長年主イエスを信じ、熱心に自分を費やし、ひたすら働いてきた人たちは、主のために多くの苦しみを受けてきた。それは、終わりの日における全能神の働きを受け入れないせいで、救いと天国への入りを拒まれるということなのか。

2020年10月3日

参考聖書箇所

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書 7:21-23)

関連する神の言葉

わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者はみな神の義ゆえに、その数々の邪悪な行為への報いとして懲罰されるのである。

『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、あなたがわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、ただついて来るだけであれば、わたしはその時あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしが語った言葉に従うならば、あなたはわたしが認めるような人である。あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。「とにかくわたしは神が義であると信じている。わたしは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ずわたしのことを覚えているはずだ」。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、わたしはあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたはわたしに少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか」と言う人たちもいる。そこで、わたしはあなたに尋ねる。「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか」。あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとただ考えている。「最後までわたしに従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内なる意味がある。つまり、最後までわたしに従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。

『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」(『言葉』第1巻)

宗教的な教会にいる者の実践が旧態化していると言われているのは何故だろうか。それは、彼らが実践している事が、今日の働きから切り離されているからである。恵みの時代においては、彼らが実践していた事は正しかったが、その時代が過ぎ去り、神の働きが変化するにつれて、彼らの実践は次第に旧態化していった。それは新たな働きと光に置き去りにされてしまったのだ。聖霊の働きは、元来の基礎の上で、さらに何段階か深化している。しかし、それらの人々は神の働きの元来の段階のまま滞り、旧来の実践と古い光を未だに固守している。神の働きは3年ないし5年で大きな変化を遂げることがある。それならば、二千年の間に更に大きな変化が起こるはずではないだろうか。人間に新たな光も実践も無いならば、それは人間が聖霊の働きに追いつけないことを意味している。これは人間の失敗である。神の新たな働きの存在は否定できない。なぜなら、現在において、以前に聖霊の働きがあった者たちは、依然として旧式の実践を守っているからである。聖霊の働きは常に前進しており、聖霊の流れの中にいる全ての者たちもまた一歩一歩、さらに深く前進し変化すべきである。彼らは、ある段階で止まるべきではない。聖霊の働きを知らない者たちだけが、神の元来の働きの中に留まり、聖霊の新たな働きを受け入れない。不従順な者たちだけが聖霊の働きを得ることができないであろう。人間の実践が聖霊の新たな働きに追いつかないならば、人間の実践もまた今日の働きから分離していること、そして今日の働きと相容れないことは確実である。このような旧態化した人々は、まったく神の旨を成し遂げることができず、まして最後に神の証しに立つ人々となることなどとうていできないであろう。さらに、経営の働き全体は、これらの人々の一群の間では完結できない。嘗てヤーウェの律法を遵守していた者と、十字架のために苦難を受けた者たちにとって、終わりの日の働きの段階を受け入れられないなら、彼らが行った事は全て無に帰し、無駄になるであろう。聖霊の働きの最も明瞭な表出は、現状を受け入れることであり、過去にしがみ付くことではない。現在の働きに追いつくことができず、今日の実践から切り離されてしまった人々は、聖霊の働きに反抗し、それを受け入れない者たちである。このような人々は、現在の神の働きに背いている。彼らは過去の光にしがみ付くけれども、それは、聖霊の働きを知らないことを否定できることは意味しない。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

神を信じているのであれば、人間は神の歩調に遅れることなく、一歩一歩ついて行かなければならない。人間は「子羊が行く所はどこへでもついて行く」べきである。彼らだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の働きによって既に排除された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、各期間において、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が「ヤーウェは神である」または「イエスはキリストである」というような一つの時代のみに該当する真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きに遅れずついて行くことは決してできず、聖霊の働きを得ることは永遠にできないであろう。神がどのように働くかに関わらず、人間はほんの僅かも疑うことなく、遅れずについて行く。このようにすれば、どうして人間が聖霊により排除されることなどあろうか。神が何を為すかに関わらず、それが聖霊の働きであることを人間が確信し、何も疑わずに聖霊の働きに協力し、神の要求を満たそうとする限り、どうして人間が罰されることなどあろうか。神の働きは一度も停止したことがなく、神の歩みは止まったことがない。また神の経営の働きが完成する前、神は常に忙しく、休んだことがない。しかし、人間は異なる。人間は、ほんの少し聖霊の働きを得ただけで、あたかもそれが決して変わらないかのように扱う。人間は、わずかに知識を得ただけで、より新しい神の働きの足取りに進んでついて行こうとしない。人間は、わずかに神の働きを見ただけで、すぐに神を一種の木の人形のように決めつけ、神は常に人間の見る形のままであり、過去も未来も常にそのような形であると信じる。人間は、表面的な知識だけを得て、誇らしくなって我を忘れ、全く存在しない神の性質や在り方をみだりに主張する。そして聖霊の働きの一つの段階について確信するあまり、神の新たな働きを宣べ伝えるのがどのような人であれ、人間はそれを受け入れない。彼らは聖霊の新たな働きを受け入れることができない人々である。彼らは保守的過ぎて、新しい事を受け入れられない。これらの人々は神を信じてはいるが、神を拒んでいる者たちである。人間は、イスラエルの民が「ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった」のは誤っていると信じるが、大多数の人々が「ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する」という役、そして「メシアの再来を切望するがイエスというメシアには反対する」という役を演じている。それならば、人間が、聖霊の働きの一つの段階を受け入れた後も、依然としてサタンの支配の下で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに何の不思議も無い。これは、人間の反抗心の結果ではなかろうか。現在の新たな働きに追いつくことができない世界各地のクリスチャンたちは皆、自分達が幸運な者である、神は自分の一つひとつの願いをかなえるであろうという信仰にしがみ付いている。しかし、彼らは神がなぜ自分達を第三の天へと引き上げるのかを明確に述べることができず、イエスがどのようにして白い雲に乗って自分達を引き上げに来るかについても確信しておらず、ましてや自分達が想像している日に、本当にイエスが白い雲に乗って到来するかどうかを絶対の確信を持って言うことなどできない。彼らは皆不安であり、途方にくれている。彼らは、各教派から来る一握りの様々な人々を神が一人ひとり引き上げられるかどうかさえ知らない。神が現在行っている働き、今日人間が存在しているこの時代、神の旨―彼らはそれらを全く把握しておらず、その日を指折り数える事しかできない。最後まで子羊の足跡を追う者のみが、最終的な祝福を得ることができるのだが、最後までついて行けないにもかかわらず、自分が全てを得たと信じている「賢い人々」は神の出現を証しすることができない。彼らはみな自分が地上で最も賢い人間だと信じており、何の理由もなく神の働きの継続的な発展を中断させ、「神に至高の忠誠を示し、神に従い、神の言葉を守る」自分たちこそを神は天に引き上ると、絶対の確信を持っているようである。彼らは、神が語った言葉に対して「至高の忠誠」があるにもかかわらず、彼らの言動は極めて忌まわしい。なぜなら、彼らは聖霊の働きに逆らい、欺瞞や悪を犯すからである。最後まで従わない者、聖霊の働きに追いつけない者、旧来の働きにしがみ付く者は、神への忠誠を果たせなかったどころか神に逆らう者となり、新たな時代から拒否され、罰を受ける者となっている。これ以上哀れなことがあるだろうか。多くの者たちが、古い律法を拒否して新たな働きを受け入れる者は皆、良心が無いとさえ信じている。「良心」に関して話をするだけで、聖霊の働きを知らない人々は、最終的には自らの良心によって将来性を中断される。神の働きは教義に従うことがなく、またそれは神自身の働きであるが、神はそれに固執することがない。否定されるべき事が否定され、排除されるべき事が排除される。しかし人間は神の経営の働きのほんの一部に固執し、自ら神に敵対している。それは人間の愚かしさではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを恐れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることがますます不可能となる。奴隷のように律法を守っている人々は皆、律法に対して至高の忠誠を示している。そして律法に対してこのような忠誠を示せば示すほど、彼らは一層神に逆らう反逆者となる。というのは、今は律法の時代ではなく、神の国の時代であり、現在の働きと過去の働きを同じ言葉で語ることはできず、過去の働きを現在の働きと比較することもできないからである。神の働きは既に変化したので、人間の実践もまた変化した。それは、律法を守ることでも、十字架を負うことでもない。だから律法や十字架への人間の忠誠は、神の承認を得ないであろう。

『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

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