試練の後のヨブ

2021年2月23日

ヨブ記 42:7-9 ヤーウェはこれらの言葉をヨブに語られた後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたはわたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、ヤーウェが彼らに命じられたようにしたので、ヤーウェはヨブの祈りを受けいれられた。

ヨブ記 42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、ヤーウェはヨブの繁栄をもとにかえし、そしてヤーウェはヨブのすべての財産を二倍に増された。

ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

ヨブ記 42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

神を畏れて悪を避ける人は神に大切にされ、愚かな人は卑しく見られる

ヨブ記第42章7-9節において、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼んでいます。「しもべ」という言葉でヨブに触れたことの中に、神の心におけるヨブの重要性が表わされています。神がヨブをさらに立派な名前で呼ぶことはありませんでしたが、この呼び名は神の心におけるヨブの重要性と何の関係もありませんでした。ここで言う「しもべ」はヨブに対する神のあだ名であり、「わたしのしもべヨブ」と何度も述べたことは、ヨブにどれだけ喜んでいたかを示しています。「しもべ」という言葉の裏にある意味を神は語りませんでしたが、聖書のこの一節における神の言葉から、神による「しもべ」という言葉の定義がわかります。神はまず、テマン人エリパズに言いました。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」。神が人々に対し、自分は試練を受けた後のヨブの言動をすべて受け入れたと公に語り、ヨブの言動がどれも正確で正しいと公に確認したのは、この言葉が最初です。神はエリパズと他の人々に怒りを覚えました。なぜなら、彼らの話は間違っていて馬鹿げており、またヨブのように、自分たちの生活の中で神の出現を見ることも、神が語る言葉を聞くこともできず、それでいてヨブは神のことを正確に認識していた反面、彼らは盲目的に神のことを推理し、何をするにも神の旨に背き、神の忍耐を試したからです。結果として、神はヨブの言動をすべて受け入れると同時に、他の人々に対して怒りを募らせました。彼らの中に、神を畏れることの現実が見られないばかりか、彼らの言葉の中に神への畏れを聞くことが一切なかったからです。そのため、神は彼らに次の要求をしました。「それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。わたしは彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない」。この一節で、神はエリパズと他の人々に対し、罪を贖う何かをするよう言っています。彼らの愚行はヤーウェ神に対する罪であり、それゆえ自分の過ちを償うために燔祭の捧げ物をする必要があったのです。燔祭の捧げ物はしばしば神に対して行なわれましたが、ここでの燔祭の捧げ物は、ヨブに行なわれたという点で普通ではありません。ヨブは試練の中で神に証しをしたので、神に受け入れられました。一方ヨブの友人たちは、ヨブの試練の中で暴かれました。つまり、愚行のために神に断罪され、神の怒りを招き、またヨブの前に燔祭の捧げ物をすることで、神から懲罰を受けなければならなかったのです。その後ヨブは、彼らが自分たちに対する神の懲罰と怒りを一掃するよう祈りました。神の目的は彼らを恥じ入らせることでした。彼らが神を畏れて悪を避けることをしない人であり、ヨブの高潔さを断罪したためです。ある側面から見ると、神は彼らの行ないを受け入れないと言う一方、ヨブを大いに受け入れ、彼に喜びました。また別の側面から見れば、神は彼らに対し、人は神に受け入れられることで神の前で引き上げられ、また愚行のせいで神に憎まれ、神に背くのであって、そのような人は神の目から見て低く卑しい者であると言っています。これが神による二種類の人間の定義であり、これら二種類の人間に対する神の姿勢であり、これら二種類の人間の価値や地位に関する神の明確な説明です。神はヨブを自分のしもべと呼びましたが、神の目から見てこのしもべは愛されており、他の人々のために祈り、彼らの過ちを赦す権威を与えられていました。このしもべは神と直接話すことができ、神の前に出ることができ、その地位は他の誰よりも高く栄誉あるものでした。これが神の言う「しもべ」の意味です。ヨブは神を畏れて悪を避けたためにこの特別な栄誉を与えられました。また他の人々が神にしもべと呼ばれなかったのは、神を畏れて悪を避けることをしなかったからです。はっきり異なる神の二つの態度は、二種類の人々に対する神の態度を示しています。つまり、神を畏れて悪を避ける者は神に受け入れられ、神の目から見て尊いものと見なされますが、愚かな者たちは神を畏れず、悪を避けることができず、神の好意を受け取れません。そのような人はしばしば神に憎まれ、断罪され、神の目から見て卑しい者なのです。

神はヨブに権威を授ける

ヨブは友人たちのために祈りましたが、その祈りのために、神は後でヨブの友人たちに対し、その愚かさに応じた扱いをしませんでした。つまり、彼らを懲罰することも報復することもしなかったのです。それはなぜでしょうか。神のしもべであるヨブの祈りが神の耳に届いていたからです。神はヨブの祈りを受け入れたので、彼らを赦したのです。ここから何がわかりますか。神は誰かを祝福するとき、多くの報いを与えますが、それは物質的なものに限定されません。その人に権威も与え、他の人のために祈る資格を与えるとともに、彼らの過ちを忘れて赦します。神はその人の祈りを聞くからです。これこそまさに、神がヨブに与えた権威です。彼らへの断罪をやめるようにというヨブの祈りを通じ、ヤーウェ神はこれら愚かな人たちを恥じ入らせました。これはもちろん、エリパズたちに対する神の特別な懲罰だったのです。

ヨブは再び神に祝福され、二度とサタンに責められることがなくなった

ヤーウェ神の発言の中に、「あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかった」という言葉があります。ヨブが述べたこととは何だったのでしょうか。これは以前に話し合った内容であり、またヨブ記の中でヨブが語ったとされる何ページにもわたる言葉でもあります。これらのページに記された言葉の中で、ヨブは神について一度も不平や疑念を述べていません。ただ結果を待っていたのです。このように待っていたことがヨブの従順の態度であり、その結果、またヨブが神に述べた言葉の結果、ヨブは神に受け入れられました。ヨブが試練に耐え、困難に苦しんでいたとき、神はヨブの傍らにいて、たとえ彼の苦しみが神の存在によって軽くなることはなくても、神は見たいものを見、聞きたいことを聞きました。ヨブの言動の一つひとつが神の目と耳に届いたのです。神は聞き、そして見ました。これは事実です。当時、神に対するヨブの認識と、心の中の思いは、今日の人々がもつそれに比べて実のところ具体的ではありませんが、時代背景の中、神はヨブの言ったことをすべて認めました。なぜなら、ヨブの態度、心の中の思い、そしてヨブが表わしたものや示したものは神の要求を満たしていたからです。試練に晒されている間、ヨブが心の中で考えたこと、行なおうと決意したことは神に結果を示すものとなり、それは神にとって満足できるものでした。その後、神はヨブの試練を取り除き、ヨブは自身の困難から抜け出て、試練は終わり、二度とヨブに降りかかりませんでした。ヨブはすでに試練に晒され、その中で固く立ち、サタンを完全に打ち負かしたので、神は彼にふさわしい祝福を与えました。ヨブ記42章10節、および12節に記されているように、ヨブは再び祝福を受け、それは最初の祝福を上回るものでした。このとき、サタンはヨブのもとを去っており、再び何かを話したり、何かをしたりすることはありませんでした。このとき以降、ヨブはサタンに邪魔されることも、攻撃されることも二度となくなり、また神によるヨブへの祝福をサタンが非難することもありませんでした。

ヨブは人生の後半を神の祝福の中で過ごす

当時における神の祝福は、羊、牛、らくだ、および物質的な資産などに限られてはいたものの、神がヨブに授けたいと心の中で思った祝福はそれらをはるかに越えるものでした。当時、神がヨブに与えたいと思っていた永遠の約束がどのようなものであるか、記録は残っているでしょうか。神はヨブを祝福する中で、彼の最後に言及することはなく、また神の心に占めるヨブの重要性や立場が何であれ、要するに、神は慎重に考慮して祝福を与えたのです。神はヨブの最後を告げませんでした。これは何を意味するでしょうか。当時、神の計画は人間の最後を宣言するところまでに達しておらず、またその計画は神の働きの最終段階に入っていなかったので、神が人間の最後に触れることはなく、人間に対して物質的な祝福を授けただけなのです。これが意味するのは、ヨブの後半生は神の祝福の中で過ぎゆき、そのためヨブは他の人と違う存在になったということです。しかし、ヨブも彼らと同じく年齢を重ね、普通の人と同じようにこの世に別れを告げる日を迎えました。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ」(ヨブ記 42:17)と書かれているとおりです。この「日満ちて死んだ」とはどのような意味でしょうか。神が人々の終わりを宣言する以前の時代に、神はヨブの寿命を決めました。そしてヨブがその年齢に達したとき、神はヨブをこの世から自然に去らせました。ヨブの二度目の祝福から彼の死に至るまでの間、神はさらなる苦難を加えることはしませんでした。ヨブの死は神にとって自然なものであり、また必要なものでもあり、極めて普通のことであって、裁きでも断罪でもありません。生前のヨブは神を崇拝して畏れました。つまり、ヨブが死後にどのような最後を迎えるかについて、神は何も言わず、何の言及もしなかったのです。神には自らの言動に関する強い平衡感覚があり、その言動の内容と原則は自身の働きの段階と、自身が働いている期間に沿うものです。ヨブのような人間について、神は心の中でどのような最後を思い描いていたでしょうか。何らかの決定に達したでしょうか。もちろん達しました。人間がそれを知らなかっただけのことです。神はそれを人間に知らせたいとも、知らせようとも思わなかったのです。このように、表面的に見れば、ヨブは寿命を迎えて死にました。それがヨブの生涯でした。

ヨブが一生を生きた価値

ヨブは価値ある人生を送ったでしょうか。その価値はどこにあったでしょうか。ヨブは価値ある人生を送ったと言われるのはなぜでしょうか。人間にとって、ヨブの価値とは何でしょうか。人間の観点から言うと、サタンと世の人々の前で鳴り響くような証しを神に行なったという点で、ヨブは神が救いたいと願う人間を代表していました。ヨブは被造物が尽くすべき本分を尽くし、神が救いたいと願うすべての人の見本となり、その模範として振る舞いました。そうすることで、神にすがってサタンに打ち勝つことは間違いなく可能だと、人々がわかるようにしたのです。神にとってのヨブの価値は何だったでしょうか。神にとってヨブの人生の価値は、神を畏れ、崇拝し、神の業を証しし、神の業を称え、神に慰めと喜びをもたらせたことにありました。そして、ヨブは死を迎える前に試練を経験してサタンに勝利し、サタンと世の人々の前で鳴り響くような証しを神に行ない、それによって神は人類の中にあって栄光を得て、神の心は慰められ、熱意に満ちた神の心に一つの結末と希望を見せたのですが、それもまた神にとってのヨブの人生の価値でした。ヨブの証しは、人類を経営する神の働きの中で、人が固く立って神の証しをできることの前例となり、また人が神に代わってサタンを辱められることの前例となりました。これがヨブの人生の価値ではないでしょうか。ヨブは神の心に慰めをもたらし、栄光を得ることの喜びを前もって味わわせるとともに、神の経営計画が素晴らしいスタートを切れるようにしました。このとき以降、ヨブの名は、神が栄光を得たことの象徴となり、サタンに対する人類の勝利の象徴となりました。ヨブがその生涯において生きた物事、そしてサタンに対する勝利は神によって永遠に尊ばれ、またヨブの完全さ、正しさ、神に対する畏れは後の時代に尊ばれ、模範となるでしょう。ヨブは傷のない輝く真珠のように、神に尊ばれるでしょう。そして人間にとっても、ヨブは尊ばれるに値する人なのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

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