霊の戦い
全能神は言われます。「神を信じるようになって以来、人は多くの間違った意図を心に抱いてきた。真理を実践していない時、あなたは自分の意図はすべて正しいと感じているが、自分に何かが起こると、あなたは自分の中には間違った意図がたくさんあることがわかる。従って、神が人を完全にする時、神は神に関する人の認識を妨害する観念が人の中にはたくさんあることに気付かせる。自分の意図が間違っていることを認めた時、自分の観念や意図に従って実践するのをやめることができ、自分に起こるすべてのことにおいて神へ証しをすることができ、自己の立場を守ることができるなら、これはあなたが肉体に反抗したことの証明となる。肉体に反抗する時、あなたの中では必然的に戦いが生じる。サタンは人を肉体に従わせようとし、肉体の観念に従い、肉体の利益を維持させようとする。しかし、神の言葉は人を啓き、心の中に光を当てる。この時、神に従うか、サタンに従うかはあなた次第である。神は人に真理を実践に移すよう要求するが、それは心の中の物事をおもに取り扱い、神の心に従っていない思いや観念を取り扱うためである。聖霊は人の心を感動させ、人を啓き、そして光を当てる。ゆえに、起こることすべての背後には戦いがある。人が真理を実践するたびに、あるいは神への愛を実践するたびに、激しい戦いがあり、すべては肉体にとってうまく行っているように見えるかもしれないが、実のところ、人の心の奥底では生と死の戦いが起こりつつあり、この激し戦いの後で初めて、膨大な熟考をした後ようやく、勝利か敗北かが決められる。人は笑うべきか、泣くべきかわからない。人の中の意図の多くが間違っているので、あるいは神の働きの多くは人の観念と食い違っているので、人が真理を実践に移す時、激しい戦いが舞台裏では行われる。この真理を実践に移した後、舞台裏で人は悲しみの涙を数えきれないほど流し、ついに神を満足させる決心をする。人が苦しみや精錬に耐えるのはこの戦いのためである。これは本当の苦しみである。戦いになった時、本当に神の側に立つことができれば、あなたは神を満足させることができる」(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉を読んで、私は深く感じました真理の実践はまったく簡単なことではなく、霊の戦いが本当に必要なのだと。数年前、私の義妹が悪人だと判明しました。教会は彼女を追放する意向でしたが、私は自分の感情に縛られて真理を実践することができませんでした。心の中で戦いを繰り返し、とてもつらい思いをしました。神の御言葉の裁きと暴きを通じてようやく感情を基に行動することの危険と結末がはっきりわかったのです。そのとき初めて、私は自分の肉と感情を捨て、悪人を暴いて拒み真理の実践がもたらす安心と安定をついに享受することができました。
2017年、私は地元の教会で指導者の本分を尽くすために帰郷しました。集会のとき、兄弟姉妹が言いました。私の義妹、韓冰が教会指導者の本分を尽くしていた際に集会で交わりを行ないながら、表面的な言葉や教義を語ることで、自分を誇示しようとしたというのです。どこに行っても自分がこれまでに尽くした本分や受けた苦しみを語るばかりで他人に自分を崇めさせ、耳を傾けさせようとしていたのです。本分を尽くす上での問題点について、兄弟姉妹が相談したところ義妹は真理の交わりによってその問題を解決しようとせず、偉そうに説教しました。その説教のせいで消極的な状態の中で生き、本分への関心をすっかり失う兄弟姉妹もいました。その後、韓冰は解任されました。それ以降、彼女は自己反省して自分を認識することを拒み依然として兄弟姉妹のあいだで挑発や争いを引き起こし、教会生活を妨げました。教会指導者は彼女と何度か交わり、取り扱って批判もしたのですが義妹はそれをまったく受け入れませんでした。不服と不満を抱えたまま、消極性を広め続け教会生活をひどく妨害しました……韓冰がこのように振る舞っていたのを聞いて私は激怒し神の御言葉を思い出しました。「教会内で毒々しい邪悪な言葉を放ち、兄弟姉妹の間で噂を広め、不和を助長し、派閥を組む者たちは、教会から追放されるべきであった。しかし、現在は神の働きの別の時代であるため、そのような人は制限を受ける。なぜなら、彼らは確実に淘汰されるからである。サタンにより堕落させられた者はみな性質が堕落している。性質が堕落しているだけの人がいる一方で、そうではない人もいる。そのような人は堕落した性質をもっているだけでなく、本性もまた悪意を極めているのである。彼らの言動が堕落したサタン的性質を示すのみならず、彼ら自身が真の悪魔サタンである。彼らのふるまいは神の働きを妨害し、混乱させ、兄弟姉妹のいのちへの入りを阻害し、正常な教会生活を破壊する。彼らのような羊の皮を被った狼は、遅かれ早かれ一掃されなければならない。こうしたサタンの僕に対しては、手厳しい態度、拒絶の態度で臨む必要がある」(『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉のこの一節を思い出し神の御言葉に照らせば、韓冰の本性と本質はまさに悪人のそれだとはっきりわかりました。教会指導者と同労者たちは神の御言葉に照らして彼女の振る舞いを分析し彼女は自分を捨てて費やし、本分を尽くしながら苦しんで代価を払うことができるものの傲慢かつ尊大で、真理をまったく受け入れず自分勝手で軽率で、教会生活を乱し、指摘を受けても自分の過ちを改めないと言いました。彼女はそのせいで悪人になったのです。神の家の働きの手引きにある規定によると、このような人は追放されなければなりません。彼女は教会から追放されるべきだとこれほど多くの兄弟姉妹が言うのを聞いて私はとても葛藤しました。彼女の振る舞いを見れば、本当に悪人で追放されるべきなのはわかります。しかし彼女は妻の妹であり、義理の両親は私に親切で、私の家族をとても気遣ってくれています。私が韓冰の追放に投票したのを知ったら私のことを薄情で、恩知らずで、家族に対する感謝の気持ちがないと思わないだろうか? そんなことをすれば、義理の家族にどう顔を合わせればいいだろう? しかし教会指導者として、原則に従って行動せず教会に悪人がいるのを知りながら彼女を追放することもなくこの悪人が教会生活を乱し、神の選民に害を与えるのを許し続ければ私は悪人の共犯者、神の敵にはならないだろうか? 当時、私はにっちもさっちも行かず、どうすべきかわかりませんでした。私が悩んでいるのを見た周姉妹はこう言ってくれました。「梁兄弟、韓冰は何度も教会生活を乱し、悔い改めのしるしを少しも見せていません。原則に従えば、彼女は教会から追放されるべきです。これは教会の働きを守ることです。一番大事なことなんですよ!」「私たちは神の御心を考える必要があり、自分の感情や私情を基に行動してはいけません」彼女の話を聞いて、私はますます葛藤しました。
ちょうどそのとき、一部の兄弟姉妹がこう提案しました。「韓冰は長年にわたって神を信じてきた。本分を尽くすために家族と職を捨て、多くの苦しみを受けてきた。もう一度悔い改めの機会を与えるべきだと思う」その言葉を聞いた私はこの兄弟姉妹がそう言うのは韓冰の表面的な善行に惑わされているからに過ぎず韓冰の本性と本質を識別できるよう彼らと真理について交わり、韓冰の振る舞いを分析すべきだとはっきり認識していました。しかしそのとき韓冰は義理の両親のお気に入りの娘で義母は神への信仰について混乱しており、識別力がなくまた私の妻もひどく感情的なのを思い出しました。韓冰の追放を決定し彼女の悪事を兄弟姉妹に暴いて分析すれば自分は妻の家族全員を露骨に傷つけることにならないか? 兄弟姉妹の前で韓冰に関する良い話をいくつかしてそれから彼女と交わり、悔い改めてこれ以上の混乱をもたらさないように求めれば彼女を教会から追放しなくても済むチャンスが生まれるかもしれない。そうすれば、私も妻の家族を傷つけずに済む。こう考えると不安がいくらか軽くなりそこで兄弟姉妹にこう言いました。「韓冰は確かに悪事と過ちを犯した。しかし最大限可能な限り人をお救いになるのが神の御心なのだから私たちは彼女に悔い改めの機会を与えるべきだ。再び悪事を犯したら、そのとき追放しても手遅れにはならない。それに、彼女を心から納得させることができる」私がこうしたもっともらしいことを言うのを聞いて周姉妹は何かを言いたげでしたが、結局黙っていました。他の誰も何も言わず私は心の緊張がいくらかほぐれるのを感じました。内心では、これでようやく義理の両親を傷つける心配をしなくて済むと思ったのです。しかし二日後、私は突然口内炎を発症しました。三つもあったのです。口の中が燃えるようで、激しく痛みました。痛さのあまり話すことも食べることもできず夜中に目が覚めるほどひどくなることもありました。苦痛の中、私は神に祈ることしかできませんでした。「神よ、私の口と舌を苛むこの炎症は単なる偶然の結果ではなく私に対するあなたの懲らしめと鍛錬だということはわかっております。ああ神よ! あなたに悔い改めたいと思います」。
その後、私はデボーションの時にこの神の御言葉の一節を読みました。「神を真に信じる人の心には常に神がいて、内には神を敬い畏れる心、神を愛する心が常にある。神を信じる人は注意深く慎重に物事を行い、すべての行動が神の要求に従い、神の心を満たせるものでなくてはならない。強情であってはならず、自分が望むままに行動してはならない。そのようなことは聖徒としての作法に不適である。人間は神の旗印を誇示してあちらこちらを暴れ回ったり、いたるところで虚勢を張ったり、詐欺を働いたりしてはならない。これは最も反逆的な行為である。家族には決まりがあり、国家には法律があるのだから、神の家ではなおさらのことではないか。その基準はさらに厳格ではないのか。さらなる行政命令があるのではないか。人間には好きなことを行う自由があるものの、神の行政命令を思いのままに変えることはできない。神は人間による背きを許さず、人間を死に至らしめる神である。人はこのことをまだ知らないのか」(『神の出現と働き』「真理を実践しない人への警告」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉に私は恐怖で震えました。神の性質は聖く義であり、背きを許さないことがわかったのです。神の家ではキリストと真理が力を握っています。教会の働きを乱して妨げる悪人に対し、神の態度は憎悪と嫌悪です。そして識別力をもちながら悪人の側に立ち、彼らを擁護する者に対し神の態度は極度の嫌悪と怒りです。真理の実践を拒み、挑発と争いを引き起こし、教会の働きを乱して妨げた韓冰はまさに神の働きによって暴かれた悪人であり、追放されるべき人間です。しかし私は妻の家族との関係を守るため真理の原則を売り渡すことで露骨に良心に背きました。悪人をかばって言い訳をしてやったのです。私は悪人の側に立ち、悪人を守る行動をしました。そのせいで悪人の支援者、共犯者になったのではないでしょうか? 神は指導者の本分を与えることで私を称揚してくださいましたが、私には神を畏れる心がまったくありませんでした。真理をはっきり知りながら実践せず、その代わりにわざと欺き教会生活を妨げ、兄弟姉妹に害をなしていた悪人を教会に留めました。そうと知りながらわざと神の性質に背いていたのです! 私の行ないは他の人を騙したかもしれませんが、神は騙せませんでした。神は私たちの心にあるものをご覧になります。これほど自分勝手かつ軽率に振る舞った私のような人間を、神がどうしてお許しになるでしょう。私はすでに過ちを犯しており、悔い改めなければ神に淘汰されることはわかっていました。そこですぐさま神に祈り、悔い改めました。それから同労者と何度か話し合い、韓冰の悪事をリストにまとめ教会からの追放を申請しました。神のほうに立ち返る意志が見つかると、不思議なことに口内炎が治りました。
二日後、用事があって義母の家を訪れると、そこには韓冰がいました。彼女は私を見ると睨みつけ、振り向いてその場を去りました。すると義母が怒りも露わに言いました。「あなたの義妹は長年神を信じ、福音を広めるために多くの苦しみを受けてきたのよ。堕落した性質がない人間なんているの? 教会があの子を追放するなら、悔い改めて神の救いを得る機会を失ってしまうんじゃない? あなたがそこまであの子に冷たいとは思わなかったわ!」私の妻も割り込んできて、韓冰の弁護をしました。二人が感情的になり、韓冰のことを識別できていないのを見た私は彼女の悪しき振る舞いについて二人と交わりました。しかし義母はまったく耳を貸そうとせず、涙をこぼしながら私に怒りをぶつけました。その怒りを目にした妻も一緒になって私を責めました。それを見た私は食事が喉を通らないほど弱くなり、つらい思いをしました。その夜、私はどうしても眠れず、ベッドで寝返りを繰り返しました。自分は教会の働きを守るために悪人を追放しなければならない。一方、妻と義母から非難されている。自分はどうすべきか? 義妹を追放すれば、義母の家族全員を傷つけることになる。そうなれば妻との関係も悪くなるし、私の家族が壊れるかもしれない。しかしこの悪人が教会に留まるのを許せば教会生活を危険に晒し兄弟姉妹のいのちに害を与えてしまう。そう考えるとつらくてたまらず、心の中で葛藤しました。私にできたのは真剣に神に祈ることだけでした。「神よ、私はとても弱っています。韓冰を追放することに関し、私はあなたに背きたくありません。しかし自分の感情に縛られ、真理を実践するのが困難です。どうか私に力を与えしっかり立ってあなたの証しをできるよう、私をお導きになり、闇の勢力に勝たせてください」。
祈った後、私は神の御言葉をさらに読みました。「神が人において行う働きのあらゆる段階において、それはあたかも人の手配により、あるいは人の干渉から生まれたかのように、外面的には人々の間の相互作用のように見える。しかし舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人は神への証しにおいてしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった」(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」〔『言葉』第1巻〕)。「皆が自分は神の重荷を思いやっており教会の証しを守るつもりだと言うが、一体誰が本当に神の重荷を思いやったのか。自問してみなさい、あなたは神の重荷に配慮を示した人間なのか。神のために義を実践することができるか。立ち上がってわたしのために語ることができるか。真理を揺るぎなく実践に移すことができるか。サタンのすべての仕業に大胆に立ち向かうことができるか。わたしの真理のために、感情を脇に置き、サタンを暴露することができるか。わたしの旨をあなたの中で成就させることができるか。最も重要なときに、自分の心を捧げたのか。あなたはわたしの旨を行う者か。こうしたことを頻繁に自問し、考えてみなさい」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十三章」〔『言葉』第1巻〕)。私を咎める神の一言一句が心に突き刺さり、私は苦痛を感じました。神の切実な御心と要求をその中に感じ取ったのです。自分の感情や私情に頼ることなく悪人の追放という件を扱い揺らぐことなく神の側に立ち、真理を実践して神の御心を満たすことを、神は私に望んでいらっしゃいました。私は試練を受けているヨブのことを考えました。表面上、ヨブは富を奪われ、子どもたちは死に、召使いは殺され妻と三名の友人が彼を攻撃しましたがそれらの出来事の裏側では、サタンが神と賭けをしていました。それらはヨブに降りかかったサタンの試みだったのです。神への信仰と畏敬のおかげで、ヨブは最後に神の側に立つことができました。サタンに屈辱と失敗を味わわせ、鳴り響くような力強い神の証しをしたのです。表面上は義母からさらなる圧力を加えられたように見えても実際には霊の領域での戦いだったのです。それはサタンの策略であり、私の愛情を利用して真理の実践を妨げる試みでした。それによって悪人が留まり、引き続き教会の働きを乱して破壊できるようにしたのです。しかし神はこの件をお使いになって私を試し私が妻と義母の拘束のせいでサタンに服従するのかあるいは義を守り、真理を実践し、原則に従って行動するのかをご覧になっていたのです。自分の肉を満足させてサタンの側につくほうを選べばそれはサタンの策略に陥ったことを意味しないでしょうか? そんなことをすれば、私は神の御前で証しを失うでしょう。
それらを考えた私は、自分を反省し始めました。今までずっと、この選択に向き合いながら自分はどうしてにっちもさっちも行かず、あれほどつらい思いをしていたのか? 教会の働きを守る必要性をはっきり認識していたのにどうして自分の感情を基に行動し続け、真理を実践して原則に従って行動するのが難しかったのか? その後、私は神の御言葉のこの一節を読み、問題の根源を見つけました。「ひどく汚れた地に生まれ合わせて、人は社会に駄目にされ、封建的倫理の影響を受け、『高等教育機関』で教えを受けてきた。時代遅れの考え方、堕落した倫理観、さもしい人生観、卑劣な人生哲学、全く価値のない存在、下劣な生活様式と風俗、これらはすべて人の心をひどく侵害し、その良心をひどくむしばみ、攻撃してきた。その結果、人はますます神から離れ、ますます反対するようになった。人の性質は日ごとに悪質になり、神のために進んで何かを投げ出そうという者は一人としておらず、進んで神に従う者は一人としておらず、さらには神の出現を進んで探し求める者も一人としていない。それどころか、サタンの支配下で快楽を追求しているだけで、泥の地で肉体の堕落にふけっている」(『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉から自分の感情の中で生き、真理を実践することができず、神に背いて抵抗する状態にあったのはひとえにサタンに堕落させられていたからだ、ということがわかるようになりました。悪魔の王サタンは社会的洗脳や学教教育を使い「己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす」「身内の絆は他人より強し」「人は木石にあらず。どうして感情を捨てられよう」などといったサタンの哲学を植えつけることで、他人への感情が人生で一番重要だという見方を抱かせ対人関係を守って人の感情を気にかけることが人のあるべき姿だと思い込ませそうしないのは薄情かつ不実なことで、そのせいで他人に非難されると信じさせたのです。私はこうしたサタンの哲学を肯定的なものと捉え、生きる上での原則だと考えるとともにこうしたサタンの哲学や法則に従って生きる中で、原則をもたず、正邪の区別がつかなくなり極めて利己的で、卑劣で、ずる賢く、不実になってしまいました。韓冰を追放する件についても、親戚に恩知らずで薄情だと言われ、家族が壊れることを恐れました。そのせいで教会の働きと兄弟姉妹のいのちを無視したのです。私は本当に利己的で卑劣でした。このように振る舞っていた私は、まさに恩知らずで薄情だったのです。私たちの社会がこれほど暗くて邪悪なのはなぜか、公平さも正義も一切ないのはなぜかを考えるとそれはすべての人がこうしたサタンの哲学や法則に従って暮らしているからです。どのような集団でも、人は肉体に関する感情的な関係にしか関心がありません。一番親しい人たちを擁護するだけです。その人たちが違法行為や犯罪に手を染めたとしても彼らを守って助ける方法を考え、彼らを擁護する中で正邪の区別がつかなくなります。そのとき初めて、こうしたサタンの哲学や法則は理知的かつ倫理的で、人間の観念と一致しているように見えるものの実際にはサタンが人を騙して堕落させるために用いる馬鹿げた誤謬だと、はっきりわかったのです。それらは真理と神に敵対しています。これらによって生きるとき、私たちは神に背いて抵抗し、他人を傷つけ、悪魔の本性を生きることしかできません。以前、私はこのようなサタンの哲学と法則に従って生き悪人を守って彼女の悪事の片棒をかついでいました。しかし、神は過去の過ちを私につきつけることなく、なおも悔い改めの機会を与えてくださいました。それについて、私は心から神に感謝しています。そこで静かに神に祈り、誓いを立てました。神よ、私はこれ以上自分の感情を基に行動したくはありません。あなたの御言葉どおり、あなたが愛されるものを愛し、あなたが憎まれるものを憎み真理の原則を守り、ただちに教会から悪人を追放することだけを願います。
翌日、私は同労者との集まりで韓冰が依然として自分を認識しておらず、一切悔い改めていないと同労者から聞かされました。いまだに挑発を行ない、不和を広め、徒党を組もうとしているというのです。それを聞いて、私はさらに自分を責めました。自分の感情を基に行動し、すぐに彼女を追放せず教会生活を乱すのを許してしまった自分を憎んだのです。その後、次の集会の際、私は意識的に神の御言葉を使い韓冰の悪しき振る舞いを一つひとつ分析して識別するようにしました。そして交わりを通じ彼女に騙された兄弟姉妹も識別力をもち、彼女を拒み始めました。妻も真理を理解した後、韓冰の本性と本質を識別できるようになり彼女は公平に扱われていないと言うこともなくなりました。韓冰が教会から追放されると悪人によって乱されることがなくなったので兄弟姉妹は再び正常に集会に出て、本分を尽くせるようになりました。みんなで神の義を讃えたのです! 私はこの出来事のおかげで、神の家では神の御言葉と真理が力を握っていることすべては真理の原則に従って処理されることそして非信者、悪人、反キリストは神の家にとどまれないことがわかりました。また、サタンの哲学と法則によって生きることは、私たちに苦痛しかもたらさないことも自ら経験しました。それは私たちにも、他の誰にも、一切益をもたらさないのです。神の御言葉によって生きることでのみ、私たちは安心と穏やかさを心から感じることができます。今日、私がもはやサタンの哲学や法則によって生きていないことそして感情の束縛を打ち破り、真理を実践し、少しばかりの義をもって生きられることはひとえに神の救いのおかげであり、神の御言葉の裁きと刑罰の効果なのです。