第1節 人間に対する神の要求

605. 現在、あなたがたは神の民になることを追い求め、正しい道への全面的な入りを始めるべきである。神の民になることは、神の国の時代へ入ることを意味する。今日、あなたがたは神の国の訓練へと正式に入り始め、あなたがたの未来の生活は以前のように怠慢でいい加減なものではなくなる。以前のように生きるならば、神が求める基準に達することはできない。緊迫感がないのであれば、それはあなたに自分を改善する願望がなく、あなたの追求はまごつき混乱しており、あなたは神の旨を満足させられないことを示している。神の国の訓練に入ることは、神の民の生活を始めることを意味する。あなたはそうした訓練を受け入れる覚悟があるか。緊迫感をもつ覚悟があるか。神の鍛錬の下で生きる覚悟があるか。神の刑罰の下で生きる覚悟があるか。神の言葉があなたに臨み、あなたを試すとき、あなたはどう行動するのか。あらゆる事実に直面したとき、あなたは何をするのか。過去において、あなたはいのちに重点を置いていなかった。そして今日、あなたはいのちの現実に入り、いのちの性質の変化を追い求めなければならない。それが神の国の民によって達成されなければならないことである。神の民である者はみないのちをもち、神の国の訓練を受け入れ、いのちの性質の変化を追い求めなければならない。それが神の国の民に対して神が求めることである。

神の国の民に対する神の要求は次のとおりである。

1) 神が託す任務を受け入れなければならない。つまり、神による終わりの日の働きで語られた言葉をすべて受け入れなければならない。

2) 神の国の訓練に入らなければならない。

3) 自分の心が神によって感動することを追い求めなければならない。あなたの心が完全に神へと立ち返り、正常な霊的生活があれば、あなたは自由の領域で生きることになり、それは神の愛の配慮と加護のもとで生きることを意味する。神の配慮と加護のもとで生きて初めて、あなたは神のものになる。

4) 神によって得られなければならない。

5) 地上における神の栄光の顕示とならなければならない。

以上の五点があなたがたに託すわたしの任務である。わたしの言葉は神の民に向けて語られており、もしもあなたにこれらの任務を受け入れる気がないのであれば、わたしは強制しない。しかし、もしも誠実に受け入れるなら、あなたは神の旨を行なうことができる。今日、あなたがたは神が託す任務を受け入れ始め、神の国の民になること、そして神の国の民であるために求められる基準に達することを追い求める。これが入りの第一歩である。神の旨を完全に行なうことを望むなら、これら五つの任務を受け入れなければならず、これらを達成することができれば、あなたは神の心にかない、神は必ずやあなたを大いに用いるだろう。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

606. 今日あなたがたが受け継いだものは、各時代の使徒や預言者が受け継いだものを超えており、モーセやペテロが受け継いだものよりも大きい。一日二日で祝福を得ることはできない。祝福は、多大な犠牲を通じて獲得されなければならない。つまりあなたがたは、精錬を経た愛、大きな信仰、そして神があなたがたに獲得することを求めている、数多くの真理を自分のものにしなければならない。さらには、怯えることも逃げることもなく、正義に真正面から向き合い、神に対して不変かつ衰えることのない愛をもたなければならない。あなたがたは不屈の意志をもたなければならず、自分のいのちの性質に変化が生じなければならず、堕落は癒されなければならず、神の指揮をことごとく、不平を言わずに受け入れなければならない。また、死に際しても従順でなければならない。これが、あなたがたが達成すべき神の働きの最終目標であり、神がこの人々の集団に求めることである。神は、あなたがたに与えるからには、必ずや見返りを求め、適切な要求をあなたがたにする。ゆえに、神の働きにはすべて理由があるのであって、そのことは、神がかくも厳密かつ過酷な働きを繰り返し行う理由を示している。それゆえ、あなたがたは神への信仰で満ちていなければならない。つまり、あなたがたが神の遺産を受け継ぐにふさわしくなれるよう、神の働きはことごとくあなたがたのために行われるのである。それは神自身の栄光のためではなく、あなたがたの救いのため、そして不浄の地でひどく苦しんできたこの人々の集団を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。そこでわたしは、洞察力も理知もないあまたの無知な人に忠告する。神を試すな。神に二度と抵抗するな。神は、人には耐えられない苦しみをすでに耐え忍んできた。人に代わって、はるか以前にもっとひどい屈辱を耐え忍んだ。あなたがたに手放せないものなど他にあろうか。神の旨以上に大事なものがあろうか。神の愛以上に高いものがあろうか。この不浄の地で神が働きを成し遂げることだけでも、十分困難である。その上、もし人が分かっていながら意図的に過ちを犯したら、神の働きは延長せざるを得ない。要するに、延長など誰のためにもならず、誰の利益にもならないのである。

『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」(『言葉』第1巻)

607. わたしが話すことは全人類に向けた真理である。それは特定の人物やある種の人物だけに向けたものではない。だからこそ、あなたがたはわたしの言葉を真理の視点から理解することに専念し、真摯に集中して耳を傾けなければならない。わたしの話す言葉や真理はどれ一つとして無視してはならず、わたしの言葉はどれも軽く扱ってはならない。あなたがたが生活において、真理に無関係なことを数多く行なってきたことをわたしは知っている。そこでわたしはあなたがたに特に求めたい。それは、真理のしもべとなり、邪悪さや醜さの奴隷になることなく、真理を蹂躙したり、神の家のどの一角をも汚したりしないということである。これは、わたしからあなたがたへの戒めである。

『神の出現と働き』「三つの訓戒」(『言葉』第1巻)

608. わたしはただ、あなたがたがわたしの苦心を無駄にせず、そしてそれ以上に、わたしの配慮と思いやりを理解して、わたしの言葉を人としての振る舞いの基盤とすることを願うのみである。それがあなたがたの聞きたい言葉かどうか、喜んで受け入れられる内容か、または不快ながらも受け入れるしかないものかどうかによらず、あなたがたは必ず真剣に受け止めなければならない。さもなくば、あなたがたのいい加減で無神経な性質と態度はわたしをまったく不快にし、嫌悪さえ抱かせるであろう。わたしはあなたがた全員が、わたしの言葉を何度も何度も――何千回も――繰り返し読んで、心に刻み込むことさえできるようになることを切に願っている。そうすることによってのみ、あなたがたはわたしの期待を裏切らないようになれる。しかし現在のところ、そのように生きている者は皆無だ。逆に、あなたがたは欲しいだけ飲み食いする放縦な生活に浸り、わたしの言葉で心と霊を豊かにしている者は一人もいない。このためわたしは、人間の本当の顔についての結論に至ったのだ。人はいつでもわたしを裏切れるものであり、わたしの言葉に完全に忠実になれる者はいない、と。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(1)」(『言葉』第1巻)

609. 神が求めるのは人間からの一途な愛、そして人間が神の言葉によって、神への愛に満ちた心によって占められることである。神の言葉の中で生き、自分が求めるべきものを神の言葉の中から探し、その言葉ゆえに神を愛し、神の言葉のために奔走し、神の言葉のために生きることこそ、人間が努力して成し遂げるべき目標である。すべては神の言葉の上に築かれなければならない。そうして初めて人間は神の要求を満たすことができる。神の言葉を備えていなければ、その人はサタンに取り憑かれた蛆虫に過ぎない。次のことを考えなさい。神の言葉のうち、自分の中に根づいているものはどのくらいあるのか。自分はどの物事において、神の言葉にしたがって生きているのか。自分はどの物事において、神の言葉にしたがわずに生きてきたのか。神の言葉がいまだに自分の中で完全に根づいていないなら、自分の心を占めるのはいったい何なのか。日常生活において、自分はサタンに支配されているのか、それとも神の言葉によって占められているのか。神の言葉が自分の祈りの基礎となっているか。自分は神の言葉の啓きによって否定的な状態から脱したのか。神の言葉を自分の存在の基盤にすることが、誰もが入らなければならないことである。神の言葉があなたの生活に存在していなければ、あなたは暗闇の影響下で生き、神に反抗し、神に逆らい、神の名を汚している。このような人たちの神に対する信仰は害悪と撹乱以外の何物でもない。自分の人生のうち、あなたはどれほどの期間を神の言葉にしたがって生きてきたのか。また自分の人生のうち、どのくらいの期間を神の言葉にしたがわずに生きてきたのか。神の言葉があなたに要求したことのうち、どれほどのものがあなたの中で成就されたのか。どれほどのものがあなたの中で失われたのか。あなたはこうしたことをじっくり見つめたことがあるのか。

『神の出現と働き』「暗闇の影響から脱すれば、あなたは神のものとされる」(『言葉』第1巻)

610. あなたがたは、天における祝福のようなわたしの祝福を地上で受けたいと思っているのだろうか。あなたがたは、わたしについての理解、わたしの言葉の享受、わたしについての認識をあなたがたの人生で最も貴重で意味深いものとして扱うつもりがあるだろうか。あなたがたは自分の前途を考えることなく、わたしに従うことがほんとうにできるのか。あなたがたは羊のようにわたしに殺されたり、わたしに導かれたりすることがほんとうにできるのか。あなたがたの中にこのようなことをなし遂げ得る人はいるだろうか。わたしが受け入れ、わたしの約束を受ける人はみな、わたしの祝福を受ける人だということがあり得ようか。あなたがたはこうした言葉から何かを理解しているのだろうか。もしわたしがあなたがたを試したら、あなたがたはほんとうにわたしにすべてを委ね、そうした試練の中でわたしの意図を探り、わたしの心を理解することができるだろうか。あなたが多くの感動的な言葉を述べたり、興奮するような物語を語ったりすることができることを、わたしは望まない。むしろ、わたしに立派な証しをすること、現実に完全に深く入ることができることを求める。もしわたしが直接話さなければ、あなたは周囲のすべてを捨て、わたしに用いられることができただろうか。これがわたしが求める現実性なのではないか。誰がわたしの言葉の意味を把握できるだろうか。しかしわたしは、あなたがたがこれ以上不安に押しつぶされず、入りにおいて積極的になり、わたしの言葉の本質を把握するよう求める。これが、わたしの言葉を誤解したり、わたしの意味するところについて不明瞭であったり、わたしの行政命令に触れたりすることを防ぐだろう。わたしがあなたがたについて意図していることをわたしの言葉の中に把握してくれることを願う。もはや自分の前途については考えず、すべての物事における神の采配に委ねるとわたしの前で決心したそのとおりに行動しなさい。わたしの家の内に立つ者はみな、できる限りの努力をしなければならない。わたしの地上での働きの最終部分に自己の最善を差し出さなければならない。あなたは、このように実践する気持ちがほんとうにあるだろうか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第四章」(『言葉』第1巻)

611. わたしの民は常にサタンの狡猾な企みを警戒し、わたしの家の門をわたしのために守り、互いに支え合い、施し合わなくてはならない。そうすることで、あなたがたはサタンの罠に陥ることがなくなるだろう。その時は、もう後悔しても手遅れなのだから。なぜわたしはこれほど早急にあなたがたを訓練しているのか。なぜ霊の世界に関してあれこれ語るのか。なぜあなたがたに何度も思い出させ、熱心に忠告するのか。あなたがたはかつてこのことについて考えたことがあるだろうか。あなたがたは理解したことがあるだろうか。このように、あなたがたは過去の基盤に基づく熟練が必要なだけでなく、さらには今日のわたしの言葉に従って自分自身の中の不純物を追い出し、わたしの言葉の一語一語を根付かせ、あなたの霊において花咲かせ、さらに重要なことには、もっと多くの実を結ばせなくてはならない。わたしが求めるものは明るく、繁茂した花ではなく、豊富な果実――さらには、悪くならない果実だからである。わたしの言葉の本当の意味がわかるだろうか。温室の花は星の数ほどあり、旅行者たちを惹きつけるが、いったん萎れるとサタンの偽りの計画のようにぼろぼろになり、誰も興味を示さなくなる。しかし、風に打たれ、太陽に照らされ、わたしに証しを立てる人々にとって、これらの花は美しくはないが、花が萎れると実がなる。これがわたしの要求だからだ。わたしが語るこれらの言葉を、あなたがたはどのくらい理解しているだろうか。いったん花が萎れ、実を結び、その実った実のすべてがわたしの喜びとして供されたならば、その時わたしは地上におけるわたしの働きのすべてを終え、わたしの英知の結晶を楽しみ始めるだろう。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第三章」(『言葉』第1巻)

612. 長年にわたり神を信じている者はみな美しい終着点を心から望んでおり、神を信じるすべての者は幸運が突然自分に訪れることを望んでいる。また知らないうちに、天国のどこかで安らかに落ち着いていたいと誰もが願う。しかし、こうした美しい考えをもつ人々は、自分が天から舞い降りるそのような幸運を得たり、果ては天国で居場所を得たりする資格があるかどうかを一切知らないと、わたしは言っておく。現在、あなたがたは自分のことをよく知っているが、それでも終わりの日の災いと、邪悪な者たちを懲罰する全能者の手から逃れることを願っている。美しい夢を抱き、物事が自分の望み通りになるよう願うことは、誰かの思いつきではなく、サタンが堕落させてきたすべての人々の共通点であるかのように思われる。たとえそうでも、わたしは依然として、あなたがたの途方もない欲望と、祝福を得ることへの熱望に終止符を打ちたいと思う。あなたがたの過ちが多数あり、反抗した事実が増え続ける一方であることを考えると、どうしてそうした事柄があなたがたの美しい未来像にふさわしいだろうか。好きなように生き続けることを望み、自分を抑えるものがないまま間違った状態に留まり、それでもなお夢を叶えたいというのであれば、朦朧としたまま目を覚まさないよう勧める。なぜなら、あなたの夢は空虚であり、義なる神の前において、神はあなたを例外にはしないからである。ただ夢を叶えたいのであれば、決して夢見ず、むしろ永遠に真理と事実を直視しなさい。これが、あなたが救われる唯一の方法である。具体的に言って、この方法にはどのような段階があるだろうか。

まずは自分の過ちに残らず目を向け、真理と一致しない行動、および考えをすべて検討しなさい。

これは容易に実行できることであり、知力のある者ならば可能なはずだ。しかし、過ちと真理の意味をまったく知らない者は例外である。基本的な知力がない者だからである。わたしは、神に認められ、正直であり、行政命令の重大な違反を犯したことがなく、自分の過ちを容易に識別できる人々に話をしている。これはあなたがたに求めることのうち、容易に達成できるものであるが、あなたがたに求める唯一のことではない。いかなる場合も、あなたがたがこの要求を密かに笑い飛ばさないこと、また何より、それを見下したり軽視したりしないことを願う。あなたがたはそれを真剣に扱わねばならず、無視してはならない。

二番目に、自分の過ちと反抗の一つひとつについて、それに相当する真理を探し、その真理でそれらの事例を解決しなければならない。それから自らの過った行ない、および反抗的な思想や行為を、真理の実践と置き換えなさい。

三番目に、常にずる賢く狡猾な者ではなく、正直者にならねばならない。(ここで再び、あなたがたに正直者となるようわたしは求める。)

この三つをすべて成し遂げられるなら、あなたは幸運な者であり、夢が叶う者であり、幸運を手にする者である。あなたがたは魅力に乏しいこの三つの要求を真剣に捉えるかもしれないし、あるいは無責任に扱うかもしれない。いずれにせよ、わたしの目的は、あなたがたの夢を叶え、あなたがたの理想を実現させることであり、あなたがたをからかったり馬鹿にしたりすることではない。

『神の出現と働き』「過ちは人間を地獄へ導く」(『言葉』第1巻)

613. わたしには多くの望みがある。あなたがたが適切かつ行儀良く振る舞い、忠実に自分の本分を尽くし、真理と人間性を備え、自分がもつすべてのもの、および自分の命さえも神に捧げられる人になることなどを、わたしは望んでいる。これらの望みはどれも、あなたがたに欠けている物事、そしてあなたがたの堕落と反抗から生じたものである。あなたがたとの対話がどれも、あなたがたの注意を引きつけるのに十分でなかったならば、おそらくわたしは話を止めるしかないだろう。しかし、あなたがたはその結果がどうなるかを理解している。わたしは休むことがないので、話をしていなければ、人々が目を向ける何かをするだろう。わたしは誰かの舌を腐らせたり、身体をばらばらにして死なせたり、神経の異常を起こして多くの点で醜悪な姿にさせたりすることもできる。あるいは、それぞれの人のために用意した苦悶を味わわせることもできる。そのようにすれば、わたしは喜び、きわめてうれしく、大いに満足するであろう。これまで常に「善には善、悪には悪をもって報いよ」だったのだから、なぜ今もそうであってはならないのか。あなたがわたしに反対し、何らかの批判をしたいのであれば、わたしはあなたの舌を腐らせるであろうし、それにわたしは限りなく喜ぶ。なぜなら、あなたが行なってきたことは最終的に真理ではなく、ましてやいのちに何の関係もないのに対し、わたしが行なうことはすべて真理であり、わたしの業はどれも、わたしの働きの原則と、わたしが定めた行政命令に関係しているからである。したがって、わたしはあなたがた一人ひとりに対し、善行を積み重ね、かくも多くの悪事を止め、時間がある際にはわたしの要求に注意するよう強く勧める。そうであれば、わたしは喜びを感じるだろう。言っておくが、あなたがたが肉に傾ける努力のうち、そのわずか千分の一でも真理に捧げる(ないしは施す)のであれば、あなたは頻繁に過ちを犯さず、口が腐ることもないだろう。これは明白なことではないか。

『神の出現と働き』「過ちは人間を地獄へ導く」(『言葉』第1巻)

614. 人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

615. あなたがたは開かれた正直な心でもってできる限り自分の本分を尽くし、必要な代償であれば何でも払う覚悟をしなければならない。あなたがたが述べた通り、その日が来た時、神のために苦難を受けて代償を払った者を神がいい加減に扱うようなことは決してない。このような信念は保つ価値のあるものであり、決して忘れないことは正しい。このような方法でなければ、あなたがたに関してわたしの気が安まることはない。さもなければ、あなたがたは永遠にわたしの気が安まることのない人たちとなり、あなたがたは永遠にわたしの嫌悪の対象となる。あなたがた全員が自らの良心に従い、わたしのために自己のすべてを与え、わたしの働きのために努力をいとわず、わたしの福音の働きに一生涯分の精力を捧げるならば、わたしの心はあなたがたのためにいつも歓喜して飛び跳ねるのではないのか。そのように、あなたがたに関してわたしは心をすっかり安らげることができるのではないのか。

『神の出現と働き』「終着点について」(『言葉』第1巻)

616. 神が各時代に表わす性質を、あなたは具体的に、その時代の意義を適切に伝える言葉で示せるだろうか。神による終わりの日の働きを経験しているあなたは、神の義なる性質を詳しく述べられるだろうか。あなたは神の性質について、明瞭かつ正確に証しできるだろうか。あなたの見たこと、経験したことを、義に飢え渇き、あなたが牧してくれるのを待っている哀れで貧しい、宗教熱心な信者たちにどのようにして伝えるだろうか。どのような人物があなたに牧してもらおうと待っているのだろうか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、委託、責任などを認識しているだろうか。あなたには歴史における自分の使命感がどこかにあるだろうか。あなたは次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたには主人としての強い意識があるだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それはまことに世界の全ての生き物と全ての物質の主人であるのだろうか。次の段階の働きの進展のために、あなたはどのような計画を持っているのだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。「道はどこにあるのか」と。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の勢力を追い払ってくれることにどれほど待ちこがれていることか。彼らがどんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。深く苦しんでいるそれらの人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光が輝く日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日はいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちは、まことにそのような不運に苦しんでいる。彼らは長い間非情な縄と凍ったままの歴史によって封印されてきた。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな表情を見たことがあるだろうか。神は心でどれほど深く悲しみ、心配しているかを、あなたは考えたことがあるだろうか。神は自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。結局、人類は毒された不運な者たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者によって長い間毒されてきたといったい誰が思っただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神へのあなたの愛で、生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか。神に用いられて並外れた人生を生きることを、あなたはどのように理解しているのだろうか。あなたには「敬虔で神に仕える人」の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。

『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」(『言葉』第1巻)

617. あなたは被造物であり、もちろん神を崇拝し、意味のある人生を送るべきである。神を崇拝せず、汚れた肉体のうちに生きるならば、人間の衣装を身に着けた獣にすぎないのではないか。あなたは人間であるから、神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブやペテロのように意味のある人生を送るべきである。この世で人は悪魔の服をまとい、悪魔が与える食べ物を食べ、悪魔の言いなりになって働き、仕え、汚濁の中ですっかり踏みにじられる。あなたが人生の意味を把握せず、また真の道を自分のものにしないならば、このように生きることに何の意義があるのか。あなたがたは正しい道を追求する人、向上を求める人である。あなたがたは赤い大きな竜のいる国で立ち上がり、神が義なる者と呼ぶ人である。これは最も意味のある人生ではないのか。

『神の出現と働き』「実践(2)」(『言葉』第1巻)

618. あなたがたはこの平和な環境において、全力で神を愛することを求めなければならない。将来、あなたがたが神を愛する機会はなくなるだろう。人々には肉において神を愛する機会しかないからである。別の世界で暮らすとき、神を愛することを語る者はいないだろう。これは被造物の責任ではないのか。そうであれば、自分の人生の日々において、あなたがたはどのように神を愛すべきなのか。それを考えたことはあるか。死後になるまで神を愛さないつもりなのか。それは空虚な話ではないか。今日、神を愛することを追い求めないのはなぜなのか。多忙でありながら神を愛することが、神への真の愛になり得るのか。神の働きのこの段階はすぐに終わると言われる理由は、神がサタンの前ですでに証しを自分のものにしたからである。ゆえに、人は何もする必要がなく、生きているあいだに神を愛することを追求するよう求められるだけである。これが大切なのである。神の要求は高くなく、そしてさらに、神の心には燃えるような不安があるので、この段階の働きが終わる前に、神は働きの次なる段階の要約を明らかにした。そしてそれは、時間がどれほどあるかを明瞭に示している。神が心に不安を抱いていなければ、これほど早くにこうした言葉を語るだろうか。神がこのように働くのは、時間があまりないからである。あなたがたが自分のいのちを大切にするように、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することが望まれている。それが究極の意義をもつ人生ではないだろうか。他のどこに人生の意義を見つけ得るのか。あなたはそれほどまでに盲目ではないのか。あなたは進んで神を愛するつもりか。神は人の愛にふさわしいのか。人々は人の崇拝に値するだろうか。ならば、あなたは何をすべきなのか。無条件で勇敢に神を愛し、神があなたに何を行なうかを見よ。神があなたを殺すかどうか確かめよ。要するに、神を愛するという務めは、神のために何かを書き写したり書きとめたりすることよりも重要なのである。あなたの人生がより価値をもち、幸せで満ちるように、最も重要なものを最優先にすべきである。そうして、自分に対する神の「判決」を待つべきである。あなたの計画に神を愛することは含まれているだろうか。一人ひとりの計画が神によって成就されるものになり、すべて現実になることを願う。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第四十二章」(『言葉』第1巻)

619. 人間は意味のある人生を実際に生きることを追い求めるべきであり、現状に満足していてはならない。ペテロの模範を実際に生きるためには、人間はペテロの認識と経験を備えていなければならない。人間は、より高く、より深淵なことを追求しなければならない。人間は、神に対する一層深く純粋な愛と、価値と意義のある人生を追い求めなければならない。唯一これが人生であり、そうしてはじめて、人はペテロと同じようになれるのだ。あなたは、肯定的側面へ入ることに対して積極的になることに重点を置くべきであり、また一時的快楽のために、さらに深淵で、具体的で、実践的な真理を無視しつつ、追従的に後退することを許してはならない。あなたの愛は実践的でなければならず、あなたは、獣同然の堕落した気楽な生活から抜け出す方法を見出すべきである。あなたは意味のある人生、価値のある人生を実際に生きるべきであり、自分をごまかしたり、自分の人生を玩具のように弄んだりしてはならない。神を愛することを目指す全ての者にとって、獲得することのできない真理はなく、揺るぎなく立つことができない正義はない。あなたは、どのようにして自分の人生を生きるべきだろうか。あなたは、どのように神を愛し、その愛を用いて神の願いを満足させるべきであろうか。あなたの人生において、これより重要なことはない。あなたは、何よりもそうした大志と根気を持っていなければならず、骨抜きの弱虫のようであってはならない。あなたは有意義な人生を経験する方法を知り、有意義な真理を経験しなければならず、自分自身をそのようにいいかげんに扱ってはならない。あなたの人生は、気付かぬうちに過ぎてゆく。その後、あなたには神を愛する機会がもう一度あるだろうか。人は、死後に神を愛することができるだろうか。あなたは、ペテロと同様の熱意と良心を持っていなければならない。あなたの人生は有意義であるべきで、あなたは自分を弄んではならない。人間として、また神を追い求める者として、あなたは自分の人生をどのように扱うか、どのようにして自らを神に捧げるべきか、どのようにしてもっと有意義な神への信仰を持つべきか、そして、あなたは神を愛しているので、どのようにして一層清く、一層美しく、一層好ましく神を愛するべきかを慎重に考慮することができなければならない。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

620. 人類、そして神に付き従う人に対して神が要求することを以下に述べます。神は自身に付き従う人に対し、以下の五つを要求しています。つまり真の信仰、忠実な追随、絶対的服従、真の認識、そして心からの畏敬です。

この五つの事柄の中で、神は人々に対し、これ以上神を疑わないこと、そして自分の想像や、漠然とした観点によって神に付き従わないことを求めています。人々は想像や観念をもとに神に付き従ってはいけないのです。神は自身に付き従う一人ひとりに対し、忠実に付き従い、気持ち半分、あるいは無責任に付き従わないことを求めています。神があなたに何かを求めたり、あなたを試したり、裁いたり、取り扱って刈り込んだり、あるいは懲らしめて打ちすえたりしても、あなたは神に完全に服従するべきです。理由を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや理屈をこねたりしてはいけません。あなたの服従は完全なものでなければなりません。人間に最も足りないのは神に関する認識です。人間は神と何ら関係のない諺、発言、そして言葉をしばしば神に押しつけますが、そうした言葉が神に関する認識の最も正確な定義だと信じているのです。人間の想像に由来するこれらの諺、および人間自身の理論や知識は、神の本質とまったく無関係ですが、人はそのことをほとんど知りません。したがって、神が人々にもつよう望んでいる認識について言えば、神はあなたが神を認識し、神の言葉を認識することを求めているだけでなく、神に関するあなたの認識が正確であることを求めているのです。たとえひと言しか述べられなかったり、ほんの少ししか知らなかったりしても、そのわずかな認識は正確であり、真実であり、神自身の本質と一致しているということです。神は見当違いだったり無分別だったりする讃美や賞賛を嫌悪するからです。そのうえ神は、人間が神を空気のように扱うことを忌み嫌います。人が神に関する事柄を話すとき、事実と無関係な発言をしたり、何のためらいもなく適当に話したり、思いのままに語ったりするのを、神は忌み嫌います。また、自分は神を知っていると思い込み、神に関する認識を吹聴し、何ら気兼ねなくみだりに神に関する事柄を論じる人を、神は忌み嫌います。前述した五つの要求のうち最後のものは、心からの畏敬です。これは、神に付き従う者全員に対する神の最終的な要求です。神に関する正確かつ真の認識があれば、その人は真に神を畏れ、悪を避けることができます。この畏敬はその人の心の底から生まれるものであり、自ら進んで与えられたものであって、神による圧力の結果ではありません。神はあなたに対し、好感のもてる態度や行動、あるいは外面的な振る舞いといった贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇め、畏れることを求めます。このような畏敬は、あなたのいのちの性質が変化し、神に関する認識と神の業に関する理解を得て、神の本質を理解するようになり、自分が神の被造物の一つであるという事実を認めることで実現されます。ゆえに、わたしがここで「心からの」という言葉を用いて畏敬を定義づけるのは、神に対する畏敬は心の底から生じなければならないものであることを、人間が理解できるようにするというのが目的なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

621. 今あなたがたは皆、できるだけ早く自分自身をふり返り、わたしに対する裏切りが自分の中にどの程度残っているかを確認しなければならない。わたしはあなたがたの答えを待ちきれない。わたしといい加減に向き合うのはやめなさい。わたしは人間に対してふざけることは一切なく、すると言ったことを必ず実行する。わたしはあなたがた全員が、わたしの言葉を真剣に捉え、それをSF小説のように考えなくなることを願っている。わたしが望むのはあなたがたの具体的な行動であり、想像ではない。そして、あなたがたはわたしの次の質問に答える必要がある。1. あなたが真に効力者であるならば、一切の怠慢や消極性を示すことなく、わたしに忠実に奉仕できるだろうか。2. あなたはわたしが一度もあなたを称賛したことがないと知っても、一生わたしのもとに留まり、奉仕を続けることができるだろうか。3. あなたが大いに努力したにもかかわらず、わたしがあなたに冷淡であったとしても、ひっそりとわたしのために働き続けることができるだろうか。4. 何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求に応えなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするだろうか。5. あなたがわたしに対して常に忠実で、わたしを非常に愛してきたにもかかわらず、病や貧窮の苦しみを受けたり、友人や親戚に見捨てられたり、その他の人生における不幸に見舞われたとしたら、それでもわたしに対する忠誠や愛が続くだろうか。6. あなたが心に思い描いてきた物事が、一つもわたしの行ったことと一致しないとしたら、あなたはどのように将来の道を歩むだろうか。7. あなたが望むものを一切受け取れなかったとしても、引き続きわたしに付き従うか。8. あなたがわたしの働きの目的や意味をまったく理解できなかったとしても、勝手に判断したり結論を出したりしない、従順な者であることができるだろうか。9. わたしが人間と共にあった間に述べたすべての言葉と行ったすべての働きを、大事にすることができるか。10. あなたはわたしに忠実に付き従い、何も受け取れないとしても、生涯を通してわたしのために苦難に耐えることができるか。11. わたしのために、自分が将来生存するための道を考えたり、計画したり、用意せずにいることができるか。これらの質問は、あなたがたに対するわたしの最終的な要求であり、わたしはあなたがた全員からの返答を期待している。

『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り(2)」(『言葉』第1巻)

622. わたしが求めるものは、今このときのあなたの忠誠心と服従、今この時のあなたの愛と証しである。たとえあなたが証しをするとは何か、愛とは何かをこの瞬間知らなくても、あなたのすべてをわたしに持ってくるべきで、あなたが持っている唯一の宝物、つまりあなたの忠誠心と服従心をわたしに差し出すべきである。わたしがサタンを打ち負かしたことに対する証しは人の忠誠心と従順に見ることができ、わたしが人を完全征服したことに対する証しもそうであることを、あなたは知るべきである。わたしへのあなたの信仰の義務はわたしの証人となること、わたしに忠実無二であること、最後まで従順であることである。わたしの働きの次のステップを始める前に、あなたはどのようにわたしの証人となるのか。あなたはいかにしてわたしに忠実であり、服従するのか。あなたの役目のためにすべての忠誠心を捧げるか、それとも単にあきらめるのか。あなたはむしろわたしのすべての取り決め(たとえそれが死であっても、あるいは滅びることであっても)に服従するか、それとも、わたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すか。わたしがあなたを罰するのはあなたがわたしの証人となり、忠誠を尽くしわたしに服従するためである。また、現在の刑罰はわたしの働きの次のステップが明らかにされ、仕事の進展が妨げられないためである。よって、わたしはあなたが賢くなり、あなたのいのちや存在の意義を価値のない砂のように取り扱わないよう勧告する。あなたはわたしのこれからの働きがどんなものになるか正確に分かるだろうか。あなたはこれからわたしがどのように働き、わたしの働きがどのように展開していくか知っているだろうか。あなたはわたしの働きに関するあなたの体験の意義、さらにわたしへのあなたの信仰の意義を知るべきである。わたしは多くの事を行なってきた。あなたが想像するように、わたしは途中であきらめることなどできようか。わたしはそのように幅広い働きをなしてきた。どうしてそれを台無しにすることなどできようか。確かに、わたしはこの時代を終わりにするために来た。これは本当だが、それ以上にわたしは新しい時代を始め、仕事を始め、そして何よりも、神の国の福音を広めようとしていることをあなたは知らなければならない。だからあなたは、現在の働きは時代を始めることと、来たるべき時に福音を広め、将来のどこかで時代を終わらせるための基盤を築くことだけであると知らなければならない。わたしの働きはあなたが思うほど単純ではないし、あなたが信じているほど価値がなく意味のないものではない。だから、わたしは依然としてあなたに言わなければならない。あなたはわたしの働きのために自分を捧げ、それ以上にわたしの栄光のためにあなた自身を捧げるべきである。あなたがわたしの証しをすることをわたしは長い間待ち望み、それ以上に長く、あなたがわたしの福音を宣べ伝えるのを待ち望んでいた。あなたはわたしの心にあるものを理解すべきである。

『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻)

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