神の怒りは神の義なる性質の表れ
神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面のひとつに過ぎないものの、神の怒りが、その対象について無差別なことや、原則が無いということは決して無い。それとは反対に、神は怒りやすくなく、神が軽率に怒りや威厳を示すことは無い。更に、神の怒りはかなり制御され、計測されているので、神の怒りと、人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較することは出来ない。したがって、神の怒りの発出は、神の気分を示したり晴らしたりするものでは決して無い。神の怒りは、人間が考えるような感情の爆発では無い。神は、自分の気分を制しきれなかったり、怒りが我慢の限界を超えたりすることが原因となって、怒りを発出させることが無い。逆に、神の怒りは、神の義なる性質を示し、その性質を純粋に表出し、神の聖なる本質の象徴を表出するものである。
神は怒りで、反抗を容赦しない。これは、神の怒りが動機を区別しないということでも、無主義であるということでも無い。動機を区別せずに無主義で手当たり次第に怒りを爆発させるのは、腐敗した人類固有の特色である。人間は、罪の存在を防御するために突然激怒して感情を露わにし、そうした行動によって、その者は自分の不満を表す。こうした行動は汚れや謀略に満ちている。人間の腐敗と邪悪、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちている。正義が邪悪に挑む場合、人間は正義を守るために怒りを爆発させることは無い。それとは逆に、正義の力が危機にあるとき、迫害されたとき、攻撃されたとき、人間の態度は、無視、回避、畏縮といった類いのものである。しかし、邪悪の力に対峙した時、人間の態度は、迎合する、ぺこぺこ頭を下げるといった類いのものである。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な力にとって逃げ道であり、肉欲に満ちた人間の、猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出である。
『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 2」より編集