第6節 いかに神の言葉を実践し、それに従うかについて
391. 神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく――これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。人類がみな本来の姿を回復し、それぞれ自分の本分を尽くし、自分の立場を守り、神のすべての定めに従うことができたら、神が地上で一団の、自身を礼拝する人たちを得、自身を礼拝する国を打ち立てたことになる。
『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)
392. あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことがないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。半分だけ従っている者でさえ最後まで歩き続けることはできないのに、従う気持ちが微塵もないこのような暴君が最後まで歩き続けられないのは尚更である。神の働きは人間によって簡単に獲得されるものではない。人間が全力を尽くしても、その一部だけを得て最後に完全にされるだけである。そうであれば、神の働きを潰そうとしている大天使の後代はどうであろうか。彼らが神のものとなる望みは更に薄いのではないか。わたしが征服の働きをする目的は、単に征服することそのものにあるのではなく、征服することによって義と不義を明らかにし、人に対する懲罰のための証拠を入手し、邪悪な者を罪に定め、更に、進んで従う者達を完全にするために征服するのである。最後には、全ての人がそれぞれの種類に従って分けられる。完全にされた全ての者には従順に満ちた考えと発想がある。これが最後に完成される働きである。しかし、反抗的なやり方に満ちている者は罰せられ、燃える炎の中に送られ、永遠の呪いの対象となる。時が来れば、過去のいくつもの時代に及ぶ「偉大な不屈の英雄」が最も低い者となり、最も敬遠される「弱く、無力な臆病者」となる。このようにしてのみ、神の義のあらゆる側面を描き出し、人間による少しの反撃も容赦しない神の性質を現わす。唯一これが、わたしの心にある憎しみを鎮める。あなたがたも、これが全く理に叶っていると思わないか。
『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)
393.神の働きは時代ごとに異なるのである。もしあなたが、ある局面では立派に従うが、次の局面になるとそれ程従わないか全く従わないというのであれば、神はあなたを見捨てるだろう。今の段階を神が上がっていくにつれ神に付いて行っているのであれば、次の段階でも神に付いて行かなければならない。そうして初めて、あなたは聖霊に従順な者となる。あなたは神を信じているのだから、絶えず従順でなければならない。従いたい時にだけ従い、従いたくない時は従わないということではいけない。そのような従い方は神に認められない。わたしが語る新しい働きに付いて来ることができず、昔聞いたことに固執するのであれば、どうしてあなたのいのちが進歩できるだろうか。神の働きというのは、神の言葉を通してあなたに施すことなのだ。あなたが神の言葉に従って受け入れるのであれば、聖霊があなたの中で間違いなく働くのである。聖霊はわたしが語る通りに働く。わたしの言う通りを行いなさい。そうすれば聖霊はすぐにあなたの中で働く。わたしはあなたがたのために新たな光を放ち、あなたがたがその光を見て現在の光へ来るようにする。あなたがこの光の中へ入っていく時、聖霊はあなたの中で直ちに働く。「わたしはあなたの言う通りにはしない」などと言う扱い難い人もいるかもしれない。そのような人に言う。あなたの道は先がない。あなたはもうこれまでで、あなたの命は終わる。それだから、自分の性質の変化を経験するときに最も重要なのは、今の光に付いて行くことなのである。聖霊が働くのは神に用いられる特定の人々だけではなく、教会においてそれ以上に働く。聖霊は誰においても働くことができる。今はあなたの中で働いているかもしれないが、やがてあなたはその働きを経験する。そうなると、次は別の人の中で働くかもしれない。その場合、あなたは急いでついて来なければならない。今の光にしっかりついて来るなら、あなたのいのちは更に成長できる。どのような人間であれ、聖霊がその人の中で働いているなら、必ず従いなさい。その人の経験を自分の経験と重ねてそこから学びなさい。そうすれば、あなたは更に高尚なものを受けるであろう。そうすることで、あなたの進歩は更に速まる。これが人間が完全にされる道であり、いのちが成長する道である。完全にされる道には、聖霊の働きに従うことで到達する。あなたは、神がどのような人を通してあなたを完全にする働きをするかを知らず、どのような人、どのような出来事や物事を通してあなたを獲得し、あなたが識見を得るようにするかを知らない。あなたがこの正しい道を進むことができるのであれば、それはあなたには神によって完全にされる望みが大いにあるということを示している。もしあなたが正しい道を進むことができないのであれば、あなたの将来は暗く、光りがないということである。あなたが正しい道に入れば、全ての事において啓示が与えられる。聖霊が他の人たちに何を啓示するかを問わず、その人達の認識を基盤にして前進し、自らも経験するのであれば、それはあなたのいのちの一部となり、その経験を通して他の人たちに施すことができる。ただ言葉を真似て他の人たちに施す者は何の経験もない者である。まず他の人が受けた啓示や照らしを通して実践の方法を見つけ出し、それから自分の実際の経験や認識を語るようにしなさい。これはあなた自身のいのちに大いに益となる。あなたは、神から出る全ての事に従い、このように経験しなさい。万事において神の旨を求め、全てのことを教訓とし、あなたのいのちが成長するようにしなさい。このように実践するならば、極めて速い進歩が得られる。
『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)
394. 神の働きに対する服従ははっきりと見て取れるものでなければならず、それを生きたものとして現わさなくてはならない。表面的な服従は神の承認を得ることができず、自らの性質の変化を求めずに神の言葉の表面的な部分だけに従うのであれば、神の心を喜ばせることはできない。神に対する従順と神の働きに対する服従はひとつであり、同じものである。神に服従するだけで神の働きには服従しない者は従順であるとは見なされない。心から従わずに表面的に媚びへつらう者は尚更である。心から神に従う者は皆、神の働きから得るものがあり、神の性質と働きを理解するようになる。そのような者だけが、本当に神に従順なのである。そのような者は新しい働きから新しい認識を得ることができ、新しい働きから新しい変化を経験する事ができるのである。そのような者だけが、神に認められる。そのような者だけが、完全にされる者であり、性質の変化を経験した者である。神の承認を得る者は、喜んで神に従う者で、神の言葉と働きにも従う者である。このような者だけが正しいのである。このような者だけが、心から神を求め、神を追求しているのである。
『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)
395. 人々が想像するのと違い、肉にある期間中、神が人々に求める従順さに、判断や抵抗を避けるといったことは含まれない。むしろ、自身が生きる上での原則、および自身の生存の基礎として神の言葉を用い、神の言葉の本質を絶対的に実践し、神の旨を絶対に満たすことを神は要求する。受肉した神に服従するよう人々に求めることについて、その一つの側面は神の言葉を実践することであり、もう一つの側面は神の普通性と実際性に従えることを指している。これらは両方とも絶対的でなければならない。これらの側面を両方とも成し遂げられる者はみな、心の中に神への真の愛を抱く者である。彼らはみな神によって得られた者であり、自分のいのちを愛するように神を愛する。……
受肉した神が今日得ようと望む人々の集団は、神の旨にかなう者たちである。彼らはひたすら神の働きに従い、天なる神という考えに絶えず囚われるのをやめ、漠然とした状態で生きたり、受肉した神に困難をもたらしたりしなければそれでよい。受肉した神に従えるのは、その言葉を絶対的に聞き、その采配に従う者たちである。そうした人たちは天なる神が実際にはどのような存在か、天なる神が現在どのような働きを人間のあいだで行なっているかを一切気にせず、自身の心を地上の神へ完全に捧げ、自分の全存在をその前に置く。決して自らの安全を考慮せず、受肉した神の普通性や実際性に関して騒ぎ立てることも決してない。受肉した神に従う者は、受肉した神によって完全にされることができる。天なる神を信じる者は、何も得ることがない。なぜなら、人々に約束と恵みを授けるのは、天なる神ではなく地上の神だからである。人は地上の神を単なる凡人と見なしつつ、天なる神を絶えず過大に見ていてはならない。それは不公平である。天なる神は偉大で素晴らしく、驚異的な知恵をもっているが、そんなものはまったく実在しない。地上の神は至って普通で取るに足らない存在であり、極めて平凡でもある。地上の神は非凡な精神をもたず、地を揺るがすような業を行なうこともない。至って普通に、かつ実際的に働きを行ない、話をする。地上の神は雷鳴を通じて語ったり、雨風を起こしたりはしないが、まことに天なる神の受肉であり、人間のもとで生活する神なのである。人は、自分が理解でき、自分の想像に合う存在を神として誇張しつつ、自分が受け入れられず、想像もつかない存在を卑しいものとみなしてはならない。そうしたことはどれも人間の反逆性に由来するのであり、神に対する人間の反抗の源である。
『神の出現と働き』「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」(『言葉』第1巻)
396. 神に従う秘訣は、新しい光を正しく認識し、それを受け入れて実践できることである。それだけが本当の従順である。神を切望する意志のない者は、進んで神に服従することができず、現状に満足する結果、神に反抗するだけである。人が神に従えないのは、以前来たものにとりつかれているからである。以前来たものは、神についてのありとあらゆる観念と想像を人々に与え、それらが人々の心における神のイメージになってしまったのである。ゆえに、人々が信じているものは彼ら自身の観念であり、彼ら自身の想像の中の標準である。あなたがもし、今日実際の働きを行なっている神を、あなた自身の想像上の神と比較して推し測るなら、あなたの信仰はサタンに由来するものであり、自分の好みに汚されている。神はこのような信仰を望まない。実績がどれだけ立派でも、どれだけ献身的でも、たとえ神の働きのために一生努力を捧げて殉教しようとも、神はこのような信仰をもつ者を誰も認めない。神は彼らにささやかな恵みを授けるだけで、ほんの束の間、彼らにそれを享受させるだけである。このような人は真理を実践することができない。聖霊は彼らの内では働かず、神は彼ら一人ひとりを順に排除する。老若を問わず、自身の信仰において神に従わず、間違った意図をもっている者は、神の働きに反抗してそれを邪魔する者であり、このような人は間違いなく神によって排除される。神への従順の片鱗さえ見られない者、ただ神の名を認め、神の優しさや愛らしさについて多少認識しているだけで、聖霊の歩みに歩調を合わせず、聖霊の現在の働きや言葉に従わない者は、神の恩恵のただ中で生きているにもかかわらず、神のものとはされないし、神によって完全にされることもない。神は人々を、その従順さを通して、神の言葉を飲み食いし、享受することを通して、そして生活における苦しみと精錬を通して完全にする。このような信仰を通してのみ、人々の性質は変化し、そうして初めて人々は神を本当に知ることができる。神の恩恵のただ中で生きることに満足せず、積極的に真理を切望して探求し、神のものにされるよう求めることが、意識して神に従うことの意味である。これがまさに神が望んでいる信仰である。神の恩恵を享受するだけの人は、完全にされることも変わることもなく、彼らの従順、敬虔、愛、そして忍耐はすべて表面的である。神の恩恵を享受するだけの人は本当に神を知ることができず、神を知ったとしてもその認識は表面的であり、「神は人を愛する」とか、「神は人に対して憐れみ深い」などと言う。これは人のいのちを表してなどいないし、人が本当に神を知っているとは言えない。神の言葉が人を精錬するとき、あるいは神の試練が人に降りかかるとき、神に従うことができず、それどころか疑い深くなってつまずくなら、その人はほんの少しも従順ではない。彼らには神への信仰に関するたくさんの規則や制限があり、長年にわたる信仰の結果である古い経験があり、聖書に基づくさまざまな教義がある。このような人が神に従うことなどできるだろうか。これらの人たちは人間的なもので一杯なのだから、どうして神に従えるだろうか。彼らの「服従」は個人の好みに従っている。神はこのような従順を望むだろうか。これは神への従順などではなく、教義の遵守であり、自分を満足させて慰めているのである。これが神への従順だとあなたが言うなら、それは神を冒涜しているのではないか。
『神の出現と働き』「神への信仰において、あなたは神に従うべきだ」(『言葉』第1巻)
397. 自分の信仰において神への従順を求めない者はみな神に反抗する。神は、人々が真理を求め、神の言葉を渇望し、神の言葉を飲み食いし、それを実行に移し、それによって神への従順に達することを求めている。これがあなたの真意ならば、神は必ずやあなたを引き上げ、必ずやあなたに対して恵み深くなる。このことに疑問の余地はないし、変わることもない。あなたの意図が神に従うことではなく、何か他の目的があるならば、あなたのあらゆる言動、すなわち神の前での祈り、さらにはあなたの行動の一つひとつでさえ、それらは神に反抗するものである。あなたは穏やかな話し方と温厚な振る舞いをし、あらゆる行動や表現が正しいものに思われ、神に従う者のように見えるかもしれないが、あなたの意図と神への信仰に関する見解について言えば、あなたが行なうことはどれも神に反しており、悪である。表面上は羊のように従順に見えるものの、心に邪悪な意図を抱いている人々は、羊の皮を被った狼である。このような人は直接神を犯し、神は彼らを一人として容赦しない。聖霊は彼らを一人残らず暴露し、あらゆる偽善者は必ずや聖霊に忌み嫌われ、拒絶されることを万人に示す。心配しなくてもよい。神はそのような人間を一人残らず処理し、一人ひとり処分する。
『神の出現と働き』「神への信仰において、あなたは神に従うべきだ」(『言葉』第1巻)
398. 人が神に従えるかどうかを決めるにあたり、目を向けるべき重要なことは、その人が神から贅沢な何かを欲しがるかどうか、隠された動機があるかどうかです。いつも神に要求をしているなら、それは神に従っていないことを証明します。自分に何が起きようと、それを神から受け取れず、真理を求めることができず、いつも主観的な推論で語り、いつも自分だけが正しいと思い、神を疑うことさえできるなら、必ずや問題に見舞われます。このような人は最も傲慢で、神に最も反抗的な人です。神に要求してばかりいる人は、決して本当に神に従えません。あなたが神に要求をしているなら、それは神と取引していること、自分の考えを選んでいること、そして自分の考えに従って行動していることを証明しています。あなたはその点で神を裏切っており、従順ではありません。神に要求するのは理知に欠けることです。神は神であると心から信じているなら、それが理性的であろうとなかろうと、あえて神に要求をすることはなく、またそうする資格もないはずです。あなたが真の信仰を持ち、神は神であると信じているなら、神を崇拝して神に従うしか選択肢はありません。現在の人には選択肢があるだけでなく、自分の考えに従って神が振る舞うことさえ要求します。彼らは自分の考えを選んだうえで、神がそれらに従って振る舞うことを求め、自分が神の考えに従って振る舞うことは必要としません。ゆえに、そのような人に真の信仰はなく、その信仰には実質が一切ありません。神への要求を少なくできれば真の信仰と従順さが膨らみ、あなたの理知も比較的正常になります。
『終わりの日のキリスト講話集』「人はあまりに多くを神に要求する」(『言葉』第3巻)
399. 現実の問題に対処する時、神の権威と神の統治をどのように知り、理解すべきでしょうか。あなたがこうした問題に直面した時、それらをどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、神の統治と采配に服従するという意向、願望、服従しているという事実を、あなたはどのような姿勢で示すべきでしょうか。あなたは、まず待つこと、次に追い求めること、その後に従うことを覚える必要があります。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の思いが徐々に明示されてゆくのを待つことです。「追い求める」とは、神が計画した人々、出来事、物事を通して、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事を通して真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、神は人間の中にどのような結果を実現させようとしているか、人間の中に何を達成させようとしているかを理解することです。当然ながら、「従う」とは、神が周到に準備した人々、出来事、物事を受け容れ、神の統治を受け容れることであり、それらを受け容れることを通して、創造主が人間の運命をどのように支配しているか、神はどのようにして人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることです。神の采配と統治の下にあるすべての物事は自然の法則に従っており、あなたが自らのすべてを神の采配と支配に委ねると決心したのであれば、あなたは待つこと、追い求めること、従うことを学ぶべきです。これこそが、神の権威に服従することを望むあらゆる人が取るべき姿勢であり、神の統治と采配を受け容れることを望むあらゆる人に備わっているべき基本的な資質です。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要です。そうした努力をして初めて、あなたがたは真の現実に入ることができるのです。
『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」(『言葉』第2巻)
400. ノアが神に指示されたことを実行したとき、ノアは神の意図を知りませんでした。神が何を成し遂げようとしているのかを知らなかったのです。神はただノアに命令を与え、すべきことを伝えただけで、ノアは大した説明も受けず、ただ言われたとおりに実行しました。ノアは神の意図を自分なりに理解しようとしたりせず、神に抗ったり、不誠実になったりもしませんでした。ただ純粋で無垢な心で、神の指示に従ったのです。神がノアにするよう告げたことを、ノアはすべて行いました。神の言葉を聞きそれに従順に従うことは、ノアがその行いに信念を持っていることを証明していました。ノアはそのようにまっすぐにかつ単純に、神に委ねられたことを行いました。彼の本質、すなわち彼の行動の本質は従順であり、先読みしたり、拒否したりせず、自分の個人的な利益や損得を考えることもありませんでした。そしてさらに、神が洪水で世界を滅ぼすと言ったとき、ノアはそれがいつかと聞いたり、物事がどうなるのかと尋ねたりせず、もちろん神がどのように世界を滅ぼすのかも聞きませんでした。ノアはただ、神が命じたことをそのとおりに行ったのです。箱舟を何でどのように造るかについても、ただ神の指示通りにし、しかも即座にとりかかりました。ノアはただ神を満足させたい一心で、神の指示に従ったのです。自分が災害から逃れるためにそうしたのでしょうか? いいえ。あとどのくらいで世界が滅ぼされるのかと神に尋ねたでしょうか? いいえ、そんなこともしませんでした。箱舟を作るのにどれくらい時間がかかるかと神に尋ねたでしょうか、またはそれを知っていたでしょうか? ノアはそれも知りませんでした。彼はただ従い、耳を傾け、言われた通りにしたのです。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)
401. ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではなかっただろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、神への純粋な愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛することができないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは、真理を持たず、神に従うことができず、神に反抗しているがために、被造物の本分を尽くすことがないばかりか、神に非難されるのである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践することあるいは自分自身を知ることに無関心である。あなたは、創造主を理解できず、また知ることもせず、創造主に対して従うことも愛することもしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのである。
『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)
402. 神のために鳴り響くような証しをすることは、おもに実際の神に関する認識があるか否か、そして普通であるだけでなく正常なこの人の前で服従し、死に至るまで従い続けられるかどうかと関連している。この従順さによって神のために真の証しをするならば、それはあなたが神によって得られたことを意味する。死に至るまで服従し、神の前で不満がなく、判断したり中傷したりせず、観念を抱かず、秘めたる意図を一切もたずにいられるなら、神はこのようにして栄光を得る。人から見下されている普通の人の前で従順になること、そして観念を抱かず死ぬまで従えることこそが、真の証しである。神が人々に入るよう要求する現実とは、あなたが神の言葉に従い、それらを実践し、実際の神の前にひれ伏し、自分の堕落を知り、神の前で自分の心を開き、最終的にこれらの神の言葉によって神に得られることができることである。それらの言葉があなたを征服し、神に対して完全に従順にするとき、神は栄光を得る。神はそれによってサタンを辱め、自身の働きを完了させる。受肉した神の実際性についてあなたが何の観念も抱かないのであれば、つまりこの試練において揺るぎなく立ってきたならば、あなたはその証しを立派にしたことになる。実際の神を完全に理解し、ペテロのように死に至るまで神に従える日が来るならば、あなたは神によって得られ、完全にされるだろう。神が行なうことのうち、あなたの観念に則していないものはすべてあなたにとっての試練である。神の働きがあなたの観念に則していれば、あなたはそのために苦しんだり精錬されたりする必要はないだろう。そうした観念を捨て去る必要があるのは、神の働きが極めて実践的であり、あなたの観念に則していないからである。それがあなたにとって試練であるのはそのためである。すべての人が試練の最中にあるのは、神の実際性のためである。神の働きは実践的であり、超自然的ではない。神の実践的な言葉と発言を、観念を抱かず完全に理解し、その働きがますます実践的になるにつれて神を真に愛せるようになることで、あなたは神によって得られるだろう。神が得る人の集団は、神を知る者たち、すなわち神の実際性を知る者たちである。さらに彼らは、神の実践的な働きに服従できる者たちである。
『神の出現と働き』「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」(『言葉』第1巻)
403. 人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰せられるか、それとも報われるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を知っているかどうか、目に見える神に従うことができるかどうかによって決まる。目に見える神に奉仕してきたが神を知らない人や従わない人はみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は間違いなく罰を受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした目に見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の働きが終わるときに、依然として、目に見える神を信じることができず、しかも目に見える肉の神に従わず、逆らい続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、あなたがたのうちにも見られる。つまり、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には排除され、滅ぼされる。また、口先では目に見える神を認め、しかも目に見える神が表現した真理を飲み食いするが、漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。悪魔の類の人はみな真理を実行しない人である。彼らの本質は神に逆らい、不従順なものであって、彼らは神に従う意図が少しもない。この様な人々はみな滅ぼされる。
『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)