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4.世の終わりの神の裁きの意義は世の終わりの神の裁きの働きによって達成された結果に見られ得る。

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4.世の終わりの神の裁きの意義は世の終わりの神の裁きの働きによって達成された結果に見られ得る。

(1)終わりの日における神の裁きの業は人間を清め、救い、完全にし、勝利者たちの一群を造るために為される。

参照聖書箇所

忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。(ヨハネの黙示録3:10-12)

彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。(ヨハネの黙示録15:4-5)

関連する神の言葉

終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

今日、神はあなたたちを裁き、あなたたちを罰し、あなたたちを糾弾するが、あなたたちを糾弾するのはあなたたちが自分を知るためであることを知りなさい。糾弾、嘲り、裁き、懲罰――これらはみなあなたたちが自分を知るため、あなたたちの性質が変わるため、さらにあなたたちが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、神の性質や働きの必要性に応じていること、神は人を救済する計画に応じて働くこと、彼は人を愛し、人を救い、人を裁き、罰する義の神であることを理解するためである。あなたたちが、自分たちは低い地位の者で、堕落して、反抗的であることは知っているが、神が今日あなたたちに行う裁きや罰を通して救済を明らかにしようと望んでおられることを知らないならば、あなたたちは経験するすべがないし、ましてや前進を続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、苦しめ、罰し、そして救うために来られた。神の6000年の管理計画が終了する前に――神が人の各カテゴリーの最後を明らかにする前に――地上における神の働きは救済のためであり、すべては神を愛する人々をすっかり完全にし、神の領土に戻すためである。……人の目から見れば、救済は神の愛であり、神の愛は罰、裁き、呪いのはずがない。救済は愛、慈悲心、さらには、癒しの言葉を含んでいなければならず、神によって与えられる無限の恩恵を含んでいなければならない。神が人を救う時、神は彼らに触れ、神の祝福と恩恵を通して彼らの心を神に委ねさせることによって救ってくださると人々は信じている。すなわち、人に触れる時、神は人を救う。このような救済は交換が行われている救済である。神が彼らに100倍与える時のみ、人は神の御名の下に来て、神のためによくやろうと努力し、神に栄光をもたらす。これは人類に対する神の御心ではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来られた――このことにうそはない。そうでなければ、神は直接その御働きを行うために来ることは絶対にないだろう。昔、神の救済手段は最大限の愛と慈悲を見せることだったので、神は人類全体と交換するためにサタンに持てるすべてを与えた。今日は昔とはまったく違っている。今日、あなたたちの救済は終わりの日に、種類によって各々を分類する間に生じる。あなたたちの救済手段は愛や慈悲ではなく、人がより完全に救われるための懲罰と裁きである。従って、あなたたちが受け取るすべては懲罰、裁き、無慈悲な打ちのめしであるが、この無情な打ちのめしの中に罰は少しもないこと、私の言葉がどんなに辛辣であっても、あなたたちに降りかかるものはあなたたちには完全に無情だと思われるほんの数語だけであり、私の怒りがどんなに大きくても、あなたたちに降りかかるものは教えの言葉であることを知りなさい。私はあなたに危害を加えるつもりはないし、あなたを殺すつもりもない。これはすべて事実なのだ。今日、義のための裁きであろうと、無情な改善や懲罰であろうと、すべては救済のためであることを知りなさい。今日種類に応じて各々の分類があろうと、人のカテゴリーのない層があろうと関係なく、神の御発言と御働きのすべては本当に神を愛する人々を救うためである。義のための裁きは人を浄化するためであり、無情な改善は人を清めるため、厳しい言葉、あるいは懲罰はすべて人を浄化するため、救済するためである。従って、今日の救済方法は、過去のものとは違う。今日、義のための裁きはあなたたちを救い、種類に応じてあなたたち各々を分類するためのよい道具であり、無情な懲罰はあなたたちに最高の救済をもたらす――この懲罰と裁きに直面してあなたは何を言わなければならないだろうか。あなたたちは初めから終わりまで救済を享受しなかっただろうか。あなたたちは神の受肉を見たし、神の全能性と英知もはっきり理解した。そのうえ、あなたたちは繰り返される強打や罰も経験した。しかし、あなたたちは最高の恵みを受けたではないか。祝福は他の誰のものより大きいではないか。あなたたちの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも豊富である。考えてもみなさい。神がやってきた意図があなたたちを非難し、罰するためであるなら、あなたたちの日々はこのように長く続くだろうか。この罪深い生身の存在であるあなたたちは今日まで生き残れただろうか。あなたたちを罰するためだけなら、なぜ神が人の姿になり、そのような大きな事業に乗り出したのだろう。ただの人間にすぎないあなたたちを罰するにはわずか1語で済むのではないか。神はあなたたちを非難した後でもまだあなたたちを滅ぼす気持ちなのだろうか。あなたたちは神のこうした言葉をまだ信じないのだろうか。神は愛と慈悲だけで人を救うことができるのだろうか。それとも神は人を救うために磔刑だけしか使えないのだろうか。神の義なるご性質は人を完全に従順にさせるために一層寄与するのではないだろうか。人を一層完全に救うことができるのではないか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

神の御言葉は厳しいかもしれないが、すべて人を救済するための語られているのであり、神は言葉を語っているだけで、人の肉体を罰しているのではない。これらの言葉は、人を光のなかで暮らさせ、光があることをわからせ、光は貴重であることをわからせ、さらにはこれらの言葉が人にとっていかに役に立つかわからせ、神は救いであることをわからせる。神は懲罰や裁きの言葉を数多く語られたが、それらのことは実際あなたたちに対して行われていない。神は神の働きを行うために、神の言葉を話すために来た。神の言葉は厳しいかもしれないが、あなたたちの堕落と反抗心を裁く時に語られる。神がこれを行う目的は依然として人をサタンの領地から救うこと、人を救うために神の言葉を使うことにとどまっている。神の目的は神の言葉で人を傷つけないことである。神の御言葉が厳しいのは、神の御働きから結果が達成されるためである。このように働くことによってのみ、人は自分自身を知ることができ、反抗的性質から離脱できる。言葉の働きで最も需要なのは、人々が真実を理解した後、真実を実践し、自分自身および神の御働きについての知識を獲得するようにさせることである。話すことを通して働く手段のみが神と人の関係を明らかにすることができ、言葉のみが真実を説明することができる。このような方法で働くことは、人を征服する最善の手段である。言葉を発することは別として、その他の手段では真実や神の御働きをより明確に人に理解させることはできない。そこで神は御働きの最終段階で人に話しかけ、人が理解しないすべての真実や神秘を人に隠さず話して、彼らが神から本当の方法と人生を得て、神の御心を満足させることができるようにする。

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

実際、今なされている働きは人々にサタンを捨てさせ、先祖を捨てさせることである。言葉による裁きのすべては人間の堕落した性質を暴露し、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きは全て、人々の心を刺し通す。ひとつひとつの裁きは人々の運命に直接影響を与え、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らがこれらすべてのものを手離し、それによって、人生を知り、この汚れた世界を知り、また神の知恵と全能を知り、このサタンが堕落させた人類を知ることができるからである。この種の刑罰や裁きがあればあるほど、人の心は傷つき、人の霊はもっと目覚めることができる。これらの極端に堕落し、その欺きが最も深い人々の霊を目覚めさせることが、この種のさばきの目標である。人には霊がなく、つまり人の霊はとうの昔に死んでしまっている。そして、人は天が存在し、神が存在するということを知らないし、確かに人は死の奥底で葛藤していることも知らない。人は地球上でこの邪悪な地獄に生きているということをどのようにして知ることが可能だろうか。彼は自分の腐った死体が、サタンの堕落を通して、死のハデスに落ちたのをどのように知ることができるだろうか。彼は地上にあるものはすべて人類によって修復ができないほど長い間堕落されてしまったことをどのように知ることができるだろうか。そして今日、創造主が地に来て堕落した人々の集まりを救おうと探していることを、どのように知ることができるだろうか。人はあり得る限りの精錬と裁きを体験した後でさえ、彼の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上反応しない。人間は本当に堕落している!この種の裁きは空から降って来る残酷なひょうのようだけれど、それは人にとって多大な利益がある。もしこのように人々をさばかないなら、何の結果もなく、苦悩の地獄から人々を救うのは全く不可能であろう。もしこの働きのためでないなら、人々がハデスから出てくるのは非常に難しいだろう。なぜなら、彼らの心はずいぶん前に死んでおり、彼らの霊はずいぶん前にサタンによって踏みにじられたからである。堕落の深淵に沈んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたを呼んだり、裁いたりすることが必要で、その時初めて氷のように冷たいあなたがたの心が呼び起こされるだろう。あなたがたの肉体、途方もない欲望、貪欲、肉欲はあなたがたの内にあまりにも深く根づいている。これらのものは絶えずあなたがたの心を支配するので、これらの封建的で堕落した考え方のくびきを捨て去る力があなたがたにはない。あなたがたは現状を変えたいと思わず、暗闇の影響から逃げたいとも思わない。ただこれらのものに縛られているだけである。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた者だけが意義ある人生を送ることができる」より

創世の時から今日に至るまで、神がその働きの中で行ったことは、みな愛であり、人間への憎しみは欠片ほどもない。あなたの見た刑罰と裁きでさえ愛なのだ。それはもっと真実で、さらに現実的な愛、人を人生の正しい道へと導く愛である……あなたたちはみな、罪と放蕩の場所で生活している。あなたたちは皆みだらで罪深い人々だ。今日、あなたたちは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことは、刑罰と裁きとを受け、こんなにも深い救い、つまり、神の最大の愛を受けているのだ。神のすることはすべて、あなたたちへの真の愛である。神に悪意はまったくない。神があなたたちを裁くのは、あなたたちの罪の故である。それは、あなたたちが自分自身をよく吟味し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな、人間を形成するために行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしている。そして、確かなことは、神には、自らの手で創造した人間を完全に破壊するつもりはない。今、神は働くためにあなたたちの間に来た。これは、より以上の救いではないか。もし神があなたたちを憎んでいるのなら、神はなおも自らあなたたちを導くという、このような大きな業を為すだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたたちを憎まないし、あなたたちに何の悪意ももたない。あなたたちは、神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人々を救わなければならないのは、唯一、彼らの不服従の故である。そうでなければ、彼らは救われないだろう。あなたたちは、どうやって生活し、どのように生きていくのかを知らず、また、あなたたちは、このみだらで罪深い場所に住み、みだらで汚れた悪魔であるが、神は、あなたたちがいっそう堕落してゆくのを望まない。また神は、あなたたちがこのような汚れた場所で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびない。あるいは、あなたたちがハデスに落ちてゆくままにすることなど望まない。神はただあなたたちの群れを獲得し、完全に救いたいと願っている。……今、あなたは裁きのために苦痛と鍛錬を体験しているが、この苦痛は価値があり意味あることなのだ。人間にとって刑罰と裁きとは、罪を罰し、肉を罰するための鍛錬であり、容赦のない暴露であるけれども、この業のどれ一つとして、肉を罪に定めて滅ぼすことを目的としてはいない。言葉による厳しい暴露は、すべてあなたを正しい道に導くことを目的としているのだ。あなたたちは、この業の実に多くを個人的に体験した。そして、明らかに、それはあなたたちを悪の道へとは導かなかった。そのすべては、あなたたちが普通の人間性を実際に生きることができるようにするためだ。これはみな、あなたたちの普通の人間性が達成できるものだ。その業の一つひとつの段階は、あなたの必要、あなたの弱点、そして、あなたの実際の背丈に基づいて為され、あなたたちが荷えないような重荷は一つとしてあなたたちの肩に置かれていない。あなたは今、このことを明らかに見ることができず、わたしがあなたに厳し過ぎるように感じているかもしれない。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと思うかもしれない。また、あなたの受けているのは刑罰と裁きだが、実際は、すべてあなたへの愛であり、あなたを守るためのものなのだ。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(4)」より

人間の状態と神に対する態度に直面し、神は新しい働きを行い、神に対する認識と服従を人に得させ、愛と証しの両方をも得させた。従って、人は神による精練、神の裁き、取り扱いや刈り込みを経験しなければならず、それなしでは人は神を知ることも決してなく、神を真に愛し、神への証を立てることもできない。神による人間の精練は一方的な効果のためだけでなく多面的な効果のためである。人の決意と愛を完璧にするため、このような方法でのみ、真理を求めようとする人々の中で神が精練の働きを行う。真理を求めようとする人々、そして神を慕う人々には、このような精練より意味のあるもの、大きな援助となるものはない。つまるところ神は神であり、神の性質はそれほど容易に人により知られ理解されるものではない。一日の終わりに神が人と同じ性質を持つようなことはなく、したがって人が神の性質を知ることは容易ではない。真理は人が本質的に持っているものではなく、サタンによって堕落した人々が容易に理解するものではない。人には真理がなく、真理を実践する決意がなく、苦しみを受け、精練されあるいは裁かれなければ、人の決意は決して完璧にならないだろう。すべての人々にとって精練は耐えがたく、受け入れ難いものであるが、神が義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓きとより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精練の間である。事実と真理の比較により、神は人自らについてのより大きな認識と真理を人に与え、神の心をより深く理解させ、そうしてより真理に近く純粋な神への愛を人に得させる。それらは精練を実行する神の諸目的である。人の中で神が行う働きのすべてには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精練は人々を神の前から取り除くことを意味するものではなく、地獄で人々を滅ぼすことも意味しない。それは精練の間に人の性質を変え、動機や従来の見方を変え、神に対する人の愛を変え、人の一生を変えることを意味する。精練は人の真の試練のひとつであり、真の鍛錬の一形態であり、精練の間のみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる。

『言葉は肉において現れる』の「精練を経ることによってのみ、人は真に神を愛することができる」より

神が人間を精錬する業を行う時、人間は苦しみ、人間の神への愛は深まり、人間の内に神の更なる力が現される。人間の精錬が少なければ少ないほど、人間の神への愛も少なくなり、人間の中に現される神の力も少なくなる。人間の精錬と苦痛、苦悶が多ければ多いほど、人間の神に対する真の愛が深まり、神への信仰も更に純粋なものとなり、神に関する人間の認識も深まる。多くの精錬と苦痛、多くの取り扱いと懲らしめを受ける者は、神への深い愛を持ち、神に関して、もっと深遠で鋭い認識を持つようになることを、あなたは経験の中で知るであろう。取り扱いを体験しなかった者には、表面的な認識しか無く、ただ「神は本当に良いお方だ。人々が神を楽しめるように、彼らに恵みを授けられる。」と言うことしか出来ない。取り扱いと訓練を体験した場合、人間は神に関する真の認識を話すことができるようになるのだ。したがって、神による人間の内なる業が驚異的であればあるほど、それは一層貴重であり、有意義なものである。あなたにとって、それが測り知れないものであればあるほど、またそれがあなたの見解と相容れないものであればあるほど、神の業は、さらにあなたを征服し、あなたを獲得し完全にすることができる。神の業の意義とは、かくも甚大である。もし神がこのように人間を精錬しなかったら、もし神がこのような方法によって働かなかったら、神の業は効果に乏しく、その意義を失ってしまうだろう。これが、神が終わりの日に一群の人々を選んだ特別な意義の背後にある理由である。神がこの会衆を選び獲得するであろうことは、以前に語られていた。神によってあなたがたの内に遂行される業が大きければ大きいほど、あなたがたの神に対する愛は一層深く純粋なものとなる。神の業が大きければ大きいほど、人は神の知恵を一層味わうことが出来るようになり、神に関する認識もより深くなる。終わりの日には、六千年におよぶ神による経営(救いの)計画が終焉を迎える。それがそんなふうに、そうもたやすく終わってしまうなどということがあろうか。神が一たび人類を征服すれば、神の業は終わるのであろうか。それはこれほど単純なものであろうか。人々は、それを単純なものであると想像しているが、神が為すことは、それほど単純なものでは無い。神の業のどの部分であるかに関わらず、いずれも人間にとっては測り知れないものである。仮にあなたが神の業を推し量ることが出来るとしたら、神の業の意義、あるいは価値は失われてしまうであろう。神によって為される業は測り知れないものであり、あなたの見解とは余りにも相容れないものである。そして、それがあなたの観念と一致しなければしないほど、神の業は有意義であることが一層示されるのである。それがあなたの観念と一致するならば、それは無意味なものとなるであろう。現在、あなたは神の業が驚異的でありすぎると感じ、驚異的であればあるほど、あなたは神が測り知れないものであると一層強く感じ、神の業がどれほど遠大であるかを理解するのである。仮に、神が人間を征服するために、何か表面的で、いい加減なことだけを為して、それで終わりだとしたら、人間は神の業の意義をその目で見ることが出来ないであろう。あなたは今少しばかりの精錬を受けているが、それは、あなたのいのちの成長のために極めて有益なものである――それ故そうした困難はあなたがたにとって最も必要とされるものである。今日、あなたは少しばかりの精錬を受けているが、後になればほんとうに神の業をその目で見ることができ、最終的に「神の業は実に驚くべきものだ」と言うであろう。あなたは、心の中でそう呟くであろう。しばらくの間神の精錬(奉仕者の試練[a]と刑罰の時代)を体験して、ある人々は最終的に「神を信じることは、実に難しい」と言った。この「難しい」という言葉は、神の業が測り知れないものであることを示している。また、神の業には大きな意義と価値があり、人間により宝として大切にされるに相応しい高い価値があることを示している。もし、わたしが多くの業を行った後で、あなたに少しも認識が無かったとしたら、それでもわたしの業には価値があるであろうか。それはあなたにこう言わせるだろう。「神への奉仕は実に困難だ、神の業はほんとうに驚くべきものであり、神には真に知恵がある。神は実に麗しい。」もしある期間の体験を経た後に、あなたがこのような言葉を言うことが出来るのであれば、それは、あなたが、自分の内なる神の業を得た証拠である。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

今日私が話しているのは、人間の罪と不義を裁くことである。それは人間の反逆性を呪うことである。人間の不正さと虚偽、人間の言動など、神の御旨に則していない物事すべてが裁きを受け、人間の反逆性は罪であると判断される。神は裁きの原則に従って御言葉を述べ、人間の不義を裁き、反逆性を呪い、醜悪な顔を全て裁くことにより神の義なるご性情を現す。聖さは神の義なるご性情を現す。神の聖さは、実は神の義なるご性情である。本日の私の話の背景は、発言、裁き、そしてあなたがたの腐敗した性情に鑑みて御業と征服を実施することである。真の御業は、これだけであり、神の聖さを完全に際立たせるのは、これだけである。あなたがたに腐敗した性情が全く無かったとしたら、神はあなたがたを裁くことも、あなたがたが神の義なるご性情を見ることが出来るようになることも無いであろう。あなたがたには腐敗した性情があるため、神はあなたがたを許されない。そのことにより、神の聖さが明らかにされる。……神が義なる神であり、聖なる神であることを、あなたがたが今まで理解することが出来たのは、こうした裁きのおかげである。神があなたがたを裁き、あなたがたに怒りを下したのは、神の聖さと義に起因するものである。神が人間の反逆性を見た時、神は自分の義なるご性情を現すことが出来ること、そして神が人間の汚れを見た時に神の聖さを現すことが出来ることだけで、神が聖く汚れが無く、しかし同時に不浄の地で生活している神ご自身であることを示すに十分である。

『言葉は肉において現れる』の「征服の御業の第2段階は、どのように実りを迎えるか」より

神が裁きと刑罰の働きを行うのは、それによって人が神を知り、神を証すためである。人の堕落した性質を神が裁くことがなければ、人が犯すことのできない神の義なる性質を、人が知ることはできず、神に関する古い認識を捨てて新しい認識を得ることもない。神が証すため、そして自身の経営(救い)のために、神はそのすべてを明らかにし、そうすることで人は、神が公に顕われることにより、神の認識に到達することができ、その性質においても変えられ、人が力強い証し人となれるようにした。

『言葉は肉において現れる』の「神を知る者だけが、神の証人となることができる」より

人間は肉の中に生きるが、それは人間の地獄の中で生きるということであり、神の裁きと刑罰無くして、人間はサタン同様に不浄である。どうして人間が聖いことがあろうか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間の最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると考えていた。人間が目ざめて肉とサタンを憎むことが出来るのは、神の刑罰と裁きによるほか無い。人間は、神の厳しい鍛錬により、サタンの影響から解放され、狭い人間の世界から解放され、神のいる光の中で生きることが出来る。刑罰や裁きよりも優れた救いは無い。…人の人生において、自身が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を行動で示し、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け容れる必要があり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から無くなるのを防ぎ、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きるようにする必要がある。神の刑罰と裁きは光で有り、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の恵みと守りは無いということを知る必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

あなたは、自分が完全とされることを望むのであれば、神の業の意味を理解する必要がある。特に、神の刑罰と裁きの意味と、それが人間に対して行われる理由を理解する必要がある。あなたは、受け容れることが出来るであろうか。この種の刑罰において、あなたはペテロと同等の経験と認識に達することが出来るだろうか。あなたが、神の認識と聖霊の業に関する認識を追求し、自分の性質の変化を追求するのであれば、あなたには、完全にされる機会がある。…あなたの追求が、ペテロが完全にされた道に従わないのであれば、必然的に、あなたは自分の性質の変化を経験しないであろう。あなたは、自分が完全にされることを追求する者であるならば、あなたは証しに立ってこう言うであろう。「この神による段階的御業において、私は神の刑罰と裁きの御業を受け容れ、私は大いなる苦難を受けてきたものの、神がどのようにして人間を完全にされるかを知り、神が行われた御業を得て、神の義に関する認識を得て、神の刑罰により救われた。神の義なるご性質が私に臨み、祝福と恵みを与えられ、神の裁きと刑罰が私を守り、清くした。もし私が神による刑罰と裁きを受けておらず、神の辛辣な御言葉が私に臨んでいなかったとしたら、私は神を知らず、救われることが出来なかったであろう。現在、私は被造物として、人間は創造主が造った万物を享受するだけでなく、それ以上に重要なこととして、神のご性質は人間が授かる価値のある物であるので、あらゆる被造物は神の義なる性質を授かり、神の義なる裁きを受ける必要がある、ということを理解している。サタンに腐敗させられた被造物として、人間は神の義なるご性質を授かるべきである。神の義なるご性質には、刑罰と裁きがあるほか、それ以上に大いなる愛がある。現在、私は神の愛を完全に得ることは出来ないが、それを理解する幸運に恵まれており、その点において、私は祝福されている。」これが、完全にされた者の歩んだ道であり、そうした者が語る認識である。そうした者はペテロと同様であり、ペテロと同様の経験がある。そうした者は、いのちを得た者でもあり、真理を備えた者でもある。ある者が、最後まで経験した場合、その者は、神の裁きの時に、必然的に、サタンの影響から自らを完全に退けて、神のものとされるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉の意味は何だろうか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順だったということを意味する。そのような人々の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

(2)終わりの日における神の裁きの業は全ての者を種類ごとに分類し、全時代を終結させ、最終的にキリストの国を実現するためです。

参照聖書箇所

また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20:11-15)

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

(ヨハネの黙示録21:3-4)

この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」(ヨハネの黙示録11:15).

関連する神の言葉

わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、被造物の以前の形を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十六番目の言葉」より

終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

終わりの日とは、すべてのものが征服することを通して、その種類にしたがって分類される時のことである。征服することは終わりの日の業である。つまり、一人一人の罪を裁くことが終わりの日の業である。そうでなければ、どうやって人々を分類できるというのか。あなたたちの間で行われている分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての国々のいたるところにいる人々も征服の働きの対象となる。これは、被造物であるすべての人々が種類によって分類され、裁きの座の前に進み出て裁かれるということだ。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も、何ものも、この種類による分類を避けることはできない。あらゆるものが種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地のすべてが終結に至るからだ。どうして人間が己の存在の終結を逃れられよう。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より

現在の征服の働きとは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図するものである。なぜわたしは今日の刑罰と裁きとが、終わりの日の大きな白い座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階であるのだろうか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることなのではないか。それは、すべての人が、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程の中で、自分のありのままの姿をあらわし、その種類に応じて分類されるようにするためではないか。これはむしろ人間を征服するというよりも、各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方がいいだろう。つまり、これは彼らの罪を裁き、それから様々な種類の人間を示し、そのことによって、彼らが悪であるか義であるかを判定するのだ。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は次の段階に移され、その業を全宇宙に広める。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を見ることがない。また、義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。あらゆるものの終わりは近く、人間の終わりは目の前にはっきりと示された。そしてあらゆるものはその種類によって分けられる。それなら、どうして人間がこの分類をこうむることから逃れられようか。それぞれの種類の人間の結末は、あらゆるものの終わりが近づいた時に明らかにされる。それは全宇宙の征服の業(現在の働きを含むすべての征服の業)の間に行われる。この全人類の終わりの明示は、裁きの座の前で、刑罰と終わりの日の征服の業の過程の中で行われる。……征服の最終段階は、人々を救い、また、人々の結末を明らかにすることにある。それは、裁きによって人々の堕落を暴露し、それによって人々を悔い改めさせ、立ち上がらせ、いのちと人生の正しい道を追い求めるようにさせるためである。それは、鈍く頑なになった人々の心を目覚めさせ、裁きによって彼らの内にある反抗的性質を示すためである。しかしながら、もし人々がまだ悔い改めることができず、なおも人生の正しい道を追い求めることができず、これらの堕落を捨て去ることができないのなら、彼らは救いようのないものとなり、サタンにのみ込まれる。これが征服の意味だ──人々を救い、また人々の結末を見せるのだ。良い結末と悪い結末──すべては征服の働きにより明らかにされる。人々が救われるか呪われるかは、みな征服の働きの間に明らかにされる。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より

最後の日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、本性に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に戻り、善は善に戻り、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは「聖なる方が白い雲の上に乗って」降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の民族にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十六番目の言葉」より

終わりの日の神の裁き、懲らしめの働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神によって得られたこのような人々が最後の安息へと入るのである。懲らしめや裁きという神の働きの本質は、人類を清めることであり、それは、最後の安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないあるいは安息の中に入ることもできない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの仕事こそが人類の不義を洗い清め、懲らしめ、裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが識別されるようになる。神の仕事が終わる時、生き残ることのできる人は、洗い清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が懲らしめや裁きを受けた後、彼らの正体が露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、不道徳者であって、義なる人ではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

悪を罰し、善を賞するという彼の最後の仕事は、ひたすら全人類を完全に浄化するために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息の中に導き入れることができる。彼のこの段階の仕事は彼の最も重要な仕事であり、彼の管理の仕事全体の最後の段階である。もし神が不道徳者たちを全部滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域中に導き入れることができない。このような仕事では完全に終わりにすることはできない。彼が彼の仕事を終える時、全人類は完全に神聖である。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

彼が打ち立てようとする国は彼自身の国であり、彼が求める人類は彼を礼拝する人類であり、完全に彼に従う人類であり、彼の栄光のある人類である。もし堕落した人類を救い出さなければ、彼が人を造った意義は烏有に帰し、彼は人の間でもう権威を持たなくなり、地上に彼の国が現れることもない。もし彼に背く敵を全部滅ぼさなければ、彼は完全な栄光を得ることができず、地上で彼の国を打ち立てることもできない。人類の中の不従順な者たちを全部徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを全部安息の中に連れていく。これは彼の仕事が終わったことのしるしであり、彼の大事業が成功を収めたことのしるしである。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

一旦、征服の働きが完成すると、人は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、今日の人の生活とは全く似ていない。それは全人類が征服された後の生活で、地上の人間にとって新しい始まりであり、人類にとってそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠である。それは地上における人と神の生活の始まりである。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服され、造り主の前に服従しなければならない。そして、征服の働きは人が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人の未来の生活であり、地上で最も美しい生活で、人が待ち焦がれている生活で、世界史上人が決して達成したことのない生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果で、人類が最もあこがれる、神が人に約束したものでもある。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見る。何一つ古びることがなく、誰一人、かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙の上で憩い、満ち足りている。すべてのものが聖さを取り戻し、わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができるからだ。そして、地上の人々は、わたしの導きの下、穏やかで満ち足りて生きることができる。すべての人々は、わたしの手の中で、あらゆることを行う。すべての人はかつての知能と、本来の姿を取り戻す。彼らはもはや塵におおわれてはいない。わたしの国では、人々は翡翠のように純粋で、人の心の中の聖い者のような顔をもつ。わたしの国が人々の間に建設されたからである。

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「十六番目の言葉」より