日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 93

2020年7月13日

(創世記17:4-6)「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。」

(創世記18:18-19)「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じてヤーウェの道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これはヤーウェがかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。

(創世記22:16-18)ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

(ヨブ記42:12)ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

 神が述べた言葉と人間の言葉の違いは何であろうか。こうした神が述べた言葉を読むと、あなたは神の言葉の力と、神の権威を感じる。こうした言葉を、人間が述べたのを聞いたとしたら、どう感じるであろうか。その者は極めて傲慢であり、自己顕示していると思うであろうか。その者は、この力も権威も無いので、そうした言葉を実現することは全く不可能である。その者が約束を強く確信しているのは、単にその者が出任せを言っていることを示しているだけである。ある者がこのような言葉を述べた場合、その者は間違い無く傲慢であり、自信過剰であり、自らにより大天使が持つ性質の典型的な例を示している。こうした言葉は、神が述べたものであるが、こうした言葉に何らかの傲慢さの要素を感じるであろうか。神の言葉は単なる冗談であると感じるであろうか。神の言葉は権威であり、事実であり、その言葉が神の口で述べられる前に、すなわち神が何らかの業を行うことを決定した時点で、その言葉は既に実現されている。神がアブラハムに対して述べたことは、すべて神がアブラハムと立てた契約であり、神とアブラハムの約束であったと言えるであろう。この約束は確立され、かつ実現された事実であり、神の計画に基づいて、神の考えにより漸進的に履行された。そうしたわけで、神はこうした事柄を履行できるので、神がこのような言葉を述べるのは、神の性質が傲慢であることを意味するものではない。神にはそうした力と権威があり、こうした業を完全に実行可能であり、こうした業を実現させることは完全に神の能力の範囲内にある。このような言葉を神が述べた場合、その言葉は神の真の性質を明示し、表現するものであり、神の本質と権威の完璧な明示と顕現であり、創造主の身分を証明するものとして、それ以上適切なものは無い。こうした発言の仕方、語調、語彙はまさに創造主の身分の印であり、神自身の身分の表出と完璧に一致し、こうした発言には見せかけや不純さは無い。こうした発言は、創造主の本質と権威を完璧に証明するものである。被造物には、こうした権威も本質もなく、ましてや神から授けられた力もない。人間がむやみにこうした行為をとった場合、それはその者の腐敗した性質が暴露されたものであることはほぼ確実であり、人間の傲慢さや向こう見ずな野望であり、他でもない、神を裏切るよう人々をそそのかすことを望む悪魔やサタンの悪意の現れである。それでは、そのような言葉を用いて示された物事を、神はどのようにみなすだろうか。神は、そうした物事を、神の立場を侵害すること、神になりすまし、神に代わることを望んでいるものとみなすであろう。神が言葉を述べる口調を模倣した場合、それは人々の心のなかにある神の立場を奪うこと、正当に神の元にある人々を私物化することを意図するものである。こうした行為はサタンの行いに他ならない。こうした行為は、天が耐えられない大天使の末裔の行為に他ならない。あなた方のなかに、人々を惑わし、欺くことを目的として、何らかの方法で神を模倣して言葉を述べ、人々に対して自分の言葉や行動に神の権威があるかのような印象を与え、あたかもその者の本質と身分が唯一のものであるかのような印象を与え、この者の言葉の口調が神の言葉であるかのような印象を与えた者はいるであろうか。あなた方は、このようなことを行ったことがあるだろうか。あなた方は、自分が話す時に、神の口調を真似て、神の性質を示し、神の力と権威を持っているように考えられるような身振りで話したことがあるだろうか。あなた方の多くは、頻繁にそうした行動を取ったり、取ろうとしたりするだろうか。あなた方が創造主の権威を真に知り、理解した時、かつての自分が行ったこと、自らが示した自身を省みると、嫌悪感が湧くであろうか。あなた方は自分自身の下劣さ、無恥さを認識するであろうか。こうした人々の性質と本質を精査して、こうした人々は地獄から生まれた憎き者たちであると言えるであろうか。こうした行動を取る者は、自分自身を辱めていると言えるであろうか。あなた方は、この問題の深刻さに気付くだろうか。またそれは、どの程度深刻であろうか。このような行動を取る者は、神を模倣することを意図している。こうした者は神になることを望み、自分を神として人々に崇拝させる。こうした者は、人々を支配し、搾取し、自分のものとすることを目的として、人々の心の中にあって人々の中で業を行う神の地位を廃して神を排除することを望む。こうした無意識の願望や野望は人間全員にあり、皆極めて腐敗した邪悪な本質で、神を敵視し、裏切り、神になることを望むといった邪悪な本性により生活している。わたしが伝えた神の権威に関するフェローシップの後、あなた方は依然として神になりすましたり、神の模倣をしたりすることを望んだり目指したりするであろうか。あなた方は依然として神でありたいと願うだろうか。あなた方は依然として神になることを願うだろうか。人間が神の権威を模倣したり、神の身分や地位にあると偽ったりすることはできない。神の口調を真似ることはできるが、神の本質を模倣することはできない。あなた方は神の場所に立ち、神になりすますことができるものの、神が意図する業を行うことも、万物を支配し統治することも、決して出来ない。神の観点から見ると、あなたは永遠に小さな被造物であり続け、あなたの技能や能力がいかに優れていたとしても、いかに多くの賜物を持っていたとしても、あなたはすべて創造主の支配下にある。あなたは大胆な発言をすることができるかもしれないが、それでもなお、創造主の本質を備えていることを証明したり、創造主の権威を持つことを表したりすることはできない。神の権威と力は神自身の本質である。神の権威と力は、習得されたものでも、外部から追加されたものでも無く、神自身に固有の本質である。したがって、創造主と被造物の関係は、決して変えることができない。人間は、被造物として、自身の立場を維持して誠実に行動し、創造主から託されたものを忠実に守る必要がある。そして人間はその道を外れた行動を行ったり、人間の能力を超えることや、神が不快と感じることを行ったりしてはならない。人間は、偉大になろうとしたり、特別になろうとしたり、他の者を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはならない。人間はこうした存在になることを望んではならない。偉大になろうとしたり、特別になろうとしたりするのは、愚かである。ましてや神になろうとするのは、恥辱的であり、不快で卑劣である。称賛に値し、被造物が何よりも固守すべき事は、真の被造物となることである。それが全ての人々が追求すべき唯一の目標である。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 1」(『言葉』第2巻)より

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