日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 137

2020年7月13日

神は、この世に至る時、神性の働きのみを行う。それは、肉となった神への、天の霊の委託である。神がやって来る目的は、どこにでも行って語ることに尽き、さまざまな方法で、さまざまな視点から、自らの言葉を発することになる。神は、自らの目標と働きの原則として、主に人への施しと教えを続ける。神は、人間関係や人々の生活での詳細に関わることはない。神の主な職分は、霊の代わりに語ることである。神の霊が肉に実際的に現れるとき、神の行うことは、人のいのちのための施しと、真理の普及に尽きる。神は人の事柄に関わることはない。つまり、神は人間性の働きに関与することはない。人間は神性の働きを行えず、神は人の働きに関わることはないのである。神は、この世で自らの働きを行ったすべての歳月において、自らの働きを行うためにいつでも人々を使ってきた。けれども、それらの人々は肉となった神と見なされることはない。彼らは単に神によって使われる人々として見なされる。けれども、今日の神は、神性の視点から直接語り、霊の声を送り出し、霊の代わりに働きを行うことができる。数々の時代に渡って神が用いたすべての人々は、その体を通して神の霊に働きを行ってもらっているわけだが、なぜ彼らは神と呼ばれえないのだろうか。今日の神は肉で直接働きを行う神の霊であり、イエスも肉で働きを行う神の霊だった。それら後者2つの存在は神と呼ばれる。それではその違いは何なのだろうか。代々わたって、神が用いた人々は皆、普通の思考と理知を持っている。彼らは皆、振る舞い方を心得ており、生活上の問題に対処する。彼らは、普通の人間の観念を保持し、普通の人々が持つべきあらゆるものを備えている。彼らのほとんどは、特別な才能と生来の知性を持っている。神の霊は、それらの人々を通して働きを行うことで、神からの授かりものとなる彼らの才能を生かす。彼らの才能を生かし、彼らが自らの強みを通して神に仕えるようにするのは、神の霊である。けれども、神の本質は観念や思考を持たないものである。そこには人間の考えが組み込まれておらず、人間が普通に持つものを欠いていさえする。つまり神は、人間の行為の原則を熟知さえしていない。今日の神がこの世に来るときはこのようである。神は、人間の考えや人間の思考を組み込むことなく、働きを行い、語りかけるが、霊が元々の意図を直接示し、神の代わりに直接働きを行う。それは働きを行うために霊が現れ、人の考えを組み込むことないことを意味する。つまり、肉となった神は、直接的に神性を体現し、人間の思考や観念がなく、人間行為の原則に対する理解を伴わない。もし神性の働きしかなかったならば(その働きを行う神自身しか存在しなかった場合には)、神の働きがこの世で実行されることは不可能だった。だから神は、この世に来るとき、神性における自らの働きと関連して人間性での働きを行うために自らが使う人々を幾人か備えている必要がある。つまり、神は自らの神性の働きを支えるために人間の働きを使うのである。そうでなければ、人は神性の働きに直接関わるようにはなれなかっただろう。イエスと弟子達においても同様であった。イエスはその生涯において古い律法を廃止し、新しい戒めを確立した。また彼は多くを語った。そのすべては神性において行った。ペテロ、パウロ、およびヨハネといった他の者は皆、イエスの言葉を基礎として、続く働きを行った。つまり神は、その時代に始まりの働きを行い、恵みの時代へと導いた。神は新しい時代をもたらし、古い時代を完結させ、「神は初めであり、終わりである」という言葉を実現させた。つまり人は、神性の働きに基づいて人間性の働きを行わねばならない。イエスが語るべき言葉を全て語り、地上での働きを完遂した後、人から離れた。イエスの後の人々は、神の言葉にある原則に基づいて働き、神が語った真理に従って実践した。すべての人々がイエスのために働きを行った。もしその働きをイエスが1人で行っただけであれば、どれだけ多くを彼が語ったとしても、人々は依然として神の言葉に接するようにはなれなかっただろう。彼は神性において働きを行い、神性の話を語れるだけであったからだ。普通の人が彼の言葉を理解できるように説明することは不可能であった。だからイエスは、自らの後に続く使徒や預言者に自らの働きを補足させる必要があったのだ。これが肉となった神が働きを行うための原則であり、それは、神性の働きを完遂するために受肉を使って語り、行ない、それから、神の心にかなう少数またはそれ以上の人々を使って神の働きを補うことである。つまり神は、人間性において牧養し、注ぐために、自らの心にかなう人々を使うのであり、そうして、すべての人々は真理を受け取ることができる。

神の心にかなうある数の人々を追加して神に協力させることなく、神が肉となり神性の働きを行うだけであれば、人は、神の意志を理解できないだろうし、神に接触することはできないだろう。神は、自らの心にかなう普通の人々を使って、その働きを完遂させ、教会を世話し牧養しなければならず、そうすることで人の思考や人の脳は神の働きを想像することができる。言い換えれば、神は自らの心にかなう限られた数の人々を使って、神性における働きを「翻訳」し、それを明かす、つまり神性の言語を人間性の言語に変換することによって人々は皆、全てを把握し理解することができる。もし神がそう行わなかったなら、誰も神の神性の言語を理解しないだろう。神の心にかなうそのような人々は結局少数に限られており、人の持つ理解能力が弱いからである。これが、神が受肉を通して働きを行うとき、この手法を選ぶ理由である。もし神性の働きしか存在しなかったら、人は神の言語を理解しないため、人は神を知りえないだろうし、神と接触できないだろう。神が、自らの心にかなう人々を使い、神の言葉を明確にすることでのみ、人はその言語を理解することができる。けれども、人間性における働きのみを行うそのような人々しかいなかった場合、それは人の普通の生活を維持することしかできないだろう。人の性質を変換することはできないだろう。神の働きは新しい出発を行えないだろう。そこには、同じ古い歌、同じ古い決まり文句しかないだろう。人々のいのちの性質が変わることができ、人々が時代と共に導かれうるのは、受肉した神により語られる必要があるすべてが語られ、行われる必要があるすべてが行われ、その後の人々が神の言葉に従って働き、経験することによってのみ可能である。神性において働くのは神を表し、人間性において働くのは神に用いられる者である。つまり、肉となった神は、神によって用いられる人々とは実質的に異なる。肉となった神は神性の働きを行えるが、神によって用いられる人々にはそれができない。各時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語りかけ、新しい時代を始め、人を新しい始まりへ導く。神が自らの語りを完遂するとき、神性における神の働きが達成されたことを意味する。その後人々はみな、神によって用いられる者たちの導きに従っていのちの経験に入ることになる。同様に、この段階において、神は人を新しい時代へ導き、すべての人々に新しい始まりを与える。それをもって、肉における神の働きは完結する。

『神の出現と働き』「受肉した神と神に使われる人との本質的な違い」(『言葉』第1巻)より

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