神の旨に従う人とは何か。神への信仰の真の証しとは何か

2017年11月23日

参考聖書箇所:

「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。……またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい』。ノアはすべて神の命じられたようにした」(創世記 6:9-22)

「神はアブラハムを試みて彼に言われた、『アブラハムよ』。彼は言った、『ここにおります』。神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』。アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。……彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時」(創世記 22:1-10)

「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ記 1:1)

「ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、使者がヨブのもとに来て言った、『牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、『神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、『カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、『あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました』。このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』」(ヨブ記 1:13-21)

関連する神の言葉

今、神は人間を完全にする働きを正式に始めた。完全にされるために、人は神の言葉による暴き、裁き、刑罰を受け、神の言葉による試練と精錬(効力者の試練など)を経験しなければならず、死の試練に耐えることができなければならない。つまり、神の裁き、刑罰、試練の中にあっても神の心意を真に順守する人は、心の底から神を賞賛し、完全に神に従い、自身を放棄することができ、そうすることにより誠実でひたむきで純粋な心をもって神を愛する。こういう人が完全な人であり、それがまさに神が意図する働きであり、神が達成するべき働きでもある。

『神の出現と働き』「神の働きの過程について」(『言葉』第1巻)

イエスが神の任務、すなわち全人類を贖う働きを完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、自分自身のためには一切計画を立てたり準備をしたりしなかったからである。だからイエスも神の知己であり、また神自身であった。それはあなたがたが皆とてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実によりこの問題を解説するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうとおりに成し遂げてください。わたしの望みどおりにではなく、あなたの計画どおりに行なってください。人は弱いかもしれませんが、あなたが人のことを気遣うべきでしょうか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮に価することがありえるでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行う業を、あなたが望むとおりに行えることです」。エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心に捻じ込まれているかのように感じたが、その言葉を取り消す思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスが十字架にかけられる場所までイエスに付き添っていた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了した。イエスは死と黄泉の束縛から自由になった。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスに打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を満たし、決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。そのため、イエスが洗礼を受けた後、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言ったのである。神の前におけるイエスの神への奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それをイエスに成し遂げさせた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。生涯を通じて、イエスは神のために計り知れないほどの苦しみに耐え、幾度となくサタンの試みにあったが、決して落胆することはなかった。神がイエスにこれほど重大な任務を課したのはイエスを信頼し、愛していたからである。従って、神は自ら「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言ったのである。

『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)

神に仕える人は、神の知己でなければならず、神を喜ばせ、神に最大限忠実でなければならない。内密に行動しようと、公然と行動しようと、神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、いつも歩むべき道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう人だけが神の知己である。神の知己が直接神に仕えることができるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、自分自身の将来の展望など一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得られそうにない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じる。だから、このような人は神の知己なのである。神の知己は、神の心を知る人でもある。神の心を知る人だけが、神の絶え間ない憂慮や神の考えを共有することができる。肉体は痛み弱くとも、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人にさらなる重荷を与え、神がしたいと望むことはこのような人の証しの中に示される。従って、このような人は神を喜ばせ、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人だけが神と共に統治することができる。

『神の出現と働き』「神の心にかなうように仕えるには」(『言葉』第1巻)

神からすれば、その人が偉大な者であってもなくても、神の声を聞き、神の指示と委ねられる任務に従い、神の働きと旨と計画に協力し、神の旨と計画が円滑に達成されるようにできるなら、その行いは神に記憶され、神の祝福を受けるに値するのです。神はそのような人々を大切にし、彼らの行動や神への愛と思いを慈しみます。それが神の姿勢です。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

最初に試練に遭った際、ヨブは財産と子どもを残らず失いましたが、それによって躓くことも、神への罪となる言葉をを口にすることもありませんでした。ヨブはサタンの試みに勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世俗の財産をすべて失うという試練に勝利しました。つまり、自分から何かを取り上げる神に従い、また神がしたことに対し、神に感謝と讃美を捧げられたのです。それがサタンによる最初の試みにおけるヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもありました。二度目の試練において、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめました。ヨブはかつて感じたことのない苦痛を経験しますが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるのに十分でした。ヨブはその不屈の精神、信念、神への従順、そして神への畏れによって再びサタンに勝利し、彼の行ないと証しはまたしても神に認められ、喜ばれました。この試みの間、ヨブはサタンに対し、肉の苦痛は神への信仰と従順を変えることも、神に対する強い愛着と畏れを奪うこともできないと、実際の行ないによって宣言しています。死に直面したからといって、神を拒んだり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしないのです。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを臆病にさせて震えさせ、サタンとの生死をかけた戦いの激しさは、サタンの中で強い憎しみと恨みを膨らませ、そしてヨブの完全さと正しさの前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前で行なったヨブへの非難を捨てました。これが意味するのは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に打ち勝ったということです。ヨブはまさに、完全に神に属する人でした。この二度の試練の間、ヨブは固く立って証しを行ない、自身の完全さと正しさを生き通し、神を畏れて悪を避けるという生きる上での原則の範囲を広げました。二つの試練を経たことで、ヨブの中にさらなる経験が生まれ、この経験によってヨブはさらに成熟して鍛えられ、それまで以上に強くなり、さらに強い信念をもち、自身が固く保つ高潔さの正しさと価値をさらに確信しました。ヤーウェ神によるヨブへの試練は、神が人間に対して抱く配慮を彼に深く理解させ、また実感させ、神の愛の尊さを感じ取れるようにしました。そしてそこから、神への思いやりと愛が、神に対するヨブの畏れに加わりました。ヤーウェ神による試練は、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけました。自分の肉の苦痛が頂点に達したとき、ヨブはヤーウェ神から感じ取っていた懸念のために、自分の生まれた日を呪うしかありませんでした。このような行ないは前もって計画されていたものではなく、神への思いやりと愛の自然な表現、神への思いやりと愛から生じた自然な表現なのです。つまり、ヨブは自身を忌み嫌い、神を苦しめることを望まず、またそうすることに耐えられなかったので、ヨブの思いやりと愛は無私のレベルに達したのです。このとき、長年にわたる神への愛と切望、そして神に対する強い愛着が、思いやりと愛というレベルに引き上げられたのです。それと同時に、神に対するヨブの信仰と従順、そして神への畏れもまた、思いやりと愛というレベルに引き上げられました。神に痛みを与え得ること、神を傷つける行ない、そして神に悲しみや嘆き、さらには不幸をもたらすことを、ヨブは一切自分に許しませんでした。神の目から見て、ヨブは以前と同じヨブのままでしたが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神に完全なる満足と喜びをもたらしたのです。このとき、神がヨブに期待した完全さをヨブは獲得しており、神の目から見て「完全で正しい」と呼ばれるに値する人となっていました。ヨブは自身の義なる行ないのおかげでサタンに勝利し、固く立って神への証しをすることができました。そしてまた、ヨブの義なる行ないは彼を完全にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでになく超越させるとともに、ヨブがサタンによる攻撃や試みを二度と受けない最初の人物となるようにしました。ヨブは義なる人だったので、サタンに責められ、試みられました。ヨブは義なる人だったので、サタンに引き渡されました。そしてヨブは義なる人だったので、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、固く立って証しをしました。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、真に神の玉座の前に出て、神の祝福のもと、サタンによる監視も破滅もなく、光の中で生きたのです……。ヨブは神の目から見て真の人となり、解放されたのです……。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

一方で、ペテロは、生活の中で神の望むことを叶えられなかったときは、それが何であろうが彼を不安にさせた。ペテロは、神の望みを叶えられない時には悔い、神の心を満たすために適切な方法を探そうと努力した。彼は、その生活のどんなに些細なことにおいても、神の望みを叶えるよう自分に要求した。自分の古い性質のことにも厳しく、そしてより深い真理の探究を進めることに対しては常に厳しく自分に要求した。……ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではなかっただろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、神への純粋な愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

ペテロの名を聞くと、誰もがみな称賛でいっぱいになり、ペテロについての物語のあれこれを思い出す。彼が三度神を否定したこと、さらに、サタンの手助けをしたこと、そうして神を試みたこと、しかし、最後には神のために十字架に逆さに釘で打ち付けられたこと、等々。今、わたしはペテロがどのようにしてわたしを知るようになり、最後にはどうなったかをあなたがたに語ることをとても重視している。ペテロという人は、すばらしい素質の持ち主だったが、彼の境遇はパウロのそれとは異なっていた。彼の両親はわたしを迫害した。彼らはサタンにとりつかれた悪魔の側にいた。だから、二人がペテロに道を教えたとは言えない。ペテロは頭脳明晰で、生まれながらに豊かな知性をもち、子供のころから両親に可愛がられて育った。しかしながら、成長してからは両親の敵になった。というのも、ペテロはいつもわたしを知ることを願い、その結果、両親に背を向けることになったからである。それはつまり、第一に、彼は天と地と万物は全能者の手の内にあり、すべてのよいものは神に発し、サタンの手を経ることなく、神から直接来ていると信じたからである。両親の悪い手本が引き立て役を務め、ペテロはかえってわたしの愛と憐れみとを直ちにみてとることができ、そうして、わたしを求める欲求がより強く燃え上がることになった。彼はわたしの言葉を飲み食いするだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うことができた。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、自ら奮起してさらに努力した。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロは、否定的な側面においてだけでなく、より重要なことに肯定的な側面においても急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となった。このため、想像に難くないことだが、彼は所有するもののすべてをわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆることにおいてわたしを満足させることを自らの基盤とし、それによってわたしの豊かさを享受したのである。わたしは何度もペテロに試練を与え、そのため、もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりともわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることはなく、それまでと同じように、わたしを実際的なやり方で愛するために自分の信念を貫き続けた。わたしは彼に、たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後にはサタンの手中に投げ込む、と言った。そうした試練の只中、それは肉への試練ではなく、言葉による試練であったのだが、ペテロはそれでもわたしに祈った。「おお、神よ。天と地ともろもろのものの中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者の手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたが私に憐れみをお示しになりたいとき、その憐れみのために私の心は大いに喜びます。あなたが私に裁きを下されるとき、私はそれに相応しい者ではありませんが、その御業に計り知れない奥義をますます深く感じるのです。なぜなら、神は権威と知恵とに満ちておられるからです。私の肉は困難に苦しんでも、私の霊は慰められます。どうして神の知恵と御業とをたたえずにおられましょう。たとえ神を知った後に死ぬとしても、常に備えと心構えができています。おお、全能者よ。まことに、私に神のお姿を見させることを真に望んでおられないということではないでしょう。まことに、私は神の裁きを受けるのにふさわしくないということではないでしょう。私の中に、ご覧になりたくないものがあるということなのでしょうか」。このような試練の中にあって、ペテロはわたしの意図を正確に把握することはできなかったが、わたしに用いられることを(たとえそれが、人類にわたしの威厳と怒りとを示すため、裁きを受けるだけだったとしても)誇りと栄光であると考え、試練にさらされても心砕けることがなかった。わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となった。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第六章」(『言葉』第1巻)

ペテロが神により罰せられた時、ペテロは祈って言った。「神よ、私の肉は不従順で、あなたは私を罰し、裁かれます。私はあなたの刑罰と裁きの中で喜び、たとえあなたが私を求められなくとも、私はあなたの裁きの中に、あなたの聖なる義のご性質を目の当たりにします。あなたの裁きの中に他の人たちがあなたの義なるご性質を目にすることができるように、あなたが私を裁かれる時、私は満足です。あなたのご性質が示され、あらゆる創造物があなたの義なるご性質を見ることができるようになり、私がもっと純粋にあなたを愛することができるようになり、義なる者の姿に達することができたなら、あなたの裁きは良いものであり、あなたの恵み深い御心によるものです。自分には未だに反抗的な部分が多く、私はあなたの御前に出るに相応しくないことを知っています。過酷な環境や大いなる患難を通して、あなたが私を一層裁かれることを望みます。あなたが何をなさろうとも、私にとってそれは貴いものです。あなたの愛は非常に深遠なので、私は一切不平を言わずに進んで自らをあなたの憐れみに委ねます」。これは、神の働きを経験した後のペテロの認識であり、神に対するペテロの愛の証しでもある。……晩年ペテロは、完全にされた後、「神よ、もし私の余命があと数年であるならば、あなたへの一層清く深い愛を達成することを望みます」と述べた。ペテロは、十字架に釘付けにされる直前に、心の中でこう祈った。「神よ、ついにあなたの時が来ました。あなたが私のために用意された時が来ました。私はあなたのために十字架に架けられ、この証しをしなければなりません。私の愛があなたの要求を満たし、一層清くなることを願います。今日あなたのために死ねること、あなたのために十字架に架けられることは、私にとって慰めとなり、励みとなります。なぜなら、あなたのために十字架に釘付けにされ、あなたの望みを満たし、自らをあなたに捧げ、私の命をあなたに捧げることができることはこの上ない喜びだからです。神よ、あなたはほんとうに愛しいお方です。もし私が生きることをあなたが許されるならば、私は一層あなたを愛することを望むでしょう。生きている限り、私はあなたを愛するでしょう。私は、あなたを一層深く愛することを望みます。あなたは私を裁かれ、刑罰を与えられ、私を試されます。なぜなら私が不義であり、罪を犯したからです。そして、あなたの義なるご性質が私には一層明らかになります。それは私にとって祝福です。なぜなら、私はあなたを一層深く愛することができ、あなたが私を愛されなかったとしても、私はあなたをこうして愛することを望むからです。私はあなたの義なるご性質を見ることを望みます。なぜなら、そうすることにより、私は有意義な人生を実際に生きることができるようになるからです。私の人生は今より有意義であると感じます。なぜなら、私があなたのために十字架に架けられ、あなたのために死ぬことは意味のあることだからです。しかしながら、私はまだ満足していません。なぜなら、私はあなたのことをほとんどほんの少ししか知らず、私はあなたの望みを完全に満たせず、あなたにほとんどほんの僅かしか報いなかったからです。私は人生において私のすべてをあなたに報いることができずにおり、それには遠く及びません。今、振り返ってみると、私はあなたに大きな負債があり、自分のすべての過ちと、私があなたに報いなかった全ての愛を償うために、私にはこの瞬間しかありません」。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

今日、気づいているべきことは、どのように征服されるのか、征服された後、人はどのように振る舞うのかである。あなたは自分はすでに征服されていると言うかもしれないが、死に至るまで服従できるのか。自分の前途があるかどうかにかかわらず、最後まで従うことができなければならない。また、まわりの状況に関わらず、神への信仰を失ってはならない。最終的に、証しの二側面を達成しなければならない。ヨブの証し、すなわち死に至るまでの従順、そしてペテロの証し、すなわち神への至上の愛である。一側面では、ヨブのようでなければならない。ヨブは物質的な財産をすべて失い、肉の痛みに苦しめられたが、それでもヤーウェの名を捨てなかった。これがヨブの証しである。ペテロは死に至るまで神を愛することができた。ペテロは十字架につけられ死に直面してもなお神を愛していた。彼は自分の前途のことを思わず、輝かしい願いや途方もない思いを追い求めなかった。ひたすら神を愛し、神のはからいのすべてに従うことだけを求めたのである。証しを立てたと見なされることができるまでには、また、征服された後で完全にされた人となるまでには、このような水準に達しなければならない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(2)」(『言葉』第1巻)

真の証しとはいったい何か。ここで言う証しには二つの部分があり、一つは征服されたことの証しで、もう一つは完全にされたことの証し(それは必然的に、将来のより大きな試練と苦難の後に行なわれる証しとなる)である。つまり苦難や試練の時に揺るぎなく立つことができれば、それで第二段階の証しをしたことになるのだ。現在重要なのは証しの第一段階であり、すなわち刑罰と裁きの試練の一つひとつにおいて揺るぎなく立てるということだ。それが、征服されたことの証しである。なぜなら今は征服の時だからだ(今は神の地上における働きの時であることを知らねばならない。受肉した神の地上におけるおもな働きは、裁きと刑罰を通じて、神に付き従う地上のこの集団を征服することなのだ)。征服されたことを証しできるかどうかは、あなたが最後まで付き従えるかどうかだけでなく、より重要な条件として、神の働きの各段階を経験する中で神の刑罰と裁きを真に理解できるかどうか、そしてこの働きのすべてを真に把握しているかどうかにかかっている。ただ最後まで付き従えば、すり抜けてしまえるというわけではない。あらゆる刑罰と裁きに自ら進んで身を委ね、経験した働きの各段階を真に理解し、神の性質に関する認識を得て、それに服従することができなければならないのだ。それが征服されたことの究極の証しであり、あなたに要求されていることである。征服されたことの証しというのは、おもに神の受肉に関する認識を意味する。重要なのは、証しのこの段階は神の受肉に対するものだということである。あなたがこの世の人々や権力者の前で何をするか、何を言うかは問題ではない。何よりも問題なのは、神の口から出た言葉と神の働きのすべてに従うことができるかどうかである。したがって証しのこの段階は、サタンと神の敵すべてを対象としている。つまり、神が二度目の受肉を行なって一層偉大な働きを行なうために到来することを信じず、さらに神の再受肉という事実を信じない、すべての悪魔と敵たちのことである。言い換えれば、それはすべての反キリスト、すなわち神の受肉を信じないすべての敵を対象としているのだ。

(中略)

証しの最終段階は、あなたが完全にされることができるかどうかの証しである。つまり、受肉した神が語った言葉をすべて理解したうえで、神に関する認識を備えて神について確信をもち、神が語ったすべての言葉を生き、神が要求する条件を満たすことだ。その条件とはペテロの生き方とヨブの信仰を身につけることであり、死に至るまで神に従い、自分のすべてを神に捧げ、最終的には基準を満たす人間像、つまり神の刑罰と裁きを経験した後、征服され完全にされた者の人間像に到達するということなのだ。これが最終的な証しであり、最終的に完全にされた人間が行なうべき証しである。これらはあなたが行なうべき証しの二つの段階であり、この二つの段階は相互に関連していて、いずれも不可欠なものだ。しかし知っておかなければならないことが一つある。それは、現在わたしがあなたに要求している証しは、この世の人々や特定の個人に向けられるのではなく、わたしがあなたに求めるものに向けられるということだ。それはあなたがわたしを満足させられるかどうか、わたしがあなたがた各人に要求する基準を完全に満たせるかどうかによって測られる。このことを、あなたがたは理解しなければならない。

『神の出現と働き』「実践(4)」(『言葉』第1巻)

神への信仰には、神への服従と、神の働きを経験することが必要とされる。神はすでに多数の働きを行なっており、人にとって、それはどれも完全化、精錬、さらには刑罰だと言えるだろう。神の働きの各段階のうち、人間の観念と一致するものはいまだかつてなく、人々が享受してきたのは神の厳格な言葉である。神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。神から祝福されているときの追求が優れていても、神の祝福がなければ逃げ出すのであれば、それは純粋さだろうか。あなたは、その道が正しいと確信しているのだから、最後までその道に従い、神への忠誠を保たなければならない。あなたは、神自身があなたを完全にすべく地上に来たのを見てきたのだから、自分の心をすべて神に捧げるべきである。神が何を行なおうと、たとえ最後にあなたにとって好ましくない結末に決めたとしても、それでもあなたが神に従えるのであれば、それが神の前で純粋さを保つということである。聖なる霊体と純粋な乙女を神に捧げることは、神の前で真摯な心を保つことを意味する。人類にとって、真摯さとは純粋さであり、神に対して真摯になれるというのは、純粋さを維持するということである。これがあなたの実践すべきことである。祈るべきときは祈りなさい。集まって交わりをもつべきときはそうしなさい。賛美歌を歌うべきときは歌いなさい。肉に背くべきときは背きなさい。自分の本分を尽くすとき、どうにか切り抜けようとしてはならず、試練に直面したときは堅く立ちなさい。それが神への忠誠である。

『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」(『言葉』第1巻)

神のために鳴り響くような証しをすることは、おもに実際の神に関する認識があるか否か、そして普通であるだけでなく正常なこの人の前で服従し、死に至るまで従い続けられるかどうかと関連している。この従順さによって神のために真の証しをするならば、それはあなたが神によって得られたことを意味する。死に至るまで服従し、神の前で不満がなく、判断したり中傷したりせず、観念を抱かず、秘めたる意図を一切もたずにいられるなら、神はこのようにして栄光を得る。人から見下されている普通の人の前で従順になること、そして観念を抱かず死ぬまで従えることこそが、真の証しである。神が人々に入るよう要求する現実とは、あなたが神の言葉に従い、それらを実践し、実際の神の前にひれ伏し、自分の堕落を知り、神の前で自分の心を開き、最終的にこれらの神の言葉によって神に得られることができることである。それらの言葉があなたを征服し、神に対して完全に従順にするとき、神は栄光を得る。神はそれによってサタンを辱め、自身の働きを完了させる。受肉した神の実際性についてあなたが何の観念も抱かないのであれば、つまりこの試練において揺るぎなく立ってきたならば、あなたはその証しを立派にしたことになる。実際の神を完全に理解し、ペテロのように死に至るまで神に従える日が来るならば、あなたは神によって得られ、完全にされるだろう。神が行なうことのうち、あなたの観念に則していないものはすべてあなたにとっての試練である。神の働きがあなたの観念に則していれば、あなたはそのために苦しんだり精錬されたりする必要はないだろう。そうした観念を捨て去る必要があるのは、神の働きが極めて実践的であり、あなたの観念に則していないからである。それがあなたにとって試練であるのはそのためである。すべての人が試練の最中にあるのは、神の実際性のためである。神の働きは実践的であり、超自然的ではない。神の実践的な言葉と発言を、観念を抱かず完全に理解し、その働きがますます実践的になるにつれて神を真に愛せるようになることで、あなたは神によって得られるだろう。神が得る人の集団は、神を知る者たち、すなわち神の実際性を知る者たちである。さらに彼らは、神の実践的な働きに服従できる者たちである。

『神の出現と働き』「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」(『言葉』第1巻)

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参考聖書箇所: 「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」(マタイによる福音書 22:37-39) 「もしだれでもわたしを愛するならば…