終わりの日における神の裁きの働きの意義を認識するには

2017年11月21日

(1)終わりの日の神の裁きの働きは、人を清め、救い、完全にし、勝利者の一群を作るために行われる

関連する神の言葉

神はどのような手段で人を完全にするのか。それは神の義なる性質によって成し遂げられる。神の性質はおもに義、怒り、威厳、裁き、呪いから成り立っており、神はおもに裁きという手段で人を完全にする。中にはそれが理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う人がいる。そのような人は「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうして完全になれるのか」と言う。神の働きを理解しない人はこのように言うのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく容赦がないものの、人の中にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の中にある本質的な物事を露わにするが、神はそのような裁きを通じて肉の本質に関する深遠な認識を人に授け、そうして人は神の前で服従する。人の肉は罪から成り、サタンに属するものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である。ゆえに、人に自分を認識させるには、神の裁きの言葉がその人に降りかかり、ありとあらゆる精錬が用いられなければならない。そのとき初めて神の働きは成果を生む。

『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)

今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

わたしの言葉は厳しいかもしれないが、それはすべて人を救うために語られる。わたしは言葉を語っているだけで、人の肉を罰しているのではない。この言葉により、人は光の中で生きるようになり、光が存在すること、その光は貴重であること、またこの言葉が人にとっていかに有益であるか、そして神は救いであることを知る。わたしは刑罰と裁きの言葉を数多く語ったが、それが表現することは実際にあなたがたに行われてはいない。わたしは働きを行うために、言葉を話すために来たのであり、わたしの言葉は厳しいかもしれないが、あなたがたの堕落と反抗を裁くために語られる。わたしがこれを行う目的は依然として人をサタンの支配下から救うことである。人を救うためにわたしは言葉を使う。わたしの目的は言葉で人を傷つけることではない。わたしの言葉が厳しいのは、働きから成果を達成するためである。このような働きを通してのみ、人は自分自身を知ることができ、反抗的性質を断つことができる。言葉の働きで一番大きな意義は、真理を理解した人に真理を実践させ、人の性質において変化を達成させ、自分自身および神の働きについての認識を獲得させることである。言葉を話すことで働くことのみが神と人の意思疎通を可能にし、言葉のみが真理を説明できる。このような方法で働くことは、人を征服する最善の手段である。言葉を発すること以外では、真理や神の働きを明確に人に理解させることのできる手段は他にない。そこで神の働きの最終段階において、神は人に話しかけ、人がまだ理解していないすべての真理や奥義を明らかにして、それにより人が神から真理の道といのちを得て、神の心を満足させることができるようにする。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

現在なされている働きは、人々に古い祖先であるサタンを捨て去らせるためのものだ。言葉による裁きはすべて、人間の堕落した性質を明らかにし、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きはすべて、人々の心を貫き通す。一つ一つの裁きは人々の運命に直接関連しており、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らはそれらすべてを手離し、それによって人生を知り、この汚れた世界を知り、神の知恵と全能性を知り、そしてサタンに堕落させられた人類を知ることができるからだ。この種の刑罰や裁きを受ければ受けるほど、人の心は傷つき、霊は目覚めることができる。こうした極端に堕落し、最も深く騙されている人々の霊を目覚めさせることが、この種の裁きの目標である。人には霊がなく、すなわち人の霊はとうの昔に死んでしまっていて、人は天が存在することも神が存在することも知らず、自分が死の淵で葛藤していることなど知るよしもない。自分がこの邪悪な地上の地獄に生きていることなど、どうして知ることができようか。自分のこの腐った屍が、サタンによる堕落のため黄泉の国に落ちたのだと、どうして知ることができようか。地上のすべてはもうずっと前から、人類によって修復不能なほどに破壊されてしまっていることを、どうして知ることができようか。そして今日、創造主が地上に到来し、救うことができる堕落した人々を探していることを、どうして知ることができようか。ありとあらゆる精錬と裁きを体験した後でさえ、人の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上まったく反応しない。人間はいかに堕落していることか! この種の裁きは空から降って来る残酷な雹のようなものだが、人にとっては甚大な利益がある。人々がこのように裁かれなければ、何の成果も得ることはできず、人々を苦悩の淵から救い出すのはまったく不可能だろう。この働きがなければ、人々が黄泉の国から這い上がることは非常に難しいだろう。彼らの心ははるか昔に死んでおり、彼らの霊ははるか昔にサタンに踏みにじられてしまったからだ。堕落の底に沈み込んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたに呼びかけ、熱心に裁くことが必要であり、そうして初めてあなたがたの凍りついた心を呼び覚ますことができるのだ。

『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)

人の状態と神に対する人の態度に直面した神は新しい働きを行ない、人が神に対する認識と服従、そして愛と証しをもつことを可能にした。したがって、人は神による精錬、裁き、取り扱い、刈り込みを経験しなければならず、それがなければ神を知ることは決してなく、神を真に愛し、神への証しを行なうこともできない。神による人間の精錬は単に一面的な効果のためでなく、多面的な効果のためである。神はこのような方法でのみ、進んで真理を求める人々の中で精錬の働きを行ない、それによってその人たちの決意と愛を完全にする。進んで真理を求める者、神を切望する者にとって、このような精錬以上に意味のあるもの、大きな支えとなるものはない。つまるところ、神は神なのだから、神の性質が人によってそれほど容易に知られたり、理解されたりすることはない。最終的に、神が人と同じ性質をもつことはあり得ず、したがって人が神の性質を知るのは容易なことではない。真理は人が本質的に有しているものでなく、サタンによって堕落した人々が容易に理解できるものでもない。人には真理がなく、真理を実践する決意もないので、苦しみを受け、精錬されたり裁かれたりすることがなければ、その人の決意が完全なものになることは決してない。すべての人にとって精錬は耐え難く、非常に受け入れ難いものであるが、神が自身の義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓き、そしてより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬のさなかである。事実と真理の比較を通じ、神は自己と真理に関するより大きな認識を人に授け、神の旨をより深く理解させ、そうしてより真実かつ純粋な神への愛を人が抱けるようにする。それらが精錬を実行する神の目的である。人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する。精錬は人に対する実際の試練の一つであり、実際の鍛錬の一形態であって、精錬のさなかでのみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる。

『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」(『言葉』第1巻)

神が働きを行なって人間を精錬するとき、人間は苦しむ。人間に対する精錬が大きいほど、神に対するその人の愛は大きくなり、その人の中で神の力がさらに示される。逆に、人の受ける精錬が少なければ少ないほど、神に対するその人の愛も少なくなり、その人の中で示される神の力も少なくなる。人に対するこうした精錬と苦痛が大きいほど、またその人の経験する苦悶が多いほど、神に対するその人の愛が深まり、神への信仰もさらに純粋なものとなり、神に関する認識もより深いものになる。あなたは自分の経験の中で、精錬を受けながら大いに苦しむ人、多くの取り扱いと懲らしめを受ける人を目の当たりにし、神への深い愛を抱き、神に関するさらに深遠で鋭い認識をもつのはこのような人だと理解する。取り扱いを経験していない人には表面的な認識しかなく、ただ「神は本当に良いお方だ。人々が神を享受できるよう、彼らに恵みを授けられる」と言うことしかできない。取り扱いと懲らしめを経験していれば、神に関する真の認識について話すことができる。したがって、神が人間の中で行なう働きが驚異的であればあるほど、それはいっそう貴重であり、有意義なものになる。それがあなたにとって測り知れないものであればあるほど、またそれがあなたの観念と相容れないものであればあるほど、神の働きはますますあなたを征服することができ、またあなたを獲得して完全にすることができる。神の働きの意義はなんと大きいことか。神がこのようにして人間を精錬しなければ、またこのような方法によって働きを行なっていなければ、神の働きは効果に乏しく、その意義を失ってしまうだろう。神がこの集団を選んで獲得し、終わりの日に完全にするであろうことは、過去に語られていた。その中に、並外れて大きな意義がある。神があなたがたの中で行なう働きが偉大であればあるほど、神に対するあなたがたの愛はいっそう深く純粋なものとなる。神の働きが偉大であればあるほど、人は神の知恵に関する何かをいっそう把握し、神に関する認識もより深くなる。終わりの日には、六千年にわたる神の経営計画が終焉を迎える。それがたやすく終わるなど、本当にあり得るのか。神がひとたび人類を征服すれば、神の働きは終わるのだろうか。これほど単純なことなのか。人はまさに、それはこんなに単純なのだと想像しているが、神が行なうことはそれほど単純なものではない。あなたが神の働きのどの部分に触れようとも、神の働きはどれも人間にとって測り知れないものである。仮にあなたがそれを推し量れたとしたら、神の働きの意義や価値は失われてしまうだろう。神によってなされる働きは測り知れないものであり、あなたの観念とまったく正反対のものである。そして、それがあなたの観念と一致しなければしないほど、神の働きは有意義であることがよりいっそう示されるのである。もしもあなたの観念と一致するならば、それは無意味なものとなるはずだ。現在あなたは、神の働きはとても不思議だと感じているが、不思議だと感じれば感じるほど、神は測り知れないとますます感じるようになり、神の業がいかに偉大かを理解するのである。仮に、神が表面的かついい加減な働きだけを行なって人を征服し、その後は何もしなかったとすれば、人は神の働きの意義をその目で見ることができないだろう。あなたは今少しばかりの精錬を受けているが、それはあなたのいのちの成長に極めて有益なものである。ゆえに、あなたがたがそうした困難を経るのは不可欠なことなのである。今日、あなたは少しばかりの精錬を受けているが、後になれば神の業を真に目の当たりにすることができ、最終的に「神の業は実に不思議だ」と言うだろう。それがあなたの心の声なのだ。神の精錬(効力者の試練と刑罰の時)をしばらく経験して、最後に「神を信じることは実に難しい」と言った人がいる。その人たちが「実に難しい」という言葉を使った事実は、神の業が測り知れないものであること、神の働きに大きな意義と価値があること、そして神の働きには人間によって大切にされる価値があることを示している。わたしがこれほど多くの働きを行なった後、もしもあなたに認識が一切なかったとしたら、わたしの働きにはそれでも価値があるだろうか。あなたはそれを受けてこう言うだろう。「神への奉仕は実に困難だ。それに、神の業はほんとうに不思議で、神には真に知恵がある。神は実に麗しい」。一定期間の経験を経た後、もしもあなたにこのような言葉が言えたなら、それは自分の中で神の働きを得たことを証明している。

『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻)

人は肉の中に生きるが、それは人間地獄の中で生きることであり、神の裁きと刑罰なくしては、人間はサタンと同様にけがれている。どうして人間が聖くなれようか。ペテロは、神の刑罰と裁きは人間のための最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい鍛錬は、人間をサタンの影響から解放し、自分の狭い世界から解放し、神の顔の光の中で生きることができるようにする。刑罰と裁きよりも優れた救いはない。ペテロはこう祈った。「神よ、あなたが私を罰し、裁かれる限り、私はあなたが私を見捨てていないことを知るでしょう。たとえあなたが私に喜びや平安を与えられず、私を苦しみの中で生活させ、私に無数の懲らしめを科せられたとしても、あなたが私を見捨てない限り、私の心は安らぐでしょう。現在、あなたの刑罰と裁きは私にとって最高の守りであり、最も素晴らしい祝福となっています。あなたが私に与えられる恵みが私を守っています。現在あなたが私に授けられる恵みは、あなたの義なるご性質の表れであり、刑罰と裁きです。さらに、それは試練であり、なによりもそれは、苦難の生活です」。彼は肉の喜びを脇へ置き、一層深い愛と一層大きな守りを求めることができた。なぜなら、彼は神の刑罰と裁きから、極めて大きな恵みを得たからである。人生において、人が清められ、性質の変化を実現することを望み、有意義な人生を生き抜き、被造物としての自分の本分を尽くすことを望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れるべきであり、神の鍛錬と打ちのめしが自分から離れないようにし、そうすることで、サタンによる操りと影響から逃れて神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光であり、人間の救いの光であり、人間にとって、それ以上の祝福と恵みと守りはないということを知らなければならない。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

神への信仰には、神への服従と、神の働きを経験することが必要とされる。神はすでに多数の働きを行なっており、人にとって、それはどれも完全化、精錬、さらには刑罰だと言えるだろう。神の働きの各段階のうち、人間の観念と一致するものはいまだかつてなく、人々が享受してきたのは神の厳格な言葉である。神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。

『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)

終わりの日において、神は人を完全にするのに、おもに言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能である。したがって、人を完全にすることも不可能である。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後、人は完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。……わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないであろうか。

『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)

(2)終わりの日の神の裁きの働きとは、それぞれを種類ごとに分け、時代全体を終わらせ、最終的にキリストの国を実現する働きである

参考聖書箇所:

「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」(ヨハネの黙示録 20:11-15)

「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録 21:3-4)

「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録 11:15)

関連する神の言葉:

時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

現在の征服の働きは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図する。なぜわたしは今日の刑罰と裁きは、終わりの日における大いなる白い玉座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階なのか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることではないのか。それは、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程において、あらゆる人が自分のありのままの姿をあらわし、その後それぞれの種類に分類されるようにするためではないのか。人類の征服というよりも、これはむしろ各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方が良いくらいである。つまり、これは人の罪を裁き、それから人の様々な種類を明らかにし、それにより、人が悪であるか義であるかを判定することである。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は、神の働きを全宇宙に広める次の段階に配置される。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を浴びることがない。義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。あらゆるものの終わりは近く、人間の終わりは目の前にはっきりと示され、あらゆるものはその種類によって分けられる。それなら、どうして人間が種類別に分類されるという苦悩から逃れられようか。それぞれの種類の人間の異なる結末は、あらゆるものの終わりが近づいた時に明らかにされる。それは全宇宙の征服の働き(現在の働きに始まるすべての征服の働きを含む)の間に行われる。この全人類の終わりの明示は、裁きの座の前で、刑罰と終わりの日の征服の働きの過程で行われる。……征服の最終段階は、人を救い、また、人の結末を明らかにするためである。裁きを通して人の堕落を暴露し、それにより人を悔い改めさせ、立ち上がらせ、いのちと人として生きる正しい道を追い求めさせるためである。鈍く頑な人の心を目覚めさせ、裁きによって人の内にある反抗的性質を示すためである。しかしながら、人がまだ悔い改めることができず、なおも人として生きる正しい道を追い求めることができず、これらの堕落を捨て去ることができなければ、人は救われることはなく、サタンにのみ込まれる。これが征服の意味である。つまり、人を救い、また人の結末を見せることである。良い結末と悪い結末があり、すべては征服の働きにより明らかにされる。人が救われるか呪われるかは、みな征服の働きの間に明らかにされる。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)

終わりの日とは、すべてのものが征服を通して、その種類に分類される時のことである。征服は終わりの日の働きである。つまり、一人ひとりの罪を裁くことが終わりの日の働きである。そうでなければ、どうして人を分類できるというのか。あなたがたの間で行われる分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての地のあらゆる民も征服の働きの対象となる。つまり、被造物であるすべての人が種類別に分類され、裁きの座の前に進み出て裁かれるということである。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も何ものも種類別に分類されることを避けることはできない。あらゆる人が種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地にあるすべてが終結に至ったからである。どうして人間が己の存在の終結の日を逃れられようか。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。この働きが終わる時、生き残ることを許された人は、みな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。彼らはかつて贖われたことがあり、また裁かれもし、懲らしめも受け罰せられたことがある。彼らはまた神への奉仕をしたこともあるが、終わりの日がきたら、彼らはやはり、自身の悪さ、自身の不従順さ、贖う術もないような有様が原因で、排除され、滅ぼされる。彼らは未来の世界では存在しないし、未来の人類の間で生きることもない。死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

神は人類を創造し、人類を地上に置き、今日まで導いてきた。その後、人類を救い、人類のための罪のいけにえとなった。終わりの時に、彼は人類を征服して、人類を完全に救い出し、人に本来の姿を回復させなければならない。これが、彼が始めから終わりまで従事してきた働きである。つまり、人を元のイメージへ回復し元の姿へ回復させるのである。神は自身の国を打ち立て、人に本来の姿を回復させる。つまり神は地上における自身の権威を回復し、あらゆる被造物の間における自身の権威を回復する。人はサタンに堕落させられた後、神を畏れる心を失い、被造物として持つべき機能を失って、神に背く敵になった。人はみなサタンの権威の下に生きるようになり、サタンの命令に従った。それゆえ、神は被造物の間で働くことができず、被造物からの畏れ敬いを得ることはさらにできなかった。人は神に造られており、神を礼拝すべきであるが、人は神に背いてサタンを崇拝した。サタンは人の心の中の偶像になった。こうして、神は人の心における立場を失い、つまり人を造った意義を失った。だから、神が人を造った意義を回復しようとするなら、人に本来の姿を回復させ、人に堕落した性質を脱ぎ捨てさせなければならない。人をサタンの手から奪い返すには、人を罪の中から救い出さなければならない。このようなやり方によってのみ、神は次第に人に本来の姿を回復させ、本来の機能を回復させる。そして遂には、神の国を回復する。最終的にそれらの不従順の子を徹底的に滅ぼすのも、人がよりよく神を礼拝し、よりよく地上で生存することができるためである。神は人類を造ったので、人に自身を礼拝させる。神は人に本来の機能を回復させたいので、徹底的に、しかも混じりけが少しもないように、回復させる。神が自身の権威を回復することは、人に自身を礼拝させることであり、自身に従わせることである。それは、人を神ゆえに生きるようにすることであり、神の権威ゆえに神の敵を滅ぼすことであり、神のあらゆる部分全てが人の間で、全く拒否されることなく存続するようにすることである。神が打ち立てようとする国は神自身の国である。神が求める人間は自身を礼拝する人間であり、完全に従う人間であり、神の栄光を持つ人間である。もし神が堕落した人間を救い出さなければ、神が人を造った意義は無となる。神は人の間で権威を持たなくなり、地上に神の国が現れることもない。もし神に背く敵を滅ぼさなければ、神は完全な栄光を得ることができず、地上で神の国を打ち立てることもできない。人類の不従順な者たちを徹底的に滅ぼし、完全にされた者たちを安息の中に連れていく――これは彼の働きが終わったことのしるしであり、神が偉業を達成したしるしである。……その後人類は安息に入り、正しい軌道に乗った生活に入る。神も人との永遠の安息に入り、神と人が共有する永遠の生活に入る。地上の汚れと不従順は消え、地上の嘆き悲しみも消える。神に敵対する地上のあらゆるものも存在しなくなる。神と神に救われた人たちだけが残り、神の創造物だけが残る。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

一旦、征服の働きが完了すると、人類は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、現在の人間の生活とは全く違う。それは全人類が征服された後の生活であり、それは地上の人間にとって新しい始まりとなり、人類がそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠となるであろう。それは地上における人と神の生活の始まりとなる。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服されたあと、造り主の前に服従する。それゆえ、征服の働きとは、人類が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人類の未来の生活であり、それは地上で最も美しい生活、つまり人が待ち焦がれていたような生活であり、世界史上、人が決して達成したことのないような生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果であり、人類が最も待ち望んでいたものであり、それはまた、神が人間に約束していたものでもある。しかし、この約束はすぐには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、すなわちサタンが完全に打ち負かされて、初めて人類は未来の終着点に入るのである。

『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)

わたしの知恵は地上のあらゆるところにあり、全宇宙にあまねく。あらゆるものの只中にわたしの知恵の果実がみのり、すべての人々の只中にわたしの知恵の傑作が満ち満ちる。何もかもわたしの国にあるすべてのもののようである。すべての人々はわたしの天の下、わたしの牧場の羊のように安心して暮らす。わたしはすべての人々の上を動き、至る所を見ている。何一つ古びて見えるものがなく、誰一人かつてと同じ人はいない。わたしは玉座に座し、全宇宙上に横たわり、満ち足りている。すべてのものが聖さを取り戻し、わたしは再びシオンで安らかに暮らすことができるからだ。そして、地上の人々はわたしの導きの下、穏やかで満ち足りた生活ができる。諸国民は、わたしの手の中であらゆることを管理している。諸国民はかつての知性と本来の姿を取り戻した。彼らはもはや塵におおわれてはいない。わたしの国では、人々は翡翠のように聖く、人の心の中の聖い者のような顔をもつ。わたしの国が人々の間に打ち立てられたからである。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十六章」(『言葉』第1巻)

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