復活後のイエスによる弟子への言葉

2018年2月23日

ヨハネによる福音書 20:26-29 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

これらの聖句が述べている事柄は、復活後の主イエスによる弟子への言動です。まず、復活の前後における主イエスの違いを検討しましょう。復活後の主イエスは、以前のイエスと同じでしたか。この聖句には、復活後のイエスを描写する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」という一文が含まれています。当時の主イエスがもはや肉体に宿っておらず、霊体になっていたことは明らかです。なぜなら、扉が閉ざされていたにもかかわらず、人々の前に出て姿を見せることができたなど、肉の限界を超越していたからです。これが肉において生きていた復活前の主イエスと、復活後の主イエスの最も大きな違いです。その際の霊体の外見と、それ以前の主イエスの外見との間には何の違いもありませんでしたが、その瞬間の主イエスは、その人たちにとって見知らぬ人と感じられるような存在になっていました。と言うのも、主は死から復活した後に霊体となり、以前の肉体に比べると、人々にとって謎めいた存在、戸惑いを感じさせる存在となっていたからです。それはまた、主イエスと人々との距離をさらに広げ、人は心の中で、その時の主イエスがより不思議な存在になったと感じました。人々は自分が抱くこれらの認識と感覚により、見ることも触れることもできない神を信仰していた時代へと、突如として戻されたのです。そうしたわけで、復活した主イエスが最初に行なったのは、誰でも自分を見えるようにし、自分が存在すること、および復活した事実を確信させることでした。加えてこの業により、イエスと人々との関係は、イエスが受肉して働きを行ない、人々が見て触れることのできるキリストだったときの関係に戻りました。そこから生じた結果の一つに、十字架にかけられた主イエスが死から復活したことについて、人々が何の疑いも抱かず、同時に人類を贖う主イエスの働きについても疑問をもたなかったことがあります。またもう一つの結果として、主イエスが復活後に人々の前に現われ、彼らが主を見て触れられるようにしたことで、恵みの時代が人類の間に定着し、このとき以降、主イエスが「失跡」した、あるいは「無言で立ち去った」からという表向きの理由で、人々が以前の律法の時代に戻ることはなくなった、ということが挙げられます。イエスはこのようにして、人々が前進し続け、主イエスの教えと働きに従うようにしたのです。かくして、恵みの時代の新たな働きが正式に始まり、これ以降、律法の下で暮らしていた人々は正式に律法から脱し、新たな時代、新たな始まりへと入りました。以上が、復活後の主イエスが人々の前に現われたことの、多岐にわたる意義です。

主イエスがいまや霊体に宿っているなら、人々がイエスに触れたり、イエスを見たりすることができたのはなぜでしょうか。その問題は、主イエスが人間の前に現われたことの意義と関連しています。先ほど読んだ二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。通常、霊体は見ることも触れることもできず、また復活後、主イエスがそれまでに着手していた働きはすでに完了していました。したがって理論的に言えば、イエスが元の姿で人々の前に戻り、彼らに会う必要はまったくなかったのです。しかし、主イエスの霊体がトマスのような人の前に現われたことで、その意義がより具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれました。トマスの前に現われたイエスは、疑いを抱くトマスに自身の手を触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。この言葉と振る舞いは、主イエスが復活して初めて伝えたい、行ないたいと思ったことではなく、十字架にかけられる前から伝えたい、行ないたいと思っていたことです。なぜなら、トマスの疑いはこのときに始まったことではなく、主イエスに付き従っている間ずっと彼が抱いていたものだったからです。十字架にかけられる前から、主イエスがトマスのような人たちのことを理解していたのは明らかです。このことから何がわかりますか。主イエスは復活後も依然として同じだったということです。イエスの本質は変わっていませんでした。しかし、死から復活し、元の姿、元の性質、そして肉にあったときからの人間に対する認識をもって、主イエスが目の前に戻ってきたのです。そのため、主イエスは最初にトマスのところへ行って自身のわき腹に触れさせ、復活後の霊体を見させただけでなく、自身の霊体に触れさせてそれを感じさせ、彼の疑念を完全に払拭したのです。主イエスが十字架にかけられる前、トマスは常にイエスがキリストであることに疑念を抱き、信じることができないでいました。トマスの神に対する信仰は、自分の目で見えるもの、自分の手で触れられるものだけに基づいていたのです。この種の人の信仰について、主イエスはよく理解していました。このような人たちは天なる神だけを信じ、神に遣わされた者も受肉したキリストもまったく信じず、受け入れようとすることもありませんでした。自分が存在すること、および本当に受肉した神であることをトマスに認めさせ、信じさせるため、主イエスはトマスに対し、手を伸ばして自分のわき腹に触れるのを許しました。主イエスの復活前後で、トマスの疑いに異なる点はありましたか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊体がトマスの前に直接現われ、身体に残る釘のあとに触れさせる以外に、トマスの疑念を解消して払拭することは誰にもできませんでした。そうしたわけで、主イエスがトマスにわき腹を触れさせ、釘あとがあるのを実感させると、トマスの疑念は消え、主イエスが復活したことを真に知り、主イエスが真のキリストであり、受肉した神であることを認め、信じるようになりました。このとき、トマスはもはや疑っていませんでしたが、キリストに会う機会は永遠に失われていました。キリストと共にあり、キリストに付き従い、キリストを知る機会、キリストによって完全にされる機会を永遠に失ったのです。主イエスの出現と言葉により、疑いに満ちた人の信仰に対する結論、および審判が下されました。イエスは実際の言葉と業によって、疑念を抱く人、天なる神を信じるだけでキリストを疑う人に対し、神はそうした人の信仰も、疑念を抱きながら付き従うことも褒めないと伝えたのです。そのような人が神とキリストを完全に信じる日こそ、神の大いなる働きが完了した日なのです。もちろんその日は、彼らの疑いに審判が下る日でもあります。キリストへの姿勢によって彼らの運命は決まったのであって、頑なに疑いを抱いているせいで信仰は実を結ばず、頑固なせいで希望は叶わなかったのです。そのような人の天なる神に対する信仰は幻想によって育まれており、またキリストを疑うというのが神に対する彼らの本当の態度だったので、たとえ主イエスの釘あとに触れたところで、その信仰は依然として無益なままで、その結末はざるで水を汲むようなもの、つまりすべて無駄だとしか言いようがありませんでした。主イエスがトマスに言ったことはまた、次のことを万人にはっきり述べるものでもありました。つまり、復活した主イエスは、三十三年と半年にわたって人類の間で働きを行なった主イエスだということです。イエスは十字架にかけられて死の陰の谷を歩み、その後復活したにもかかわらず、どの側面も変わることがありませんでした。イエスの身体には釘のあとがあり、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨はまったく変わっていなかったのです。また、イエスは人々に対し、自分は十字架から下ろされて罪に打ち勝ち、苦難を乗り越え、死に勝利したと伝えました。その釘あとはサタンに対する勝利の証しであり、罪のいけにえとなって全人類を見事に贖った証しだったのです。さらに、自分はすでに人類の罪を背負い、贖いの働きを成し遂げたとも伝えました。使徒たちの前に戻って来たイエスは、出現という手段によって次のことを彼らに伝えました。「わたしは依然として生きており、ここに存在している。今日、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共にいる」また、主イエスはトマスの例を挙げて、未来の人々への警告にしました。つまり、あなたは主イエスへの信仰において、イエスを見ることも、イエスに触れることもできませんが、真の信仰ゆえに祝福されており、真の信仰ゆえに主イエスを見ることができるのであって、このような人が祝福された人なのです。

主がトマスの前に現われたときに述べた、聖書に記されているこの言葉は、恵みの時代のあらゆる人にとって大いに役立つものです。主がトマスのもとに現われたことと、主が彼に語った言葉は、その後何世代にもわたる人々に極めて大きな影響を与え続け、そこには不朽の意義があります。トマスは神を信じながら神に疑念を抱く類の人間を代表しています。このような人は疑い深い性格であり、心に悪意があり、不忠であり、神が成し遂げられる業を信じません。神の全能と支配も、受肉した神も信じません。しかし主イエスの復活は、このような人に平手打ちをくらわせたようなものでした。つまり、自分の疑いに気づいてそれを認識し、自分の不忠を認め、それによって主イエスの実在と復活を心から信じる機会を与えたのです。トマスの身に起きた出来事は後の世代の人々への警告であり、より多くの人がトマスと同じ疑う人にならないよう自戒し、もし疑いで一杯になれば、必ずや闇に落ちると自分を戒めるようにするためのものでした。神に付き従いながら、トマスのように主のわき腹や釘あとに触れ、神が存在するかどうかを憶測し、確かめることをいつも望むのであれば、神はあなたを見捨てるでしょう。それゆえ、主イエスは人々に対し、自分の目で見ることのできる物だけを信じたトマスのようにならず、純粋で正直な人間となり、神に対して疑念を抱かず、神を信じて付き従うことを求めているのです。このような人は祝福されています。これは主イエスが人々に行なうごくささやかな要求であり、また自分に付き従う人に対する警告でもあるのです。

以上に述べたのが疑い深い人に対する主イエスの姿勢です。では、心から信じて付き従う人に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ないましたか。主イエスとペテロとの対話を通じてそれを検討しましょう。

この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と尋ねています。これは、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような人に対し、復活した主イエスが求めたより高い基準です。この質問は一種の調査と尋問でしたが、それ以上に、ペテロのような人への要求と期待でした。イエスはこのように質問することで、人々が自分自身を省みてじっと見つめ、「主イエスが人々に求められているのは何か。わたしは主を愛しているか。神を愛する者か。わたしはどのように神を愛するべきか」と自問するようにしたのです。主イエスがこの質問を投げかけたのはペテロだけでしたが、実は心の中で、ペテロにこの質問をすることにより、神を愛することを求めるより多くの人に対し、同様の質問を投げかけることを望んでいたのです。ペテロはこの種の人々を代表して、主イエスの口からこの質問を受けるという祝福にあずかったに過ぎません。

復活した主イエスはトマスに「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と告げましたが、ペテロに対しては「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度繰り返して尋ねました。この質問によって、人は主イエスの厳格な姿勢と、質問した際の差し迫った気持ちをより感じ取ることができます。不正直な本性をもち、常に疑っていたトマスに対し、主イエスは手を伸ばして身体の釘あとに触れることを許し、それによって自分が復活した人の子であることを信じさせ、自身のキリストとしての身分を認めさせました。主イエスはトマスを厳しく咎めることも、明確な裁きを言葉で表わすこともしませんでしたが、それでも実際の行動を通じて、自分がトマスを理解していることを知らせつつ、この種の人に対する自身の姿勢と決意を示したのです。この種の人に対する主イエスの要求と期待は、主の言葉には見られません。と言うのも、トマスのような人には真の信仰がこれっぽっちもないからです。このような人に対する主イエスの要求はその程度ですが、ペテロのような人に表わした姿勢はまったく異なります。イエスはペテロに対し、手を伸ばして釘あとに触れるよう求めることも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言うこともありませんでした。その代わり、同じ質問を繰り返したのです。その質問は思考を刺激すると同時に有意義なものであり、キリストに付き従うすべての人が後悔と恐怖だけでなく、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じずにはいられなくなるものです。そして、大きな苦痛や苦しみにあるとき、彼らは主イエスの懸念と気遣いをより理解できるようになり、純粋で誠実な人々に対するイエスの熱心な教えと厳格な要求を認識します。人は主イエスの問いかけを通じ、これらの簡単な言葉に示されている主イエスの人々に対する期待は、単にイエスを信じてイエスに付き従うことだけでなく、愛をもつこと、つまり自分の主と神を愛することだと感じられるようになります。この種の愛は慈しみと服従です。神のために生き、死に、神にすべてを捧げ、神のためにすべてを費やし、そして与えるということなのです。この種の愛はまた、神に慰めをもたらし、神が証しを享受して安息を得られるようにします。それは人類による神への報いであり、責任であり、義務であり、本分であり、人がその生涯を通じて従うべき道なのです。この三度の問いかけはペテロと、完全にされるであろうすべての人に対する主イエスの要求であり、訓戒でした。ペテロが最後まで人生の道を歩むよう導き、励ましたのは、この三度の問いかけでした。また、ペテロが完全にされる道を歩み始めるよう導き、そして主への愛ゆえに主の心を気遣い、主に服従し、主に慰めをもたらし、その愛ゆえに自分の一生と自分のすべてを捧げるよう導いたのも、主イエスが去り際に行なったこの問いかけだったのです。

恵みの時代、神の働きはおもに二種類の人を対象としていました。一つは神を信じて付き従い、神の戒めを守って十字架を背負い、恵みの時代の道を守ることのできる人でした。この種の人は神の祝福を得て、神の恵みを享受しました。もう一つはペテロのように、完全にされ得る人でした。そうしたわけで、復活した主イエスはまず、二つの極めて有意義な業を行なったのです。そのうちの一つはトマスに対してなされ、もう一つはペテロに対してなされたものです。その二つの業は何を表わすものですか。神が人類を救う真意を表わしているのでしょうか。人類に対する神の誠実さを表わしているのでしょうか。神がトマスに対して行なった働きは、疑う人にならず、ひたすら信じるよう、人々に警告するためのものでした。そしてペテロに対して行なった働きは、彼のような人の信仰を強め、この種の人への要求を明確なものにし、目指すべき目標を示すためのものでした。

復活した主イエスは、必要と思われる人々の前に現われ、彼らに語りかけ、彼らへの要求を伝えるとともに、人々に対する自身の旨と期待を残しました。つまり、受肉した神として、人類に対するイエスの懸念と、人々に対する要求は決して変わらなかったのです。イエスが肉にあったときも、十字架にかけられた後に復活して霊体にあったときも、それらは同じままでした。イエスは十字架にかけられる前からこれら弟子たちのことを懸念しており、各人の状態を心の中で明確に理解するとともに、各人の欠点を認識していました。そしてもちろん、死んで復活し、霊体になった後も、各人に関するイエスの理解は、肉にあったときと同じでした。イエスのキリストとしての身分について人々が完全に確信していなかったことを、イエスは知っていましたが、肉にあったとき、人々に対して厳格な要求をすることはありませんでした。しかし、復活したイエスは彼らの前に姿を見せ、主イエスが神のもとから来たこと、イエスが受肉した神であること、そして人類が生涯をかけて追求していくにあたり、自身の出現と復活をその最大のビジョン、最大の動機にしたことを、彼らに完全に確信させました。イエスの死からの復活は、イエスに付き従うすべての人々を強くしただけでなく、恵みの時代における人類の中での働きを完全に成し遂げるものであり、かくして恵みの時代における主イエスの救いの福音が徐々に人類全体へと広まったのです。復活した主イエスが人々の前に現われたことに、何か意味があると言えるでしょうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生においてこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼしたでしょうか。神を信じる生涯において最も素晴らしい、至高のビジョンだと見なしたでしょうか。一生神に付き従い、神を満足させようと努め、神への愛を追求する上での原動力だと見なしたでしょうか。この至高のビジョンを広めるため、生涯をかけて努力したでしょうか。主イエスの救いを広めることを、神から託された使命として受け入れたでしょうか。あなたがたはまだそれを経験していませんが、トマスとペテロの事例は、現代の人々が神の旨と神自身をはっきり理解するのに十分なものです。肉となり、人類の間で人間生活を自ら経験し、当時の人類の堕落や人間生活の状況を目の当たりにした後、受肉した神は、人類がいかに無力で嘆かわしく、哀れであるかを深く感じました。肉において生活していた際、自身が有していた人間性、および自身の肉体的な直感のために、神は人間の状況により共感を覚え、その結果、自身に付き従う人への懸念をさらに強く感じました。あなたがたはおそらくこれらを理解できないでしょうが、自身に付き従うすべての人に対する受肉した神の不安と気遣いは、「強い懸念」という言葉で表わすことができます。その言葉は人間の言語に由来するものであり、極めて人間的な言葉ですが、自身に付き従う人に対する神の感情を真に表わし、描写するものです。あなたがたは人間に対する神の強い懸念を、経験を重ねる中で徐々に感じ取り、味わってゆくことでしょう。しかし、自分自身の性質の変化を追求することで、神の性質を徐々に理解しなければ、それは不可能です。主イエスが姿を見せたことで、人類のうちイエスに付き従う人に対する主の強い懸念が形をなし、イエスの霊体、あるいはイエスの神性に伝えられました。また主イエスの出現により、人々は神の懸念と気遣いを再び経験し、感じることができ、それと同時に時代の幕開け、展開、そして終焉をもたらすのは神であることが、力強く証明されたのです。自身の出現を通じ、イエスはすべての人々の信仰を強くし、自身が神であることを全世界に証明しました。それによって、主に付き従う人々は永遠に確信し、また主イエスは自身の出現を通じ、新しい時代における働きの一局面を始めたのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

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