日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 107

2020年8月3日

キリストの人間性はキリストの神性によって支配されている。キリストは肉を持っているが、その人間性は肉を持った人間のそれとはまったく同じではない。キリストは特有の性格を持っており、これもキリストの神性によって支配されている。キリストの神性は弱さを持たない。キリストの弱さはキリストの人間性の持つ弱さを指す。この弱さはある程度キリストの神性を制限するが、そのような限界は一定範囲内、一定時間内に限られ、際限のないものではない。キリストが神性による働きをする時が来ると、それはキリストの人間性とは関係なく行われる。キリストの人間性はすべてキリストの神性によって指示される。キリストの人間性による普通の生活とは別に、人間性によるほかのすべての行動はキリストの神性によって影響され、働きかけられ、指示される。キリストは人間性を持っているが、それは神性による働きを邪魔するものではない。それはキリストの人間性がキリストの神性によって指示されているからにほかならない。キリストの人間性は、ほかの人々の前ではその行いにおいて成熟していないが、それはキリストの神性のなす普通の働きに影響を与えることはない。キリストの人間性は堕落していないとわたしが言うのは、キリストの人間性はその神性によって直接指示され、普通の人のよりも高度な理知を持っていることを意味している。キリストの人間性は働きにおいて神性によって指示されることに最も適している。キリストの人間性は神性による働きを現し、神性による働きに服従することに最高の能力を発揮する。神が肉を持って働きをなす時、神は肉を持つ人が果たすべき本分を決して見失わない。キリストは天にいる神を真心で崇拝することができる。キリストは神の本質を持ち、その身分は神自身のそれと同じである。それは、キリストはこの地上に来、人の外観を持つ被造物となり、かつては持っていなかった人間性を今は持っているということでしかない。キリストは天にいる神を崇拝することができるということだ。これはキリストが神自身であるということで、人にはまねのできないことである。キリストの身分は神自身である。キリストが神を崇拝するのは、肉の観点からである。ゆえに、「キリストは天にある神を崇拝する」という言葉は間違いではない。キリストが人に要求するものはまさに神自身の存在である。キリストが人間に要求する事柄は、自身も既に成し遂げている。キリストは人間に要求しておきながら自らはそれらから免れるようなことはしない。そのようなすべてがキリストの存在を作り上げているからである。どのように働いても、神に敵対するようなやり方でキリストが働くことはない。キリストが人に何を要求しても、人がなしえる以上の要求はしない。キリストのすることはひたすら神の心を行うことであり、神の経営(救い)のためである。キリストの神性はすべての人を超越するもので、ゆえにキリストはあらゆる被造物の最高の権威である。この権威はキリストの神性、すなわち神自身の性質と存在そのものであり、それはキリストの身分を決定する。よってキリストの人間性がいかに普通であっても、キリストが神自身の身分を持っていることは否定できない。どのような観点からキリストが語っても、どのようにキリストが神の心に従っても、キリストは神自身ではないと言うことはできない。愚かで無知な者はしばしばキリストの普通の人間性を欠陥と見なす。どれほどキリストが自身の神性を現し、明らかにしても、人は彼がキリストであることを認めることができない。そしてキリストが服従と謙遜を示せば示すほど、愚かな人間は益々キリストを軽くあしらう。キリストに対して排他的、侮蔑的な態度をとり、一方で尊大な姿の「偉人たち」を高い地位に置いて崇拝する者たちさえいる。人の神に対する抵抗と不従順は、肉を持った神の本質が神の心に従うという事実とキリストの普通の人間性とから来る。ここに人の神に対する抵抗と不従順の根源がある。もしキリストが人間としての外観を持たず、被造物としての観点から父なる神の心を求めることもせず、超人間性を持っていたならば、不従順になる人間はおそらくいないだろう。人が常に天にいる目に見えない神の存在を信じようとする理由は、天にいる神は人間性を持たず、被造物としての性質を一つも持たないからである。そこで人は常に天にいる神には最大の尊敬を払い、キリストには侮蔑的な態度をとる。

『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」(『言葉』第1巻)より

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