日々の神の御言葉: 宗教的観念を暴く | 抜粋 290

2021年11月21日

神を信じている以上、人間は神の歩調に一歩ずつしっかり従わなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきなのである。このような者たちだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は、聖霊の働きによって淘汰された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、また各期間において、人間には新たな始まりがある。もしも人間が、「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような、それぞれに時代にのみ当てはまる真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きと歩調を合わせることが決してできず、聖霊の働きを得ることも永遠にできない。神がどのように働くかにかかわらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、しっかりとついて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊によって淘汰されることがあるだろうか。神が何を行なうかにかかわらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、疑念を抱くことなく聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰せられることがあるだろうか。神の働きは一度も停止したことがなく、神の歩みも止まったことがない。また神の経営の働きが完了するのに先立ち、神は常に忙しく、休んだことがない。しかし、人間は違う。人間は、ほんの少し聖霊の働きを得ただけで、あたかもそれが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得ただけで、より新しい神の働きの歩みに進んでついて行こうとしない。人間は、わずかな神の働きを見ただけで、すぐに神を一種の木の人形のように決めつけ、神はいつまでも人間の見るこの形のままであり、過去も未来も常にそのような形であると信じる。人間は、表面的な知識だけを得て、誇らしくなって我を忘れ、まったく存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の働きの一段階について確信するあまり、神の新たな働きを宣べ伝えるのがどのような人であれ、人間はそれを受け入れない。これらの者たちは、聖霊の新たな働きを受け入れることができない人々である。彼らはあまりに保守的で、新しい物事を受け入れられない。このような人々は、神を信じてはいるが、神を拒む者たちである。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェを信じるだけでイエスを信じなかった」のは間違っていたと信じているが、大多数の人々が「ヤーウェを信じるだけでイエスを拒む」という役、そして「メシアの再来を切望するがイエスというメシアには反対する」という役を演じている。それならば、聖霊の働きの一段階を受け入れた後も、人間が依然としてサタンの支配下で生き、依然として神の祝福を受けていなくても何ら不思議ではない。これは、人間の反抗心の結果ではなかろうか。現在の新たな働きに追いついていない世界各地のクリスチャンはみな、神が自分たちの望みを一つひとつかなえてくれると思い込み、自分たちは幸運であるという希望にしがみついている。しかし、神が自分たちを第三の天へと引き上げるのはなぜかを、確信を持って述べることはできず、白い雲に乗ったイエスがどのようにして自分たちを引き上げに来るかについても確信しておらず、ましてや自分たちが想像している日に、本当にイエスが白い雲に乗って到来するかどうかも断言できずにいる。彼らはみな不安であり、途方にくれている。自分たち、すなわち各教派から来た一握りの様々な者たちを、神が一人ひとり引き上げるかどうかさえ知らない。神が現在行なっている働き、今の時代、そして神の旨――彼らはそれらの事柄を一切把握しておらず、その日を指折り数えることしかできない。子羊の歩みに最後まで従う者のみが、最終的な祝福を得られる。一方、最後まで従えないにもかかわらず、自分はすべてを得たと信じている「賢い人々」は、神の出現を証しすることができない。彼らの一人ひとりが、自分は地上で最も賢い人間だと信じており、神の働きの継続的な発展を何の理由もなく中断させ、「この上なく神に忠実で、神に従い、神の言葉を守る」自分たちを神は天に引き上げると、絶対的な確信を持って信じているようである。彼らは、神が語った言葉に対して「この上なく忠実」であるにもかかわらず、彼らの言動は極めて忌まわしい。なぜなら、彼らは聖霊の働きに逆らい、欺瞞や悪を犯すからである。最後まで従わない者、聖霊の働きと歩調を合わせられない者、旧来の働きにしがみ付くだけの者は、神への忠誠を果たせなかったどころか、神に逆らう者となり、新たな時代に拒絶され、罰せられる者となった。これ以上哀れなことがあるだろうか。多くの人たちが、古い律法を拒んで新たな働きを受け入れる者はみな、良心がないとさえ信じている。「良心」についての話をするだけで、聖霊の働きを知らないそれらの人々は、最終的に自らの良心によって前途を絶たれる。神の働きが教義に従うことはなく、またそれは神自身の働きかもしれないが、神がそれに固執することはない。否定されるべきことは否定され、淘汰されるべきものは淘汰される。しかし人間は、神の経営の働きのほんの一部に固執し、自ら神に敵対している。それは人間の愚かしさではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを恐れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福を得ることと、最後の祝福を受けることがますます不可能となる。奴隷のように律法を守っている人はみな、律法に対してこの上ない忠誠を示している。そして律法に対してこのような忠誠を示せば示すほど、彼らは一層神に逆らう反逆者となる。というのは、今は律法の時代ではなく、神の国の時代であり、現在の働きと過去の働きを同じ言葉で語ることはできず、過去の働きを現在の働きと比較することもできないからである。神の働きは変化しており、人間の実践もまた変化した。それは、律法にしがみつくことでも、十字架を背負うことでもない。ゆえに、律法や十字架に対する人間の忠誠が、神に認められることはないのである。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)より

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