言葉は肉において現れる

目次

あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない

聖霊は教会の中で現在どのように御業を行われているであろうか。その様子が分かるだろうか。兄弟姉妹にとって、最大の困難は何であろうか。兄弟姉妹には、何が最も欠けているであろうか。現在、試練の最中に否定的な者が居て、中には不平を言ったり、神がもはや御言葉を述べられていないので先へ進むのを止めた者さえ居る。人間は、未だに神の信仰の正しい道へと進んで居ない。人間は独立して生きられず、霊的な生活を維持できない。付き従い、追求しようとする気力があり、神が御言葉を述べる時に実践することを望む者も居る。しかし、神が御言葉を述べられない時、こうした者は先へ進むのを止める。人間は、未だに心の中で神の御旨を理解しておらず、自然と神への愛を持つことは無く、従前神に従っていたのは、自分が強制されていたからである。今、神の御業に辟易している者も居る。こうした者は危険ではなかろうか。多くの者は、単に協力する状態にある。こうした者は、御言葉を食べ飲みし、神に祈りを捧げるが、それは全て気持ち半分である。こうした者には嘗て備えていた気力が無く、こうした者の大部分は、精錬して完全にする神の御業に関心が無い。それは、こうした者が嘗て内面的な気力を備えていたことが無かったかのようであり、こうした者は、罪に負けた時、神に対する負い目があると感じない。こうした者は自らを悔いず、真理を追求することも、教会から立ち去ることも無い。こうした者は束の間の快楽を追求するのみである。こうした者は、最も愚かな者の部類である。終わりの時が来ると、こうした者は皆見捨てられ、独りとして救われないであろう。あなたがたは、ある者が一度救われた場合、その者が常に救われるであろうと考えているだろうか。それは人間に対するまやかしにすぎない。いのちを授かることを求めない者は、全て罰せられるであろう。大部分の人々は、いのちの享受や真理の実践に全く関心が無い。大部分の人々は、いのちの享受を求めず、一層求めようとすることが無いことは確実である。こうした者は、自滅しているのではなかろうか。現在においては、状況が継続的に改善されている人々も居る。聖霊が御業を行うことが多ければ多いほど、こうした者の確信も大きくなり、経験が多ければ多いほど、こうした者が感じる神の御業の遠大な奥義も多くなる。こうした者が授かることが多ければ多いほど、理解も深くなる。こうした者は、神の愛が極めて大きく、内面的に安定し、啓かれていると感じる。こうした者には、神の御業に関する知識がある。聖霊は、こうした者に対して御業を行われる。神の御言葉は新たに追加されていないが、一層深く真理を求め、自分の経験における全ての物事に対して真剣であり、神の御言葉の現実性を授かる必要があると言う者も居る。そうした者は、聖霊の御業を得る。神は、自らの表情を見せられず、またあらゆる人間から隠れておられ、ひと言も発言されず、また人間が内面的な精錬を受ける時があるが、それでもなお神は人間から完全に立ち去ってはいない。ある者が自分が実行すべき心理を維持出来ない場合、その者は聖霊の御業を得られないであろう。精錬の期間内や神が自らを示されない期間内において、あなたがたが確信せずに怯え、神の御言葉を経験することに重点を置かなかった場合、それは神の御業から逃げ出していることを意味する。あなたがたは、後に捨て去られるであろう。神の御言葉を授かることを求めない者は、神の証しに立つことが出来ない。神の証しに立ち、神の御旨を満たすことが出来る者は、自らの気力により神の御言葉を追求する。神が人間に対して行われる御業は、専ら人間が心理を得られるようにすることである。あなたがたがいのちを追求するのは、あなたがたを完全にし、神の目的に適した者とすることを目的とする。あなたがたが追求しているのは、奥義の話を聞き、僅かに神の御言葉を聞き、見栄えのする物事や、新しい物事を目にし、流行している物事は何かを見て、好奇心を満たすことのみである。あなたがたは、心の中の意向がこうしたものであるならば、神の必要条件を満たすことは全く出来ない。真理を追求しない者は、最後まで付き従うことができないであろう。現在においては、神が行われていない御業があるのではなく、人間が神の御業に飽きたため協力せずにいる。人間は神の祝福の御言葉を聞くことのみを求め、神の裁きや罰の御言葉を聞くことを望まない。その原因は何であろうか。それは、祝福を得たいという欲望が満たされず、人間が否定的となり弱くなっているためである。それは、人間が神に付き従うことを神が意図的にお許しにならないからでも、神が意図的に人間を打たれているからでもない。人間が否定的であり、弱くなっているのは、ひとえに人間の意志が不適切だからである。神は人間にいのちを与えられるのであり、人間を死に至らしめることは有り得ない。人間の否定的部分や弱さ、逃避は、すべて自分自身から発生する。

現在における神の御業により人間に精錬が与えられ、その精錬に揺るぎなく耐えることの出来る者のみが、神の認定を得るであろう。いかに神がご自身を隠され、黙され、御業を行われずとも、あなたがたは精力的に追求することができる。たとえ神があなたがたを拒否すると言われたとしても、あなたがたは依然として神に付き従うであろう。それが、神の証しに立つということである。神があなたがたから身を隠され、あなたがたが神に付き従うのを止めるとしたら、それは神の証しに立つということであろうか。ある者が実際に真摯に取り組まなかったとしたら、実のところその者にはそれだけの器量が無く、その者は、大きな試練に直面すると躓く。現在、神は黙し、あるいは神が行われている御業はあなたがたの観念に則していないので、あなたがたは無事ではない。仮に、神が現在あなたがた自身の観念にしたがって御業を行われ、あなたがたの望みを満たされていて、あなたがたが立ち上がって追求の意欲を持つことができるとしたら、あなたがたは何のために生きてゆくであろうか。言っておくが、人間の好奇心だけに依存して生きている人々が多数居る。こうした人々には、追求する心が全く無い。真理を享受することを追求せず、しかし人生における自らの好奇心に依存する者は、すべて忌むべき危うい者である。様々な神の御業は、すべて人間を完全にすることを目的とする。しかし、人間には常に好奇心があり、噂について調べることを好み、たとえばエジプトで地震があったら、イスラエルでは何が起きているか、など、国外の事情に関心を持つなど、自らの身勝手な欲望を満たすために、新しく、奇妙な物事を常に探し求めている。こうした者は、いのちを追求することも、完全にされることを求めることも無い。こうした者は、早く神の訪れの日となり、美しい自分の夢が叶い、自らの贅沢な欲望が満たされることのみを求めている。こうした者は実践的ではなく、不適切な見方の者である。真理の追求は、神に対する人間の信仰の基礎である。人間がいのちを授かることや神にご満足いただくことを求めないのであれば、人間は罰を受けるであろう。罰を受けるべき者は、神の御業の時に、聖霊の御業を得ていない者である。

この段階の神の御業の最中に、人間はどのように神に協力すべきであろうか。現在、神は人々を試されている。神は完全に黙され、ご自身を隠されて、直接的に人間と接触されていない。外側からは神が御業を行われているように見えるが、実際には、神は依然として人間の中で御業を行われている。いのちの享受を求め、自らがいのちを追求する将来的展望のある者は、たとえ神の御業を完全に理解しなくても、疑念を抱かない。あなたがたは、試練の最中に、たとえ神がどのような御業を行い、完遂されることを望んでおられるか知らなかったとしても、神の人間に対する意向は常に善良であることを知る必要がある。あなたがたが神を真心で求めたならば、神があなたがたを見捨てられることは無く、神は確実にあなたがたを完全にされ、あなたがたに適切な終着点を与えられるであろう。現在神が人々を試されている方法がどのようなものかを問わず、神が人々に対して、人々の行いに基づき、適切な結末と報いを与えられる日が、いつか来るであろう。神は、人々を特定の地点まで導かれた後に見捨てて無視されることは無い。それは、誠意ある神であられるからである。この段階において、聖霊は精錬の御業を行われている。聖霊はあらゆる人間を精錬される。死と罰の試練の段階においては、その時の精錬は、全て御言葉による精錬である。人間は、神の御業を経験するために、まず現在における神の御業と、人類がどのように協力すべきかを理解する必要がある。これは全ての人間が理解すべき事柄である。神の御業が、精錬であるか、神が黙されていることかなど、それが何であるかを問わず、神の御業の各段階は、すべて人間の観念に則したものではない。神の御業は、すべて人間の観念を超えるものである。それが神の御業である。しかし、神の御業が一定の段階に達した時、神は何があろうと人類が滅びるままにされることは決して無いと考える必要がある。神は人類に対し、誓いと祝福の両方を与えられ、神を求める者は全員、神の祝福を得ることが可能となる一方で、神を求めない者は、神に見捨てられるであろう。それは、あなたがたの追求次第である。何があろうと、神の御業が完了した時、あらゆる者が適切な終着点を得るものと考える必要がある。神は人類に美しい願望を与えられたが、人類がそうした願望を求めないのであれば、人類はそうした願望を得られない。あなたがたが今、知る必要があるのは、神の精錬と罰は神の御業であるが、人間は常に性情の変化を求めねばならない、ということである。あなたがたは、自分の実経験において、まず神の御言葉を食べ飲みする方法、神の御言葉の中から自分が真摯に取り組むべき物事、自分の欠点を知り、自分の実経験に真摯に取り組むことを求める必要がある。神の御言葉のうちから、実践すべき部分、実践するよう努めるべき部分を挙げる必要がある。神の御言葉を食べ飲みすることは一側面であるが、教会の生活もまた維持する必要があり、あなたがたは正常な霊的生活を送り、自らの在り方の全てを神に献上できる必要がある。神の御業がどのように変化するかを問わず、あなたがたの霊的生活は正常なままでなければならない。霊的生活は、適切に真摯な取り組みを行う上で役立つであろう。神が行われる御業が何であるかを問わず、あなたがたは阻害されることなく霊的生活を継続して自分の本分を尽くすことができるであろう。これが、人間が行うべきことである。それはすべて聖霊の御業であるが、普通の状態にあるものにとって、それは完全にされることである。普通の状態でない者にとって、それは試練である。聖霊の精錬の御業の現在における段階では、神の御業が極めて優れている、人間は精錬を切に必要としている、と言うであろう。そう言わなかったならば、その人間の器量は極めて小さく、神の御旨を満たすことは全くできないであろう。しかし、好ましくない状態の者にとって、それは神に付き従わない理由や、集会に参加しなかったり、神の御言葉を食べ飲みしない理由となる。神の御業においては、神が何を行われるか、何を変えられるかを問わず、最低限度として人間は正常な霊的生活を維持する必要がある。あなたがたは、おそらく現在における自分の霊的生活の段階において気が緩むことは無かったにもかかわらず、それほど多くを得ることも、大きな飛躍も無かったであろう。こうした状況下でも、自分の生活を損なわないよう、また神の御旨を満たすように、規則を守る必要がある。あなたがたは、自分の霊的生活が正常ではない場合、神の現在における御業を理解できず、そうした御業が自分の観念と相容れないものであると常に感じ、神に付き従うことを望んでも、内部の推進力が欠如している。したがって、現在において神がどのような御業を行われていても、人間は協力する必要がある。人間が協力しなかった場合、聖霊は神の御業を行うことが出来ない。また人間に協力精神が無ければ、聖霊の御業を得ることが出来ない。自分の内部おいて聖霊の御業と、神の承認を得たいのであれば、神の御前で自分の元来の帰依を維持する必要がある。現在において、あなたがたが一層深い知識や高度な理論、一層多くの事柄を得る必要は無く、必要とされるのは、神の御言葉を元来の基礎の上で支持することのみである。人間が神に協力せず、一層真摯な取り組みを求めなければ、神は人間が従前持っていたもの全てを奪われるであろう。人間は常に内心快楽に対して強欲であり、楽な方の道を好むであろう。人間は全く代償を払うことなく、神の誓いを得ることを望む。こうしたことは、人類の突飛な考えである。代償を払わずにいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことが一体あるだろうか。ある者が神を信じ、いのちの享受と、性情の変化を求めているのであれば、その者は代償を払い、神が行われる御業が何かを問わず、常に神に付き従う状態に達する必要がある。それが、人間がすべき事である。その全てに規則として従っていたとしても、それを頑なに遵守せねばならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたがたは祈りを捧げ、教会の生活を維持し、兄弟姉妹と共に居ることが出来る必要がある。あなたがたは、神が自分を試されるときでもなお、真理を求める必要がある。これが霊的生活のための最低限度である。常に協力することを追求し、そのために努力する精神を持ち、全力を捧げることは、実行可能であろうか。これを基礎として、識別力と、現実性への真摯な取り組みが、あなたがたにとって実現可能なものとなる。あなたがたの状態が正常であるとき、神の御言葉を受け容れるのは容易であり、真理の実践は困難であると感じず、神の御業は素晴らしいと感じる。しかし、あなたがたの状態が劣っている場合、いかに神の御業が素晴らしく、いかに誰かが美しく語ったとしても、あなたがたは気に留めないであろう。ある者が正常な状態では無い場合、神はその者に対して御業を行うことが出来ず、その者は自分の性情を変えることが出来ない。

人間に確信が無ければ、その道を歩み続けるのは容易では無い。現在、全ての者が、神の御業は人間の観念とは全く相容れないものであり、神が行われる御業や、神の御言葉がいかに多くても、それは人間の観念とは全く異なることを知ることが可能である。このことにより、確信を持ち、それまで理解したこと、経験の中から得たことを支持する決意を固めることが、人間に対して求められる。神が人間に対して行われる御業が何であるかを問わず、人間は自分自身が持つ物事を支持し、神の御前で誠実であり、最後まで神に献身する必要がある。そうしたことは、人類の義務である。これが、人間がすべき事であり、人間はこれを支持する必要がある。神への信仰には、神への服従と、神の御業を経験することが必要とされる。神は多数の御業を行われて来られており、人間にとって、それは全てが完全にする御業であり、精錬の御業であり、さらにそれは全て罰であると言えるであろう。現在まで、神の御業の段階には人間の観念に則したものが一切無く、人間が享受してきたのは、すべて神の辛辣な御言葉のみである。神が来られる時、人間は神の威厳と怒りを享受するが、神の御言葉がいかに辛辣であったとしても、神は人類を救い、完全にするために来られる。人間は、精錬の最中に創造物としてなすべき本分を尽くし、神の証しに立つ必要がある。あらゆる試練において、人間は、なすべき証しを堅持し、神の明白な証しに立つ必要がある。それが勝者である。あなたがたは、神がどのようにして自分を精錬されるかを問わず、完全に確信し、神への確信を決して失ってはならない。あなたがたは人間がすべき事をしなければならない。それが、神が人間に要求されている事であり、あなたがたの心は、いかなる時も完全に神へと戻り、神へと向かわねばならない。それが勝者である。神が勝者と呼ばれる者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中で孤立した時でも、神の証しに立ち、神への確信と帰依を維持できる者である。何があっても、あなたがたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたがたが神の御前で証しに立っているということであり、それは神が言われるところの勝者となることである。神により祝福されている時の追求は優れているが、神の祝福が無ければ逃げ出すというのであれば、それは純粋さであろうか。あなたがたは、自分がその道が正しいと確信しているのであるから、最後までその道に従い、神への帰依を維持する必要がある。あなたがたは、神ご自身があなたがたを完全にするために地に来られたを見てきたのであるから、自分の心をすべて神に捧げる必要がある。神が行われる御業が何であるかを問わず、神が最終的に自分にとって不利な結末に決定されたとしても、あなたがたは依然として神に付き従うことが出来なければならない。このことは、神の御前においてあなたがたの純粋さを維持するということである。聖なる霊的存在と純粋な処女を神に捧げるということは、神の御前において真摯な心を維持することを意味する。人類にとって、真摯さとは純粋さであり、神に対して真摯になることが出来るということは、純粋さを維持するということである。これが、あなたがたが実践すべき事である。あなたがたが、祈りを捧げ、集まって交流し、聖歌を歌い、肉に背く必要がある時、そうした業を行う必要がある。あなたがたは、自分の本分を尽くす時、困惑してはならず、試練に直面した時は揺るぎなく耐える必要がある。それが、神への帰依である。あなたがたが人間のなすべき業を守らなかった場合、従前の苦難と志は、すべて徒労でしかない。

神の御業の各段階において、従うべき人間の協力のしかたがある。神は、人間が精錬において確信を持てるように、人間を精錬される。神は、人間が神により完全なものとされることを確信し、神の精錬を受けることを人間が望み、神により取り扱われ、刈り込まれるように、人間を完全なものとされる。神の魂は、人間を啓き照らして、人間を神に協力させ、実践させるために、人間の中で作用する。神は、精錬の最中に御言葉を述べられない。神は黙しておられるが、それでも人間がなすべき業は存在する。あなたがたは、それまで支持してきた物事を支持し、神のために祈ることが可能であり、神のそばから離れず、神の御前で証しに立つことが出来なければならない。そうすれば、あなたがたは自らの本分を尽くすことが出来るであろう。人間の確信と愛に対する神の試練においては、人間が神に対する祈りを増加させ、神の御前で神の御言葉を一層頻繁に味わうことが必要である、ということを、あなたがた全員が神の御業から理解する必要がある。神があなたがたを啓き、あなたがたに神の御旨を理解させられているにもかかわらず、あなたがたがそれを全く実践しなかったとしたら、あなたがたは何も得ないであろう。あなたがたは、神の御言葉を実践する時でも神に対して祈ることが出来る必要があり、また神の御言葉を味わう時は、落胆したり冷めたりせずに常に神の御前で求め、神に対する確信に満ちていなければならない。神の御言葉を実践しない者は、集会の時は活力に溢れているが、帰宅すると闇に陥ってしまう。中には、集会に参加することを望まない者さえ居る。そうしたわけで、あなたがたは人間が尽くすべき本分を明瞭に理解する必要がある。あなたがたは、神の御旨が本当は何であるかを知らないかも知れないが、それでも自分の本分を尽くし、必要な時に祈り、真理を実践し、人間がなすべきことを行うことが出来る。あなたがたは元来の見方を支持することができる。そうすることで、神の御業の次の段階を享受する能力が高まるであろう。神が隠れた状態で御業を行われる時に、あなたがたが求めなかった場合、それは問題である。神が集会で話され、説教をされている時、あなたがたは熱心に聴き入るが、神が黙されている時、あなたがたは活力が無くなって退散する。これはどのような種類の者であろうか。こうした者は、成り行きに身をまかせるだけの者である。こうした者には、姿勢も証しも意見も無いのだ。殆どの人間が、このような者である。あなたがたがこうした状態を続けた場合、ある日、大きな試練に遭遇した時、懲罰に陥るであろう。姿勢を持つことは、神が人間を完全とされる上で極めて重要である。あなたがたが神の御業のいずれの段階も疑わず、人間の本分を尽くし、神が自分に実践させられている物事を真摯に支持するのであれば、すなわち、神の勧告に留意し、神がどのような御業を行われても神の勧告を忘れなければ、また神の御業に疑念を抱かず、自分の姿勢を維持し、証しに立ち続け、その道のあらゆる段階で勝利するならば、最終的にあなたがたは神により完全にされて、勝者となるであろう。あなたがたが、神の試練のあらゆる段階に揺るぎなく耐えることが可能であり、最後まで揺るぎなく耐えたならば、あなたがたは勝者であり、神により完全にされた者である。現在の試練に揺るぎなく耐えられないのであれば、今後その試練は一層困難となるであろう。あなたがたが、ちょっとした重要度の低い苦難を経験し、真理を求めなかったのであれば、最終的にあなたがたが得るものは無いであろう。あなたがたは、手ぶらの状態となるであろう。神が黙されていることを知った時に追求を止め、精神が散漫となる人々も居る。この者は愚かではなかろうか。このような者には現実性が無い。こうした者は、神が御言葉を述べられている時は常に走り回って多忙にしており、見かけでは熱心だが、ひとたび神が黙されると、追求を止めてしまう。こうした者に未来は無い。あなたがたは、精錬の最中に肯定的な見地から真摯に取り組み、学ぶべき教訓を身に付ける必要があり、神に祈りを捧げ神の御言葉を読むとき、自分自身の状態と比較して自分の欠点を探し出し、学ぶべき事が極めて多いことを知らねばならない。精錬の最中に、真摯に求めれば求めるほど、自分が不適切であることが一層よく分かるであろう。あなたがたは、精錬を経験している時に数多くの問題に直面し、そうした問題が明瞭に理解できず、不平を言い、自分の肉を表すが、そうしてはじめて、自分の性情がいかに腐敗しているかを理解する。

人間は器量が足りず、神の基準に遠くおよばない。将来、人間は、この道を進むために、確信の必要性が高まる可能性もある。終わりの日における神の御業では、ヨブの確信さえも超える、途方も無く強い確信が必要とされる。確信の無い者は経験を継続して得ることが出来なくなり、神により完全にされることは出来ないであろう。大きな試練を迎える日が来る時には、各所の教会を去る者も居るであろう。そうした者のうちには、従前の追求が極めて順調であり、信仰を止める理由が不明瞭な者も居るであろう。様々な事が起こり、あなたがたは何が起きているのか分からず、神はしるしや奇跡を表されることも、超自然的な御業を行われることも、一切無いであろう。こうしたことは、あなたがたが揺るぎなく耐えることができるかどうかを試すことを目的とし、神は事実により人間を精錬される。あなたがたは、まだそれほど苦難を受けていない。将来、あなたがたが大きな試練の時を迎えた時、あらゆる者が教会から去り、あなたがたが親しくしていた者が信仰を捨てて立ち去る所もあるであろう。こうした時、あなたがたは揺るぎなく耐えることが出来るであろうか。現時点において、あなたがたが経験してきた試練は軽微であるが、あなたがたはそれらをやっとの思いで耐えることができたであろう。この段階に含まれるのは、精錬と、御言葉により完全にする御業のみである。次の段階では、事実があなたがたの前に立ちはだかってあなたがたを精錬し、この時あなたがたは危機的状況に陥るであろう。その状態が深刻化した後、神はあなたがたに、急いで去るよう勧告され、宗教関係者があなたがたを勧誘しようとするであろう。これは、あなたがたがその道を歩み続けられるかを試すことを目的とする。これらは全て試練である。現在の試練は軽微であるが、家庭内の両親や子供達が信仰を止める日が来るであろう。あなたがたは信仰を続けることが出来るであろうか。あなたがたが先へ進めば進むほど、あなたがたの試練は大きくなってゆくであろう。神は、人々の必要性と器量に応じて、人間を精錬する御業を行われる。神が人間を完全にされる段階では、多くの人々が成長を続けることが不可能となる。こうした者は縮小するのみである。人間は、この精錬によるほか完全にされ得ない。取り扱い、修練、試練、罰、呪いなど、あなたがたはその全てを受けることが出来るであろうか。とりわけ良好な状況の教会を見ると、兄弟姉妹全員が多大な活力をもって求めており、あなたがた自身も勢いがついたように感じる。ある者は信仰を止め、ある者は商業や結婚のために立ち去り、ある者は宗教に参加して、兄弟姉妹の全員が立ち去った時、あなたがたは揺るぎなく耐えることが出来るであろうか。あなたがたは影響を受けずにいることが出来るであろうか。神が人間を完全にされることは、それほど単純なことではないのだ。神は様々な物事を活用して人間を精錬される。人間はそうした物事を手段であると認識するが、神の元来の御旨では、そうした物事は全く手段ではなく、むしろ事実である。最終的に、神が人間を一定の段階まで精錬され、人間に全く不平が無くなった時、神の御業のその段階は完了する。聖霊の大いなる御業は、あなたがたを完全にすることであるが、神が御業を行われず、自らを隠される時、その御業は、それにも増してあなたがたを完全にすることを目的とするものであり、そうすることで、あなたがたに神への愛があったかどうか、神に対する真の確信があったかどうかが、顕著に把握できる。神が普通の口調で話をされる時、あなたがたが探す必要は無い。あなたがたが探し、手探りで歩む必要があるのは、神が隠れられた時のみである。あなたがたは創造物としての本分を尽くすこと、また将来の結果や終着点を問わず、あなたがたが生きている期間内において、神に関する知識と神への愛を求めることが出来る必要があり、そして神があなたがたをどのように処遇されるかを問わず、あなたがたは不平を言ってはならない。人間に対する聖霊の御業には、ひとつだけ条件がある。人間が追求を望み、気持ち半分でも神に疑念を抱いても居らず、自分の本分を常に支持することが出来る限りにおいて、人間が聖霊の御業を得ることが出来るのは、この方法のみである。神の御業の各段階において、人間に要求されているのは、途方も無く大きい確信と、神の御前において求めることであり、神がいかに愛すべき存在であられるか、聖霊が人間に対してどのように御業を行われるかを人間が理解できるのは、経験によるほか無い。あなたがたが経験せず、経験により手探りで進まず、求めなかったとしたら、あなたがたが得るものは無いであろう。あなたがたは、自分の経験により模索する必要があり、神の御業を理解し、神の奇しさ、計り知れなさを認識することが出来るようになるには、経験によるほか無い。