日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 136

2020年6月15日

受肉した神の働きは二つの部分から成る。最初に神が肉となった時、人々はそのこと知りも信じもせず、イエスを十字架につけた。二度目も、人々は神を信じないで、まして、知りもせず、またしてもキリストを十字架につけた。人間は神の敵ではないだろうか。もし人間が神を知らないのなら、どうして神の親しい友となれようか。また、どうして神を証しする資格を得られよう。神を愛し、神に仕え、神に栄光を捧げるとは言うが──それは人を欺く嘘ではないのか。もしそのような非現実的で実際の役に立たないことに自分の人生を捧げるなら、それは虚しい努力ではないか。誰が神であるか知らないで、どうして神の親しい友となれようか。そういう努力は漠然とした抽象的なものではないか。それは人を欺くものではないのか。どうして神の親しい友となれようか。神の親しい友となることの実際の意義とは何であろう。あなたは、神の霊の親しい友となることができるだろうか。あなたは、聖霊がどれほど偉大で崇高であるか、わかっているだろうか。目に見えず、触れることもできない神を深く知ること──それは漠然とした抽象的なものではないか。そのようなことを追求することに実際的な意義があろうか。それはみな嘘偽りではないのか。あなたは神の親しい友となることを追い求めながら、実際はサタンの言いなりになる子犬である。何故ならあなたは神を知らず、目に見ることも触れることもできない、自分の観念で作り出した、実在しない「あらゆるものの神」を追い求めているのだから。曖昧に言って、そのような「神」はサタンであり、実を言えば、あなた自身なのだ。あなたは自分自身の親密な友となることを求めているに過ぎないが、それでも神を深く知りたいと言う──それは神への冒瀆ではないのか。そんな努力にどんな価値があるのか。もし神の霊が肉にならないなら、神の実体は目に見えず、触れることもできないいのちの霊に過ぎない。形がなく不定形で、非物質的な存在であり、人間には近づくことも理解することもできない。そのような非物質的で不可思議で、はかり知れない霊の親密な友になどどうしてなれようか。それは冗談ではないのか。こんなばかげた理屈は根拠がなく非現実的だ。創造された人間は本質的に神の霊とは異なっている。そうならば、どうして両者が親密な友となることができようか。もし神の霊が肉として具現化されなければ、もし神が肉となって、へりくだり被造物にならなければ、被造物である人間には神の親しい友となる資格もなければその能力もない。また、魂が天国に入った後で、神の親しい友となる機会をもつかもしれない敬虔な信者を除いては、大方の人は、神の霊と親しくなることはできないだろう。それに、もし受肉した神の導きにより天にいる神の親しい友になりたいと願っているのなら、その人は驚くほど愚かな異生物ではないのか?人間は目に見えない神に「誠実」であろうとするだけで、目に見える神にはほんの少しも注意を払わない。目に見えない神を追い求めるのは実に簡単なのだから──人間は自分の好きなようにやるだろう。しかし、目に見える神を求めるのは、それほど容易なことではない。漠然とした神を求める人間は全く神を見出すことができない。何故なら漠然とした抽象的な物事は、すべて人間の想像の産物であって、人間には得ることができないものだからだ。もしあなた方のところに来た神が手の届かない崇高な神であり、近寄りがたい神であったなら、どうしてその意志を求められようか。また、どうして神を知り、神を理解できるのか。もし神が自分の働きをするだけで、人間と通常の接触を持たなかったら、あるいは、普通の人間性をもたず、普通の人間には近づき難いのなら、また、たとえあなた方のために多くの働きをしたとしても、まったく接触がなくあなた方には見ることもできないのなら、どうして神を知ることができるのか。もしこの本来の人間性を持った肉が存在しなければ、人間には神を知るすべは何もない。神の受肉があることによってのみ、人間はこの肉にある神の親しい友となる資格を与えられる。人間が神と親しい仲になれるのは、人間が神と接することができるからであり、人間が神と共に暮らし、共に交わり、徐々に神を知るようになるからだ。もしそうでなければ、人間の努力は無駄なのではないか。つまり、人間が神と親しくなることができるのは、神の業だけによるのではなく、受肉した神の現実性と正常性のためである。神が肉になることによってのみ、人間はその使命を果たす機会を得、真の神を礼拝する機会を得る。これこそ、最も現実的かつ実際的真理ではないか。さて、あなたはまだ天で神と親しくなりたいと思っているのだろうか。神がある程度まで自分を謙らせることによって、つまり、神が肉となる時、初めて人間は神の親友となれるのだ。神は霊的存在だ。それほど崇高で測り知れない霊と、どうして人間が親友として相応しくなれよう。神の霊が肉の中に下り、人間と同じ外観をした被造物になってはじめて、人間は神の意志を理解でき、本当に神のものとなれる。神は肉として語り、働く。喜びや悲しみ、人間の患難を共にし、人間と同じ世界に生き、人間を守り、人間を導く。神はそうして人間を清め、人間が救いと祝福を得られるようにする。これらのものを得て、人間は真に神の意志を理解し、そうなってはじめて、神の親友となれる。これだけが実際的なことだ。もし神が人間の目に見えず、触れることもできないのなら、どうして人間が神の親友になれよう。これは空虚な教義ではないか。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)より

神が肉となった時だけ人は神の親しい友となる

計り知れない程神が大いなる霊である時、どうしたら人は神の友になれるのか。神が自らへりくだった時だけ神は自ら肉となり、側にいる。それは人が神の親しい友となれる時、人が神の深い友となれる時なのだ。計り知れない程神が大いなる霊である時、どうしたら人は神の友になれるのか。人と同じように神が肉となった時にだけ、神を理解できる。神のものとなれる。

喜び、悲しみ、苦しみさえ分かち合い、神は自ら肉となり、語り働く。そして側で人を守り、導き、清める、人が神の祝福と救いを得られるように。計り知れない程神が大いなる霊である時、どうしたら人は神の友になれるのか。人と同じように神が肉となった時にだけ、神を理解できる。神のものとなれる。

人がこうして神の意志を理解することが、唯一神の深い友となれる道なのだ。実体のない神と友になどどうやってなれよう。その様な教えはただ虚しいだけ。計り知れない程神が大いなる霊である時、どうしたら人は神の友になれるのか。人と同じように神が肉となった時にだけ、神を理解できる。神のものとなれる。神が肉となった時だけ、人は神の親しい友となる。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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