聖書は律法の時代そして恵みの時代という、神の働きの二段階の記録にすぎず、神の働き全体の記録ではない

2017年11月22日

参考聖書箇所:

「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」(ヨハネによる福音書 21:25)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(ヨハネの黙示録 5:5)

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある」(ヨハネの黙示録 2:17)

関連する神の言葉

聖書とはどのような書物なのか。旧約は律法の時代における神の働きである。旧約聖書は律法の時代におけるヤーウェの働きと、創造の働きを残らず記録している。そのすべてがヤーウェの行なった働きを記録しており、最後はマラキ書のヤーウェによる働きの記述で終わっている。旧約は神の行なった二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告である。どちらもヤーウェが行なった働きである。律法の時代はヤーウェ神の名のもとで行なわれた働きを表わしており、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きの総体である。したがって、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、おもにイエスの名のもとで行なわれた働きを記録している。イエスの名の意義と彼が行なった働きは、その大半が新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築き、地上におけるイスラエル人の生活を導いたのだが、そのことは、彼らがヤーウェの選民、つまり神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神が自ら導いた最初の集団であることを証明した。イスラエルの十二部族がヤーウェの最初の選民であり、ゆえにヤーウェは律法の時代における自身の働きが終わるまで、絶えず彼らの中で働いた。第二段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤの民の間で行なわれた。その働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神だったからである。イエスはユダヤの全土でしか働かず、三年半の間だけ働いた。ゆえに、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を到底超えられないのである。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

聖書は歴史書である。もちろん、そこには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分から成っており、預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの手紙だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約聖書には創世記や出エジプト記などが含まれ、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェによって導かれた律法の時代の働きを記録している。創世記からマラキ書まで、それは律法の時代の働き全体の総合的な記録である。つまり、旧約は律法の時代にヤーウェによって導かれた人々が経験したことを残らず記録しているのである。……当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事や、終わりの日における世界の滅亡を預言した。それはつまり、ヤーウェが行なおうと計画していた働きである。残りの書はどれも、ヤーウェがイスラエルで行なった働きについての記録である。だから、聖書を読む際には、ヤーウェがイスラエルで行なったことについておもに読んでいることになる。旧約聖書はおもに、イスラエル人を導くヤーウェの働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。それ以降の記述はみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はどれも、イスラエル全土におけるヤーウェの働きの記録から成っている。旧約に記録されていることはみな、イスラエルにおけるヤーウェの働きであり、それはヤーウェがアダムとエバを創造した場所で行なった働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはすべてイスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからである。最初のころ、イスラエルの他に国はなく、ヤーウェが他の場所で働くことはなかった。このように、旧約聖書に記されていることは純粋に、当時のイスラエルにおける神の働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、地上における神の他の働きを預言するもので、ヤーウェ神自身の働きを預言していた。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言書を除いて、他のすべてはヤーウェによる当時の働きに関する、人々の経験の記録である。

創造の働きは、人類が存在する以前に行なわれた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれたものであり、モーセが律法の時代に著した書である。そのことは、あなたがたのあいだで今日起きている事柄に似ている。そういったことが起きたあと、あなたがたは将来人々に見せるために、そして将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起きたことで、歴史以上のものではない。旧約に記録されている事柄はイスラエルにおけるヤーウェの働きであり、新約に記録されているのは恵みの時代におけるイエスの働きである。これらの文書は神が二つの異なる時代に行なった働きを記録している。旧約は律法の時代における神の働きを記録しており、ゆえに歴史的な書物であり、一方の新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、新約も時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど系統だったものではないし、それほど多くを記録していない。ヤーウェが語った多くの言葉は旧約聖書に残らず記録されているが、イエスの言葉はその一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きを行なったが、それは詳細に記録されなかった。新約に記録されたものが少ないのは、イエスが行なった働きの量による。イエスが地上における三年半のあいだに行なった働き、そして使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約より書が少ないのである。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをもって人間との契約を立てた。この契約は、戸枠のてっぺんと両側に子羊の血がついた家の者はみなイスラエル人で、彼らは神の選民であり、ヤーウェは彼らを見逃す(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子および羊と牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容だった。この契約には二重の意味がある。まず、ヤーウェはエジプトの民や家畜を一切救わず、男の初子および羊と牛の初子を残らず殺す。そのため多くの預言書の中で、エジプト人はヤーウェの契約のために厳しく罰せられると預言された。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民はすべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はみなヤーウェの慈しむ者であり、みな見逃されるということである。ヤーウェは彼らの中で長期にわたって働こうと思い、子羊の血で彼らと契約を立てた。それ以降、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に我が選民であると告げた。つまり、イスラエルの十二部族の間で、律法の時代全体にわたる働きに乗り出し、イスラエル人に自身の律法をすべて明かし、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを自身の働きの中心に置くのである。ヤーウェは彼らと契約を立てた。時代が変わらない限り、ヤーウェは選民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。なぜなら、それは血で作られ、自身の選民との間で立てられたからである。さらに重要なこととして、ヤーウェは時代全体を通じて働きに乗り出す適切な範囲と対象を選んだ。そのため、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約が立てられる前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を立てた後のイスラエル人の間における神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に言えば、旧約はイスラエルにおける神の働きを記録したものである。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は旧約と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架の上で流した血と、イエスを信じるすべての人との契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、人々はイエスの流した血のおかげで罪を赦され、ゆえに救われ、イエスを通じて生まれ変わり、もはや罪人でなくなる。イエスの恵みを受けるには彼を信じさえすればよい。そうすれば、死後に地獄で苦しまずに済む。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものである。そのどれもが、そこに含まれる働きと発言を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約から先には進まない。これらはどれも、経験を有する、主における兄弟たちが記した書である。したがって、これらの書も契約に因んで名付けられ、新約と呼ばれる。これら二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、最後の時代とは何のつながりもない。

『神の出現と働き』「聖書について(2)」(『言葉』第1巻)

聖書を理解して解釈できることは、真の道を見つけるのと同じことだと多くの人が信じている。しかし、物事は本当にそれほど単純だろうか。聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、いかに真実かつ現実であろうとも、やはり歴史である。そして、歴史は現在を記述することができない。神は歴史を振り返らないからである。ゆえに、聖書を理解するだけで、神が今日行なおうとしている働きについて何も理解しないのなら、また、神を信じていながら聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めることが何を意味しているのかわかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし今日、あなたは神を信じていのちを追い求めているのだから、また神の認識を追い求め、死んだ文字や教義、あるいは歴史の理解を追い求めているのではないのだから、今日の神の旨を求め、聖霊の働きの方向を探さなければならない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいだろう。しかし、あなたは考古学者ではなく、神を信じる者の一人なのだから、今日の神の旨を探し求めるのが最善である。聖書を読んでも、せいぜいイスラエルの歴史がわずかにわかるだけであり、アブラハム、ダビデ、モーセの生涯を学び、彼らがどのようにヤーウェを崇めたか、ヤーウェが自分に敵対する人々をどのように火で罰したか、その時代の人々にどう語ったかが見出せるだけである。過去における神の働きについてしか見出せないのである。聖書の記録は、初期のイスラエルの人々がいかに神を崇め、ヤーウェの導きのもとで生きたかということに関連している。イスラエル人は神の選民だったので、イスラエルのすべての人々のヤーウェに対する忠誠や、ヤーウェに従う人々がヤーウェからどのように慈しまれ、祝福を受けたかが旧約の中でわかる。また、イスラエルで働きを行なっていたとき、神は慈悲と愛に満ちていたが、同時に激しい炎ももっていたこと、そしてイスラエル人は卑しい者から強い者まで誰もがヤーウェを崇め、そのためイスラエルの全土が神に祝福されたことを知ることができる。これが旧約に記録されているイスラエルの歴史である。

『神の出現と働き』「聖書について(4)」(『言葉』第1巻)

聖書に記録されていることは限られており、神の働き全体を表わすことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちの前に現われたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。しかし、人々はそれらと現在の働きとを比べることさえして、それらを宝として大切にする。そのような人は、神にはこの程度のことしかできないとでも言うように、イエスが生涯に行なった働きはその程度にしかならないとさえ信じている。それは馬鹿げたことではないか。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。今日、神は肉となり、中国で別の選民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、地上における働きから、また恵みの時代の働きから継続して働きを行なう。今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。したがって、かつて行なわれたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は、神が地上で、そしてイスラエルの外で、より偉大で新しい働きを行なってきたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超えたこと、それが預言を超えた驚異的な新しい働きであり、イスラエルの外で行なわれる新たな働きであり、人々には認識することも想像することもできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が含まれ得るだろう。今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

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