サタンがもう一度ヨブを攻撃する(腫れ物がヨブの全身を覆う)(2)

2018年2月16日

人々がヨブについて抱く数多くの誤解

ヨブが受けた苦難は神の使いによる働きではなく、神自身の手によるものでもありませんでした。むしろそれは、神の敵であるサタンが直接引き起こしたものです。その結果、ヨブが受けた苦しみは大きなものになりました。それでもヨブはこの瞬間、心の中に抱く神に関する日々の認識、日々の行動の原則、そして神に対する姿勢を余すところなく表わしました。これは事実です。ヨブが試みを受けていなければ、また神がヨブに試練を与えなければ、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」と述べたヨブは偽善者だとあなたは言うでしょう。神はヨブに多くの財産を与えたのだから、ヨブがヤーウェの名を称えたのは当然だと。もしヨブが試みを受ける前に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言っていたなら、あなたは「ヨブは誇張しているだけだ。神の手で何度も祝福されてきたのだから、神の名を捨てるはずがない」と言うでしょう。また、「神がヨブに試練をもたらしていれば、ヨブは神の名を捨てたはずだ」とも言うでしょう。しかしヨブは、誰も望まない、あるいは誰も見たくない状況、そして誰もが恐れ、神ですら見るに堪えない状況に置かれた際、それでも高潔さを保ち、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」と言うことができました。仰々しい言葉を語ることが大好きな人、文字や教義を語ることが大好きな人も、そのときのヨブの行ないを見れば言葉を失います。口先だけで神の名を称え、神の試練を受け入れたことがない人は、ヨブが固く抱いていた高潔さのために咎められ、また人間は神の道を固く守れると信じたことのない人は、ヨブの証しによって裁かれます。試練におけるヨブの行ない、およびヨブが語った言葉を目の当たりにして、困惑する人もいれば、羨む人、疑念を抱く人もいるでしょう。さらにはヨブの証しに関心を示さず、鼻であしらう人もいるでしょう。そのような人は、試練のさなかにヨブに降りかかった責め苦を目にしたとき、ヨブの言葉を読むだけでなく、試練が降りかかった際にヨブが見せた人間の「弱さ」も見ているからです。彼らはこの「弱さ」を、ヨブの完全さにおける不完全らしきもの、神の目から見て完全である人間の欠点だと信じています。つまり、完全な人は完璧であり、欠点も汚点もなく、弱さもなく、痛みを知らず、悲しんだり落ち込んだりせず、憎しみを感じることも、外面的に極端な振る舞いをすることもないと信じているのです。結果として大半の人が、ヨブは真に完全であると信じていません。ヨブが試練のさなかに見せた振る舞いの多くを、人々は認めません。例えば、ヨブは財産と子どもを失ったとき、人々が想像するように、泣き叫ぶようなことはしませんでした。ヨブが見せた「非礼」のせいで、人々はヨブのことを冷たい人間だと思いました。家族のために涙を流さず、家族への愛情もなかったからです。これが、人々がヨブに対して最初に抱く悪い印象です。その後のヨブの振る舞いはさらに彼らを困惑させます。「上着を裂いた」のは神に対する不敬と解釈され、「頭をそり」は神への冒瀆および反抗だと誤解されました。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」というヨブの言葉を除き、人々は神に称えられたヨブの義を一つも識別せず、大多数の人がヨブに行なう評価は理解不能、誤解、疑い、断罪、そして理論上だけの承認という域を超えないのです。ヨブは完全で正しい人、神を畏れて悪を避ける人であるというヤーウェ神の言葉を真に理解し、認識できる人は一人もいません。

人々はヨブに対するこのような印象を基に、彼の義についてもさらなる疑いを抱きます。と言うのも、ヨブの行動と聖書に書かれているヨブの行ないは、人々が想像するように、地を揺るがすような感動的なものではないからです。ヨブは偉業を行なわなかっただけでなく、陶器の破片を手に取り、灰の中に座りながら自らの皮膚をかきむしりました。この行動は人々を驚かせただけでなく、ヨブの義について疑いを抱かせ、さらにはそれを否定させました。と言うのも、ヨブは自分の皮膚をかきむしりながら、神に祈ることも誓いを立てることもせず、それ以上に、苦痛の涙も見せなかったからです。人々がこのとき見たのはヨブの弱さだけであり、それゆえ「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」とヨブが言うのを聞いてもまったく感動せず、さもなければ決心がつかず、ヨブの言葉から彼の義を識別することができません。試練による責め苦のさなか、ヨブが人々に与える基本的な印象は、彼が卑屈でも傲慢でもないというものです。人々はヨブの心の奥底で演じられていた、彼の振る舞いの裏にある物語を見ておらず、また心の中にある神への畏れも、悪を避ける道の原則を遵守することも見てはいません。人々はヨブの冷静さのために、彼の完全さと正しさは空虚な言葉に過ぎず、神への畏れも単なるうわさだと考えています。その一方で、彼が外面的に示した「弱さ」は人々に強い印象を残し、神が完全で義であるとしたこの人間に関する「新たな視点」や、さらには「新たな認識」さえも与えるのです。そのような「新たな視点」や「新たな認識」は、ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪った際に証明されることになります。

ヨブが受けた苦しみの程度は、誰一人想像することも理解することもできないものでしたが、ヨブは神に背く発言をせず、自分にできる手段で身体の痛みを和らげるだけでした。聖書に記されているとおり、ヨブはこのように言いました。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」(ヨブ記 3:3)。この言葉を重視した人はおそらく一人もおらず、注意を払った人ならいるかもしれません。あなたがたの考えでは、それらの言葉はヨブが神に反抗したことを意味するものでしょうか。ヨブの言葉は神に対する不平でしょうか。わたしは知っていますが、あなたがたの多くはヨブの言葉について特定の考えをもち、ヨブが完全で正しかったのなら、弱さや悲痛を示すのではなく、サタンのどのような攻撃にも積極的に立ち向かい、サタンの試みを前に笑みすら浮かべるべきだったと信じています。サタンによって肉体にもたらされた責め苦に何の反応も示さず、心中の感情も見せるべきではなかったのです。そしてさらに、神がこれらの試練をより厳しいものにするよう求めるべきだったのです。これが、揺るぎない人間、神を畏れて悪を避ける人間が示し、自分のものにすべきことなのです。この極度の責め苦の中、ヨブは自分の生まれた日を呪う以外に何もしませんでした。神について不平を言わず、ましてや神に背く意図などなかったのです。これを実行するのは言葉で言うほど簡単ではありません。と言うのも、はるか昔から今日に至るまで、ヨブに降りかかった試みと苦しみを経験した人はいないからです。では、ヨブと同じような試みに晒された人がいないのはなぜでしょうか。それは、神の目から見て、ヨブと同じくらい責任感や使命感をもち、ヨブのように物事を行ない、そしてさらに、このような責め苦が降りかかった際、自分の生まれた日を呪った以外に、神の名を捨てずにヤーウェ神の名を称え続けられた人がいなかったからです。そのようなことをできる人がいるでしょうか。ヨブについてこのように話すとき、わたしたちは彼の振る舞いを称賛しているのでしょうか。ヨブは義なる人であり、神への証しをすることができ、またサタンが神の前に出て自分を責めることが二度とないよう、尻尾を巻いて退散させることができました。であれば、ヨブを称えることの何が間違っているのですか。あなたがたの基準は神の基準より高いとでも言うのですか。試練が自分に降りかかるとき、ヨブより立派に行動できるとでも言うのですか。ヨブは神に称賛されました。それに対して何の異議を唱えられますか。

ヨブが自分の生まれた日を呪ったのは、神に心を痛めてほしくなかったからである

神が人の心の中を見る一方、人間は人の外側を見るとわたしはよく言います。神は人の心の中を見るので、人の本質を理解しますが、人間は人の外見に基づいてその人の本質を判断します。ヨブが口を開いて自分の生まれた日を呪ったとき、ヨブの三人の友人を含むすべての霊的な人たちが驚きました。人は神から来たのだから、神から授かった命と肉体、そして自分の生まれた日を感謝すべきであり、それらを呪うべきではないというのです。これは普通の人間なら理解して思いつけることです。神に従う誰にとっても、その理解は犯すことのできない神聖なものであり、決して変わることのない真理です。一方、ヨブはこれらの規則を破り、自分の生まれた日を呪いました。それは、大半の人が一線を越えたと見なす行ないでした。ヨブは人々の理解と慈悲に値しないだけでなく、神の赦しにも値しないのです。同時に、さらに多くの人々がヨブの義を疑うようになりました。なぜなら、ヨブは神に気に入られたことでわがままになり、これまでの人生で神から与えられてきた祝福と慈しみに感謝しないばかりか、自分の生まれた日を呪って滅ぼすほど大胆かつ無謀になったように見えたからです。これが神への反抗でないとすれば何でしょうか。このような表面的な見方は人々にとって、ヨブのこの行ないを断罪する証拠となりましたが、そのときヨブが本当は何を考えていたのか、いったい誰が理解できるでしょうか。ヨブがそのように行動した理由を、いったい誰が知り得るでしょうか。この出来事の真相と理由は、神とヨブ自身だけが知っています。

サタンが自らの手を伸ばしてヨブの骨を痛めつけようとしたとき、ヨブは逃げる手段も抵抗する力もないまま、サタンの手中に落ちました。ヨブの身体と魂は激痛に襲われ、その痛みのために、肉に生きる人間の卑小さ、もろさ、無力さを実感しました。同時に、神がなぜ人間を慈しみ、見守るのかに関する深い認識と理解も得ました。サタンの手中に落ちたヨブは、肉と血でできた人間が実に無力で弱いことを知ったのです。ヨブがひざまずいて神に祈ると、あたかも神が顔を覆って隠れているかのように感じられました。神はヨブを完全にサタンの手中へ預けてしまったからです。それと同時に、神もヨブのために涙を流し、またそれ以上に苦しみました。ヨブの痛みで神も痛みを感じ、ヨブが傷ついたことで神も傷ついたのです……。ヨブは神の痛みを感じ、神にとってそれがいかに耐え難いかも感じとりました……。それ以上神を悲しませることも、神が自分のために涙を流すことも、ましてや自分のために痛みを感じることも、ヨブは望みませんでした。このとき、ヨブは自分の肉を取り除き、これ以上この肉からもたらされる傷みに苛まれないことだけを望みました。そうすれば、自分の痛みのために神が苦しまなくて済むからです。しかし、ヨブはそうすることができず、肉の痛みに耐えなければならないばかりか、神に心配をかけたくないという思いの責め苦にも耐えなくてはなりませんでした。この二つの痛み、つまり肉の傷みと霊の痛みは、ヨブに胸が張り裂けるような、はらわたがちぎれるような痛みをもたらし、肉と血でできた人間の限界がもたらす失望と無力を痛感させました。そのような状況のもと、神を切望するヨブの思いはさらに強くなり、サタンに対する嫌悪がさらに増しました。ヨブはこのとき、人の世界に生まれて来なければよかったと思いました。神が自分のために涙を流したり、痛みを感じたりするくらいなら、自分が存在しないほうがよいと思ったのです。ヨブは自分の肉を深く忌み嫌い、自分自身、自分の生まれた日、そして自分に関係する一切のことさえつくづく嫌になり始めました。そして自分の生まれた日やそれに関するものをすべて忘れたいと思い、口を開いて自分の生まれた日を呪いました。「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ。その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」(ヨブ記 3:3-4)。ヨブの言葉には「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」という自分への憎しみと、「その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように」という自責の念、そして神に痛みをもたらした罪悪感が込められています。この二つの聖句は当時のヨブの感情を表わす極限の言葉であり、彼の完全さと正しさをすべての人に余すところなく示すものです。それと同時に、ヨブが望んだ通り、彼の信仰と神への従順、そして神に対する畏れは真に高められたのです。もちろんこれは、神が予期した通りの効果でした。

ヨブはサタンを打ち負かし、神の目から見て真の人となる

最初に試練に遭った際、ヨブは財産と子どもを残らず失いましたが、それによって躓くことも、神への罪となる言葉をを口にすることもありませんでした。ヨブはサタンの試みに勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世俗の財産をすべて失うという試練に勝利しました。つまり、自分から何かを取り上げる神に従い、また神がしたことに対し、神に感謝と讃美を捧げられたのです。それがサタンによる最初の試みにおけるヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもありました。二度目の試練において、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめました。ヨブはかつて感じたことのない苦痛を経験しますが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるのに十分でした。ヨブはその不屈の精神、信念、神への従順、そして神への畏れによって再びサタンに勝利し、彼の行ないと証しはまたしても神に認められ、喜ばれました。この試みの間、ヨブはサタンに対し、肉の苦痛は神への信仰と従順を変えることも、神に対する強い愛着と畏れを奪うこともできないと、実際の行ないによって宣言しています。死に直面したからといって、神を拒んだり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしないのです。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを臆病にさせて震えさせ、サタンとの生死をかけた戦いの激しさは、サタンの中で強い憎しみと恨みを膨らませ、そしてヨブの完全さと正しさの前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前で行なったヨブへの非難を捨てました。これが意味するのは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に打ち勝ったということです。ヨブはまさに、完全に神に属する人でした。この二度の試練の間、ヨブは固く立って証しを行ない、自身の完全さと正しさを生き通し、神を畏れて悪を避けるという生きる上での原則の範囲を広げました。二つの試練を経たことで、ヨブの中にさらなる経験が生まれ、この経験によってヨブはさらに成熟して鍛えられ、それまで以上に強くなり、さらに強い信念をもち、自身が固く保つ高潔さの正しさと価値をさらに確信しました。ヤーウェ神によるヨブへの試練は、神が人間に対して抱く配慮を彼に深く理解させ、また実感させ、神の愛の尊さを感じ取れるようにしました。そしてそこから、神への思いやりと愛が、神に対するヨブの畏れに加わりました。ヤーウェ神による試練は、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけました。自分の肉の苦痛が頂点に達したとき、ヨブはヤーウェ神から感じ取っていた懸念のために、自分の生まれた日を呪うしかありませんでした。このような行ないは前もって計画されていたものではなく、神への思いやりと愛の自然な表現、神への思いやりと愛から生じた自然な表現なのです。つまり、ヨブは自身を忌み嫌い、神を苦しめることを望まず、またそうすることに耐えられなかったので、ヨブの思いやりと愛は無私のレベルに達したのです。このとき、長年にわたる神への敬慕と切望、そして神に対する強い愛着が、思いやりと愛というレベルに引き上げられたのです。それと同時に、神に対するヨブの信仰と従順、そして神への畏れもまた、思いやりと愛というレベルに引き上げられました。神に痛みを与え得ること、神を傷つける行ない、そして神に悲しみや嘆き、さらには不幸をもたらすことを、ヨブは一切自分に許しませんでした。神の目から見て、ヨブは以前と同じヨブのままでしたが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神に完全なる満足と喜びをもたらしたのです。このとき、神がヨブに期待した完全さをヨブは獲得しており、神の目から見て「完全で正しい」と呼ばれるに値する人となっていました。ヨブは自身の義なる行ないのおかげでサタンに勝利し、固く立って神への証しをすることができました。そしてまた、ヨブの義なる行ないは彼を完全にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでになく超越させるとともに、ヨブがサタンによる攻撃や試みを二度と受けない最初の人物となるようにしました。ヨブは義なる人だったので、サタンに責められ、試みられました。ヨブは義なる人だったので、サタンに引き渡されました。そしてヨブは義なる人だったので、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、固く立って証しをしました。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、真に神の玉座の前に出て、神の祝福のもと、サタンによる監視も破滅もなく、光の中で生きたのです……。ヨブは神の目から見て真の人となり、解放されたのです……。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

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