病のときは神の意志を求めなければならない
病に苦しむときは、どのように経験すべきか。神の前に出て祈り、神の意志を理解するよう努め、自分がどんな過ちを犯したか、どんな堕落が解消されていないか省みるべきである。あなたは肉体的に苦しまずにはいられない。苦しみを通じて鍛えられることでのみ、人は放蕩をやめ、常に神の前で生きるようになる。人は心が乱れると常に祈り、自分は何か悪いことをしたのか、何をして神に背いたのかと反省する。それは人にとって有益である。大きな痛みや試練に苦しむとき、それは決して偶然の出来事ではない。
病気であろうと健康であろうと、そこには神の意志が働いている。病んでも神の意志を知らなければ、どう実践すべきかわからず、病は自分の愚かさの結果だと考える。これでは、そこに神の善意が働いているとどうして気づけないのだろうか。死んだほうがましだと思えるほどの大病に苦しんでも、それは偶然生じたのではない。神が人類を救うあいだ、聖霊はただ人の生活に寄り添い、人を啓いて光で照らすだけか。神は人を試し精錬する。人は大きな苦しみを経なければ清められず、そうして初めていのちの性質が変わるのである。
神はどのように人を試練に晒すか。神は苦しみを通して人を精錬する。試練とは苦しみであり、試練のときは必ず苦しみが伴う。試練がなければ人はどうやって苦しむか。苦しむことがなければ、人はどうやって変わることができるか。試練には苦しみが付きものであり、それは聖霊の働きである。人間は深く堕落しており、苦しみがなければ宇宙における自分の居場所を忘れてしまう。苦しみがなければ、人は心に神をもたない。真理について交わるだけでは、人の堕落した性質は解消できない。試練と精錬を経る必要があるのである。
『キリストの言葉の記録』より編集