日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 7

2021年11月28日

神が人間の結末を決定する基準については、多数の意見がある

では、この主題に戻り、結末についての話し合いを続けましょう。

人間の誰もが関心があるのが自分の結末ですが、あなたがたは神がどのように結末を決めるのか知っていますか。神はどのように人間の結末を決めるのですか。また、神はどのような基準を適用して人間の結末を決めるのですか。人間の結末がまだ決まっていないとき、神は何をしてそれを明らかにしますか。誰か知っていますか。先に述べた通り、神の言葉をすでに長年にわたり研究して、人々の結末や、結末が分類される種別、人々の種類別に待ち受ける様々な結末に関する手がかりを見つけようとしている人たちがいます。彼らは、神の言葉がどのように人間の結末を決めるのか、神はどのような基準を適用するのか、神はどのようなやり方で人間の結末を決めるのかも知りたいと考えています。しかし、彼らは結局何の答えも見つけられません。事実、神の言葉には、そのようなことを論じているものはほとんどありません。それはなぜですか。人間の結末が明らかにされていない限り、神は最後に何が起こるかを誰かに伝えることも、誰かにその終着点を事前に知らせることも望まないのです。そのようなことをしても、人間にとって何ら恩恵がないからです。今ここでは、神がどのように人間の結末を決定するか、人間の結末を決定し明らかにする働きにおいて神が適用する原則、誰かが生き残れるか否かを決定するために神が適用する基準についてだけ話したいと思います。これらは、あなたがたが最も懸念している問題ではありませんか。それでは、どのように神が人間の結末を決定すると信じていますか。これについては、つい先ほどあなたがたは少し述べていました。自分の本分を誠実に尽くして神のために努力することに関係があると言った人がいました。神に服従し、神に満足してもらうことであると言った人もいました。神の意のままになることが関係すると言った人も、目立たなくしていることが肝心であると言った人もいました……。あなたがたがそうした真理を実践するとき、自分が正しいと信じる原則に従って実践するとき、神がどう思うかをあなたがたは知っていますか。そのように続けることで、神の心意が満足されるかどうか、それは神の基準に応じるかどうか、神の要求に応じるかどうかを考えたことがありますか。大部分の人はそのようなことを真剣に考えないと思います。大抵は神の言葉の一部か説教の一部、あるいは自分が偶像化する霊的人物の基準を機械的に適用し、あれこれと自分自身を強制するだけです。それが正しいやり方であると考え、結局どうなるかにかかわらず、そのように実践し続けるだけです。「長年信じてきて、常にそのように実践してきた。自分は神を本当に満足させ、また自分も得るところが多かったと感じる。なぜなら、このあいだに、多くの真理や前にはわからなかった多くのことが分かるようになったから。特に、自分の考えや観点の多くが変わり、人生の価値観も大きく変わり、今ではこの世についてかなりよく理解している」と考える人がいます。こういう人は、それが収穫であり、それが人類に対する神の働きの最終結果であると考えます。あなたがたは、そうした基準と自分の実践すべてを一緒にして、神の心意を満たしていると考えますか。確信を持って「もちろん。わたしたちは神の言葉に従って実践し、上層部が説教し、伝えた通りに実践している。常に自分の本分を尽くし、神に付き従い、神から離れたことは一度もない。だから、完全なる確信を持って神を満足させていると言える。神の心意をどの程度理解し、神の言葉をどの程度理解しているかにかかわらず、神と融和することを求める道を常に歩んで来た。正しく行動し、正しく実践していれば、正しい結果が得られるのは確実だ」という人もいるでしょう。こうした観点についてどう思いますか。これは正しいですか。「そのようなことはこれまで考えたことがない。ひたすら自分の本分を尽くし、神の言葉にある要求に従って行動していれば、自分は生き残れるとだけ考えている。神の心を満足させられるかといった問題や、神が設定した基準に達しているかどうかについては今まで考えたことがない。神から何か言われたり、明確な指示を与えられたりしたことがないので、わたしが働き続けて止まらない限り、神は満足し、わたしにそれ以上のことを求めないはずだ」と言う人もいるかもしれません。こうした考えは正しいですか。わたしに関する限り、こうした実践方法や思考方法、観点はすべて空想的であり、多少盲目的です。わたしがこう述べると、多少落胆して「盲目的とは、どういうことか。これが『盲目的』ならば、わたしたちの救いや生き残りへの望みは少なく、不確実になるのではないか。そのような言い方をして、わたしたちに冷水を浴びせているのではないか」と考える人もいるでしょう。あなたがたが何を信じようと、わたしは自分の言動であなたがたに冷水を浴びせるような意図はありません。むしろ、神の心意に関するあなたがたの理解を向上させ、神が何を考え、何を達成したいのか、神はどのような人間を好み、何を憎み、何を嫌悪し、どのような人間を自身のものとしたいと思っているのか、どのような人間を拒否するかを、あなたがたがよりよく認識できるようにすることを意図しています。それは、あなたがたの心を明瞭にして、各人の行動や思いが神が要求する基準からどれほど離れてしまっているかを、あなたがたにはっきり理解させることを意図しています。こうした事柄について話す必要がありますか。なぜなら、あなたがたは長いあいだ信仰してきて、多くの説教を聴いてきたことをわたしは知っていますが、あなたがたにはこのようなことが最も不足しているからです。あなたがたは、あらゆる真理をノートに書き記し、各自が重要であると思ったことの幾つかを記憶し心に刻み付けてきました。また、実践中に神を満足させるためや、必要なとき、将来の困難な時期を乗り切るためにそれを使うつもりであり、あるいは単に、そうした事柄を人生の道連れにするつもりでしょう。しかしわたしに言わせれば、あなたがたがどのように実践しようと、ただ実践するのであれば、それはあまり重要ではないのです。では、何が重要ですか。それは、実践しているときにしていること、行ないのひとつひとつが神の望むことであるかどうか、行動や思いのすべて、達成したい成果と目標が実際に神の心意を満足させ、神の要求に応じ、また神に認められるものであるかどうかについて、心の奥深くで絶対的に確信を持つことです。重要なのは、こういうことです。

『神を知ることについて』「神の性質と神の働きが達成する成果をいかにして知るか」(『言葉』第2巻)より

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