質問6.聖書にあります。主が洗礼を受けたあと、天が開き、聖霊が鳩のように主に降りて言いました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイによる福音書 3:17)そして信者も、主はキリストで神様の御子だと、認識しています。でもあなた方は、受肉したキリストは神様ご自身、その出現だと証しされています。主イエスとは神様ご自身であり、全能神もまた神様ご自身だと。これまでの理解とは、異なっています。受肉されたキリストは、神様か、神様の御子か、どちらなんでしょう?どちらにしても、聖書に合致して、正しく思えます。一体どちらの理解が、正しいんでしょう?

2019年4月3日

解答: いい質問をしてくれました。そこは多くの信者が理解に苦しむ点です。受肉した主イエスが来られ、人類の贖いをされた時、神様が人の子として現れその働きを行われました。主は恵みの時代と同時に、神様が人の世界で人と共に生きる新時代を開かれました。人々は敬愛を込めて主をキリスト、神様の子と呼びました。聖霊も、主イエスが神の愛する子だと証しし、主イエスは、神様を「天の父」と呼びました。それで人々は、主イエスが神様の子だと信じ、「父と子」の関係が出来上がったわけです。考えてみてください。創世記の中に一言でも、神様の御子が登場しますか?ない。それでは律法の時代に神ヤーウェは、御子がおられると言いましたか?言っていません。それが証拠でしょう。神様は唯一無二で「父と子」の関係などありません。疑問を持つ人もいるでしょう。なぜ恵みの時代に主イエスは自身を、神の子と言ったのか?主イエスは神様の子か、神様ご自身なのか?この問いは、どの時代にも議論のあった問題だと言っていいでしょう。人々は矛盾を感じつつも、それをうまく説明できません。神様でありながら、その御子でもある、また父なる神もおられる。ますます説明がつきません。過去2千年間、主イエス・キリストこそ神様ご自身であると気づいた人々は、ほんの一握りでした。実のところ、これについては、聖書にはっきり書いてあります。ヨハネの福音書14章8節、ピリポが主に訪ねます。「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。その時に、主イエスはどう答えました?主は言われました。「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。」(ヨハネによる福音書 14:9-11) ここで、主イエスははっきりと言っています。「わたしを見た者は、父を見たのである。」つまり、主イエスは神様の現れです。主はここで、神様と「父と子」の関係であるとは言っていません。ただ「わたしが父におり、父がわたしにおられる」「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)と。主イエスの言葉によれば、主は神様ご自身であり、唯一無二の存在なんです。「父と子」の関係など、全くないのは明らかじゃないですか?

『敬虔の奥義(続編)』の映画台本から

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あなたは、主イエスが再臨され、その働きを行われるために受肉されたと証されていますが、私にはよくわかりません。私たちは皆、主イエスが神様の受肉であることは知っています。その働きを全うされ、十字架に磔にされ、蘇られ、すべての弟子達の前に現れられ、そして栄光に輝く霊的な体で天国へと昇天されました。まさに、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝 1:11)と、この聖書箇所にあるように、主が再臨される際に私たちに現れるのは、神様の復活した霊体であることが確認できます。終わりの日において、なぜ神様は裁きの働きを行われるために人の子として受肉されたのでしょうか? 復活された主イエスの霊体と人の子としての受肉の違いは何でしょう?

回答:信者の大半は、再臨された主がその霊体、つまり主イエスが復活されて40日間に人々の前に現れた時と同じ霊体で出現されると信じていますが、これについては明らかです。復活後の主イエスの霊体は見掛けは受肉と同じ姿で現れますが、物質界や空間または場所に束縛されることはありません。自由に…