神は新しい時代に新しい働きをもたらす
主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。
こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。神が新たな業を行った時、神は過去に固執せず、神は律法時代の規則を懸念することがなかった。また、神は従前の時代の業に影響されることもなく、安息日に通常通り活動し、弟子たちは空腹となった時、麦の穂を摘んで食べることができた。こうしたことは、神にとって至って普通であると考えられた。神は、行うことを望んでいた業や、伝えるべき沢山の言葉に対して、新たな始まりを迎えることができた。神は、新たな始まりを迎えた後には、従前の業について述べることも、それを継続することもない。
神の業には原則がある。神が新たな業を始めることを望んだ時は、神が人間を新たな業へと移行させることを望み、神の業が一層高度な段階に達している時である。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動を続けたり、そうした事柄を守り続けたりした場合、神はそれを記憶することも讃えることもないであろう。なぜなら、神は既に新たな業を行っており、業の新たな段階へと移行しているからである。神が新たな業を開始したとき、神の性質や神の中にある物事、神の存在に関する様々な側面を人々が理解できるように、神は人間に対して全く新しい側面から、全く新たな印象とともに、全く新しい方法で現れる。これが、神の新たな業の目的のひとつである。
『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より編集