日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 22

2020年5月19日

神が経営をし始めてから今まで、神はいつでもその働きを十分に献身的に遂行している。神はその姿を人間に対して隠していても、いつでも人間の味方であり、人間に対して業をなし、自身の性質を現し、自身の本質によって全ての人間を導き、力、知恵、権威を通して一人ひとりの人間に働きを行っている。従って律法の時代、恵みの時代、そして今日の神の国の時代を現実のものにする。神は人間に対し自分の姿を隠してはいるが、その性質、神であるものと持っているもの、そして人間への意志は人間が見て、経験できるようにそのまま現されている。別の言い方をすれば、人類には神を見たり神に触れたりすることはできなくても、人類が経験してきている神の性質や本質は、間違いなく神自身の現れであるということである。それが真実ではないだろうか。神がどのような方法で見地からその働きを行うにかかわらず、神は人間を自身の存在を基準として扱い、すべきことを行い、言うべきことを言う。どの位置から語るとしても――それが第三の天であったとしても、もしくは肉を持った存在としてであったとしても、もしくは普通の人としてであったとしても――神は人間に、常に心と思いを尽くして、欺かれたり隠されたりすることなく語りかけてくる。神が業を行うとき、神は自身の言葉とその性質、そして持っているものと神であるものを余すところなく現す。そして自身のいのち、神の持っているもの、神であるものにより、人間を導くのである。これが見ることも触れることもできない神のもと、律法の時代、すなわち揺籃の時代を人間が生きてきた方法である。

 神は律法の時代のあと、初めて人になった。そして受肉した人間の姿を33年半続けた。人間にとっては、33年半は長い期間だといえるだろうか。(長い期間ではない)。通常、人間の寿命というのは30数年よりはもっと長いので33年半は長い期間とはいえない。しかし人となった神にとっては、33年半というのは非常に長い。神は人になった。神の業と委託を行うために生まれた普通の人になった。それは、普通の人では耐え切れない苦痛にも耐えながら、普通の人では負いきれない仕事を引き受けねばならないことを意味していた。主イエスの働きの始めから十字架にかかるまでの間、恵みの時代に主イエスが受けた苦しみは、今日の人間が直接見ることができるものではないとしても、少なくても聖書に書かれている話を通して多少理解することはできるだろうか。記録された出来事の事実がどれだけの量が詳しく書かれているかに関わらず、全くこの期間の神の働きは困難と苦痛に満ちていた。堕落した人間にとっては、33年半は長い期間ではない。多少の苦しみというのは大した問題ではないのだ。しかしながら、聖なる、汚れなき神が、人間の全ての罪に耐え、罪人とともに食べ、眠り、生きなければならなかったこの痛みは計り知れない。創造主であり、全ての主、全ての支配者でありながら、彼は地上に降りて来て、どうしようもなく堕落した人類からの抑圧と残酷さに耐えなければならなかった。自身の働きを完成させ、人間を悲惨な状況から救い出すには、人間により激しく咎められ、全ての人類の罪を背負わなければならなかった。イエスが通った苦しみがどれほどであったかは、普通の人間が想像できたり、理解できたりするものではない。この苦しみは何を意味するのか。それは、神の人間への愛情を表す。これは人類の救いのために、罪を贖うために、そしてこの段階での神の業を完了するために、イエスが被むった苦痛と払った代価の象徴である。神の十字架によって、人類は贖われただろうということの象徴でもある。これは血潮、すなわち命によって払われた代価であり、被造物が払うことが決してできないものである。イエスは神の本質を持っており、神の持っているもの、神であるものを備えている。そしてこの種の苦しみと業に耐えることができた。被造物である神以外の存在が代わってできる働きはないのである。これが恵みの時代においての神の働きであり、神の性質の現れである。これは神が持っているもの、神であるものを示しているものだろうか。人間が知ろうとする価値のあるものだろうか。

 この時代には、人間は神の本当の姿を見ることはなかったが、神による罪のためのいけにえを受け取っており、神により十字架から贖われた。神が恵みの時代に行ったことを知らないわけではなくても、この時代に現した神の性質や意志についてよく知っているという人は果たしているだろうか。人間がそれぞれの方法で知っているのは、単にそれぞれの時代に行われた神の業についての詳細、そして神がその業を行う際にどのようなことがあったかというような神に関するストーリーだけである。そのような詳細やストーリーはせいぜい神に関する情報あるいは伝説であり、神の性質や本質とは関係がない。人間がどれだけたくさん神のストーリーを知っていたとしても、それは人間が神の性質や本質について深い理解や認識を持っているということにはならない。律法の時代同様、恵みの時代の人々は受肉した神と間近で親密な交わりを経験してはいるが、彼らの神の性質や本質に関する認識は無いに等しい。

 神の国の時代に、はじめの時と同様、神は再び人となった。この業を行った期間、神は言葉を余すところなく現しており、神はすべきことを行い、自身が持っているものと、自身であるものを現している。同時に、人の不従順と無知に寛容をもって耐え続けている。神はこの働きの期間も、自身の性質と意志を現し続けているではないか。したがって、人間が神によって創造された時から今日まで、神の性質、神であるものと神が持っているもの、そして神の意志は、全ての人に常に開かれてきたのである。神は自身の本質、性質、意志を意図的に隠していることはない。ただ単に人間が、神が行っていることや神の意志に無関心なだけである。それゆえに人間は情けないほど神を理解できていないのである。別の言い方をすれば、神がその姿を見えないようにしている間も、神は常に人間のそばにおり、意志、性質、本質を開かれた方法で常に示しているのである。ある意味では、神の姿は人々に対し開かれたものであるが、人間の無知と不従順が、神を見えないものにしているのである。ではもしそうであるならば、神の性質と神自身を理解することは誰にとっても易しいはずではないのか。これはとても難しい質問だ、そうではないか。簡単だ、と言うこともできるだろう。しかし人は神を知ることを求めていても、神を本当の意味で知る、あるいは明確な理解を得ることはできない。それはいつでもぼんやりと、はっきりしないものなのだ。しかし「簡単なことではない」、といってしまうのもまた正しくない。長い間神の業の対象となってきた者として、全ての人は、その経験を通して神を知ってきてはいるはずである。少なくとも神がいると感じたことがある、あるいはかつて霊的なレベルで神との衝突を経験したことがあるはずだ。そしてそれによって神の性質に関して何らかの感情的目覚めを経験しているか、神について何らかの理解を得ているはずである。人間は神に従い始めてから今日まで、本当に多くのものを神から受け取ってきた。しかし人間の能力の限界、無知、反抗心、そして人間的な思いなどの様々な理由で、人間はその多くを失っているのである。神は人間にすでに充分に与えてはいないのだろうか。その姿を人間から隠してはいるものの、神は自身の持っているものと自身であるものによって多くを人間に与え、命すらも与えている。人間の神への認識は、今のそれよりももっと豊かであるべきなのだ。それゆえにわたしはこの「神の働き、神の性質、そして神自身」というテーマについてより深くあなたがたに伝える必要があると思うのだ。そうすることで、神が何千年もの間ずっと人間に対して注いできた思いが無駄に終わらず、人間が自分に対する神の意志を真に理解し、そして意志を感謝できるようになるからである。そしてそのことによって、神の認識において新しい段階へと進むことができるからである。それは神に自分の中の本来神がいるべき場所に戻ってもらうことでもある。それは人間が神に対してなすべき義である。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 1」(『言葉』第2巻)より

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