神が終わりの日に中国で受肉し、働きを行うことの目的と意義

2021年3月17日

関連する神の言葉

ヤーウェの働きは世界の創造であり、始まりだった。この段階の働きは働きの終わりであり、終結である。最初に、神の働きはイスラエルの選民のあいだで実行され、最も聖なる地における新しい時代の夜明けだった。最後の段階の働きは、世界を裁き、時代を終わらせるために最も汚れた国で実行される。最初の段階において、神の働きは最も明るい地で行なわれたが、最後の段階は最も暗い地で実行され、この暗闇は一掃され、光がもたらされ、すべての人が征服される。この最も汚れた、最も暗い場所にいる人々が征服され、すべての人が神の存在と誰が真の神であるかを認め、あらゆる人がすっかり確信したとき、この事実は征服の働きを全宇宙で行なうのに用いられるだろう。この段階の働きは象徴的である。ひとたびこの時代の働きが終わると、六千年にわたる経営の働きは完全に終わりを迎える。ひとたび最も暗いこの場所にいる人々が征服されると、他のあらゆる場所でもそうなることは言うまでもない。そのように、中国における征服の働きだけが、象徴としての意味をもつ。中国は闇のすべての勢力を具現化しており、中国の人々は肉なる者、サタンの者、そして血肉による者を表わしている。赤い大きな竜によって最も堕落させられ、神に最も反抗し、人間性が最も卑しく汚れているのは中国人である。だから彼らは堕落した全人類の典型なのである。これは、他の国々にはまったく問題がないということではない。人間の観念はどれも同じである。他国の人々は優れた素質をもっているかもしれないが、神を知らなければ、彼らは神に逆らっているはずである。なぜユダヤ人も神に逆らい、神を拒んだのか。なぜパリサイ人も神に逆らったのか。なぜユダはイエスを裏切ったのか。当時、弟子の多くはイエスのことを知らなかった。なぜ人々は、イエスが十字架にかけられ、そして復活した後でさえもイエスを信じなかったのか。人間の不服従はどれも同じではないのか。中国の人々は単にひとつの例にされたというだけである。征服されたとき、彼らは模範、見本となり、他の人々の参考として役立つだろう。あなたがたはわたしの経営計画の付属物であると、わたしが常に言ってきたのはなぜか。堕落、汚れ、不義、敵対、そして反抗が最も完全に現われ、あらゆる形で示されているのは、中国の人々においてである。中国人は素質に乏しい一方、中国人の生活と考え方は遅れており、習慣、社会環境、そして生まれ育った家族など、すべてが劣っており、最も遅れている。地位もまた低い。この場所での働きは象徴的で、この試験的な働きがすべて実行された後、神の次の働きはもっと順調に進むだろう。もしこの段階の働きが完了し得るなら、次の働きもそうなるのは言うまでもない。この段階の働きが達成されたなら、大いなる成功がおさめられ、全宇宙におよぶ征服の働きは完全に終わりを迎えるだろう。実際、あなたがたのあいだで働きが成功したなら、これは全宇宙で成功したのと同じことである。これが、わたしがあなたがたを模範、および見本として行動させる意義である。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」(『言葉』第1巻)

今モアブの子孫に働きを行なうことは、最も暗い所へ落ちた者を救うことである。モアブの子孫は呪われたが、神は彼らから栄光を得ることをいとわなかった。なぜならモアブの子孫は皆、当初は心に神のいない者だったからである。心に神のいない者を神に従い神を愛する者にすることだけが真の征服であり、そのような働きの成果が最も価値があり、最も説得力がある。それだけが栄光を得ることであり、それが終わりの日に神が獲得したい栄光である。地位が低いものの、その人たちが今そのような偉大な救いを得られることは、まさに神に高く揚げられることである。この働きは極めて意義深く、神は裁きを通してこの人たちを獲得する。神の意図は彼らを罰することではなく、救うことである。もしも終わりの日に、神が依然としてイスラエルで征服の働きを行なっていたならば、それは無価値である。たとえその働きに成果があったとしても、少しの価値も大きな意義もなく、神は全ての栄光を得られないであろう。神は、あなたがた最も暗い所に落ち、最も遅れている人たちに働きを行なっているのである。この人たちは神が存在することを認めず、神が存在することを未だに知らずにいる。このような被造物は、神のことを忘れてしまうほどサタンに堕落させられている。彼らはサタンに盲目にされ、天に神が存在することを全く知らない。あなたがたは皆、心の中で偶像とサタンを崇拝している。あなたがたは最も賤しく、最も遅れた人間ではないのか。あなたがたは最も賤しい肉であり、個人的な自由などなく、また苦難している。また、あなたがたはこの社会において最低の地位にあり、信仰の自由さえない。ここにあなたがたに働きを行なう意義がある。

『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)

地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。

『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)

神は人々のこの集団を、宇宙全体におよぶ神の働きの唯一の焦点に据えた。神はあなたがたのために、心血を残らず注いだのである。神は宇宙全体の霊の働きをことごとく取り戻し、あなたがたに与えてきた。だからわたしは、あなたがたは幸運な人たちだと言うのである。そのうえ、神はイスラエルから、すなわち自身の選民からあなたがたへと自らの栄光を移し、この集団を通じて自身の計画の目的が完全に現れるようにする。ゆえに、あなたがたが神の遺産を受け取る者である。それ以上に、あなたがたは神の栄光の相続人である。あなたがたはみな、この言葉を覚えているだろう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」。あなたがたはみな、この言葉を以前耳にはしたが、その本当の意味は誰も理解していなかった。今日、あなたがたはこの言葉の真の意義を深く認識している。この言葉は、神によって終わりの日に実現され、また、赤い大きな竜がとぐろを巻く地で、その竜から熾烈な迫害を受けている人たちにおいて成就する。赤い大きな竜は神を迫害し、神の敵であるから、この地において、神を信じる者は辱めと迫害を受け、またその結果として、神の言葉があなたがた、つまりこの人々の集団において成就する。神の働きは、神に敵対する地で始まるので、その働きはことごとく熾烈な妨害にあい、神の言葉の多くが成就するまで時間がかかる。したがって、人々は神の言葉の結果として精錬されるのだが、それはまた苦難の一部でもある。赤い大きな竜の地で、神が自身の働きを成し遂げるのは非常に困難である。しかし、神はこの困難を通じて働きの一段階を行い、自身の知恵と不思議な業を明らかにし、これを機にこの人々の集団を完全にする。また、人々の苦しみ、人々の素質、そしてこの不浄の地にいる人々のあらゆるサタン的性質を通じて、神は清めと征服の働きを行うが、それは、このことを通じて栄光を勝ち取るため、自身の業を証しする人々を得るためである。これが、この集団のために神が払ったあらゆる犠牲の全体的な意義である。つまり、神は自身に盾突く者を通じて征服の働きを行い、またそれを通じてのみ、神の偉大な力が明らかになるということである。言い換えれば、不浄な地に住む者だけが神の栄光を受け継ぐに値するということであり、そうしてこそ神の偉大な力が浮き彫りになる。ゆえにわたしは、神の栄光は不浄の地から、また不浄の地に住む人々から獲得される、と言うのである。それが神の旨である。イエスによる働きの段階も同じだった。イエスは自分を迫害するパリサイ人の中でこそ栄光を受けることができた。パリサイ人による迫害とユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されることも、中傷されることもなく、ましてや十字架にかけられることもなかっただろう。それゆえ栄光を得ることもなかったはずだ。神が各時代に働くところ、神が肉において働くところは、神が栄光を得るところ、神が得ようとする人たちを得るところである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

数千年にわたる神の計画のうち、二つの働きが肉において行われた。一つは磔刑の働きであり、これゆえに神は栄光を受ける。もう一つは終わりの日における征服と完成の働きであり、これゆえに神は栄光を受ける。これが神の経営である。従って、神の働きや、あなたがたに託された神の任務が簡単なものだと思ってはならない。あなたがたはみな、神が溢れんばかりにもたらす永遠の栄光の重みを受け継ぐ人なのであり、このことは神によって特別に定められたのである。二つの部分から成る神の栄光のうち、一つはあなたがたにおいて現れる。神の栄光の一部分がことごとく、あなたがたに授けられるのだが、それがあなたがたへの遺産となろう。そのことは、神があなたがたを称揚しているのであり、はるか昔に神が予定した計画でもある。赤い大きな竜が住む地で神がなした働きの偉大さからすれば、この働きがもしも別の場所に移されていたら、とうの昔に大きな実を結び、人にたやすく受け入れられたことだろう。さらには、神を信じる西欧の聖職者にも実に易々と受け入れられたはずだ。イエスによる働きの段階が前例としてあるからである。これが、神が現段階の栄光の働きを別の場所では成し遂げられない理由である。人々に支持され、国家に認められる立場では、それを確立させることができない。これがまさに、この地で現段階の働きを確立させることの重要な意義である。

『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」(『言葉』第1巻)

神はすべての被造物の主である

(神の言葉の一篇より)

前の二つの時代の働きのうち、一つの段階はイスラエルで、もう一つの段階はユダヤで行われた。一般的に言って、この働きのどちらの段階もイスラエルを出ることはなく、これらはいずれも最初の選民に対して行われた。この結果、イスラエル人はヤーウェ神をイスラエル人だけの神だと考えている。イエスはユダヤで活動し、磔の働きを行ったため、ユダヤ人はイエスをユダヤの民の贖い主とみなしている。ユダヤ人は彼をユダヤ人だけの王であり、他のどの民の王でもないと考えている。イギリス人の罪を贖う主ではなく、アメリカ人の罪を贖う主でもなく、イスラエル人を贖う主であり、イエスがイスラエルで贖ったのはユダヤ人だと考えている。実際には、神は万物の主であり、すべての被造物の神である。イスラエル人だけの神ではなく、ユダヤ人だけの神でもなく、すべての被造物の神である。神の働きのうち前の二つの段階はイスラエルで起き、人々の間にある種の観念を生み出した。人々は、ヤーウェがイスラエルで働きを行い、イエス自らもユダヤで働きを行い、さらに彼は肉となって働きを行ったが、いずれにせよこの働きはイスラエルの外には広がらなかったと考えている。彼はエジプト人の中で働くことはなく、インド人の中で働くこともなく、イスラエル人の中でのみ働きを行った。そのため人々は様々な観念を形成し、神の働きを一定の範囲内で思い描いている。神が働きを行う時は、選民の間で、イスラエルにおいて行われ、イスラエル人以外に神の働きの対象者はなく、神の働きにそれ以上の範囲もないとうのである。彼らは特に受肉した神を抑えつけることに厳格で、神がイスラエルの外に出ることを認めない。これらはすべて、単なる人間の観念ではないのか。神は天と地のすべてを、そして万物を造り出し、被造物のすべてを造り出したのに、なぜその働きをイスラエルのみに限定することができるのか。そうであるなら、神がすべての被造物を生み出したことに何の意味があるのか。神は世界全体を生み出し、神の六千年の経営(救いの)計画を、イスラエルだけではなく、全宇宙の一人ひとりを対象に行った。人々は中国、米国、英国あるいはロシアに住んでいても、みなアダムの子孫であり、みな神により創られたのである。誰一人として神の創造の範囲から離脱することはできず、誰一人として「アダムの子孫」という呼称から逃れることはできない。人々はみな神の被造物であり、アダムの子孫である。そして、アダムとエバの堕落した子孫でもある。神の被造物はイスラエル人だけではなくすべての人々であり、ただ呪われた者もいれば祝福された者もいるだけである。イスラエル人には望ましい点がたくさんあり、神は当初、イスラエル人が最も堕落していない民だったため、イスラエル人に対して働きを行った。中国人はイスラエル人に匹敵するものではなく、はるかに劣っている。そのため神はまずイスラエルの人々の間で働きを行い、神の働きの第二段階はユダヤでのみ行われた。その結果、人間に多くの観念や規則が生じた。実際、神が人の観念に従って行動するのだとしたら、神はイスラエル人の神でしかなく、神の働きを異邦人の諸国に拡大することはできないだろう。被造物すべての神ではなく、イスラエル人だけの神だからである。預言書によれば、ヤーウェの名は異邦人の諸国で讃えられ、異邦人の諸国に広まるとされている。このように預言されているのはなぜか。神がイスラエル人だけの神ならば、イスラエルでしか働きを行わないだろうし、その働きを拡大することもなく、こうした預言も行わないだろう。神がこの預言を行ったからには、神の働きは必ず異邦人の諸国、あらゆる国や土地に拡大されるのである。彼がこのように述べたからには、必ずその通りにされなければならない。これが神の計画である。神は天と地および万物を造り出した主であり、被造物すべての神だからである。神がイスラエル人の間で働きを行おうと、ユダヤ全体で行おうと、神が行う働きは全宇宙の働きであり、全人類の働きである。神が今日、赤い大きな竜の国――異邦人の国――で行う働きも、やはり全人類の働きである。イスラエルは地上における神の働きの基点だったかもしれず、同様に中国も、異邦人の諸国における神の働きの基点であるかもしれない。これで神は、「ヤーウェの名は異邦人の諸国で讃えられるであろう」という預言を成就させているのではないか。異邦人の諸国における神の働きの最初の段階は、神が赤い大きな竜の国で行うこの働きである。受肉した神がこの土地で、これら呪われた人々のあいだで働きを行うことは、人の観念とひときわ相反する。これらの人々は最も卑しく何の価値もなく、当初ヤーウェに見捨てられた人々である。人が他の人々に見捨てられることはあるにせよ、神に見捨てられたならば、それ以上地位のない人はなく、それ以上価値の低い人もない。神の被造物として、サタンに取り憑かれることや人々に見捨てられることはどちらも悲惨なことであるが、被造物が創造主に見捨てられたなら、それはもっと低い地位になりようがないことを意味する。モアブの子孫は呪われて、この遅れた国に生を受けた。モアブの子孫は間違いなく、闇の影響を受けた人々の中でも最低の地位にある。この人々はこれまで最低の地位にあったからこそ、彼らに対して行われる働きは人間の観念を最も効果的に打ち砕くことができるのであり、また同時に神の六千年の経営計画全体にとって最も有益な働きとなる。この人々の間でこうした働きを行なうことは、人の観念を打ち砕くための最良の方法であり、神はこの働きによってひとつの時代を開始する。これにより神は人の観念をすべて打ち砕き、恵みの時代全体の働きを終える。神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの境界の中で行われた。異邦人の諸国においては、神は新しい時代を始める働きを全く行わなかった。神の働きの最終段階は、異邦人の間で行われるだけでなく、呪われた人々の間で行われることがさらに重要である。この点はサタンに最も屈辱を与え得る証拠であり、それによって神は、全宇宙の被造物すべての神、万物の主、命あるすべてのものにとっての崇拝の対象になるのである。

現在、神がどのような新しい働きを始めたのか、まだ理解していない人々がいる。異邦人の諸国では、神が新たな始まりの到来を告げ、新しい時代を開始し、新しい働きを始め、この働きをモアブの子孫に対して行なっている。これは神の最新の働きではないか。歴史上の誰も何者もこの働きを過去に経験したことはなく、聞いたこともなく、ましてや正しく認識したことはなかった。神の知恵、驚異、深遠さ、偉大さ、そして聖さはすべて、世の終わりの働きのこの段階を通して明らかになる。これは人間の観念を打ち砕く新しい働きではないか。そのため人々の中には、次のように考える者がいる。「神はモアブを呪い、モアブの子孫を見捨てると語ったのに、今になってモアブの子孫を救えるのか」と。こうした人々は神に呪われてイスラエルから追放された異邦人であり、イスラエル人は彼らを「異邦の犬」と呼んだ。誰の目から見ても、彼らは異邦の犬であるだけでなく、さらにそれ以下の滅びの子であり、すなわち彼らは神の選民ではない。彼らは元々イスラエルの地で生まれたが、イスラエルの民に属しておらず、異邦人の諸国に追放された。彼らはあらゆる人々の中で最も卑しい者たちである。そして彼らが人類の中で最も卑しい者であるからこそ、神は新しい時代を始める働きを彼らの間で実行する。彼らは堕落した人類の代表だからである。神の働きは選択を伴う的を絞ったものであり、神が今日これらの人々の中で行う働きは、被造物に対して行われる働きでもある。ノアは神の被造物であったし、彼の子孫もそうである。血と肉を持つ世界中の誰もが神の被造物である。神の働きはすべての被造物に向けられており、創造された後に呪われたか否かによって変わることはない。神の経営(救い)の働きはすべての被造物に向けられており、呪われていない選民にのみ向けられるものではない。神は自分の被造物の間でその働きを行うことを望んでいるため、この働きは間違いなく、見事に完了するまで行われるであろう。そして神は、自身の働きにとって有益な人々のあいだで働きを行う。このため、神が人々の間で働くときには、すべての因習が打ち砕かれる。神にとっては、「呪われた」「罰せられた」「祝福された」という言葉には意味がないのだ。イスラエルの選民同様、ユダヤ人は善良であり、優れた素質と人間性をもった人々である。当初、ヤーウェは彼らの間で働きを開始し、最も初期の働きを行ったが、今日神が彼らに対して征服の働きを行うことに意味はないだろう。彼らも被造物の一部であり、多くの肯定的側面を持っているかもしれないが、この段階の働きを彼らの間で行うことに意味はないだろう。その場合、神は人々を征服できず、すべての被造物に確信を与えることもできないだろう。それこそが、赤い大きな竜の国のこうした人々に、神の働きを移すことの意味なのである。ここでの深い意味は、神がひとつの時代を始めること、すべての規則とすべての人間の観念を打ち砕くこと、そして恵みの時代全体における働きを終えることである。もし神の現在の働きがイスラエル人の間で行われたならば、神の六千年の経営計画が終わる時にはすべての人が、神はイスラエル人だけの神であり、イスラエル人だけが神の選民であり、イスラエル人だけが神の祝福と約束を受け継ぐに値するのだと信じることになるだろう。神は赤い大きな竜の国の異邦人の中で終わりの日に受肉することで、すべての被造物の神としての働きを成し遂げる。神は経営(救い)の働き全体を完成させ、赤い大きな竜の国で、神の働きの中心となる部分を完了する。三つの段階の働きの中心は人間の救いであり、すなわちすべての被造物に創造主を崇めさせることである。そのため、働きのどの段階にも大きな意味がある。神は意味や価値のないことは行わない。働きのこの段階は、一方では新しい時代の到来を告げ、前の二つの時代を終わらせる。他方では、人間のすべての観念と、人間の古い信仰や認識方法すべて打ち砕く。前の二つの時代の働きは、異なる人間の観念に従って行われた。しかし今回の段階は、人間の観念を完全に排除し、それによって完全に人々を征服する。モアブの子孫を征服することと、モアブの子孫の間で行う働きを通して、神は全宇宙の人々をすべて征服することになる。これが神の働きのこの段階の最も深い意味であり、神の働きのこの段階の最も尊い側面である。あなたが今、自らの地位が低く、自分にあまり価値がないことを知っているにしても、あなたは最も大きな喜びに出会ったと感じるようになるだろう。あなたは大いなる祝福を受け継ぎ、大いなる約束を手に入れたのであり、そして神のこの偉大な働きの完成を助けることができるのである。神の本当の顔を見ることができ、神の本来の性質を知っており、神の旨を行なっている。神の働きのうち前の二つの段階は、イスラエルで行われた。もし、終わりの日における神の働きのこの段階がやはりイスラエル人の間で行なわれるなら、イスラエル人だけが神の選民なのだと全ての被造物が信じてしまうだけでなく、神の経営計画全体も望ましい効果を上げることはできないだろう。神の働きの二つの段階がイスラエルで行われていた時期、異邦人の諸国では新しい働きは全く行われず、新しい時代を始める働きも行われなかった。現在の、新しい時代を開始する働きの段階は、まず異邦人の諸国で行われるだけでなく、まずモアブの子孫の間で行われ、それによってその時代全体が開始される。神は人の観念にこめられていた認識をすっかり打ち砕き、ひとかけらも残ることを許さなかった。神はその征服の働きにおいて、人間の観念、その古い従来の認識方法を打ち砕いた。神は人々に、神に規則はなく、神について古いものは何もなく、神が行う働きは完全に解放されていて自由であり、そして神はその行う事すべてにおいて正しい、ということを理解させる。あなたは神が被造物の間で行うすべての働きに完全に従わなければならない。神が行うすべての働きには意味があり、それらは人間の選択や観念ではなく、彼自身の意志と知恵に従って行われる。彼は自身の働きにとって有益なことがあればそれを行い、自身の働きにとって有益でないことは、どんなに良いことであっても行わない。彼は働きを行い、その働きの対象者と場所とを、その働きの意味と目的に従って選択する。働きにおいて彼は、過去の規則には固着せず、古い常套手段にも従わない。そうではなく、働きの意義に従ってその働きを計画する。最終的には、働きの真の効果と予期された目的とを達成する。もしあなたが今日これらのことを理解しないなら、この働きはあなたに対していかなる効果ももたらさないだろう。

『言葉は肉において現れる』より

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参考聖書箇所 「日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている...と、万軍のヤーウェは言われる」(マラキ書 1:11) 「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。死体のあるところには、はげたかが集まるものである」(マタイによる福…