日々の神の御言葉: 神の三段階の働き | 抜粋 40
2020年9月27日
神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。神の働きは止まることなく前進している。つまり、神の性質が徐々に人間に明かされており、そして明かされているのは神の本来の性質である。最初のころ、神の性質は人から隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と明かさず、人は神についての認識がまったくなかった。そのため、神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に明かした。しかし、そのように働くことは、神の性質が時代ごとに変化するという意味ではない。神の旨が常に変わるために、神の性質が絶えず変化しているということではない。むしろ、神の働きの時代が異なるため、神は自身の本来の性質全体を一つひとつ人に明かし、それによって人は神を知ることができるのである。しかしそれは、神がもともと特有の性質をもたないことの証明でも、神の性質が時代と共に徐々に変わっていったことの証明でもない。そのような理解は間違いだと言えよう。時代の移り変わりに応じて、神は人に対し、自身だけがもつ固有の性質、すなわち神そのものを明らかにする。一つの時代の働きで神の性質全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく、決して古くない」という言葉は神の働きを指しているのであり、また「神は不変である」という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。
神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。また同時に、神は「男たちの神であり、女たちの神である」という状態での働きを完了させ、肉における自身の働きを残らず成し遂げた。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)より
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