよう神に求める資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいのか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいのか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいのか。人間の良心はどこにあるのか。人間ははるか昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、たとえわずかな温厚さしか伴わなくても、人間が神に思いやりをもつことを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心が人間によって慰められることは一向になく、神が受けてきたのは、激しさを増す一方の[6]攻撃と責め苦のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることを知らず、常に問題を起こし、無鉄砲であり、神に自由や発言の権利を決して与えず、神は恥辱に屈し、人間によって好きなように操られることを余儀なくされている。
『神の出現と働き』「働きと入ること(9)」(『言葉』第1巻)
脚注
1.「略奪」は人類の不従順さを暴くために用いられている。
2.「敵意の表情と、冷淡な反抗の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられ、我慢して頭を下げ、おとなしく従う牛のごとく人々に仕える」は、原文では一文だったが、意味をより明確にするために、ここでは二文に分けてある。この文の最初の部分は人間の行為を指し、次の部分は神が受けた苦難と、神が謙虚に隠れていることを示している。
3.「偏見」は人々の不従順な振る舞いを指す。
4.「絶対的権力の掌握」は人々の従順でない振る舞いを指す。人間は自らを高く掲げ、他者を束縛し、自分に従わせ、自分のために苦しませる。そうした者が神に敵対する勢力である。
5.「操り人形」は、神を知らない者を揶揄するために用いられている。
6.「激しさを増す一方の」は、人々の卑しい行動を強調するために用いられている。
日々の神の御言葉 抜粋 253
神がなすことはすべて実践的で、空虚なものはなく、そのすべてを自ら経験する。神は人類の終着点と引き換えに、苦痛を体験するという代価を払う。これは実践的な働きではないか。親が子のために真剣な代償を払うのは誠実さを表す。受肉した神は当然、そうすることで人類に最も誠実で信実である。神の本質は信実。神は言うことをなし、なすことは必ず成る。神が人のためになすことはすべて誠実。ただ語るだけではない。代価を払うと言うときは本当に代価を払う。人の苦しみを負い、代わりに苦しむと言うとき、本当に人の間で暮らし、身をもってこの苦しみを味わい、体験する。こうして、神がなすことはすべて正しく、義であると宇宙の万物が認める。神がなすことはすべて現実だと。これは力強い証拠と言える。加えて、人類はいずれ美しい終着点をもち、留まる者はみな神を讃える。神の業はまさに人への愛ゆえだと賛美するだろう。神は普通の人として、謙虚に人のもとへ来る。単に多少の働きを行ない、いくばくかの言葉を語り、そして立ち去るというのでなく、本当に人のもとへ来て世の苦痛を経験するのである。この苦痛を経験して初めて、神は立ち去る。神の働きはかくも現実的、実践的であって、留まる者はみなそれゆえに神を讃え、人に対する神の誠実さと親切さを目にするのである。美と善という神の本質は神の受肉の意義の中に見ることができる。神のなすことはすべて誠実であり、言うことはすべて真剣で信実である。神は自身が意図する一切のことを実際に行ない、代価を払うときは実際に払う。ただ語るだけではない。神は義なる神。信実な神である。
『終わりの日のキリスト講話集』「受肉の意義に関する第二の側面」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 254
いのちの道は誰でも持てるものではなく、また誰にとっても簡単に得られるものではない。いのちは神からしか生じ得ないからである。つまり、神自身のみがいのちの実質を有しており、神自身のみがいのちの道をもっている。ゆえに、神のみがいのちの源であり、永遠に流れつづけるいのちの生ける泉なのである。世界を創造してからずっと、神はいのちの活力に関する多くの働きを行ない、人にいのちをもたらす多くの働きを行ない、人がいのちを得られるよう多大な代価を払ってきた。神自身が永遠のいのちであり、そして神自身が、人が復活する道だからである。神が人の心にいないことは決してなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の根幹であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱床である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分のすべての役割においてしっかり生きられるようにする。神の力と、消えることのない神のいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのない代価を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない。このようにして、誰もが神の支配下で服従し、神の命令の下で生きなければならず、誰も神の手から逃れられない。
『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 255
あなたが本当に永遠のいのちの道を得たいと望み、飽くことなく探し続けているなら、まずこの質問に答えてほしい。今日、神はどこにいるのか? おそらくあなたは、「当然、神は天に住んでいる。あなたの家には住んでいないはずだ」と答えるだろう。あるいは、神は明らかに万物の間にいると言うかもしれない。もしくは、神は各々の心の中にいると言うかもしれないし、神は霊界にいると言うかもしれない。これらのどれも否定はしないが、問題を明確にしなければならない。神が人の心の中に住んでいるというのはまったく正しいわけではないが、かと言って完全に間違っているわけでもない。と言うのも、神を信じる者の中には、その信仰が本物である者と偽物である者、神が認める者と認めない者、神を喜ばせる者と神が嫌う者、そして神が完全にする者と神が淘汰する者がいるからである。だからわたしは、神は一握りの人の心にのみ住んでいると言うのであり、この人たちは疑いなく真に神を信じ、神に認められ、神を喜ばせ、神はこの人たちを完全にする。神はこのような人たちを導く。彼らは神に導かれているのだから、神の永遠のいのちの道をすでに見聞きした人である。神への信仰が偽物であり、神に認められず、神に嫌われ、淘汰される者たちは、必ずや神に拒絶され、いのちの道を得られず、神がどこにいるのかを知らずにいる。対照的に、心に神を住まわせている者は、神がどこにいるかを知っている。彼らは、神が永遠のいのちの道を授ける者たちであり、神に従う者たちである。あなたは今、神がどこにいるかを知っているか。神は、人の心の中と、人の傍らの両方にいる。神は霊界に、そして万物の上にいるだけでなく、それ以上に、人が存在する地上にいる。ゆえに、終わりの日の到来により、神の働きの段階は新たな領域へとすすんだのである。神は万物の中の全てに対する支配権を握っており、人の心の支えであり、さらに神は人の間に存在している。このようにしてのみ、神はいのちの道を人類にもたらし、人をいのちの道へと導くことができる。人がいのちの道を得て生存できるよう、神は地上に来て人の間で生きる。同時に、神は万物の中の全てを指揮し、神が人の間で行なう経営への協力を容易にする。したがって、神は天と人の心にいるという教義を認めるだけで、人の間における神の存在の真理を認めないなら、あなたがいのちを得ることは決してないし、真理の道を得ることもない。
神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として崇拝されることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。神が過去の時代に語った言葉の記録を現代に適用するのなら、あなたは考古学者であり、あなたに最もふさわしい表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過去の時代に行なった働きの痕跡を信じており、神がかつて人の間で働いた際に残した神の影しか信じておらず、神がかつての信者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神による今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表わしている真理の道を信じていない。ゆえに、あなたが完全に浮世離れした空想家なのは間違いない。今、人にいのちをもたらすことのできない言葉になおも固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]である。あなたは保守的に過ぎ、あまりに強情で、理知に無頓着だからである。
『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)
脚注
a.「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。
日々の神の御言葉 抜粋 256
神自身は真理を備えており、神は真理の源です。あらゆる肯定的なものとあらゆる真理は神に由来します。神は万事万物の善悪の判断をすることができます。起こった事、現在起こっている事、まだ人間に知られぬ将来の事の判断をすることができます。神は万物の善悪の判断をすることができる唯一の審判者であり、これは万物の善悪は神にしか判断できないということを意味します。神は万物の規則を知っています。それは真理の体現であり、神自身が真理の本質を備えているということを意味します。人間が真理を理解し、完全にされたとして、真理の体現に何か関係していますか。完全にされた人間は、神が現在行っていることと神が要求することのすべてについて正確に判断し、正しい方法で実践します。人間はまた神の旨を理解し、物事の善と悪の区別がつきます。しかし、それでも人間には及ばないこと、神から教えられて初めて知ることができることがあります。人は未知の物事、神からまだ教えられていない物事を知ることができず、予測することもできません。さらに、神から真理を得て、真理現実を自分のものにし、多くの真理の本質を知り、善悪を区別する能力をもったとしても、人間が万物を支配し、統治する能力をもつことはありません。これが違いです。被造物は、真理の源から真理を得ることしかできません。人は人間から真理を得られますか。人は真理ですか。人は真理を与えることができますか。人にはできません。そこが違いです。あなたは真理を受け取ることしかできず、与えることはできません。あなたが真理の体現と呼ばれることがあり得ますか。真理の体現の本質とは正確には何を指しますか。それは真理をもたらす源、万物を支配し統治する源です。またそれは万事万物が裁かれる基準と規則でもあります。これこそが真理の体現です。
(『反キリストを暴く』第8条(3)〔『言葉』第4巻〕)
日々の神の御言葉 抜粋 257
神は真理を表現するときに、自身の性質と本質を表現します。神による真理の表現は、人類が認識している各種の肯定的な物事や所説の、人類による要約に基づいているわけではありません。神の言葉はあくまで神の言葉であり、神の言葉は真理です。それらは人類の存在の拠り所となるべき土台と法則であり、人間を出所とするいわゆる教義は、神によって断罪されます。それらが神から承認されることはなく、ましてや神が発する言葉の源、あるいはその土台となることなどあり得ません。神は自身の性質と本質を自身の言葉によって表わします。神の表現によって生まれるすべての言葉は真理です。なぜなら、神には神自身の本質があり、神こそ肯定的な物事すべての現実だからです。堕落した人類が神の言葉をどのように位置づけたり定義したりしても、あるいは見方や理解の仕方がどのようなものであっても、神の言葉が真理であるという事実は決して変わることがありません。神が語ってきた言葉の数に関係なく、また、堕落した、罪深い人類がどんなに強くそれらを非難して拒んでも、変えることのできない一つの事実が残ります。つまり、そうした状況でさえも、人類が価値を置くいわゆる文化や伝統は、肯定的なものとはなり得ず、真理になることはできない、という事実です。これは変えることができないのです。人類の伝統的な文化や存在のあり方が、時代の変化や時間の経過によって真理になることはありません。また、人類から非難を受けたとか、人類が忘れやすいなどという理由で、神の言葉が人の言葉になることもありません。この本質は不変であり、真理は常に真理なのです。ここにあるのはどういった事実ですか。人類が要約するそうした言葉はすべてサタンに由来するのです。そうした言葉は人の想像や観念であり、人の肉から生じるもので、肯定的なものとは何ら関係がありません。他方、神の言葉には、神の本質と地位が表現されています。神はなぜ言葉を発するのでしょうか。わたしはなぜそれが真理だと言うのでしょうか。それは、神が万物のすべての法則、原理、根本、本質、現実、そして奥義を支配しており、それらが神の手中にあり、神だけがこれらの由来と、その根本が実際に何であるかを知っているからです。ですから、神の言葉で言及されている万物の定義だけが最も正確であり、また神の言葉の中で人類に求められていることこそが、人類にとって唯一の規準、すなわち、人類が存在の拠り所とする唯一の規準なのです。
(『反キリストを暴く』第9条(1)〔『言葉』第4巻〕)
日々の神の御言葉 抜粋 258
産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の本分を尽くし始める。あなたは神の計画のため、神の定めのために自分の役割を果たして、人生の旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである。人類が誕生して以来、神は宇宙を経営し、万物の変化の法則とそれらの運行の軌跡を指揮しながら、ずっとこのように働いてきた。万物と同様に、人間は秘かに、知らないうちに、神から来る蜜と雨露によって養われている。他のあらゆるものと同様に、人は知らないうちに神の手による指揮のもとに生存している。人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である。
夜が静かにしのび寄って来ても、人は気づかない。なぜなら、人の心は夜がどのようにして近づくのかも、それがどこから来るのかも感知できないからである。夜が静かに過ぎ去ると、人は日の光を歓迎するが、光がどこから来て、どのように夜の闇を追い払ったかについては、なおさら知るよしもなく、まして気づいてもいない。こうして繰り返される昼と夜の移り変わりによって、人は一つの時期から次の時期へ、一つの歴史的背景から次の歴史的背景へと導かれ、それと同時に、それぞれの時期における神の働きと、それぞれの時代における神の計画が確実に遂行される。人は神と共にこれらの時期を歩んできたが、神が万物と全ての生けるものの運命を支配することも、神がどのように万物を指揮し導くのかも知らない。これは太古の昔から現代まで、人には知るよしもないことであった。その理由は、神の業があまりにも隠され過ぎているからでも、神の計画がまだ実現されていないからでもない。それは、人の心と霊が神からあまりに遠く離れているため、神に従いながらもサタンに仕え続けるまでなり、しかも、まだそのことに気づいていないからである。神の足跡と顕現を積極的に探し求める者は一人もいない。また進んで神の配慮と加護の中で生存しようとする者もいない。その代わりに、この世と邪悪な人類が従う生存の掟に適応するために、邪悪な者、サタンの腐敗に頼ることを人は望む。この時点で人の心と霊は、サタンへの貢物となり、その餌食となった。その上、人間の心と霊はサタンの住みかとなり、サタンの恰好の遊び場となった。こうして人間は、人間であることの原則について、また人間存在の価値と意義についての理解を気づかないうちに失うのである。神の律法、そして神と人の間で交わされた契約は、人の心の中で次第に薄れ、人は神を求めることも神に注意を払うことも止めてしまう。時間が経つにつれ、人は神が人間を創造した理由も、神の口から出る言葉や神から来る全てをもはや理解しなくなる。それから人は神の律法と掟に抵抗し始め、人の心と霊は麻痺してしまう……。神は自らが最初に創造した人間を失い、人間は元々持っていた根源を失う。これが人類の悲哀である。実際のところ、全ての始まりから現在に至るまで、神は人類のために悲劇を上演してきたのであり、その悲劇の中で人間は主人公でもあり被害者でもある。そして、この悲劇の監督が誰であるのか答えることのできる者はいない。
『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 259
神はこの世界を創造し、神が命を授けた生きものである人間を世にもたらした。次に、人間は両親と親族を持つようになり、もはや孤独ではなくなった。人間は、最初にこの物質的世界に目を向けて以来、神の予定の中で存在するように定められてきた。神から出る命の息は、成人へと成長する間ずっとあらゆる生きものを維持する。この過程で、人は神の配慮のもとに成長していると感じる者はいない。むしろ、人は両親の愛情のこもった世話のもとで成長し、人の成長を促すのは自身の生命本能だと思う。それは、人間は誰が自分に命を授けてくれたのか、どこからそれが来たのかを知らず、ましてや、生命本能がどのようにして奇跡を生み出すのかなど知るよしもないからである。人は食物が生命維持の基礎であり、根気が人間生存の源であり、頭の中にある信念が人間の生存を左右する資本であるということだけを知っている。神の恵みと施しにはまったく気づかないので、神によって授けられた命を人は浪費する……。神が日夜世話しているこの人類のうち、一人として自主的に神を礼拝しようとはしない。神は計画通りにひたすら人に働きかけ続けるだけで、人には何も期待しない。人がある日夢から覚めて、命の価値と意義、人に与えた全てのもののために神が支払った代価、そして人が神のもとへ戻ってくるのを待つ神の切なる心遣いを突然悟ることを願いつつ、神は働き続けている。人間の生命の起源と存続をつかさどる奥義を探究した者はいない。これら全てを理解している神だけが、神からあらゆるものを受け取ったにもかかわらず感謝することもない人間から受ける傷や打撃に黙って耐える。人間はいのちがもたらす全てのことを当然のことのように享受する。そして同様に、神が人間によって裏切られ、忘れられ、ゆすり取られるのも「当然のこと」とする。神の計画が本当にこれほど重要であると言えるだろうか。人間、すなわち神の手から出たこの生きものが本当にそれほど重要だと言えるだろうか。神の計画は確かに重要である。しかし、神の手で創造されたこの生きものは、神の計画のために存在する。それゆえ、この人類に対する憎しみ故に神は自らの計画を台無しにすることはできない。神が全ての苦痛に耐えるのは、神の計画のためであり、また神が吐いた息のためであり、人間の肉のためではなく、人間のいのちのためである。神がそうするのは、人の肉ではなく、神が吐き出したいのちを取り戻すためである。これこそが神の計画である。
『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 260
この世に生まれて来る人間は皆、生と死を通らなければならない。そして、その大多数は死と再生の周期を経てきた。生きている者はやがて死に、死者もやがて戻ってくる。これは全て生きものそれぞれのために神によって用意された命の過程である。けれども、この過程と周期こそが人が目を向けるようにと神が願っている真実である。それは、神が人に授けたいのちは無限であり、肉体、時間、空間により制限されないということである。これこそが神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来た証拠である。多くの人はいのちが神から来たことを信じないかもしれないが、神の存在を信じるか否定するかにかかわらず、人間は神から出る全てのものを必然的に享受する。ある日突然、神が心変わりし、世界に存在する全てのものを取り返し、自らが与えたいのちを取り戻すことを望むならば、万物は存在しなくなる。神は自らのいのちを用いて全てのもの、生きているもの生きていないものの両方に施し、神の力と権威により全てを秩序正しく整える。これは誰にも想像することも理解することもできない真実であり、これらの理解し難い真実は、まさに神のいのちの力の表れであり、証しである。今あなたに秘密をひとつ告げよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にとっても計り知れないものである。過去と同様、現在もそうであり、来たるべき未来もそうである。わたしが伝える第二の秘密はこうである。いのちの形や構造がどのように異なっていようとも、全ての被造物のいのちの源は神に由来する。あなたがどのような生命体であっても、あなたは神によって定められたいのちの軌道に逆らうことはできない。いずれにせよ、わたしが唯一望むのは、人間が次のことを理解することである。神の配慮、加護、施しがなければ、人間はどれほど勤勉に努力しても、どれほど熱心に奮闘しても、人が受けるように定められている全てのものを受けることはできない。神からのいのちの施しがなければ、人間は生きる価値や命の意義を失ってしまう。神のいのちの価値を勝手気ままに浪費する人が、これほど何も気にかけないことをどうして神が許すだろうか。前にも言ったように、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。神が授けた全てのものを人が大切にしないならば、神は始めに与えたものを取り返すだけではなく、自身が与えた全てのものの二倍の代価を、人間に支払わせる。
『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 261
この世界にあるすべてが、全能者の思いによって、全能者の目の下で、急激に変化している。人類が一度も聞いたことのない事が、突然到来する一方、人類が常に所有してきたものが、知らないうちに消え去ってしまう。誰も全能者の所在を推し量ることはできないし、まして全能者の生命力の超越性や偉大さを感じることなど到底できない。人には知覚できない事を知覚できるゆえに全能者は超越的である。人類によって捨てられたにもかかわらず人類を救う方であるゆえに全能者は偉大である。彼は生と死の意義を知っている。それだけでなく、被造物たる人類の存在の法則を知っている。彼は人類の存在の基礎であり、人類を再び復活させる贖い主である。彼は幸せな心に悲しみという重荷を負わせ、悲しむ心を幸福で引き上げる。これらは全て彼の働きのためであり、彼の計画のためである。
全能者のいのちの供給から離れた人類は、存在の目的を知らないが、それでも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然として目を閉じようとせず、自らの魂を感じることもない肉の塊として頑なにこの世における下劣な存在を引きずっている。あなたはこのように何の希望もなく生き、他人も何の目的もなく生きている。伝説のあの聖なる者だけが、苦しみにうめきながら彼の到来を待ち焦がれる人たちを救う。この信念は知覚のない人々においてはまだ実現していない。しかし人々はまだそれを切望している。全能者は深い苦しみの中にあったこのような人々に慈しみを抱く。同時に、全能者は何の知覚もないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならなかったからである。全能者は探したい、あなたの心と霊を探し、あなたに水と食料を施したい、あなたを目覚めさせたいと思っている。それにより、もはやあなたが渇きと飢えを感じないようにである。あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。彼はあなたのそばで見守り、あなたが立ち返るのを待っている。あなたが記憶を突然回復する日を待っている。すなわち、あなたが神から来たのであり、いつであったかは不明だが道に迷い、いつであったかは不明だが路上で気を失い、いつであったかは不明だが「父」ができたことに気づく日を。さらに、全能者がずっと見守ってきたということ、とても長い間あなたが帰ってくることを待っていたということに気づく日を。全能者は切実な思いで見守り、そして答えのない応答を待っている。全能者が見守り、待っているというのはきわめて貴重なことであり、それは人間の心と霊のためである。このように見守り、待っていることは無期限かもしれないし、終わりの段階にあるのかもしれない。しかし、あなたは自らの心と霊がたった今どこにあるのかを正確に知らなくてはならない。
『神の出現と働き』「全能者のため息」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 262
人類の一員として、また敬虔なクリスチャンとして、神が委ねる任務を全うするために心と体を捧げるのはわたしたちすべての責任であり、義務である。なぜならわたしたちの全存在は神から来たものであり、神の統治のおかげで存在しているからである。わたしたちの心と体が神の委ねる任務のためでも、人類の義なる目的のためでもないなら、わたしたちの魂は神の任務のために殉教した人々に値せず、わたしたちにすべてを与えた神にはなおさら値しないと感じるだろう。
神はこの世界を創造し、この人類を創造し、さらに神は古代ギリシア文化ならびに人類の文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の統治と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画から切り離せない。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図に従って起こるということを必ず信じているであろう。神のみが国や民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する。人類が良い運命を望むなら、また国が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は避けることのできない災難となる。
ノアが箱舟を造った時代を振り返って見なさい。人類はひどく堕落し、人々は神の祝福から迷いはぐれ、もはや神の配慮は得られず、神の約束を失ってしまっていた。闇の中を神の光なしに生きていた。そして人の本性は放縦となり、おぞましい堕落に身を任せた。このような人々はもはや神の約束を受けることはできなかった。彼らは神の顔を見るにも、神の声を聞くにも相応しくなかった。なぜなら彼らは神を見捨て、神から与えられたものすべてを放棄し、神の教えを忘れてしまったからである。彼らの心は神から遠く離れて行くばかりで、それにつれてあらゆる理知と人間性を失い堕落し、邪悪さを増していった。そして彼らは死に歩み寄り、神の怒りと罰を受けた。ノアだけが神を礼拝し、悪を避けたので、神の声を聞くことができ、神の指示を聞くことができた。ノアは神の言葉の指示に従って箱舟を造り、あらゆる種類の生物をそこに集めた。こうしてひとたびすべての準備が整うと、神は世界に破滅をもたらした。ノアとその家族七人だけが破滅を逃れて生き残ったが、それはノアがヤーウェを礼拝し、悪を避けたからであった。
それでは現代に目を向けてみなさい。ノアのように神を礼拝し、悪を避けることのできる義人はいなくなってしまった。それでもなお、神はこの人類に恵み深く、この終末の時代においても人類の罪を赦す。神の現われを切望する人々を神は探し求める。神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を神は探し求める。神の前で赤子のように従順で、神に抵抗しない人々を神は探し求める。あなたが何の勢力にも妨げられずに神に献身するならば、神はあなたを好意の眼差しを注ぎ、祝福を授ける。たとえあなたが地位が高く、名声があり、知識が豊富で、有り余るほどの資産の持ち主で、多くの人々の支持を得ていたとしても、それらのものが、あなたが神の前に出て神の召命と任務を受け、神の命じることを行う妨げにならないならば、あなたの為すことはすべて地上で最も意義深い行いであり、人類の最も義なる事業となる。もしあなたが地位や自分自身の目標のために神の召命を拒むならば、あなたの為すことはすべて神にのろわれ、さらには忌み嫌われるであろう。あなたは大統領かもしれない、あるいは科学者、牧師、長老かもしれないが、あなたの地位がどんなに高くても、自分の知識と能力を頼りにして事業に着手するならば、あなたは必ず失敗し、必ず神の祝福をのがすことになる。神はあなたの為すことは何も受け入れず、あなたの事業が義であるとは認めず、あなたが人類の益のために働いているとは見なさないからである。あなたの為すことはすべて、人類の知識と力を用いて人から神の保護を奪い去ることだが、それは神の祝福を否定するために行われると神は言う。あなたは人類を暗闇の方向へ、死の方向へ、人が神と神の祝福を失ってしまった終わりなき存在の始まりへ導いていると神は言う。
『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 263
人類が社会科学を考案して以来、人の精神は科学と知識に占領されてしまった。それから科学と知識は人類を支配する道具となり、もはや神を礼拝するための充分な余地は人にはなくなり、神を礼拝するための好ましい条件もなくなった。人の心の中で占める神の位置はどこまでも低められた。心の中に神が無いまま、人間の内面世界は暗く、希望も無く、空虚である。そのため、人類の心と精神を満たすために多くの社会科学者や歴史家、政治家が登場し、社会科学の理論や人類進化の理論、神が人を創造したという真理に矛盾するその他の理論を発表した。こうして、神が万物を造ったという真理を信じる人はますます少なくなり、進化論を信じる人の数はさらに増加した。神の働きの記録と旧約聖書の時代の神の言葉を神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに、神が存在し万物を支配しているという信条に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや人にとって重要ではなく、人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。……神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは神が人の終着点をいかに支配し、定めているのかを自らすすんで探し求める人はほとんどいない。こうして、人間の文明は、人間の知らないうちに、ますます人の望みどおりには行かなくなり、こんな世界に生きている自分達はすでに亡くなった人々に比べて不幸せだと感じている人さえ数多くいる。過去に高度の文明を築いた国々の人たちでさえそのような不満をあらわにしている。なぜなら、神の導きなしには、支配者や社会学者が人類の文明を維持するためにどんなに頭を悩ませても何の役にも立たないからである。誰も人の心の中の空洞を埋めることはできない。誰も人のいのちとなることはできず、どのような社会学的理論も人を悩ませる虚しさから人を解放することはできないからである。科学、知識、自由、民主主義、余暇、快適さなどは、人間につかの間の慰めしかもたらさない。これらのものがあっても、人はやはり必然的に罪を犯し、社会の不公正を嘆く。これらのものは、人の探求への渇望や欲求を抑えることはできない。人は神によって造られたからであり、人の無意味な犠牲や探索はさらなる苦悩につながるだけで、人類の将来にどのように向き合うべきか、目の前にある進路にどのように対峙すべきか分からないまま人を常に恐怖に怯えたままにさせるからである。人は科学や知識を恐れるまでになり、空虚感をそれ以上に恐れるようになる。この世であなたが自由な国に住んでいようと、人権のない国に住んでいようと、人類の運命から逃れることは決してできない。あなたが支配者であろうと、被支配者であろうと、人類の運命、奥義、そして終着点を探求したいという願望から逃れることは到底できない。ましてや、途方にくれるほどの空虚感から逃れることなどできない。全人類に共通するこの現象を社会学者は社会現象と呼んでいる。しかし、このような問題を解決できる偉人が現れることはない。人間は結局、人間に過ぎず、神の地位といのちに取って代われる人間はいない。誰もが食べる物があり、平等で自由で公平な社会だけが人類に必要なのではない。人類に必要なのは神の救いと神によるいのちの満たしである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の必要、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。一つの国や民族の人々が神の救いや配慮を得ることができなければ、その国や民族は暗黒に向かって、衰退への道を突き進み、神によって滅ぼされる。
あなたの国は今のところ繁栄しているかもしれない。しかし、国民が神から離れていくことを許すなら、その国はますます神の祝福から遠ざかることになる。あなたの国の文明はどんどん踏み躙られ、やがて人々は神に反対して立ち上がり、天を呪うことになる。こうして一国の運命は人の知らないうちに破滅する。神は強大な国々を興して神に呪われた国々を取り扱い、さらには、そうした国々を地球上から一掃することさえあり得る。一つの国や民族の興亡は、その支配者が神を崇拝しているかどうか、その国民が神に近づき、神を崇拝するように導いているかどうかにより決まる。しかし、この終末の時代に、真に神を求め神を崇拝する人はますます少なくなっているので、神はキリスト教を国教とする国々に特別な恩恵を授ける。神はそれらの国々を結集させて世界において比較的に義である陣営を形成する。一方、無神論の国々と真の神を崇拝しない国々は義なる陣営の敵になる。このようにして、神はその働きを行うための場所を人類の中に持つだけでなく、義なる権威を行使できる国々を獲得し、神に抵抗する国々に制裁と制限が課せられることを許可する。しかしそれにも関わらず、神を崇拝するために進み出でくる人がこれ以上いないのは、人間が神からあまりにも遠く離れてしまい、神をあまりにも長く忘れてしまっているからである。地上にはただ義を行使し、不義に抵抗する国々が残るだけである。しかし、これは神の願望とは程遠い。どの国の支配者も神が自国民を統括することを許さず、どの政党も神を崇拝するために人々を結集させないからである。神は各国、民族、政権政党の中心において、さらには各人の心の中においてでさえ、本来の正当な位置を失った。確かにこの世界には義なる勢力が存在するが、神が人の心の中で何の地位も占めていない統治は脆弱である。神の祝福がなければ、政治の舞台は混乱に陥り、一撃に耐えられなくなってしまう。人類にとって神の祝福がないことは、太陽がないようなものである。支配者がどれほど熱心に国民のために貢献しようが、どれほど多くの義なる会議を人類が開催しようが、どれも流れを逆転させることはなく、人類の運命を変えることもない。人々が衣食に困らない国、平和に共に暮らす国はよい国であり、良い指導者の国だと人は考える。しかし、神はそうは思わない。神は、神を崇拝する者のいない国は滅ぼすべき国であると考えている。人の考え方は、神の考え方とはあまりにも食い違っている。だから、もし国の長が神を崇拝しなければ、その国の運命は悲劇的なものとなり、その国に終着点はない。
神は人間の政治に参加しないが、国または民族の運命は神に支配されている。神はこの世界と全宇宙を支配している。人の運命と神の計画は密接に関連しており、誰もどの国も民族も神の統治から免れない。人間の運命を知りたいなら神の前に来なければならない。神に従い、神を崇拝する人々を神は繁栄させ、神に抵抗し、拒絶する人々に衰退と絶滅をもたらす。
『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 264
広大な宇宙と天空では、無数の被造物が生き、再生し、生命の周期の法則に従い、一つの不変の規則を守っている。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければならないのか。誰がこの世界を指揮しているのか。そして、誰がこの人類を造ったのか。人類は本当に母なる自然によって造られたのか。人類は本当に自分の運命を支配しているのか。……これらは数千年にわたり、人類が絶えず問い続けた疑問である。残念ながら、人類がこうした疑問に頭を悩ませれば悩ませるほど、科学への渇望がますます強くなった。科学は、肉体のささやかな充足感と束の間の享楽を与えるが、魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から人を解放することなど到底できない。人類はただ心を麻痺させるために、肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いているに過ぎない。しかしそのような科学的知識は、人類が奥義を探ることを止めるのに十分ではない。人類は、宇宙と万物の支配者が誰であるかをまったく知らないし、ましてや人類の始まりも未来も知らない。人類はこの法則の中で否応なしにただ生きている。逃れることは誰一人できないし、誰もこれを変えることはできない。万物の中で、また天において、永遠から永遠に至るまですべてを支配しているのは、ただ一つの者だからである。それは、かつて人類が見たことのない者、人類が知ることもなかった者であり、その存在を人類が信じたことはない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えた者である。それは人類に施しと糧を与え、生存できるようにした者、人類を今日まで導いてきた者である。さらにそれは、人類が生き残る上で依存する唯一の者である。彼は万物を支配し、宇宙のすべての生ける物を支配している。彼は四季を支配し、風と霜、雪と雨を呼び寄せる。彼は人類に陽光をもたらし、夜を導き入れる。天と地を整え、人間に山、湖、川、そしてそこで暮らすすべての生き物を与えたのは彼である。彼の業は至るところにある。その力は至るところにある。その知恵は至るところにある。その権威は至るところにある。その法則や規則の一つひとつは、彼の業が具現化したものであり、それぞれが彼の知恵と権威を明らかにする。誰が彼の支配を免れることができようか。また、誰が彼の采配から逃れることができようか。万物は彼の眼差しの下にあり、さらに、彼の支配の下で生きている。人類は彼の業と力の前に、彼が実際に存在し、万物を支配していることを認めざるを得ない。彼を除いては、他の何も宇宙を支配できず、ましてや人類にいつまでも施すことなどできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命が神によって定められ、神が永遠に万物を支配することに疑いの余地はない。神の存在と権威は、人間に認められ、理解されるかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関係なく、人類は近い将来、そのすべてを自らの目で見ることになる。そしてこれは、神が間もなく実現させる事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人間は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じるときもまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配と目的の一部である。神の経営が止まることはなく、絶えず前進している。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が経営してきた働きである。
『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)