日々の神の御言葉: 終着点と結末 | 抜粋 598
2020年7月17日
追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒も悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れるのがつらいと感じ、彼ら自身の肉の喜びを捨てるのがつらいと感じるような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、洗練の苦しみを受けても持ちこたえることのできた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、神が受肉したことを認めない者はだれも、この時代の流れの中にあってもこの流れに関係なくても、みな反キリストである。もし神を信じない反抗派がそうでないなら、誰がサタンだろうか、誰が悪魔だろうか、誰が神の敵だろうか。彼らは神に背く人たちではないだろうか。彼らは口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないだろうか。彼らは、祝福を受けることだけを追い求めるが神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたはまだこのような悪魔と親しく交わり、悪魔と一致した道義心や愛を強調することもできる。これはサタンに親切心を示しているのではないだろうか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。もし人々が今日まだ、善悪を区別することができないならそして神の意志をどんな形でも求めることを望まず、愛や憐れみを、盲目的に強調するなら、さらに神の心を自身のものとして全く持つことができないなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。肉の中の神を信じないものはみな神の敵である。もしあなたが敵の方を向いて良心と愛を強調するなら、あなたは義の感覚を欠いていないだろうか。もしあなたが、わたしが憎み嫌い、反対するものに味方し、彼らとの愛あるいは個人的な感情をまだ強調するなら、あなたは従順ではないのではないか。あなたは故意に神に逆らっているのではないか。このような人は真理を所有しているのか。もし、敵への良心を強調し、悪魔への愛を強調し、サタンへの憐れみを強調するなら、そのような人はみな、故意に神の働きを妨げていないだろうか。イエスだけを信じて、終わりの日に肉となった神を信じない人たち、口先だけで肉となった神を信じると言うが悪を行う人たちはみな、反キリストである。神を信じない人たちであるのは言うまでもなく、このような人はみな滅ぼされる。人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である。この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず、一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を買うことを考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違って思っている。従って多くの人は虚偽の行為を通じて一時の恵みを獲得するためにこのような方法を用いようとする。最後は安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人だろう。彼らはみな人の本分を果たしてきた人であり、心から神に従う人である。仕える機会を利用して真理の実行を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。彼は、人の言行だけに基づいて意思決定をするのではなく、人のある時期の行いに基づいて意思決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行を寛大に処理することは決してなく、また、人が神のためにかつて一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅亡の苦しみから逃れられない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるなら、このことは、祝福を受けても不運に苦しんでも、彼らが神に永遠に忠誠を尽くし、報酬を求めないことを意味する。もし祝福に出会う時は神に忠実であるが、祝福に出会うことができない時は神に忠実でなく、結局はその上神のために証しをすることができず、自分の尽くすべき本分をも果たすことができないなら、かつて神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、不道徳者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人こそが安息の主人である。人類がみな正しい軌道に乗った後、人は正常な人の生活を持つようになる。彼らは彼ら自身の本分を尽くすことができ、神だけに忠誠を尽くすことができる。彼らは不従順、堕落した性質も完全に脱ぎ捨て、神のために生き、神ゆえに生きる。彼らはもう神に背かず、逆らわず、神に完全に従うことができる。これこそ神と人の生活であり、神の国の生活であり、また安息の生活である。
『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)より
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