日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 80
2021年10月26日
ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。
この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と尋ねています。これは、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような人に対し、復活した主イエスが求めたより高い基準です。この質問は一種の調査と尋問でしたが、それ以上に、ペテロのような人への要求と期待でした。イエスはこのように質問することで、人々が自分自身を省みてじっと見つめ、「主イエスが人々に求められているのは何か。わたしは主を愛しているか。神を愛する者か。わたしはどのように神を愛するべきか」と自問するようにしたのです。主イエスがこの質問を投げかけたのはペテロだけでしたが、実は心の中で、ペテロにこの質問をすることにより、神を愛することを求めるより多くの人に対し、同様の質問を投げかけることを望んでいたのです。ペテロはこの種の人々を代表して、主イエスの口からこの質問を受けるという祝福にあずかったに過ぎません。
復活した主イエスはトマスに「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と告げましたが、ペテロに対しては「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度繰り返して尋ねました。この質問によって、人は主イエスの厳格な姿勢と、質問した際の差し迫った気持ちをより感じ取ることができます。不正直な本性をもち、常に疑っていたトマスに対し、主イエスは手を伸ばして身体の釘あとに触れることを許し、それによって自分が復活した人の子であることを信じさせ、自身のキリストとしての身分を認めさせました。主イエスはトマスを厳しく咎めることも、明確な裁きを言葉で表わすこともしませんでしたが、それでも実際の行動を通じて、自分がトマスを理解していることを知らせつつ、この種の人に対する自身の姿勢と決意を示したのです。この種の人に対する主イエスの要求と期待は、主の言葉には見られません。と言うのも、トマスのような人には真の信仰がこれっぽっちもないからです。このような人に対する主イエスの要求はその程度ですが、ペテロのような人に表わした姿勢はまったく異なります。イエスはペテロに対し、手を伸ばして釘あとに触れるよう求めることも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言うこともありませんでした。その代わり、同じ質問を繰り返したのです。その質問は思考を刺激すると同時に有意義なものであり、キリストに付き従うすべての人が後悔と恐怖だけでなく、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じずにはいられなくなるものです。そして、大きな苦痛や苦しみにあるとき、彼らは主イエスの懸念と気遣いをより理解できるようになり、純粋で誠実な人々に対するイエスの熱心な教えと厳格な要求を認識します。人は主イエスの問いかけを通じ、これらの簡単な言葉に示されている主イエスの人々に対する期待は、単にイエスを信じてイエスに付き従うことだけでなく、愛をもつこと、つまり自分の主と神を愛することだと感じられるようになります。この種の愛は慈しみと服従です。神のために生き、死に、神にすべてを捧げ、神のためにすべてを費やし、そして与えるということなのです。この種の愛はまた、神に慰めをもたらし、神が証しを享受して安息を得られるようにします。それは人類による神への報いであり、責任であり、義務であり、本分であり、人がその生涯を通じて従うべき道なのです。この三度の問いかけはペテロと、完全にされるであろうすべての人に対する主イエスの要求であり、訓戒でした。ペテロが最後まで人生の道を歩むよう導き、励ましたのは、この三度の問いかけでした。また、ペテロが完全にされる道を歩み始めるよう導き、そして主への愛ゆえに主の心を気遣い、主に服従し、主に慰めをもたらし、その愛ゆえに自分の一生と自分のすべてを捧げるよう導いたのも、主イエスが去り際に行なったこの問いかけだったのです。
恵みの時代、神の働きはおもに二種類の人を対象としていました。一つは神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を背負って恵みの時代の道を守ることのできる人でした。この種の人は神の祝福を得て、神の恵みを享受しました。もう一つはペテロのように、完全にされ得る人でした。そうしたわけで、復活した主イエスはまず、二つの極めて有意義な業を行なったのです。そのうちの一つはトマスに対してなされ、もう一つはペテロに対してなされたものです。その二つの業は何を表わすものですか。神が人類を救う真意を表わしているのでしょうか。人類に対する神の誠実さを表わしているのでしょうか。神がトマスに対して行なった働きは、疑う人にならず、ひたすら信じるよう、人々に警告するためのものでした。そしてペテロに対して行なった働きは、彼のような人の信仰を強め、この種の人への要求を明確なものにし、目指すべき目標を示すためのものでした。
復活した主イエスは、必要と思われる人々の前に現われ、彼らに語りかけ、彼らへの要求を伝えるとともに、人々に対する自身の旨と期待を残しました。つまり、受肉した神として、人類に対するイエスの懸念と、人々に対する要求は決して変わらなかったのです。イエスが肉にあったときも、十字架にかけられた後に復活して霊体にあったときも、それらは同じままでした。イエスは十字架にかけられる前からこれら弟子たちのことを懸念しており、各人の状態を心の中で明確に理解するとともに、各人の欠点を認識していました。そしてもちろん、死んで復活し、霊体になった後も、各人に関するイエスの理解は、肉にあったときと同じでした。イエスのキリストとしての身分について人々が完全に確信していなかったことを、イエスは知っていましたが、肉にあったとき、人々に対して厳格な要求をすることはありませんでした。しかし、復活したイエスは彼らの前に姿を見せ、主イエスが神のもとから来たこと、イエスが受肉した神であること、そして人類が生涯をかけて追求していくにあたり、自身の出現と復活をその最大のビジョン、最大の動機にしたことを、彼らに完全に確信させました。イエスの死からの復活は、イエスに付き従うすべての人々を強くしただけでなく、恵みの時代における人類の中での働きを完全に成し遂げるものであり、かくして恵みの時代における主イエスの救いの福音が徐々に人類全体へと広まったのです。復活した主イエスが人々の前に現われたことに、何か意味があると言えるでしょうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生においてこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼしたでしょうか。神を信じる生涯において最も素晴らしい、至高のビジョンだと見なしたでしょうか。一生神に付き従い、神を満足させようと努め、神への愛を追求する上での原動力だと見なしたでしょうか。この至高のビジョンを広めるため、生涯をかけて努力したでしょうか。主イエスの救いを広めることを、神から託された使命として受け入れたでしょうか。あなたがたはまだそれを経験していませんが、トマスとペテロの事例は、現代の人々が神の旨と神自身をはっきり理解するのに十分なものです。肉となり、人類の間で人間生活を自ら経験し、当時の人類の堕落や人間生活の状況を目の当たりにした後、受肉した神は、人類がいかに無力で嘆かわしく、哀れであるかを深く感じました。肉において生活していた際、自身が有していた人間性、および自身の肉体的な直感のために、神は人間の状況により共感を覚え、その結果、自身に付き従う人への懸念をさらに強く感じました。あなたがたはおそらくこれらを理解できないでしょうが、自身に付き従うすべての人に対する受肉した神の不安と気遣いは、「強い懸念」という言葉で表わすことができます。その言葉は人間の言語に由来するものであり、極めて人間的な言葉ですが、自身に付き従う人に対する神の感情を真に表わし、描写するものです。あなたがたは人間に対する神の強い懸念を、経験を重ねる中で徐々に感じ取り、味わってゆくことでしょう。しかし、自分自身の性質の変化を追求することで、神の性質を徐々に理解しなければ、それは不可能です。主イエスが姿を見せたことで、人類のうちイエスに付き従う人に対する主の強い懸念が形をなし、イエスの霊体、あるいはイエスの神性に伝えられました。また主イエスの出現により、人々は神の懸念と気遣いを再び経験し、感じることができ、それと同時に時代の幕開け、展開、そして終焉をもたらすのは神であることが、力強く証明されたのです。自身の出現を通じ、イエスはすべての人々の信仰を強くし、自身が神であることを全世界に証明しました。それによって、主に付き従う人々は永遠に確信し、また主イエスは自身の出現を通じ、新しい時代における働きの一局面を始めたのです。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 3」(『言葉』第2巻)より
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